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天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 7 月 14 日 08:02:02: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない 投稿者 中川隆 日時 2018 年 12 月 18 日 21:06:02)


天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった


廃仏毀釈について - 内田樹の研究室 2019-05-29
http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html


 昨日の寺子屋ゼミで「廃仏毀釈」についての発表があった。いくつかコメントをしたので、備忘のためにここに書き留めておく。

 神仏分離・廃仏毀釈というのは不可解な歴史的事件である。すごく変な話なのである。歴史の教科書では「合理的な説明」がよくなされているが(水戸学が流行していた。明治政府が欧米列強に伍するためにキリスト教に対抗して国家神道を体系化するために行った。江戸時代の寺檀制度に増長した僧侶の堕落のせいで民心の仏教から離反していた・・・などなど)、どうも腑に落ちない。

 神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?

 神仏分離令の発令は慶應四年(1868年)である。「五畿七道諸国に布告」して、「往古ニ立帰リ」「普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候」という祭政一致の方針が示される。

 次に神社に対して「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」という命令が発された。社僧とは神社に勤める僧侶であり、別当は寺院と神社が一体化した神宮寺の責任者である僧のことである。この人たちに「復飾」(還俗)して、神職に奉仕するように命じたのである。

 驚くべきは、この命令に対して全国の社僧・別当たちが特段の抵抗もなく従ったということである。「長いものには巻かれろ」という処世術が宗教界に徹底していたのか、それとも「神と仏といい ただ水波の隔てにて」という血肉化した神仏習合マインドのせいで寺で読経しようと神社で祝詞を上げようと、同じことだということだったのか、私にはわからない。

 そのあと仏像をご神体としていた神社に対しては仏像仏具仏典の類を「早々ニ取除」くことを命じた神仏判別令が出された。

 それまで神宮寺の多くでは仏像をご神体に祀っていたのである。

 この「特段の抵抗もなく」というのが不思議なのである。

 ありうる説明としては、神仏分離の当初の意図が「宗教の近代化」であり、すべての制度が「近代化されねばならぬ」ということについて明治初年の民衆たちも「まあ、公方さんもいなくなっちゃったし、なんかそういう潮目みたい」というふうに感じ取っていたからだ、ということがありうるかも知れない。歴史の滔々たる流れに逆らっても仕方がないんじゃないの、と。それくらいの歴史感覚は一般民衆にもあったのかも知れない(わからないけど)。

 ターゲットになったのは寺院だけではない。最初に発令されたのは六部、虚無僧、山伏、梓巫女、憑祈祷、狐下しなどの「前近代」的な遊行の宗教者の禁止だった。加持祈祷、オカルト、ノマド的宗教者が「まず」禁止された。そういう「前近代的な宗教のかたち」の徹底排除が近代国家の心理的基礎づけに必要だったと明治政府が判断したのである。

 だから、そのあと明治40年代になると、今度は神社合祀令が出て、「前近代的な神道」が排除されることになる。これについては南方熊楠がはげしい反対運動を展開したので、記憶されている人もいると思うけれど、全国20万社のうち7万社が廃されるというすさまじい「神社整理」であった。

 神道の国家統制を実施するためには、神社を公費で運営する必要がある。しかし、神社の数が多すぎて管理コストがカバーできない。だから小さい神社は(氏子たちがどれほど信仰していようと、どのような貴重な祭祀や芸能が伝えられていようと)、コスト削減のために統廃合するという政府の態度のうちに「神道に対する敬意」を見ることはむずかしいだろう。

 だから、国家神道というのは別にある種の宗教性の価値が高騰したということではなく、端的に「宗教的なものを政治的利用価値だけをものさしにして格付けした」ということに過ぎないのだと思う。
 
 もう一つあまり指摘されないことに天皇家はもともと仏教徒だという事実がある。

 京都東山の真言宗泉涌寺は13世紀に四条天皇の葬儀が行われて以来、天皇家の菩提寺に近い機能を果たしていた。江戸時代の歴代天皇皇后は後水尾天皇から孝明天皇まで全員が泉涌寺に葬られている。当然歴代天皇の位牌もここにあり、僧たちが読経してその菩提を弔っている。明治天皇の父である孝明天皇の葬儀は仏式で行われている。今でも歴代天皇の祥月命日には、皇室を代理して宮内庁京都事務所が参拝している。

 だから、天皇制=国家神道という図式が成立するのは、慶應四年の神仏分離令からさきの敗戦までの77年に過ぎないということになる。日本の天皇制の全歴史のうちの77年だけである。それを126代の歴代天皇がすべて神道の祭主であったと信じている人あるいは信じているふりをしている人が天皇制の支持者・反対者のいずれにも多い。これは天皇制という制度の複雑さを捨象して、問題をシンプルで、ハンドルしやすいものにしようとする態度の現れだと私は思う。

 つねづね申し上げている通り、複雑なものは複雑なまま扱うのが知的に誠実な態度だと私は思っている。複雑な仕組みをわかりやすい図式に縮減して、敵味方に分かれて罵り合うのは知的には不毛なことである。それよりは、素直に「なんだか一筋縄ではゆかぬものだ」と認めて、いったん理非正邪の判定を「かっこに入れて」、ほんとうのところは歴史的事件として何が起きたのか、ほんとうのところその歴史的事件の意味は何であるのかについて冷静に問うということが必要ではないのか。

 廃仏毀釈について腑に落ちないもう一つのことは、熱狂的な廃仏運動はかなり短期間で終息し、やがて寺院が再興され、人々が寺院に参詣するようになったということである。廃仏毀釈運動は慶應四年に始まり、明治三年にピークを迎え、明治九年にはほぼ収まった。なんで、そんなにあっさり終わってしまったのか。

 1300年続いた神仏習合という宗教的伝統をほとんど一夜にして弊履の如くに捨て去った熱狂が10年も続かなかった。この非対称性がよくわからない。それほどまでに仏教の檀家制度が憎く、僧侶の腐敗が許し難いものであったら、あるいは明治政府の宗教統制が厳格なものだったら、10年で廃仏運動が「収まる」わけがない。でも、あっさり終わってしまって、誰もその話をしなくなった。

 だから、今の日本人は「神仏習合」についても「神仏分離」についても、よく知らない。

 習合という宗教現象は他の宗教でもあることだから、理解はできる。けれども、それを一度暴力的に分離してみたら、さしたる抵抗もなく実現され、にもかかわらず数年でなんとなくそれも尻すぼみになり、それから100年経ってまたじりじりと神仏習合に戻っているという現象はうまく説明ができない。

 私が毎年参拝している羽黒山はもともと神仏習合で、本尊は聖観音菩薩だったが、神仏分離で山上の仏像仏具は捨てられ、ご本尊はご神体に入れ替えられた。そのときに酒田の篤志家が棄てられたり、焼かれたりした仏像を拾い集めて、自宅の蔵に保存していた。それを最近になって「もともと羽黒山のものだから」というのでその子孫が返却を申し出てきた。羽黒山はそれを嘉納して、二年ほど前に「千仏堂」という建物を本堂の横に立てて、数百体の仏像を安置している。神社の中に寺院があるという神仏習合の「ふつうのかたち」に戻ってきたのである。

 この神仏習合の「復古」趨勢に対してはいずれファナティックな神道系の政治組織から「やめろ」という攻撃が始まる可能性があると私は予想している。そのときにわれわれは明治初年に神仏分離をドライブしたイデオロギーと心性の現代における「アヴァター」を見ることができるかも知れない。

 「廃仏毀釈」に付随したさまざまな事件のうち、記憶しておいてよいトリビアがあるので、それを最後に列挙して話を終えたいい。

(1)廃仏毀釈にもっともはげしく抵抗したのは浄土真宗であった。県内のほぼすべての寺院が廃寺となった鹿児島でも、浄土真宗だけは廃仏の運動が下火になるやたちまち全県に布教を行い、廃寺の再建に取り組んだ。江戸時代に真宗門徒が弾圧されたときに「隠れ念仏」活動をしていた「抵抗の伝統」が生き残っていたのであろう。

(2)最も苛烈な廃仏運動を指揮した一人は、松本の知藩事であった戸田光則。戸田は将軍家の血筋を引き、松平姓と葵の家紋を許された親藩だったが、戊辰戦争が始まってから、勤王か佐幕か最後まで迷った末、新政府軍が中山道を通過する時点でようやく腹をくくって新政府についた。この日和見主義に対する新政府からの不信を解消するために戸田は廃仏毀釈に異常な熱意を示したのである。彼はまず戸田家の菩提寺を破壊するところから始めたのである。

(3)もう一人は京都府知事だった槇村正直。長州藩士で木戸孝允に重用された人物である。京都の文化的伝統にまったく関心がなかった槇村はきわめて熱心に廃仏運動に取り組んだ。まず神仏習合の祇園社感神院を八坂神社に改組し、本地仏の薬師如来を撤去。北野天満宮は北野神社に改名され、境内の寺院はすべて撤去解体された。彼は五山の送り火も地蔵盆も盆踊りも禁止したのである。それがどういう経緯で、どういう言い訳で復活したのか、誰か知っていたら教えて欲しい。

(4)興福寺は廃仏運動の被害がもっとも大きかった寺である。興福寺は春日大社と一体化していたが、分離され仏像仏具教典が棄てられた。五重塔も民間に売却され、金属だけを取り出すために買い主が火をかけようとしたが、延焼をおそれた近所の住人に制止されたおかげで焼けずに残った。いまは国宝である阿修羅像も運慶作とされる無著・世親像も金堂の床にうち捨てられていた。その惨状については、前に釈先生と興福寺に聖地巡礼に参ったときに詳しく伺った。

(5)伊勢には御師(おし・おんし)と呼ばれる「宗教者兼観光案内人」のような人がいた。自分の家を宿坊として参拝者を宿泊させ、聖地を案内し、伊勢暦や神札を売り、加持祈祷も行った。御師の職業的な特徴はそれぞれが自分の「檀那」を有していたことである。江戸時代には伊勢に御師2000人がいて、宿坊600軒があった。当時の伊勢詣では年間300万人、檀那総数は400万軒。

 という話を読んで、羽黒山伏のことを思い出した。羽黒山もかつては山伏が営む宿坊が300軒あり、それぞれの宿坊には「檀那」となる人々がいた。農閑期になるとその町村の人たちが「講」をつくって、連れ立って羽黒を訪れ、山伏の先達で三山で修験場を訪れ行をおこない、遊びながら故郷に帰った。羽黒に雪が降り山に登れなくなると、山伏たちは里に下りてその「檀家」を巡歴して、加持祈祷を行い、お札を売った。伊勢御師と同じである。

 あるときは定住する信者のもとを移動する宗教者が訪れ、あるときは定住する宗教者のもとを移動する信者が(聖地巡礼と観光旅行を兼ねて)訪れる。このような宗教と観光、行と娯楽の癒合したかたちは、前近代の日本に広く見られたようで、出雲大社、富士山、熊野などにも御師がいて、各地の檀那たちと密接な「師檀関係」を結んでいた。

 慶應四年の神仏分離令では山伏と御師がまっさきに弾圧の対象となった。羽黒山伏は宿坊が10分の1になったけれど、いまも残っているが、伊勢御師は明治初年に途絶えた。いったい、神仏分離令は何を圧殺しようとしたのかがここからよく知られる。

*神仏分離についての上の記述は

『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(鵜飼秀徳、文春新書)、『神々の明治維新』(安丸良夫、岩波新書)、
『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち 廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち 』佐伯恵達、みやざき文庫)

に多くのご教示を得たものであることを謝意とともに記しておく。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html
 

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コメント
1. 中川隆[-9083] koaQ7Jey 2019年7月14日 14:53:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3607] 報告

真言密教立川流・南北朝との関わり


北条(平)政子が心血を注いで築きあげた「鎌倉幕府執権・北条得宗家」も、体制百三十年余りを数えて独裁への反感も膨れ上がり、流石に屋台骨が揺らぎ、「時節到来」と倒幕の機運も、静かに盛り上がりつつあった。

そんな時に、皇位に目覚めた後醍醐天皇(第九十六代)が、突如現れた。 それは取りも直さず、地に潜っていた「勘解由小路党」を、そして幕府御家人衆に甘んじていた「源氏の血筋」を目覚めさせる事となった。

この後醍醐天皇(第九十六代)、まさしく密教の申し子だったのである。

京都醍醐寺は、皇統・大覚寺統(後の南朝)を護持する為の寺であり、後醍醐天皇の支えだった。その醍醐寺は、真言密教の教義を支持していた。 従って後醍醐天皇は、真言密教を信奉していたのである。


本来、男女の交合は尊い物である。男女の陰陽を現世の基本として、人々の生活の向上、平和と幸福を願う呪詛(法力)の為のエネルギーの源が、男女交合の歓喜パワーであり、密教理念としていた。 この教義を後醍醐天皇が信奉した事は、彼がしごく「人間的であった」と言う事である。

真言密教の理念は、けして浮ついた邪教ではない。 至極まじめで、日本に入って来た初期の頃の真言宗の教えの一部として、間違いなく存在した。

それはそうだろう、武器を携えて破壊と殺戮に行くよりよほど良い。 精神的な愛に於いて、性交はあってもなくても良い。そして独占欲はそれも愛情で有るが、それが愛情の全てではない。 その違いが判らないと、大人の対応は出来ない。

全てに拘束を欲する愛情もあれば、全てを赦す愛情もある。 難しい所で有るが、愛し方はそれぞれで、自分と違うからと言って、愛が無いとも言いきれない。

空海(弘法大師)が唐から伝えた経典では、何よりも性に対する位置づけが「生命力パワー」と言う前向きな思想からなっている。 真言密教でも、その「生命力パワー」は認められていた。


京都醍醐寺に文観弘真と言う僧侶がいた。彼は先人で有る仁寛僧正を信奉し、その弟子が興した見蓮の真言密教立川流を継承していた。

勿論同じ醍醐寺に、文観弘真に対立する勢力もある。後醍醐天皇(第九十六代)と文観弘真僧正が結び付けば、当然反対派もまた結び付くのが世の習いである。


話は、鎌倉時代末期の事である。

後宇多上皇(第九一代)の皇子・尊治親王(後醍醐天皇)は宋学者の玄恵や文観から宋学の講義を受け、宋学の提唱する大義名分論に心酔し、鎌倉幕府の倒幕を目指し、宋の様な専制国家の樹立を志した。

千三百十七年の文保の御和談に於いて花園天皇から譲位され践祚(せんそ)した尊治親王(後醍醐天皇)は野心満々で、平安時代の聖代(延喜帝・醍醐天皇や天暦帝・村上天皇の政治)のような復古的天皇親政を行うべく、当時の醍醐天皇(第六十代)に肖って自ら後醍醐天皇(第九十六代)と名乗り、手初めに父である後宇多上皇が行っていた院政を停止させ、天皇としての実権を確立した。


鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から真言密教立川流の奥義を学んだ文観は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。 これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。 文観僧正は、後醍醐天皇に真言密教立川流を直伝する。

茶吉尼天のイメージが演出され、衣服の透ける様な美女姿を宮中に現し、天皇は絶倫になる。 退屈な宮中生活にあって、これが「楽しくない」筈はない。

若き天皇は好色でこの教えを痛く気に入り、自ら実践する事で極楽浄土を体感し、教義は宮中に広がった。 後醍醐天皇の相手と成った女妾、女官も数多く、皇子・皇女と認められただけで、十六人に及ぶ親王、内親王を設けている。

つまり、「皇統を繋ぐには親王が多いに越した事は無い」と言う事態に見舞われたのだ。 「勘解由小路党の女人(白拍子)」も天皇相手に、歓喜の行で大活躍したのかも知しれないが、詳しい記述はない。 唯、夜な夜な「おごそかな歓喜儀式が、宮中で盛大に執り行われた」と、想像にするに難くない。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」は、九字呪法である。 そして男女による「歓喜法」で「極楽浄土」を体現する。 その強烈なパワーを持って、四方に幸せをもたらす。

この教えに傾倒した後醍醐天皇は真言密教立川流を保護し、文観を政務の補佐役にする。 文観の権力は強くなり、一時、日本中に真言立川流は広がって行った。


この辺から、雲行きが怪しくなる。

真言立川流が、余りの隆盛を見せた事で、真言宗右派(禁欲派)が嫉妬し、文観の立川流(左派)から、宗派の最高権力を奪取すべく行動を起こす「きつかけ」と成った。 右派が、後醍醐天皇の対立相手、大覚寺(持明院統方)と組んだのである。 これは、宗教上の権力争いで、醍醐寺統(後醍醐天皇)と左派(真言立川流)連合が勝っていれば、その後の日本の宗教観は変わっていたかも知れない。 「菩薩の境地」が、精神的抵抗無く庶民のものに成っていたかも知れないのだ。

だが、醍醐党が破れ真言立川流は衰退して行った。 つまり、負けた方が「弾圧された」のである。 そこに至る経過が、南北朝並立の争いとリンクしていた。


文観は、当時としては珍しく、八十歳と言う長寿を全うしたそうである。 文観は死期を迎える僅か前まで、村娘を相手に日々のお勤めを欠かさず、真言密教立川流を守っていたのだ。

真言密教立川流(真言宗左派)は、対立する宗教勢力(真言宗右派)と結び付いた政治勢力(北朝方)が、南朝方に勝利すると、倫理観を前面に出して「淫邪教」の烙印を押されてしまった。

所が、本来の立川流の教義の形成経緯は、密教の命の持つ力(パワー)に対する純粋な信仰心と土着の呪術・占術を一体化した修験密教の教義を、誓約(うけい)の概念をも含めて理論武装し、再構築したもので、ただ単に淫蕩な目的の宗教では無いのである。

真言宗右派(反立川流禁欲派)と北朝(持明院統・光明天皇)、足利尊氏派が、真言宗左派(密教立川流・文観弘真僧正)と南朝(大覚寺統・後醍醐帝)、新田義貞・北畠顕家派に勝利し、文観僧正に拠って頂点を極めた真言密教立川流は、急速に衰えて行く。

元々、仏教と儒教は異なる宗教であるから、仏教・真言宗の開祖・弘法大師(空海)が儒教を否定した。 その開祖・弘法大師否定した儒教思想を、主流と成った真言宗右派は、チャッカリ教義に取り入れて真言密教立川流を邪教とし禁欲の教義を広めた為、安土地桃山期には立川流はほとんど無くなり、江戸初期には完全に消滅してしまった。

後醍醐天皇が吉野へ逃れ、足利氏と持明院統(北朝)が勢力を拡大すると、醍醐寺大覚寺統の「真言密教立川流」は徹底的に弾圧されて先細りと成り、やがて衰退して消滅している。

弘法大師(空海)がもたらした真言密教の、鎌倉初期に封印された教えには、性は「生きる為の活力の元」と書いてある経典も数多くあった。真言密教に大きく影響を及ぼした理趣経の経典は、その基礎に大陸での「妙見信仰」がある。

実はこの妙見信仰は弘法大師・空海が経典として持ち帰る前に、既に大陸からの移住者(渡来人)達に拠って先行して伝来し普及していた。 そして列島独自の原始宗教と習合し、陰陽修験道として集成していたのである。 そうした経緯から、弘法大師・空海の真言密教は陰陽修験道とは一体化の道を辿り、総本山金剛峰寺は修験道の修行の地と成るのである。

さて妙見信仰の伝来当初は、渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であった様だが、次第に畿内などに広まって行った。 しかし朝廷の統制下にない信仰であった為、統治者としての統制が取れない。 神の威光で統治する朝廷にとって、庶民の間で勝手に広がった「妙見信仰」は危険な存在だった。

七百九十六年(延暦十五年・平安遷都直後)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止した。表だった理由は「風紀の乱れ」であった。

これは何を意味するのか?

庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。 本来、信心深いはずの庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?

命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく、「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。 元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。

気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。 日本における所謂庶民参加の祭り行事のルーツは、北斗妙見(明星)信仰が源であり、陰陽修験の犬神信仰の影響を受けているから大抵その本質は「乱交闇祭り文化」である。

つまり、建前(本音はただの性欲のはけ口かも知れないが?)子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事であるからだ。

例えば、京都・宇治の「暗闇祭り」、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で、相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。 京都府宇治の県神社の「くらやみ祭り」は、明治維新まで無礼講の祭りだったのである。

こうした事例は何も珍しい事ではなく、日本全国で普通に存在する事である。

◆【私の愛した日本の性文化】


当時の庶民感覚は、元々「性」に対しておおらかだった。 信仰が庶民に浸透して行くには、それなりの現世利益が必要で、「北辰祭(妙見祭)」は、当時の庶民が日頃の憂さをおおっぴらに晴らす有り難い行事として、「大いに支持された」と言う事だろう。 そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。


朝廷の「北辰祭(妙見祭)」禁止から十年、八百六年(大同元年)唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。 空海(弘法大師)が信徒獲得の為に目を付けたのが、北辰祭(妙見祭)禁止に対する「庶民の不満」である。


空海の教えは、

身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる事)、
口に真(真実の言葉)を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事

により「即身成仏(煩悩にまみれた生身のままでも救われる)に成る事が出来る。」として「性」を積極的に肯定している。

この妙見信仰や、修験道と結び付いた弘法大師(空海)の真言密教は庶民にも浸透して行った。

そもそも密教には、人間は「汚れたものではない」と言う「自性清浄(本覚思想)」と言う考えがある。 真言立川流が弘法大師(空海)の「東密(真言密教)の流れを汲む」とされるのに対し、
伝教大師(最澄)の台密(天台宗の密教)でも男女の性交を以って成仏とし、摩多羅神を本尊とする「玄旨帰命壇」と言う一派があった事からも、性交を通じて即身成仏に至ろうとする解釈が密教中に存在したのは確かである。
http://jiyodan.exblog.jp/7936468/


秘密仏教(密教)の とは…

父母や先祖の髑髏に漆を塗って祭壇に祀る。

そしてへールカと呼ばれる中央の男性とダーキニーと呼ばれた女性行者が9名とその前で契りを交わし、その和合水を髑髏に塗り付ける。


髑髏の「建立」

髑髏をそのままにして、頤(おとがい)と舌をつくって髑髏にしつらえ、また歯をつけて、髑髏全体に生身の肉がついているかように見えるまで、何度も漆を念入りに塗ったあと、箱の中に納めておく。

続いて,地面に血を用いて曼荼羅を描き中心に指導者がそのパートナーと座し,その周囲に円形に8人の容姿端麗な美女を配置する. 天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と和合を行なう。

中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立する様にする。 中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合し,それを5日間続ける.

そしてその和合水(淫水=男性の精液と女性の愛液)をこの髑髏に百二十回塗り重ねる。 それから毎夜子丑の刻(午前零時と午前二時)に反魂香を焚いて髑髏を薫染する。 反魂香を焚けば死者の姿が煙のなかに現れる。

その一方で反魂の真言を千回唱える。そうすれば死者の魂が戻る。

このような修法を行ったのち、髑髏の中に種々の相応物や秘密の符を書いて納め、頭頂に銀箔と金箔をそれぞれ三重につけ、その上に曼荼羅を書き、その上に金銀箔をおす。 さらにその上に曼荼羅を書き、銀箔と金箔をおし重ねてはりつける。


このような曼荼羅画を交えた箔おしの所作を略式では五重か六重、通式では十三重、最高では百二十重とする。曼荼羅を書く染料はすべて男女の交合の二H(和合水)を厳守する。

舌や唇には朱をさし、歯には銀箔をおし、目には絵の具で若々しく綺麗に彩色するが、義眼に用いる玉を入れてもよい。 顔にはお白いを塗り、紅をつけて、美女のように化粧する。

こうして髑髏が完成したら、それを壇上に祭り、山海の珍味を供え、反魂香を焚き、子、丑、寅の三刻に祭祀を行う。 そして卯の刻になったら、七重の錦の袋に入れる。

こうして、行者はその袋に入った髑髏本尊を、夜は行者が肌で抱いてあたため、昼は壇に据えて山海の珍味を備えて供養する。


これを7年間続けるのである。


 そして、8年目になると、髑髏本尊はその位階に応じて3種類の験力を現す。

下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して三千世界の全ての真理を語る。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/tachikawa/dokurohonzon.htm

髑髏の「建立」。

用意した髑髏を加工して組み立てる。 これには大頭、小頭、月輪形の三種類の制作法がある。

大頭とは、髑髏をそのままにして、頤(おとがい)と舌をつくって髑髏にしつらえ、また歯をつけて、髑髏全体に生身の肉がついているかように見えるまで、何度も漆を念入りに塗ったあと、箱の中に納めておく。

つづいてすでに訳知りの容姿端麗な美女と性交し、その和合水(淫水=男性の精液と女性の愛液)をこの髑髏に百二十回塗り重ねるのである。

髑髏を守っているという七魄(人間の魂は三魂七魄からなるとされる)に和合水(三魂の象徴)を三魂七魄の本尊としての準備が整うわけである。

それから毎夜子丑の刻(午前零時と午前二時)に反魂香を焚いて髑髏を薫染する。 反魂香とは、漢の孝武帝が李夫人の死後も恋しくてならず、方士に香を造らせ、それを焚いて夫人の面影を見たという故事にちなむもので、それを焚けば死者の姿が煙のなかに現れるとされる香である。

その一方で反魂の真言を千回唱える。そうすれば死者の魂が戻るというのである。

このようなず修法を行ったのち、髑髏の中に種々の相応物や秘密の符を書いて納め、頭頂に銀箔と金箔をそれぞれ三重につけ、その上に曼荼羅を書き、その上に金銀箔をおす。さらにその上に曼荼羅を書き、銀箔と金箔をおし重ねてはりつける。
このような曼荼羅画を交えた箔おしの所作を略式では五重か六重、通式では十三重、最高では百二十重とする。


曼荼羅を書く染料はすべて男女の交合の二H(和合水)を厳守する。舌や唇には朱をさし、歯には銀箔をおし、目には絵の具で若々しく綺麗に彩色するが、義眼に用いる玉を入れてもよい。

顔にはお白いを塗り、紅をつけて、美女か、童子(美少年)のように化粧する。
その際、表情は貧相にせず、笑みをたたえ、決して怒ったような顔つきにしないことが大切である。

http://park8.wakwak.com/~kasa/Religion/shingontatekawa.html


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インドにおける密教は変容し、性欲崇拝の濃厚なものになり、やがてチベットに伝わり、ラマ教になるのだが、ラマ教は密教という点では空海が遺した真言密教との違いはないといっていいであろう。

しかしながら両者は神秘性の表現においてははなはだ異なっている。

ラマ教は、インドで衰弱段階に入った後の左道密教といわれるものに相似し、性交をもって宇宙的な原理を表現することに於いて強烈で得あるが、空海がもたらした密教はそういう思想を内蔵しつつも教義全体の論理的筋肉がまだ若々しく、活動がなお旺盛で、性欲崇拝へ傾斜するような傾向は外部からは窺いにくい。

しかし空海の没後、数百年を出ずして彼の密教も左道化した。

「真言立川流」 と呼ばれる密教解釈が、平安末期から室町期にかけて密教界に瀰漫し、とくに南北朝時代にはその宗の指導者である文観(もんかん) が後醍醐天皇の崇敬を受け、立川流が密教の正統であるかのような座を占めたことなどを見ても、空海の体系には、性欲崇拝を顕在化させる危険が十分内在したというべきであろう。

http://singetu.ddo.jp/kuukai_huukei/56.htm


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2)立川流の成り立ちと経緯


「真言立川流」を始めたのは見蓮と言う人物で、陰陽師を習得した真言宗の僧侶兼陰陽師だった。

北斗・北辰妙見信仰に始まる「交合に寄る歓喜行」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行であるから、真言宗の僧侶兼陰陽師だった見蓮が創始した八百万の神・陰陽修験と陀羅尼真言密教の習合教義である真言密教立川流に、その奥義が取り入れられていても「自然な流れ」と言える。

この真言立川流、今の時代ではとても理解されないが、当時、素朴な民衆を矛盾無く導く為に、性に対していたずらに禁欲をさせるより、「肯定した上で民意をリードしよう」と言う考え方があった。

真言密教立川流の始祖と言われ、立川流開祖見連に奥義を授けた仁寛僧正は、伊豆の大仁に住まいし真言宗の僧侶で、陰陽師だった見蓮に、真言密教の秘伝「歓喜法」を授けた者である。

仁寛に限らず高野山系の僧達の多くも、鎌倉時代末期近くまではこの男女交合の「秘術」を理念としていた。

仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を謀ったとして、捕らえられて、「伊豆大仁」に流されていた。言わば、政治犯の流人である。 そこで陰陽師修行中の見蓮に出会い、醍醐三宝院流秘伝の奥義を伝授されたのだ。

現代人の宗教観とは合致しないであろうが、本来、いずれの宗教も「現世利益」が基本である。 つまり他人の事はどうでも良く、祈る者だけに「利を与える」のが元々の教義だった。 本来、信者の本音で言えば「現世利益」が無い信仰など魅力がある訳が無い。

近・現代に於いて「教えが改善された」と言えばその通りだが、元々の信仰はそんなに立派なものではなく、自分の「利」の為に祈るもので、呪詛的には「相手を呪い殺す願い」をも受け入れる事が「信仰(宗教)の実態」と言って良かったのである。 この辺りを理解すると、個人の「現世利益」の考え方から、極楽浄土に「性的な境地」が結び付く教義「真言密教立川流」に、現実感が出て来ても不思議ではないのである。


常識的に見て密教経典の意味解釈は、解釈する側の意志で加工が可能である。弘法大師(空海)が日本にもたらせた密教は、やがて日本で加工されて行ったが、その原点に近いものがインド・ジャンム・カシミール州最大の地方「ラダック(Ladakh)」に残っている。

このラダック地方の土着宗教がタントラ教の影響を受けた密教で、いわゆるチベット仏教である。 ラダックには多数の仏教寺院、ゴンパがあり、全人口が敬けんな仏教徒である。

釈迦生誕の地に近く、「真言・天台両宗の源流」とも言える「敬けんな仏教徒の地ラダック地方」には、つい近代の英領インド時代に禁止されるまで「一妻多夫」の習慣があり、一人の妻を兄弟で共有していたが、それはチベット仏教においては「けっして教えには背いては居ない」のである。

つまり密教において、性はかなり「おおらかな扱い」であり、現在の日本人が意識する厳しい戒律は「無かった」のである。

元来性行為と言うものは、単に「男女が交われば良い」と言う即物的なものではない。 そこには精神的感情が介在する。 それも複雑で、一口に「愛」とばかりにかたずけられない。

性交の本質は、想像力をたくましくして、被虐心、加虐心、羞恥心に触覚、聴覚、視覚を駆使して、初めて上等な性感を得る。 つまり【右脳域】の本能的無意識の境地に入る為の「行」として捉えるのである。

人間の感性は複雑で、あらゆる情報を脳で処理する事で、結論を導きだす。従って、性的快感も単純ではなく、それに拠る精神的癒し効果も認められる。

つまり、性と精神はリンクしていて、人格の形成にも関与する重大事項と言えるのだが、これを「無理やり離して考えよう」と言う間違った傾向がある。 喜怒哀楽は人間の基本的な感性で、【右脳域】の思考である。 その内の「喜」を以って「楽」を為すのが、密教における性交呪詛所謂「歓喜法」に拠る「極楽浄土」の境地である。


人間は、性行為や食事、音楽や映像鑑賞の際に「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させ快感を得る。 言うなれば、宗教行為と性行為、音楽の演奏などは、ある意味同質の目的、快感ホルモン物質の分泌を促す為にある。

宗教に陶酔したり、音楽に聞き惚れたり、視覚、嗅覚、五感の刺激がこの快感ホルモン物質の分泌を促すのなら、人は神の教えで救われても不思議はない。 それを経験的に学習しているから、いかなる宗教にも音楽や雰囲気創りの演出は付き物で、そのトリップ状態は、けして否定すべき物でもない。

言うなれば、宗教行為と性行為が合体した真言密教立川流は、「究極の奥義」だったのではないだろうか?

この快感ホルモン物質がモルヒネと同じ作用を持つ「脳内麻薬」で、精神的ストレスの解消と肉体的老化防止の特効薬であり、必要なホルモン物質なので、健康な性行為の抑制は必ずしも人間の為にはならない。 当然の事ながら、気の持ち様で「自然治癒力が増す」などの奇蹟は現に症例が多いから、宗教の奇蹟も存在する。 真言密教では、この生物反応的効能を肯定して、「修験道に活用しよう」と考えた。


快感ホルモン物質が大量に分泌されると、人間はトリップ状態になる。

従ってかがり火の燃え盛る呪詛の場で、陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)が流れる荘厳な雰囲気の中、激しい性行為を繰り返す事によって、常人には無い激しい反応を見せる。 それが呪詛の効果で、真言密教で言う所の「極楽浄土」である。

その状態が「呪術の効果をもたらす為に必要だ」としていたから、立川流は成立した。 それにしても、呪詛の為に身体を提供して「歓喜法」を体現する呪詛巫女の存在は、現在の感覚では理解が難しい。

しかし、密教の教えの詰まる所は「空」である。 空に私心は無い。

有にしても無にしても、そこには私心が介在するから、空に成れば、如何なる行を求められても、それを不条理と思う事は無い。 実は、「気」も、奇跡と扱うには「ペテン染みた」物理現象である。 言わば、思い込み(既成概念)と言う物差しを外した所に奇跡とも思えるパワー現象が生じる。 しかし、そこに到達するには、「空」が要求されるのである。 その「空」に、成りおおせないのがまた、人間である。


行を施され、呪詛巫女が空に及ぶには、その行の厳しさに相応の覚悟が要る。女性の身体は不思議なもので、縛り上げて三日ほど変わる変わる攻め立てれば「脳で考える気持ち」とは別に、身体が性交の快感を覚えてしまう。

つまりそちらの感性は【右脳域】の本能的無意識が覚醒するからである。 そうなればしめたもので、女性から呪詛(性交)に応じる様になり、滞りなく行える呪詛巫女が完成する。 当初の呪詛巫女の仕込み方は大方そんな処である。

呪詛巫女の確保については多くの方法がある。 その一つが、前述した律令制における被差別階級として賤民の利用である。

奴婢として地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢と呼ばれる身分の者の中から「婢」の身分の女性奴隷を選び出し、執拗に性交を施して極楽浄土を体現させ、呪詛巫女に仕立て上げた。

八百六年(大同元年)、ちょうど桓武天皇が崩御し、第一皇子が平城天皇として即位(八百六年)の準備をしていた頃、唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。

仏教の発祥はご存知インドであるが、実を言うとインドには「密教」と呼ぶ言葉や宗派はない。 金剛乗(ヴァジュラヤーナ)、或るいは大乗(マハーヤーナ)等が相当しそうだが、厳密には意味がかなり異なっていて「伝播の途中で変化したものと」考えられる。

大陸での修行を終えた空海(弘法大師)は、持ち帰った経典に重さを付ける為に「密教呪法」の存在を強調し、その呪法効果を期待させる事に成功する。 当時の日本の指導階層は血統を重んじる氏族で、世継ぎを得る為には多くの妾を抱える社会だったから凡そ禁欲的な教えでは受け入れられない。

空海(弘法大師)の教えは、その教義の中で「人の世界の理性的な原因の世界」を肯定し、然る後に

「密教呪法」に拠り身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる)、
口に真言(真実の言葉)陀羅尼を唱え、
心に本尊(大日如来)を念ずる

事により、仏の不思議な力で「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)出切る」としている。 その教えを秘密仏教、即ち「密教」と称し、教理と行に呪術的かつ具象的表現を伴う教義を成立させ、「潅頂」と言う入門の密教儀式をしていない者に師の許しなく真言や行の内容を軽々しく教えを説き伝える事を禁止してこれに反する行為は大罪としてその自戒を三昧耶と呼んでいる。

密教とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗(台密)と結び付いて発展した。 手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている。つまり本能(煩悩)で汚れた人々を、「真言・陀羅尼を唱える事で救う」と言う教えである。

この真言宗の教えの中の密教と日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、修験者が生まれている。修験者とは、修験道を修行する人で、山伏とも言い、修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。

当然の事ながら、陰陽修験は呪詛を使う。 呪詛の目的は、それを行なう事に拠ってあらゆるものを操ろうとするものである。

修験道には、役小角を祖とし天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)などがある。 弘法大師(空海)、伝教大師(最澄)達が、我が国にもたらした密教は、強力な「現世利益の秘法」であったのだ。 本来の仏教は祈りによる現世利益で、まずは手っ取り早く長生きや裕福と言った幸せを願う物だった。

この現世利益については、現在の中国式寺院にその面影を見る。 お金に見立てた寺院発行の紙の束を、供え物として火にくべ、金持ちに成る様、先祖に祈るのだ。 そうした教えが、真言宗の密教として伝えられ、日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、陰陽修験の呪詛を使う真言密教・立川流が成立した。


真言密教立川流は陰陽修験の呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行を採用した。 立川流の教義は、真言宗の


「即身成仏・即事而真(そくじにしん・物そのものが真実)」、

「当相即道(とうそうそくどう)」


の意味は、「ありがたちそのままが理想」と言うであり、つまり「自然の欲望(煩悩)は自然な事である」としている。


「本有平等(ほんぬびょうどう)」の意味は

「本来もっているものが皆同じく真実を宿す」という真言を、男女二根の交会、

淫欲成就の妙境をそのまま「即身成仏の意味」

に解したもので、ごく自然な人間の命の営みを、素直に容認したものである。


この教義の根拠として「首拐厳経」、「理趣経」などが用いられて、なかでも「理趣経」の十七清浄句の、「欲望は浄らかなり〈大楽の法門〉」と言うその教えは「一切の法は清浄なり」と言う句門であった。この時点で、愛欲に対する罪悪の考え方はまったく存在しない。

「一切の法(手段)は清浄なり」を「男女の性交も清浄なり」と解すれば、良いのである。


如来は十七の清浄なる菩薩の境地を挙げて、男女交合の「妙適なる恍惚境」も、
欲望、箭の飛ぶ様に速く激しく働くのも、男女の触れ合いも異性を愛し堅くい抱き、男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足するも世の一切に自由である。

男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足するも世の一切に自由とは、解釈の仕方では現代で言うSM的な行為まで性愛の形として肯定している。 つまり、欲望に身をゆだねて「恍惚境」に入る事を、真言密教は教義として肯定しているのである。

それはそうだろう。 禁欲主義は生き物としての最も基本的な「種の保存本能」に矛盾している。


「全ての主である様な心地となる事」、
「欲心をもって異性を見る事」

も、また、

男女交合して「適悦なる快感を味わう事」、男女の愛、これらの全てを身に受けて生ずる「自慢の心」も、ものを荘厳る事、全て思うにまかせ「意滋沢ばしき事」、
満ち足りて光明に輝く事も、身体の快楽も、この世の色も、香も、ものの味もまた清浄なる菩薩の境地である。


と、立川流では、全てのものをその本質において積極的に肯定している。つまり色欲の煩悩を含めて、人間の存在が完全に清浄なもの、菩薩のものとして肯定されており、性欲肯定の句として知られている処である。

何が故に、これらの欲望の全てが「清浄なる菩薩の境地」となるのであろうか。

それは、菩薩が人々の【右脳域】に存在し、これらの欲望を始め世の一切の法は、「その本性は清浄なものだからである」と、自然に存在する性的欲望を菩薩のものとして肯定しているからである。

故にもし、真実を見る智慧の眼を開いて、これら全てを「あるがままに眺める」ならば、人は真実なる智慧の境地に到達し、全てに於いて「清浄ならざるはない境地」に至るのである。


真言宗開祖・弘法大師(空海)は、仏教とは異教である儒教を廃してその禁欲思想に攻撃こそすれ認めてはいない。 現代人の感覚では理解し難いかも知れないが、弘法大師・空海が日本に持ち帰った経典の中にインド・ヒンドゥー教の影響を受けた経典が多数含まれていた事も事実で、日本の初期密教の成立にヒンドゥー教の生命への畏怖を根源とした性的な教義が混ざっていて当たり前である。

つまり真言密教・立川流に拠ると、弘法大師・空海が持ち帰った真言密教の教義解釈は「性交に拠って穢れが浄化される」 と言う解釈なのである。


儒教の抑制的な考え方は人間の本質と矛盾する教えであるから、現実に起こり得る様々な事象を闇に葬るばかりで結果的に「在る事」を「無い」と建前で覆い隠すに過ぎず、何ら解決には至らないからである。

ところが、後世の真言宗僧侶達は時の権力におもねり、開祖・弘法大師(空海)の教えを翻して儒教の抑制的な考え方を取り入れて真言密教の王道たる立川流を「淫邪教」と廃し始め、弾圧の挙句その存在まで闇に葬った。

愛欲は生きる事の一部であり、後世に血脈を引き継ぐ原点である。

開祖・弘法大師(空海)が「あるがままに眺める」とした真言宗の抑制的改宗は、信念とは別の御都合主義の為せる業で教義を変節したのであり、人間の本質として必ず「在る事」を「無い」と建前で覆い隠して対処を放置する事こそ、現実に正面から向き合わない「邪教」ではないのか?


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3) 立川流の呪詛様式


立川流の経典は理趣経を習している。 そして呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行「歓喜行」を採用した。 邪神とされる荼枳尼天(だきにてん)を拝し、特に髑髏を本尊とする為、世間から邪教と解される原因と成っている。

確かに、髑髏の存在は「死と言う現実」を見せ付けられるものであり、並みの人間で有ればそれだけでも不快に感じるのは事実である。また、髑髏には生前のその持ち主の魂が宿っていそうで、精神的には犯すべからぬ畏怖の対象であるから、その辺りの抵抗感が存在して、違和感が生じても不思議はない。

にも関わらず、真言立川流が髑髏を本尊としたには、こうした精神的な意識に元付く既成概念そのものを、共通して一気に変革させる狙いを試みていたのではないのだろうか?

真言密教立川流の髑髏本尊は大頭、小頭、月輪行などの種類があり、この建立に使われる髑髏は、王や親などの貴人の髑髏、縫合線の全く無い髑髏、千頂と一千人の髑髏の上部を集めたもの、「法界髏(ほうかいろ)」と言う儀式を行って選ばれた髑髏を用いなければならない。

その様に選ばれた髑髏の表面に、女人の協力を得て、性交の際の和合水(精液と愛液の混ざった液)を幾千回も塗り、それを糊として金箔や銀箔を貼り、更に髑髏の内部に呪符を入れ、曼荼羅を書き、肉付けし、山海の珍味を供える。

しかもその七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」の間絶え間なく本尊の前で性交し、真言を唱えていなければならない。 こうして約七年間もの歳月を「歓喜行」に費やして作られた立川流の髑髏本尊はその位階に応じて「三種類の験力を現す」と言う。

下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して「三千世界の全ての真理を語る」と言う強烈な現世利益の本尊である。


真言密教立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、「大日如来と一体になる事」である。 立川流の金剛杵は特殊な金剛杵であり、片方が三鈷杵(さんこしょ)、もう片方が二鈷杵(にこしょ)になっている。 この金剛杵を割五鈷杵(わりごこしょ)と言う。

本堂のお勤め場所の周りに星型の結界が、蝋燭としめ縄で張られる。 しめ縄はいわば神の「結界占地」を標示するもで、神域に張られる事になっている。

蝋燭の炎は、「歓喜行」の間絶やす事は無い。

反言真言を唱え、星形の結界(五芒星)は陰陽師家、安倍晴明の判紋である。

格子状のしめ縄の結界は、九字紋と同じ形状であり、九字紋は横五本縦四本の線からなる格子形(九字護身法によってできる図形)をしている。 九字結界は、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」を星型に配置し、その間を結んで五芒星(晴明判紋)となす。 安倍晴明判紋は晴明桔梗とも呼ばれ、五芒星と同じ形をしている。五芒星(九字護身法に拠って出来る図形)の意味は、一筆書きで元の位置に戻る事から、「生きて帰ってくる」と言う意味でもある。


「歓喜行」はこのしめ縄の結界の中で全ての障害を排して執り行うのである。呪法に使う髑髏にも、それなりの確りした仕度がいる。

亡なって間もない人頭を、丁寧に洗い清めて、真言を唱えながら漆を塗る。朱色を出すには「辰砂(水銀)」を使う。水銀と硫黄からなる硫化水銀鉱が、「辰砂」であり、細かく砕くと水銀朱の朱が取れる。

この「辰砂(水銀)」、弘法大師(空海)が多用していた事で知られている。

真言密教立川流に取って、朱は血の色であり、活力と蘇生の呪術には欠かせない。 仕上がったら、よく乾燥させ、上等な桐箱に収めて置く。

そして七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」を行い、八日目の朝、「開眼供養を迎える」と言う荒行である。

この本格的な「歓喜行」は、真言密教立川流の僧正が呪詛を用いる為に強力な呪力を有する淫液に塗れた髑髏本尊を会得させる為の物だった。これが、「髑髏本尊・歓喜法」と言う秘術である。

立会いの僧正や男女の信者達は、願主が「歓喜行」を行うを、眼前にて見守りながら「反魂真言」を絶やさず唱える。 一度達しても、茶吉尼(だきに)天の妖力の色香は強烈で、男はすぐにまた活気を取り戻す。

願主は真言密教秘伝の強壮の秘薬と食べ物をとりながら、和合と髑髏に和合水の塗布を続けて、七日目の深夜「結願」を迎える。


いよいよ「結願」を迎えた八日目に入った深夜十二時を過ぎからは、「開眼供養」を夜明けまで行う。 和合水と反魂香にまみれた髑髏の頭部に、金箔を幾重にも重ねて張り、口に紅、歯に銀箔を施し、作り物の眼球を入れて、最後に化粧するのだ。 その後、錦の袋に入れて七年間、願主が毎夜抱いて寝る。 願主が歓喜行をする時は傍らに捧げ、仮本尊となす。

八年目に、ようやく「髑髏本尊」が完成する。 この本尊に妖力が宿り、「呪詛祈願の達成効果を保持する」としていた。 陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)や反魂真言を唱えて、性交を繰り返す「歓喜行」は多分に異様である。

しかしこの淫靡な儀式の奥には、別の真実が隠れている。

理趣経は、「本来男性と女性の真の陰陽があって初めて物事が成る」と説いている。 この儀式に七年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が「大日如来」の導きで、悟りを得る事がその目的だからであり、何の事は無い互いの情が移る年月である。 そうなれば髑髏本尊は、単なるシンボリックな物に成ってしまうのである。


何故こうした信仰が成立するのか、種明かしをして置く。

人間は「恐怖心や高揚心、羞恥心」と言った興奮を背景にすると、普段の判断とは全く違う感覚で物事を受け止める。こうした興奮の心理的な影響は極論理的なものであるが、当事者は意外と「興奮に影響されている」とは思い到らずに「自分の正常な判断」と結論着けてしまう。 その興奮に影響される判断が、興奮が覚めても「正常な判断」と確信されて残る所に所謂「洗脳状態」に陥る状態が、信仰などに利用される心理的な手段である。


真言密教立川流、その教義は、遠く印度の仏教に遡る。 印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った茶吉尼天と言う魔女が、大日如来の教えで、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。

これが日本では、後に稲荷神社に成る。 財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗の商家の奥庭に、祭られたりしていた。

当時の商人の考え方は、「商は長くやるもの」であり、家業、商売を代々繁栄させるのが使命であるため、老舗跡の跡継ぎの確保は重要だった。 その為には跡継ぎに困らない様に妾を持つほどの艶福家で無ければならず、性的パワーのある稲荷の社を祭ったのである。

つまり、幸せにしてくれる神様で、その茶吉尼天が、真言立川流の御本尊である。 茶吉尼天の法力を高める秘法が、密教の儀式である。 茶吉尼天の法力を高める為には、男女和合の性エネルギーのパワーが必要で有る。

つまり初期の仏教は、信じればご利益があると言う「現世利益」の教えで有ったものが、時代とともに変遷して、道徳教育的な目的から「悪行を積むと地獄に落ちる」と言う死後の利益に変わって行った。

一方で修験道師が村々に分け入って布教し、植え付けて行った矛盾とも取れる「おおらかな性意識」は、庶民の中で生き続けていた。

真言密教立川流の本尊・荼枳尼天(だきに天)は、元々はインドのヒンドゥー教の女神で、「荼枳尼天」は梵語のダーキニー(英字:Dakini)を音訳したもので、ヒンドゥー教ではカーリー(インド神話の女神/仏教・大黒天女)の眷属とされる。

このヒンドゥー教の女神が仏教に取り入れられ、荼枳尼天は仏教の神となる。元々は農業神であったが、インドの後期密教においては、タントラやシャクティ信仰の影響で、 荼枳尼天は裸体像で髑髏などを抱えもつ女神の姿で描かれるようになって、後に性や愛欲を司る神とされ、さらには人肉、もしくは生きた人間の心臓を食らう夜叉神とされるようになった。


荼枳尼天は、自由自在の通力を有し、六ヶ月前に人の死を知り、その人の心臓をとってこれを食べると言われたが、その荼枳尼天が、大日如来が化身した大黒天によって調伏されて、仏教神となって「死者の心臓であれば食べる事を許された」とされる。

日本では鎌倉時代から南北朝時代にかけて、荼枳尼天は、性愛を司る神と解釈された為、その男女の和合で「法力を得る」とする真言密教立川流と言う密教の一派が形成され、荼枳尼天を祀り、髑髏を本尊とし性交の儀式を以って即身成仏を体現したとされる流派が興隆を極めた。


真言密教と陰陽道を究めた人物に仁海(じんかい)僧正がいる。醍醐寺隨心院は、九百九十一年(平安時代中期・正暦二年)に雨僧正と呼ばれていた仁海僧正によって建立され、千二百二十九に門跡寺院となった真言宗善通寺派の大本山である。「雨僧正」と呼ばれ、占術の祈祷で「祈雨祈願に成功した」とされる仁海僧正は和泉国の小豪族の家に生まれ、七歳で高野山に上る。 そこで、占星術を身につけ、学僧としても、知られるようになる。

仁海はしばしば五行の考えに基づく易を使う。安倍晴明より少し後の時代に活躍した仁海は、しばしば五行の考えに基づく易を使う。 このことは当時の僧侶が仏教の経典だけではなく、中国の「易経」のような中国特有の古典にも通じていたことを示している。 仁海僧正の私生活を「生臭坊主であった」とする評があるが、それは当時の僧を後世の常識感覚で評するからである。

そもそも、日本の神官や僧侶は、長い事氏族が武士や官僚と兼務していたもので、勢力争いもするし女性も抱く。 高僧と言えども例外ではないから、正妻を置いたかどうかを問わなければ、江戸期以前の僧侶は全て「生臭坊主」である。 と言うよりも、「女性との交わりを呪詛パワーの源」と言う解釈が、密教に於いては為されていたのである。


陰陽師の見蓮に、仁寛が密教の秘術を伝授して、かれこれ百年に成ろうとする頃、北条(平)政子が心血を注いで礎を作った流石の鎌倉幕府執権・北条得宗家も、代を重ねて落日を迎えようとしていた。 鎌倉幕府が弱体化していた頃、敵対していた勘解由小路(賀茂)家と土御門(安倍)家の両家は天皇の皇統護持の為に和解している。
http://jiyodan.exblog.jp/7936468/

2. 中川隆[-9082] koaQ7Jey 2019年7月14日 14:58:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3608] 報告

2018年04月25日
古代日本の環境問題 遷都をくりかえした理由は環境汚染だった


コロコロと遷都を繰り返した理由は汚染による健康被害で、場所を変えれば収まるのは知られていた
引用:平城京クロニクルhttp://wedge.ismedia.jp/mwimgs/9/a/-/img_9af45cd3dbea7454727f305fad3eb535278636.jpg


古代の公害問題

奈良の平城京は710年に都となったが740年には京都の恭仁京に遷都し、745年に再び遷都し都になった。

だが745年には再び遷都し京都の長岡京に都が移った。

この間にも数年ごとに遷都を繰り返し、難波宮(744)や近江紫香楽宮(744)など1年に2度遷都したこともあった。

それ以前の藤原京や飛鳥京、難波宮も出たり入ったりしながら数年から十数年で遷都を繰り返し、恒久的な宮殿ではなかった。

天皇が恒久的に住む宮殿は平安京(794年)が初めてで、明治維新の1868年まで続いた。


平安京以前には最も長かった都ですら平城京の39年間(2度目)平城京1回目は30年間で遷都している。

数年ごとに遷都を繰り返した理由としては、環境問題が大きかったのではないかという見方がある。

それまで首都や都市を作らなかった人々が狭い範囲で生活するようになったため、深刻な環境汚染が起きたと考えられている。


多くの人々が捨てるゴミや排泄物は未処理で貯まっていき、衛生状態が悪化し伝染病なども発生したと思われる。

当時は祈祷によって病気を退治しようとしたが、不衛生な環境が影響しているという認識は持っていたのでしょう。

平城京に移転するとさらに大きな問題が持ち上がり、それは金属加工の際に出る水銀や銅や鉛で水が汚染された事でした。


数年ごとに遷都を繰り返した理由

平城京では奈良の大仏など巨大寺院や仏像が多く建設され、多くは金属が使用され表面はメッキ加工されていました。

副産物の重金属は河川や池に流されて、当時の平城京の池や川は、緑色や青色で輝いていたそうです。

当然ながら住民に健康被害が続出したため、場所を変える目的で、数年ごとに遷都を繰り返した。


遷都したなかに難波宮があり、現在の大阪城の隣りなのだが、また別の環境問題を抱えていた。

当時の大阪は現在の「大阪市」の大半が海であり、天然の良港として半島からの使者や貿易船でにぎわっていた。

だが大和川と淀川から流れ込む土砂が急速に海を埋立てていき、入り江は湾になり、湖になりやがて土に埋まった。


大阪城付近は突き出した半島のようになっていて、そこに難波宮を作ったのだが両側は海であり、不安定極まりなかった。

高波や津波のおそれがあるほか、外的から防御し難いので、わずか数ヶ月で放棄されている。

このように遷都の理由の多くが自然環境や環境汚染によるものだったと考えられている。
http://www.thutmosev.com/archives/75878379.html

3. 中川隆[-9081] koaQ7Jey 2019年7月14日 15:00:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3609] 報告

残雪の出羽三山に「生まれかわりの旅」に出よう


出羽三山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%87%BA%E7%BE%BD%E4%B8%89%E5%B1%B1

羽黒山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%BE%BD%E9%BB%92%E5%B1%B1

月山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9C%88%E5%B1%B1

湯殿山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B9%AF%E6%AE%BF%E5%B1%B1


____


月山観光開発株式会社
http://www.gassankanko.jp/index.html

山形県西川町月山朝日観光協会公式サイト ぶらり西川ガイド
http://www.gassan-info.com/

月山情報 月山朝日観光協会
http://whatnew.sblo.jp/category/2464185-1.html

月山 Google マップ
https://www.google.com/maps/@38.523625,140.006476,12z?hl=ja-JP

自然と信仰が息づく「生まれかわりの旅」
https://nihonisan-dewasanzan.jp/reborn/

出羽三山

山形県の中央に位置する出羽三山の雄大な自然を背景に生まれた羽黒修験道では、

羽黒山は人々の現世利益を叶える現在の山、
月山はその高く秀麗な姿から祖霊が鎮まる過去の山、
湯殿山はお湯の湧き出る赤色の巨岩が新しい生命の誕生を表す未来の山

と言われます。

三山を巡ることは、江戸時代に庶民の間で「生まれかわりの旅」として広がり、地域の人々に支えられながら、日本古来の、山の自然と信仰の結び付きを今に伝えています。

旅は俗世を表す門前町から始まり、随神門は神域へと誘う境界です。

参道の石段の両側には天を覆うような杉並木が山頂まで続き、訪れる者に自然の霊気と自然への畏怖を感じさせ、心身を潤し明日への活力を与えてくれます。


「生まれかわりの旅」のはじまり

出羽三山は、山形県の中央にそびえる羽黒山(414m)・月山(1,984m)・湯殿山(1,504m)の総称であり、月山を主峰とし羽黒山と湯殿山が連なる優美な稜線を誇ります。

おおよそ1,400年前、崇峻天皇の御子の蜂子皇子が開山したと言われる羽黒山は、羽黒修験道の行場であり中枢です。

修験道とは、自然信仰に仏教や密教が混じり生まれた日本独特の山岳信仰です。

羽黒修験道の極意は、羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、
月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、
湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)

と見立てることで、生きながら新たな魂として生まれかわることができるという巡礼は江戸時代に庶民の間で、現在・過去・未来を巡る「生まれかわりの旅」(羽黒修験道では「三関三渡の行」と言う。)となって広がりました。


羽黒山の秋の峰入り〜「生まれかわりの旅」の原点〜

はるか昔から人々は、山は神そのものであり神霊の宿る聖地、新たな生命を育む霊地と考えてきました。

山伏がその霊地である山に籠こもるということは、現世の自分を一度葬り母の胎内に宿ることを意味します。

山伏たちは自らを死者とみなして白装束をまとい 「あの世」に見立てた山を駈け巡り、難行苦行をして穢を祓い、わが身に山の神霊をいわい込め新たな魂として再び「生」を得てこの世に出峰します。

山伏の目的は、即身成仏(生きたまま悟りを開く)するための修行であり、山で得た霊力を用いて生きとし生けるものを救済することです。この擬死再生の儀礼を現在に残す唯一の修行と言われているのが羽黒修験の「秋の峰入り」です。

現在は、神仏分離政策により、出羽三山神社が行う明治以降神式に改められた羽黒派古修験道の「秋の峰入り」と、羽黒山修験本宗羽黒山荒澤寺で行う神仏分離以前の法具法灯を継承し神仏習合のまま十界修行を行う古来の「秋の峰入り」の二つが毎年行われています。
https://nihonisan-dewasanzan.jp/reborn/


生まれ変わりのはじまり 羽黒山
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/羽黒山/


聖観世音菩薩(現世利益の仏)=補陀落浄土ふだらくじょうど=現在
伊氐波神いではしん(出羽郡の産土神)・稲倉魂命うかのみたま(穀霊の神)
※浄土とは仏の世界

羽黒山は、開祖・蜂子皇子が現在の世を生きる人々を救う仏(聖観世音菩薩)を祀ったといわれ、出羽三山の中で最も村里に近い、人々の現世利益を叶える山であったことから「現在の世を表す山」といわれています。

羽黒山は、開祖・蜂子皇子が現在の世を生きる人々を救う仏(聖観世音菩薩)を祀ったといわれ、出羽三山の中で最も村里に近い、人々の現世利益を叶える山であったことから「現在の世を表す山」といわれています。
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/羽黒山/


「月」と「黄泉」の清浄なる世界 月山
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/月山/

(国指定天然記念物)
阿弥陀如来(死後の救済仏)=極楽浄土=過去
月読命つくよみのみこと (夜を司る神・水を支配する神)

標高 1,984 m、高く秀麗な姿から太古の昔より信仰を集め、「祖霊が鎮まる山」 として「過去の世を表す山」と言われています。

美しい高山植物が咲く山頂 までの道のりは神秘的で、まるで極楽浄土のような光景です。
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/月山/


圧倒的な神秘の実感 湯殿山
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/湯殿山/


大日如来(永遠の生命の象徴)=密厳浄土みつごんじょうど=未来

大山祇命おおやまつみのみこと(山の神)・大己貴命おおなむちのみこと(国土の神)・少彦名命すくなひこなのみこと(医薬の神)

全てのものを生み出す山の神「大山祇命」が祭神として祀られる湯殿山は、「未来の 世を表す山」といわれています。

山中で 修行を行う山伏が、生まれかわりを果たす聖地でもあります。
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/湯殿山/

4. 中川隆[-9080] koaQ7Jey 2019年7月14日 15:02:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3610] 報告

死と再生というテーマ
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/4875/kangae/kangae_02.htm

ユング心理学の本を読んでいて「死と再生」というテーマにたびたび出会うことに気がつきました。

ここでいう「死」は肉体的な死を意味するのではなく、象徴的な「死」のことです。

それは、「ひとつの世界から他の世界への変容を意味し、古い世界の秩序や組織の破壊を意味」しています。

象徴の世界の「死」は肉体の死と直接結びついているものではなく、ある人が象徴的な死を繰り返し体験しても、肉体的生命は生き続けていることが多いのだそうです。

ユング心理学では、たとえば「結婚」は娘にとっては処女性が失われるという死の体験であり、両親にとっては娘が失われる死の体験という、2重の死が含まれていると考えます。


肉体的な死と象徴的な死はかならず結びつくものではないですが、微妙なかかわりを持つものでもあるといいます。

生死をさまよう体験をしたときに、それを転機としてそれ以降の人生が大きく変わるようなことがそうです。

これは特別新しい考え方ではないですよね。夏目漱石が生死をさまよう大病をわずらったあとでその後の作品が変わっていった例、また精神科医であった神谷美恵子さんが若い頃結核になったが自分が死ななかったことが心の中で大きな部分を占めていたこと、作家の辻邦生さんも生死に関わる病気をしていたことがその後の作品に影響を与えていると思います。


このような死と再生のテーマを、河合隼雄さんが自殺との関わりについて述べたものがありました。

自殺しようとする人が、象徴的な意味での死の体験を求めていることについてです。

人は深い意味での死の体験によって、次の次元に生まれ変わることができる。
このような体験を求めたが、しきれなかった(死の体験をしそこなった)ために自殺未遂を繰り返すことになるというものでした。

深い意味での死の体験には充分な自我の力が必要になるといいます。自我の力がそのときに充分強いかどうかで、ひとりでその体験を行ったり、セラピストの力が必要であったり、または今はそのときではないとして、それが肉体的な死の体験へつながってしまうことを予防するのだそうです。

死の体験はいちどすれば終わるのではなく、その体験を繰り返しながら長い成長の過程をたどっていくものでもあるそうです。

自殺が精神の再生や新生を願って行われることもあるという考え方は、自殺がすべてそのようなものと考えるのではないですし、自殺をすすめるものでもありません。ここで私が伝えたかったのは

象徴的な死の体験が、次の次元へ生まれ変わる意味をもっていること、

そう考えることで自分自身の「死」についての考えに何かが加わったように感じたことです。

死と再生についてのテーマは私にはまだよくわかっていなくて説明できない部分も多いです。また、みなさんそれぞれのとらえかたもあると思います。このテーマについてもっとよく知りたい方は、ユング心理学やその他死と再生に関する本を読んでみてください。

私が参考にした本は、少し古い本ですが、

「絵本と童話のユング心理学」(朝日カルチャーブックス)山中康裕/大阪書籍/1986年
https://www.amazon.co.jp/%E7%B5%B5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E7%AB%A5%E8%A9%B1%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%B1%B1%E4%B8%AD-%E5%BA%B7%E8%A3%95/dp/4754810678


「カウンセリングと人間性」河合隼雄/創元社/1975年 
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%A8%E4%BA%BA%E9%96%93%E6%80%A7-%E6%B2%B3%E5%90%88-%E9%9A%BC%E9%9B%84/dp/4422110209


です。[10.Mar.2002]


「死と再生と、象徴と/考える人 河合隼雄さん」 2008/01/12

大晦日だったか、元旦だったか、
新聞の広告に、大きな笑顔があった。

親しんだ、名前があった。

「さようなら、こんにちは 河合隼雄さん」
(新潮社 考える人 2008年冬号)


その中で、こんな話が出てきます――


今増えてきているのは、抑鬱症(デプレッション)ですね。それはわりと説明が可能なんです、人生が長くなったこととか、社会の変動が速くなったことで。つまり自分の獲得したパターンというのが、意味を持たなくなることが多いんですね。


今まで大丈夫だったものとか、
今まで大切にしてきたものとか、

もっというと、今までそうやって生きてきたものが、<意味を持たなくなる>。

あるいは、通用しなくなる。


たとえば、私が算盤(そろばん)のすごい名人になったとします。算盤さえあれば、と思っているときにコンピューターが出てきますね。そこで自分の持っていたシステムそのものが、まさに行き詰るわけです。そうすると、これはもう抑鬱症になりますね。


自分の大切にしてきたものが、突然、価値を持たなくなる。

いい悪いではなくて、ともかく、そうなる。

それではどうしようもなくなる。

(大丈夫だと思いたい、でも、現実、大丈夫じゃない)
(一部をとったら大丈夫、でも、総体として、危うくなる)
(大丈夫だといえば大丈夫、危ういといえば危うい)

状態というか、環境というか、
取り巻く状況が変化しているのに、
自分というものが取り残されてしまう。

(もちろん、それはいい悪いの問題ではない)

それは、例えば(ヘンテコリンな例だけど)、

厚着をしているうちに、春になり、夏になったようなもので、
薄着をしているうちに、秋になり、冬になったようなもので、

冬に厚着をするのは間違ってないのだけれど、
暖かくなったのに厚着のままでいると、さすがに暑い。
真夏となると、なおさら。

夏に薄着をするのはその通りなんだけれど、
寒くなったのに薄着のままでいると、さすがにつらい。
真冬となると、なおさら。

身体も壊す。
壊す前に、つらい。


ファッションだとか、生き様だとか、
それはその通りで、ある意味、個人の聖域だけど、

だけど、実際問題、
凍えたり、汗だくになったり、
困ったことになってしまう。


気温は測定できて、温度計とか、天気予報とかで、
それを確認できるけれど、

時代の流れとか、社会の流れとか、
己を取り巻く状況とか、
そういうものは、なかなか数字として測定できません。


人生観でもそうでしょう。たとえば節約は第一なんて考えているうちに、息子は全然節約せんで無茶苦茶やっているのに、あれはいい子だ、なんて言われる。そうなると自分の人生観をいっぺんつくり変えなきゃいかんわけです。


こういうことが、14歳(思春期)とか、中年の時期に問題化するのかもしれません。

思春期には、思春期なりの、<今まで積み重ねてきたもの>があって、
でも、それが行き詰ってしまう。

中年期には、中年期なりの、<今まで積み重ねてきたもの>があって、
でも、それが行き詰ってしまう。

いいとか悪いとかじゃなくて、
ともかく行き詰ってしまう。(*1

(理由なんかない。ないことはなくても、明確ではない)
(言葉を持たないから、納得も表現も、伝えることもできない)
(つまり、なかなか意識化できない)
(そういう風になっている)

ともかく、通用しなくなってしまう。

こうなると、壊すしかなくなる。


そこをうまく突破した人はすごく伸びていく人が多いんです。突破し損なった場合は、極端な場合は、死んでしまう、自殺するわけです。もう生きていても仕方ないと。抑鬱症というのは、常に自殺の危険性があります。それがわれわれとしても非常に大変なんです。


ここが難しいところで、
根本的な崩壊を防ぎながら、いかに壊すかということが、突破するための必然になるのだと思います。

言葉をかえると、
いかにうまく壊すか、ということになる。

もっと奥に突っ込むと、
いかに生命としての死を避けながら、象徴的な死を経験するか、ということになる。


我々は破壊や死を避けるあまり、<そこを突破すること>まで拒否してしまう。

それは一方で正しく、もっともでありながら、
もう一方では、それだけでは語れない部分がある。

何を壊し、何を殺すか、
生命としては壊さず、殺さず、
(むしろ、生かし、残し)
どうやって、壊し、変革させていくか。

そのために、互いにつながった、深い部分にある、内なるものを、
どう壊し、変容させていくか。

それには、どうしても悲しみというものと付き合わなければならない。

そして、象徴ということが、非常に意味を持ってくる。

実際には壊さず、実際には死なず、殺さず、

それでいて、殆どそれに近い、
それでしか語れぬもの、
それでしか代替が利かないものを、
経験し、経ねばならない。

(ここに象徴の魔法がある)

しかし、そのものは見えず、
(また、見たくないものである場合が多いし)
実際と同じくらいの、悲しみも経験する。

(ギリギリ、皮一枚を隔てて、あちらとこちらが隣接する)

ここに、象徴の意味が出てくる。

実際にはそうでなくて、
しかし、ほぼ実際に近く、

深いところでつながっていて、

実際と同等の悲しみを経験する。

そして、最終的に、実際に変容する。


これをうまく表現するには、
もっと言葉が熟さねばならないのだろうな…。

実際にやらずに、実際にやるというのは、
たいへん意味深い。


(それは安易な代替では行えんことだ)


(*1
環境の変化や、身体の変化が、
生じやすい時期でもありますね。
https://jungknight.blog.fc2.com/blog-entry-819.html


ユングは、「死後の生」のような神秘的な考えがもつ意味について、次のようにも述べます。
彼は母親が死ぬ前日に彼女が死ぬ夢を見ます。
悪魔のようなものが彼女を死の世界へとさらっていったのです。

しかし彼女をさらった悪魔は、じつは高ドイツの祖先の神・ヴォータンでした。ヴォータンはユングの母を、彼女の祖先たちの中に加えようとしていました。

この高ドイツの神・ヴォータンはユングによれば「重要な神」「自然の霊」であり、あるいは錬金術師たちが探し求めた秘密である「マーキュリー(ローマ神話の神)の精神」として、「われわれの文明」の中に再び生を取り戻す存在でした。しかしその「マーキュリーの精神」は歴史的にキリスト教の宣教師たちにより悪魔と認定されていました。

ユングにとってこの夢は、彼の母の魂が、「キリスト教の道徳をこえたところにある自己のより偉大な領域に迎えられたこと」を、そして「葛藤や矛盾が解消された自然と精神との全体性の中に迎えられたこと」を物語っていました。

母の死の通知を受け取った日の夜、ユングは深い悲しみに沈みつつも、心の底の方では悲しむことはできなかったと言います。

なぜなら彼は、結婚式のときに聞くようなダンス音楽や笑いや陽気な話し声を聴き続けていたからです。

彼は一方では暖かさと喜びを感じ、他方では恐れと悲しみを感じていました。

ユングはこの体験から、死の持つパラドックスを洞察します。

母の死を自我の観点から見たとき、それは悲しみになり、「心全体」からみたとき、それは暖かさや喜びを感じさせるものになります。

ユングは「自我」の観点からみた死を、「邪悪で非情な力が人間の生命を終らしめるものであるようにかんじられるもの」と述べます。

「死とは実際、残忍性の恐ろしい魂である。…それは身体的に残忍なことであるのみならず、心にとってもより残忍な出来事である。一人の人間がわれわれから引き裂かれてゆき、残されたものは死の冷たい静寂である。そこには、もはや関係への何らの希望も存在しない。すべての橋は一撃のもとに砕かれてしまったのだから。長寿に価する人が壮年期に命を断たれ、穀つぶしがのうのうと長生きする。これが、われわれの避けることのできない残酷な現実なのである。われわれは、死の残忍性と気まぐれの実際的な経験にあまりにも苦しめられるので、慈悲深い神も、正義も親切も、この世にはないと結論する」(下p.158)。

しかし同時に夢は、母をヴォータンの神が死を通じて祖先たち下へつれていったと教えます。死は、母にとって、またユングにとって、喜ばしいものであると夢は教えます。

「永遠性の光のもとにおいては、死は結婚であり、結合の神秘である。魂は失われた半分を得、全体性を達成するかのように思われる」(下p.158)。
https://blog.goo.ne.jp/vergebung/e/eea5611531d7f83630a078b001261c2c





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日本の伝統的な結婚式に中国人はびっくり!「まるで葬式だな」―中国ネット 2017年1月5日
http://www.recordchina.co.jp/a159976.html

4日、中国のポータルサイト・今日頭条が、日本の伝統的な結婚式について紹介する記事を掲載した。これに対し、中国のネットユーザーからさまざまなコメントが寄せられた。写真は白無垢。


2017年1月4日、中国のポータルサイト・今日頭条が、日本の伝統的な結婚式について紹介する記事を掲載した。

中国の伝統的な結婚式といえば、新郎新婦が共に赤い衣装を身にまとう。赤色はおめでたい色とされているからだ。記事は、日本の伝統的な結婚式では、花嫁が真っ白な服を着ると紹介。これは白無垢(むく)のことだが、中国では葬式の時に真っ白な服を着るため、中国人からすると非常に違和感があるようだ。

これに対し、中国のネットユーザーからさまざまなコメントが寄せられた。

「まるで葬式だな」
「これって結婚式なのか?それとも葬式?」

「結婚はおめでたいことだが、結婚式で喪服を着るのを初めて見た」
「結婚はおめでたいことで、葬式の時にのみ全身真っ白な服を着るものだろ。日本人の世界は全く理解できないな」

「日本人にとっては白黒がおめでたい色なんじゃないか?」
「だったら日本人は葬式で何を着るんだ?」

「日本人は結婚式で白を着るなら、葬式で赤を着るのか?」
「これはだめだ。やはりわれわれの赤色の方がいい」

「まるで中国人は西洋のウエディングドレスを着ないかのような言い方だな」
「でも現代の結婚式では中国人も白いウエディングドレスを着るだろ」

「中国では赤はめでたい色、白は葬式、緑は浮気された男を表すが、日本では赤は血なまぐささ、白は純潔、緑は平和を表すんだな。観念が全然違う」(翻訳・編集/山中)
http://www.recordchina.co.jp/a159976.html


「死と再生」のイニシエーション

イニシェーションは宗教用語で、入会儀礼と訳されている。

仏教の出家もフリーメーソンの入会もこのイニシェーションを通して確実なものとなる。

この儀礼の重要な要素は個人として「死と再生」を象徴的に体験することである。
キリスト教では洗礼をすることで、これまでの自分を清算し、キリスト者として再生する重要な儀礼となる。

この洗礼はもともと川に行き、頭まで水の中に沈めてしまうという力強いものであった。

スタインベックの小説『怒りの葡萄』にも川での洗礼の場面が出てくる。
この水をかける儀礼は、インドの場合には王様の即位儀礼と関係がある。
これを仏教では潅頂といい、王の資格を持つ者の頭頂に頭から水をそそぎかけた。

この水は聖なる力の象徴であり、この水をかけられた瞬間、彼は個人ではなく天国の代理人となるのである。

  残酷な風習と考えられる割礼も、イニシェーションのひとつである。

正式に割礼を受けた者は、それまで母親の所有物であった関係を断ち切り、その象徴である血を出すことで、初めて男の世界の仲間に入るという象徴行為であった。
しかしこうしたイニシェーションの伝統は、地縁、血縁の結びつきが生きている時には効果的に働いていたが、現在ではイニシェーションの伝統そのものが失われ、また維持されているところでもその効果は疑わしい。

それは時代の要請によって、新しく生まれた宗教団体の閉鎖的な空間のなかでしか力を持ちえないのかもしれない。 
http://www.s-net.ne.jp/benri/institut/dw/199606.html


部族社会では危機が訪れるとシャーマンが変成意識状態の中で啓示を受け部族を導き、部族を危機から救おうとする。

 シャーマンのイニシエーションには「シャーマンの病」と呼ばれる精神的な危機がある事が知られている。

その構造は神話の構造と共通している。


1、セパレーション(分離・旅立ち) 
地下世界 天上界 異界への長く苦しい旅立ち


2、イニシエーション (通過儀礼) 

異界で神々、悪霊、祖先霊、動物の霊と遭遇する。
精霊に出会ったシャーマンは苦痛の中で象徴的にバラバラに引き裂かれる。

死と再生のプロセスを通過して シャーマンは深い人格変容をとげる。


3、リターン(帰還)

シャーマンは宇宙の智慧と癒しの力を得て共同体の一員として再統合する。

 現代の、拝み屋、新興宗教の教祖などの霊媒体質のシャーマンに共通するのは人生の中で突然、極端な不幸、災難、困難に出会い、発狂寸前まで追い込まれることだ。

病気や苦悩の頂点でカミサマと出会うのである。
危機状態を通過したのち霊能力を活かし、相談事を請け負う拝み屋になるのである。

ただし祈祷師、拝み屋、今風にいえばスピリチュアル・カウンセラーにもピンキリがあり、無意識が浄化されていないと物質的な現世利益に走り精神を病んだり、体調を崩したりする者がいる。

シャーマンの危機は現代医学では重度の精神病と診断されている。


精神的な危機に陥った住民を経験豊富なシャーマンは歌や踊り、祈りによって適切な処置を施し共同体の中に着地させる。

精神的な危機を理解できる指導者がいない文化では精神病の患者は共同体から隔離され誰からも相手にされない。

薬づけにされ、病室に閉じ込められる。
シャーマンがいない共同体では危機状態に陥った者の精神の苦しみはより増すばかりである。


 神話に表れる英雄、シャーマン、神秘家の体験、精神分裂病患者(統合失調症)の旅には共通の構造がが見られる。

自我の境界を超えると様々な無意識のイメージやヴィジョンの洪水に襲われる。
同じ無意識の海に飛び込んでも神秘家やシャーマンは泳ぎ、精神分裂病患者は溺れてしまうのである。

 20世紀の初頭イヌイットのシャーマンはデンマークの探検家に偉大な精霊シラについて話した。

「宇宙の霊であるシラは、目には見えない。声が聞こえるだけだ。
わたしらが知っているのは、シラが女のようにやさしい声をしているということだ。

とても上品でやさしい声なので、子どもでさえこわがらない。
そしてシラはこう言う。『宇宙を恐れるな。』」 と


 シャーマニズムの研究によるとシャーマンになるには二つのパターンがある。
召命型と探求型である。

沖縄と奄美には「カンカカリャ(神懸かり)」「ムンスイ(物知り)」「カンヌプトゥ(神の人)」と地域によって呼び名がことなるユタが存在する。
ユタはほとんどが女性であるがカミグルイ、カンブレ、カミダーリィと呼ばれるイニシエーションを経験する。

ある日、結婚生活を送っていた主婦の心身に異常が起きる。
夢や日常の中に神々が表れたりして精神状態が不安定になり、様々な体の不調を訴えるのである。

そのうちに神の歌を歌い一日中踊り続けたりするようになる。
当然、「モノグルイだ」「神グルイだ。」と近所で噂になる。
シャーマニズムの伝統が生きづいている地域ではこれが「聖なる病」であることが理解され家族は精神病院ではなくユタを訪れる。

やはり、カミダーリィとわかり一人前のユタを目指す。
ただしカミダーリィが起きた人が全員ユタになる訳ではないようだ。

「精霊から何代か前の先祖の葬られた場所を探し当てて供養しなければいけない。」

といわれ何年も探し歩いて彷徨しているユタもいる。
精霊にもやり残した仕事があるのだろう。
又、精霊と交流するうちに自分は特別な存在としてエゴがますます強化することもある。

無意識の抑圧に無自覚な人が妄想の中で神社巡りをつづけることもあるのである。
無意識に抑圧や緊張がある者が霊的な能力を得るとその能力故に自滅するケースもある。

突発的に神懸かりになる召命型のユタには人生でさまざまな災難が降りかかり、病気、貧乏、友人、家族、兄弟の死、夫の浮気、離婚などの苦悩と極端な不幸な経験をつむものが多い。

絶望しても死ねないことは普通の人では耐えきれない人生である。
しかし3次元の世界では不幸だがのちに神様の世界から見れば素晴らしい経験だという事を知るのである。

そして超自然的な出来事の中で思考が落ち、神に選ばれた自分の運命を受け入れ自覚した人がユタになるのである。

生まれながらのユタとして人々は「ウマレユタ」と呼び神と直接交流出来る人として特別視する。

ユタには人々をカミンチュ(神の人)に導くことを使命と自覚している人もいる。
カミダーリィを経ないでユタのもとに通っているうちに、ユタのシステムをおぼえていつのまにかユタ稼業を始める者を「ナライユタ」と呼ぶ。
探求、修行型は東北のイタコに相当する。


カミダーリィをシャーマンの病とも呼ぶが召命型のイニシエーションは世界中の先住民の文化に共通してみられる。

変成意識状態の中でシャーマンの今までの肉体は完全に解体される。

頭は切り離され手足と骨盤、関節はバラバラに分解される。
心臓や内蔵が生きたままとりだされる。
筋肉が奇麗にそぎ落とされ目がくり抜かれたりする。
体液が抜き取られ、そして釜で煮込まれたりする。

シャーマンはその間ほとんど息をせず臥せっているのである。
最後に骨が拾い集められ、肉がかぶせられる。

解体と再生は3日から7日続きイニシエーションは終了する。
これらはLSDやメスカリン、アヤワスカなどの向精神物質の摂取でも同様な報告がある。

シャーマンの病とはまさしく跳ぶ前に屈むことなのである。
http://homepage.mac.com/iihatobu/index.html


以前このブログで、私のうつ体験について書いたとき、インディアンのシャーマニズム(呪術的民間信仰)について詳しいある人が、

「先生の体験って、シャーマンのイニシエーション(呪術師になるための通過儀礼)そのものですね」

と話してくれた。


そう言われてみれば、自分ばかりでなく、うつの人のカウンセリングをしていても、自然とシャーマニズムについて話すことが少なくない。

どうやら私の目には、うつの人々とシャーマンとが、重なって見えることが多々あるらしい。

一体なぜそうなるのか、話の流れなどを具体的に思い出し、考えてみた。


シャーマンは、世界各地、特に古くから続く文化を踏襲している地域において、より多く存在し、日本語では「呪術師」あるいは「巫師(かんなぎ)」と訳される。

多くはトランス状態に入り、神の言葉を伝えるという職能の人々のことである。

日本で代表的なものとしては、巫女があげられるが、現在なお実質的な影響力を持つ人々として知られるのは、沖縄周辺の「ユタ」や青森県の「イタコ」が有名である。

青森県の「イタコ」の場合、視力障害を持つ人などが、その職能を身につけるために厳しい修行を行い、その立場を得る。

しかし、沖縄地方の「ユタ」の場合、一部の例外を除き、それまで一般人として生活していた人が、何らかのきっかけで一種の精神病様状態「カミダーリ(神障り)」に陥り、それを克服する中で、自らの「ユタ」としての能力と天命に目覚めていくという経緯をたどる。

イニシエーションにおいてシャーマンがたどるプロセスについて、井上亮(故人)という心理学者から聞いた話がある。

井上氏は大学に助教授として在任中、海外留学先を決める際、周囲の驚愕をよそに、さっさとアフリカはカメルーンの呪術師のもとに留学することを決め、1年を経て、実際に呪術師の資格を得て帰国した人で、さほど口数は多くないが非常に魅力的な人物であった。
シャーマンになるためのプロセスの中では、いくつかの課題を克服せねばならないという。
中でも、特に私の記憶に強く残っているのは、「孤独」と「恐怖」の克服である。

氏自身も、「恐怖」の克服こそがもっとも大きな課題であるとして、通過儀礼の中心に位置づけておられたように思う。

シャーマンの通過儀礼においては、「恐怖」の対象は、単なる観念ではない。

戸のない小屋で、夜一人で睡眠をとることを命じられ、ベッドに横たわっていると、黒豹が小屋の中に入ってくるというのである。

この黒豹は、たしかに実体ではあるが、ある大きな存在の化身らしく、普通に自然の中で生活している生きた黒豹とは違うようだ。

通過儀礼を受ける者は、これから逃げてはならないし、起き上がってもならない。

氏が儀礼を受けていた際も、確かにこの黒豹が、小屋に侵入してきた気配があったということである。

これまで自分が生活していた日常の世界から、未知の異世界へと通路が開かれていくとき、夢や物語の中では、異世界を象徴する存在は、しばしば獰猛な動物的性格を帯びる。

以前、このブログで『こぶとり爺さん』の解釈を試みたことがあったが、爺さんが最初に見た異世界の姿もまた、異形の鬼(妖怪)どもの宴であった。

そして、やはりこの爺さんも、「鬼に食われてもよい、わしは踊るのだ」という形で、恐怖を克服したのである。

ごく普通の人の場合でも、外部からの圧力によって表現することを妨げられた感情は、「怒り」という様相を帯びる。

それは、檻に閉じ込められた、あるいは鎖につながれた獣が、怒りのためにより凶暴になるというイメージに似ている。

異世界も異世界への通路も、潜在的にはとっくに存在していたのだが、ただ人の側にそれを受け入れる準備ができていなかったために、意識の向こう側に閉じ込められていたに過ぎない。

かなり前の放送だが、NHKスペシャル『脳と心』の最終章「無意識と創造性」に、宮古島のユタである、根間ツル子さんという女性が出演しておられた。

先に述べたユタの例に漏れず、彼女もまた離婚という節目をきっかけに精神病様状態となり、他のユタのもとを訪れて、「この人はユタになる人だ」と見抜かれたのだという。

都会であれば、「精神病」あるいは「人格障害」で片付けられてしまう状態だ。

根間さんに初めて神がかりが起きた頃、ある一つのことが強く訴えられた。

番組では、当時の神がかり中の根間さんの肉声が放送されていたが、まさに壮絶なまでの叫びであった。

「ああ私が悪かったぁー!…………
何としてもこの井戸を、これだけは、これだけは頼みます……!」

と、すでに使われなくなり、埋もれてしまっていたある井戸を再び掘りなおすことに、強く執着したのである。

根間さんは実際にこれを実現し、そしてユタとなった。

万物の根底にある地下水脈、地下世界という異界と、この世とをつなぐ通路。

根間さんの魂、あるいは宮古島の人々や自然の魂にとっては、それがその井戸だったと言えるだろう。

この場合、「井戸は、単に象徴に過ぎない」と言うことはできない。

心理的に大きな何かを乗り越えるというのは、単に「心の持ちようを変える」というのとは、まったく次元を異にする。

うつという病を乗り越えるにも、まず例外なく、ある現実との実際の闘いなくして、遂げられることはない。

だから根間さんも、実際に井戸を開通させねばならなかったのだ。

万物の根底にある地下世界のイメージによって表現される領域を、ユング心理学では「普遍的無意識」と呼ぶが、ユング自身もまた、当時ヨーロッパを席巻していたフロイト心理学と袂を分かった後、精神病様状態をともなう極度のうつを経験している。

そののち、ユングはこの考えを体系化するに至るのだが、彼もまた、フロイトとの決別という苦難に満ちた過程を経ることで、普遍的無意識に達する井戸を開通させたのだと言える。


うつの人々の特徴は、一言でいうならば、ものごとの本質・本筋・矛盾を見抜く目に、曇りがないことである。

だから、まわりの雰囲気や、慣習や、馴れ合いに流されず、いつも本当のことが見えてしまう。

要するに、非常にシャーマン的なのだ。

こういった人々の割合は、どれほど多く見積もっても1パーセントくらいではないかと、私は考えている。

はっきり言って、特殊と言わざるを得ない。

そして、そこにこそうつの人々の苦悩と劣等感がある。

一般の人々は、自力では大きな存在とは繋がれない。
それを導き、繋げてやるのがシャーマンである。

本来の姿のままに自然と人間とが有機的に絡み合い、人間性が生き生きとした文化の中であるならば、シャーマンのような立場となるべき人が、うつになるタイプの人々の中には少なくないのではないかと思うのである。

本来ならば、常に真実を見、正しい言葉を語り、尊敬を集めてこそしかるべき人々が、踏みつけにされ、もがき苦しまねばならない社会。

一体われわれは(というよりも私は)、これをどうすればいいのだろうか。
http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html

5. 中川隆[-9079] koaQ7Jey 2019年7月14日 15:04:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3611] 報告
日本の深層―縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫)– 1994/6/1 梅原 猛 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B7%B1%E5%B1%A4%E2%80%95%E7%B8%84%E6%96%87%E3%83%BB%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E6%96%87%E5%8C%96%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/4087481786

『日本の深層』梅原猛 松岡正剛の千夜千冊 1418夜
https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html

この本は梅原猛の数ある著作を画期する一冊で、
かつ、いまこそ読まれるべき「日本=東北」の深層をあざやかに解く一冊である。
ここには、石巻や仙台に隠された生をうけた梅原の、東北に寄せる深くて熱いまなざしが生きている。

縄文と蝦夷、アイヌと日本人、仏教と修験道、柳田国男の目、啄木の詩、賢治の心、さらには太宰や徳一を通して、 大胆な梅原日本学の入口が次々に示される。


 梅原猛の母上は石巻の渡波(わたのは)の人である。石川千代という。父上の梅原半二は愛知の知多郡内海の出身だが、東北大学の工学部に学んで、そのときに石川千代と出会い、梅原猛を仙台で生んだ。


 けれども両親ともその直後に結核に罹ってしまい、父は辛うじて治ったのだが、母上は悪化したまま1年半もたたずに亡くなった。猛少年はそのまま父上の実家近くの知多の片田舎に送られて、そこで梅原半兵衛の子として育てられた。

 このことは長らく伏せられていたらしい。梅原は仙台に生まれたことも、養父と養母以外に実父実母がいることもずっと知らなかった。梅原の懊悩はこのことを知ったときから始まっているのだという。

 しかしその懊悩は、やがて梅原の不屈の探求心と「負の思想」を駆動させてぶんぶん唸る内燃力となった。それが仏教研究となって火がつき、人麻呂の死への挑戦となり、それらがしだいに古代日本の各地の謎の掘り起こしへと広がり、総じてはいまや「梅原日本学」にまで至ったわけだった。

 人生においては説明しがたい事態との直面こそ、しばしば「ヴァレリーの雷鳴の夜」(12夜)をつくるのだ。

 ちなみに父上の梅原半二はトヨタの常務や中央研究所の所長を務めたトヨタを代表するエンジニアで、一世を風靡したコロナなどを設計した。梅原半二をそのように仕向けたのは豊田喜一郎だった。

 そんなことはつゆ知らぬ梅原猛のほうは、私立東海中学から2カ月だけ通った広島高等師範をへて八高へ。ついで西田幾多郎・田辺元の京大哲学科か、和辻哲郎の東大倫理科かのどちらかに行きたくなって、結局京大に進んだのだが、もはや西田も田辺もいなかった。

 こうしてギリシア哲学やハイデガーに向かっていくものの、しだいに虚無感に襲われて、いっときは賭博にはまり、これを脱するためにまずは「笑い」を研究し、ついで和歌論の研究に入っていった。1963年の壬生忠岑『和歌体十種』についての論考は、梅原のその後の日本古典研究の嚆矢となった論文だった。

 あとの経歴は省こう。本書は、そういう梅原が自身の故郷というか、原郷というか、日本人の母国である東北を、かなり本気で旅したときの記録である。紀行ふうになっている。

 梅原自身が本書で告白しているように、それまでの梅原はどちらかといえば「日本の中心の課題」を解くことを主にこころがけていたのだが、本書の旅をする十年ほど前から「辺境にひそむ日本」に注目するようになっていた。とくに縄文やアイヌとのふれあいが大きかったようだ。

 けれども東北にはなかなか廻れない。それが本書をきっかけに起爆した。あえてこの辺境の旅を『日本の深層』と銘打ったところに、梅原のなみなみならぬ覚悟が表明されている。30年前のことだ。1983年に佼成出版社から刊行され、さらに山形や会津の話が加わって文庫本になった。

 文庫本の解説は赤坂憲雄(1412夜)が担当した。「『日本の深層』は疑いなく、一個の衝撃だった。大胆不敵な、と称していい仮説の書、いや、あえていえば予言の書である」と書いている。

 梅原の数ある本のうち、今夜、この一冊をぼくがとりあげるのを見て、すでに数々の梅原日本学に親しんできた梅原ファンたちは、ちょっと待った、梅原さんのものならもっとフカイ本に取り組んでほしい、松岡ならもっとゴツイ本を紹介できるだろうに、せめてもっと怨霊がすだくカライ本を選んでほしいと思ったにちがいない。

 それはそうである。たしかに梅原本なら著作集ですら20巻を数えるのだから、『地獄の思想』『水底の歌』『隠された十字架』から『日本学事始』『聖徳太子』『京都発見』まで、なんとでも選べるはずである。しかし、いま、ぼくが梅原猛を千夜千冊するには、この「番外録」の流れからは本書がやっぱりベストセレクトなのだ。

 本書が梅原にとっての初の蝦夷論や東北論になっていること、その梅原がいまちょうど東日本大震災の復興構想会議の特別顧問になっていること、この20年ほどにわたって梅原は原発反対の立場を口にしてきたこと、そしてなにより梅原が仙台や石巻の風土を血の中に疼くようにもっているということ、加うるに、ぼくもまた東北のことを考えつづけているということ、本書が現時点でのベストセレクトである理由はそういう点にある。

 とくに前夜に森崎和江の『北上幻想』(1417夜)を紹介した直後では、梅原が本書で北上川をこそ東北の象徴とみなし、「母なる川」と呼んでいることを心から受け入れたい。


本書の旅程

 春秋2回の旅は多賀城から始まっている。大野東人(あづまびと)が神亀元年(724)につくった多賀城跡を見て、梅原は太宰府との違いを感じる。太宰府は海に向かって開こうとしているが、多賀城は北方を睨んでいる。多賀城の跡には蝦夷と対峙する緊張がある。

 ついで芭蕉(991夜)が「壷碑」(つぼのいしぶみ)と名付けた坂上田村麻呂(1415夜)の碑文を見る。例の「多賀城、京を去ること一千五百里、蝦夷の国界を去ること百二十里‥‥靺鞨を去ること三千里云々」という文章だ。この石碑にはヤマト朝廷の自負と、その管轄から外されている「陸奥」(みちのく)に対する睥睨があった。

 多賀城から石巻に入り、梅原は初めて母の縁戚たちを訪ねた。石川家の檀那寺や石川家の墓にも参った。意外に大きな墓だった。いろいろ自身の来し方は気になるが、そのまま塩釜・松島から大和インターの東北自動車道を一気に走って平泉に行った。

 3度目の平泉だったようだが、それまで梅原は平泉の平泉たる意義をほとんど掴めていなかった。それが今度はアイヌや蝦夷の文化に関心をもったせいか、少しは平泉の意味が見えてきた。安倍一族の奥六郡を藤原清衡が継承して拠点を平泉に移した意味、奥州における金採集がもたらした中尊寺金色堂の意味、そうしたことを背景にしてここにつくられていった“今生の浄土”の意味、そういうものがやっと見えてきた。

 さらに金色堂の一字金輪像を眺め、「東北のみならず、日本の仏像の中で最もすぐれた仏像だ」という感想をもつ。これは梅原らしい目利きであった。毛越寺の庭を見て観自在王院のよすがを偲び、毛越寺とは毛人(えみし)と越の国の蝦夷とを合わせたものかと想っているのも、なるほど、なるほどだ。


金色堂の一字金輪像

 花巻温泉に泊まって、和賀町で高橋徳夫・阿伊染徳美・菊地敬一・門屋光昭らと語りあい、この町の出身の東北学の泰斗・高橋富雄(1415夜)の東北論・蝦夷論に思いを馳せた。

 梅原は、倭国といういじけた名を「日本」という国名に転じ、大王(おおきみ)やスメラミコトに新たな「天皇」というネーミングをもたらしたのは、ほかならぬ聖徳太子の仕事だろうと断じてきた人である。ただし、それにしては当時の日本も天皇も、倭国このかた「西に片寄りすぎてきた」とも感じていた。そうしたなか、高橋富雄が北の日本を称揚し、「北上はもとは日高見で、日の本も東北がつくった言葉だった」という見方をつねに主張しつづけてきたことには、いたく酔わせられる。この気分、ぼくもとてもよくわかる。

 門屋光昭は鬼剣舞(おにけんばい)にぞっこんだった。誘われて、見た。鬼剣舞は、安倍一族の怨霊が一年に一度、鬼となってあらわれて、かつての恨みをはらすことを人々がよろこぶのである。そうであるのなら、東北にさかんなシシ舞もアイヌのイヨマンテの系譜であって、シシとは実は熊のことではないかと梅原は仮説する。そこには縄文があるはずだ。

 案の定、和賀川をさかのぼって沢内へ行くと、そこには太田祖電がつくった碧祥寺博物館があって、マタギの日々が展示されていた。梅原はマタギこそ縄文の民の末裔で、日本神話以前の神々を熊とともに祀ってきたのではないかと思う。

 花巻に戻って、あらためて宮沢賢治(900夜)がどのように東北を見ていたかということを考えた。

 岩手をイーハトブと、花巻を羅須と、北上川の川岸をイギリス海岸と呼ぶ賢治は、東北をけっして辺境などとは見なかった。奥州藤原氏初代の清衡に似て、「ここが世界だ」とみなしていた。梅原は傑作『祭の暁』や超傑作『なめとこ山の熊』を思い出しながら、賢治には民族の忘れられた記憶を呼び戻す詩人としての霊力があったと、語気を強めて書いている。のちに叙事詩『ギルガメッシュ』を戯曲仕立てにした梅原ならではの見方だ。

 賢治記念館から光太郎山荘に向かった。高村光太郎が昭和20年から7年間にわたっていた山荘で、昭和20年4月13日に東京空襲で焼け出された光太郎が、賢治の父の宮沢政太郎のすすめで花巻に疎開して宮沢宅にいたところ、8月10日にその宮沢宅も戦災で焼けた。それで光太郎は佐藤隆房の家に寄寓したのち、この山荘に移ったのだった。

 が、行ってみて驚いた。聞きしにまさるひどい小屋である。杉皮葺の屋根の三畳半の小屋だった。ここで光太郎はすでに死後7年たった智恵子の霊といたのかと思うと、胸つぶれる気になった。

 翌日は遠野に出向いた。案内役は佐藤昇で、続石(つづきいし)、千葉家の曲り家、遠野市立美術館、駒形神社、早池峰神社、北川家のおしらさまなどを順に見た。
 梅原が遠野に来たのは初めてである。あまりに広く、あまりに都会的なのでびっくりしたようだ。自分が読んできた柳田国男の『遠野物語』の世界とずいぶん違っている。それに梅原は、そもそも柳田が『遠野物語』を書いた理由がいまひとつ理解できないままにいた。なぜ柳田が佐々木喜善が語る不思議な話を収集して並べたてたのか。泉鏡花(917夜)には絶賛されたけれど、これが民俗学の出発点というものなのか。

 とはいえ、柳田を本気で読んでこなかった自分にも何かが足りないのだろうとも気づき、本書ではそれなりの取り組みを試していく。


卯子酉様の祠(遠野町)
『図説 遠野物語の世界』より

 柳田は当初は山人の研究をしていた。先住民の研究だ。山人の動向は『遠野物語』では死者から届く声のようになっている。ところが柳田は、山人よりも稲作民としての常民をしだいに研究するようになった。

 村落に定住している稲作民から見れば、遊民としての山人は異様なものと映る。徳川期の百科事典だが、『大和本草』や『和漢三才図絵』の中では、山人はなんとヒヒの次に図示されている。また常民としての稲作民は天皇一族につながる天ツ神を奉じ、これに対するに山人は国ツ神を奉じるものとされ、里人からは異人・鬼・土蜘蛛・天狗・猿などとして扱われた。

 実際の柳田は生涯にわたってこうした山人を重視し、畏怖もしていた。それはまちがいない。しかし研究者として山人を追求しすぎることに不安も感じた。梅原は、柳田がそういう不安をもつにいたったのは、明治43年の幸徳秋水事件の影響があったのではないかと推理する。天皇暗殺計画が“発覚”したという事件だ。柳田はかなり大きな社会の変化を感じたのではないか。山人、国ツ神、鬼、天狗、猿といった「体制からはみ出された民」の復権を学者があえてはかろうとすることは、不穏な思想として取り締まりにあう時代になりつつあったのである。

 こんなふうに、梅原は初めての遠野のことを書いていく。なんともいえない説得力がある。歴史や思想や人物についての自分のかかわりの欠如や希薄を率直に認め、そこから直截にその欠如と希薄を独力で埋めていこうとするところは一貫した梅原独得の真骨頂で、本書は旅の先々での記録になっているため、その“編集力”が如実に伝わってくる。 

 盛岡では県立博物館から渋民村に行った。ここでも梅原は幸徳秋水事件に衝撃をうけた啄木(1148夜)のことを思い、27歳で夭折した啄木に高い自負心と深い想像力があることを考える。それは啄木だけではなく、賢治や太宰治(507夜)に共通する東北性のようにも思えてくる。

 たしかに東北人には想像力に富む文人が多い。たとえば安藤昌益や平田篤胤、近代ならば内藤湖南(1245夜)や原勝郎‥‥。ぼくがついでに現代から加えるなら、高橋竹山、藤沢周平、長嶺ヤス子、土門拳、寺山修司、福田繁雄、石ノ森章太郎、井上ひさし‥‥。

 梅原はつねづね師匠格の桑原武夫(272夜)の口ぶりをついで、こうした風土的事情を「批評は関西、詩は東北」とも言ってきた。では、なぜ詩は東北なのか。啄木の歌や詩はゆきずりの女たちをみごとな恋の歌にしている。そうした女たちから愛されてきたことも歌っている。しかし啄木研究者たちはそれらが想像力の産物でしかなかったことを証した。啄木自身も『悲しき玩具』でこう歌った。

  あの頃はよく嘘を言ひき。平気にてよく嘘を言ひき。汗出づるかな。
  もう嘘はいはじと思ひき それは今朝 今また一つ嘘をいへるかな。

 梅原は書く、「想像力の能力は嘘の能力でもある。嘘は想像力の裏側なのである。東北の人たちの話を聞いていると、嘘か本当かよくわからないことがある。多くの東北人は豊かな想像力に恵まれていて、奔放な想像力のままにいろいろ話をしているうちに、その話に酔って、自分でも嘘と本当のけじめがわからなくなってしまうのであろう」。

 8月になって、ふたたび東北を訪れた。今度は花巻空港まで飛んで、そこから岩洞湖や早坂自然公園を抜けて岩泉に入った。このあたりの岩手県は何時間車をとばしても、集落に出会わない。日本列島でもこれはめずらしい。北海道を除いて本州ではあまりない。

 佐々木三喜夫の案内で龍泉洞へ行って湧窟(わくくつ)を見た。ワクはアイヌ語のワッカ(水)、クはクッ(入口)だろう。どうやら八戸の閉井穴(へいあな)という洞窟まで通じているらしい。東北は土と水でつながっている。

 宿に戻って、岩泉民間伝承研究会の『ふるさとノート』を読んでみると、畠山剛の『カノとその周辺』がおもしろかった。カノとは焼畑のことである。縄文中期に始まって今日まで至っている。このあたりではいまでも山を焼いて灰の上に種を蒔き、蕎麦や粟や大豆や小豆を栽培している。やっぱり東北は土と水の国なのだ。

 翌日、葛巻町から浄法寺町の天台寺に向かって、あらためて北上川の大いなる意味を感じた。

 ふつう、日本の多くの川は真ん中の山脈や高地から太平洋か日本海かに流れるようになっている。けれども北上川はちがっている。東北をタテに流れている。東の北上山脈と西の奥羽山脈のあいだの水を集め、長々と南下する。

 それゆえにこそ縄文・弥生・古代の東北はこの北上川によって育まれ、蝦夷の一族たちもここに育った。まただからこそヤマト朝廷はこの北上川にそって、多賀城・伊治城・胆沢城・志波城・徳丹城などを築いた。

 北上川こそ東北の「母なる川」なのである。安倍一族も藤原4代も、啄木も賢治も、この母なる北上川に母国の面影を見いだしたのだ。

 この北上川は七時雨山(ななしぐれやま)のあたりで、東と西に分かれていく。梅原が向かった浄法寺町は七時雨山の北にある。ここでは北上川は馬渕川・安比川になっている。奥六郡のひとつにあたる。蝦夷の本貫の土地であり、安倍氏の大事な土地だった。アッピとアベはつながっていた。

 浄法寺町の天台寺はこうした背景をもって、おそらくは安倍氏の力によって建てられたのであろう。天台寺というからには比叡の天台を意識したのだろうし、比叡山延暦寺のほうも、奥六郡を治める安倍氏の金や馬に目をつけたのであろう。

 ところが、いざ天台寺に入ってみて梅原が注目したのは、山門の仁王像に白い紙がいっぱい貼られていたことだった。顔にも胸にも手足にも紙が貼ってある。なんだか痛々しい。

 聞くと、この地方の人々は病気にかかるとここに来て、自分の病気の患部を仁王に当てて貼っていくのだという。なるほど関西にも、たとえば北野天神の牛のように悪いところを撫でるという習慣はある。けれどもこんなふうに紙をべたべた貼ることはない。

 こういう信仰は仏教そのものにはない。これは土着信仰がおおっぴらに仏教のほうへ入ってきているせいだ。おまけに天台寺の中心仏はナタ彫りの聖観音と十一面観音なのである。ナタ彫りの仏像も関西にはない。特異なものである。しかし梅原は一目見て、これは一代傑作だと感じた。亀ケ岡式土器につながる芸術感覚がある。

 このように奥六群の周辺の信仰感覚を見ていくと、ここはやはり縄文時代からの霊地であったろうという気がしてきた。


十一面観音体(左)聖観音(右)
『図説 みちのく古仏紀行』より


 国道4号線へ出て十和田市を通っていよいよ青森に入った。まずは成田敏の案内で県立郷土館の風韻堂コレクションを見た。亀ケ岡土器を中心にした縄文土器1万点のコレクションだ。溜息が出るほどすばらしい。

 郷土館では田中忠三郎が待ってくれていた。田中忠三郎といえば、ぼくには「津軽こぎん刺し・南部菱刺し・サキオリ(裂織)」などの東北古布のコレクターとしての馴染みがあるが、梅原には『私の蝦夷ものがり』の著者だったようだ。縄文文化の話の花が咲いた。

 そもそも縄文文化には大きく二つの興隆期がある。ひとつは縄文中期で約五千年から四千年前になる。諏訪湖を中心に中部山岳地帯に燃えるような縄文エネルギーが爆発した。神秘的な力をもっていた。

 もうひとつは後期の縄文文化で、東北と西日本に遺跡がのこる。こちらはエネルギーの爆発というより、静かで深みのある美を極めた土器群である。「磨消(すりけし)縄文」という。いったん付けた縄文を消した部分と縄文とのコントラストが美しい。亀ケ岡式土器は磨消縄文である。天台寺のナタ彫りはこの磨消縄文に通じるものだった。

 亀ケ岡文化を飾る遺品に、もうひとつ、土偶がある。遮光器土偶や女性の土偶が有名だが、梅原は弘前の市立博物館で見た猪の土偶と郷土館で見た熊の土偶にいたく感銘している。まことにリアルな模造なのだ。人体をデフォルメしてやまない縄文人がこうした動物をリアルにつくったことに、梅原は新たな謎を発見していく。


猪の土偶(上)と熊の土偶(下)


津軽こぎん刺し
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より


南部菱刺し
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より


サキオリ
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より


 8月は東北の祭の季節である。恐山の大祭(地蔵会)、秋田の竿燈、岩手の鹿踊り、山伏神楽‥‥。

 いずれも盆の祭であって、死霊を迎え、それを喜ばせ、それを送る。そこで8月末に津軽に行った。ねぷたの里である。この里は新たに造営されたところで、毎年のねぷたの良品を展示している。

 ねぷたの起源は坂上田村麻呂の蝦夷征伐にあるという。東北には田村麻呂伝説と義経伝説がやたらにあるが、なにもかもが田村麻呂のせいではあるまい。もともとは精霊流しが母型だったはずである。しかしねぷたの狂騒的熱狂やそのディオニソス性を思うと、そこには田村麻呂と蝦夷との闘いがよみがえるものもある。

 青森のねぷたと弘前のねぷたはちがうらしい。青森の連中は青森ねぷたが本物で、弘前ねぷたはダメだと言う。弘前では青森ねぷたは下品で弘前ねぷたが昔のままを継いでいると言う。こういう津軽人の相互に譲らない自信は津軽の風土から来ているのであろう。

 梅原は津軽を一周することにした。10時に青森を発って外ケ浜を北上し、蟹田(かいた)で西に入って今別から三厨を通って竜飛岬に向かう。そしてふたたび今別から南下して、今度は西に行って市浦(いうら)から十三湊(とさみなと)を見て、金木町・五所川原に着く。実はこのコースは太宰治の『津軽』のコースにもなっていた。金木町は太宰の故郷である。

 太宰は『津軽』で書いている。津軽の者はどんなに権勢を誇る連中に対しても従わないのだと。「彼は卑しき者なのぞ、ただ時の運の強くして、時勢に誇ることにこそあれ」と見抜くのだと。その一方で、太宰は津軽人があけっぱなしの親愛感とともに、無礼と無作法をかこっていることを書く。あけっぴろげにするか、すべて隠すか、二つにひとつなんだとも書いた。

 もう少し正確にいえば、津軽の親愛の力は相手にくいこむ無作法によって成り立っているのだ。梅原はそこに、啄木にも賢治にも感じられる真実と想像とを区別しなくなる東北的詩魂のマザーのようなものを見た。


たちねぷた 毎年1体が新調される
『東北お祭り紀行』より

 金木町には太宰の生家の斜陽館がのこされている。観光客はみんな行く。しかしこの町で梅原を驚かせたのは川倉地蔵のほうだった。

 何百という地蔵が並んでいるのだが、そのすべてが赤や青の現色の着物をまとい、顔に白粉や口紅をつけている。まことに不気味。これは生きている人間ではない。死んだ人間たちだ。

 太宰はイタコについては何も書かなかったけれど、梅原はイタコの力を思い出し、さらに以前、弘前の久渡寺(くどじ)で見た数百体のおしらさまを思い出していた。そのおしらさまたちも金銀緞子の衣裳をつけ、信者たちは手に手に長い箸をもって祈っていた。

 久渡寺は密教寺院だから、僧侶がやることは真言密教の儀式にもとづいている。しかし、おしらさまの前で信者たちが見せている祈りの姿は、もっと以前からの母型性をもっている。

 実は梅原はこの旅の20年ほど前に、恐山のイタコに母親の霊をおろしてもらっていた。梅原の母上が梅原を生んで1年ほどで亡くなったことはすでに紹介しておいたが、そのため、梅原には母の顔や母の声の記憶がない。その母の声をイタコは乗り移って聞かせたのだ。

 津軽弁だったのでよくは聞き取れなかったけれど、よくぞおまえも大きくなったな、立派になったな、わたしも冥土でよろこんでいるというところは、辛うじてわかった。

 梅原はこの声が母の声だと感じた。同行していた友人たちは、終わって3倍の料金を払おうとしていた梅原の頬に、何筋かの涙が流れていたと言った。

 生者と死者は切り離せない。そこに大地震や大津波があろうとも、切り離せない。イタコとゴミソとおしらさまもまた、これらは切り離せないものたちなのである。


家にイタコを呼び、おしらさまを遊ばせて1年を占った
それが久渡寺に数百体も集まっている
『東北お祭り紀行』より


 次の旅は秋田の大館、能代から酒田に向かう旅である。途中に八森(はちもり)に寄った。加賀康三所有の「加賀家文書」を見るためだ。

 加賀家文書というのは、幕末に加賀屋伝蔵という者が蝦夷地に渡って、そこで蝦夷(エゾ)の通訳をしていたのだが、その伝蔵にまつわる文書のことをいう。松浦武士郎が伝蔵に宛てた手紙なども含まれているのだが、梅原が見たかったのは伝蔵がつくったアイヌ語の教科書だった。

 梅原がアイヌ文化に関心をもったのは、昭和54年に藤村久和と出会ってからのことである。以来、蝦夷の文化は縄文の文化で、その蝦夷の文化をくむのがアイヌ文化だという考えをもつようになった。ところが、このような見方は学界ではまったく否定されてきた。アイヌ人と日本人は異なる種族で、アイヌ語と日本語もまったく異なっている。

 これは金田一京助が確立した大きな見方で、アイヌ語は抱合語であるのに対して、日本語は膠着語であって、仮に類似の言葉がいくらあろうとも、それは一方から他方への借用語か、文化の濃度差による移入語であるというものだ。金田一によってアイヌと日本は切り離されたのである。

 しかしながら梅原はこの見方に従わない。屈強に抵抗をして、縄文≒蝦夷≒アイヌという等式を追いかけている。その後も、いまもなお――。学界的には劣勢であるが、学界というところ、けっこうあやしいところもいっぱいあるものなのである。

 八森から男鹿半島に入って寒風山に登った。このあたりはなまはげの本場である。祭の中心には真山神社がある。

 なまはげは坂上田村麻呂に殺された蝦夷の霊魂を祀るとも言われている。またまた田村麻呂の登場だが、もしもそうなのだとしたら田村麻呂以前に秋田に遠征した阿部比羅夫についてはそうした反抗の記憶がのこっていないので、やはり田村麻呂には強い中央に対する反発が残響したのだということになる。

 しかしこれをもっとさかのぼれば、ここには蝦夷やアイヌがそのまま残響しているとも考えられてよい。アイヌ語でパケは頭のことをいう。なまはげとは生の頭、生首のことなのだ。証拠も何もないけれど、そういうふうなことも思いついた。梅原は本書のみならず多くの著作のなかで、こういうツイッターのような呟きを欠かさない。のちのち別の著作を読むと、その呟きがけっこうな仮説に成長していることも少なくない。

 秋田、本庄を素通りし、この夜は酒田に入った。土門拳(901夜)の故郷である。しかしこの夜はアイヌの夢を見て眠りこんでいたようだ。


ケデ、腰ミノ、ハバキ、面をつけて、なまはげに変身する
『東北お祭り紀行』より


 次の旅では妻子とともに出羽三山をまわった。海向寺で忠海上人のミイラに直面し、羽黒山で正善院に寄り、湯殿山では総奥之院を詣でた。ここでの体験と思索は、ふたたび三たび、梅原が新たな“深層編集”に挑むためのものだった。

 仏教の研究から日本思想に入った梅原にとって、修験道はただただ奇異なものにすぎなかった。吉野大峰であれ、英彦山であれ、出羽三山であれ、仏教や仏教思想とはなんらのつながりのない土俗的な呪術に見えていた。こういうところは、ぼくと逆である。ぼくは早くに内藤正敏と出会って遠野や出羽三山に親しんだ。桑沢デザイン研究所で写真の講師をしていたときは、学生たちに真っ先に勧めたのは出羽三山旅行だった。

 そういう梅原ではあったらしいけれど、縄文にさかのぼる日本の深層に関心がおよんでからというものは、修験道は梅原の視野を強く刺激するようになってきた。このへんの事情も正直に本書にのべられている。

 羽黒山の開祖は能除太子で、崇峻天皇の第二皇子だとされている。蜂子皇子ともいわれた。しかしその像の容貌は容貌魁偉というどころか、ものすごい。あきらかに山人の顔だ。けれども羽黒山が能除太子を開祖にもってきたことには、深い暗示作用もある。崇峻天皇は仏教交流に大きな役割をはたしながらも、蘇我馬子に殺された。その皇子が祀られたのには、遠い山人との交差がおこっているはずなのだ。

 湯殿山の御神体は湯の出ている岩そのものである。岩も重要だし、湯も重要だ。とくに東北においては、縄文以来、湯を大事にしてきた。

 その湯は岩とともにある。縄文遺跡の近くに温泉が湧いていることが多いのも、東北の本来を物語っている。

 帰途は最上川をさかのぼって、天童、作並温泉をへて仙台に出た。空港では源了圓(233夜)夫妻が待っていた。源はこのころは東北大学の教授で、梅原が信頼する数少ない日本学の研究者だった。

 こうして春秋2度にわたる東北の旅が終わり、仙台空港から梅原は機上の人となって関西へ、京都へ帰っていくのだが、この紀行文が『日本の深層』として佼成出版社から刊行されると大きな反響になったとともに、山形や福島の読者から、これではわれらの故郷がふれられていない、残念だという声が寄せられてきた。

 そこで、この文庫版には別途に書かれた会津の章と山形の章が入れられた。あらかた次のようなものになっている。

 会津についての地名伝説の一番古いものに、『古事記』にのっている話がある。崇神天皇が大彦命(オオヒコ)を高志道へ、その子の建沼皮別命(タヌナカワワケ)を東国に遣わして、まつろわぬ者たちを平定するように命じた。そのオオヒコとタヌナナカワワケが父子で出会ったのが会津(相津)だったという記述だ。高志道は越の国のこと、東国は「あづま」で、関東を含めた北寄りの東国をいう。

 越の国にも東の国にもまつろわぬ部族たち、すなわち蝦夷(エミシ)がいて、これを平定しようとしたという話だが、そしてどうやらその平定ができたという話だ(ちなみに、それでもまだまつろわぬ者たちがいたのが陸奥と出羽だった)。もっとも、これは表向きの話だ。

 崇神天皇の時代はだいたい4世紀前半にあたる。梅原はこの古代エピソードには、会津地方が縄文文化と弥生文化の出会いの場所であって、二つの文化が重なっていった場所だという暗示がこめられていると見る。

 よく知られているように、越後には火焔土器が目立つ。越の蝦夷による造形だったろう。記紀神話に登場する須勢理媛(スセリヒメ)はこの越の蝦夷たちの後継者で、かなり神秘的な地域を治めていたのだと思われる。会津地方は阿賀川などの水系交通でこの越とつながって、縄文土器の国々をつくっていた。火焔土器に似た土器が出る。

 その一方、会津地方は弥生文化が早くにやってきた地域でもあった。盆地のせいだったろう。弥生中期の南郷山遺跡に出土する弥生土器はそうとうにすばらしい。こうして、縄文と弥生がここで交わった。それは「日本」の成立というにふさわしい。

 梅原は他の著作でも何度も書いているのだが、縄文が終わって弥生が栄えたとは見ていない。農作の文化が広まって、政治制度や社会制度に大きな変化があらわれていても、信仰や習俗はかなり縄文的なるものを継続していたとみなしている。倭人とは縄文人と弥生人の混血でもあったのだ。ただ、その「日本」や「倭人」のその後の継続のかたちや活動のしかたが、西国と東国、また畿内と東北ではかなり異なったのだった。

 会津を象徴する人物に徳一がいる。古代仏教史上できわめて重要な人物で、最澄と論争し、空海(750夜)が東国の布教を頼もうとしたのに、その空海の真言に痛烈な文句をつけた。

 南都六宗の力が退嬰し、道鏡などが政治的にふるまうようになった奈良末期、この古代仏教を立て直すにあたっては、二つの方法があった。ひとつは旧来の仏教を切り捨てて新たな仏教を創造していく方法だ。これを試みたのが最澄や空海の密教だった。

 もうひとつは、旧仏教が堕落したのは組織と人間がよくなかったのだから、別の土地に新たな寺院と組織をつくって、倫理的回復をはかるという方法である。前者がカトリックに対してプロテスタントがとった方法だとすれば、後者はイエズス会がとった方法で、徳一はこの後者の方法でイエズス会が海外に布教の拠点を求めたように、東国や東北に新たな活動を広めていった。

 時代が奈良から平安に移ると、都を中心に最澄と空海の密教が比叡山や高雄山(神護寺)や東寺などに定着していった。このままでは奈良仏教は旗色が悪い。しかし最澄と空海の論法に旧仏教はたじたじだった。そこで東北の一角から徳一がこの論争を買ってでた。

 最初は最澄を相手にした。このとき徳一は牛に乗り、その角のあいだに経机をおいて、最澄の教義を破る文章を書き上げたという。日本ではめずらしい激越な論争であるが、このときの徳一の文章はのこっていない。

 空海のほうは徳一の才能を認めて、むしろ北への密教の拡張を託したかった。しかし徳一はこれを拒否して、痛烈な批判を書いた。この批判は『真言未決文』としてのこっている。ぼくも読んだが、11にわたる疑点をあげたもので、まことにラディカルだ。

 平安期以降の会津は、この徳一のおこした恵日寺を中心に仏教文化を広げていった。まさにイエズス会である。恵日寺は磐梯山信仰ともむすびついたようだ。火山爆発に苦しむ住民の救済力として信仰されたからだ。同じく常陸の筑波山寺も徳一によって新たな拠点になっていく。

 恵日寺のその後について一言加えると、いったんは会津仏教王国のセンターとなるのだが、源平の合戦のとき、恵日寺の僧兵たちが越後の城氏とともに平家側についたため、木曽義仲によって滅ぼされるという宿命になっていく。だからいまはその七堂伽藍の偉容は拝めない。

 梅原はこうした徳一の断固たる活躍や恵日寺の宿命には、その後の会津が奥羽列藩同盟や戊辰戦争で背負った宿命のようなものを感じると書いている。白虎隊の滅びの精神は夙に徳一から始まっていたわけなのだ。

 古代の奥羽は陸奥国と出羽国から成っていた。出羽の中心に山形県がある。梅原は山寺や、小国町を見て、最後に福島の高畠町の日向窟に向かい、自身の内なる東北を埋めていく旅となった。

 この旅では、芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだ山寺についての随想がおもしろい。まず慈覚大師円仁が建立した経緯の背後を調べた。円仁が朝廷の意向を携えて東北の布教に向かったのだとして、その宗教イデオロギーの背後にひそむものを見つけたいからだ。

 調べてみると、ここが立石寺として「立て岩」を重視してきたことが見えてくる。立て岩は縄文以来の日本人の崇拝の対象である。ストーンサークルは東北各地にのこっている。円仁はその立て岩に香を炊いて天台仏教の色に染め上げようとした。そのため、いまではこの岩は「香の岩」とよばれる。しかし、そこにはさまざまな軋轢があったはずである。

 伝承では、この地を所有していたのは磐司磐三郎というマタギの親分だった。そこへ円仁がやってきて、説得されてこの地を譲った。磐司磐三郎はそのため秋田のほうに移ったことになっている。そこでこの地は聖地となって、山の動物さえ円仁に感謝したという昔話になった。

 が、これはもともとがマタギの聖地だったから、それを消すわけにはいかなかったのである。梅原はそのように見て、結局は京都の朝廷が仏教的自己聖地化をはかったのだと考えた。

 山寺の奥の院には、絵馬と人形がたくさん納められている。その絵馬には結婚した若い夫婦が描かれている。

 この息子や娘は、実は幼いときか、子供の頃に死んだ者たちなのである。それを両親が自分の子が結婚をする年頃になったろうとき、絵馬に花嫁あるいは花婿の姿を描いて納めたのだった。顔はおそらく亡くした子の面影に似ているのであろう。

 このように死んだ息子や娘の結婚式をするという風習は東アジアにもあるようだが、これは決して仏教の思想によるものではない。仏教ではこの世は厭離穢土であって、だからこそ死ねば極楽浄土に行けると説いていく。こういう仏教観にもとづけば、死んだ息子も娘も浄土に行ったと考える。ところが、ここには失った哀れなわが子を、この世と同様の幸せでうめあわせてあげたいという気持ちが溢れている。このような感じ方を円仁が広めたはずはない。

 このように見てくると、山寺は死の山でもあったのである。ここは死の国の入口でもあったのだ。マタギはそのことをよく知っていたのであろう。

 そして、そうだとすると、梅原には「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句も別の意趣に感じられたのである。芭蕉が奥の細道を通して把えようとした意図が、日本の深層への旅だったと思えてきた。

 ぼくも想うのだけれど、3月11日で失った子供たちが結婚する年頃になったとき、今の東北の人たちが何をどのように手向けるか。将来の日本の心が、そのようなところにもあらわれるのではないかと予想する。
https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html





6. 中川隆[-9078] koaQ7Jey 2019年7月14日 15:05:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3612] 報告

出羽三山巡り・新潟五頭山キャンプ場 - We Will Rise OE/HSPな日々
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出羽三山巡り・新潟五頭山キャンプ場 2012年09月11日16:54

パタ子の気づきがあってから、
落ち着いて、かなり軽くなった。
驚き。

自分には、強い無気力人格の問題もある。
その人格も、もっと見ていく必要がある。
あと苦虫噛み潰したような、
いつも面白くないって感じてる人、
それが誰なのか、今出てる人格の中にいるのか、
新しい人格か分からない。
いつもイラっとして、小言言いたくなるような。
これも父の姿とダブる。
パタ子が人に気を遣いまくって疲れるから、
家では不機嫌になるのかな、とも思ったり。

で、夏最後の旅は、
出羽三山回る事にしたが、
ヌル湯も入りたくて、
比較的山形に近い、ラジウム泉のある五頭温泉郷に、
ムリヤリ来たのだ。
前に、蛍を見るために、五頭温泉郷の、
出湯温泉に泊まった事がある。
蛍の生息できる環境を守ろうと、
合成洗剤などを、完全無添加洗剤に変えてる所だ。
自炊や素泊まりをやってる宿がなかったため、
すぐ近くの五頭山いこいの森キャンプ場の、
バンガローに泊まる事にした。

バイクに乗ったら、やけに身体が軽い。
バイクにまたがった瞬間から違う。
足着きも良くなってて、
いっつもタンデムだからシートが沈んだのか、
自分の足が伸びたのかと思ったぐらいだった。
このバイクに馴染んだ、とも思った。

バイクは、車より体力の消耗が激しい。
新潟に行く時に、いつも休憩するSAがあるんだけど、
そこまで行くのも結構疲労感がある。
ところが、パタ子の気づきで軽くなったからか、
今日はそんなに疲労を感じない。
やたら元気だ。
このまま目的地までの250km、
一気に走ろうかと思った。
しかーし、ガソリンが半分になり、
この先百何十キロGSがないと来たので、
いつものSAに入る。
とにかくこの身体の軽さは、尋常じゃない。

SAで、Mが、
今日、すごくグラウンディングしてる、と言う。
バイクが地に足ついてる、と。
やっぱ分かるのか。
今日は、乗る時から、感覚が違ったんだよね、と話す。

五頭温泉郷、
まずラジウム泉で有名な「村杉温泉」と、
38℃源泉掛け流しのヌル湯の、
「出湯華報寺共同浴場」に入ろうと思ってた。
けど、時間も迫ってきてたし、
出湯華報寺共同浴場は前にも入った事があったし、
ヌル湯は、一つのとこで
長く浸かった方がいいだろうってことで、
村杉温泉の長生館だけに寄る。
まず杉村温泉足湯の側の飲泉所で、
温泉水を汲んでから長生館へ。
この宿には、26℃のラジウム源泉風呂がある。
ヌル湯と言うより、寒湯だが。
暑い日々はもう終わり、
サクッと雨が降ったようで、この日気温が低く、
真夏なら26℃も気持ちいいだろーに、
寒くて寒くて「遅かった!」と無念。
出湯華報寺共同浴場なら、
適度なヌル湯が楽しめたのだが…

しかし冷たいとはいえ、
ラジウム泉の不思議なところ、
私は歩くバランスが悪いのか、
臓器が疲れてるのか、
いつも右足の裏に、
筋肉がつってる部分がある。
普通の風呂ではいくら揉んでもほぐれないのに、
ラジウム泉で揉むと、短時間でほぐれる。
ホントにあっという間だ。
栃尾又のラジウム泉でもそうだった。
左手の浴槽が源泉風呂。
冬は確実に入れないだろう。
すぎ
感じようとすればするほど、
温泉の泉質というか、
湯の特徴と言うか、
その微妙な違いが分かってくる。
要は、湯のエネルギーを感じるようになってくる。
でもって、自分の身体に意識を向けると、
それに対して、身体の反応も分かる。

Mが、源泉風呂のとこに張ってあった
「彩雲」と書いてある張り紙を、
「彩雪」と読み間違える。
よく読んでみ、と言ってるのに、
「彩雪だ、何が違うのか」と言い張る。
何回言っても気づかないので、
「雲だろ!!よく見ろ!」と怒ったら、
初めて気づいた。
「れんげが間違って…」などと言ってるけど、
間違わないよ、フツー。

狙ってた手打ち蕎麦屋が、
ことごとくやってなかったので、
五頭で有名らしい釜飯屋「山茂登」に入る。
注文来てから炊き上げる、とか。

ここでもM読み間違え。
割り箸の袋に「山茂登」と店名が入ってて、
上に「やまもと」とフリガナがふってあって、
私は、山茂登って、やまもと、と読むのか、と
フツーに思ったらMが、
「これ『やまちと』って読むんだね!」とおバカ全開。
やまちと??
何でだよ!
一度ならず二度までも!

「本当にやまちとって書いてある?
 もう一度読んでみなよ」と、
最初は穏やかに言ってるのに、
「やまちとだ!何が間違ってるんだ!!」と、
よく見もせずに跳ね返す。
跳ね返す。
自分が正しいと言い張る。
あまりに強情なので、
「『も』が『ち』に見えるのか?!アホ!!
 何歳だ、貴様、
 なぜ人の言った事をきちんと受け取らない?
 なぜきちんと見ない?
 温泉でもそうだったけど、
 何で自分が正しいと思い込み、
 他人の言うことを跳ね返す??」
と、言いたくもない説教を。
学力の問題はともかく、
思い込みの激しさと、
言われてるのにそれを跳ね返し、
間違いを認めたくないってのにカチンときた。
今度は、空が間違いました、とか言ってるけど、
人格のせいにして、
逃げてないすか?
かまめし

雨が降ってきた。
一時的に激しくなり、
キャンプ場まで、
あと1キロぐらいしかないのに足止め。

管理人の人は、用事があってずっといないので、
着いたらそっち行くから、
夕方に連絡ちょーだいと言われてた。
でも結局、
明日の精算は朝でいい、鍵開けてあるから、
そのまま勝手に入って、と言われたので、
それをいい事にタラタラしてたら真っ暗。

少し雨が晴れて来たので、キャンプ場へ。
暗いので、あやうく看板見落として、
五頭山へ入ってくとこだった。
今は経験もあるし、ナビもあるから、
道を間違う事はまずないが、
昔は、道に迷って、
ここは四次元か、クラインの壺にはまったかと、
泣きそうになりながら走った事も多々あった。
それも今となっては懐かしい。
死にそうに怖かった経験も、
全て楽しい思い出に変わる。

さておき「暗いから気をつけて」と言われてはいたが、
ホント暗い。
暗い!
しかもライトを忘れたと来たもんだ。
駐車場にあった看板で、
バンガローの位置を確かめたけど、
見えないってのは致命的だな。
場所的に、こっちだろうと歩く。
Mはやっぱり方向音痴。
でも、方向音痴ってのは、
要するに慣れてないだけで、
地図なんか読めなくても、
自力で行くしかないと思えば、
そのうち読めるよーになるだろ。
言い訳じゃ。

バンガローの中に、ゴキの小さいのがいた。
Mがホウキで掃き出す。
二匹目も発見。
掃き出す。
うーむ…
不潔はイヤだ…

瞑想してたら、バタバタッと、
屋根に時折落ちる雨の雫?の音が、
気になって落ち着かない。
ネガティブな感情が湧いてくる。
五頭山の自然で、
リフレッシュしようと思ってたけど、
不潔さや音などが気になって(Mにも)、
あの奇跡的な体の軽さはどこへやら。
翌日朝は、スッキリしなかった。

Mによると、ここの山に白い鹿が出るらしい。
事務所に写真が貼ってあったとかで、
ヌシがいるんだよ!と言ってたが、
それMに言われたの、キャンプ場出た後だった。
早く教えて欲しかった。
写真、見たかった。
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出羽三山巡り・羽黒山 2012年09月11日16:18
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前日、出湯温泉の、
華報寺共同浴場に入らなかったので、
せめて足湯の飲泉所で、
源泉を汲んで行こうと思った。
華報寺共同浴場の単純泉とは、源泉が違う。
出湯温泉・弘法の足湯は、ラジウム泉。
それにしても空海は、
南から北まで足跡があるのが凄いなと。
しかもいつも温泉を掘り当ててる。
期待しつつも、足湯は10時から営業で、
鍵がかかっててお湯は汲めなかった。
断念して山形、鶴岡市へ。

この日の予定は、羽黒山。
出羽三山は、羽黒山、月山、湯殿山からなり、
順番的に、羽黒山(現世利益)→月山(来世、死後の体験)
→湯殿山(生まれ変わり)、と回るらしい。

新潟から山形へ、
日本海側の一般道をひたすら走るルートだが、
高速、有料道路がけっこう伸びてた。
私の持ってる数年前のツーリングマップにはなかったし、
去年買ったナビにも、なせが入ってない。
伸びた分、ナビが混乱してる。

新潟県の新発田市には、
濃ゆい温泉が色々あるらしーが、
時間ないので寄らない。
いつかじっくり回ろう。
途中、新潟県朝日町の道の駅の温泉で、温泉を汲む。
だけ。
時間がないので入らない。
施設の中に飲泉所があるらしーので、
そこで係りの人に汲んでもらった。
基本的に持ち帰りはやってなくて、
お風呂入って、その場で飲む形なので、
あまり時間をおかないで飲んで下さい、と釘を刺される。
確かにお湯は時間とともに劣化する。
鮮度は命だ。
何事も。
Mが数日前に、
やると思った時にやれ、
時間が立つと、気力も何もかも落ちる。
そのうちそれに慣れて、
やらない状態が心地良くなってしまう、
というメッセージを貰ったと言ってた。
チャンスも逃すし、先延ばしはイイ事なし。
ちなみに「笹川流れ」が有名らしいが、見るヒマもなく。
途中雨にあうが、次第に晴れる。

羽黒山の山頂には、
羽黒山、月山、湯殿山の三山の神を合祭した、
三神合祭殿がある。
2446の石段と杉並木を歩いて登るのだ。
上まで車で行けるけど、
こーゆーのは、下から歩かなきゃ意味がない。
途中国宝五重塔もある。
Mは、石段の途中の茶屋で、
蕎麦食べるんだと言ってる。
また食べること…

実は6、7年前、羽黒山宿坊「宮下坊」に泊まった事がある。
精進料理は美味しかったが、
近所のおばあさんの味付けで、
やたら甘かったのを覚えてる。
朝の祈祷で、でかい札(何て言うのか分からない)
を貰ったんだけど、神棚がないと言うと、
神聖な物なので神棚がなければ渡せない、
こちらで預かる、と言われ、厳しいんだな、と思った。
月山登山なども案内してるらしい。
当時は山登りなんてまるで興味なく。
むしろイヤ。
近くの映画村なども案内すると言われたんだけど、
次の目的地まで走んなきゃならなかったから、
丁重にお断りした。
何だかんだ言って、羽黒山には4回は来てる。
ツーリング初年に、Oとも来てるし。

昼過ぎに着いた。
相変わらずの杉並木。
石段は疲れる。
歩いて、歩いて、
石段の途中の茶屋で水を買って少し休む。
その時、ちょうどSから電話。
財布なくしたり、子供のアレルギーあったり、
最近良くないことが続く、らしい。
「良くないこと」
一時的に見たらね。
良い・悪い、幸・不幸など、
人はすぐ物事をそう判断するが、
長い目で見たら、ただの経験だ。
自分の中の何が原因で、それを引き寄せ、
何を自分に教えてくれてるのか。
悪い事や不幸、苦しみ、悲しみなどは、
自分を見つめるチャンス。
ポジティブな体験だけしたいなんてのは幼稚だ。
Mの物忘れや物を失くすのは、
尋常じゃないけど、
あれはまさしく意識がどっかにぶっ飛んでて、
「今を生きてない」って事だ。
今を生きなければ、過去のパターンを繰り返すのみ。
私だって一瞬一瞬、そこに生き、
常に新しい選択をし続ける事を、心がけてるけど難しい。
同じパターンを選ぼうとするエゴ、人格。
これは、自分の思考との戦いだ。
結局やらなきゃないのは、
ここなんじゃないか。
見つめるべきとこはここしかない。
自分の思考を崩し、パターンを変える事。
パターンを変えるのは容易じゃない。
エゴや人格に気づき、離し、
一瞬一瞬、意識的に生きる努力が必要だ。

そのまま頂上へ。
朝から疲れがとれない感じで、
黙々登る。
何だかイラっとしてる。
朝、雨が降ったらしく、
濡れてるのも影響してるかもしれない。
私は湿気が苦手だ。
神々しい杉並木も、陰な感じで、
濡れてるのが、気持ち悪い。
だらしない人格もいるのに、
汚い事を極端に嫌う人格もいる。
だからキャンプ場という場所も、
楽しむ人と、
汚くてイヤだという人がいる。
この強迫的な部分は、
ジメジメした湿気と、特にトイレに関して出る。
とにかく気持ち悪い。

頂上に着き、瞑想を試みるが、
後から登ってきた、ババ達が、
大声で話してたのにイラつき、集中できない。
上で待ち合わせしてたのか、
ジジと合流し、早かったな、とか大声で話してる。
このイラつく気持ちを言葉にするなら、
「ここは神聖な場所だろ、下界じゃねえ、
 私はここで瞑想したいのに、
 ウルサくて集中できない!」って感じか。
私は、ちょっとした音に過敏に反応したりする。
不眠とはほとんど縁はないけど、
ちょっとした物音で眠れなくなったりはする。
大勢で瞑想してる時とかも、
誰かが「ハァ〜」と大きく息を吐いたりすると、
途端に気になって、
イライラして集中できなくなる。

そんな感じでイラつきながら拝んでると、
「マリー・アントワネット」って名前が浮かぶ。
マリー?
「散財し、民衆の反感買って絞首刑」字余り。
俳句になってしまう。
朝日新聞の日曜版にベルバラの四コマが連載されてる。
こないだは、マリー・アントワネットの、
別荘にかけた費用やら、民衆の反感がどうとか、
そんな事が書いてあったのを読んだ。
それと何が関係あるんだ?と、思った。
私のイラつく人格が、
民衆の声を聞かない=他人の声を聞かない=人と繋がれてない、
みたいなことか?と思った。

人にはそれぞれ生きる道があり、
別に神社で騒いだっていいんだけど、
私がうるせえよ、と怒ってるので、
身勝手だと言われたか?
それとも私が、ジメジメや不潔なとこが実は嫌いで、
旅に出る度に「キモイ」と思い、
綺麗なとこがいいって人格がいるって事か。

その事をMに話したら、
私のイラっとするとこや、
小姑みたいにウルサイとこを嫌うMが、
「マリーさん」と、
嫌味っぽく、チャカして何回も呼ぶので、
またイラっとした。
人の人格、勝手に作らないで下さい。
Mがいつものように、
コロコロ人格に乗っ取られてるので、
それにもイラっとする。
昨日の、小学生でさえ間違えないような、
字の読み間違えといい、
そんなんでいいの?とサクッと説教してしまう。
一通り拝んだ後、
参集殿の喫茶で、抹茶とごま豆腐セット。
IMG_3025.jpg

降りてきて、坂の途中の茶屋で休む。
蕎麦と力餅、ところてん。
店の人が言うには、
朝、かなりな大雨が降ったらしい。
今は快晴だけど、そのおかげで、
下から登って来る人が少ない、と。
久しぶりの雨だったので、
木々は喜んで…と話してた。
マイナスイオン浴びれて、独占できていいでしょ、と。
確かに。
そして、受け取り方によってこんなに違うんだな。
確かに草木は嬉しい。
私は湿気や水気が、最近気持ち悪いと感じる。

いつからこんなに潔癖になったのか。
小さい頃からサクッとはあったけど、
アパートに住んでた時、
実家のだらしなさ、不潔さが、尋常じゃなく
(特にトイレや風呂場といった水場が)
気持ち悪さを感じていた。
でも一緒に住んでたから、
汚さにはある程度麻痺していた。
時々実家に帰ると、相変わらず汚くて、
あまり居たくないと思うようになった。
で、昔の不潔さを思い出し、
フラッシュバックするよーにもなった。
それと、数年前に住んでたとこが、
いわくつきの山のてっぺんで、
年中、霧や湿気が多く、鬱々してた。
そこで体調も崩してる。
で、体質的に湿気が多いと、
身体がダルいとか痛いとかがあるなと分かった。
安いキャンプ場やら何やらを回ってるうちに、
そんな昔の記憶がイロイロと蘇ってきて、
年々気持ち悪さを感じるようになっってたんだ。
ずっと黙ってたけど。

羽黒山下りて、道の駅みかわで、
夜つまむ物を買う。
長沼温泉・厚生館に素泊まりだから。
庄内に来た時の定宿。
いつもお世話になってるので、お土産も買う。
で、「菜の花温泉でんでん」に寄る。
ここも、ずっと行こうと思って行けなかった温泉だ。

源泉が二種類。
源泉温度がぬるい、無臭の薄黄色のお湯と、
でんで
私の好きな油系、臭素臭?の強い、茶色いお湯。
でんでん
この独特の匂い。
色、臭い共に、新潟長岡市の、
えちご川口温泉と同じ。
臭いだけなら、
新潟の雪だるま温泉、龍ヶ窪温泉、妻有温泉系。
「まるで灯油」って感じの油臭に次いで、好きな匂いだ。
香しい。

私達にしては、かなり早めに宿に着く。
とにかく私は、不機嫌で、
すぐイライラする人格が出ていた。
相変わらずイイ香りの油臭をかぎながら、
何とかせねばイカンと思った。

夜瞑想すると、Mが、
「明日は、主人格で登らないとダメだ」と言われたらしい。
「人格のせいにして逃げてる。全てはお前の責任だ」と。
おバカな子供らが暴走するか、
良子が強迫でうるさいかだったから、
心入れ替えて頑張って下さい。
私も、イラついたままではダメなのだ。
受け取れない。
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出羽三山巡り・月山登山 2012年09月11日15:15
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数日前の天気予報では晴れだったのに、
朝から激しく雨。
よりによって、月山登る日に。
月山登山は、ある意味、メイン・イベントだってのに。
で、本当は朝早く出発する予定だったけど、
少し様子を見ることにする。
私的には雷が心配。

厚生館さんでは、
素泊まり料金を安くして貰ってる上に、
今回も立派な朝食を作ってもらった。
しかも早く出るって言ってたから、
早めに用意してくれたらしい。
本当は八時ぐらいには出る予定だったのに、
この雨で、足止めくらってる。

実は朝食で肉を頂いたんだけど、
命や好意はムダにできないので、
浄化し、感謝して食べた。
浄化の時、Mが「軽くなった」と言う。
私はこういうの感じるのは鈍いけど、
とても美味しいと思った。
女将さんの好意もあるだろう。
浄化終了時「豚さんが笑ってたよ」と言うとこが、Mらしい。
そして子供だろう。
この日、肉を食べる事で、
ゆっくり噛んで食べる事を思い出した。
普段いくら野菜中心に良いもの食べてても、
この「きちんと噛んで味わって食べる」
という感覚を忘れてたので、
貴重な朝食タイムだった。
IMG_2071.jpg

八合目からの登山は、
ガイドによると往復五時間。
前にも一回登った事があるけど、
そんなにはかからなかった。
でも四時間はみといた方がいいって事で、
昼頃から雨が止み始めるという予報だけど、
11時には何があっても出たいと思った。

Mも、今日登れるか心配してたが、朝瞑想で、
「登ろうと思えば登れる」ってメッセージ。
私もOSHOタロットの「祝福」のカードが思い浮かび、
楽しむのに「雨風に関係ない」と思った。

雨止まないかな〜とダラダラしてるうちに、
時間は過ぎてく。
朝ほどではないとはいえ、
雨は止まない。
雨の日に出かけるのは、特にバイクは大変だ。
それもあって、私も腰に根が生え始めた。
11時過ぎたので、もう出ようと言ったものの、
Mは廊下のマンガ本を見つけ読み始めるし、
私もなかなか準備が進まない。
この日は山形市の温泉に宿泊予定で、
そんな遠くないとはいえ、
月山降りてから、2時間はかかるだろう。

12時になってしまったので、
もうこれはタイムリミットだと、
無理やりMに「何やってんの、もう出るよ」と言うと、
何だかグズグズ言ってる。
Mは、どれぐらい時間かかるか、
全然把握してないから悠長だ。
雨のせいで、登る気も失せたらしい。
イラつきながら、
月山八合目まで急ぐ。

羽黒山から、月山八合目までの道は狭くなる。
下ってくる車とすれ違う時、ヒヤっとする。
雨で視界が悪いし、もしバイクを見落とされたら、
と思い、注意深く走る。
Mの強迫を引き出すには充分だった。

駐車場に着いた途端、
「本当に登るの?帰り霧が出たらどうするの?!
 帰り、暗くなって、霧が出たら…」
と、強い不安をぶつけられる。
私も不安になり、ヤバイかな、止めようか、と
思ってしまうほどの勢いだった。
しかし、だったら何の為に来たんだ。
「ここまで来て、登るに決まってるでしょ」と言うと、
「中止するのも勇気だよ!私達は素人なんだから!
 あそこで(八合目レストハウス)で、
 今日登れるか聞いてからにしよう!!」
と強くグダグダ言うので、
「他に車止まってるから、大丈夫だよ」と言うと、
「私達は素人なんだから」を連発し、キレ始めた。
私も、Mの朝の態度、人任せで悠長な態度と、
この強迫の態度に頭に来て、
「朝、行こうと思えば行けるって言ってたじゃん!
 自分が怖いからって人を攻撃的すんな。
 だいたい帰り暗くなって、
 霧がどーたらと心配すんなら、
 何で私が急かすまで、ダラダラしてたんだ。
 こんな言い争いしてる時間がムダだ!
 明るいうちに下山したいなら、今すぐ歩け、
 ふざけんな!」と怒鳴った。
良子は私を激しく睨み、
私はトイレに寄りたいんだとかなんとか言って
怒ってトイレに行ってしまったので、
M良子を置いて、私は登り始める。

登り始め、若いカップルが降りてくる。
コジャレた今時の「山ガール」スタイル。
やっぱりいるんだな〜と思った。
まあムサイよりシャレてる方がイイ。
ホラ、誰もお前(M)みたいに、心配なんかしてないじゃん、
て、心ん中で思う。

岩場の登山道は、集中して歩かないと足場が危うい。
Mへのイラつきは、すぐ吹っ飛んだ。
Mを確認すると、ついてきてる。
Mも、攻撃態度はソッコー消えたようで、
「Sちゃ〜ん!」と、不安子供になってる。
私は、萌え嫌いなので、全然カワイくないが、
あれは苦労してるようだ。
苦労しろ。

雨が晴れてきた。
風の強い場所では霧も晴れ、
庄内平野が見渡せる。
月山1
月山3
下はもう日が出てるようだ。
山歩きも結局、
バイクと一緒で、一人黙々歩く。
歩くことに集中せざるを得ない。
耳鳴りしか聞こえない、山の静寂。
ある意味瞑想に近い。

九合目の休憩小屋に着き、水を買う。
管理人の女性と犬がいる。
Mは何回も転んだと言う。
人格に乗っ取られ、
意識が離れたりすると、転ぶらしい。
何回も派手に転んで痛い、と言ってる。
「登り始めてすぐ主人格が、
『私は意志が弱くて、いつもダラダラして、
 しかも強迫が強くて、やりもしないですぐ諦めて、
 Sちゃんがいなきゃ何もしてない。
 感謝しなきゃダメだ』と思った」と言った。

ここは風が強めだけど、
静かだ。
下界の喧噪を離れ、シンミリ。
山小屋に泊まりたい、という気持ちが湧いてきた。
また、ひたすら歩く。
    月山2
頂上の月山神社15:30到着。
撮影禁止なので、外から。
月山神社
ちょうど2時間かかった。
月山だけに、狛犬ならぬウサギがいる。
「今は地道に自分の内面を見つめる時」
目を瞑ると、月山の広大な風景が広がる。
太陽が出てきた。
暑くて汗ビッショリになったが、
月山神社で風に吹かれて、今度は寒くなってきた。
手が冷たくなる。

10時頃朝食を頂いて、
消化の遅い肉とか食べたし、
しばらくいらないなと思ってたのに、
頂上に着くあたりには、すでに腹が鳴ってた。
快調に消化してる。
山登りが効いたらしい。

下り、九合目の休憩小屋でまた水を買う。
甘酒飲む。
Mは、おでんとか食べたがってたけど、
あましゆっくりもしてられない。
16:40。
上に15分〜20分ぐらいいたとして、
ここまで1時間弱。
犬が可愛い。
ここを管理してるおばさんは、
あと一ヶ月泊まり込みだと言う。
一人で犬と寝泊まりか〜、
楽しそうだな、いいなぁと思った。
晴れれば星は綺麗だろーし、
この沈黙の中、
一人夜を過ごすシチュエーションを考えると、ワクワクする。
キャンプ場は、自然の中だけど、
整備されてるし、といって、
設備が綺麗なとこばかりじゃない。
景観も良いとこばっかじゃない。
キャンプするなら、
キャンプ場じゃない所の方が、ホントはいい。
でもってジメジメは嫌いだ。
だから山小屋。
霧が出てても、カラっとしてるっつーか、
こういう高い山の清々しい空気は。
いつか、泊まろう。
ウツも過呼吸もパニック障害も、
山登らせて、山小屋に放置すりゃ絶対治る。

とにかく、孤独が寂しいと思う反面、
孤独好きなとこもある私。
昼は登山客に軽食を出し(これはちと嫌か)、
犬一匹と、
静まりかえった山の夜を過ごすのを想像し、
ロマンに浸ってた。
なので「ああいう山小屋の仕事どう?」とMに聞いてみた。
「いいね〜」と言う言葉とは裏腹に、
Mは、そこから、
いつもの良からぬ妄想が始まったらしい。
良子が「登山客に襲われる」と。
だから〜、そういう被害者意識持ってるから〜、
加害者を呼び寄せる。
全て引き寄せの法則。
嫌だ嫌だと、結局そこに意識を向けてしまう。
M主人格が、強迫されてるM良子に、
「いつもそんな事想像して。襲われたいの?」と話しかけたら、
良子は「そんなわけない!」と激怒したらしい。
そこで主人格が「そんな事思ってると、そんな目にあうんだよ」
と諭したらしい。
怖い怖い妄想。
人によって怖いジャンルは違うが、
これも根強いな。
そんな考えが浮かぶ度に、手放し、手放しだな。

八合目駐車場近くまで降りていくと、
登ってくる若い女子とすれ違う。
20代ぐらいの、やはり今時な子だが、
今時間に一人で登るなんてスゴイな。
時間的に、今日は上で泊まるんだろーけど、
一人で山小屋泊するんだ、と、
何だか、元気や勇気を貰う。

Mの姿がまた全然見えなくなった。
足場の岩場がキツくなったからだ。
私は昔から、岩場歩きは得意だった。
ストレートな徒競走はダメだったが、
障害物競争の方は速かった。
田舎で育ったからか、何かのDNAか。
Mは、あまりに遅く、
それまでも何回か心配になって、待ったりしたが、
山ガールとすれ違ったことだし、
もし何かあれば、
さっきの山ガールが発見するだろう。
と、待たないでどんどん下りる。

そーいや、メレルのモアブ、なかなかいい。
アウトドア専門なんで、
かなり丈夫。
歩きやすいのは勿論、
メッシュ部分が普通に見えて、
ゴアテックスとはいえ、
雨に降られたらどうなのかな〜、
なんて思ってたけど、全然濡れないし。
最後の方、さすがに疲れてきて、
私も三回転んで、
水溜りに足突っ込んだりしたけど、
水の侵入なし。
しかもムレない。爽やか。
さすがミリタリースペック。
そんな感じで、
月山歩いてるうちに何か吹っ切れ、
最後は転ぶことすら楽しんでた。
子供の頃、全力で走って、
わざと草むらにコケて、
楽しんでたことあるけど、
あんな気分。

今度は、30代ぐらいの男子とすれ違った。
大きな荷物なので、本格的な登山か、
上に何か運んでるスタッフの人か。
どちらにしろ、上に泊まるのかな。
いいな。
遠〜く後ろの方で、かすかにまた、
キャーというベタな悲鳴が聞こえる。
もう何回目なんだ。
何かあれば、あの男子が発見してくれる。

八合目駐車場に着いたら、綺麗な夕日。
結局Mは、十数回転んだらしい。
あまりの自分の情けなさに、
最後には泣きながら歩いたと言う。
最後にすれ違ったお兄ちゃんは、
九合目のおばちゃんが電話をかけてた相手で、
きっと息子だろう、とか空想した瞬間、
かなり派手に転んだらしい。
「歩くのも遅い上に、すぐ人格に乗っ取られ、
 意識飛ばしたりして、転び、
 いつもSちゃんを待たせる自分が情けない…」
と、泣いたとか。

下りは1時間半ぐらいだった。
往復3時間半。
月山八合目から下る時、
UFOだ〜とか言って撮った。
UFO雲は小さすぎて見えないが、
デカイのも不思議な雲だった。
月山雲

山を下り、宿泊先の、山形市大野目温泉へ向かう。
山形道に乗り、終点で月山道路へ。
月山道路からまた山形道へ入って、
寒河江SAで軽く夕食。
Mが、このSAをやたら気に入ってる。
明日も寄りたいと言う。
Mはリピーター率が高い。
ここで土産を買うと言う。
確かに無添加のアラレとか、
塩だけのヨーグルトとか(これがクセになる)、
地元に密着した感じで、けっこーポイント高い。
無添加ではないだろうが、
食堂も素朴な味で、意外に美味しい。

大野目温泉に着いたのは九時過ぎ。
ここは、山形一の湯量を誇るという。
温泉好きには評判が良い。
もちろん源泉掛け流し。
そして、素泊まり料金も安い。
泊まらない手はあるまい。
Hも誤解してたが、
私らは、一泊二食付きで泊まることは滅多にない。
素泊まりか自炊。
自炊宿は、昔ながらってのが多く、
私の中の潔癖症は、綺麗なとこがいいんだけど、
温泉の質や、低料金て事で納得してる。

ここは市街地に近く、建物が新しいので、
最近掘ったのかと思ってたら、
戦後あたりにボーリングしたらしい。
結構古いんだなと思った。
お温は、茶色く、金気・土類臭。
キシキシする。
24h入り放題!
ドバドバいってるこのパワー!
湯量豊富なだけに、シャワー類も源泉。
キシキシしすぎて、髪は洗わないとMが言う。
あんなに汗かいたのに。
フケツ。
大野目
↑朝の大野目温泉。
泉温47.6℃なので、長湯できないかったけど、
気持ちよかった。
お湯は鮮度が命。
何事も鮮度が命!
明日は湯殿山。
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出羽三山巡り・湯殿山麓呪い村って映画があったな 2012年09月11日13:19
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最近気づいたんだけど、
山形って、月山、朝日連峰と、
県の中央に高い山がドッカリあるんだな。
どーりで。
山形の酷道には泣かされた。
日本海側へ抜ける道も山ん中。
今回も、月山道路行ったり来たり。

最終日、快晴。
こないだ行ったばっかだけど、湯殿山。
ブナ林とかあるからか、
羽黒山の杉並木とはうって変わって、
カラッとしてる。
ジメジメが苦手な私は、
こういう山が大好き。
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今回は、時間に余裕があるので、
御神体のとこまで、シャトルバスは使わずに、
行きも帰りも歩く。
Mが、主人格で回ると決めたはずなのに、
人格に乗っ取られてる。
踊ったり、鼻歌歌ったり。
フワフワした歩き方でも、誰なのか分かる。
この出羽三山巡りで、Mは、何を手放すのか。
月山と違って、歩きが厳しくないので、
完全にコロコロと人格憑依状態。
その度に指摘するんだけど…

参道、御神域に入るとやっぱり身体が軽い。
この先撮影禁止。
IMG_3606_convert_20120911132031.jpg
入り口には撫で牛がいて、
「も〜ちゃん♪」とMが、また…
イイ年して、完全に子供に乗っ取られて。
おととい「いつまでも人格のせいにして」と怒られたのに。
肝心の主人格が、いつも逃げ、
人格を放置し、人格にやらせようとしたり、
人格のせいにしてると、
怒られたのに。

御神体からは、相変わらず、
高温の茶色いお湯が吹き出してる。
やっぱり温泉自体も、
パワースポットなんだな〜と感じる。
目を瞑ると、月山同様広〜い自然の景色が広がる。
言葉は特にナシ。
御神籤引いたら、やっぱ「地道に一歩ずつ行け」と。

湯殿山神社境内にある、
御神体の足湯、熱くて浸けてられない。
舐めたら、鉄味で、若干苦みがあり、しょっぱい。
石垣を見ると、蛇が二匹、
ニョロっととぐろ巻いてた。
暑いから、涼んでるようだ。
そーいや、さっき、参道でもデカイ蛇が逃げてった。
柄からするに、同じ種類のようだ。
蛇の柄、母は「美しすぎて気持ち悪い」と言った。
確かにうちのヒヨコの模様も、
羽の生え変わり時期など、
抜けた羽見てると、規則正しくて、
気持ち悪くなる。
ヘミシンクのモンロー教授によると、
蛇は大地と調和してる優しい存在だ。

触りたくなった。
蛇の腹をなでてみる。
そうそう、このブニュっとした感触。
子供の頃、蛇を触った事があるし、
動物園でも、でっかいニシキヘビに触った事あったな。
Mも、触りたい〜とはしゃいでる。
子供だ。
Mが触ると、蛇がビクっとしてる。
二匹目もそうだ。
触った瞬間、ビクつき、
終いには、震え始めた。
「何で私が触ると蛇が震えるの〜?」と言ってたが、
アナタの緊張が伝わったのです。
せっかく蛇はマッタリ涼んでたのに、緊張させて。
「噛まれたらどうしよう」って怖さがあったらしい。
私は頭の形確かめたけどね。
毒蛇じゃないから大丈夫だよ。
それにしても動物って鋭いな。
素直だな。
熊に襲われるのも同じ原理だな。
だから「怖い」とか思ってると「襲われる」と。

湯殿山参籠所に戻り、
いつものよーに、御神湯に入る。
ちょっと酸っぱい鉄味、炭酸の冷鉱泉。
御神体湯

山形と言えば、ぶっとい田舎蕎麦。
手打ち蕎麦屋はだいたい15:00まで。
御神湯入ってる時点で15時なので、
夕方、夜もやってるとこを検索。
東根市にある蕎麦屋「伊勢そば」に行く。
十割ではないと思うけど、この太さに満足。
そして量も多く、腹が苦しい。
そば
Mは顎が疲れると言うが、
蕎麦は噛んだ方がウマい!

まだ外は明るい。
いつも時間に追われるので、
こんなに早いうちに(17:00)、
予定をクリアするのは珍しい。
どっか寄りたい。
しかしこの近場の道の駅も、何回も行ってるし、
近くにある、古代海水泉を謳う、
「海老鶴温泉」も一回行ってるし。
東根温泉も入ったし、
本当は、山形蔵王の方にある、
「うわの温泉・天神の湯」ってのに行きたかったんだよな〜。
「海老鶴温泉行こうか」と言うと、
もう温泉はいい〜とMが言う。
疲れるからいや〜。
しつこく「行く」と言ってると、
嫌がらせだろ、と言われる。
ハイ、嫌がらせです。
おとなしく帰る事にする。

途中の山越え国道に茶屋がある。
そこ、まだ開いてたんで、
数年ぶりに寄ってみる。
最近はこの国道通っても、素通りしてた。
麦茶を出される。
お客さんには、いつも茶を出してる。
東根団子を買ったら、
おまけに一本貰った。
ゆっくり休んでって、と言われたが、
そろそろ店じまいだろう。
ダンゴ
初めてツーリング出た年も、ここで休んだ。
本当に当時は、何でもワクワクしてたなあ。
あの頃の思いカムバック。

生まれ変わるために、
帰ったらまた、地道な努力だ。
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▲△▽▼

山形日帰り再び - We Will Rise OE/HSPな日々
山形日帰り再び 2017年01月21日20:44
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Aさんから譲られたファンカーゴで、山形日帰り2回目。

そーいや前回、Mが、道の駅でファンカーゴに、
「僕、ジャック!」と名乗られたとか言って、
ジャックだかジャッキーだか、勝手に変な名前を付けて呼んでる。
まあいいけど。
そのジャックは、後ろに傷があり、
多少凹みもあるけど、頑張ってくれてます。

オートマ、手元のギア、フットブレーキ…
タイヤがやたら小さく見えるなぁ。
バイクより小さいし。
ワンちゃんデカかったんだなぁ。
攻める車以外、車と思ってない私だけど、
車検代だけで乗れるなど、本当にありがたい話です。

先週は、こちらは雪がなくて、山形も少しだけだったんだけど、
急に寒波が押し寄せ、雪模様。
Mは、一週間続けて仕事したご褒美に、
温泉と蕎麦!と意気込んでいたので、山形は雪っぷりであろう事を予想して出発。
家を出て早々、「晴れて良かったね!」とM。
甘いね。こちらは晴れてるけどね。
地域が変われば天候変わるという基本を分かってないM。
そして、奥羽山脈を越えるのだよ。

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案の定、県境に向かうほどに降雪量が増し。
雪が降ってきた。

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でも冬はこうでないと。

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今日の予定は、先週行けなかった「東根温泉」と、
2月頭の「山形冬まつり道の駅フェスティバルの抽選会」に参加するため、
道の駅切符を5つ集めなきゃならず、
こないだは4駅行ったんで、今回は残り1駅「道の駅にしかわ」で切符を貰う。
そして、東根市の蕎麦屋と、
その近くの「道の駅むらやま」にもちょっと寄る、という感じ。

「東根温泉」での日帰り入浴第一候補だった「小関館」は、
行く途中で営業時間を聞いたら、
「昨日の大雪でナンチャラが壊れて今日は入れません」とのこと。
で、第二候補以下の宿へ予定変更。
出来れば2軒ぐらい入りたいが、時間次第。

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山形と宮城を繋ぐ48号線沿に、除雪車の待機基地があるのを発見した。
(帰り)
ここはただのPAかもしれないが、除雪車は、
いつでも出動出来るよーに、スタンバってた。

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雪降りとはいえ、まだそれでも黒い路面が見える。

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関山峠に近づくにつれ、雪はやはり。

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かなり怖がり始めたM。

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除雪車、新潟で見た除雪車とちょっとタイプが違う。
タイヤが斜めになってる!と喜ぶM。

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素敵な雪景色。
雪国って感じでステキ。
FFだからワンちゃんより滑らない?とMに聞かれたが、
(前の車の180SX)
180みたいにスタート時に滑らないぐらいで、
走ってる間はワンちゃんと変わらない。
滑るときは滑る。

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Mは恐怖に捕らわれ始め、ハヤハヤして、
山形に入る前から「今日は早めに帰ろう!」と言い出し、
(ミヤビのかなりな悪癖。朝起きた途端に「今日は早く寝よう!」
 と言ったこともある)
「まだ家出たばかりなのに、なぜ帰る話をするんだ!」と…

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確かに昨日までは雪なんてほとんどなかったから、
よりによってってタイミングだけど、
雪景色を楽しめばいい。

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山形東根市。うーん、さすが山形。

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ステキに雪一面。
全てが白い。

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まず、前回寄れなかった「道の駅にしかわ」に行くのだが。
月山方面、湯殿山神社に行く手前にある道の駅で、豪雪地帯でもありますね。
山形中央部は、深い山を通って、日本海側の酒田・鶴岡に出るのだ。
さすがにこの国道を通る車はあまりいなかった。

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自然環境は抜群ですが。

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裏手は月山方面なので。
どっからが国立公園か。

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撮って、と浮かれるM。

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ツララも撮れと。

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さすが雪国の月山山麓の山里。
乾物が充実。左手のは「弟切草」。
昔プレステのゲームで「弟切草」をやったけど、
西洋弟切草といえば、セントジョーンズワート。
私のよーなウツ気質のある人には良いハーブだが、
国内の弟切草の効能はどうなんだろうか。
ここらでは酒に漬けるらしい。買うかどうか迷った。

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こーゆー環境の道の駅で冬場なので、営業時間などを事前に確認したとき、
「産直コーナーは乾物しかありませんよ」と言われ、
なんだ、ないのか…って思ってたら結構あるじゃん。
地元の人の「ない」って…と思いつつ、
珍しいもんあるんでトキメキました。

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切り干し大根は試食があったので、
そのまま食べるのかな?と言いながら食べてみたら、甘くて美味しい。
裂きイカみたいな食感だし、オヤツになりそう。
これは目からウロコ。

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カタクリまで!
Mも「色んなの干してるねぇ」と言ってたが、
山菜から何から、塩漬けやら乾物やら、片っ端から干してるあたり、
さすが昔の冬は「陸の孤島」であったであろう月山山麓・西川町。
乾物類が充実してる。
野菜類も全くないのかと思ってたら、そんなにないわけじゃない。

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500円ギリしか買わない予定だったのに、こんな濃い、
日本蜜蜂の蜂蜜を見つけてしまう。

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このナメコも買ってしまった。
栽培物だが、あまりにもデカイ月山の恵み。

駐車場から出ようとしたら、車が動かない。
雪がそんなに積もってないのに。
「馬力がないからかなぁ?タイヤが小さいからかなぁ?」
とMは言って、後輪の周りの雪をどかしてたけど、
「これ、180じゃないから、後輪じゃなく前輪の雪どけないと」と。
前のワンちゃんの記憶でね。
少し雪どけたら動いた。
気をつけないとイカン。

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「ワンちゃん(180SX)は、滑るけどパワーあったから、
 これぐらいで動かないなんてなかったよねぇ」とM。
まあ、最悪チェーン撒けば大丈夫だったからね。
ワンちゃんで秋田や新潟の豪雪地帯も、
志賀高原近くの凍りついた峠も登ったんで、
(止まったらきっとアウトで、さすがに生きた心地しなかったけど)
国道なら大概きちんと除雪してるし、
気をつければそこまで怖くはないけど。

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次は東根市の蕎麦屋へ。
戻る。
このときは、晴れてはいたが…

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ワイパーが凍りついてきた。
見えない。
つか、景色が全部白くて、どこまでが道なのか見えない。
慎重に運転する。

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民家では、家庭用の除雪機で除雪してる人達が。

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山形の人達、大変だなぁ。雪国は。
冬の間、雪掻きに追われて。
ちょっとした雪掻きも疲れるってのに。
腰の弱い私なんて、結構ダメ。

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あちこちで雪掻き、雪降ろし。
車はワイパーが役に立たず。
降りては、氷と化してフロントガラスに張り付いた雪を取りつつ。

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道が本当に見えなくて、それがちとヤバかった。
裏道はホントヤバい。
案の定、車が1台、スピード出してて滑ったのか、
多分、対向車側の歩道の方に乗り上げていた。
3台ぐらい止まって、助けてた。

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民家はまだしも、実際、
道路とそうじゃない部分の区別がつかない。

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東根の有名な田舎そば屋「伊勢そば」着。
頑張ってくれてるファンカーゴ通称「ジャック」。
(Mがチャネリングにより命名)

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Mが「ここで雪を落としていかないと」と、
靴をはたきながら店の人に「アピール」すると、
(Mの良い子の傾向。他人にアピる)
「いいよ、中に入って」と言われる。

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懐かしい光景。
だるまストーブに子供のグローブが。
そして店の子供(孫)が、おじいちゃんの蕎麦打ちを見ていた。
Mが、祖父と孫の会話を聞いていた。

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これが噂のぶっとい田舎蕎麦。

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山形の田舎蕎麦はどこも太いが、ここのはさらに太くて有名。
たまらないです。

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付いてるデカイかき揚げも有名なのだが、
こちらはフツーの「天ぷら粉」で揚げたジャンクなかき揚げらしく、
食べた後、上前歯の裏の皮膚が剥けていた。Mも同じく。
でも野菜は美味く、蕎麦も美味しい。

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やはり、蕎麦は太い方が好き。
そして打ち立ての十割蕎麦ね。
碾き立て・打ち立て・湯で立てっつーのは蕎麦の極意だが、
アーユルヴェーダの理論とも一致。

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Mは、最近太い蕎麦の美味しさが分かるようになったと言う。
「前は、細くて喉越しの良い二八蕎麦が好きだったけど、
(なぜか女性に多いらしい。柔らかいもんばかり食べて
 顎の力が弱くなってんじゃないか)
 今はこの噛みごたえのある太い十割蕎麦の方が、蕎麦の味がする」
そりゃそーだ。

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細くてサラッとしたのがいいなら、素麺とか冷麦でいい。
蕎麦はやっぱ蕎麦の味がしないと。

顎が疲れる、と言ってた人もいたが、うちらは普段玄米とかしっかりした歯ごたえの野菜なんで、
噛むのには慣れてる。
でもMは結構、噛まないという…

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この太さ。たまりません。
日曜は15時で終了。

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雪は止むどころか、また降り出した。
Mは、恐怖でうるさくなってきた。
ちなみにこの車、まだ任意保険に入っていませんので、
気をつけて運転したいと思います。
(Aさんも、Aさんの友達の車屋も、私と似て結構ルーズ)

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Mは不安と恐怖で、顔がすでに引きつってます。

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ワイパーがすぐに効かなくなる。
この日の計画で、次は近くの道の駅に行くと言ってたのに、
「この雪の中を山に登って温泉に行くのか?」と、
突然言い出すM。
どこからそんな情報持ってきた?
「いや、ここらは山ないし、ずっと平野だし、山の中の温泉なんて行かない!
 そんで、次に行くのは道の駅!!」と言ったのに、
人の話を聞いてない。

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真っ白な景色の中を走ってると、また、
「こんな日に山を登って、山の中の温泉に行くのか?」とM。
お前は痴呆か???
そしてここが『山の中』に見えるか??
「次は国道沿いの道の駅だし、ここらに山なんてないし、
 最後に寄る温泉も山じゃない!」
って、また同じことを言う私。

道の駅は蕎麦屋から十数分ほどのところ(通常で)。
距離だって、10kmもない。
山などない、たかがこの区間の移動です↓

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道の駅も東根温泉も、大通りである国道13号沿い。
ただナビ通り裏道走ってるだけで。
仙台に抜ける帰りの48号線も近いし、
たったこんだけの移動距離と、普通の田舎の平野の地形だってのに、
恐怖で人の話なんて聞いてないし、
この広い「平野」が「山の中へ続く山道」に見えてるらしいし。

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Mの強迫は、根拠のない無知による過大妄想だが、
そもそも、ほんの少しでも位置関係、距離関係など、
地理を知っていれば(どんな人でも近場の地理ぐらい知ってる)
ここまで恐怖に囚われることはないんじゃないか?
無知が妄想に拍車かけてる。
「幽霊の正体見たり、枯れススキって言葉知ってる?」
と言ったものの。

いつも人任せで、住所すら知らないから「山の中へ行く」などと、
勝手に妄想して、恐怖妄想を膨らませてんでしょ。
まずはその「無知のままでいい」ってのを何とかしてくれといつも言ってるのに。
で、その無知にさらに勝手に「ネガティヴ妄想」して妄想を膨らませ、
恐怖で身動きとれなくなるM。
ずーっとそのパターン言ってるのに。

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運悪く、というか、このすぐ先で↑
ナビの指示通り近距離だからと、国道に出ず裏道走ってたら、
前方に見えた車が一台、斜めになってた。
道の区別がつかないから、道脇がちょっとした段差になってるのが分からず、
寄り過ぎて脱輪したらしい。
Mの恐怖はピーク。

Mが「道が見えないよ!確かめてくる!」と言って、出て行った。
斜めになってる車の脇を抜けようとしたが、
「道が埋もれてる!無理!進めない!」と騒いでて、
近づくと本当に雪がこんもり、誰も除雪してないので、
普通の車では無理っぽかった。

1台分ぐらいの車幅の道なので、バックするしかない。
道の区別が見えないので、Mの誘導でしばらくバックする。
倉庫の駐車場があったのでUターン。
「あの車の人に声かけたんだけど、恥ずかしいのか無視されたから、
 あの人ほっといて良かったよね?」とM。
「声かけて無視されたんなら大丈夫でしょ」と。
ずっと車の中にいたから、JAF待ってんだろうし。
うちら居ても役に立たないし。
で、国道へ出る。
13号線は車通りがそれなりに多いので全然オケ。

「道の駅むらやま」

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よく見かけるあの可愛い、尻尾の長い白黒の鳥っこが、
近くまで来てこちらを見てた。
餌だな。しかし何も持ってないのだ。

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結構近づいて来たのに、写真間に合わなかった。

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ここには欲しいもんがなかったので、最後の東根温泉へ。
Mマサミは怒っていた。
恐怖から被害妄想になっていて、私を攻撃してきた。
「あの車が崖から落ちてなかったら、Sちゃんは絶対進んでたよね!」
と何だか理屈タラタラ、要は、私が「無謀なことをする性格」なので、
『私がこんなに怖い思いをしてるのは、お前のせいだ』
と言っているのだ。

またMの根性悪い癖。しかも「崖」と来たもんだ。
私が「Mの気持ちも考えず強行に、山へ登る山の中の道を進み、
前方の車は崖から落ちていた」
というふうに、Mは認識していた。
違うでしょ。何の言いがかり?

雪で道の見えない平野で、車が脱輪し、
土手でナナメになってたってシチュエーションがまず、
山の中の崖になってるあたり、おかしいし、
私は何も強行もしておらず、次の目的地へ向かって必死で運転してただけ。
責めるいわれないどころか、むしろ感謝では?

悪天候の中の運転してる私は、お前よか疲れるぞ。
怖いからと自分で運転もせずに、助手席にいて、
私を怖がらせるのはお前とばかりに攻撃して、
「せっかく働いたご褒美にマッタリしようと温泉に来たのに…」
と、今度は誰のせい?
あなたが恐怖で疲れてるのは、
雪のせいでも私のせいでもありません。

私は運転で緊張はしたけどね。
そりゃ集中力使うから!
お前の恐怖妄想で勝手に疲れて、私のせいにされても困る。
自分の感情の責任は自分にしかないだろ。
このMの問題は、家に到着時にまた人格追求と話し合いになった。

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東根温泉「松の湯」。

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コーラ色の温泉です。

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東根温泉は、源泉により、若干お湯の様子が違うらしいので、
宿の温泉をハシゴしたいのだが。
松の湯は、東根温泉共同組合17号源泉。
実際は写真より濃い。

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硫黄臭と軽い油臭で、東鳴子あたりの温泉と味や匂いが似てる。
いい感じ。

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シャワーやカランも源泉。素晴らしい。
熱いと聞いていたが、ホースからの源泉が止まっていたので、適温だった。
しかし、源泉を入れようと蛇口を開け、
あまり熱くならないぐらいの量で掛け流し状態にして入る。

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Mは、惚けてた。
恐怖の後に意識が飛んだか。
マサミの後にオカメが出て来て悲劇の主人公になるパターンが、
サクッと見られたが(誰かのせいで、私はこんなに辛い目に遭ってる)
温泉では抜けてた。

Mは、身体が芯まで冷えてるので、なかなか温かくならない、
と、ずっと湯に浸かっていた。
上がり際に「湯冷めしないでね!」とお湯に言われたらしい。
「何でだろう」と言ってたが、
先週の寒河江温泉「ゆーチェリー」は濃く、塩分もかなり。
だから冬場でも湯冷めしにくいけど、
塩分少ないと温まり効果がね。
東根温泉は爽やかな感じで、温まりの湯というタイプではない。

そしてお湯にまで、
「無事に帰れるように力を貸して下さい」と頼んでたらしい。
どこまで怖がり???

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渋い宿。

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外は雪積もり。
早く帰りたがってたMじゃないが、
私も暗くなってからの雪っぷりの夜道を走るのを心配してた。
明るいうちに帰れるように早く出るんだったな、とか。

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しかし、雪道は逆に、夜の方が明るいということを忘れていた。

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昼の方が、一面同じ色で道路の判別もつかず、
見えにくいのだった。
夜になると道の境界もハッキリ分かる。空も明るい。

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光のイルミネーションの東根温泉。

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宿は何軒もあるのだが、にぎわいはそれほどなく、
(多分バブリーな頃は賑わったんじゃないか)静かな温泉地だ。

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やはり、すぐフロントガラスが見えなくなる。

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走って数分で凍り付く。

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13号線を南下し、48号線に入ったところで、
一旦車を止めてフロントガラスの氷を取ってたら、
後ろから追い越した車が停まり、
運転手らしい女の人がこちらに来た。
私は運転席にいて、Mが雪を取ってたんだが、Mと何やら話をしてた。
しばらくMと話をした後、その人は自分の車に戻ってった。

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わざわざ車降りて来て、何かアドバイスくれたらしい。
Mはその若い子にお礼を言ってた。
Mは、「これ、夏用のワイパーですよね?」と言われたという。
ワイパーにも夏用とか冬用があるとは知らなかった。

東北でも日本海側と太平洋側では降雪量がえらい違うので、
私は祖母宅で暮らしてた頃、雪だるま作りながら、
「かまくら作れるほど雪が降らないかなぁ」っていっつも思ってた。
なので「冬用ワイパー」なんぞ知らなかった。
そこまで「車通」でもないし。

確かに豪雪地帯に行き、雪がわんさか降ってると、
視界がすぐ悪くなるなと思ってた。他の車は平気で走ってるのに。
前のワンちゃんに関しては、ワイパーが古いからだろうと思ってた。
他の車はうちらみたいになってないから、
何でだろうな、とは思っていた。

わざわざ車降りて来てくれた方は地元人だそうで、
「今この状態だと関山峠は見えなくて走れないと思いますよ」
と言ってたそうだ。
Mは「東根温泉に泊まって明日の朝帰ろう!」と言い出した。
泊まる金ないんじゃ…
よくよく聞いたらその人は、
「戻ってすぐの13号線沿いにオートバックスがあるから、
 冬用のワイパーに替えて、帰った方がいいですよ」
と教えてくれたらしい。
なぜ泊まる、になったかM。

そして、
「ここであの人が降りて来てくれたのは意味がある!助けられたんだ!」
と騒ぐM。
「温泉に頼んだから、温泉が助けてくれた!
 あの人を遣わしてくれたんだ」とか何とか…

どうしようかと一瞬思ったが、とりあえずオートバックスへ。
オートバックスはすぐあった。
1本2千円ちょい。
今のうちらには痛い出費だが、仕方あるまい。
「冬用は太いんだって。カバーも付いてるんだよ」と、
嬉しそうに解説するM。

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ワイパー付け替え後の視界。
ありゃーやっぱ天と地だねぇ。

使用前と

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使用後。

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「お湯が遣わしてくれた天使」だとMはずっと言ってたが、
確かにあの地元の人の親切に助かった。
名前分からないけど、ホントありがたい。

一時弱くなった雪は、関山峠あたりでまた吹雪きになり、
除雪車が何台も除雪にあたってた。
除雪車出動基地でも何台もスタンバってる。
昼も夜も大変だなぁ。

Mは「除雪されたとこがボコボコしてる。
除雪車のブルドーザーが上げたり下げたりしてるからだろうか」
などと、何を気にしてるのか、路面の凸凹が気になる様子。
新潟で、綺麗に雪壁を作るタイプの除雪車を見たとき、
Mは「楽しそう!私もやりたい!」なんて言ってたが(ミヤビ?)、
道路も雪壁もキチッと綺麗じゃないと嫌らしい。

山深い地点で道の両側の木に積もった雪が、
重みで落ちてきて待って、突然視界が真っ白に。
真っ白な煙の中に突っ込んだような感覚で何も見えなくなるので、
それだけちょっと怖かったか。

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うちに到着。
こちらもそれなりに積もっていた。
山形の比ではないが。
この日は丁度こーゆー天候だったらしい。
Mのマサミは、まだ人のせいにして私に怒りをぶつけてたが、
1時間ほど話し合い。

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「頑張って働いた自分にご褒美だったのに」というM、
それが恐怖にすり替わってしまったのは、自分の問題であって→
自分が温泉行きたいってのに場所も把握せず全部人任せ、
それゆえの無知で、山の中の温泉に無理をして行くんだとかいう被害妄想で私を責め、
雪の中を走って滑る、ハンドル操作誤る、崖から落ちる
道が田んぼより高かったから脱輪した車で、
「あの車が崖から落ちてたから進まずに済んだ!」
「崖でも雪で見えないんだよ!こんな道を行くのか!」
というバカっぷりと攻撃。
雪の恐怖で本当に山道に見えてたのだろうか?
それでもMは引かなかった。

「それは例えであってなんちゃらかんちゃら」
「あの状況を山に例えて言っただけ。崖も例えで言った」(意味不明)
しまいには、
「気分的にそういう受け止め方だったからだ!!(何が悪い?)」

改める気ないでしょ?

第一段階の無知・人にお任せ態度。
恐怖を感じた途端、
こうだからこうなって、きっとこういう目に遭うに違いない、
と、先までネガティヴなヴィジョンを妄想、
全然「今の現実」を見ておらず、
全く根拠のない悪妄想炸裂で、勝手に怖くなり、
それを全て「自分の安全を脅かすのはS」と、
私のせいにして最終的に私を攻撃。
これがあなたのパターンですよ、と言うのに、Mマサミが認めない。

だいたいフツーにさぁ、
運転が怖いとゆーあなたに代わってずっと運転してたのは私で、
そんな私にありがとうでもなく、
朝からずっと、早く帰ろう、怖い、お前はいつも私を怖がらせる等々、
自分の妄想ゆえの不安や恐怖、
攻撃エネルギーを隣からぶつけられながら運転してた私の身になってみろ、
もし逆の立場だったらどうなのか?ってコト。

どこまで姫様なのか。
何もやらないで助手席でぎゃーぎゃーと。
と、言ったらマサミが、
「私が何もやらないだと?バックの誘導もしたし、
 フロントガラスの氷だって私が取った!
 私がいるお陰で、お前は無事に運転出来たんだ!
 お前1人じゃ何も出来ないくせに!それを何もやってないだと」

いつものことだが、勘違いが甚だしい。
また私はお前以上にやっている、やってやってる、という反論。

いつもの「私はしてやってる、自分は出来てる」勘違い。
しつこい。
しつこいわ。
私のことをしつこいと言うが、お前の人格の言い分の方が、
毎回針の飛ぶ壊れたレコードのようで、
繰り返し繰り返しエンドレスでしつこい!
しつこい強迫も、してやってる勘違いも、
全てはMの根本問題である共依存性から来てるんだから、
そこをキチッと見て下さいと。

後から反省文を書くということで、とりあえずは。
(そして内観すると言って口先で逃げ、翌日はビデオ見て、寝て放置。
その翌日にミヤビとマサミコンビがまた現れ、喧嘩ふっかけ。
だから内観しろって言っただろー!とまた喧嘩になり、
翌々日、やっとマサミが震えて、やっと反省文を書いた)

「道の駅にしかわ」の戦利品。
こんなに買う気なかったけど、黒豆は安かったし、
ヒラタケとナメコはデカいし、
人参は「雪の下人参」!雪の下に寝かせて甘くなってるとゆー。
カボチャも「ふゆうまかカボチャ」ってやつらしくて。

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流通してる蜂蜜は、法律上全て殺菌のため加温していて
すでに蜂蜜ではなくなってると聞くけど、
道の駅行くと、RAWな国産蜂蜜、結構売ってる。

蜂蜜は、ヴィーガンにとっては動物性の物だが、
(蜂から奪うので)
蜂との共存が出来てるんならいいんじゃないかね、と私は思う。
養蜂家の御主人が亡くなったとき、蜂が葬式に飛んで来て参加した、
なんて話もあったので。
卵とかもそうだけど、要はお互い良い関係を築けてるなら、
ヴィーガンの主旨を外してないと私は思う。
蜂蜜取る度に刺されるのなら、関係を築けてないと思うけど。
魚もそうだけど、逃げる生物は嫌がってるので、
そーゆーのはなるべく避けるよーにしてる。
http://onelastwish.blog.fc2.com/blog-entry-1299.html?sp

7. 中川隆[-14879] koaQ7Jey 2019年11月16日 16:04:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1970] 報告

2019年11月16日
二礼二拍手一礼は正しい参拝方法? 決まった方法はない


二礼二拍手一礼を辞めれば行列は短くなります


国が勝手に決めた参拝方法

正月のニュースに初詣渋滞というのがあり、最近初詣で長い行列が常態化していると書かれていました。

確かにどの有名神社に行っても短い時で数十人、長い時は数百人もの行列ができています。

その記事によると渋滞の原因は「二礼二拍手一礼」をする人が増えたため、昔より一人当たりの時間が長くなったらしい。



多くの人が二礼二拍手一礼をするようになったのは平成以降で、平成の神社ブームやアニメの影響もあるという。

平成の即位の礼や関連行事はテレビ中継されたり人々の注目を浴び、公式な参拝法として広まりました。

アニメや映画の中でも二礼二拍手一礼する人が多いので、他の方法は間違っていると主張する人が増えた。


だが実際には日本人が二礼二拍手一礼するようになったのは「平成以降」であり、伝統でもなんでもありません。

二礼二拍手一礼を正式な参拝方法と決めたのは明治期の大日本帝国で、悪名高い国家神道を全国に普及させようとしました。

幕末から明治にかけての日本はキリスト教を模範とすする宗教改革に取り組んだが、その動機は西洋はキリスト教だから発展したという間違った認識によるものでした。


キリスト教は一神教だから日本も一神教でなくてはならないと言い、仏教を廃止して神道に統一しようとすらしました。(廃仏毀釈)

キリスト教にならって神道もアマテラスだけの一神教にしようとし、アマテラスだけを唯一神にしようとしました。

この時に参拝方法も二礼二拍手一礼だけを正しいと決め、他の参拝方法は間違っていると断定しました。

神道の参拝方法は各人自由が基本

明治3年1月3日に「神仏分離令」が発布され、暴徒が寺を襲って略奪や破壊行為に及んだりしました。

暴動は明治4年に終息したが、その後も寺を解体したり仏像や経典を燃やすなどの行為が全国で行われた。

神仏分離令は明治天皇が発布した事になっており、閣議決定や国会決議などと違って取り消すことはできない。


ばか過ぎてどうにもならないが、二礼二拍手一礼は亡霊のように生き残り、平成日本で大復活を遂げました。

では江戸時代以前の参拝はどうしていたかというと、それぞれの地方や神社で方法が違い、これが正しいというものは無かった。

古くは魏志倭人伝の記述に、倭人は土下座の代わりに拍手を打つと書かれていて、礼をする代わりだったようです。


神道はもともと一つの宗教ではなく、それぞれの村や集落の神を祭るもので、当然神様によってルールも違いました。

拍手の回数や礼の回数も神社によって違い、人々はかなり適当にやっていました。

一般的なのはパンパンと2回拍手を打つスタイルで、昭和期までほとんどの人がそうしていたと思います。


ところが平成になって人々が急に二礼二拍手一礼をやりだしたので、初詣は渋滞してしまいました。
http://www.thutmosev.com/archives/81483680.html

8. 中川隆[-13428] koaQ7Jey 2020年2月27日 16:51:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[72] 報告
たいせつな作業 - 内田樹の研究室 2020-02-27
http://blog.tatsuru.com/2020/02/27_0848.html

ある媒体に「たいせつな作業」というタイトルでの寄稿を頼まれたので、「朝のおつとめ」のことを書いた。

 9年前に神戸に自宅兼道場を建てた。二階に住んでいて、階段を降りると、そこが道場である。究極の職住近接を達成したと思って喜んでいたらのだが、「家の中に道場がある」というのは、ただ、道場が空間的に近いということとは別のことだということにしばらくして気がついた。

 朝起きて、道場の扉を開くと、「鎮まった場」がそこにある。「鎮まった」というのはノイズがないということである。物理的なノイズに限らず、心を乱すようなノイズがない。そこだけ他と違う。武道というのは「超越的なもの」を受け入れて、心身を調えて、それを発動させる術であるから、道場もどこか「浮世離れ」した場でなければならない。だから、道場を作るときには神棚を勧請し、合気道開祖植芝盛平先生の写真を正面に飾り、二代道主吉祥丸先生が揮毫された「合気」の扁額と、私の師匠である多田宏先生の「風雲自在」の書を道場に掲げた。すると「場が調う」というのがどういう感じなのか、身にしみて分かる。

 道場ができてしばらくは朝起きて道場に行って、神棚に一礼するだけだったが、なんとなくもっと「儀礼的なこと」がしたくなって、「お勤め」をするようになった。

 きっかけは羽黒山の山伏の宿坊に泊めてもらったときである。朝のお勤めを宿泊者みんなでする。修験道は神仏習合なので、祝詞と般若心経を唱えるのである。この「神仏共生」の儀礼がすとんと腑に落ちた。なるほど、これが日本人の宗教性なのかと思った。

 それで、家に戻ってから、祝詞と般若心経を道場で唱える「お勤め」を始めた。
 祝詞のときは拍子木を打ち、お経の時は錫杖を振る。拍子木の打ち方は禊祓いの行の時に教わった。錫杖の振り方は滝行の時に行者の方に教わった。

 朝稽古のある日は5時半に道場に降りる。冬だとまだ空には星が出ている。道場に端座して、一人朗々と祝詞と般若心経を唱えると、なんだか今日やらなければいけない仕事の半分くらいを終えた気になる。
http://blog.tatsuru.com/2020/02/27_0848.html

9. 中川隆[-12720] koaQ7Jey 2020年5月10日 17:19:39 : txBdn50SLs : OURXcXpRZUdqSms=[24] 報告
「疫病の日本史」を振り返る、アマテラスと疫病
足立倫行 (ノンフィクションライター)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/19538

 日本史における疫病の歴史をたどってみたい。そこから窺えるものは何か?
 最初の疫病は、『日本書紀』(以下『紀』)の崇神(すじん)天皇5年条に登場する。

 〈国内に疾疫(えのやまい)多くして、民死亡(まか)れる者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす(国内に疫病が流行し、死ぬ者が多く、民の半分ほどだった)〉

 この一文は、伊勢神宮など主要な3つの神社の起源説話の契機とされる。
 ハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇)と称され、ヤマト王権の実質的初代天皇とされる第10代崇神は、磯城(しき・奈良県桜井市)の瑞籬宮(みずがきのみや)に宮都を定めた。

 次の年、崇神は天神地祇(てんじんちぎ)に祈ったが民の離反は止まらない。顧みると、宮中に(天神の)アマテラス(天照大神)と(地方神の)倭大国魂(やまとおおくにたま)神の2神を並べて祀(まつ)っていた。神霊が強く両神が合わないのかと、皇女2人が別々に祀ったがうまくいかない。

 その後、夢やお告げの通り、太田田根子(たねこ)を探して(三輪山の)大物主神を、長尾市(ながおち)に倭大国魂神を祀らせたところ、崇神7年に疫病は収まり、五穀が実り国内は安定した。

 つまり、天皇家の祀る太陽神(ここではアマテラス)と、農耕神(=竜蛇神)の地方神は一緒に祀ると災いがあり、各自伝統の家柄の者が奉斎すべきだった、と教示する。

 アマテラスに関しては、次の垂仁(すいにん)天皇の時代、皇女ヤマトヒメが鎮座地を求めて巡行し、「常世(とこよ)の浪の重波帰(しきなみよ)する国」である伊勢に至り、「社(やしろ)」を立てた、と『紀』は記す。

 しかし、これは疑わしい。多くの研究者が指摘するように、アマテラスを祀る皇女・斎王(さいおう)の伊勢派遣は5世紀後半の第21代雄略天皇の時に始まり、斎宮(さいぐう)の制度として整ったのは7世紀後半の天武朝から、だからだ。
 古代日本において天皇の権力がもっとも高まったのが第40代天武天皇の時代。天武は壬申(じんしん)の乱(672年)で皇位を奪取したが、行軍の途上で伊勢のアマテラスを望拝したことが勝利につながった。そこで伊勢神宮を設け、斎王による祭祀制度を確立したのだ。

 世を騒がす次の疫病の記事は、『紀』の仏教伝来当時の起源説話である。
 6世紀前半、百済(くだら)の聖明王から第29代欽明天皇の下に仏像や経典が贈られた。

 いわゆる「仏教公伝」だが、外来の神の受容を巡っては、崇仏派(蘇我氏)と排仏派(物部氏や中臣氏)の間で激しい争いが起き、結果として疫病が流行したのだ。

 天皇自身は受容せず、蘇我稲目に礼拝を任せたところ疫病が発生、多数の民が亡くなった。そこで物部尾輿(おこし)らは天皇の同意を得て、蘇我氏所有の仏像を難波の堀に投げ棄て、建てた伽藍に火をつけて焼失させた。

 対立は次の世代も続き、蘇我馬子と物部守屋が争った時にも疫病の惨劇が発生した。

 かくして第31代用明天皇の崩御の年(587年)、馬子は厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)らと共に決起し、物部守屋の一族を滅ぼした。崇仏派の全面的な勝利である。

 外国の宗教である仏教を受け入れた「祟り」とされる疫病は、現在の天然痘だった(崇神朝の疫病にも天然痘説がある)。

 ともあれ、古代の天皇は何よりもまず神を祀る司祭者であったため、国家にとって最重要事の祭祀対象の改変に際しては、(天皇としての資質を問うような)多数の民を巻き込む悲劇(疫病)が付随した、と思われる。


同格だった神仏の関係が崩れる

 ちなみに田村圓澄『仏教伝来と古代日本』(講談社学術文庫、1986年)によれば、蘇我氏が滅ぼされた645年の大化改新(正しくは乙巳(いっし)の変)の理由の一つは、「天皇家が仏法興隆の主導権を、蘇我氏から奪取することだった」と記述する。

 その後、王権神授説(『金光明経』など)で天皇支持を明確にした仏教は、天武朝以降は鎮護国家の国家仏教として普及した。

 そして平城京の第45代聖武天皇が大仏造営を発願した時、始祖神(八幡神)を祀る宇佐八幡宮は「天神地祇を率いて成就させる」と託宣した。前掲書によればこの時、それまで同格だった神仏の関係が崩れ、「仏」が「神」より格上の救済者になった、と指摘する。


この説に従うと納得できることがある。

 推古・皇極・持統と女性天皇が頻出したために天武・持統朝に伊勢神宮のアマテラスが女性の皇祖神になったと思われるが、なぜ歴代の天皇はただの一人も(明治時代まで)伊勢に参拝しなかったのか、という理由だ。

 つまり、天皇家が宮中でタカミムスヒ(高御産日)など始祖神8神を祀っている以上、また神仏習合で大半の神社に神宮寺があり、神より格上の仏が天皇家を守護している以上、伊勢に御座(おわ)す例外的皇祖神に天皇自身が参拝する必要はなかったのだ、と推察される。

 3つ目の疫病は、その伊勢のアマテラスが約1200年の眠りを経て再び息を吹き返すきっかけとなったコロリ(コレラ)である。

 インドの風土病だったコレラが19世紀初頭から20世紀初頭にかけて猛威をふるったのは、近代化による国際交流の結果だった。その意味では新型コロナの原初型と言える。

 安政5(1858)年、長崎に上陸したコレラは大坂・京都を経て江戸に達した。立川昭二『病気の社会史』(NHKブックス、1971年)によると、江戸のみで死者10万余人を数えたという。続いて文久2(1862)年夏にも流行し、この時は江戸だけで7万3000人の死者が出た。

 安政のコレラは、その5年前に浦賀に来航したベリー艦隊の一隻ミシシッピー号が改めて持ち込んだもので、安政2年の大地震の被害も重なり、庶民の間に開国への不安や外国人への敵意が生じ、終末観が広まった。


明治天皇が伊勢神宮を参拝

 やがて開国、新たに明治時代が始まる。

 文明開化を掲げた新政府は、欧米を模倣する一方、「王政復古」の基盤を神武創業に置くことにしたが、神武時代は不明。そこでモデルになったのが天武・持統朝の古代律令制である。

 初代神武天皇が大和平定後、鳥見(とみ)山(奈良県桜井市)の皇祖天神(タカミムスヒ?)を祀ったのに倣い、明治2(1869)年明治天皇は史上初めて伊勢神宮に参拝した。

 神祇官が復興され、伊勢神宮を頂点とした全国の神社の序列化も進んだ(相前後して神仏分離令に伴う全国規模の廃仏毀釈(きしゃく)が進行)。

 江戸時代の「お伊勢参り」は天皇崇拝とは無縁の物見遊山だった。しかもアマテラスを祀る内宮(皇大神宮)より豊受大神を祀る外宮(豊受大神宮)の方が勢力があり、優位だった。

 その状況が突然一変したのだ。そして、アマテラス以来の「万世一系の天皇」が統治する「大日本帝国」が誕生したのである。

 こう見てくると、折々の疫病の大流行は、日本という国の根幹を揺るがす変化をもたらしてきたと言える。では、今回のコロナ禍がもたらすものは?

 象徴天皇制の変更は考えられない。であれば、価値観がひっくり返るのは「グローバル資本主義」か、それとも「自由と民主主義」か?

10. 2021年11月13日 12:30:32 : JeKi1x7FcA : cVd0eXdEZEVEL1E=[15] 報告
雑記帳
2021年11月13日
畑中章宏『廃仏毀釈 寺院・仏像破壊の真実』
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_13.html

https://www.amazon.co.jp/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88-%E2%80%95%E2%80%95%E5%AF%BA%E9%99%A2%E3%83%BB%E4%BB%8F%E5%83%8F%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%95%91%E4%B8%AD-%E7%AB%A0%E5%AE%8F/dp/4480074074


 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2021年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、有名でありながらよく知られていない明治維新のさいの廃仏毀釈の実態と意義を解説しています。私も廃仏毀釈についてよく理解しているとはとても言えず、江戸時代の時点ですでに萌芽があり、地域差が大きかった、という程度の理解だったので、たいへん有益でした。本書はまず、廃仏毀釈の前提として古代と中世の神仏習合を解説しており、一般向けに配慮されていると思います。

 日本列島には、仏教到来以前より体系的ではなかったかもしれないとはいえ、神への信仰があり、本書では、自然神信仰、祖先神信仰、水田稲作起源信仰(農耕や土地の神)に区分されています。仏教到来後、神仏習合が進み、それは(1)神は迷える存在で仏の救済を必要としている、(2)神は仏法を守護する存在である、(3)神は仏が衆生救済のため姿を変えて現れた、という論理で進みました。このうち(1)と(2)は奈良時代に、(3)は平安時代に出現しました。(1)の典型例は神社に隣接してもしくは神域に建立された神宮寺です。古代から中世にかけて神仏習合が進み、特定の神には決まった本来の姿である仏(本地仏)があるとする本地垂迹説が大きな影響を与えました。

 近世においても神仏習合状況は続き、庶民は神仏の信仰にさいして区分や拘りはありませんでしたが、知識層では神仏を分けるべきとの観念が浸透していき、神仏分離と廃仏毀釈の傾向も現れます。これは、僧侶による横暴・収奪への反感が根底にあったようです。仏教を批判したのはまず儒学者で、復古神道を主張する国学者が続きました。江戸時代の神仏分離は地域的で、水戸や岡山や会津で行なわれました。幕末には廃仏意識がさらに高まり、水戸や薩摩では過激な寺院整理が行なわれ、津和野では独自の寺社・寺院改革が行なわれました。

 本格的な廃仏毀釈は、慶応4年3月の神仏分離令で始まります。しかし、この神仏分離令は破壊を命じたものではありませんでした。それでも地域によっては廃仏毀釈が過激化し、その先駆けとも言うべき役割を担ったのが、延暦寺と深く結びついていた日吉社でした。他に激しい廃仏毀釈が起きた地域は、佐渡や富山や松本や苗木や津和野や土佐や薩摩などです。一方で本書は、こうした廃仏毀釈の言い伝えの中に誇張されたものがある可能性を指摘します。

 本書は廃仏毀釈について、上述のように過激化した地域もあったものの、神仏分離令は実行されても廃仏毀釈に至らなかった地域も多く、廃仏毀釈を免れた仏像や仏画や堂塔も少なくはなかった、と指摘します。神仏分離令の本質は神と仏を明確にする「判然令」で、明確にできない権現と牛頭天王がその矢面に立たされました。こうして、現在のような社寺の景観が形成され、それは近世までとは大きく異なるものでした。日本史における前近代と近代との大きな違いの一つが社寺の在り様で、廃仏毀釈は重要な影響を及ぼしただけに、今後も時間を作って調べていくつもりです。

https://sicambre.at.webry.info/202111/article_13.html

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