近衛上奏文 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87近衛上奏文は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して出した上奏文。 背景 1945年1月6日、アメリカ軍がフィリピン・ルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は内大臣木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。木戸は陸海両総長と閣僚の招集を勧め、また、近衛も木戸に斡旋を求めていた。木戸と宮内大臣の松平恒雄とが協議し、重臣らが個々に拝謁することになった[1]。準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた[2]。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であり、木戸が残した日記にも本来の目的は記されていない。
重臣らは以下の順で昭和天皇に意見を述べた。重臣の内、米内光政(海軍大臣)、阿部信行(朝鮮総督)は現職にあるため召集されていない[3]。 2月7日 - 平沼騏一郎 2月9日 - 広田弘毅 2月14日 - 近衛文麿 2月19日 - 若槻禮次郎 同日 - 牧野伸顕 (元内大臣) 2月23日 - 岡田啓介 2月26日 - 東條英機 上奏の前、近衛は書き上げた「近衛上奏文」を持って吉田茂邸を訪れた。吉田もこれに共感し、牧野伸顕にも見せるために写しをとったが、吉田邸の女中とその親類を名乗る書生はスパイであり、写しが憲兵側に漏れたために吉田は拘引され、その他近衛周辺の人物も次々と、近衛を取り締まる布石も兼ねて取調べを受けることとなる。2人のスパイは、吉田拘引後は近衛邸の床下に入り盗聴を行っていたという。 近衛の上奏と御下問 1945年2月14日の朝、木戸内大臣が侍従長室に姿を見せ、藤田尚徳侍従長に、 「藤田さん、今日の近衛公の参内は、私に侍立させてほしい。近衛公は、あなたをよく存じあげていない。それで侍従長の侍立を気にして、話が十分にできないと困る。ひとつ御前で近衛公の思う通りに話をさせてみたい」 と要請した。藤田侍従長は快諾し、木戸と近衛の二人が昭和天皇に拝謁し、以下の上奏文を捧呈した[4]。 戦局の見透しにつき考ふるに、最悪なる事態は遺憾ながら最早必至なりと存ぜらる。以下前提の下に申上ぐ。 最悪なる事態に立至ることは我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日迄の所未だ国体の変更と迄は進み居らず(勿論一部には過激論あり。又、将来如何に変化するやは測断し難し)随って最悪なる事態丈なれば国体上はさまで憂ふる要なしと存ず。国体護持の立場より最も憂ふべきは、最悪なる事態よりも之に伴うて起ることあるべき共産革命なり。 つらつら思うに我国内外の情勢は今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存ず。即ち国外に於ては蘇聯の異常なる進出に之なり。我国民は蘇聯の意図を的確に把握し居らず。彼の一九三五年人民戦線戦術即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且つ安易なる視方なり。蘇聯は究極に於て世界赤化を捨てざることは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第なり。 蘇聯は欧州に於て其周辺諸国にはソビエット的政権を、爾余の諸国には少くとも親蘇容共政権を樹立せんとして着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状なり。 ユーゴーのチトー政権は其の最典型的なる具体表現なり。波蘭に対しては予めソ聯内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切りたり。羅馬尼、勃牙利、芬蘭に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつもヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエット政権にあらざれば存在し得ざるが如く強要す。イランに対しては石油権利の要求に応ぜざるの故を以て内閣の総辞職を強要せり。瑞西がソ聯との国交開始を提議せるに対し、ソ聯は瑞西政府を以て親枢軸的なりとて一蹴し、之が為め外相の辞職を余儀なくせしめたり。 米・英占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり。而して之等武装団を指揮しつつあるものは主として共産党なり。 独逸に対しては波蘭に於けると同じく、巳に準備せる自由独逸委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図たるべく、之は英米にとり今は頭痛の種なりと思はる。 ソ聯はかくの如く欧洲諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引摺らんとしつつあり。ソ聯の此の意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野[5]を中心に日本解放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟・朝鮮義勇軍・台湾先(一字欠)隊等と連携し日本に呼びかけ居れり。斯くの如き形勢より推して考ふるに、ソ聯はやがて日本の内政に干渉し来れる危険十分ありと思はる(即共産党公認、共産主義者入閣−ドゴール政府、バドリオ政府に要求せる如く−、治安維持法及防共協定の廃止等)。 飜て国内を見るに共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観あり。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及、之を背後より操る左翼分子の暗躍等なり。 少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにあり。皇族方の中にも此主張に耳を傾けらるる方ありと仄聞す。 職業軍人の大部分は中以下の家庭出身者にして其の多くは共産的主張を受入れ易き境遇にあり。只彼等は軍隊教育に於て国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引摺らんとしつつあるものと思はる。 抑々満洲事変・支那事変を起し、之を拡大し、遂に大東亜戦争に迄導き来れるは、是等軍部内一味の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと思はる。 満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは有名なる事実なり。 支那事変当時「事変は永引くが宜し。事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心的人物なりき。 是等軍部内一味の革新論の狙ひは必ずしも共産革命に非ずとするも、これをとり巻く一部官僚及民間有志(之を右翼と云うも可、左翼と云うも可、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命に迄引きづらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存ず。此の事は過去十年間、軍部・官僚・右翼・左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思ひ当る節々頗る多きを感ずる次第なり。 不肖は此の間二度迄組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為出来る丈け是等革新者の主張も採り入れて挙国一致の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の背後に潜める意図を充分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳なく深く責任を感ずる次第で御座います。 昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶの声次第に勢力を加へつつあり。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居れり。 一方に於て徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ空気は次第に濃厚になりつつある様に思はる。軍部の一部にはいかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさへ論ずるものあり。又延安との提携を考え居る者もありとのことなり。 以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が日一日と成長しつつあり。今後戦局益々不利ともならば此形勢は急速に進展致すべし。 戦局の前途につき何等か一縷でも打開の理ありと云ふならば格別なれど、最悪の事態必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続することは全く共産党の手に乗るものと云ふべく、従って国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信す。戦争終結に対する最大の障害は満洲事変以来今日の事態に迄時局を推進し来りし軍部内の彼の一味の存在なりと存ぜらる。彼等は已に戦争遂行の自信を失ひ居るも、今迄の面目上アク迄抵抗を続くるものと思はる。若し此の一味を一掃せずして早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志一味と響応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成すること能はざるに至る處れあり。従って戦争を終結せんとせば、先ず其の前提として此の一味の一掃が肝要なり。此の一味さへ一掃せらるれば、便乗の官僚・右翼・左翼の民間分子も影を潜むるならん。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとする者に外ならざるが故なり。故に其本を絶てば枝葉は自ら枯るるものなりと思ふ。 尚之は少々希望的観測かは知れざれども、もし是等一味が一掃さるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及重慶の空気は或は緩和するに非ざるか。元来英米及重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、其の政策が改まらば、彼等としても戦争継続につき考慮する様になりはせずやと思はる。 それは兎も角として、此の一味を一掃し軍部の建直を実行することは、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存じ奉る。 以上申しげたる点につき間違えたる点あらば何卒御叱りを願度し。 — 近衛文麿、[6] 木戸内府のメモを元に藤田尚徳侍従長は下記のように綴っている。 近衛公は終戦を前提として述べていたが、如何にして終戦に時局を移すのかの具体的な方策については成案をもっておられなかったようだ。ただ共産革命の脅威を、言葉を尽くして述べ、その主力になっているのが他ならぬ軍部の一味であると指摘するのである。一味とは一体、誰を指すのであろうか。陛下も、この近衛公の議論には、内心でその特異さに驚かれたご様子が窺われる。 — 藤田尚徳、[7] 昭和天皇はすぐに近衛へ御下問している。 (御下問)我国体については近衛の考えとは異り、軍部は、米国は我国体の変革迄も考へ居る様観測し居るが、其の点は如何。 (御答)軍部は国民の戦意を昂揚せしむる為めにも強く云へるならんと考へらるる。グルーの本心は左にあらずと信ず。グルー大使離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉等よりみても、我皇室に対しては充分なる敬意と認識を有すと信ず。但し米国は輿論の国なれば、今後戦局の発展如何によりては将来変化なしとは保証し得ず。之戦争終結策の至急に講ずるの要ありと考ふる重要なる点なり。 (御下問)先程の話に粛清を必要とするとのことであったが、何を目標として粛軍せよと云うのか。 (御答)一つ思想あり。之を目標とす。 (御下問)人事の問題に結局なるが、近衛はどう考へて居るか。 (御答)それは陛下の御考へ……。 (御下問)近衛にも判らない様では中々難しいと思う。 (御答)従来軍は永く一つの思想の下に推進し来ったのでありますが、之に対しては又常に之に反対し来りし者もありますので、此の方を起用して粛軍せしむるも一方策なりと考へらる。之には宇垣、香月、真崎、小畑、石原の此の三つの流れあり。之等を起用すれば当然摩擦を増大す。考へ様で何時かは摩擦を生ずるものとすれば、此際之れを避けることなく断行することも一つなるが、若し之を敵前にて実行するの危険を考慮するとせば、阿南・山下両大将の中を起用するも一案ならん。先般平沼・岡田等と会合せし際にも此の話出たり。賀陽宮殿下は軍の建直には山下大将が適任と御考への様なり。 (御下問)もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ。 (御答)そう云う戦果が挙がれば誠に結構と思はれますが、そう云う時期が御座いませうか。之も近き将来ならざるべからず。半年、一年先では役に立つまいと思ひます。 — 御下問:昭和天皇、御答:近衛文麿、[8] 解説 昭和18年1月、近衛文麿は参考として木戸に書簡を送り「軍部内の或一団により考案せられたる所謂革新政策の全貌を最近見る機会を得たり。勿論未だ全貌を露呈するには至らずと雖、徐々に巧妙に小出しに着々実現の道程を進みつつあるが如し」と告げた[9]。そして同年3月18日、近衛は、小林躋造海軍大将を荻外荘に招いた。 当時日独の攻勢作戦が限界に達して崩壊へ向かい始め、それに伴い東條内閣に対する信頼感が減退し、一部識者の間では、東條英機首相の更迭の必要性が囁かれる中、吉田茂と共に早期講和を画策していた小林大将は、次期首班候補の一人として浮上していた。 近衛は、会談劈頭に陸軍中堅層が抱懐するという以下の『国家革新の陰謀』[10]を打ち明け、小林大将に、後継首班を引き受け「赤に魅せられた」陸軍の革新派を速やかに粛清することを要請したのである。 満州事変発生以前より石原莞爾はソ連の復仇乃至共産主義の南下を恐れ早きに於いて之に痛撃を加えざるべからずと考えていた。之が為には我が国の軍需生産増加を必要とするのみならず国内体制も亦更新を要すとし、彼の影の人たる宮崎正義をして産業五カ年計画之に伴う国内革新案[11]を作らしめた。この二案は池田成彬、結城豊太郎君も一読し両君共納得出来る議論だとして居た。 石原は満洲事変には其の対ソ連観から大いに努めたけれ共、之を拡大し支那事変に導くが如き考え方には反対した。之が為に追われて晩年不振であったが、彼の作らしめた産業五カ年計画及び国内革新案は其の儘軍に保管されて居た。之を軍の新進気鋭の徒が読んで大いに之に共鳴し、世の所謂新人乃至革新派の連中に近付き之が実現の方策を練らしめた、所が此の新人の内に共産主義者が居り、彼等は軍を利用して其の理想を具現せんと決意し切りに軍の新進に取り入った。何しろ新人は頭がよく其の理論も一応条理整然として居るので軍の新進は何時の間にか之に魅せられ、国内革新を目標に、而して其の手段として長期戦争を企てるに至ったのである。 この魅せられた連中は参謀本部よりも陸軍省内に多く、現に北支事変の起った時も、参謀本部は常に政府の局地解決に同意し、この方針で指令したのだが、陸軍省に蟠踞する革新派が出先の軍と通謀しドンドン事変を拡大した。之には立派な証拠がある。今、企画院に居る秋永少将の如きも支那事変を早く治められては困ると云って来た事もある。要するに陸軍の新人は作戦上の必要に藉口し、独断で戦争を拡大し、之に依って国家改造を余儀なくせしめんと計画したのである(中略)。 要するに陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を無視し、無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜戦争にまで追い込んで仕舞った。しかも其の目的は戦争遂行上の必要に藉口し、我が国の国風、旧慣を破壊し、革新を具現せんとするのである。此の一派の率いる陸軍に庶政を牛耳られては国家の前途深憂に堪えない。 翻って所謂革新派の中核となってる陸軍の連中を調べて見ると、所謂統制派に属する者が多く荒木、真崎等の皇道派の連中は手荒い所はあるが所謂皇道派で国体の破壊等は考えて居らず又其の云う所が終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為に手段を選ばず、しかも次々に後継者を養っている。速かに之を粛清しないと国家危うしである。 小林大将は、自分の微力は総理の任にあらざる旨を答えたが、かねてより岡田啓介海軍大将から陸軍内に斯くの如き恐るべき動きのある事を薄々聞いており[12]、近衛から改めて「陸軍統制派アカ論」を聞かされ、とにかく早く戦争を止めねばならないと痛感したのであった[13]。 同年4月、中野正剛と共に東條首相を批判していた三田村武夫代議士が荻外荘を訪問し近衛と会談した。三田村は1928年(昭和3年)6月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締に従事しながら国際共産主義運動の調査研究に没頭した後、衆議院代議士となり、第七十六回帝国議会衆議院の国防保安法案委員会(昭和16年2月3日)では、日本の上層部が戦時防諜体制の大きな抜け穴になっていることを問題視して近衛首相を叱咤し、世間から危険視されても国家の為に徹底的に、第三国の思想謀略、経済謀略、外交謀略、政治謀略、中でも最も恐ろしい、無意識中に乃至は第三者の謀略の線に踊らされた意識せざる諜報行為に対する警戒と取締を強化するように政府(第二次近衛内閣)に要求していた[14]。 荻外荘の近衛を訪問した三田村は、戦局と政局の諸問題について率直な意見を述べ、「この戦争は必ず敗ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」と近衛を詰問したところ、近衛は珍しくしみじみとした調子で、第一次第二次近衛内閣当時のことを回想し、「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力に操られていたような気がする−」と述懐した[15]。 近衛文麿が小林躋造と三田村武夫に告白したこと及び三田村と警視庁特高第一課長の秦重徳[16]から聴取したことと同じ趣旨の警告と反省が昭和20年2月14日には近衛から昭和天皇に上奏されたのである。 三田村は、近衛上奏文を「近衛が自分の経験と反省を述べ、自分が革命主義者のロボットとして躍らされたのだと告白するもの」と評し[17]、敗戦後に長年にわたる自分の調査研究と政治経験、そして自分が入手した企画院事件、近衛文麿のブレーントラスト昭和研究会に結集していた企画院革新官僚および朝日新聞社出身のソ連スパイ尾崎秀実や三木清ら共産主義者の戦時中の好戦的な言動と思想、ゾルゲ事件、ソ連およびコミンテルンの世界戦略に関する多数の証拠資料に依拠して、近衛上奏文に該当する具体的事実を解剖し、近衛内閣の軍事外交内政政策の背後にソ連の対日諜報謀略活動があったことを指摘した[18]。三田村の資料と論究は1950年3月に「戦争と共産主義−昭和政治秘録」(民主制度普及会)として出版され、馬場恒吾(読売新聞社長)、南原繁(東大総長)、島田孝一(早稲田大総長)、小泉信三(元慶応義塾大学塾長)、田中耕太郎(最高裁判所長官)、飯塚敏夫(元大審院判事)の賛辞と支持を得た。これは後に遠山景久によって復刊され、晩年の岸信介(元首相)に大きな衝撃を与えた[19]。 サンフランシスコ講和条約発効後の日本では、近衛上奏文に対する様々な見解が発表されている。近衛は二・二六事件など1930年代中期のテロやクーデターの観察により軍部内の共産化を憂慮しており、1940年(昭和15年)には日中戦争の長期化で革命必至との認識を持っており、この認識は軍部の革新派が満州事変以後の戦争を計画したとする陰謀論へと転換されたという見解[20]、1941年(昭和16年)9月から翌年4月にかけて発覚したゾルゲ事件が近衛の対共産党政策への影響を与えたという見解[21]、「マルクス主義者であった近衛文麿がマルクス主義者ではないとの偽イメージを作る自己弁護の文書[22]」などである。 なお、2013年8月12日の産経新聞の報道によると、近衛が「軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を考え居る者もありとの事に御座候」と警告した通り、統制派を中心とする陸軍中枢の一部(首相秘書官を務めた松谷誠大佐や参謀本部戦争指導班長の種村佐孝大佐など)は、ソ連に接近し、天皇制存続を条件に戦後、ソ連や中国共産党と同盟を結び、「天皇制と共産主義を両立した国家」の創設を目指す「米国ではなくソ連主導による終戦構想」を持っていたという。また、1945年6月に、駐スイス中国国民政府(蒋介石政権)の陸軍武官(国共合作をしていたため中国共産党員の可能性がある)が、米国のアレン・ダレス(CIAの前身組織である戦略情報局(OSS)欧州総局長)からの最高機密情報として「日本政府が共産主義者たちに降伏している」と重慶に機密電報で報告していたことが、ロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書によって判明したという[23]。 脚注 ^ 岡 (1966)、上巻 三一頁。 ^ 藤田 (1987)、43頁。 ^ 藤田 (1987)、73頁。 ^ 藤田尚徳 『侍従長の回想』 中央公論社〈中公文庫〉、1987年、55-67頁。 ^ 当時、中国の延安で活動していた野坂参三(変名・岡野進)を指す。 ^ 木戸日記研究会代表岡義武 編 『木戸幸一関係文書』 東京大学出版会、1966年、495-498頁。 ^ 藤田尚徳 『侍従長の回想』 中央公論社〈中公文庫〉、1987年、64-65頁。 ^ 木戸日記研究会代表岡義武 編 『木戸幸一関係文書』 東京大学出版会、1966年、497-498頁。 ^ 木戸幸一関係文書591〜592頁。 ^ 近衛文麿の最側近の一人である矢部貞治は、昭和16年5月6日に、米内内閣を倒した陸軍中堅層を「大政翼賛会を親軍的一国一党運動として支持しソ連邦との抱合を企図する革新右翼」と呼んでいた(現代史資料国家総動員2、484〜488頁)。 ^ 国内革新案とは、日本国権社会党による一国一党政治、少数内閣制、銀行、重要産業、商業の国公営化の実現を目指す「政治行政機構改造案」である。石原莞爾は昭和6年5月に、「戦争は必ず景気を好転せしむべく爾後戦争長期に亘り経済上の困難甚だしきに至らんとする時は、戒厳令下に於いて各種の改革を行うべく平時に於ける所謂内部改造に比し遙かに自然的に之を実行するを得べし。我が国情は国内の改造を第一とするよりも寧ろ国家を駆って対外発展に突進せしめ途中状況により国内の改造を断行するを適当とす」 と述べ、参謀本部戦争指導課長として昭和11年秋頃に宮崎正義に「産業五カ年計画」と「政治行政機構改造案」を立案させたが、後者の案は検討段階で中止になった(石原莞爾資料国防論策編76〜78頁「満蒙問題私見」、秦郁彦【軍ファシズム運動史】246〜247頁、伊藤隆【近衛新体制】59〜60頁)。 ^ 海軍には支那事変の勃発以前から陸軍統制派アカ論が存在した。海軍大将の山本英輔は、斉藤実内府に送るの書(昭和10年12月29日)の中で、政府が一向に荒木、真崎の陸軍皇道派の要望に応えない為に、革新将校が「意気地がなく手緩い、最早上官頼むに足らず、統制派の方がマシだ」といい、我が国体に鑑み皇軍の本質と名誉を傷つけることなきを立て前とし、大元帥陛下の御命令にあらざれば動かないと主張する皇道派を見限り、統制派の勢力が拡大しつつあることを指摘し、「始めは将官級の力を藉りて其目的を達せんと試みしも容易に解決されず、終に最後の手段に訴えて迄もと考える方の系統がファッショ気分となり、之に民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔手、赤化運動が之に乗じて利用せんとする策動となり、之が所謂統制派となりしものにて、表面は大変美化され居るも、其終局の目的は社会主義にして、昨年陸軍のパンフレットは其の真意を露わすものなり。林前陸相、永田軍務局長等は之を知りてなせしか知らずして乗ぜられて居りしか知らざれども、其最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、凡てを国家的に統制せんとするものにて、ソ連邦の如き結果となるものなり」と警告を発していた(木戸幸一関係文書257〜258頁)。 ^ 終戦工作の記録上67〜72頁「小林躋造回顧録」 ^ 第76回帝国議会衆議院国防保安法案委員会議録第3回昭和16年2月3日。 ^ 大東亜戦争とスターリンの謀略−戦争と共産主義、28頁。 ^ 昭和19年6月、荻外荘に招かれた警視庁特高第一課長の秦重徳は、我が国の共産主義運動について、「今日のわが国には共産党はなく、従って、共産主義運動は統一性を欠いている。けれども、共産主義者は職場と時とに即応して運動を行っており、戦争による国民生活水準の低下は、これら運動の温床になっている。その運動は正面から共産主義を標榜せず、敗戦の場合にそなえて共産主義者を養成するという目的でなされているものが多い。要するに、現在の情勢は『枯草を積みたる有様』であるから、これにマッチで火をつければ、直ちに燃え上がる。警視庁では国体を否認するものを左翼、そうでないものを右翼として扱っているものの、この右翼の中には実は左翼の多いことは、明かである。最近の産業奉還論のごときは、その良い例である。またいわゆる転向者の大部分は真に転向しているのではない」と近衛に説明した(岡義武【近衛文麿】202頁)。 ^ 大東亜戦争とスターリンの謀略−戦争と共産主義、30頁。 ^ 大東亜戦争とスターリンの謀略−戦争と共産主義参照。戦後日本において地政学の再評価を行った外交史研究家の曽村保信は、戦争と共産主義−昭和政治秘録(三田村武夫著/民主制度普及会、1950年)を「大東亜共栄圏とマルクス主義との関わりを歴史的に立証した本」と評価し、これに依拠して、「戦前および戦中の日本では地政学は日本に対英米開戦を迫る国際共産主義の一手段として、言い換えればすなわちスターリンの対外政策実現のために知らず知らずのうちに利用されたというあまり香ばしくない過去の閲歴を持っている」と述べ、「日本の大陸政策に最も大きな影響を与えた外来の思想は実はマルクス主義であって、本来の意味の地政学ではなかったように思われる」と結論づけた(曽村保信【地政学入門外交戦略の政治学】130〜134頁)。 ^ 大東亜戦争とスターリンの謀略−戦争と共産主義、311〜322頁。岸信介は戦争と共産主義−昭和政治秘録を読み、次のように遺言した。 「知友のラジオ日本社長、遠山景久君が、某日、『岸先生、大変な本を見付けました。是非第一読下さい』と持参されたのが、この三田村武夫氏の著書であった。読む程に、私は、思わず、ウーンと唸ること屡々であった。支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる(中略)。 この本を読めば、共産主義が如何に右翼、軍部を自家薬籠中のものにしたかがよく判る。何故それが出来たのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し、考えてみれば、本来この両者(右翼と左翼)、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当時、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制と類似している。ここに、先述の疑問を解く鍵があるように思われる。 国際共産主義の目的は、この著書でも指摘しているように、大東亜戦争の終結以降は筋書どおりにはいかず、日本の共産化は実らなかったものの、国際共産主義の世界赤化戦略だけは、戦前から今日まで一貫して、間断なく続いていることを知らなければならない。往年のラストボロフ事件、又、最近のレフチェンコ事件などは、ほんの氷山の一角にすぎないのであろう。これを食い止めるには、自由主義体制を執るすべての国家が連帯して、自由と民主主義をがっちりと守り、敵の一党独裁・計画経済に対するに、複数政党・市場経済の社会を死守することである。 私は、私自身の反省を込めて、以上のことを強調したい。また、このショッキングな本が、もっともっと多くの人々に読まれることを心から望む次第である。」 ^ 庄司 (1995) 「それでは何故、上奏文のなかで過剰とも思える革命への恐怖と、それによってもたらせる陰謀説が展開されたのだろうか。元来近衛がこのような傾向を持ち、ゾルゲ事件や軍部憎悪により増幅されたことは否定し得ないが、異常とも言える内容が問題である。むしろ近衛の本音というより、殖田らの影響とともに、当時近衛らのグループが模索していた、さらには二・二六事件以降の宿願である皇道派の復権・組閣のために、皇道派に冷淡な天皇を説得しようとする政略的な意味があったと推測される。そのためには、誇張された表現が必要であった」 ^ 藤田 (1987)、58頁。 ^ 「『本土決戦』『一億玉砕』を叫んだ敗戦革命論者たち」(平間洋一「中国共産党 野望と謀略の90年」『別冊正論』平成23年6月号) 中川八洋は「近衛文麿が対英米戦争主義者でなかったかのような偽イメージ、あるいは近衛文麿がマルクス主義者でなかったかのような偽イメージをつくる、近衛自身による自己演技の最たるものがあの有名な近衛上奏文であろう。それは日中戦争と日米戦争の八年戦争のすべての責任を軍部に転嫁するに絶妙で華麗な演技の典型であった。この上奏文をもって近衛文麿が従前から英米に対する戦争の回避論者であったと、その証拠としてあげるものが多いが、それは余りにも短絡的である。また読解力に欠陥ありといわざるをえない(中略)。近衛上奏文は、日本の八年戦争とは日本の共産化を目的として共産主義者(マルクス主義者、社会主義者)たちによって遂行されてきたこと、一九四四年頃からのスローガン一億玉砕はレーニンの敗戦革命論に従った、共産革命がし易い荒廃した日本社会をつくるためのものであること、陸士・陸大の秀才組のある部分がソ連軍を日本に導入しての日本の共産化を策謀していること、などの最も深刻な諸状況について最も正確に鋭く核心を衝く省察をなしている。が同時に、この近衛の指摘は、マルクス主義にかぶれた陸士・陸大卒の赤い軍人たちに対英米戦とその継戦の動きのすべての責任を転嫁する狙いであるのは誰しも一読すれば理解できよう。」と近衛上奏文を批評している(近衛文麿とルーズベルト大東亜戦争の真実76、81頁)。 ^ 終戦へ共産国家構想 陸軍中枢「天皇制両立できる」1/42/43/44/4 産経新聞2013年8月12日 参考文献
終戦工作の記録上下巻(江藤淳監修、波多野澄雄編、講談社文庫、1986年) 敗戦の記録(参謀本部編、原書房、1967年) 大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌(軍事史学会編、錦正社、1998年) 尾崎秀実著作集1〜5巻(尾崎秀実著/勁草書房、1979年) 大東亜戦争とスターリンの謀略−戦争と共産主義(三田村武夫著、自由選書、1987年、戦争と共産主義−昭和政治秘録の復刻版) 近衛文麿とルーズベルト(中川八洋著、PHP出版、1995年) 第二次世界大戦と日独伊三国同盟―海軍とコミンテルンの視点から(平間洋一著、錦正社、2007年) 近衛日記(共同通信社開発局、1968年) ASIN: B000JA68IO 道越治・松橋雅平・松橋暉男『近衛文麿「六月終戦」のシナリオ』毎日ワンズ 、2006年 ISBN: 4901622153 木戸幸一『木戸幸一日記』上巻、木戸日記研究会校訂、東京大学出版会、1966年。ISBN 9784130300117。 岡義武『解題』、1966年、一頁−四十三頁。 『木戸幸一関係文書』、木戸日記研究会編、東京大学出版会、1966年。ISBN 9784130300131。 「時局ニ関スル重臣奉答録」 四九五頁−四九八頁 近衛上奏文を収録。 藤田尚徳『侍従長の回想』中央公論社〈中公文庫〉、1987年。ISBN 4122014239。 当時、昭和天皇の侍従長を務めていた藤田尚徳から見た上奏の経緯と、上奏文の口語訳とが記述されている。 「天皇の終戦秘密工作」43頁−54頁 「陽の目を見た近衛上奏文」55頁−67頁 「御意思に遠い重臣の奏上」68頁−85頁 庄司潤一郎「『近衛上奏文』の再検討 国際情勢分析の観点から」『国際政治』109号 終戦外交と戦後構想、日本国際政治学会、1995年5月、 54頁―69頁、 ISSN 0454-2215。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87
▲△▽▼ 【沖縄戦:1945年2月14日】近衛上奏─近衛文麿が昭和天皇に早期講和を進言 第32軍、戦備レベルを上昇させる 護郷隊の第三次召集はじまる 2019/02/14 https://note.com/bouheitai1958/n/n6aaba703c765
近衛上奏文と昭和天皇の反応 近衛上奏 近衛文麿元首相はこの日朝、宮中へ参内して昭和天皇に拝謁し、所信を進言した。いわゆる近衛上奏である。近衛の所信は和紙8枚にわたる長文のもので、近衛上奏文と呼ばれる。 近衛は上奏文において、このたびの戦争の敗戦は必至であるが、米英は「国体の変革」、つまり皇室の廃絶などは行わないだろうとし、ソ連を講和の仲介とすることなく、米英との早期のかつ直接の講和を訴えた。同時に「国体護持ノ立場ヨリ最モ憂フベキハ、最悪ナル事態ヨリモ之ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ナリ」と警鐘を鳴らし、軍部の一部にいるという共産分子を排斥し軍部を立て直し、和平を模索する必要があるということであった。 近衛上奏の要点をまとめると、 (1)米英は国体の変革を求めていないので、早期に講和すべき。 (2)ソ連の日本や東アジアへの野心は強く、講和の仲介相手としてはならない。 (3)このままでは軍部における容共分子などによる革命が起きるかもしれない。 といったほどのものとなろうか。 近衛上奏というと、要点の(3)の軍部における一部容共分子の存在や革命の切迫性などが陰謀論的に語られることがある。確かに近衛は五摂家筆頭という家柄もあってか、革命を恐れ、ソ連を敵視し、反共的態度を貫いていた。その上で日本国内での軍部の一部容共分子がソ連に使嗾されて革命を起こすかもしれないと上奏するわけだが、この部分については近衛がどこまで本気で上奏したかは疑問を呈する指摘もあり(事実として軍内にそうした勢力がいたとは考えられず、仮にいたとしても実際に革命を起せるだけの力はなかったであろう)、米英との和平を進めるためのある種の「煽り」であったともいわれる。 むしろ注目すべきは、近衛が様々なルートを通じて米英に国体変革の意志はないと見抜いたこと、そしてこのころ小磯内閣はじめ各方面が期待していたソ連の講和の仲介などはあてにならないと断じているところである。近衛は別の文書で戦後の米ソ冷戦まで予測しており、国際情勢を明晰に見通していたといえる。 昭和天皇の反応 しかし、昭和天皇は、「米国は皇室抹殺論をゆるめておらず、徹底抗戦すべし」との梅津美治郎陸軍参謀総長の言葉に同意であるとし、軍の粛清を求める近衛に「それではどのような人事があるか」と難色を示した上で、「もう一度戦果をあげてからでなければなかなか話は難しい」と答えた。昭和天皇は早期講和ではなく、一度華々しい戦果をあげ、米英に対し有利な状況で講和を模索するべきだという、いわゆる「一撃講和」を唱え、近衛による上奏を退けたのであった。 昭和天皇のいう、もう一度あげるべき「戦果」を求める戦場は、かかる情勢の中では沖縄と考える以外にない。そうすると昭和天皇が沖縄戦初頭において積極的に戦争指導し、主戦論を唱えたこともよく説明がつく。事実、上奏後の御下問において、昭和天皇は近衛に「梅津(美治郎参謀総長─引用者註)は南西諸島に敵を誘致して叩くといっている」との意味の言葉を発したともいわれている。昭和天皇における「沖縄戦」の位置づけがよく理解できる言葉だ。 なお近衛は上奏文作成にあたり後に首相となる吉田茂と綿密な打ち合わせをしており、上奏後も吉田邸へ赴き会談している。そうしたこともあり、四月、上奏の内容が露顕し、軍部は反戦的・敗北主義的として吉田らを検挙している。 第32軍司令官、丙号戦備を下令 第32軍牛島司令官は昨日の米機動部隊に関する情報により、米軍の南西諸島上陸を警戒していたところ、この日早朝、戦備レベルを上昇させ、南西諸島全域を丙号戦備に移行することを命令した。 第32軍は44年9月、以下のごとく甲号戦備から丁号戦備まで四種の戦備を定めた。 球作命甲第四九号 第三十二軍命令 九月二九日同〇八〇〇 那覇 一 軍防衛作戦ノ為戦備ノ度ハ左記区分ニ基キ之ヲ実施スヘシ 別命無キ際各隊戦備ノ度ハ丁号戦備トス 但シ軍隊区分ニ基ク各兵団長ハ状況ニ依リ独断之ヲ下令(解除)スルコトヲ得 (イ)甲号戦備 敵有力部隊ノ上陸(着陸)攻撃ノ虞アル場合ニシテ全部隊戦闘配備ニ就キ随時戦闘ヲ開始シ得ルノ準備ヲ整フルモノトス (ロ)乙号戦備 敵ノ上陸(着陸)攻撃ノ算少ナキモ空襲又ハ砲撃ヲ受クル虞アル場合ニシテ各部隊ハ対空(電探)竝ニ海上警戒ヲ厳ニシ所要ニ応シ監視哨ヲ増加スルト共ニ水際戦闘ノ準備ヲ整へ対空射撃ニ任スル部隊ハ全隊戦闘配備ニ就キ爾余ノ部隊ハ警戒連絡ノ処置ニ遺憾ナキヲ期シ砲爆撃ノ損害ヲ被ラサル如ク掩蔽ス 空襲警報発令セラレタル時ハ別命ナク本戦備ニ移ルモノトス 〔乙号戦備下令間空襲警報解除セラレタル時ハ別命ナク丙号戦備ニ移ルモノトス〕 (ハ)丙号戦備 敵機動部隊近接ノ徴アルカ又ハ敵飛行機、潜水艦偵察ノ虞アル等警戒ヲ強化スルノ要アル場合ニシテ各部隊ハ対空(電探)竝ニ海上警戒ヲ厳ニスルト共二対空射撃ニ任スル部隊ハ一部ヲ以テ警戒配備(高射部隊二在リテハ警急姿勢トス)二就キ爾余ノ部隊ハ迅速二掩薇下二待避シ得ルノ準備ヲ整へ特二我カ配備兵力等ヲ曝露セサル如ク留意スルモノトス 〔丙号戦備下令間警戒警報解除セラレタル時ハ別命ナク丁号戦備二移ルモノトス〕 (ニ)丁号戦備 我カ哨戒圏及電波讐戒圏内ニ敵ヲ認メサル場合ニシテ各部隊ハ主トシテ対空(電探)及海上監視哨ニヨリ警戒ヲ行ヒ爾他ハ教育訓練築城交通作業其ノ他ノ勤務二従事ス 但シ常ニ敵奇襲攻撃ニ対応シ得ル如ク所要ノ準備ニ遺憾ナキヲ要ス 二 戦備ノ度下令及解除ノ為ノ通信連絡規定ハ別命ス (『帰還者報告綴』第二復員局:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より 〔 〕内は10月中旬に追加訂正された) 通常時は丁号戦備であるから、丙号戦備へ移行したということは、戦局の緊迫度が一段階あがったということである。 また14時頃、第32軍司令部は球参情電第368号により、「諸情報ヲ綜合スルニ南西諸島十五日払暁以降敵機動部隊ノ大規模空襲ヲ以テ十八日以降上陸攻撃ヲ受クル算大ナリト判断セラル」と警報し、軍司令部以下各隊は対上陸作戦を準備した。 第一護郷隊の第三次召集 この日、羽地国民学校(現在の名護市立羽地小学校)に北部一帯の15歳から16歳の少年たちが集められ、第一護郷隊に召集された。 第32軍は第9師団が沖縄から抽出されたため、護郷隊員を正規兵に再召集することで戦力の穴埋めをはかった。これによる兵員不足を補うため、第一護郷隊が第三次の召集をはじめたのであった。なお、第一次召集は前年10月の護郷隊編成時、第二次召集は同年12月ごろの護郷隊の配置変更時である。 このころの召集年齢は17歳以上であることから、15、6歳の少年の強制的な召集は違法であり、あくまでも志願というかたちでなければならなかった。しかし第一護郷隊の村上治夫隊長は集められた少年たちを前に「護郷隊がいやな者は出てこい」と言い放ち、誰も出てこないことをうけて全員身体検査をして志願ということで召集してしまったといわれる。 参考文献 ・『沖縄県史』各論編6 沖縄県史 ・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦 ・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』 ・同『大本営陸軍部』<10> ・「沖縄戦新聞」第5号(琉球新報2005年2月10日) ・玉木真哲『沖縄戦史研究序説』(榕樹書林、2011年) ・庄司潤一郎「『近衛上奏文』の再検討─国際情勢分析の観点から─」(日本国際政治学会編『国際政治』第109号、1995年5月) https://note.com/bouheitai1958/n/n6aaba703c765 ▲△▽▼
近衛文麿上奏文 - 電脳 大本営 https://daihonnei.wpblog.jp/konoe-report-to-the-throne-1945 参謀本部はアカだらけ - 電脳 大本営 http://daihonnei.wpblog.jp/chiefs-of-staff-is-riddled-with-communists ▲△▽▼ 近衛文麿の上奏文と日本敗戦革命 ☆近衛文麿と共産主義とスターリン☆ http://www.jul22.net/kuromaku/index.html
東条内閣打倒を図った近衛は、1945(昭和20)年2月天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。それが近衛上奏文である。
現代語訳 昭和20年2月14日 近衛文麿公の上奏文 近衛文麿の上奏文 敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下この前提の下に申し述べ候。 敗戦は我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までの所国体の変更とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)。随って敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしど存候。 国体護持の立前より最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。 つらつら思うに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。 即ち国外に於てはソ聯の異常なる進出に御座候。我国民はソ聯の意図を的確に把握し居らず、かの1935年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相安易なる見方と存候。 ソ聯が、窮極に於て世界赤化政策を捨てざる事は、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により、明瞭となりつつある次第に御座候。ソ聯は欧州に於て、其周辺諸国にはソヴィエット的政権を、爾余の諸国には少くも親ソ容共政権を樹立せんとて、着々其工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。 ユーゴーのチトー政権は、其の最典型的なる具体表現に御座候。波蘭(ポーランド)に対しては、予めソ聯内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切り候。羅馬尼(ルーマニア)、勃牙利(ブルガリア)、芬欄(フィンランド)に対する休戦条約を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソヴィエット政権に非ざれば存在し得ざる如く強要致し候。イランに対しては石油利権の要求に応ぜざるの故を以って、内閣総辞職を強要いたし候。 瑞西(スイス)がソ聯との国交開始を提議せるに対し、ソ聯は瑞西政府を以って親枢軸的なりとて一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。 米英占領下の仏蘭西、白耳義(ベルギー)、和蘭に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも政治的危機に見舞はれつつあり。而して是等武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座候。 独乙に対しては波蘭に於けると同じく、已に準備せる自由独乙委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図あるべく、これは英米に取り、今は頭痛の種なりと存ぜられ候。 ソ聯は、かくの如く、欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引きずらんと致し居り候。ソ聯の此の意図は、東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコウより来れる岡野を中心に、日本解放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連携、日本に呼びかけ居り候。 かくの如き形勢より推して考ふるに、ソ聯はやがて日本の内政にも干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、共産主義者入閣・・・ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く・・・治安維持法及び防共協定の廃止等々)。 翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及び之を背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候。 右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候。皇族方の中にも此の主張に耳傾けらるる方ありと仄聞いたし候。 職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、其多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、只彼等は軍隊教育に於て、国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以って、共産分子は国体と共産主義の両立論を以って彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。 抑も満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来たれるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存候。満州事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。 此の事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思い当たる節々頗る多きを感ずる次第に御座候。不肖は此の間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ是等革新論者の主張を採り入れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。 昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。 かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。 一方に於て徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候。 以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と成長致しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、此の形勢は急速に進展可致と存候。 戦局の前途に付き、何等か一縷でも打開の望みありと云ふならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存候。随って国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。 戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来、今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存候。彼等は已に戦争遂行の自信を失い居るも、今迄の面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志此の一味と饗応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。従って戦争を終結せんとすれば、先づ其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さへ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼、左翼の民間分子も声を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに外ならざるが故に、其の本を絶てば枝葉は自ら枯るるものと存候。 尚これは少々希望的観測かは知れず候へ共、もし是等一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及び重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来英米及び重慶の目標は日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変わり、その政策が改まらば、彼等としても戦争継続に付き考慮する様になりはせずやと思われ候。それは兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候。 日本敗戦革命 この近衛文麿上奏文の真意をどう読み解くか。ユダヤ問題・歴史評論家の宇野正美さんの訳によりますと... 黒幕 4/6 以下文字お越し 近衛文麿が昭和20年2月14日昭和天皇に出した「自分の考えを論じた」上奏文です。 頭はこう書いてあります 「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下この前提の下に申し述べ候。」 もう日本は負けます。これに基づいて陛下あなたに申し上げます。みなさんいまの解説聞いたら、近衛さんはこの上奏文を天皇陛下に渡し嬉しくってたまらなかったと思いますよ。日本は敗戦必死で存候といってるんです。 三行目 「つらつら思うに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ聯の異常なる進出に御座候。」日本も食われますよ。こんなもん天皇陛下にいってるんですよ。 さらにもうすこし左ですね 「少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、」だから【二・二六事件】 で天皇陛下を支えていた人たちを殺しちゃったわけですわ。こいつらが悪い奴らだと...こいつらが日本国内をだめにする。こいつらが平等の社会を作らなかったとこうなっちゃったわけだ。 だから 「少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候。職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、其多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、」こういってるわけです。軍人ほど共産主義思想を受けやすいやつはいませんよといってるわけです。この連中が日本が戦争で負けたときどうやるんですが陛下といってるわけです。日本は共産主義革命でやられるよといってるわけです。 もうすこし左のほう 「抑も満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来たれるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存候。」自分の計画をいってるわけですよこれは。ものの見事に動いておりまするな.... そしていま読んだ、線ひっぱってある後数行 「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新は出来なくなると公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。」此の一味の中心人物に御座候。だれなのよ!!自分なんですよ。そう、読めばわかるでしょう。こんな文書天皇陛下に向かっていえるのが彼なんですよ。だから僕はさっき大貴族といった。公侯伯子男の内の公です。もっと遥か昔から貴族中の貴族ですよ。ちよっと一歩進んでいいですか、藤原という名前を与えたのは、藤原氏という名を与えたのは中国人なんですよ。あとで話しするけど、藤原氏はそれが大嫌いだった。藤原氏というのは早くやめたくってたまらない、中国人にもらった名前だから。だから時来て藤原をやめる。さっきいった近衛になる、一条になる、九条になる。そう名前を変えるわけです。あるとき中国人にへつらいながら、中国人に支えられたこの大貴族が、俺は日本の支配者になりたいと思ったんですよ。そして自分の苗字を変える。 上の段の終わりのほう 「是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)」彼いってるんですよ。右翼というけども共産主義者ですよって... 括弧の後は 「意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。」日本の軍人は単純だよって、ほんとうに国を思っているはずだんだけども共産主義思想がじわじわっと入ってくる。共産主義思想の怖さはユダヤ問題がわからないから。共産主義は、ええことで愛情に溢れてヒューマニズムそのものだと思うんですよ。ヒューマニズムってわかるでしょう、可哀想な人が豊かになって金持ちが落とされてこりゃいい世界だとそれを考える。それは陳列のウインドウにすぎない。その中身はユダヤ解放理論ですから.... 下の段いきましょうか 「昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。」さっきいったでしょう、本土決戦で日本が大混乱になったらその後ろからごっそさんと入ってくるのが共産主義者ですよと、自分でないのこれ... もう一ついっていい。ロシア革命から世界大恐慌・日中戦争・大政翼賛会・本土決戦まで大貴族がこんな道楽にはいってこれに侵されてしまった。近衛さんどうしたんですか、知ってますか?自分の長男をモスクワに送ってるんですよ、モスクワへ...共産主義理論を日本でやりますから、その節には息子をよろしくと。スターリンはどうしたの、終戦直後近衛の息子を殺しちゃったんですよ。覚めてますからスターリンは、さっきのゾルゲもそうよ、スターリンはゾルゲなんか信じてないですよ。結局ゾルゲはスターリンに裏切られたといって自分が取り調べのときいってるでしょう。スターリンというのはほんとうに恐ろしいほど覚めた男なんですわ。だから近衛がどんだけ自分の思想に愛着をおぼえて息子をモスクワに送って、よろしくよろしくといっても、そんなもん殺しますよ。だから自殺したんですよ、近衛は。もう一つここまで共産主義を願ってやった...マッカーサーは共産主義者でなかったんですよ。だから東京裁判に呼んだ彼をだから青酸カリを飲んだんですよ。自分の夢は破れた。もう一つは昭和天皇が御聖断なさったから、もうこれ以上戦争はしないと日本人を守ると本土決戦はありえないとだから近衛は生きていられなくなった。みなさん指導者が狂うとこんなんになっちゃう。 こっちみてください。多民族国家日本といったんです。多民族国家日本というのは、縄文時代日本にはいろんな民族が来ておったわけですわ。蒙古、朝鮮半島、中国、いろんなところから。その中に大きな集団として前からいってるけども古代ユダヤ人が来ているんですよ。国がないから。だから最近になったらあの奈良のですね、宮殿の下に石をひきつめた建物が見つかったと朝日新聞が、これはペルシャの建物だと書いてあった。ペルシャってどこだ、いまのイランなんですね。イラン人が作ったんではないですよ。それよりも前にユダヤ国家は滅びてますから、ペルシャにたくさんのユダヤ人が来ておったんですよ。シルクロードを通って中国から日本にやってきたんです。奈良時代の宝物が集まっているところ正倉院、聖武天皇の正倉院、あの中は全部中東の物なんですよ。あのガラス製品全部中東の物なんですよ。日本なんかで作ってないですよ、ということは世界の貿易商であるユダヤ人が日本にどっと来てたということなんですよ。それだけでなくってその前からユダヤの人がたくさん日本に来ていました。言葉だとかいろんなことを考えると日本にたくさん来ているということは事実です。あるとき秦氏が来たんです、中国の秦「シン」の始皇帝とは違う。秦これ「ハタ」と読む、これ中国語ではないです。アラム語ですよ。ハタ、この人たちが日本にやって来て後に藤原氏から平安の都、つまり京の都を盗られて追っ払われてしまった。おまえたちどっか行けといわれて、それまで京都を治めていたほんとうのユダヤ人の一つの群れ、つまり太秦にいた一部の群れは丹波に逃げてきたんです。その他中国山脈に逃げる、東に逃げる、四国に逃げる、散らされたんです。これが秦の流れです。丹波篠山の戦国時代の殿様は波多野、秀治はハタのユダヤ人ですよ。三木ってあるでしょう、別所、別所長治。兵庫県の三木市と丹波篠山、八上城の波多野秀治とは親戚関係です。別所、別のところに住んでいる人、ユダヤ人ですよ。そんなことで苗字だけ見ても古代ユダヤ人がたくさん日本にいたことがわかるんですが... ちょっと話そらしますが、3月11日に大きなテロがスペインであった。後にモロッコのイスラムがやったといわれてますが、その前にバスクの連中がやったとやってたでしょう、憶えてませんか?バスクはスペインとフランスの間のピレイネイの山の中にある小さな地域なんです。そこの人たちは絶対にスペイン人にもならないしフランス人にもならない。バスクはバスクです。バスクの文化、バスクの言葉、バスクの誇り、どんなに迫害されてもバスクはバスクなんですわ。ほんとうのユダヤ人です。いわゆるアシュケナージ「ヨーロッパ白人系の偽のユダヤ人ではない」ほんとうのユダヤ人なんです。だからヨーロッパ白人系のユダヤ人とは絶対に交わらない。前にテレビでやってましたが以前の国連大使で波多野さんという人がいた。その人がアメリカにいってもヨーロッパにいっても白人たちが波多野さんの顔をじーと見るんだって、どういうかといったら、お前ははバスクだ、お前の顔はバスクだと... http://www.jul22.net/kuromaku/index.html ▲△▽▼ 2013年8月15日木曜日 近衛上奏文現代語版(加筆しました)
昭和20年という終戦の年の今で言うバレンタインデーに元首相近衛文麿が昭和天皇に上奏したいわゆる「近衛上奏文」です。 私が初めて読んだ時すごくショックでした。 これをきっかけに「太平洋戦争」が「大東亜戦争」に私の中で変わっていったのです。この内容が多くの人に触れられるように現代語にしてみました。細かい間違いはあるかもしれませんが、要旨は間違っていないと思います。 近衛文麿公の昭和天皇への上奏文 昭和20年2月14日
木戸幸一内大臣が侍立(後に近衛文麿や真崎甚三郎のグループの人が逮捕されている) 敗戦は残念ながら、最早必至であると考えます。以下この前提の下に申し述べます。敗戦は我が国の国体(国柄、国のあり方)破壊につながる可能性があるものの、イギリスやアメリカの世論は今日までのところ、(日本の)国体の変革(を求める)とまでは進んではいません(もちろん一部には過激論もあり、また将来どのように変化するかを予測することは困難です)。従って、敗戦だけならば、国体上はそうまで心配する必要はないと考えます。国体を守るという建前より、最も危惧すべき事は、敗戦よりも敗戦に伴って起こりうる共産主義革命であります。 よくよく考えてみると、我が国の内外の情勢は、今や共産主義革命に向かって、急速に進行しつつあると考えています。即ち国外においてはソ連の異常な進出です。我が国民はソ連の意図を的確に把握しておりません。あの1935年の人民戦線戦術、即ち二段(階)革命戦術(ブルジョワ革命の後プロレタリア革命を起こす)の採用以来、ことに最近「コミンテルン」解散以来、赤化の危険を軽視する傾向が顕著です。しかし、これは表面的かつ容易な見方であると思います。ソ連が究極において、世界赤化政策を捨てていないのは、最近のヨーロッパ諸国に対する露骨な策謀により明瞭となりつつある次第です。 ソ連はヨーロッパにおいて、その周辺諸国には「ソヴィエト」的政権を樹立しようとし、着々とその工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状であります。 ユーゴのチトー政権は、最も典型的で具体的な表現であります。ポーランドに対しては、あらかじめソ連内に準備していたポーランド出国者連盟を中心に、新政権を樹立し、在イギリス亡命政権を問題とせずに押し切りました。ルーマニア、ブルガリア、フィンランドに対する休戦条件を見ると、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒトラー支持団体の解散を要求し、実際上「ソヴィエト」政権でなければ、どうすることもできないようになっています。 イランに対しては、石油利権の要求に応じないという理由によって、内閣総辞職を要求しました。スウェーデンがソ連との国交開始を提議した事に対して、ソ連はスウェーデン政府に対して、親枢軸的であると一蹴し、この理由で外相の辞職が余儀なくなりました。 英米に占領されているフランス、ベルギー、オランダにおいては、対ドイツ戦に利用した武装蜂起団と政府との間で深刻なる闘争を続けられ、かつこれらの諸国はいずれも政治的危機に見舞われつつあります。そうしてこれらの武装団を指揮しているのは、主として共産系(の人達)であります。これは英米にとり、今日の頭痛の種となっていると思われます。 ソ連はこの通りヨーロッパ諸国に対し、表面上は内政不干渉の立場を取っていますが、事実においては、極度の内政干渉を行い、国内政治を親「ソ」的方向に引きずりこもうとしています。 ソ連のこの意図は、東アジアに対してもまた同様で、現に延安(中国共産党の本拠地)にはモスクワから来た野坂参三を中心に日本解放連盟が組織され、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇団、台湾先鋒隊と連絡し、日本に呼びかけていました。 このように形勢から推測すると、ソ連はやがて日本の内政に干渉するようになる危険性が十分にあると考えられます(即ち共産党が公認した「ドゴール」政府、「パドリオ」政府に要求したように、共産主義者の入閣、治安維持法及び防共協定の廃止など)。 翻って国内を見ると、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備されていく様子が見られています。即ち生活の窮乏、労働者の発言の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親「ソ」気分、軍部内一部の革新運動、これに便乗するいわゆる新官僚の運動及びこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍などであります。これらの内、特に憂慮すべきは軍部内一味の(事実上国家社会主義を目指した)革新運動であります。 少壮軍人の多数が我が国体と共産主義は両立するものであると信じているように、軍部内革新論の基調もまた、ここにあると思われます。職業軍人の大部分は、中流以下の家庭出身者であり、その多くは共産的主張を受け入れやすい境遇にあります。また彼らは軍隊教育において国体観念だけは徹底的に叩き込まれているために、共産分子は国体と共産主義の両立をもって、彼らを引きずり込もうとしつつあります。そもそも満州事変を起こし、これを拡大して、遂に大東亜戦争にまで導いてきたことは、軍部内の意識的計画であったことは、今や明瞭であると思われます。支那事変当時も「事変が長引くのがよく、事変解決したら国内革新ができなくなる」と公言したのは、この一味の中心であり、これら軍部の革新論者の狙いは、必ずしも共産革命でないとしても、これを取り巻く一部官僚および民間有志(これを右翼というも良いし、左翼というも良い、右翼は国体の衣を着けた共産主義者です)は、意識的に共産革命まで引きずろうという意図を包蔵しています。無知単純である軍人がこれらの人達に踊らされていたと見て、大きな間違いはないと思います。このことは過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面にわたって交遊をしていた私が、最近静かに反省して到達した結論であります。この結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らして見た時、そこに思い当たる節々が非常に多いと感じるのであります。私はこの間、三度まで(総理大臣の)大命を拝したが、国内の相克摩擦を避けようとしたため、できうるだけこれら革新論者の主張を入れて、挙国一体の実を挙げようと焦慮した結果、彼らの主張の背後に潜んでいた意図を十分に看取することができなかったことは、全く不明のいたすところで、何とも申し訳なく、深く責任を感じる次第であります。 昨今、戦局の危急を告げたとともに、一億玉砕を叫ぶ声、次第に勢いを増しつつあると考えています。このような主張をしている者は、いわゆる右翼者流であっても、背後よりこれを煽動しつつあるのは、これは例によって国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達しようとする共産主義分子であるとにらんでいます。一方においては、徹底的に米英撃滅を唱える反面、親「ソ」的空気は次第に濃厚になりつつあるようにあります。軍部の一部は、いかなる犠牲を払ってもソ連と手を握るべしとさえ論じている者がいました。また延安(中国共産党)との提携を考えているものもあったとの事であります。以上のように国の内外を通じ、共産革命に進むべきあらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともなれば、形勢は急速に進展するでありましょう。 戦局の前途につき、何ら一縷でも打開の望みありというならば別ですが、敗戦は必至の前提の下に、論じてみても勝利の見込みはありません。戦争をこれ以上継続するのは、全く共産党の手に乗るものと思われます。従って国体護持の立場より見れば、一日も速やかに戦争終結を講ずべきものであると確信いたしました。 戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来今日の事態まで時局を推進してきた、軍部内のそれら一味の存在であると考えています。彼らは既に戦争遂行の自信を失っていますが、今までの面目上あくまでも抵抗するであろうと思われます。もし、この一味を一掃せずに早急に戦争終結の手を打とうとした場合、右翼左翼の民間有志がこの一味と対応して国内に一大波乱を惹起し、企図した目的の達成が困難になる恐れがあります。従って戦争を終結しようとすれば、まずその前提としてこの一味の一掃が肝要であります。この一味さえ一掃すれば便乗の官僚、並びに右翼左翼の民間分子も影を潜むようになるでしょう。確かに、彼らは未だ大なる勢力を結成しておらず、軍部を利用して野望を達成する以外方法がないため、その本を断てば、枝葉は自ら枯れるものと思います。 なおこれは希望的観測かもしれませんが、もしこれら一味が一掃せられる時は、軍部の相貌は一変し、米英及び重慶(国民党)の空気が、あるいは緩和するのではないでしょうか。元来米英及び重慶(国民党)の目標は「日本軍閥の打倒にあり」と言っているので、軍部の性格が変わりその政策が改められれば、彼らとしても戦争の継続について考慮するようになるのではないかと思われます。 それはともかくとして、この一味を一掃し軍部の立て直しを実行する事は、共産革命より日本を救う前提、先決条件であるとすれば、非常のご勇断をこそ(天皇陛下に)お願いしたいと思います。 以上 中川八洋氏は「近衛文麿こそ共産主義者であり、大東亜戦争を起こした最大の黒幕である」と主張しています。この上奏に加わったグループの人達の中の認識では近衛文麿は理知的であるがいろいろな人の影響を受けやすい優柔不断な人、そして「革新(共産主義もしくは国家社会主義)からの転向者」となっています。 しかし、近衛文麿が首相として行ったことは、支那事変時にすぐに軍に予算を付けたり、三国同盟を結んだり、国民党政府との交渉を拒絶したり、南インドシナへの進駐を進めたりと、やっていることはあくまでも戦争を継続し拡大するという動きです。しかも近衛文麿は絶妙なタイミングで首相を辞め、東条英機らにその責任の多くをなすり付けています。もし近衛文麿が確信犯的に大東亜戦争を起こしたのであれば、スターリン並の謀略家ということになります。もしそうでも真実を知っていたのは第一次内閣時の書記官長の風見章(共産主義者)と内大臣の木戸幸一(京都大学時代からの共産主義仲間)ぐらいかもしれません。多くの共産主義者も知らなかったかもしれません。味方をも騙す天才謀略家だったのでしょうか。 この説が正しいとなると、近衛上奏文は大事な部分が欠けていることになります。つまり、「共産主義者による敗戦革命を目論んでいた最大の黒幕は、この私近衛文麿である」という部分です。共産主義者による敗戦革命謀略を暴露し、その責任を自らは逃れ、陸軍の統制派に押し付けるという絶妙な上奏文になっています。敗戦後責任者を別に押し付け、自分が敗戦革命を最後まで完遂するつもりだったのでしょうか。今となってはなかなか証明が難しい問題です。 近衛文麿の家に掲げられた「黙」と言う字は死んでもこの謀略を黙っているという意味だったとしたら、亡くなった300万人の人達はどう思うのでしょうか。 http://hiizurutokoroshinbun.blogspot.com/2013/08/blog-post.html
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