2013年02月18日 ◆ 伏見宮で男系維持は不可能 (旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。 ── 男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。たとえば、安倍首相がそうだ。 《 「女性宮家」白紙に=安倍首相 》 安倍晋三首相は8日夜のBSフジの番組で、野田前政権が検討した「女性宮家」構想について、「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と指摘した。その上で「もう一度じっくりと見直しをしていかなければならない」と述べ、白紙に戻す考えを示した。 ( → 時事通信 2013/02/09 ) ここで、男系維持というのは、具体的には、旧宮家再興、つまり、伏見宮の系統を復活させることを意味する。
では、伏見宮の系統とは、何か? 具体的には、次の系統だ。 → 伏見宮系図 http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu2.htm この系図を見ると、興味深いことに気づく。
・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。 ・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。 ・ 邦家親王は、息子の数が多かった。 ・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。 ・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。 ・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。 伏見宮邦家親王 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B
伏見宮貞敬親王 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B 以上をまとめると、次のようになる。
「伏見家は、貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。ところが、その子である邦家 貞敬親王は、息子の数が多かった。また、その子孫も、代々、子孫が多かった」 つまり、Y染色体の傾向から言うと、次の二つに分類される。 ・ 貞敬親王以前 よりも前 …… 代々、男子が少なかった ・ 邦家 貞敬親王以後 …… 代々、男子が多かった このように、Y染色体の傾向がまったくといっていいほど正反対である。このことは、「Y染色体は代々引き継がれる」ということと矛盾する。 一方、次の事実がある。 「現在の皇室の系統は、代々、男子の数が少なかった」 このことは、現存の皇室の顔ぶれを見るだけでもわかる。 → 皇室の構成図 - 宮内庁 http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html 浩宮・礼宮の世代では、男子が2名で、女子が5名(皇籍離脱した紀宮を含めれば6名)だ。 その次の世代では、男子が1名で、女子が3名だ。 また、大正天皇は、本人がもともと虚弱だった。 明治天皇は、十分に健康な男子をもうけることができなかった。第1皇子は死産。第2皇子は11歳で夭折。第3皇子は大正天皇だが、虚弱体質だった。また、第1皇女は死産。第2皇女は11歳で夭折。その他、第10皇女までいたのだが、やたらと女だらけで、健康な男子は一人も産まれなかった。(子女の数が多いのは側室がいたから。 → Wikipedia ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.9A.87.E5.AD.90.E5.A5.B3 ──
以上をまとめると、次のように言える。 ・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。 ・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。 ・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。 このことから、次のように推定できる。 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」 一方、生物学的に、次の事実がある。 「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」 この二つを合わせて考えると、次の結論となる。 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」 このことから得られる結論は、一つだけだ。 「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」 要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定) そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦ョ親王)の間男のY染色体なのだ。 そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。 つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。 ── ここまで読んで、疑問に思う人がいるだろう。次のように。 「宮家ともあろうものが、間男の存在を許すはずがない。宮家の妻があっさりと不倫をするはずがない。また、その機会もなかったはずだ」 これはその通り。にもかかわらず、現実には間男がいた。とすれば、論理的には、次の結論しかありえない。 「間男の存在は、宮家の当主(貞敬 邦ョ親王)の公認の下でなされた」 これを換言すれば、次のようになる。 「貞敬 邦ョ親王には、どうしても間男の子を生ませる必要があった」 これを換言すれば、次のようになる。 「貞敬 邦ョ親王は、自分には男子ができなかった。このままでは次の世代で宮家廃絶とならざるを得ない。そこで、宮家廃絶を防ぐために、自分の息子ではない男子を、自分の息子であると偽った」 このように考えると、それの裏付けとなりそうな事実が見つかる。 (1) 貞敬親王は、1776年に生まれて、1811年に結婚した。 (2) その子である邦家親王は、1802年に生まれた。 (3) 邦家親王は、1817年に、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。 つまり、貞敬親王は 1811年に結婚したが、次世代に当たる邦家親王は、正妻の子ではなくて、結婚の9年前に生まれた子である。その邦家親王は、当初は(親王宣下を受けていないので)親王の地位を得ていなかった。15歳のときになって(つまり父親が結婚してから6年もたってから)親王の地位を得た。そのとき、父親である貞敬親王は、41歳になっていた。 このような経緯は、かなり異例である。 では、どうしてこういうことになったのか? もっとも有力な説は、次のことだろう。 「貞敬親王は、35歳のときに結婚して、多くの女子をもうけたが、男子はできなかった。そこで男子が生まれない場合を考慮して、他の男の息子である邦家親王を(本当は自分の子ではないのに)自分の子であると偽って、親王宣下を受けさせた。 そのまま年数がたったが、女子ができるだけで、もう一人の男子はどうしてもできなかった。 そのあと、邦家親王に万一の事態が起こった場合に備えて、第2皇子としての守脩親王を(親王宣下のもとで)息子にした。ただしこちらは、邦家親王とは父親が異なるので、Y染色体は虚弱であり、男子を残すことはできなかった」 ── ※ 以下が正しい。 なお、もう一つ、別の仮説もある。それは、その一世代前に間男がいた、という仮説だ。 そもそも、貞敬親王の父親である邦頼親王は、1733年に誕生し、1787年に 54歳で結婚した。その息子である貞敬親王は、父が 43歳のときに誕生したことになる。父が未婚の状態で。 これもまたかなり不自然だ。とすれば、貞敬親王そのものが、邦頼親王の息子ではない可能性も、十分にある。(邦頼親王に間男がいて、その間男の息子が貞敬親王だ、というわけ。) もしそうだとすると、貞敬親王の息子である邦家親王は、間男の息子の、そのまた間男の息子だ、ということになる。(ニセ嫡出子の、そのまたニセ嫡出子。) 《 公式の歴史 》 邦頼親王 ── 貞敬親王 ── 邦家親王 ── 男子多数
《 裏の歴史 》 邦頼親王 ……(断絶) 間男 ── 貞敬親王 ……(断絶) 間男 ── 邦家親王 ── 男子多数 ともあれ、こうして、最後には間男のY染色体から、「男子多数」が誕生した。それが今の伏見宮家の、多数の男子である。 そして、安倍首相の方針に従えば、そこから将来の天皇が誕生することになる。つまり、間男の系統が、日本の天皇の血統となるのである。 [ 付記1 ]
上記の話を読んで、右翼が「けしからん! 皇室を冒涜している!」と思うかもしれないが、勘違いしないでほしい。 そもそも、伏見宮家は、正統的な皇室ではない。傍系の宮家にすぎない。傍系の宮家を冒涜したとしても、それは正統的な皇室を冒涜したことにはならない。 また、私は心情的に、皇室を冒涜したいわけじゃない。むしろ、正統的な皇室の純粋性を守るために、間男の血統がまぎれこむことを阻止しているのだ。 私の言説に反対する人々は、天皇家が間男に乗っ取られることを目的とする人々であり、北朝鮮のスパイだろう。 [ 付記2 ] 本項の見解を、「ただの仮説だろう」と見なす人もいるだろう。 なるほど、現段階では、ただの仮説にすぎない。しかし、これは実証可能な仮説だ。実証するためには、次のことをすればいい。
「現在の皇室の男子(浩宮・礼宮・天皇など)のY染色体と、伏見宮家の男子のY染色体を、DNA検査する。Y染色体のハプロタイプを調べることによって、同一の系統かどうかを確認する」 つまり、DNA検査をすれば、伏見宮家の男子が、皇室の系統を引くか、間男の系統を引くかが、はっきりとする。 特に、次のようになる可能性が大きい。 「伏見宮家の男子は、いずれも同一の系統に属するが、現在の皇室の系統とはまったく異なる」 この場合には、次のように結論できる。 「伏見宮家の男子は、邦家親王(または貞敬親王)の段階で、外部の男子の血統(Y染色体)に乗っ取られた」 こういう結論が出る可能性が高い。 それゆえ、DNA検査をすることを、私としてはお勧めする。そのことによって、次のことが判明するはずだ。 「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」 ま、このことが判明したら、大スキャンダルになる。だから、実際には、この DNA 検査はなされないだろう。逆に言えば、この DNA 検査がなされないことで、「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」ということが、暗黙裏に信じられるのである。 ( ※ 状況証拠はたっぷりだ。それが本項に記してある。) ついでだが、私の説に反対する人は、やはり、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。検査をすれば、伏見宮家が皇室の正当な後継者であることを、証明できるだろう。(もしそれが事実であれば、の話だが。)……だから、それが事実であると信じる人は、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。 [ 付記3 ] 伏見宮家の人々自身が、皇室への復帰を いやがっているそうだ。孫引きで引用しよう。
男系維持派は、これまで旧皇族を復帰させるだ何だ言いながら、その男系男子の候補を挙げなかった。4人いるというヤツが多かったが、誰ひとり、誰なのかを言わなかった。 そんな中、しびれを切らした週刊新潮が、候補として8人の男系男子を挙げた。竹田家から皇室評論家で有名な竹田恒泰(36)とプロゲーマーの竹田恒昭(32)の2名、賀陽家から16歳と14歳の2名、東久邇家から当主系の2歳男子1名、次男家系の4歳と2歳の2名、三男系の8歳1名である。 賀陽家と東久邇家の人たちは、自分の子供が候補になることについてどうかと訊かれ、「とんでもない話だ」と答えている。 当たり前の話だ。そもそも、候補である本人たちの意見もなしに、周りの外野がごちゃごちゃ言うことの方がおかしい。 ( → 転載ブログ ) [ 付記4 ] 本項の裏付けとなる傍証が、もう一つ見つかった。つぎのことだ。
「邦家親王は、1802年に誕生して、15歳のとき(1817年)に親王宣下を受けたが、1816年には 14歳にしてすでに第1子をもうけている」 これはきわめて異例なことだ。その親も祖父もかなり高齢になってから子供をもうけたのに、邦家親王はまだ中学生と言っていいぐらいの時期において子供をもうけた。しかも、その後で、親王宣下を受けている。 ここから推測すれば、次のようになる。 「邦家親王は、男子をもうける能力があることが証明・確認されたあとで、親王宣下を受けて、皇室に入った」 親の貞敬親王としては、自分の代で宮家が廃絶することを何よりも恐れていたのだろう。とはいえ、何か対策をしても、次の世代で廃絶するのでは、元も子もない。そこで、次の世代がさらに次の世代を埋めることを確認したあとで、次の世代である邦家親王を自分の子として扱うことにしたのだろう。 こう考えれば、14歳で第1子をもうけたという(やや)不自然さも納得できる。そもそも、伏見宮は、皇室の直系ではないし、そこから天皇が出るわけでもない。なのにどうしてそれほどにも若いときから淫乱な道を息子に取らせたのかと言えば、宮家廃絶の恐怖が強かったからなのだろう。貞敬親王は、自分には男子ができなかったがゆえに、息子にした邦家親王には、14歳のときから多くの側室を与えて、淫乱な道に進ませたのだろう。多くの美女をはべらせて。 http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html
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