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天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/316.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 02 日 08:31:19: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 投稿者 中川隆 日時 2018 年 12 月 18 日 15:33:49)


創価学会、宮内庁とそのバックにいる CIAが 必死にデマを拡散していますが、天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統です。

昔は年上の兄弟はどんどん他の土地へ出て行って、末弟が最後まで実家に残るので
末弟に家を継がせるのが普通だったのですね:


皇位継承


7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,

16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,

仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で,兄弟相続が多い。

応神・仁徳を境として,皇位継承の原則に大きな変化が起こっているように見える。
しかし,父子直系相続は7世紀末以降の天皇の目ざした皇位継承法であり,兄弟相続は日本固有の継承法であることからすると,応神以前の直系相続は記紀編纂の過程で作為された可能性が強い。

また,記紀にみえる天皇の名称をみると,

7,8,9代の孝霊,孝元,開化と41,42,43,44代の持統,文武,元明,元正はヤマトネコ,

10,11代の崇神,垂仁はイリヒコ,

12,13,14代の景行,成務,仲哀と34,35代の舒明,皇極はタラシヒコ(メ),

15,17,18代の応神,履中,反正と38代の天智はワケ,

27,28,29代の安閑,宣化,欽明はクニオシ


という称をもつというように時期により特色があり,それらを検討すると

7〜9代の名称は持統以下の名称を手本に,
12〜14代の名称は舒明,皇極の名称を手本にして作られた

と推定される。

これに加えて記紀には9代までの天皇の事績については神武以外ほとんど所伝がないこと,10代の崇神が初代の天皇を意味する所知初国(はつくにしらす)天皇の称号をもつことなどから,9代までの天皇の実在性は疑われている。

10代以後も,皇居や陵墓の所在地や称号の変化などから,10〜12代の天皇は大和を根拠としていたが,15〜25代の天皇は河内平野を主要な根拠地とする別系統の天皇ではないかとして,前者を三輪政権(初期大和政権),後者を河内政権と呼ぶ説もある。

同様に26代の継体以後の天皇もそれまでとは別系統の天皇とする説もある。

これらの説に従えば,古代の皇位継承は,10代の崇神以後2度断絶したが,6世紀中葉以降に,万世一系の思想により崇神からはじまる一系統の系譜にまとめ,さらに崇神以前の系譜をつぎ足したということになる。

しかしこれも一つの解釈ないし仮説であって,古代の皇位継承にはなお多くの疑問が残っている。
→王朝交替論
[直木 孝次郎]

皇嗣の冊定

大化以前の皇位継承については,天皇が任意に選定したとする中田薫の選定相続説,天皇が神意により卜定したとする滝川政次郎の卜定相続説,末子相続から兄弟相続への移行を説く白鳥清の兄弟継承説,あるいは大兄(おおえ)(同腹中の長子)からその兄弟,ついで大兄の子の順に継承反復したとする井上光貞の大兄相続説などがある。

そして天智朝に至り,中国より継受した嫡長子相続主義にもとづく皇位継承法が定められたとも説かれている。

しかし爾後の実例に徴すると,皇嗣の選定は,嫡系男子の優位を認めながらも,天皇(あるいは上皇)の勅定するところであり,明治の皇室典範制定以前は,立太子の詔において初めて皇嗣を冊定するのを本則とした。

ただ立太子の儀はときに省略された例も少なくなく,ことに室町時代から江戸初期にかけて中絶したが,霊元天皇がこれを再興するに当たり,立太子に先立ち朝仁親王(東山天皇)を儲君(ちよくん)に治定したのが例となって,明治の嘉仁親王(大正天皇)の立太子に至るまで,儲君治定が実質的な皇嗣冊立を意味した。

皇位継承の資格

皇位継承者は,いうまでもなく皇親に限られる。

推古天皇をはじめ皇后から皇位を継いだ例も数例あるが,皇曾孫の皇極,皇孫の元正以外の女帝はみな皇女である。

継嗣令に〈女帝子〉の語が見えるから,令制では女帝の存在を公認しており,江戸中期の後桜町まで10代8女帝が生まれたが,いずれも中継ぎ的色彩が濃く,やはり皇男子の継承が本則であったとすべきであろう。

平安・鎌倉時代には,いったん臣籍に降下したのち,さらに皇籍に復した例が数例あり,そのうち光孝の皇子定省(宇多)は皇位にのぼったが,やはり変則であろう。

皇位継承の原因

上古の皇位継承は,天皇が没することによって行われたが,645年(大化1)皇極が孝徳に皇位を譲って譲位の例を開いてからは,明治まで87代中(北朝天皇を除く)56代の天皇が譲位によって皇位を継いだ。

天皇譲位の場合には,皇嗣が禅(ゆずり)を受けて直ちに践祚(せんそ)するのを常例としたが,天皇が没した場合には,没時と践祚との間に時日を要した例も多く,ことに上古においては数年月を経ることもあった。

また鎌倉時代以後は,皇嗣の選定について朝廷と幕府の間の交渉に日時を要した場合も数例ある。

なお斉明の皇太子中大兄(天智天皇),天武の皇后鸕野讃良(持統天皇)は,天皇没後,皇位につかずに数年にわたり執政したが,これを〈称制(しようせい)〉といった。

81代安徳が平氏に擁されて西海に幸した後,京都において後鳥羽が践祚し,1年余にわたって2人の天皇が存立し,また96代後醍醐の譲位否認のもとで光厳が践祚し,爾後50余年にわたって南北両朝が併存対立した。

また天皇がいったん譲位したのち,再び皇位についたことが2度あり,これを重祚(ちようそ)という。

35代皇極が重祚して37代斉明となり,46代孝謙が重祚して48代称徳となったのがそれで,ともに女帝にして,特殊な政情によるものである。
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=128  

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コメント
1. 中川隆[-10516] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:18:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1570] 報告

天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統


「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

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古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694

2. 中川隆[-10497] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:14:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1590] 報告

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1LZN9HINXSIGN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

3. 中川隆[-10376] koaQ7Jey 2019年5月03日 11:39:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1714] 報告

匿名 より: 2019年5月3日 9:43 AM

愛子さまが旧宮家の男系男子の方とご縁をもたれたれればいいですねー。

女性天皇は賛成です。が、女系・女性宮家は大反対です。
特に女性宮家はいらない。
税金の無駄。
皇室の減少により、公務が大変なら公務をへらせばいいだけのこと。
また、旧宮家に悠仁さまと同年代の方が数人おられるというではないですか。
いざとなったら、こちらの方々に協力していただく手もあるのでは。

匿名 より: 2019年5月3日 10:34 AM

旧宮家って伏見宮系でしょ

あそこは途中から鍛冶屋の一族に背乗りされて、家系が変わっちゃってるよ
父方辿っても天皇に行かず、それこそ皇位を継いだら鍛冶屋の家系が皇統になっちゃう

鍛冶屋ってのは鉄器扱う家系だから、もともとは渡来系移民だった可能性もある
蘇我氏とか秦氏とか、そこら辺の今は知られざる末裔

婿取るなら、東山天皇系の鷹司家と分家の末裔あたりが確実だよ
あの辺ならまだ、男系男子の子孫がいるはず
https://rondan.net/21591

4. 中川隆[-10360] koaQ7Jey 2019年5月03日 19:00:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1730] 報告

匿名 より: 2019年5月3日 6:55 PM

いわゆる旧宮家は660年前に創設された伏見宮が源流ですが、その伏見宮は途中で鍛冶屋の子孫に替わってる可能性があります

つまり、父系を辿っても天皇に繋がらない、鍛冶屋の家系になっちゃってるかもしれません

(伏見宮の皇族方が全て亡くなられた後に、伏見宮の血を引くと自称する鍛冶屋の息子がお宮を相続していますし、少なくともその父とされる当主は、その子供とされるこの男の存在を知らずに亡くなられています)

尚、明治の初頭に創設され、戦後に離脱した旧宮家は、”全て”この途中で替わったかもしれない伏見宮から派生しています

現在では遺伝子検査技術が発達しておりますので、本来ならすぐに確認できることですが、今は皇族ではなく一般人ですので、それを強要することもできない現実があります

旧皇族と世間では言われてますが、もしかすると父系で天皇に繋がっていないのでは?と、少しだけ頭に置いてみてみることもひとつです

ただ、女系では、明治天皇に繋がっていたり、東久邇の家系では昭和天皇に繋がっていたりします

そういった意味で、旧皇族と言われてるけど”女系”で明治天皇につながる人なんだ、くらいでいいと思います

尚、東山天皇系の鷹司家やその分家の家系は、現在の皇統に近く、先の伏見宮系とは全く関係はありません

そういった意味で、確実に、父系を辿ると天皇に繋がる血筋と言えます
なので、もしものときはこの家系からお願いすることになるかもしれないことは、言うまでもありません
https://rondan.net/21639

5. 中川隆[-10383] koaQ7Jey 2019年5月05日 06:27:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1708] 報告
2013年02月18日
◆ 伏見宮で男系維持は不可能
 (旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。

 ──
 
 男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。たとえば、安倍首相がそうだ。

 《 「女性宮家」白紙に=安倍首相 》
 安倍晋三首相は8日夜のBSフジの番組で、野田前政権が検討した「女性宮家」構想について、「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と指摘した。その上で「もう一度じっくりと見直しをしていかなければならない」と述べ、白紙に戻す考えを示した。
( → 時事通信 2013/02/09 )


 ここで、男系維持というのは、具体的には、旧宮家再興、つまり、伏見宮の系統を復活させることを意味する。

 では、伏見宮の系統とは、何か? 具体的には、次の系統だ。

  → 伏見宮系図
http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu2.htm


 この系図を見ると、興味深いことに気づく。

  ・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。
  ・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。
  ・ 邦家親王は、息子の数が多かった。
  ・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。
  ・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。


伏見宮邦家親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

伏見宮貞敬親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B


  
 以上をまとめると、次のようになる。

 「伏見家は、貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。ところが、その子である邦家 貞敬親王は、息子の数が多かった。また、その子孫も、代々、子孫が多かった」
 
 つまり、Y染色体の傾向から言うと、次の二つに分類される。

  ・ 貞敬親王以前 よりも前 …… 代々、男子が少なかった
  ・ 邦家 貞敬親王以後 …… 代々、男子が多かった

 このように、Y染色体の傾向がまったくといっていいほど正反対である。このことは、「Y染色体は代々引き継がれる」ということと矛盾する。

 一方、次の事実がある。

 「現在の皇室の系統は、代々、男子の数が少なかった」

 このことは、現存の皇室の顔ぶれを見るだけでもわかる。

  → 皇室の構成図 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html

 
 浩宮・礼宮の世代では、男子が2名で、女子が5名(皇籍離脱した紀宮を含めれば6名)だ。

 その次の世代では、男子が1名で、女子が3名だ。

 また、大正天皇は、本人がもともと虚弱だった。

 明治天皇は、十分に健康な男子をもうけることができなかった。第1皇子は死産。第2皇子は11歳で夭折。第3皇子は大正天皇だが、虚弱体質だった。また、第1皇女は死産。第2皇女は11歳で夭折。その他、第10皇女までいたのだが、やたらと女だらけで、健康な男子は一人も産まれなかった。(子女の数が多いのは側室がいたから。
→ Wikipedia )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.9A.87.E5.AD.90.E5.A5.B3


 ──

 以上をまとめると、次のように言える。

  ・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。
  ・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。

 このことから、次のように推定できる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」

 一方、生物学的に、次の事実がある。

 「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」

 この二つを合わせて考えると、次の結論となる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」

 このことから得られる結論は、一つだけだ。

 「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」

 要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定)

 そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦ョ親王)の間男のY染色体なのだ。

 そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。

 つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。

 ──

 ここまで読んで、疑問に思う人がいるだろう。次のように。

 「宮家ともあろうものが、間男の存在を許すはずがない。宮家の妻があっさりと不倫をするはずがない。また、その機会もなかったはずだ」

 これはその通り。にもかかわらず、現実には間男がいた。とすれば、論理的には、次の結論しかありえない。

 「間男の存在は、宮家の当主(貞敬 邦ョ親王)の公認の下でなされた」

 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王には、どうしても間男の子を生ませる必要があった」
 
 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王は、自分には男子ができなかった。このままでは次の世代で宮家廃絶とならざるを得ない。そこで、宮家廃絶を防ぐために、自分の息子ではない男子を、自分の息子であると偽った」

 このように考えると、それの裏付けとなりそうな事実が見つかる。

 (1) 貞敬親王は、1776年に生まれて、1811年に結婚した。
 (2) その子である邦家親王は、1802年に生まれた。
 (3) 邦家親王は、1817年に、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。

 つまり、貞敬親王は 1811年に結婚したが、次世代に当たる邦家親王は、正妻の子ではなくて、結婚の9年前に生まれた子である。その邦家親王は、当初は(親王宣下を受けていないので)親王の地位を得ていなかった。15歳のときになって(つまり父親が結婚してから6年もたってから)親王の地位を得た。そのとき、父親である貞敬親王は、41歳になっていた。

 このような経緯は、かなり異例である。

 
 では、どうしてこういうことになったのか? もっとも有力な説は、次のことだろう。

 「貞敬親王は、35歳のときに結婚して、多くの女子をもうけたが、男子はできなかった。そこで男子が生まれない場合を考慮して、他の男の息子である邦家親王を(本当は自分の子ではないのに)自分の子であると偽って、親王宣下を受けさせた。

 そのまま年数がたったが、女子ができるだけで、もう一人の男子はどうしてもできなかった。

 そのあと、邦家親王に万一の事態が起こった場合に備えて、第2皇子としての守脩親王を(親王宣下のもとで)息子にした。ただしこちらは、邦家親王とは父親が異なるので、Y染色体は虚弱であり、男子を残すことはできなかった」

 ──
     ※ 以下が正しい。

 なお、もう一つ、別の仮説もある。それは、その一世代前に間男がいた、という仮説だ。

 そもそも、貞敬親王の父親である邦頼親王は、1733年に誕生し、1787年に 54歳で結婚した。その息子である貞敬親王は、父が 43歳のときに誕生したことになる。父が未婚の状態で。

 これもまたかなり不自然だ。とすれば、貞敬親王そのものが、邦頼親王の息子ではない可能性も、十分にある。(邦頼親王に間男がいて、その間男の息子が貞敬親王だ、というわけ。)

 もしそうだとすると、貞敬親王の息子である邦家親王は、間男の息子の、そのまた間男の息子だ、ということになる。(ニセ嫡出子の、そのまたニセ嫡出子。)


《 公式の歴史 》 
   邦頼親王 ── 貞敬親王 ── 邦家親王 ── 男子多数

《 裏の歴史 》 
   邦頼親王 ……(断絶)
    間男  ── 貞敬親王 ……(断絶)
           間男  ── 邦家親王 ── 男子多数
 

 ともあれ、こうして、最後には間男のY染色体から、「男子多数」が誕生した。それが今の伏見宮家の、多数の男子である。

 そして、安倍首相の方針に従えば、そこから将来の天皇が誕生することになる。つまり、間男の系統が、日本の天皇の血統となるのである。


 [ 付記1 ]

 上記の話を読んで、右翼が「けしからん! 皇室を冒涜している!」と思うかもしれないが、勘違いしないでほしい。

 そもそも、伏見宮家は、正統的な皇室ではない。傍系の宮家にすぎない。傍系の宮家を冒涜したとしても、それは正統的な皇室を冒涜したことにはならない。
 また、私は心情的に、皇室を冒涜したいわけじゃない。むしろ、正統的な皇室の純粋性を守るために、間男の血統がまぎれこむことを阻止しているのだ。
 私の言説に反対する人々は、天皇家が間男に乗っ取られることを目的とする人々であり、北朝鮮のスパイだろう。


 [ 付記2 ]
 本項の見解を、「ただの仮説だろう」と見なす人もいるだろう。
 なるほど、現段階では、ただの仮説にすぎない。しかし、これは実証可能な仮説だ。実証するためには、次のことをすればいい。

 「現在の皇室の男子(浩宮・礼宮・天皇など)のY染色体と、伏見宮家の男子のY染色体を、DNA検査する。Y染色体のハプロタイプを調べることによって、同一の系統かどうかを確認する」
 
 つまり、DNA検査をすれば、伏見宮家の男子が、皇室の系統を引くか、間男の系統を引くかが、はっきりとする。
 特に、次のようになる可能性が大きい。

 「伏見宮家の男子は、いずれも同一の系統に属するが、現在の皇室の系統とはまったく異なる」

 この場合には、次のように結論できる。

 「伏見宮家の男子は、邦家親王(または貞敬親王)の段階で、外部の男子の血統(Y染色体)に乗っ取られた」

 こういう結論が出る可能性が高い。
 
 それゆえ、DNA検査をすることを、私としてはお勧めする。そのことによって、次のことが判明するはずだ。

 「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」

 ま、このことが判明したら、大スキャンダルになる。だから、実際には、この DNA 検査はなされないだろう。逆に言えば、この DNA 検査がなされないことで、「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」ということが、暗黙裏に信じられるのである。
( ※ 状況証拠はたっぷりだ。それが本項に記してある。)
  
 ついでだが、私の説に反対する人は、やはり、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。検査をすれば、伏見宮家が皇室の正当な後継者であることを、証明できるだろう。(もしそれが事実であれば、の話だが。)……だから、それが事実であると信じる人は、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。


   
 [ 付記3 ]
 伏見宮家の人々自身が、皇室への復帰を いやがっているそうだ。孫引きで引用しよう。

 男系維持派は、これまで旧皇族を復帰させるだ何だ言いながら、その男系男子の候補を挙げなかった。4人いるというヤツが多かったが、誰ひとり、誰なのかを言わなかった。

 そんな中、しびれを切らした週刊新潮が、候補として8人の男系男子を挙げた。竹田家から皇室評論家で有名な竹田恒泰(36)とプロゲーマーの竹田恒昭(32)の2名、賀陽家から16歳と14歳の2名、東久邇家から当主系の2歳男子1名、次男家系の4歳と2歳の2名、三男系の8歳1名である。

 賀陽家と東久邇家の人たちは、自分の子供が候補になることについてどうかと訊かれ、「とんでもない話だ」と答えている。

 当たり前の話だ。そもそも、候補である本人たちの意見もなしに、周りの外野がごちゃごちゃ言うことの方がおかしい。
( → 転載ブログ )


 [ 付記4 ]
 本項の裏付けとなる傍証が、もう一つ見つかった。つぎのことだ。

 「邦家親王は、1802年に誕生して、15歳のとき(1817年)に親王宣下を受けたが、1816年には 14歳にしてすでに第1子をもうけている」

 これはきわめて異例なことだ。その親も祖父もかなり高齢になってから子供をもうけたのに、邦家親王はまだ中学生と言っていいぐらいの時期において子供をもうけた。しかも、その後で、親王宣下を受けている。

 ここから推測すれば、次のようになる。

 「邦家親王は、男子をもうける能力があることが証明・確認されたあとで、親王宣下を受けて、皇室に入った」

 親の貞敬親王としては、自分の代で宮家が廃絶することを何よりも恐れていたのだろう。とはいえ、何か対策をしても、次の世代で廃絶するのでは、元も子もない。そこで、次の世代がさらに次の世代を埋めることを確認したあとで、次の世代である邦家親王を自分の子として扱うことにしたのだろう。

 こう考えれば、14歳で第1子をもうけたという(やや)不自然さも納得できる。そもそも、伏見宮は、皇室の直系ではないし、そこから天皇が出るわけでもない。なのにどうしてそれほどにも若いときから淫乱な道を息子に取らせたのかと言えば、宮家廃絶の恐怖が強かったからなのだろう。貞敬親王は、自分には男子ができなかったがゆえに、息子にした邦家親王には、14歳のときから多くの側室を与えて、淫乱な道に進ませたのだろう。多くの美女をはべらせて。
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

6. 中川隆[-10382] koaQ7Jey 2019年5月05日 06:29:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1709] 報告
2013-05-05
「万世一系」の虚妄
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385


天皇といえば、枕詞のようについてくる形容が「万世一系」。

ある種の人々にとって、天皇家が「万世一系」であることは、何物にも代えがたい至上の価値であり、日本という国を、他国より優れた特別な存在にするものであるらしい。

…バカじゃなかろうか。

当たり前だが、親から生まれて来なかった人間はいない。

皇族であろうがなかろうが、また日本人であろうがなかろうが、人間である以上、誰でも親、その親と辿っていけば、必ず悠久の過去の人類発祥までたどり着く。途中一世代どころか一瞬でも断絶があれば、その人間はいま生きてはいない。人間であれば誰でも、現生人類の誕生以来約25万年と言われる歴史の中を、連綿と命を受け継いで来たのだ。その中で、高々2千年程前のある男が祖先だと称する一族だけが「万世一系」で尊いなどということがあるわけがない。そんなものを崇め奉るのは愚の骨頂である。

「万世一系」など下らぬ妄想。

以上、終わり。

…ということにしてもいいのだが、せっかくなのでもう少しこれに関連する言説を見てみることにする。

一口に「万世一系」と言っても、その考え方は一つではないようだ。中でもとりわけバカバカしいのはこれあたりだろうか。

平沼赳夫オフィシャルホームページ:(強調部は引用者による)


 つまり、男系継承とは「男性天皇が血統の出発点であること」を意味し、反対に女系継承とは「女性から始まる継承」をいう。愛子内親王が天皇となり、その配偶者が皇族でないかぎり、その子が天皇になると「女系継承」が始まるのである。

 「万世一系」というと本家の血筋が永遠に続くことと誤解する人がいるが、それでは「真の一系」にはならないのだ。時には分家からも継承者が現れ、男系で継承が維持されていくことが「万世一系」の本質的意味である。

 飛鳥より遥かに時代をさかのぼった第16代仁徳天皇の男系血筋は、約80年後の武烈天皇(25)で血統が途絶えたため、家系をさかのぼって分家の男系子孫を見つけだし、継体天皇(26)が誕生したという例もある。

 では次にこの男系継承を遺伝子学的に見てみよう。

 人間の男性の染色体はXYであるのに対して、女性のそれはXXであり、それぞれ46対ある。男女が結婚して男の子ができた場合、母の23対のX染色体と父の23対のY染色体をもらう。女の子の場合は、母の23対の×染色体と父の23対のX染色体をもらう。よって男系の子孫にのみにオリジナルのY染色体が引き継がれ、女系の子孫には引き継がれない。女系では「皇統」が護持されないのである。(参考図参照)

 つまり、皇位が男系継承で引き継がれていく限り、男性天皇には間違いなく初代神武天皇のY因子が継承されるのに対し、女性天皇ではY因子の保持は約束されないのである。

 男系継承を護持することは、神武天皇だけでなく、更に遡って二二ギノミコトのオリジナルのY因子を継承することにもなり、このY因子こそ「皇位継承」の必要要件であり「万世一系」の本当の意昧なのである。

平沼によると、「万世一系」の本質とは、天皇家の父から息子へと受け継がれていくY染色体上の遺伝子のことなのだそうだ。代々の天皇(天皇にはなれなかった傍系の男も含む)の肉体は、単なる遺伝子を運搬するための器に過ぎず、息子に「Y因子」を受渡してしまえばもう用済みなのである。もちろん、個々の天皇の人格などどうでもいいわけだ。なんだか、利己的遺伝子仮説の出来の悪い焼き直しみたいな話だ。

これほど歴代天皇を侮辱した言説もないのではなかろうか。

ついでに指摘しておくと、古事記に名前が出てくる各地の豪族のうち、88%は「皇系」、つまり何代目かの天皇の子孫ということになっている。平沼の言うように「Y因子」さえ受け継いでいればいいのなら、男系で続いてさえいれば、そうした豪族たちの誰がどんな手段で天皇になっても構わないことになる。とんだ「万世一系」もあったものだ。

より穏当というか、一般的な説は、日本では歴史の初めから王朝の交代がなく、同じ王統がずっと続いているから「万世一系」だ、というものだ。

しかし、こちらの説も極めて怪しい。

例えば、平沼も言及している武烈(25代)から継体(26代)への代替わりなど、まず王朝交代と見て間違いない。

武烈には子がなく、次の天皇となった継体は、古事記によれば応神天皇(15代)の五世の孫、日本書紀によれば六世の孫、とされている。確かに一応過去の天皇の子孫ということになってはいるが、これほど世代の隔絶した継承は異常だ。それは、以下の系譜と比べてみれば分かる。


桓武天皇

葛原親王1

高見王2

平高望3

平良持4

平将門5

平将門は桓武天皇の五世の孫。継体が天皇になったというのは、平将門が天皇になったのと同じようなものなのだ。

しかも、三国(現在の福井県坂井郡付近)の出身とされている継体の、応神以来の系譜は、古事記にも日本書紀にも書かれていない。(日本書紀は父の名のみ記載。)


 これは記紀の編者が、それらを知らなかったためではなく、それらを書くことが必ずしも名誉とならない、そういう事情を配慮したからではないであろうか。なぜなら、それらの人名は、北志賀(滋賀県)や三国(福井県)の諸豪族にとって、同僚や時として下僚に当る人物として熟知されていた人名だったであろうから。

 このように考えてみると、継体即位の問題性、さらに不法性、それを疑うことは困難なのではなかろうか。

という古田武彦氏の推測(『古代は輝いていた』2)は妥当なものと思われる。実際、応神―継体間の系譜は、鎌倉末期に書かれた日本書紀の注釈書「釈日本紀」に、今では失われた「上宮記」という史書からの引用という形で記載されている。上宮記は7世紀頃に成立したと考えられており、古事記・日本書紀より古い。当然、記紀の編者が知らなかったはずはないのだ。

要するに、武烈死後の混乱に乗じて、出自もはっきりしない、しかし武力や経済力は十分に備えた地方の大豪族が大和に進出してきて次の天皇となったのだ。「万世一系」説に毒されていない常識では、これを王朝交代と呼ぶ。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

7. 中川隆[-10381] koaQ7Jey 2019年5月05日 06:31:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1710] 報告

仲哀→応神も王朝交代 2014-08-24
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313


記事《「万世一系」の虚妄》
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

の中で、武烈(25代)から継体(26代)への代替わりが王朝交代に他ならないことを説明した。しかし、明治以来常識化されてきた「万世一系」を否定する反例はこれだけではない。

次は、仲哀(14代)から応神(15代)への代替わりを見てみよう。

仲哀は、実に奇妙な死に方をしている。

古事記(仲哀記):


 その太后息長帯日売の命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)は、当時神帰よせしたまひき。かれ天皇筑紫の詞志比かしひの宮にましまして熊曾の国を撃たむとしたまふ時に、天皇御琴を控ひかして、建内タケシウチの宿禰の大臣沙庭さにはに居て、神の命を請ひまつりき。ここに太后、神帰よせして、言教へ覚さとし詔りたまひつらくは、「西の方に国あり。金・銀を本はじめて、目の炎耀かかやく種々の珍宝その国に多さはなるを、吾あれ今その国を帰よせ賜はむ」と詔りたまひつ。ここに天皇、答へ白したまはく、「高き地に登りて西の方を見れば、国土くには見えず、ただ大海のみあり」と白して、詐いつわりせす神と思ほして、御琴を押し退けて、控ひきたまはず、黙もだしたましき。ここにその神いたく忿いかりて、詔りたまはく、「およそこの天の下は、汝いましの知らすべき国にあらず、汝は一道ひとみちに向ひたまへ(=黄泉の国へ行ってしまえ)」と詔りたまひき。ここに建内の宿禰の大臣白さく、「恐かしこし、我が天皇。なほその大御琴あそばせ」とまをす。ここにややにその御琴を取り依せて、なまなまに(=しぶしぶ)控ひきいます。かれ、幾久いくだもあらずて、御琴の音聞えずなりぬ。すなはち火を挙げて見まつれば、既に崩かむあがりたまひつ。

仲哀は、西方の国(新羅)を与えてやろうという神の言葉を信じなかったために、神罰を受けて死んだというのである。このとき本当は何があったのか。伊藤浩士氏がブログで次のように書いているが、私も同感である。


仲哀天皇と神功皇后と竹内宿禰は熊襲征伐のために筑紫にきていて、そこで神功皇后が新羅を攻めると言い出します。仲哀天皇は反対します。仲哀天皇と神功皇后、竹内宿禰の3人だけがいて、気が付くと神の罰が当たって仲哀天皇が死んでいたと記されています。ふつうに考えれば、神功皇后と竹内宿禰の共謀による殺害です。

このとき、仲哀は軍を率いて九州まで遠征していた。仲哀には既に別の后(大中津比売の命)との間に香坂かごさかの王、忍熊おしくまの王という二人の息子がいたのだが、この遠征には同行していない。建内以外の有力な臣下もついてきていない。暗殺には絶好のシチュエーションと言っていいだろう。

そしてこの「神」は、香坂・忍熊を押しのけて、息長帯日売が産む子を次の天皇にする、と決めてしまうのである。

古事記(仲哀記):


また建内の宿禰沙庭に居て、神の命みことを請ひまつりき。ここに教へ覚したまふ状、つぶさに先の日の如くありて、「およそこの国は、汝命いましみことの御腹にます御子の知らさむ国なり」とのりたまひき。ここに建内の宿禰白さく、「恐し、我が大神、その神の御腹にます御子は、何の子ぞも」とまをせぱ、答へて詔りたまはく、「男子なり」とのりたまひき。ここにつぶさに請ひまつらく、「今かく言教へたまふ大神は、その御名を知らまくほし」とまをししかぱ、答へ詔りたまはく、「こは天照らす大神の御心なり。また底筒の男そこつつのを、中筒の男なかつつのを、上筒の男うはつつのを三柱の大神なり。この時にその三柱の大神の御名は顕したまへり。

天照大神の神意だ、というわけだが、それを聞いたのは建内宿禰だけなのだから、要するに建内がそう決めた、ということである。

この後、息長帯日売はいわゆる「神功皇后の三韓征伐」(それが征伐などと呼べる代物でないことは別途書く予定)を行い、九州に帰ってきてから息子を産む。これが後の応神天皇である。この応神の出生についても、不可解なエピソードが書かれている。

古事記(仲哀記):


かれその政(三韓征伐のこと)いまだ寛をへざる間に、懐妊ませるが、産れまさむとしつ。すなはち御腹を鎮いはひたまはむとして、石を取らして、御裳みもの腰に纏まかして、竺紫つくしの国に渡りましてぞ、その御子は生あれましつる。かれその御子の生れましし地に号なづけて、宇美といふ。またその御裳に纏かしし石は、筑紫の国の伊斗いとの村にあり。

「三韓征伐」が終わらないうちに子どもが産まれそうになってしまったため、石を腰紐にはさんで押さえ、神に祈って出産を遅らせたというのである。これも普通に考えれば、応神の出生が仲哀の子とするにはあまりに遅すぎたため、つじつまを合わせるための説話を創作したのである。

では応神の父親は誰か? 史料的根拠には欠けるが、建内宿禰とするのが最も自然ではないだろうか。

そして、息長帯日売と建内は九州から大和に攻め上り、忍熊王の軍を破ってこれを滅ぼしてしまう。(香坂王はその前に事故死。)もちろん、「万世一系」説に毒されていない常識では、これを王朝交代と呼ぶ。

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313

8. 中川隆[-10380] koaQ7Jey 2019年5月05日 06:34:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1711] 報告

2013-02-11 神武って何した人?
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130211/1360564621

今日は「建国記念の日」。敗戦までの「紀元節」の名前だけ変えて価値中立性を装った、戦後日本の偽装記念日の一つである。

紀元節が2月11日なのは、日本書紀で神武が「辛酉年春正月 庚辰朔」(辛酉の年の1月1日)に即位したと書かれており、これが西暦紀元前660年の2月11日に当たると、明治初期に机上の計算をしたためだ。

では、天皇家の初代であり、建国の祖とされるこの神武なる人物はいったいどんなことをした人なのだろうか。

テキストは『古事記』、ガイドに古田武彦『盗まれた神話』『古代は輝いていた』を使って、具体的に見てみよう。

(「神武天皇」というのは後代になってつけられた諡号で、生きていたときの名は「神倭伊波礼毘古(カム・ヤマト・イワレビコ)」ほか、いろいろな名があるのだが、ここでは「神武」で統一する。)

さて、古事記の「神武記」は、いきなり神武とその兄(五瀬)との謀議シーンから始まる。


神倭伊波礼毘古の命、その同母兄五瀬の命と二柱、高千穂の宮にましまして議りたまはく、「いづれの地にまさば、天の下の政を平けく聞しめさむ。なほ東のかたに、行かむ」とのりたまひて、すなはち日向より発たして、筑紫に幸行でましき。

青年だった五瀬と神武は、このまま九州の高千穂の地にいても自分たちの思うようにならない、つまり将来の展望が開けないから、東方に新たな支配地を得ようと、侵略行を決意するわけです。


かれ豊国の宇沙うさに到りましし時に、その土人くにびと名は宇沙都比古うさつひこ、宇沙都比売うさつひめ二人、足一騰あしひとつあがりの宮を作りて、大御饗おほみあへ献りき。其地より遷移りまして、竺紫の岡田の宮に一年ましましき。またその国より上り幸でまして、阿岐の国の多祁理たけりの宮に七年ましましき。またその国よ遷り上り幸でまして、吉備の高島の宮に八年ましましき。

決意はしたものの、大王でも何でもない五瀬と神武には、いきなり大遠征を行えるような力はない。そこで、十数年かけて九州や瀬戸内海各地の豪族たちからの支援を獲得し、徐々に実力を蓄えていきます。


かれその国より上り行でます時に、浪速なみはやの渡を経て、青雲の白肩の津に泊てたまひき。この時に、登美とみの那賀須泥毘古ながすねびこ、軍を興して、待ち向へて戦ふ。ここに、御船に入れたる楯を取りて、下り立ちたまひき。かれ其地に号けて楯津たてづといふ。今には日下くさかの蓼津たでづといふ。ここに登美毘古と戦ひたまひし時に、五瀬の命、御手に登美毘古が病矢串いたやぐしを負はしき。かれここに詔りたまはく、「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良はず。かれ賎奴が痛手を負ひつ。今よは行き廻りて、日を背に負ひて撃たむ」と、期ちぎりたまひて、南の方より廻り幸でます時に、血沼ちぬの海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。かれ血沼の海といふ。其地より廻り幸でまして、紀の国の男をの水門みなとに到りまして、詔りたまはく、「賎奴が手を負ひてや、命すぎなむ」と男建おたけびして崩りましき。かれその水門に名づけて男の水門といふ。陵みはかは紀の国の竈山かまやまにあり。

そしていよいよ近畿(河内国)に突入。しかし、当然この地は無主の地などではありません。長らくこの地を統治してきたナガスネビコとの戦闘になります。

結果、おそらく侵略軍の総大将だったであろう五瀬は矢を受けて重傷を負い、死んでしまいます。大敗です。

ナガスネビコと正面から戦っても勝てないと覚った神武は作戦を変更。大きく紀伊半島を迂回し、背後にあたる熊野方面から奈良盆地への侵入を図ります。また、敵方に内通者を作り、その手引きで相手を陥れたり、和平を装って騙し討ちにする、といった手口を駆使していきます。


かれここに宇陀に、兄宇迦斯えうかし弟宇迦斯おとうかしと二人あり。(略)ここに兄宇迦斯、(略)「待ち撃たむ」といひて、軍を聚あつめしかども、軍をえ聚めざりしかぱ、仕へまつらむと欺陽いつはりて、大殿を作りて、その殿内に押機おしを作りて待つ時に、弟宇迦斯まづまゐ向へて、拝みてまをさく、「僕が兄兄宇迦斯、天つ神の御子の使を射返し、待ち攻めむとして軍を聚むれども、え聚めざれぱ、殿を作り、その内に押機を張りて、待ち取らむとす、かれまゐ向へて顕はしまをす」とまをしき。ここに大伴の連等が祖道の臣の命、久米の直等が祖大久米の命二人、兄宇迦斯を召びて、罵言のりていはく、「伊いが作り仕へまつれる大殿内には、おれまづ入りて、その仕へまつらむとする状を明し白せ」といひて、横刀たちの手上握り、矛ゆけ矢刺して、追ひ入るる時に、すなはちおのが作れる押に打たれて死にき。ここに控ひき出して斬り散はふりき。かれ其地を宇陀の血原といふ。然してその弟宇迦斯が献れる大饗をぱ、悉にその御軍みいくさに賜ひき。

奈良県宇陀郡の豪族エウカシは、その弟オトウカシの裏切りを利用して惨殺。


其地より幸行でまして、忍坂おさかの大室に到りたまふ時に、尾ある土雲八十建やそたけるその室にありて待ちいなる。かれここに天つ神の御子の命もちて、御饗を八十建に賜ひき。ここに八十建に充てて、八十膳夫かしわでを設けて、人ごとに刀佩けてその膳夫どもに、誨をしへたまはく、「歌を聞かば、一時共もろともに斬れ」とののりたまひき。かれその土雲を打たむとすることを明して歌よみしたまひしく、

 忍坂の 大室屋に
 人多さはに来入り居り。
 人多に 入り居りとも、
 みつみつし 久米の子が、
 頭椎くぶつつい 石椎いしつついもち
 撃ちてしやまむ。
 みつみつし久米の子らが、
 頭椎い 石椎いもち
 今撃たぱ善らし。

かく歌ひて、刀を抜きて、一時に打ち殺しつ。

奈良県桜井市忍坂では、和解の宴会をするからと言ってその地の族長たちを集めておいて、給仕に化けた兵隊に合図して一斉に斬り殺させる。


かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向け和し、伏まつろはぬ人どもを退け撥はらひて、畝火の白梼原かしはらの宮にましまして、天の下治らしめしき。

このように、何の道理もなくいきなり軍を率いて他人様の土地に侵入し、血みどろの殺戮を繰り広げた末に、奈良県橿原市付近に拠点を築き、周辺一帯を支配する豪族となったわけです。

もちろん、実態としては奈良盆地の一部を支配しているだけであっても、記紀のイデオロギーによれば、それは「天の下治らしめしき」ということになります。

いやぁ、実に立派な初代天皇ですね。

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)による。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130211/1360564621

9. 中川隆[-10379] koaQ7Jey 2019年5月05日 06:36:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1712] 報告

2016-04-12 神武天皇没後2600年式年祭という差別の祭典
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/12/220842

4月3日、奈良県橿原市の「神武天皇陵」で、神武の没後2600年を祭るという宮中祭祀「式年祭」が行われ、当代天皇・皇后もこれに参列した。

朝日新聞(4/3):


 奈良県を訪問中の天皇、皇后両陛下は3日、初代天皇とされる神武天皇の没後2600年にあたり、橿原市の神武天皇山陵に参拝した。天皇家の行事「宮中祭祀(さいし)」の一つで、秋篠宮ご夫妻も同行。皇太子ご夫妻は両陛下の名代として、皇居・宮中三殿の皇霊殿に参拝した。

産経新聞(4/3):


 初代天皇である神武天皇の式年祭が、大正5年以来100年ぶりに行われた。皇祖の命日に御霊を慰める式年祭は、宮中祭祀(さいし)の中でも「大祭」に位置付けられる重要な儀式。天皇、皇后両陛下は大正天皇、貞明皇后の前例にならい、奈良県橿原市の神武天皇陵まで赴き、厳かに拝礼された。

(略)

神武天皇 (略)日本書紀によると、太子となって九州から東遷し、大和を平定。紀元前660年に橿原宮で即位し、初代天皇となった。紀元前584年に127歳で崩御したとされる。(略)

後に「神武」という漢風諡号を贈られたこの男が何者で、何をしたのかについては、既に何度か書いてきた。
•神武って何した人?
•神武は結局ナガスネビコには勝てなかった
•「建国記念の日はなに天皇が即位した日?」 正解は「そんな天皇はいない」
•GoogleMapで「欠史八代」を歩く

かいつまんで言えば、弥生後期(3世紀頃)、地元九州では大した出世の望めない傍流の血筋だった男が手勢を率いて近畿に攻め込み、血みどろの殺戮戦を繰り広げたあげく、かろうじて奈良盆地の一角(橿原市付近)に拠点を築き、周辺一帯(せいぜい10キロ四方程度)を支配する地方豪族となり、大和の人々の怨嗟と憎悪に取り囲まれながらそこで死んだ。これが、同時代頃にはサノ、ワカミケヌ、ヒコホホデミ、イワレビコなどと呼ばれていたこの男の実像である。時代も何百年も違うので「没後2600年」などお笑い種だし、そもそも神武は「天皇」などと呼べるような存在ではなかった。

しかし、この「式年祭」なるものの愚劣さはそれだけにとどまらない。祭祀の場となった「神武天皇陵」自体、問題大ありなのだ。

まず、神武の埋葬地について、記紀はそれぞれ次のように記載している。

古事記(神武記):


およそこの神倭伊波礼毘古の天皇、御年壹佰參拾漆137歳、御陵は畝火山の北の方白檮かしの尾の上にあり。

日本書紀(神武紀):


七十有六年の春三月の甲午の朔甲辰に、天皇、橿原宮に崩りましぬ。時に年一百二十七歳。

明年の秋九月の乙卯の朔丙寅に、畝傍山東北陵に葬りまつる。

この埋葬地が具体的にどこだったのかは、既に室町時代頃には分からなくなっていた。いったん、元禄期に四条村の福塚と呼ばれていた高さ3mほどの塚が神武稜とされたが、位置的に「畝傍山東北陵」と言うには離れすぎていることから後に否定され、候補地として次の二箇所が残った。
1.畝傍山の東北山麓に位置する丸山古墳

2.畝傍山山麓から北東に300mほど離れた小字ミサンザイ(別名神武田じぶでん)


畝傍山と両者の位置関係は次のようになる[1]。

丸山は畝傍山の北側に張り出した尾根のほとりにあり、「畝火山の北の方白檮の尾の上」という古事記の記述に良く適合し、日本書紀の言う「畝傍山東北陵」という呼称にもふさわしい。実際、ここが神武陵の候補地としては最有力だったのだが、幕末の文久2(1862)年、こちらではなく、田の中に孤立した小塚であるミサンザイのほうが神武陵と決定された。その理由は、次のようなものだった[2]。


 問題となるのは,神武陵の候補地の丸山が被差別部落である洞に隣接していたことである。鈴木良が採集した言い伝えによると,神武陵探索の勅使を迎えるのに,200余戸の部落を「ムシロ」で囲い,部落の上手に一夜づくりの新道をつくったという(「天皇制と部落差別」) 。また陵墓の治定(決定)に発言力をもった国学者の谷森善臣は,朝廷に提出した「神武天皇御陵考」(『谷森家旧蔵関係史料』上,宮内庁書陵部所蔵,谷函249号)のなかで,

   然るに洞村之穢多治兵衛と申者,威霊なる地之由虚言申者有之ニ付き,
   近年神武帝殯殿之跡抔と申立候儀も出来候得共難心得儀ニ御座候

 「洞村の穢多治兵衛」という者が,丸山を「威霊なる地」であると虚言していると,治定にもっとも影響力のあった谷森は非難している。最有力地の丸山は,洞部落に隣接するゆえに,排除されたのである。

かくして神武陵は、差別ゆえに神武の埋葬地ではない可能性の高いミサンザイに誤って決定された。

いや、これは単なる「誤り」ではないのかもしれない。この「文久の治定」に約半世紀先立って儒学者蒲生君平(1768-1813)が行った天皇陵調査で、洞村について「相傳つたうるに、その民故もと神武陵の守戸しくなり。凡およそ守陵の戸はみな賎種。本もと罪隷をもって没入したる者は郷に歯ならばず」と報告されていた[3]。このことを、神武陵の治定に関わるほどの学者たちはみな知っていたはずである。彼らは、墓守集団としての洞村を従える丸山こそが神武陵に違いないと薄々感じていながら、被差別部落に隣接する古墳を天皇陵とすることを嫌って、あえてミサンザイを選んだのではないか。

ちなみに、この洞村は、後にさらなる悲劇に見舞われる。「神武御陵兆域※1ヲ眼下ニ見ルノ地位ニアリテ恐懼ニ堪ヘサルコト」[4]という理由で、1917年から20年にかけて強制的に移転させられたのである。この事件を小説『橋のない川』で描いた住井すゑは、次のように語っている[5]。


住井 あのう部落の移転なんかはね許されることじゃないですよね。

古田 ええ、ほんとほんと。

住井 その神武天皇の御陵にしたのが明治。出来上がったのが明治四年でしょ。それで大正の始めになって部落がそこにいるのは畏れ多いからって強制立ち退き食わすんですから、そんならそこに御陵作らなければいいんですよね。ところが大正になるともうみな忘れちゃって、昔っからその御陵はそこにあって部落は後で住んだような話に変わってんですよね。そいで強制立ち退きさされて近鉄の沿線にもう乞食小屋みたいに何百戸か住んでたわけです。今まあそれなりの家を建てて住んでますけどね。

  しばし沈黙


洞村は、丸山を「眼下に見る」位置にあるわけではない。部落差別の結果、間違った場所に神武陵が作られ、今度はそれを見下ろす位置に部落があるのはけしからんといって移転させられたわけである。いま、旧洞村は、丸山古墳とともに、「神武天皇陵」の周囲に人工的に作られた深い森の中に埋もれている。

                   神武天皇陵付近 -- Google Mapより


「天皇」などではなかった一地方豪族の墓を、差別ゆえに間違った場所に仰々しくでっち上げ、差別ゆえに墓守の民をその住処から追い払い、デタラメな年代比定に基いて「没後2600年」と称する祭祀を行う。まさに、天皇制というものの愚劣さを象徴する差別の祭典である。

【2016/4/17追記】
『皇陵史稿』という、洞村強制移転のほんの数年前の1913年に出版された天皇陵問題の研究書がある。
この本の中で著者は、洞村についてこう書いている[6]。重大な内容なので、全文引用する。


畝傍山は、なつかしい山である。
理屈は知らず、唯何となく、恋しく、懐つかしい「何事のおはしますかは知らねども」である。
理屈から云へば、畝傍山は何でも無いものかも知れん、畝傍山の宮居、畝傍山の御陵、と云ふのも、畝傍山を目安に取つただげて、畝傍山それ自身は何でも無かつたかも知れん。
が、かやうな切つても血の出ん、冷酷な、三百的な理屈は、此聖祖開国の地に、適用したく無い「畝傍山みればかしこし」と、宣長の吟じたのは、誠に国民の代表的讃嘆の言葉であると思ふ、吾等は、窮天極地、此山の尊厳を持続して、以て天壌無窮に、日東大帝国開創の記念としたいと思ふ。
驚く可し。神地、聖蹟、この畝傍山は、甚しく、無上、極点の汚辱を受けて居る。
知るや、知らずや、政府も、人民も、平気な顔で澄まして居る。
事実は、こうである。
畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して、新平民の墓がある、それが古いのでは無い、今現に埋葬しつつある、しかもそれが土葬で、新平民の醜骸はそのまま此神山に埋められ、霊土の中に、爛れ、腐れ、そして千萬世に白骨を残すのである。
士臺、神山と、御陵との間に、新平民の一団を住はせるのが、不都合此上なきに、之に許して、神山の一部を埋葬地となすは、事ここに到りて言語同断なり。
聖蹟図志には、此穢多村、戸数百二十と記す、五十余年にして、今や殆ど倍数に達す、こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵との間は、穢多の家で充填され、そして醜骸は、おひおひ霊山の全部を侵蝕する。
              (予が大和紀行中の一節)

学者でさえこれほど露骨な内容を書くのである。当時、被差別部落がどれほどの侮辱と蔑みに晒されていたかがよく分かる。洞村が強制移転させられたとき、特にこの墓地は、「一片の骨さえも残してはならない」と徹底的に掘り返された[7]という。

[6] 後藤秀穂 『皇陵史稿』 木本事務所 1913年 P.198
[7] まれびと 「おおくぼまちづくり館と洞村跡地」
【追記終り】

※1 墓域のこと。
[1] 高木博志 『近代における神話的古代の創造』 京都大学人文科学研究所 人文学報 2000年3月 P.19
[2] 高木 P.23
[3] 蒲生君平 『山陵志』 1803年または1822年
[4] 高木 P.33
[5] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一新書 1994年 P.73
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/12/220842

10. 中川隆[-10378] koaQ7Jey 2019年5月05日 06:38:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1713] 報告

2016-02-27 「建国記念の日はなに天皇が即位した日?」 正解は「そんな天皇はいない」
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/02/27/215256

「しらべぇ」というサイトが、今年の「建国記念の日」に、「【悲報】7割の国民が『建国記念日に即位した天皇』を知らない」という記事を掲載した。


しらべぇ編集部が全国の男女1331人に「建国記念の日はなに天皇が即位した日?」と調査を行ったところ、もっとも多かったのが明治天皇で40.4%。以下、その他が28.8%、昭和天皇が20.4%、大正天皇が7.2%、今上(平成)天皇が3.2%と続いた。(略)じつはこのアンケート、ひっかけ問題である。正解はその他に含まれていたのだ。

(略)

じつは建国記念日は神武天皇の即位日が由来となっている。神武天皇は日本神話の登場人物であり、古事記や日本書紀で初代の天皇とされている。

その即位日である旧暦紀元前660年1月1日を、明治に入ってから新暦に換算、1967年(昭和42年)に制定されたというわけ。

紀元前660年の旧暦1月1日に神武天皇が即位し、それを新暦に換算すると2月11日に当たるから、この日が「建国記念の日」になったと言うわけだが、この話は少なくとも二重におかしい。

まず、神武の即位に関する日本書紀の記述は、次のとおりである[1]。


辛酉かのととり年の春正月の庚辰かのえたつの朔ついたちに、天皇、橿原宮かしはらのみやに即帝位あまつひつぎしろしめす。是歳を天皇の元年とす。

「辛酉」は60年に1回やってくるので、これだけではいつのことか分からない。そこで、ずっと後の、年代の確定できる時点から出発して、歴代天皇の在位年数などを手がかりに時代を遡り、紀元前660年にあたる「辛酉」に辿り着いたわけだ。

だが、日本書紀に記された初期の天皇たちの在位年数は、まったく信用できない。それは次の表を見れば明らかだろう。



天皇

在位年数

死亡年齢

1

神武

76

127

2

綏靖

33

84

3

安寧

38

57

4

懿徳

34

88

5

孝昭

83

113

6

孝安

102

137

7

孝霊

76

128

8

孝元

57

116

9

開化

60

115

10

崇神

68

120

11

垂仁

99

140

12

景行

60

143

13

成務

60

107

14

仲哀

9

52



神功皇后

69

100

15

応神

41

111


神武をはじめ、古代ではおよそあり得ない長寿の天皇が連続している。死亡時の年齢が信用できないとなれば、当然在位年数も信用できない。つまり、神武が即位したとされている「辛酉」年が紀元前660年だとは考えられないのだ。年が違うのだから、「春正月の庚辰の朔」が新暦の2月11日に当たるとする根拠もないことになる。

第二に、私は記紀に「神武天皇」として説話が記載されている人物は実在した歴史上の人物(弥生後期、3世紀頃の人)と考えているが、しかしその人物は到底「天皇」などと呼べるような存在ではなかった。こちらの記事にも書いたとおり、後に「神武」という諡号を贈られることになるこのイワレビコという男は、九州から出てきて近畿に侵入し、血みどろの殺戮戦を繰り広げたあげく、ようやく奈良盆地の一角に拠点を確保した一豪族に過ぎない。客観的に見れば、「天皇」どころか「王」と呼ぶのさえ無理である。後の近畿天皇家の祖先に当たる人物ではあったとしても、この男自身は「天皇」などではあり得ず、従って「即位」などしているはずがないのだ。

これは、次の事例と比べてみれば分かりやすい。

中国最初の皇帝である秦の始皇帝は、列国を滅ぼして中国全土を統一して初めて「始皇帝」を名乗った。それ以前の彼は単なる「秦王政」である。また、彼は秦国の初代でもない。始皇帝は紀元前3世紀の人だが、諸侯の一つとしての秦国の始まりは前8世紀の襄公、更にその祖先は初めて秦の地に領地を得た前10世紀頃の非子までたどれるという。

要するに、後に日本を支配した大和朝廷の祖先だからといってイワレビコを初代の「天皇」だなどと言うのは、非子を最初の中国皇帝だと言うのと同程度のこじつけ、極端な誇張なのだ。仰々しい記紀の記述は、大和朝廷絶対化のイデオロギーに基づく歴史の捏造、古代的歴史修正主義と言ってもいい。

まあ、客観的に見れば、実質的に「天皇」と呼んでいいのは、坂上田村麻呂の遠征によって初めて東北地方まで支配を広げた桓武(50代)あたりからだろう。

「建国記念の日」が、「神武天皇が即位した」とされている日(紀元前660年の2月11日)に由来しているのは事実だが、神武は「天皇」などではなかったし、従って「即位」もしていない。さらに、神武紀の言う「辛酉年」は紀元前660年ではないので「春正月の庚辰の朔」を新暦2月11日とする根拠もない。要するに、すべてが架空の作り事なのだ。だから、「建国記念の日はなに天皇が即位した日?」という問いへの正解は、「そんな天皇はいない」なのである。

[1] 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』 岩波文庫 1994年 P.240
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/02/27/215256

11. 中川隆[-10377] koaQ7Jey 2019年5月05日 06:44:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1714] 報告

神武は結局ナガスネビコには勝てなかった
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/11/07/161559

先日、TLにこういうツイートが流れてきた。兄の五瀬とともに九州からやってきたイワレビコ(神武)が近畿に侵入したとき、最大の敵として立ちふさがった(トミノ)ナガスネビコ(記:登美能那賀須泥毘古 紀:長髄彦)についての話である。

天孫饒速日命を奉じて神武天皇の東征に抵抗した大和の豪族長髄彦は、神武側に寝返った饒速日に殺されてしまう。饒速日は河内の石切劔箭神社に祀られているが、生駒山中腹にある上之社の境内地が、昭和末期の近鉄新生駒トンネル工事の落盤で大陥没(続


国譲り神話にしろ「天つ神」以前からあった日本の信仰を「国つ神」と呼び変え、ルーツも実は天つ神にあったかのように語り、歓迎されながら受け入れられたように語ってるだけには見れる。そう考えるとキリスト教による異教の悪魔化や聖人信仰に取り入れての布教とさして変わりはしない。


確かに、日本書紀には、ニギハヤヒ(記:邇藝速日 紀:饒速日)がナガスネビコを殺して神武に降ったと書かれている。

日本書紀(神武即位前紀):


饒速日命、本より天神あまつかみ慇懃ねむごろにしたまはくは、唯天孫のみかといふことを知れり。且また夫かの長髄彦の禀性ひととなり愎佷いすかしまにもとりて(ねじけていて)、教ふるに天人きみたみの際あひだを以てすべからざることを見て、乃ち殺しつ。其の衆もろびとを帥ひきゐて帰順まつろふ。天皇、素もとより饒速日命は、是天より降れりといふことを聞しめせり。而して今果して忠効を立つ。則ち褒ほめて寵めぐみたまふ。此物部氏の遠祖なり。


しかし、古事記ではだいぶ様子が違っているのだ。

古事記(神武記):


 然ありて後に、登美毘古を撃ちたまはむとする時、歌よみしたまひしく、

  みつみつし 久米の子らが

  粟生あはふには 臭韮かみち一茎もと、

  そねが茎 そね芽繋ぎて

  撃ちてしやまむ。(歌謡番号12)

 また、歌よみしたまひしく、

  みつみつし 久米の子らが

  垣下に 植ゑし山淑はじかみ、

  口ひひく 吾は忘れじ。

  撃ちてしやまむ。(歌謡番号13)

 また、歌よみしたまひしく、

  神風の 伊勢の海の

  大石に はひもとほろふ

  細螺しただみの、いはひもとほり

  撃ちてしやまむ。(歌謡番号14)

(別の豪族兄師木えしき弟師木おとしきについての歌謡 -- 略)

 かれここに邇藝速日の命まゐ赴むきて、天つ神の御子にまをさく、「天つ神の御子天降りましぬと聞きしかば、追ひてまゐ降り来つ」とまをして、天つ瑞しるしを献りて仕へまつりき。かれ邇藝速日の命、登美毘古が妹登美夜毘売とみやびめに娶ひて生める子、宇摩志麻遅うましまぢの命。こは物部の連、穂積の臣、婇臣が祖なり。かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向け和し、伏まつろはぬ人どもを退そけ撥はらひて、畝火うねびの白檮原かしはらの宮にましまして、天の下治らしめしき。

「撃ちたまはむとする時」というのは、これから戦いを始めようとする時、である。登美毘古(ナガスネビコ)との開戦を前に「撃ちてしやまむ」と歌って盛んに気勢を上げているわけだが、そこからいきなり、戦いの描写もなく、「勝った」も「殺した」もなく、ニギハヤヒの帰順の話になっている。これはどういうことなのか。

普通に考えれば、それは「勝てなかったから」だろう[1]。


 その三が、もっとも重要だ。冒頭に「将撃登美毘古之時」とあり、「対、登美毘古戦」の開始前の歌だ。そしてその後の歌はない。つまり、「勝利の歌」もしくは「勝利後の歌」を欠いているのである。地の文でも、「登美毘古を斃した」とは記していないのだ。これは何を意味するか。

 わたしには、その答えは一つだと思われる。「神武は敗けた」、あるいは「勝てなかった」のだ。なぜなら、実際は勝ったのに、その事実をカットする、あるいは書き忘れる、そんな史書があるだろうか。ありはしない。『古事記』が天皇家側の史書である以上、これは不可避の判断である。

 歌の問題も同じだ。もしこれが後代の「造作」、もしくは挿入なら、なぜ勝利の歌を偽作、もしくは偽入しなかったのだろう。簡単なことだ。勝利前の歌は作れても、勝利後の歌は作れない。そんな不器用な「造作」者、あるいは半端な「挿入」者など、わたしには想像できない。

 以上の考察の意味するところ、それは何か。神武は大和盆地に侵入した。それには確かに成功した。しかし、外部(大和盆地外)の勢力たる登美の長髄彦たちには勝ちえなかった。これがありていな状況だ。したがって、

   故、此の如く、荒ぶる神等を言向け平和し、伏はぬ人等を退け撥ひ、

   畝火の白檮原の宮に坐して、天の下を治らしき。(『古事記』神武記)

という、有名な一文も、この盆地内の支配を宣言したものにすぎなかったのである。

仮に神武がナガスネビコを倒していたなら、神武は河内をはじめとするナガスネビコの支配領域を手に入れていたはずである。しかし実際には、神武どころかその後も8代にわたって近畿天皇家は奈良盆地外に勢力を広げることができなかった。この点から見ても、神武がナガスネビコに勝てなかったのは明らかだろう。ニギハヤヒがナガスネビコを殺して投降したという日本書紀の記述は、神武の事蹟を誇張するために付加された作り話なのだ。

ちなみに、ニギハヤヒに関する記述は、これ以外にも古事記と日本書紀とで大きな違いがある。日本書紀では、まずニギハヤヒが先に天降り、ナガスネビコはこれに臣従していたことになっている。

日本書紀(神武即位前紀):


 時に長髄彦、乃ち行人つかひを遣して、天皇に曰さく、「嘗むかし、天神の子有ましまして、天磐船に乗りて、天より降り止いでませり。号なづけて櫛玉饒速日命(略)と曰す。是吾が妹三炊屋媛みかしきやひめ(略)を娶りて、遂に児息みこ有り。(略)故かれ、吾、饒速日命を以て、君として奉つかへまつる。夫それ天神の子、豈あに両種ふたはしら有まさむや。奈何いかにぞ更に天神の子と称なのりて、人の地くにを奪はむ。吾心に推おしはかるに、未必為信いつはりならむ」とまうす。

一方古事記では、上で引用したとおり、ニギハヤヒが「天降った」のは神武より後で、またナガスネビコがこれに臣従したという記述もない。恐らくニギハヤヒは神武と違ってナガスネビコと敵対せず、妻と土地を与えられて共存していたのだろう。記紀ともにニギハヤヒが神武に帰順したことになっているのは、その子孫である物部氏などの有力豪族を天皇家に結びつけるために、先祖の代から天皇家に仕えていたことにしたのではないだろうか。

[1] 古田武彦 『古代は輝いていた(2) 日本列島の大王たち』 朝日新聞社 1985年 P.27

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。

※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/11/07/161559

12. 中川隆[-10376] koaQ7Jey 2019年5月05日 06:46:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1715] 報告

ではこの機会に「神武天皇の偉業」wを振り返ってみようか
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/11/03/091039

「文化の日(=日本国憲法公布の日)」である今日11月3日をかつての「明治節」に戻したい反動議員たちが集会を開いたそうだ。民の生活を良くするための努力は何一つしないくせに、旧大日本帝国の正当化にだけは実に熱心だ。このような者たちを国会議員でいさせておくことこそ国家的損失、税金の無駄使いというものだろう。

中でも我らが防衛大臣、稲田朋美氏の発言は傑作である。(朝日新聞 11/2)


 稲田朋美防衛相も「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが明治維新の精神だった。その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」と語った。

 
「神武天皇の偉業」ww

私は、後に「神武」と呼ばれることになる人物は3世紀頃に実在したと考えているが、この男がやったことは、『古事記』を素直に読み解けば以下のとおりである。

1.野心だけは満々だが九州では出世の望めない傍系の兄弟が、
2.各地の豪族たちから支援を獲得して軍勢を整え、大阪湾から近畿に突入
3.しかし待ち受けていたナガスネビコに敗れて総大将の兄は討ち死に
4.生き残った弟(神武)が紀伊半島を迂回して熊野方面から奈良盆地に侵入
5.だまし討ちと虐殺を繰り返したあげく、ようやく奈良盆地の一角を占拠
6.しかし結局そこから一歩も出られず、大和の人々の憎悪に囲まれたまま、一地方豪族として死んだ

もちろん、天皇に即位したなどというのは、後世の作り話である。

21世紀にもなって、いまだにこんなものを「偉業」だの「日本のよき伝統」だのと妄想する者たちが政権を握っているのだから、なんとも恐ろしい。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/11/03/091039

13. 中川隆[-10375] koaQ7Jey 2019年5月05日 06:48:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1716] 報告

GoogleMapで「欠史八代」を歩く
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/05/211639

近畿天皇家の初代神武に続く2代目綏靖から9代目開化までの8代を、「欠史八代」と呼ぶ。理由は、古事記・日本書紀でのこれらの天皇に関する記載が系譜だけであり、事績(説話)を欠いているからだ。

もっとも、厳密に言うと説話がまったくないわけではない。例外として、綏靖が父神武の死後、どうやら父の後を継いでいたらしい異母兄の当芸志美美の命(タギシミミのミコト)を殺してその地位を奪ったという話が書かれている。

ともあれ、ほとんど説話の記載がないことは事実で、このため戦後史学ではこれらの天皇は架空の存在とされてきた。いくつかバリエーションはあるが、戦後史学での基本的な考え方は、記紀を編纂する際、天皇家の起源を古く見せて権威付けするため、まず架空の初代神武をはるかな過去に置き、最初の実在天皇である崇神との間を、これらの系譜を造作することでつないだ、というものだ。

しかし、ここで大きな疑問が湧いてくる。これら8代の系譜を後から造作したというのなら、説話も一緒に造作すればいいではないか。なにしろ神武のあの華々しい「大事業」を造作したほどなのだから、ついでに適当な8代分の説話を造作するのなど簡単だったはずである。

造作説に立つ限り、なぜもっと造作してもっともらしくしなかったのか、という疑問に答えるのは困難だろう。

一方、神武とそれに続く8代を実在とする場合、なぜ実在の人物なのにこの8代には説話がないのかを説明しなければならない。

この問題に対しては、古田武彦氏が実に見事な回答[1]を与えてくれている。


 この一点を注視してみれば、この八代の空白問題こそ、実は皇国史観にとってより以上に、津田史学にとってのアキレス腱となっていることに気づくであろう。“なぜ造作者は、この八代の説話を「造作」しなかったのか”と。この問いこそその腱を絶つべき刃である。

 では、わたしの立場からは、この問題はいかに解せられるか。この答えは簡明だ。

 ここで一つの私的見聞を挿ませていただきたい。N家(妻の実家)は兵庫県姫路市郊外に代々居住している。その伝えるところによると、祖先は伊勢の桑名の出であり、源氏との合戦に敗れたのち、時を経て最後にこの地に落ち着いたのだという。そのときの武具(甲・刀など。一部盗難)など、近年までは保存されていたという。また、当時の主従の従家に当るとされる家も、近隣に現存するのである。そこでは法事の時などには、当時(当地への来着時)の到着譚を語るを常としていた、というのである。

 このさい、大事なこと、それは右の来着以降、現代まで幾百年間の各代の説話は、ほとんど伝えられていないことだ。ただ、当地入着、第一代の足どりのみ、くりかえし語られてきたのである。

 思うに、右のような例は珍しからぬところ、きわめて通常の例ではあるまいか。外部から当地にきたった第一代、その歴史と経緯、それは詳しく伝承される。しかし、そのあとの第二、三〜現代まで、の説話は格別伝承されない。それが通例の地方豪族、ことに他から入りきたった豪族にとって、むしろ通例のケースなのではあるまいか。

 これに対し、第二、三〜現代まで、各代の説話を伝える豪族、そのような例こそ、ほとんど絶無に近いのではあるまいか。

 このような伝承の様態から考えると、“神武説話のみ詳しく、第二〜九代がない”という事態、それは極めて正常である。他(九州の日向)から侵入しきたった説話のみ、詳密に熱心に語られ、第二代以降がない、これこそ、伝承の常態だったのである。「神武の時代から日本列島全土統治」という虚名にこそふさわしからずとも、大和盆地内の一侵入豪族には、きわめてふさわしい姿をしめしていたのである。

私は、「欠史八代」問題に関して、これ以上に説得力のある説明を聞いたことがない。

さてそれでは、九州からやってきて凄惨な殺戮戦の末大和への侵入に成功した神武とその子孫たちは、どのように「天の下治らしめし」ていたのだろうか。

最近、GoogleMapに「マイマップ」機能が追加され、誰でも自分独自の地図を簡単に作成してネットで共有することができるようになった。そこで、神武の大和侵入から欠史八代にかけての地図(この期間に関する古事記の記事に出てくる地名をプロットしたもの)を作ってみた。

地図の主要部分はこんな感じになる。

http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/05/211639


東の三重県方面から並んでいる赤い衝突印が神武の侵入経路、涙滴型のマーカーは赤が各天皇の本拠地(宮)、紫が墓(陵墓)、青はその他の地名を示している。

これを見ると、初代神武から6代孝安あたりまで(前期)の支配領域は橿原市、大和高田市、御所市あたりの奈良盆地南部(広めに見ても東西15Km、南北10Km程度)に限られ、7代孝霊から9代開化あたり(後期)になって、ようやく天理市、大和郡山市、奈良市を含む奈良盆地全体へと支配を広げていったことが読み取れる。この領域から外れる地名も記紀には出てくるのだが、それらはいずれも后の実家(婚姻関係を結んだ豪族の本拠地)であったり、子孫の移住先であったりで、近畿天皇家の支配領域と言えるものではない。

神武から「欠史八代」にかけての「天皇」家は、この頃近畿地方の各地に割拠していたであろう諸豪族の一つに過ぎなかったことがよく分かる。

また、各代天皇の后、息子、娘の数を表にしてみると、次のようになる。


http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/05/211639

この表が示す后や子どもの数の変化も、上の図に示す支配領域の変化とよく符合している。

神武から6代孝安までは、后の数も子の数も、ほとんど一族を維持できる最低限でしかない。(神武は九州時代既に結婚していて息子もいたので、大和に来てから娶った后は1人、その子も3人だけである。)

考えてみればこれは当然だろう。血みどろの侵入者神武とその子孫は踏みにじられた大和の人々から深い恨みを買っていただろうし、そんな彼らとあえて婚姻関係を結ぼうとする近隣豪族もまれだっただろうから。

近畿「天皇」家は、土地の者たちの恨みと憎悪に包囲されつつ、奈良盆地の一角に引きこもっていたのである。

この状況に変化が生じるのが7代孝霊の時代で、この頃から多数の豪族と婚姻関係を結び、勢力を伸ばしていく。孝霊・孝元・開化の3代で勢力基盤を固め、10代崇神の時代になって、ようやく奈良盆地の外への進出を果たすのである。

記紀は、侵入者神武とそれに続く「欠史八代」の時代状況を、実にリアルに伝えていたのだ。

[1] 古田武彦 『古代は輝いていた(2) 日本列島の大王たち』 1985年 朝日新聞社
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/05/211639

14. 中川隆[-10374] koaQ7Jey 2019年5月05日 07:13:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1717] 報告

初期天皇家の引っ越し事情w
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/02/11/122452

今日は紀元前660年のこの日に「神武天皇」が即位したという大嘘を根拠に明治クーデター政権が勝手に決めた「建国記念の日」なので、神武と初期天皇家に関するデタラメを一通り指摘しておくことにしよう。

■ 「神武天皇」などいなかった

まず初代の「神武」。

私は、記紀の神武説話のもととなった歴史上の人物は恐らく実在した(3世紀頃)と考えているが、この男は到底「天皇」などと呼べる存在ではなかった。記紀の説話を皇国史観イデオロギーに囚われずに読めば、この男は軍勢を引き連れて九州から近畿に攻め込み、血みどろの殺戮戦を繰り広げたあげく、ようやく奈良盆地の一角に拠点を確保した侵入者に過ぎない。

支配領域の広さから言っても、この男は当時の近畿にたくさんいた地方豪族の一人に過ぎず、天皇に「即位」したなどというのは大嘘である。

ついでに言うと、「神武」というのは後世になってつけられた諡おくりな(漢風諡号)であり、当時こんな名で呼ばれていたわけではない。本来の名前は「サヌ」だろう。

要約するとこんな感じだ。

1.野心だけは満々だが九州では出世の望めない傍系の兄弟が、
2.各地の豪族たちから支援を獲得して軍勢を整え、大阪湾から近畿に突入
3.しかし待ち構えていたナガスネビコに敗れて総大将の兄(イツセ)は討ち死に
4.生き残った弟(サヌ)が紀伊半島を迂回して熊野方面から奈良盆地に侵入
5.だまし討ちと虐殺を繰り返したあげく、ようやく奈良盆地の一角を占拠
6.しかし結局そこから一歩も出られず、大和の人々の憎悪に囲まれたまま、一地方豪族として死んだ


■ 初期天皇家の「非常に規模の小さな歴史」

サヌに続く8代の「天皇」については、ほとんど説話が伝えられていないが、各「天皇」がどこに拠点(宮)を置き、どこに葬られたかについては記紀に記載があるので、そこから彼らの足跡を辿ることができる。

この点に関して、評論家・哲学者の山田宗睦氏が興味深いことを述べている。戦前の皇国史観教育を受けて育った氏は、教えられたことをそのまま信じていたが、大学に入って『古事記』を手に実際に各「天皇」の「都」の地を訪ね歩いたところ、初期天皇家の歴史が「非常に規模の小さな」ものだったことに気がついたというのだ。[1]


山田 皇紀二千六百年のようなことに対して私は当時中学生だけれども、受けていた教育が教育だから何も疑問は持たなかったね。(略)神武天皇は実在していたと思っているし、綏靖・安寧全部いて、万世一系で昭和天皇まで来ているんだということも信じていた。(略)昭和18年10月に京都大学に入った時から、古事記を手にして古事記に書いてある通りに歩いて行くわけね。
林 そういう点では非常に身近かに古事記・日本書紀はマスターしているわけですね。
山田 そうだ。本当にあったことだと思っているから、初代の神武天皇から始めて次の天皇はどこへ都したのか、どこそこと書いてあるのを見てそこへ行ってね、なんだ、ほんのちょっとこの部落から次の部落へ、都を遷したなんて、こんな……。
林 (笑)。
山田 自分で歩いてみて初めてね、なんていうか非常に規模の小さな歴史なんだっていうことが、分かる。大学へ入ってもまだ書いた通り信じているわけだから、それが実際にそうやって歩いてみることで崩れていくわけですよ。
林 うーん。
山田 ああいうのはどういう体験かなあ。古事記そのものじゃなくて、古事記を読んで作られた天皇制イデオロギーを教えられているわけでしょう。だから古事記を読むことによってかえって習ったのとは違うじゃないか、という意識が出るわけですよ。何で女を奪い合って天皇がケンカをするんだとかね、何かそういうことが疑問になって出てくる。イデオロギーのこわさというか、古事記に書いてあることとも違うことを建て前として教えられていたのが、旧制高校で古事記を読んで少し違うんじゃないかと思いだす。そして京都大学へ入って、古事記を持って歩いてみたら、何だ日本の歴史ってのは何か引越し位の、都を遷したなんてのと違うじゃないかというふうに思い始めた。
一同 (笑)。

では、実際にその歴史の規模を確認してみよう。

サヌ(神武)からオホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安)までの各「天皇」の「宮」の位置は、『古事記』[2]によれば次のようになる。

代 名前 宮 比定地(奈良県)


1 サヌ(神武) 畝火(うねび)の白檮原(かしはら)の宮 橿原市畝傍山東南

2 カムヌマカワミミ(綏靖) 葛城(かづらき)の高岡(たかをか)の宮 御所市森脇

3 シキツヒコタマテミ(安寧) 片塩(かたしほ)の浮穴(うきあな)の宮 大和高田市三倉堂付近

4 オホヤマトヒコスキトモ(懿徳) 軽(かる)の境丘(さかひをか)の宮 橿原市大軽町見瀬付近

5 ミマツヒコカヱシネ(孝昭) 葛城(かづらき)の掖上(わきがみ)の宮 御所市池之内付近

6 オホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安) 葛城(かづらき)の室(むろ)の秋津島(あきつしま)の宮 御所市室

■ Google Mapで根拠地の移動を確認してみる

これをGoogle Map上にプロットしてみると、各世代ごとの根拠地の移動は次のようになる。


http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/02/11/122452


サヌ(神武)→ カムヌマカワミミ(綏靖)


カムヌマカワミミ(綏靖)→ シキツヒコタマテミ(安寧)


シキツヒコタマテミ(安寧)→ オホヤマトヒコスキトモ(懿徳)


オホヤマトヒコスキトモ(懿徳)→ ミマツヒコカヱシネ(孝昭)


ミマツヒコカヱシネ(孝昭)→ オホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安)


全体をまとめてみても、縦横7〜8キロ程度の範囲を行ったり来たりしているだけである。

山田氏の言うとおり、ナントカ天皇が「◯◯の宮にましまして、天の下治しらしめしき」などと大仰に書かれている初期天皇家の歴史が、実際にはいかに規模の小さいものだったかがよく分かる。

[1] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一書房 1994年 P.132-133
[2] 武田祐吉・中村啓信 『新訂 古事記』 角川文庫 1982年 P.83-89
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/02/11/122452

15. 中川隆[-10391] koaQ7Jey 2019年5月05日 08:27:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1700] 報告


大和には天皇家より古い「万世一系」の家があった
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/16/100219


「神武天皇陵」問題の記事でも引用した住井すゑ氏と古田武彦氏の対談本の中に、非常に面白いエピソードが書かれている[1]。


古田 そうですか。いやァあのね、私吉野でね、古事記に案内した人出て来ますね、あの子孫だっていう材木問屋の社長さんいましてね、額にかけて非常に自慢しとられた。ところでその後帰って来てからね、私のところへ知らぬある人から手紙が来まして、その人は京都大学の工学部へ入ったんだけど、例の学園闘争かなんかでね、途中でやめて材木会社に入ったと。そして木材の買付けで吉野へ行ったと。そしてある農家の家に泊ったと。でその農家の主人と酒飲んで話してるうちにその農家の主人が泣き始めるわけ、なんでかというたら「私の先祖は神武天皇が入って来た時に特に撃退してこれを食い止めた家なんだ」と、「そういうことをね、近所は皆知っとるよ、だからもう本当にね、戦争中はつらかった」と。

住井 はあァ。

古田 あれは逆賊の家や。それが敗戦になってやっとほっとしたけど、今でもつらい、と言ってね酒飲んでさめざめと泣くんだそうですよ。もう徹夜で語ってくれたそうです。ところがね、その聞いた方の人は、神武天皇は架空だと思ってるわけ、津田左右吉のあれで。だから、何この人言ってんだろうと思うてね……。

住井 ワハハハ……。

古田 私の本『盗まれた神話』というのを読んだわけです。そしてさっきのような神武はリアルだというのを読んでね、ああそうかと、それならあのおやっさんの気持もわかる、というんで私に調査に行ってほしいというお手紙をいただいたんです。だからなんか、そういうね、大和っていうのはいまだにそういうの生き残ってるんですね。

住井 残ってますね、ええ。

この農家のご先祖は、外来の侵略者であるイワレビコ(神武)たちと戦い、愛する郷土の土地と人々を守ったわけである。実際、古事記を見ると、吉野は神武の侵入経路上に名は出てくるが、神武が橿原に拠点を築いた後は地名として出てこない。次に「吉野」が現れるのは、ずっと後の応神天皇(15代)の時代である。少なくとも神武から数世代の初期の頃は、吉野はまだ近畿天皇家の支配領域には入っていなかったと思われる。

近畿天皇家の始祖は神武と言われているが、実際には仲哀(14代)→応神(15代)、武烈(25代)→継体(26代)と王朝交替を繰り返しており、実態としては決して「万世一系」などとは言えない。一方、この農家のご先祖は、はるか昔から大和に根付いて暮らし、侵略者神武と戦って郷土を守り、その後もずっとこの土地で代を重ねてきた。これこそが、誇るべき真の「万世一系」ではないだろうか。

[1] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一新書 1994年 P.91-93
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/16/100219

16. 中川隆[-10390] koaQ7Jey 2019年5月05日 08:35:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1701] 報告

初期の近畿天皇家では兄弟殺しの簒奪事件が続発した(その1)
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/09/20/151437


九州から近畿に侵入した初代神武から2代目綏靖への代替わりは、兄殺しによる地位簒奪だった。そして、肉親殺しを伴う簒奪行為は、これが近畿天皇家で唯一の例というわけではない。

仲哀(14代)の二人目の后だった息長帯日売(オキナガタラシヒメ 紀:気長足姫)は、健内宿禰(タケシウチノスクネ 紀:武内宿禰)と組んで、まず仲哀本人、ついで仲哀の(他の后との間の)息子忍熊王(オシクマノミコ)を殺し、自分たちの息子(応神)を初代とする新王朝を樹立した。この応神から始まる王朝*1では、とりわけ骨肉間の争いが激しかったようである。

■応神(15代*2) ー> 仁徳(16代)

応神は何人もの后を娶って多くの子をもうけたが、あるとき、有力な二人の息子、大山守(オホヤマモリ)と大雀(オホサザキ 紀:大鷦鷯)を呼んで、次のように告げたという。
 
古事記 応神記:


すなはち詔り別けたまひしくは、「大山守の命は、山海の政せよ。大雀の命は、食国をすくにの政執りもちて、白したまへ。宇遅能和紀郎子は、天つ日継知らせ」と詔り別けたまひき。

 
この三人の息子は、それぞれ母親が違う。応神は、最年長の大山守には山林の管理をせよ、次の大雀には国の政治を執り行え(大臣的な役割を果たせ)と命じ、そして自分の地位は一番下の宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ 紀:菟道稚郎子)に継がせる、と宣言したわけである。

説話では、応神の死後、大雀は父の言いつけをよく守ったが、大山守は宇遅能和紀郎子を殺してその地位を奪おうとしたことになっている。そしてその結果はどうなったか。
 
古事記 応神記:


 かれ天皇崩りましし後に、大雀の命は、天皇の命のまにまに、天の下を宇遅能和紀郎子に譲りたまひき。ここに大山守の命は、天皇の命に違ひて、なほ天の下を獲むとして、その弟皇子を殺さむとする情ありて、竊ひそかに兵を設けて攻めむとしたまひき。ここに大雀の命、その兄の軍を備へたまふことを聞かして、すなはち使を遣して、宇遅能和紀郎子に告げしめたまひき。かれ聞き驚かして、兵を河の辺に伏せ、またその山の上に、絁垣きぬがきを張り、帷幕を立てて、詐りて、舎人を王になして、露に呉床あぐらにませて(どこからも見えるように座らせて)、百官、恭敬ひ往来ふ状、既に王子のいまし所の如くして、更にその兄王の河を渡りまさむ時のために、船檝かぢを具へ飾り、また佐那葛さなかづらの根を春うすづき、その汁の滑を取りて、その船の中の簀椅すばし(すのこ)に塗りて、蹈ふみて仆たふるべく設けて、その王子は、布の衣揮を服て、既に賎人やっこの形になりて、檝を執りて立ちましき。ここにその兄王、兵士を隠し伏せ、鎧を衣の中に服せて、河の辺に到りて、船に乗らむとする時に、その厳飾れる処を望けて、弟王その呉床にいますと思ほして、ふつに檝を取りて船に立ちませることを知らず、(略)

渡りて河中に到りし時に、その船を傾けしめて、水の中に堕し入れき。ここに浮き出でて、水のまにまに流れ下りき。(略)

ここに河の辺に伏し隠れたる兵、彼廂此廂あなたこなた、一時に興おこりて、矢刺して流しき。かれ詞和羅かわらの前に到りて沈み入りたまふ。かれ釣を以ちて、その沈みし処を探りしかば、その衣の中なる甲よろひに繋かりて、かわらと鳴りき。かれ其地に号づけて詞和羅の前といふなり。

 
この説話は一読して分かるように不自然である。大山守が弟を殺すつもりで兵を率いて行ったのなら、なぜ相手の目の前まで来て、兵を河辺に残したまま、たった一人で相手側の用意した船に乗ったりしたのか。渡った後、一人でどうするつもりだったのか。本当に兵など率いていたのか。

この事件については、古田武彦氏が次のように分析している[1]。
 


 (一)この説話を理解するための背景、それは応神の子供たち(男子四人)が、いずれも母を異にしていることだ。

(略)

 その中で、応神は宮主矢河枝比売とその子、宇遅能和紀郎子を愛し、彼に次の王位を与えようとした。ここに悲劇は胚胎した。

 (二)応神の死後、まず大山守命が斃される。そのさい、二つの注目点がある。

 @ 本来は、弟二人より彼の方が正統の継承者としての資格があったはずである(母が応神の妃となった三人姉妹の長姉であり、本人も年長)。

 A 大山守命誅殺の経緯は、大雀命の意図に従って進行しているように見える。

 大山守命の罪状としては、

   天皇(応神)の命に違ひ、猶天の下を獲むと欲し、其の弟皇子を殺さむの情有り、竊かに兵を設けて将に攻めむとす。

と記されている。

 つまり、兄(大山守命)の内心には、そのような気持があった。そのため、ひそかに準備していた。これが罪名なのである。

 疑いなく存在した事実、それは応神の死後、大雀命が行動をおこし、兄を殺させた。この一事だ。その理由として、「兄の内心と未発の準備」があげられているのだ。

 ここで、前にあげた公理を思い出してほしい。――「A天皇の治世の説話は、次のBまたはC天皇のときに作られる」と。

 応神記の説話は、次の仁徳の治世、またはその子の履中の治世に作られた。すなわち、大雀命(仁徳)の策略が成功し、兄(大山守命)を亡き者にしたあと、残った側の手によって作られたものなのである。

 とすると現実は兄殺しだ。その兄殺しの正当化、それが、実は彼の内心がしかじかであり、その準備がなされていたから、止むをえなかったのだという理由づけだったのである。

 大山守命が本当に右のような異心を内心に抱いていたか否か、誰が知ろう。確かなこと、それは、仁徳とその子(履中)たちは、人民に対し、そのように信じさせたかった。この一事である。

 
この事件の後、大雀と宇遅能和紀郎子は互いに譲りあって三年の間どちらも即位せず、結局宇遅の和紀郎子が早死したため大雀(仁徳)が即位したことになっている。古事記には死因は書かれていないが、日本書紀では、宇遅能和紀郎子は大雀に大王位を譲るために自殺したとされている。その上、知らせを聞いた大雀が駆けつけると、死後三日経っていた宇遅能和紀郎子が棺から起き上がり、大雀の徳を称えて妹(八田若郎女)を献上してから改めて死ぬというオカルト話まで付け加えられている。
 
日本書紀 仁徳即位前紀:


太子の曰はく、「我、兄王の志(大王位を自分に譲るという意志)を奪ふべからざることを知れり。豈あに久しく生きて、天下を煩さむや」とのたまひて、乃ち自ら死をはりたまひぬ。時に大鷦鷯尊、太子、薨かむさりたまひぬと聞して、驚きて、難波より馳せて、菟道宮に到ります。爰ここに太子、薨りまして三日に経なりぬ。時に大鷦鷯尊、摽擗むねをうち叫び哭なきたまひて、所如せむずべ知らず。乃ち髪を解き屍に跨またがりて、三たび呼びて曰はく、「我が弟の皇子」とのたまふ。乃すなはち応時たちまちにして活いきでたまひぬ。自ら起きて居します。爰に大鶴鵜尊、太子に語りて曰はく、「悲しきかも、惜しきかも。何の所以にか自ら逝すぎます。若し死をはりぬる者、知さとり有らば、先帝、我を何いかが謂おもほさむや」とのたまふ。乃ち太子、兄王に啓して曰したまはく、「天命なり。誰か能く留めむ。若し天皇の御所に向まうでいたること有らば、具つぶさに兄王の聖にして、且しばしば譲りますこと有ましませることを奏さむ。然るに聖王ひじりのみこ、我死をへたりと聞しめして、遠路を急ぎ馳でませり。豈労ねぎらひたてまつること無きこと得むや」とまうしたまひて、乃ち同母妹いろも八田皇女を進たてまつりて曰はく、「納采あとふるに足らずと雖いへども、僅わづかに掖庭うちつみやの数に充つかひたまへ」とのたまふ。乃ち且また棺に伏して薨りましぬ。

 
しかし、そもそも父(応神)の命に従うというなら、宇遅能和紀郎子には譲る必要はなく、すぐに即位すればよかったはずである。説話の言うように自ら船頭に化けて大山守を倒すほど決断力と行動力に優れていたならなおさらである。

さらに、大雀は即位後、もう一人の異母弟速総別(ハヤブサワケ 紀:隼総別)王と、宇遅の和紀郎子の同母妹女鳥(メドリ 紀:雌鳥)王を殺している。罪状はまたもや、確認しようもない謀殺の意図である[2]。
 


簒奪者だけが知っている

 (四)右のような分析を、必ずしもことさら意地悪な視点に非ず、と思わせるのは、仁徳記の女鳥王と速総別王の悲話だ。

 ここでも女烏王の罪状は彼女が仁徳殺しを(速総別王に対して)示唆した歌を歌い、仁徳がそれを聞いたことになっている。

 しかし、すでに二人が殺されたあと、履中(仁徳の子)か反正(同)のとき、この説話は作られた。その歌の真否、――それは仁徳だけが知っている。

 (五)そして大事なこと、それはこの「女烏王殺し」とは、とりもなおさず宇遅能和紀郎子の同母の妹殺しだということだ。この女鳥王殺しによって、宇遅能和紀郎子系の親族の中の大雀命(仁徳)の即位に対して異を唱える者は消滅させられてしまったのではあるまいか(八田若郎女を除く)。

 A・B・Cの三人がいた。Aと、Bの一族は消された。それぞれ邪心をいだいていた、という理由で。――そしてCが即位した。

 簡単にいってこのような状況なのである。

 
古事記によると、軍を率いて速総別王と女鳥王を追い、二人を殺したのは山部の大楯の連(ヤマベノオオタテノムラジ)だが、この男は後に、女鳥王の死体から盗んだ腕輪を自分の妻に与えたという理由で処刑されている。これも、実際は二人と接触して内情を知ってしまった大楯の連の口を封じたのではないだろうか。

この段階でも大雀の異母兄弟はまだ何人か生き残っていたはずだが、もはや大雀の支配に異を唱えられるだけの力を持った者はいなくなっていたのだろう。

記紀では、大雀(仁徳)は聖帝として賛美され、その善政を称える説話(民の家々にかまどの煙が立っていないのを見て税を免除したなど)が書かれているが、これらの話も、父の簒奪行為を正当化したい息子たちの代に作られたことを考えれば、相当に割り引いて受け取る必要がある。
 
*1:学者によって、「河内王朝」「難波王朝」などと呼んでいる。
*2:本来ならば応神を初代として数えるべきだが、混乱を避けるためここでは慣例通りの代数で示す。

[1] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.251-252
[2] 同書 P.253

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(二)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/09/20/151437

17. 中川隆[-10389] koaQ7Jey 2019年5月05日 08:36:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1702] 報告

初期の近畿天皇家では兄弟殺しの簒奪事件が続発した(その2)
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/09/21/124442

■ 履中(17代)ー> 反正(18代)

応神朝における骨肉の争いは、仁徳の息子(応神の孫)たちの世代になると、さらに激しさを増してくる。もはや、父親が同じとはいえ日常生活では疎遠な異母兄弟間の争いではない。同じ母親のもとで一緒に育った同母兄弟同士の殺し合いである。

大雀(仁徳)は正妃石之日売(イハノヒメ 紀:磐之媛)との間に、次の四人の息子を得ている。
•大江之伊耶本和気(オホエノイザホワケ 紀:大兄去来穂別)=履中(17代)
•墨江之中津(スミノエノナカツ 紀:住吉仲)
•蝮之水歯別(タジヒノミヅハワケ 紀:瑞歯別)=反正(18代)
•男浅津間若子宿禰(ヲアサヅマワクゴノスクネ 紀:雄朝津間稚子宿禰)=允恭(19代)

大雀が死ぬと、まず長男の伊耶本和気が順当にその地位を継いだ。ところが、すぐ下の弟中津が、兄の暗殺を図って宮に放火するという事件が起こる。(日本書紀では履中の即位前の事件。)

古事記 履中記:


 もと難波の宮にましましし時に、大嘗おほにへにいまして、豊の明したまふ時に、大御酒にうらげて(うかれて)、大御寝ましき。ここにその弟墨江の中つ王、天皇を取りまつらむとして、大殿に火を著つけたり。ここに倭やまとの漢あやの直あたへの祖、阿知の直、(履中を)盗み出でて、御馬に乗せまつりて、倭に幸でまさしめき。かれ多遅比野たぢひのに到りて、寤さめまして詔りたまはく、「此間ここは何処いづくぞ」と詔りたまひき。ここに阿知の直白さく、「墨江の中つ王、大殿に火を著けたまへり。かれ率ゐまつりて、倭に逃るるなり」とまをしき。

(略)

 かれ上り幸でまして、石いその上かみの神宮にましましき。

 ここにその同母弟いろせ水歯別の命、まゐ赴むきて謁さしめたまひき。ここに天皇詔りたまはく、「吾、汝が命の、もし墨江の中つ王と同じ心ならむかと疑ふ。かれ言かたらはじ」とのりたまひしかば、答へて曰さく、「僕は穢邪きたなき心なし。墨江の中つ王と同じくはあらず」と、答へ白したまひき。また詔らしめたまはく、「然らば、今還り下りて、墨江の中つ王を殺して、上り来ませ。その時に、吾かならず言はむ(打ち解けて話をしよう)」とのりたまひき。かれすなはち難波に還り下りまして、墨江の中つ王に近く習つかへまつる隼人、名は曾婆加里そばかりを欺きてのりたまはく、「もし汝、吾が言ふことに従はぼ、吾天皇となり、汝を大臣になして、天の下治らさむとおもふは那何いかに」とのりたまひき。曾婆詞里答へて白さく「命のまにま」と白しき。ここにその隼人に禄もの多さわに給ひてのりたまはく、「然らば汝の王を殺とりまつれ」とのりたまひき。ここに曾婆詞里、己が王の厠に入りませるを竊うかがひて、矛もちて刺して殺しせまつりき。

この説話も極めて疑わしい。伊耶本和気は、自分で言っているように、水歯別にも逆心があるのではないかと疑っている。当然、水歯別に自分の居所を知らせるはずはない。では、水歯別はどうやって逃げた伊耶本和気が石上神宮にいることを知ったのか。

再び、古田武彦氏の分析を聞いてみよう[1]。


 このように見てくると、反逆者逆転のルールは、むしろ権力者継承説話の常道といっていいかもしれぬ。

 (略)

 まず、“大殿に火が出た”こと、これは確かであろう。しかし、その火災が放火であり、その放火犯人が墨江中王であること、さらにその放火の意図は履中殺しにあったこと、それは果していかにして確認されたことなのであろうか。

 ともあれ、そのように、履中に告げた者がいたことは確かなようだ。それは誰か。履中が水歯別命に「犯人(兄)殺し」を命じたところから見ると、そのように告げた者もまた、水歯別命、またはその手の者であった可能性があろう。

 そして犯人(墨江中王)は首尾よく殺され、水歯別命が次の位に即いた。第十八代の反正だ。そして右の履中記の説話は、この反正のとき、作られたのだ。その説話の背後に隠された真実を誰が知ろう。知りうること、それは「反正の兄殺し」が正当化されている。その一点である。

「反逆者」墨江之中津を殺した功績により水歯別が皇太子となった(履中紀2年正月)結果、履中の息子たちは大王となる機会を失った。

ところで、曾婆詞里に中津を殺させた後、水歯別はその曾婆詞里をも殺してしまう。

古事記 履中記:


かれ曾婆詞里を率て、倭に上り幸でます時に、大坂の山口に到りて、以為おもほさく、曾婆詞里、吾がために大き功いさをあれども、既におのが君を殺せまつれるは、不義なり。然れどもその功に報いずは、信無しといふべし。既にその信を行はぼ、かへりてその情を惶かしこしとおもふ。かれその功に報ゆとも、その正身ただみを滅しなむ(本人は殺してしまおう)と思ほしき。ここをもちて曾婆詞里に詔りたまはく、「今日は此間ここに留まりて、まづ大臣の位を給ひて、明日上り幸いでまさむ」とのりたまひて、その山口に留まりて、すなはち仮宮を造りて、忽に豊の楽あかりして、その隼人に大臣の位を賜ひて、百官をして拝ましめたまふに、隼人歓喜よろこびて、志遂げぬと以為おもひき。ここにその隼人に詔りたまはく、「今日大臣と同じ盞うきの酒を飲まむとす」と詔りたまひて、共に飲む時に、面おもを隠す大鋺まりにその進たてまつれる酒を盛りき。ここに王子まづ飲みたまひて、隼人後に飲む。かれその隼人の飲む時に、大鋺、面を覆ひたり。ここに席むしろの下に置ける剣を取り出でて、その隼人が頸を斬りたまひき。

曾婆詞里は隙を突いて中津を殺せるほどその側近くに仕えていたのだから、本当に中津が履中を殺そうとしたのかどうか、よく知っていたはずである。水歯別にとっては、この男に生きていられては都合が悪かったのだろう。

「反逆者」を直接手にかけた者は殺されるというのも、権力者継承説話の常道と言っていいのかもしれない。


[1] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.273-274

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/09/21/124442

18. 中川隆[-10388] koaQ7Jey 2019年5月05日 08:38:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1703] 報告

初期の近畿天皇家では兄弟殺しの簒奪事件が続発した(その3)
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/09/26/110107

■允恭(19代)―> 安康(20代)

男浅津間若子宿禰(允恭)は、后忍坂大中津比売(オシサカノオホナカツヒメ 紀:忍坂大中姫)との間に、次の9人の子をもうけた。
•木梨之軽王(キナシノカルノミコ)
•長田大郎女(ナガタノオホイラツメ 紀:名形大娘)
•境黒日子王(サカイノクロヒコノミコ 紀:境黒彦)
•穴穗命(アナホノミコ)=安康(20代)
•軽大郎女(カルノオホイラツメ)
•八瓜之白日子王(ヤツリノシロヒコノミコ 紀:八釣白彦)
•大長谷命(オホハツセノミコ 紀:大泊瀬稚武)=雄略(21代)
•橘大郎女(タチバナノオホイラツメ 紀:但馬橘大娘)
•酒見郎女(サカミノイラツメ)

允恭の死後、長男の軽王が後継者に決まっていたが、即位する前に、彼が同母の妹軽大郎女と性的関係を持ったというスキャンダルが発生した。(当時、異母姉妹との婚姻は認められていたが、同母の場合はタブーだった。)軽王から人心が離れたのを見た弟の穴穂が挙兵。軽王は臣下の大前小前宿禰の屋敷に逃げ込むが、大前小前が裏切り、軽王を捕えて突き出してしまう。

古事記 允恭記:


 天皇崩りまして後、木梨の軽の太子、日継知らしめすに定まりて、いまだ位に即つきたまはざりし間に、その同母妹いろも軽の大郎女に姧たはけて、歌よみしたまひしく、

(略)

 ここを以ちて百ももの官つかさまた、天の下の人ども、みな軽の太子に背きて、穴穂の御子に帰よりぬ。ここに軽の太子畏みて、大前小前の宿禰の大臣の家に逃れ入りて、兵器つはものを備へ作りたまひき。(略)ここに穴穂の御子軍を興して、大前小前の宿禰の家を囲みたまひき。

(略)

 ここにその大前小前の宿禰、手を挙げ、膝を打ち、舞ひかなで、歌ひまゐ来。(略)かく歌ひまゐ帰きて、白さく、「我が天皇の御子、同母兄いろせの王に兵をな及しきたまひそ。もし兵を及きたまはぱ、かならず人咲わらはむ。僕あれ捕へて献らむ」とまをしき。かれ前小前の宿禰、その軽の太子を捕へて、率いてまゐ出て貢進たてまつりき。

捕えられた軽王は伊予の湯(道後温泉)に流され、追ってきた軽大郎女とともにそこで自死、そして穴穂(安康)が即位した。

一見不審な点はないように見えるが、古田武彦氏の分析[1]を読むと、裏が見えてくる。


 この一見明白な事件も、考えてみると、不審がある。軽太子が、その妹を愛したとしても、それをわざわざ百官や天下の人等の前に公表するだろうか。そして公表されない限り、上つ方のプライベートな事柄など、わたしたちの耳に容易にはとどきはしない。この道理は、当時も今も、変らぬところなのではあるまいか。

 では、誰がそのような権力者内部のプライベートな事柄をもたらしたのか。否、公布したのか。それはやはり穴穂御子とその手の者以外にはないのであるまいか。

「このような異常事態に黙しがたく、挙兵した」――説話はそのように語っている。しかし、事実は逆だったのではあるまいか。すなわち、穴穂御子は挙兵のための大義名分として、兄の太子を不名誉の人、王者にふさわしからぬ人としての汚名を公布させた。その必要があったのだ。

 少なくとも、そのような汚名を負わせることなしには、すでに允恭が没し、即位寸前にあった軽太子を急遽追い落し、一気に情勢を逆転せしめることは不可能だったのではあるまいか。

 穴穂御子の挙兵の中で、軽太子は逮捕された。伊予に流され、そこで自殺した。

 代って穴穂御子が即位し、安康(第二十代)となった。その治世の中で、右の不名誉な悲劇は作られたのである。

 ここでも、汚名の証拠は、軽太子の歌にあるとされている。彼はこんなに不謹慎な歌を作った。だからわたし(当代の王者)は挙兵せざるをえなかった。――こういう弁明だ。だが、彼が本当にそんな歌を作ったかどうか、一般の下々の者は、公布されてそれを信じるよりほかに方法はないのであった。そして歌は、説話の中でも、すぐれて人々の口から口へ、それこそ人口に膾炙させやすいものだった。

 もちろん、現代の人々が『古事記』を文学として愛することはよかろう。それがその人の関心のもち方、その角度であったとすれば、他から文句のいわれるべき筋合いはない。しかし、その成立の当時においては、現統治者の反逆行為の正当化という、すぐれて高度の政治的な目的をもって公布されたものなのであった。わたしにはそのように思われる。

ちなみに、日本書紀ではこの話は微妙にストーリーが異なる。こちらでは允恭24年の時点で軽王と妹との関係が父親(允恭)にバレている。しかし、父は既に皇太子となっていた軽王を処罰しなかった。そして允恭の死後(允恭42年)になって、「太子、暴虐あらくさかしまなるわざ行して、婦女に淫たはけたまふ。」という理由で人心が穴穂に移り、焦った軽王が軍を起こして穴穂を殺そうとした結果、返り討ちにあった(おなじみの謀殺疑惑パターン)とされている。

「太子行暴虐、淫于婦女」は軽王と軽大郎女の関係を指すと解釈されている[2]が、こちらのストーリーでも、20年近く前に起きた親子間のプライベートな事柄をわざわざ流布したのは穴穂だろう。しかも、父親は既に死んでおり、仮に事実無根だとしても流された側には「なかったこと」を証明しようがないスキャンダルである。

今さら言うまでもないが、これらの説話も、後にこれらの説話を取り入れて書かれた『古事記』『日本書紀』も、文学作品でもなければ公平中立な事実の記録でもない。個々の説話はその説話を公布する現権力者による権力掌握の正当性、『古事記』『日本書紀』等の史書は大和朝廷による支配の正当性を主張するために作られた、政治的プロパガンダのための「作品」なのである。

[1] 古田武彦 『古代は輝いていた 2』 朝日新聞社 1985年 P.275-276

[2] 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(二)』 岩波文庫 1994年 P.329, 331

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/09/26/110107

19. 中川隆[-10387] koaQ7Jey 2019年5月05日 08:39:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1704] 報告

初期の近畿天皇家では兄弟殺しの簒奪事件が続発した(その4)
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/09/27/202349

■安康(20代)―> 雄略(21代)

セックススキャンダルで兄の木梨之軽王を葬って大王となった穴穂(安康)だが、この男はその後、あっさり殺されてしまう。古事記の説話の中でも特に印象深いものの一つ、「目弱まよわ王の変」である。

前回も書いたが、男浅津間若子宿禰(允恭)を父、忍坂大中津比売を母とする兄弟姉妹は、穴穂を含め9人いた。
•木梨之軽王(キナシノカルノミコ)
•長田大郎女(ナガタノオホイラツメ 紀:名形大娘)
•境黒日子王(サカイノクロヒコノミコ 紀:境黒彦)
•穴穗命(アナホノミコ)=安康(20代)
•軽大郎女(カルノオホイラツメ)
•八瓜之白日子王(ヤツリノシロヒコノミコ 紀:八釣白彦)
•大長谷命(オホハツセノミコ 紀:大泊瀬稚武)=雄略(21代)
•橘大郎女(タチバナノオホイラツメ 紀:但馬橘大娘)
•酒見郎女(サカミノイラツメ)

穴穂が即位した時点で軽王と軽大郎女は死に追いやられており、残りは7名である。

即位した穴穂(安康)は、まず大雀(仁徳)の子の一人だった大日下王(オホクサカノミコ 紀:大草香)を殺してしまう。

古事記 安康記:


 天皇、同母弟いろせ大長谷王子のために、坂本臣等が祖根臣ねのおみを、大日下王のもとに遣して、詔らしめたまひしくは、「汝が命の妹若日下わかくさか王を、大長谷王子に婚あはせむとす。かれ貢るべし」とのりたまひき。ここに大日下王四たび拝みて白さく、「けだしかかる大命おほみこともあらむと疑おそりて、かれ、外にも出さずて置きつ。こは恐かしこし。大命のまにまに奉進たてまつらむ」とまをしたまひき。然れども言こともちて白す(言葉だけで返答する)事は、それ礼ゐやなしと思ひて、すなはちその妹の礼物ゐやしろ(礼儀を表す贈り物)として、押木の玉縵たまかづらを(根臣に)持たしめて、貢献たてまつりき。根臣すなはちその礼物の玉縵を盗み取りて、大日下王を讒よこしまつりて(讒言して)曰さく、「大日下王は勅命を受けたまはずて、おのが妹や、等し族うがら(同格の相手)の下席したむしろにならむ(使い女にさせるものか)といひて、横刀たちの手上たがみ取りて、怒りましつ」とまをしき。かれ天皇いたく怨みまして、大日下王を殺して、その王の嫡妻むかひめ長田大郎女*1を取り持ち来て、皇后としたまひき。

この説話で明らかにおかしいのが末尾の部分だ。臣下の虚言を信じて大日下を殺してしまったというお粗末はともかく、大日下の妹を弟の妻にしようとしてのいざこざの結果、なぜ殺した大日下の妻を「取り持ち来て」自分の妻にする必要があるのか。古田武彦氏はこう分析する[1]。


 むしろ、次のように考えてみよう。安康の真の目的は、はじめから「大日下王の妻を得る」ことにあったと。こう考えると、一種の混乱と矛盾に満ちたこの説話も、一転して、その筋がハッキリと見えてくる。つまり、安康は、大日下王の妻の長田大郎女に執心した。その目的をとげるため、ことにかこつけて大日下王を殺してしまった。こういうことだ。

 根臣の虚言問題は、この大日下王殺しが、安康の責任ではなく、根臣のふらちにあやまられたせいだ、そのように告げたいための作り物の話だ。

 安康記は、兄の安康の仇を討つことを大義名分として挙兵した雄略(第21代)、およびその子(清寧、第22代)の頃作られた。――そのような立場に立てば以上の経緯はきわめて分りやすい。


この、殺された大日下王と長田大郎女との間の子が目弱王である。説話では、当時まだ7歳だった目弱王が安康を殺している。


 これより後に、天皇神牀かむとこにましまして、昼寝したまひき。ここにその后に語らひて、「汝いまし思ほすことありや」とのりたまひければ、答へて白さく「天皇おほきみの敦あつき沢めぐみを被りて、何か思ふことあらむ」とまをしたまひき。ここにその大后の先の子目弱王、これ年七歳になりしが、この王、その時に当りて、その殿の下に遊べり。ここに天皇、その少わかき王の殿の下に遊べることを知らしめさずて、大后に詔りたまはく、「吾は恒つねに思ほすことあり。何ぞといへぼ、汝の子目弱王、人と成りたらむ時(成長したとき)、吾がその父王を殺せしことを知らぱ、還りて邪きたなき心あらむか(自分を憎むのではないか)」とのりたまひき。ここにその殿の下に遊べる目弱王、この言を聞き取りて、すなはち竊ひそかに天皇の御寝ませるを伺ひて、その傍かたへなる大刀を取りて、その天皇の頸を打ち斬りまつりて、都夫良つぶら意富美おほみ(大臣)が家に逃れ入りましき。

そして、安康が殺されたことを知った大長谷(雄略)が挙兵して目弱王を殺すのだが、この男は「仇」である目弱王だけでなく、自分の二人の兄、黒日子・白日子まで殺してしまう。しかも、殺した理由は滅茶苦茶としか言いようがない。ちなみに、安康は子を残さずに死んだため、この二人も次の大王となりうる候補者だったはずである。


 ここに大長谷王、当時童男をぐな(少年)にましけるが、すなはちこの事を聞かして、慷愾うれたみ(嘆き)忿怒いかりまして、その兄黒日子王のもとに到りて、「人ありて天皇を取りまつれり。いかにかもせむ(どうしましょう)」とまをしたまひき。然れどもその黒日子王、驚かずて、怠緩おほろかにおもほせり(なおざりな態度だった)。ここに大長谷の王、その兄を罵のりて、「一つには天皇にまし、一つには兄弟にますを、何ぞは恃たのもしき心もなく、その兄を殺りまつれることを聞きつつ、驚きもせずて、怠にませる」といひて、その衿を握りて控ひき出でて、刀を抜きて打ち殺したまひき。またその兄白日子の王に到りまして、状ありさまを告げまをしたまひしに、前のごと緩おほろかに思ほししかぱ、黒日子王のごと、すなはちその衿を握りて、引き率ゐて、小治田おはりだに来到きたりて、穴を掘りて、立ちながらに埋みしかぱ、腰を埋む時に到りて、両つの目、走り抜けて死うせたまひき。

 また軍を興して、都夫良意美が家を囲みたまひき。ここに軍を興して待ち戦ひて、射出づる矢葦の如く来散りき。(略)ここに都夫良意美、この詔命おほみことを聞きて、みづからまゐ出て、凧ける兵つはもの(武装)を解きて、八度拝みて、白しつらくは、「(略)往古むかしより今時いまに至るまで、臣連(臣下)の、王の宮に隠ることは聞けど、王子みこの臣の家に隠りませることはいまだ聞かず。ここを以ちて思ふに、賎奴やっこ意富美は、力を竭つくして戦ふとも、更にえ勝つましじ(勝てないだろう)。然れどもおのれを恃たのみて、陋いやしき家に入りませる王子は、死ぬとも棄てまつらじ」とかく白して、またその兵を取りて、還り入りて戦ひき。

 ここに力窮まり、矢も尽きしかば、その王子に白さく、「僕は手悉いたで傷おひぬ。矢も尽きぬ。今はえ戦はじ。如何にせむ」とまをししかぱ、その王子答へて詔りたまはく、「然らば更にせむ術すべなし。今は吾を殺しせよ」とのりたまひき。かれ刀もちてその王子を刺し殺せまつりて、すなはちおのが頚を切りて死にき。

以下が古田武彦氏による謎解きである[2]。


 (二)問題の目弱王の乱。生き生きと語られ、一読、印象鮮明な、否、一度聞いたら忘れられぬ話だ。だが、考えてみると不審だらけだ。

 第一、この安康の昼寝語りを誰がこの語り手に伝えたのだろう。語った安康は、殺されてしまった。御殿の下で聞いた目弱王も、死んでしまった。では、母の長田大郎女だろうか。彼女の行方は、説話では語られていない。しかし、母親が子供の犯行の背景を、とくとくと他に語るものだろうか。

 第二、それ以上に、肝心の目弱王の犯行、それ自身本当だろうか。一体、それを誰が見たのか。殺した者も、殺された者も、すでにいない。そしてその犯行は、二人以外に誰もいないところで行われたはずなのだ。

 要するに、別個の誰かが、そう判断し、その判断を噂として流布させた。そういう流布させた誰かがいたこと、これは疑えない。それが真相かどうか、誰もすでに知りえないのである。

(略)

以上の矛盾と不審、これを解くために、ことの筋道を順序立てて列記してみよう。

 (一)安康はある日、誰かに殺された。

 (二)それは「あの目弱王に殺されたのだ」という噂が誰かによって流された。

 (三)目弱王は、危険を感じ、守り手(乳母の家などか)の都夫良意美の家へ逃れた(もちろん、王の側近者の導きによるものであろう)。

 (四)大長谷王(雄略)は「兄の安康天皇の仇を討つため」という大義名分をかかげて挙兵した。

 (五)しかし、二人の兄(黒日子王・白日子王)はそれに同調しなかった。

 (六)大長谷王はまず、この二人の兄を殺してしまった。

 (七)次いで、大長谷王は、都夫良意美の家を囲み、目弱王と共に、これを斃った。

 (八)そのあと、大長谷王は王位(天皇位)に即位した。雄略(第21代)である。

 (九)その雄略(もしくは第22代清寧)の治世に、先にあげた形の説話が作られ、公布された。

 リアルな事実の進行は以上のようであったとわたしには思われる。一連の異常事の成果を手にした者、それが雄略天皇その人であったこと、それを疑うことは誰人にもできないのではあるまいか。

大長谷(雄略)が即位した時点では、かつて9人いた兄弟姉妹はもう4人しかいなくなっていた。しかも、生き残った男子は大長谷ただ一人である。
•木梨之軽王(キナシノカルノミコ)
•長田大郎女(ナガタノオホイラツメ 紀:名形大娘)
•境黒日子王(サカイノクロヒコノミコ 紀:境黒彦)
•穴穗命(アナホノミコ)=安康(20代)
•軽大郎女(カルノオホイラツメ)
•八瓜之白日子王(ヤツリノシロヒコノミコ 紀:八釣白彦)
•大長谷命(オホハツセノミコ 紀:大泊瀬稚武)=雄略(21代)
•橘大郎女(タチバナノオホイラツメ 紀:但馬橘大娘)
•酒見郎女(サカミノイラツメ)

その後の経緯を簡単にまとめると、雄略の後は順当に息子の清寧(22代)が継いだが、清寧には子がなかった。そこで、以前雄略が(またしても)殺してしまった市辺忍歯王(イチノベノオシハノミコ)の遺児である顕宗(23代)と仁賢(24代)を迎え、この二人が順に大王となった。ちなみに、市辺忍歯は履中(17代)の長子であり、墨江之中津の「反逆」事件がなければ恐らく大王となっていたはずの人物である。

仁賢の息子が武烈(25代)で、この武烈にも子がなく、武烈が死ぬと、三国(福井県)から進出してきた大豪族袁本杼(オホド:継体)に国を奪われてしまう。

こうして、応神から始まった王朝は、肉親間の殺し合いを繰り返したあげく、11代で滅んだ。大王の代数としては11代だが、世代数で数えると7代である。継続年数はざっと200年といったところか。

*1:履中の娘の一人と思われる。同名の穴穂の姉とは別人。

[1] 古田武彦 『古代は輝いていた 2』 朝日新聞社 1985年 P.282

[2] 同 P.282-283

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/09/27/202349

20. 中川隆[-10386] koaQ7Jey 2019年5月05日 08:40:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1705] 報告

天皇家の代替わりは、いきなり兄殺しによる地位簒奪から始まった
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/08/30/214703

近畿天皇家の初代神武に続く2代目綏靖から9代目開化までの8代は、古事記・日本書紀に系譜が書かれているだけで事蹟(説話)を欠いているため、「欠史八代」と呼ばれている。

しかし、一つだけ例外がある。綏靖による兄殺しの物語である。

神武は、まだ九州にいた頃、妃として阿比良比売(アヒラヒメ)を娶っており、二人の息子を得ている。その長男が当芸志美美(タギシミミ 紀:手研耳)である。

古事記 神武記:


かれ日向にましましし時に、阿多あたの小椅をばしの君が妹、名は阿比良比売あひらひめに娶ひて、生みませる子、多芸志美美たぎしみみの命、次に岐須美美きすみみの命、二柱ませり。


一方、綏靖(神沼河耳)の母は、神武が大和に侵入してから娶った三輪山付近の豪族の娘、伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)である。


 かれその嬢子をとめ、「仕へまつらむ」とまをしき。ここにその伊須気余理比売の命の家は、狭井河の上にあり。天皇、その伊須気余理比売のもとに幸行いでまして、一宿ひとよ御寝みねしたまひき。
(略)
 然して生れませる御子の名は、日子八井ひこやゐの命、次に神八井耳かむやゐみみの命、次に神沼河耳かむぬなかはみみの命。三柱。


古事記によると、神武の死後、当芸志美美は神武の妻(綏靖の母)である伊須気余理比売を娶ったという。これは、当芸志美美が神武の後継者としてそのすべての権力と財産を受け継いだことを示している[1]。


 かれ天皇崩かむあがりまして後に、その庶兄まませ当芸志美美の命、その適后おほきさき伊須気余理比売に娶へる時に、その三柱の弟たちを殺せむとして、謀るほどに、その御祖みおや伊須気余理比売、患苦うれへまして、歌もちてその御子たちに知らしめむとして歌よみしたまひしく、
   狭井河よ 雲起ちわたり
   畝火山 木の葉さやぎぬ。
   風吹かむとす。

日本書紀には当芸志美美が伊須気余理比売を娶ったとは書かれていない。その代わり、神武の存命中から当芸志美美が実質的に政務を取り仕切っており、父が死ぬと、名実ともに一族のトップとなったことが示されている。

日本書紀 綏靖紀:


(綏靖)四十八歳に至りて、神日本磐余彦天皇(神武)崩かむあがりましぬ。(略)其の庶兄いろね手研耳たぎしみみ命、行年とし巳長おいて、久しく朝機を歴たり。故亦、事を委ゆだにて親みづからせしむ。(略)遂に以て諒闇(神武死去)の際に、威福いきほひ自由ほしきままなり。禍心を苞かね蔵かくして、二の弟を害そこなはむことを図る。時に、太歳己卯。


説話では、当芸志美美の害意を悟った神沼河耳(綏靖)と兄の神八井耳が当芸志美美を殺そうとしたが、兄は「手足わななきて」殺すことができず、綏靖が兄の手から武器を取って当芸志美美を殺害、兄は恥じて弟に位を譲り、綏靖が第二代として即位した、となっている。

実際には、既に神武の後を継いでいた当芸志美美を綏靖が殺してその地位を簒奪したのである[2]。


 これが神武記の語るところ。この神武記が、次代の綏靖のとき作られたこと、それがここによくしめされている。なぜなら、真の第二代は、当芸志美美命だったはずだ。父の若き妻を己が新しき妻とする、それを宣言するということは、彼がまさに正当な継承者であることの布告であったはずだからである。

(略)

 ところが、当然当芸志美美記は作られず、反逆者として神武記の末尾に加えられた。そして不幸な運命の中におかれた伊須気余理比売を嫡后と書いている。第二代の綏靖を嫡后の子とするためである。

 すなわち、史上の事実としては、綏靖の反逆、それが(それゆえにこそ)逆に当芸志美美命の反逆として説話化され、伝承せしめられたのである。綏靖の直系が正当な神武の継承者であること、それを勢力圏内に公知させようとしたのである。


これは一族内部での争いであるから王朝交代とは言えない(そもそも当時の天皇家は大和盆地内に割拠する豪族の一つに過ぎなかったから「王朝」などではない)が、綏靖の兄殺しは、近畿天皇家内でも諸外国の「普通の」王朝同様、権力をめぐる骨肉の争いが繰り広げられていたことを示す典型的なエピソードと言える。また、この手の簒奪事件はこれだけではない。仁徳(16代)、反正(18代)、安康(20代)、雄略(21代)も、似たようなことをやらかした疑いが強いのである[3]。

[1] 古田武彦 『盗まれた神話』 朝日文庫 1994年 P.324-329
[2] 古田武彦 『古代は輝いていた2』 朝日新聞社 1985年 P.273
[3] 同書 P.271-284

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/08/30/214703

21. 中川隆[-10385] koaQ7Jey 2019年5月05日 08:41:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1706] 報告

「神功皇后の三韓征伐」という大嘘
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/09/204858


仲哀(14代)から応神(15代)への代替わりが、単なる代替わりではなく王朝交代であったことについては既に説明した。このとき、仲哀の九州遠征に同行せず大和に残っていた息子たちを滅ぼして権力を奪ったのが、神功皇后こと息長帯日売(オキナガタラシヒメ)と建内宿禰(タケシウチノスクネ)である。

そして神功皇后といえば、いわゆる「三韓征伐」が必ずセットとなって語られる。

この「三韓征伐」とは実際にはどんな事件だったのか。まず、古事記の記述を見てみよう。


 かれつぶさに教へ覚したまへる如くに、軍を整へ、船双なめて、度り幸でます時に、海原の魚ども、大きも小きも、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風おひかぜいたく起り、御船浪のまにまにゆきつ。かれその御船の波瀾なみ、新羅の国に押し騰あがりて、既に国半なからまで到りき。ここにその国王、畏おぢ惶かしこみて奏まをして言まをさく、「今よ後、天皇の命のまにまに、御馬甘みまかひとして、年の毎に船双めて船腹乾さず、棹楫さをかぢ乾さず、天地のむた、退しぞきなく仕へまつらむ」とまをしき。かれここを以ちて、新羅の国をぱ、御馬甘と定めたまひ、百済の国をぱ、渡わたの屯家みやけと定めたまひき。ここにその御杖を新羅の国主の門に衝き立てたまひ、すなはち墨江すみのえの大神の荒御魂あらみたまを、国守ります神と祭り鎮めて還り渡りたまひき。

しかし、これは果たして「征伐」などと呼べるものだろうか。神功が軍船を整えて新羅に行ったら、一戦も交えることなく、向こうが勝手に恐れをなして降伏してしまったというのだ。(日本書紀にもほぼ同じ内容の説話が記されているが、こちらは新羅だけでなく、接触すらしていない高句麗と百済まで降伏してしまったことになっている。)こんなことはあり得ない。

いや、実際この後、新羅は日本に朝貢しているではないか、と言う人がいるかもしれない。しかし、記紀に朝貢記事があるからといって、それが服属の証拠にはならないのだ。古田武彦氏が次のように指摘している[1]。


わたしは『記・紀』を見る場合、つぎの二つの原則を大前提とする。

(1) 『記・紀』は、天皇家中心の「大義名分」に貫かれた本である。

(2) したがって『記・紀』は古来の伝承に対して、天皇家に「有利」に改削・新加(新しく付加)することはあっても、「不利」に加削することはない。

まず、(1)について説明しよう。

すでに前の本で詳しくのべたように、“天皇家は永遠の昔から、この日本列島の中心の存在だったのだ”という「大義名分」が『記・紀』を貫いている。それは「歴史事実の実証」以前の、いわば「観念」としての大前提なのである。それは国内問題だけではない。たとえば、


  冬十月に、呉国、高麗国、並に朝貢す。    〈仁徳紀五十八年〉

  夏四月に、呉国、使を遣して貢献す。      〈雄略紀六年〉


とあるように、中国(や高麗)との通交さえ、あちらが日本の天皇家に臣従し、朝貢してきたように書いてあるのだ。だから、これは「朝貢」の事実を示す記事ではない。『記・紀』の大義名分に立った筆法なのである。

中国の皇帝が「東夷」の蛮族と見なしていた日本に朝貢してくるはずがないことは、常識として理解できるだろう。

つまり、記紀の「三韓征伐」記事が示しているのは、神功が新羅を訪問して王と交渉し、このときから近畿天皇家と新羅との間の国交が始まった、という出来事なのだ。これは新羅との国交開始に関する説話なのである[2]。新羅王が服従を誓ったとか、新羅の国を「御馬甘」に定めたとかいうのは、魚たちが神功の船を背負って海を渡った、船が波に乗って新羅の中央部まで押し上がった、などと書いてあるのと同じ、何も知らない国内人民向けのほら話に過ぎない。

しかし、ではなぜ、新羅との国交が必要だったのか?

ここで、そもそも神功と建内は、仲哀の熊襲征伐に従って九州まで来ていたことを思い出していただきたい。仲哀をうまく始末したのはいいが、次は大和に戻って仲哀の息子たちを討ち滅ぼさなければ自分たちに未来はない。しかし、まだ熊襲との戦争は続いているのだ。こちらの事情が変わったからといって、簡単に敵に背を向けて帰るわけにはいかない。追撃を避けるには、熊襲との和平、最低でも休戦が必要だ。

日本書紀では、神功を通じて仲哀に新羅征伐を勧めた「神」は、次のように語っている。


時に、神有まして、皇后に託かかりて誨おしへまつりて曰はく、「天皇、何ぞ熊襲の服まつろはざることを憂へたまふ。是これ、膂宍そししの空国むなくにぞ。豈あに、兵を挙げて伐つに足らむや。玆この国に愈まさりて宝有る国、警たとへば処女をとめの睩まよびきの如くにして、津に向へる国有り。眼炎まかかやく金・銀・彩色、多さはに其の国に在り。是を衾たくぶすま新羅国しらきのくにと謂いふ。若もし能よく吾を祭りたまはば、曾かつて刃に血ちぬらずして、其の国必ず自おのづから服まつろひしたがひなむ。復また、熊襲も為服まつろひなむ。

自分を良く祭れば新羅は従い、また熊襲も自ら従うだろう、と言っているのだ。この両者の間には何らかの強い結びつきがあり、新羅との友好は熊襲との関係改善にもつながることを示唆している。

だから神功は、熊襲との戦争状態を終わらせて大和での権力奪取に集中するため、熊襲のバックに控えている新羅との友好関係を確立しようと海を渡ったのである。それは、「征伐」とは正反対の、友好を求める外交交渉だったのだ。

[1] 古田武彦 『盗まれた神話』 朝日文庫 1994年 P.63-64
[2] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.131

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(二)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/09/204858

22. 中川隆[-10384] koaQ7Jey 2019年5月05日 08:46:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1707] 報告

仲哀といえばヤマトタケル
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/231931

関連記事: 仲哀→応神も王朝交代
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313

息長帯日売と建内宿禰に謀殺されて血脈を絶たれてしまった可哀想な仲哀天皇。この人、実はヤマトタケル(古事記では倭建命、日本書紀では日本武尊と表記)の息子である。

ヤマトタケルは日本神話最大のヒーローと言ってもいい存在だが、彼を主人公とした創作物の中で、私が個人的に最高傑作だと思っているのが

ゆうきまさみの『ヤマトタケルの冒険』だ。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%86%E3%81%86%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%BF%E5%88%9D%E6%9C%9F%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86-early-days-1-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4048542397

このマンガ、冒頭の扉にいきなり「(注)とてもインモラルなマンガです。親の目のとどかないところで読みましょう」と書いてあるくらいアブない内容(笑)なのだが、古事記と読み比べてみるとわかるように、意外なほど原典に忠実に描かれている。余計なストーリーを付け加えたり、勝手な空想で登場人物の過去を創作したりしていない。何より、もともとの物語の持つ哀切な悲劇性を、お涙頂戴にならずに描き切っているところが良い。

そして、改めて読み返してみて気がついたのだが、小碓の命(ヲウスノミコト=ヤマトタケル)の死後を描いたエピローグの末尾に、ゆうきはこう書いている。


ヲウスの死と相前後して、ヤマトの国内ではオオウス(注:疫病)が猛威をふるい、大王の重臣たちがバタバタと倒れた後、翌年大王が倒れ、ワカタラシヒコが大王の座を継いだ。

が、ワカタラシヒコも短命におわり、後継にはヲウスの子供の一人である、タラシナカツヒコ(=仲哀)が指名された。この大王にいたっては、その一生を対クマソ戦の中で後継者もないまま終わってしまい、血筋はついに絶えた。

まことに悲劇の一家というほかない――

さすがはゆうきまさみ、記紀では暗殺したクマソタケルから「献上」されたことになっている「ヤマトタケル」の名を、「下賜」された形で描いていることもそうだが、ちゃんと見抜いている。

ぜひ一度読んでいただきたい作品である。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/231931

23. 中川隆[-10383] koaQ7Jey 2019年5月05日 08:52:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1708] 報告

日本はなぜ「万世一系」を必要としたか
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878


歴代天皇のいわゆる「万世一系」について、真に問わなければならない問題とは何か?

それは、「万世一系」の定義とか、それは事実かどうか、といったことではなく、なぜ天皇は「万世一系」ということになっていなければならないのか、そもそもなぜそんなものが必要だったのか、という問題だと私は考えている。

「万世一系」の天皇を戴く大和民族の一員であることにしか自尊感情の源泉を見いだせないある種の人々(「特定日本人」とでも呼ぶべきか?w)は、幾多の王朝が興亡を繰り返した中国と比較することで自国の優位性を言いたがる。

なので、ここでも中国との比較を通してこの問題を考えてみることにしよう。

■ 疑問1

前回の記事では、武烈―継体間の王統断絶を取り上げた。ここで、日本書紀は、前王朝最後の王武烈を、悪逆非道の暴君として描き出している。


武烈2年: 妊婦の腹を割いて胎児を見た。

武烈3年: 人の生爪を抜き、その手で芋を掘らせた。

武烈4年: 人の頭髪を抜き、木の頂に登らせ、その木を切り倒して、

      登らせた者が落ちて死ぬのを楽しんだ。

武烈5年: 人を池の水を流す樋に伏せ入らせ、外に流れ出てきたところを

      三叉の矛で刺し殺して楽しんだ。

武烈7年: 人を木に登らせておき、弓で射落として笑った。

武烈8年: 女を裸にして板の上に据え、馬を引いてきて交尾させた。

      そして女の性器が濡れていれば殺し、濡れていなければ官婢とした。

これとよく似た例が、中国の史書にも見られる。有名なのは殷に亡ぼされた夏王朝最後の王「桀」、そして周に亡ぼされた殷王朝最後の王「紂」に関する暴虐記事だろう。

『史記』夏本紀34:


桀、徳に務めずして百姓を武傷す。百姓堪えず。

『史記』殷本紀29-30:


(紂は)酒を好み淫を楽しみ、婦人を嬖(へい)す。

妲己(だっき)を愛し、妲己の言に是れ従ふ。

賦税(ふぜい)を厚くして以て鹿台(ろくだい)の銭を実たし、而して鉅橋(きょきょう)の粟(あわ)を盈(み)つ。

(人々を)大いに最(あつ)め沙丘に楽戯す。

酒を以て池と為し、肉を懸けて林と為し、男女をして裸(ら)し其の間に相ひ逐(お)はしめ、長夜の飲を為す。


武烈紀の暴虐記事は、これら中国の先例に倣ったものと思われる。

こうした記事の内容が本当だったのかどうか、それは分からない。しかし、確実に言えるのは、前王朝に取って代わった新権力者にとって、先王の暴虐を宣伝するのは、自らの権力奪取の正当性を主張する上で大変役に立つ、ということだ。

殷の湯王や周の武王と、継体はよく似た立場にいたといえる。ではなぜ、湯王や武王が堂々と新王朝の樹立を宣言したのに対して、継体はあたかも穏当に武烈の後を継いだかのように振舞ったのだろうか?

別の言い方をすれば、継体から始まる新王朝の正史である日本書紀は、なぜ継体を自王朝の始祖として描かず、神武以来の王朝がそのまま継続したかのように描いているのだろうか?

■ 疑問2

武王が樹立した周王朝は、その後しだいに衰退し、やがて形式的な権威を担うだけの有名無実の存在となっていった。鎌倉時代以降、実質的権力を失い、衰退していった京都朝廷とよく似ている。

両者の違いは、周王朝が数百年続いた後、最終的に秦に滅ぼされたのに対して、京都朝廷は曲がりなりにも近代に至るまで存続したことだ。

何がこの両者の運命を分けたのだろうか?

■ 答え

周王朝を廃した秦の始皇帝は、泰山で「封禅の儀」を行い、天と地を祭って、中国全土を統治する皇帝としての自らの権威を誇示した。

この例が示すように、古来中国には「天」の思想がある。そもそも王や皇帝とは、天の命令(天命)を受けて、「天子」として天下を統治するものなのだ。

だから、皇帝が徳を失い、天子にふさわしい存在でなくなれば、他の者が代わって天命を受け、新たな天子となることができる。桀のように、「徳に務めず」民を虐待するような権力者は、倒されても仕方がないとされるのだ。

これが、天命が革(あらたま)ること、すなわち「革命」である。

一方の日本はどうだろうか。

日本には、権力の正当性を主張するための基準となる、このような普遍的原理がない。記紀神話を通して見ても、地上の権力者にその権力の正統性を与える根拠は、天照大神が自らの孫ニニギに対して言ったという言葉、


葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是(これ)、吾が子孫の王たるべき地なり。爾(いまし)皇孫、就(い)でまして治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)り無けむ。

―いわゆる「天壌無窮の神勅」(日本書紀 神代下 第九段)―しかない。

ちなみにこの「神勅」、いかに荘重な漢文調で飾って見せたところで、中身を見れば、自分の子孫だけが可愛いという身内びいきの塊みたいなものであって、そこには普遍性のカケラもない。

このように、権力の正統性を支える普遍的原理がなく、頼れる権威が天照の子孫とされる一族の血筋だけとなれば、どうしても天皇には(内実はどうあれ)「万世一系」でいてもらわなければならないことになる。

この国で新興の実力者が権力の頂点に立つには、継体のように王朝内での順当な継承を偽装するか、そうでなければ天皇から権力の行使を委託される(例えば「征夷大将軍」として)という形式を取るしかなかった。だから、天皇家はいくら落ちぶれても、とりあえず権威を示すそれらしい儀式を行える程度の状態で存続を許された、というよりむしろ、存続させられてきたのである。

結論。天皇が「万世一系」ということになっているのは、日本には権力の正統性を支える基盤としての普遍的原理がなく、権威として頼れるものが神の子孫だという天皇家の血筋しかなかったからである。


※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』(岩波文庫 1994年)による。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878

24. 中川隆[-10380] koaQ7Jey 2019年5月06日 13:43:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1714] 報告

『フランスの王位継承ルール』

フランスは、ヨーロッパ最古で最長の王国を誇った。

 フランス王国は、428年の創設以来ほぼ1420年間、1848年に王制が廃止されるまで、嫡出の男子(正式の王妃から生まれた男子)による王位継承のルールを一貫した。

フランク族のサリー支族のサリカ法が、女性に不動産の相続を認めず、従って、女王も女系継承も認めなかったことに由来する、重みのある伝統・習慣であった。

王位を継承すべき嫡出の男子がないと、その都度系図を何代もさかのぼり、最も近い傍系の子孫たる嫡出の男子に王位を継承させた。

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『フランスの王位継承ルール』
2012年 4月15日 日本国際フォーラム副理事長 平林 博
https://www.jfir.or.jp/j/article/hirabayashi/120415.html

 皇位継承のあり方特に「女性宮家」創設の是非について、徐々に議論が沸騰し始めた。天皇制の維持のために皇位継承権を持つ皇族の数を十分に確保することが命題である。そのために、女性皇族が民間人と結婚しても降嫁せずに「女性宮家」を創設することを新たに認めるか、あるいは、男子継承の原則を守り、例外的にのみ男系女性天皇を認めるという古来の伝統を尊重するか、大きく言えば二つの見解に分かれる。
 そこで、かつてのフランス王家の王位継承の原則と実践ぶりを紹介してみたい。ただし、これは、国情の異なるかつてのフランス王国の王位継承原則を、現在の日本の天皇制に適用すべしとするものではないことを断っておきたい。
 フランスは、ヨーロッパ最古で最長の王国を誇った。傑出した国王も出た。第4代クローヴィス(在位481−511年)はフランスの基礎を築き、第19代シャルルマーニュ(大帝、独語読みではカール大帝、在位768−814年)は西ヨーロッパを統一してローマ法王からローマ皇帝の称号を受け、第63代ルイ14世(太陽王、在位1643−1715年)は、ヨーロッパに君臨した。
 フランス王国は、428年の創設以来ほぼ1420年間、1848年に王制が廃止されるまで、嫡出の男子(正式の王妃から生まれた男子)による王位継承のルールを一貫した。フランク族のサリー支族のサリカ法が、女性に不動産の相続を認めず、従って、女王も女系継承も認めなかったことに由来する、重みのある伝統・習慣であった。
 また、多くの国王が愛妾を抱え、子を産ませたが、彼女たちの子(庶子)は男子であっても王位継承権は認められなかった。
 これは、王位継承を巡って王妃と愛妾、嫡出の男子と庶子の男子が争って、王制を揺るがすこと回避する知恵であったと思われる。愛妾の中には、単なる愛人以上の公認の愛妾(Maitresse Royale)と呼ばれた愛妾もいた。例えば、ジャンヌダルクが王位継承に押し上げたシャルル7世の愛妾アニェス・ソレル夫人は、その第1号である。ルイ14世の愛妾マントノン夫人、ルイ15世の愛妾ポンパドール夫人は特に有名である。ルイ14世の王妃マリー・テレーズが亡くなった後、愛妾マントノン夫人は事実上の王妃として扱われた。しかし、公認の愛妾といえども、国王の母になる資格はなかった。
 王位を継承すべき嫡出の男子がないと、その都度系図を何代もさかのぼり、最も近い傍系の子孫たる嫡出の男子に王位を継承させた。

 フランスの王朝は、ゲルマン民族の1派であるフランク族が現在のベルギー南部からフランス北部に進出し、紀元428年にクロディオンがメロヴィンガ王朝を興したことに始まる。
 第4代国王クローヴィスは当時勢いを増しつつあったキリスト教に帰依し、それを利用しながらフランスの基礎をつくった。メロヴィンガ王朝、次のカロリンガ王朝、さらにカペー王朝の三王朝は、血統的には別である。その後のヴァロワ王朝次いでブルボン王朝は、カペー王朝から続く血統であり、1848年革命によって第69代国王ルイ・フィリップが廃位されるまで続いた。
 メロヴィンガ王朝の最後の王たちが弱体化すると、世襲的に宰相(宮宰)の地位を継いできた家が小ペパンの代になった752年、ついに同王朝最後の王を廃し、カロリンガ王朝を打ち立てた。
 カロリンガ王朝は、二代目のシャルルマーニュ大帝の時代に頂点を迎えたが、その死後は3王国に分裂し、一つがフランス王家を継承した。987年、カロリンガ王朝最後の王が亡くなると、重臣達はパリ北方のサンリスに集まり、互選によって、ユーグ・カペーを第33代国王に戴いた。ユーグ・カペーは、遠くシャルルマーニュ大帝から女系の血をひいていたが、サリカ法からすると自動的には王位を継承できないのであった。
 カペー王朝は、1328年、第47代シャルル4世が死ぬと、嫡出の男子がいなかったために、第43代フィィップ(美男王)の弟の嫡男でヴァロア家を継いでいたフィリップが王位について、第48代フィリップ6世となった。
 このヴァロア王朝は、1483年、第54代シャルル8世が嫡出の男子がいないまま事故で亡くなったため、再度、王位継承問題に直面した。118年前に亡くなった第50代シャルル5世まで系図をさかのぼり、その次男ルイの血筋であるヴァロア・オルレアン家から第55代ルイ12世が誕生した。このルイ12世も嫡男がないままに亡くなると、また系図をさかのぼって、上記の第50代シャルル5世の次男ルイのもう一つの血統であるヴァロア・アングレーム家の曾孫フランソワを第56代フランソワ1世として王位に就かせた。そのあと、ヴァロア・アングレーム家からは4人の国王が出るが、第60代アンリ3世が嫡男のないままに暗殺されると、ついにヴァロア王朝は終焉した。
 この頃には、もはや近い血筋の嫡出の男子はいなかった。そこで、遠く13世紀終わりまでさかのぼり、第41代ルイ9世(聖王ルイ)の血をひいた傍系ブルボン家に国王を求めた。
 ブルボン家は、中部フランスのブルボン地方の領主であったが、アンリ3世の治世に、当時のブルボン家の総領アンリはアンリ3世の妹マルグリーテと結婚していた。血統的にも偉大な国王であった聖王ルイの血を引き、かつヴァロア王家の王女を娶っていたアンリ・ド・ブルボンは、最も王位に近かった。
 彼は即位して第61代アンリ4世となり、ブルボン王朝が始まった。ブルボン王朝は、1789年のフランス革命による王制の廃止と第65代ルイ16世の死刑によっていったん途絶える。しかし、ナポレオン皇帝がワーテルローで敗れると、1814年に王政は復古した。ルイ16世の弟2人が、順番に第67代ルイ18世、第68代シャルル10世として即位した。ルイ16世の長男は夭折し、次男はルイ16世の処刑の2年後に10歳で牢獄内で父を追ったが、反革命派はこの悲劇の王太子をルイ17世と称した。
 シャルル10世が1830年の革命で失脚すると、嫡出の男子はそれ以前に死んでいたため、系図を約90年もさかのぼったルイ13世の次男(ルイ14世の弟)が興したオルレアン公爵家に王を求めた。こうして、ルイ13世から数えて7代目に当たるルイ・フィリップが第69代国王とし即位した。
 ルイ・フィリップ国王が1848年革命によって廃位させられると、さしものフランス王制も終わりを遂げた。フランスは、以後、再び王政に復帰することはなく、第2共和政、第2帝政、第3共和政、第4共和政、そして現在の第5共和制と続く。
 ヨーロッパの王室や神聖ローマ帝国では、女王や女帝が出たことがあるが、フランス王家だけは男子継承、しかも嫡出の男子の継承であり、庶子には王位に就かせなかったのであった。
 ルイ・フィィップ国王の子孫は連綿と続き、現在のパリ伯爵アンリに続いている。
 パリ伯爵とは、筆者の在仏大使時代にお付き合いしたが、途中からフランス公爵も名乗るようになった。彼と周りを囲む王党派は、今でも王政復古の夢を捨てきれないでいる。

https://www.jfir.or.jp/j/article/hirabayashi/120415.html

25. 中川隆[-10379] koaQ7Jey 2019年5月06日 14:00:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1715] 報告
愛子が天皇になると天皇家はそこで断絶し、愛子の婿を始祖とする新王朝が始まる事になる:

ハプスブルク家家督継承問題

 18世紀、再びハプスブルク家は家督の相続問題が懸念された。カール6世に男子継承者が無かったからである。

そこでカール6世はプラグマティッシェ=ザンクティオン(国事詔書)を出し、ハプスブルク家の領土不可分と長子相続の原則、長子が死去した場合は女子にも相続権を与える、という相続原則を他の領邦諸国にも認めさせた。

それによってカール6世の長女マリア=テレジアがハプスブルク家家督を相続したが、それに対してプロイセン国王フリードリヒ2世、バイエルン公、フランス国王ルイ15世などはその継承を認めず、オーストリア継承戦争(1740〜48年)が起こり、帝位は一時バイエルンのヴィッテルスバッハ家のカール7世に移った。

オーストリアは敗れ、プロイセンにシュレジェンの割譲を認めたが、マリア=テレジアの家督継承とその夫フランツ1世(ロートリンゲン公)の神聖ローマ皇帝は承認された。なお、これで男系ロートリンゲン家に移ったので、ハプスブルク=ロートリンゲン朝(1745〜1806)と言う。
https://www.y-history.net/appendix/wh0601-095.html

26. 中川隆[-10363] koaQ7Jey 2019年5月10日 19:25:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1741] 報告

日本の歴史はその始まりから嘘だらけ


公的記録を改ざんし、あるいは捏造するという手口自体はもっとはるかに古く、この国の歴史の黎明期から始まっている。

現存する日本最古の歴史書である古事記は712年、次の日本書紀は720年に成立している。ほぼ同時代に二種類の史書が作られた理由が不明である上、古事記は後の史書にその成立が記載されていないことから偽書説が唱えられたこともあるが、現在ではほぼ否定されている。

この古事記と日本書紀の内容は、全体としてはよく似ているが、いくつか重大な違いがある。

たとえば、景行天皇ことオホタラシヒコオシロワケ(12代)の九州大遠征。日本書紀によれば、景行は軍を率いて九州に渡り、ほぼ時計回りに九州を一周しながら多くの敵を打ち破る大遠征を行っている。日本書紀の記載のとおりなら、このときヤマト王権は初めて九州全土を支配下に収めたことになり、まさに赫々たる大戦果と言える。

図版出典:[6]

ところが、景行のこの重大な事績が、古事記には一切現れないのだ。古事記に出てくる景行の事績といえば、「田部たべを定め、また東あづまの淡あはの水門みなとを定め、また膳かしはでの大伴部おほともべを定め、また倭やまとの屯家みやけを定めたまひ、また坂手さかての池を作りて、すなはちその堤に竹を値ゑしめたまひき」という程度でしかない[7]。池を作って竹を植えたなど、どう考えても九州大遠征より優先して書くべきことではないだろう。

これは一体どういうことなのか。古田武彦氏が説明するとおり、実際に行われた大遠征を天皇家の史書である古事記が無視することなどあり得ない以上、日本書紀が話をでっち上げた(あるいは天皇家以外の史書から剽窃した)と考えるしかない[8]。


 (六)一番肝要の点、それはこの華麗な景行の九州大遠征譚が『古事記』に全く出現しないことである。これは記紀間の大矛盾だ。

 以上、この矛盾をいかに解くべきか。その根本は(六)にある。記紀いずれが原形、いずれが改変形か、という問題である。これに対するわたしの基本の立場は次のようだ。“記紀ともに、近畿天皇家内の成立である以上、天皇家にとって有利に加削することはあっても、不利に加削することはありえない”――この公理だ。

 そして右の有利、不利とは、もってまわった考察や、一部のインテりにのみ通じるような、うがった見方の類からではなく、万人に通ずる明々白々たる印象にもとづくものでなければならぬ。

 このような立場から見るとき、問題の景行の九州大遠征譚が、近畿天皇家にとって赫々たる大勝利譚であり、光栄ある大親征譚の形をとっていることは、疑いを容れない。

 これを記載した『書紀』の方が原形であるとすると、『古事記』の作者(伝承者・記録者等)がこれを削除したこととなる。これは先の公理によってみると、ありうることではない。

 これに対して『古事記』の方が原形とした場合、『書紀』はこれを付加・挿入したこととなろう。この方が、先の公理から見ると、ありうるケースである。

 以上の吟味によってみれば、景行の九州大遠征譚は、他からの挿入によるもの、そのように見なすほかはないのである。

この他にも、ヤマトタケルことヲウス(景行の子)による東北地方の蝦夷征伐、神功皇后ことオキナガタラシヒメ(14代仲哀の妻の一人)による九州筑後での征伐など、古事記には現れず日本書紀にだけ書かれている征伐譚が存在する。

私は、古事記は日本書紀の「ボツになった試作品」だと考えている。なぜボツになったかといえば、天皇家の支配を正当化するための嘘の程度が足りず、当時の権力者を満足させることができなかったからだろう。

千数百年の時を経ても、時の権力者の都合に合わせて記録を改ざんし、あるいは継ぎ合わせて辻褄を合わせる官僚たちの心根は大して変わっていないのではないか。まさに骨絡みの嘘つき体質と言うしかない。


[6] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.118
[7] 武田祐吉訳注 『新訂 古事記』 角川文庫 1987年 P.110
[8] 古田 P.120-121
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/05/04/222222

27. 中川隆[-10453] koaQ7Jey 2019年5月16日 17:18:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1845] 報告

女性天皇が禁止に至った経緯 最盛期は2人に1人が女性だった

聖徳太子は女性天皇の下で活躍した


画像引用:https://gqjapan.jp/uploads/media/2016/05/30/prince-shotoku.jpg


2人に1人が女性天皇の時代もあった

新天皇が即位して再び女性宮家や女性天皇の議論が活発化しています。

現在は男性のみ天皇になれると規定されているが、かつては女性も普通に即位していました。

もっとも多かった頃は即位した天皇の2人に一人が女性だった時代もあり、女性天皇ブームと言えるほどでした。




ある時期から女性天皇が消えた理由は、極めて評判が悪い女性天皇がいたため、「女性は天皇に向いていない」という考えが広まったためでした。

日本では公式に即位した女性天皇は8人で、西暦593年から1770年まで約1100年間に渡って即位しています。

この中の第33代推古天皇から48代称徳天皇まで、推定西暦600年頃から764年まで、女性天皇が特に多かった。


この間即位した16回のうち8回が女性、重祚(何度も即位する事)が2回あったので人数としては6人が女性だった。

その前にも22代の後に飯豊天皇、14代の後に神功皇后が天皇として政治を行ったが、まだ天皇は男性に限るとされていたので正式な即位はしていない。

女性天皇が正式に即位した最初の例は推古天皇で、有名な聖徳太子が皇太子として実際の政治を行った。


33代推古天皇の父は29代欽明天皇で、この間に男子である兄らが即位し、夫の33代敏達天皇が崩御していた。

弟の32代崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺されてしまい、蘇我馬子に請われて史上初めて女性天皇として即位した。

推古天皇は甥の聖徳太子を皇太子とし、仏教導入や十七条の憲法、遣隋使の派遣など輝かしい実績を挙げた。


推古天皇と聖徳太子の大成功で女性天皇の全盛期を迎え、35代皇極天皇(斉明天皇)が即位した。

女性天皇が禁止になったきっかけ

皇極天皇は34代舒明天皇の妻で、この頃から「夫から妻」という代替わりが普通になっていった。

皇極天皇の息子は中大兄皇子で、唐と新羅相手に「白村江の戦い」を行い、敗れはしたがこの時から日本は大陸中国と永遠のライバルになった。

皇極天皇の時代に中大兄皇子は「大化の改新」を断行し、部族的な集合体だった日本列島は天皇を中心とした中央集権国家に変貌していく。


こうして女性天皇は優秀な摂政や皇太子を働かせることで華々しい成果を挙げたが、次第に問題点も明らかになってきた。

問題の一つ目は女性は自分が生んだ子供しか後継ぎがいないので、結婚しなかったり子供を産まなければ子孫が絶えてしまう。

2つ目の問題は好悪の情や好き嫌いが激しく、人のえり好みをしたりえこひいきが酷かった。


自分が好きな男性だけを周囲に集めてクラブかサロンのようにしてしまい、嫌いな人は一切近づけない。

こうした問題が一気に噴き出したのが46代孝謙天皇(称徳天皇)の時でした。

父の聖武天皇には男子の子がなく、一人娘として女性皇太子になり、31歳の時に父から譲位されて孝謙天皇となった。


孝謙天皇は結婚せず子供もなかったが、後継者争いには口を出し親戚筋にあたる淳仁天皇に一度は譲位した。

上皇になってからむしろ女帝として振舞うようになり、清国の西太后のような存在に変わっていった。

やがて淳仁天皇は孝謙天皇のお気に入りではなくなってしまい、取り巻きの一団にクーデターを起こさせ、自らが再び称徳天皇として即位した。


御所は混乱を極めたが称徳天皇は取り巻きに「お気に入りの男子」だけを集めて政治を行い、嫌いな者を遠ざけた。

称徳天皇は「いじめ」も大好きで、嫌いな者を「下女」や「鈍い」のような意味の名前に改名させたという。

これ以降御所では「女性天皇はタブー」になり、江戸時代に一人即位しただけとなっている。


孝謙天皇の評判がもう少しマシであったら、今も女性天皇が続いていたかも知れなかった。
http://www.thutmosev.com/archives/79785999.html

28. 中川隆[-8669] koaQ7Jey 2019年8月24日 08:34:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4079] 報告

人類進化概論: 地球環境の変化とエコ人類学 – 2019/3/29
河辺 俊雄 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E9%80%B2%E5%8C%96%E6%A6%82%E8%AB%96-%E5%9C%B0%E7%90%83%E7%92%B0%E5%A2%83%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%8C%96%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%82%B3%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E5%AD%A6-%E6%B2%B3%E8%BE%BA-%E4%BF%8A%E9%9B%84/dp/4130523031


霊長類の集団の分類について、本書は母系・父系・非単系と3区分しています。

ヒト上科(類人猿)では、チンパンジー属が父系、テナガザルとオランウータンとゴリラが非単系です。

これまで当ブログでも述べてきましたが、現生類人猿社会はヒトの一部社会を除いて非母系です。その観点からも、人類社会がもともと母系だった可能性は低いように思います。


まあ、人類系統がチンパンジー属系統と分岐した後に、母系社会に移行し、そこから多様化していった、という可能性も「全否定」はできませんが、その可能性はきわめて低いだろう、と私は考えています。
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_46.html

29. 中川隆[-15006] koaQ7Jey 2019年11月12日 00:10:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2105] 報告

2019年11月11日
女性天皇は天皇の権威を損なうか? 過去の女性天皇



記録に残る最初の女性天皇は神功皇后だが、女性天皇という制度がなく即位していない


画像引用:https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcQiEow1ocWMBGs5QyN3h61MBCACdQI0Y7WHM9bNRe0LKRSfRc1s

最悪の女性天皇、孝謙天皇とは

新天皇が即位して次の天皇は誰かということから、再び女性天皇の是非の議論が活発になっている。

現在の天皇に息子はなく娘の愛子内親王のみなので、皇位継承1位は弟の秋篠宮親王が「皇嗣」に就いている。

2位は秋篠宮家の長男である悠仁親王、3位は譲位した上皇の弟である常陸宮親王となった。



年齢から言って次世代の天皇は悠仁親王だが、天皇の娘である愛子内親王や、秋篠宮家の2人の姉も居る。

現在の法律では天皇は男子に限るとされているが、それは現在の法律で過去にはそうではなかった。

「天皇は男子に限る」としたのは実は日本政府や明治政府ではなく、ある事件がきっかけで天皇家自身が禁じました。


事件を起こしたのは46代孝謙天皇(48代称徳天皇と同一人物)で最初に即位したのは718年でした。

この頃まだ武士はなく平城京で天皇や貴族による律令政治が行われ、天皇から貴族へ実際の権力が移動していました。

孝謙天皇の父は45代聖武天皇で側室との間に男子があったが、地位が低かったのと早世したため男子の後継ぎがいなかった。


孝謙天皇は史上初めて未婚女性として皇位継承1位になり、皇太子に即位して父がなくなると天皇に即位しました。

孝謙天皇は718年産まれなので皇太子になった738年に20歳、天皇に即位した749年には31歳でした。

当時の状況から考えて天皇に即位したときはもう子供を産んで世継ぎを残す可能性はなくなっていたでしょう。

女性天皇禁止時代

そのせいなのか孝謙天皇はヒステリー気味で好悪の情が激しく、お気に入りの男子だけを宮廷に集めて嫌いな人を近づけなかった。

またいじめが大好きで下女に酷いあだ名をつけて、大勢でからかったなどの逸話も残されている。

孝謙天皇の宮廷はホストクラブのようになり、批判が高まって遠縁の淳仁天皇に譲位した。


だが孝謙天皇は実質的に淳仁天皇を支配し、6年後に退位させて48代称徳天皇として復帰してしまう。

再び宮廷はホストクラブ政治に逆戻りし、世継ぎや皇太子の指名を拒否したため孝謙天皇没後に空位になってしまった。

770年8月4日没後に藤原氏や公家が中心となって協議し、10月23日に光仁天皇が即位した。


孝謙天皇は人を人と思わないような所があり、お気に入り以外の人物を貶めるのが大好きだったので、死を惜しむ人はいなかったようです。

もう女性天皇はこりごりだ、絶対ダメだという事になり、以降1200年以上の間天皇は男子に限るとされてきました。

江戸時代の1740年に117代後桜町天皇が即位したが、これには特殊な事情がありました。


異母弟の桃園天皇が21歳でなくなり息子の後桃園天皇はまだ4歳だった事から、桃園天皇の生前指名によって即位した。

当時徳川幕府と朝廷の対立が深刻だったため、幼い皇太子の難を避けるため、公家衆が姉に中継ぎを依頼したと言われている。

後桜町天皇自身も天皇職に熱心ではなく、孝謙天皇同様生涯結婚せず子を残さなかった。


女性が皇太子や天皇になる事で婚期を逃し、後継ぎがないまま崩御するのを懸念し、この後女性天皇はより厳しく禁止された。

女性天皇全盛時代もあった

女性天皇は子孫を残さないこととヒステリー気味で好悪の情が強いなどが禁止された理由だが、女性天皇全盛時代もあった。

最初の女性天皇はあの聖徳太子時代の33代推古天皇で、皇太子だった甥の聖徳太子の活躍もあり大成功した。

十七条憲法を創設したり、当時の超大国隋に遣隋使小野妹子が「日出処天子」の国書を送ったことなどで知られている。


推古天皇・聖徳太子の2代後が35代皇極天皇で、天智天皇や天武天皇の母で舒明天皇の妻でした。

皇極天皇時代に実際の政治を行ったのは息子の中大兄皇子(天智天皇)で、推古天皇・聖徳太子の関係に近い。

中大兄皇子(天智天皇)は大化の改新や百済滅亡後の白村江の戦いで知られ、この時代に今日の「日本国」という概念が作られたとされている。


最初の2人の女性天皇が大成功だったので、第33代推古天皇から48代称徳天皇まで(推定西暦600年頃から764年)までが女性天皇全盛期となりました。

この間即位した16回のうち8回が女性、重祚(何度も即位する事)が2回あったので人数としては6人が女性だった。

その前にも22代の後に飯豊天皇、14代の後に神功皇后が天皇として政治を行ったが、天皇は男性に限るとされていたので正式な即位はしなかった。


33代推古天皇が正式に即位したのは偶然で、弟の32代崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺されてしまい、蘇我馬子に請われて史上初めて女性天皇として即位した。

男子の天皇だと崇峻天皇の二の舞になるというので、実質的には権限のない女性のほうが安全という理由でした。

こうして神功皇后から117代後桜町天皇までを見ると、女性天皇は男子の世継ぎが居ない場合の選択肢だった。


一人娘とか弟や息子が幼いなどの理由で女性が天皇に指名され、男子の有力後継者が居る場合に即位した例はない。

すべての女性天皇に共通しているのは生父または生母が天皇の家系で、天皇の血縁者でないと天皇になれない。

また先代の天皇が「娘を天皇にする」と宣言した場合、周囲が反対しても次の天皇は娘になっている。


今後どうなるかですが、天皇が愛子親王を次の天皇に指名すると、実際にそうなる可能性は高い。

また愛子親王が結婚して男子を産み、孫を指名したり愛子親王が中継ぎ天皇になって相続する可能性もある。

秋篠宮悠仁親王に相続する場合も秋篠宮親王が中継ぎ天皇になる訳で、どうなるかは結局天皇自身が決めるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/81449793.html

30. 中川隆[-15144] koaQ7Jey 2019年12月14日 09:42:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2197] 報告
【我那覇真子「おおきなわ」#100】
竹内久美子〜伝統と科学、皇統はなぜ男系継承でなければならないのか?[桜R1/12/13]

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