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宮中『魔女追放事件』 _ 入江侍従長の祭祀簡略化工作と戦い敗れた女官
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/618.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 9 月 10 日 20:07:22: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください 投稿者 中川隆 日時 2018 年 12 月 22 日 10:15:55)


宮中『魔女追放事件』 _ 入江侍従長の祭祀簡略化工作と戦い敗れた女官

入江侍従長の祭祀簡略化工作と戦い敗れた女官 ──河原敏明「宮中『魔女追放事件』の真実」を読む [宮中祭祀]
https://saitoyoshihisa.blog.so-net.ne.jp/2016-07-03

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2016年7月3日)からの転載です

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入江侍従長の祭祀簡略化工作と戦い敗れた女官
──河原敏明「宮中『魔女追放事件』の真実」を読む
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 古い記事ですが、久しぶりに重量感のある皇室ジャーナリズムの記事を読んだという満足感がありました。河原敏明氏の「昭和天皇を苦悩させた宮中『魔女追放事件』の真実」(月刊「現代」1999年1月号)です。

 ただ、この記事は結局、歴史の真相に迫り切っていないのではないか、という疑いが晴れません。というのも、河原さんは、入江相政侍従長が「魔女」と痛罵した女官の追放劇の最中に、宮中で進行していた大事件にほとんど言及していないからです。

 私はむしろ、戦後の皇室のあり方と直結する、この大事件こそが「魔女」追放の真因であり、真相だと考えていますが、河原さんはまるで関心がないかのようです。


▽1 『入江日記』が唯一の記録

 平成3年に刊行された入江相政侍従長の『日記』に、「魔女」追放劇が綴られています。

 河原さんの説明によれば、「魔女」とは昭和27年から46年まで香淳皇后に仕えた女官で、皇后の絶大な信任を得たものの、やがて入江の怒りを買うところとなり、皇室全体を巻き込むほどの大問題となった末に、宮中から追われたとされています。

 河原さんによると、「魔女退治」の顛末を唯一、後世に伝える勝利の記録が『入江日記』なのですが、『日記』には「魔女」としか記されず、本名は明かされていません。「魔女」が新興宗教を香淳皇后に勧めていると疑い、探っていたという記述はあるものの、追放の理由も具体的には説明されていません。

 まるで雲をつかむような話です。


▽2 凜とした声の主

 河原さんが記事を書こうと思い立ったのは、以前、わずかに言葉を交わした元女官の声が忘れられなかったからでした。名前は今城誼子(いまきよしこ)といいます。

 昭和55年、河原さんは、貞明皇后と香淳皇后の2代に仕えた久保八重子さんという大ベテランの女官を取材したことがありました。

〈同じく2代の皇后に仕えたのはもう1人だけだった。まじめで、地味で、陰日向のない人で、絶大な信頼を得ていた。けれども、香淳皇后に新興宗教を勧めたという疑いをかけられ、気の毒にも罷免された。最後のお務めの日、香淳皇后は泣いておられた……〉

 それが今城さんでした。

 興味を覚えて面会を試みたものの、固辞されて果たせず、忘れかけていたころ、『入江日記』が刊行され、河原さんは仰天します。入江が「魔女」と誹謗する女官こそ、今城さんその人に違いありません。

 しかし、以前、電話で聞いた穏やかながら凜とした声の主が奸佞な「魔女」とは、河原さんにはどうしても思えませんでした。特別の事情が隠されているのではないか。取材が始まりました。そしてその勘は当たっていたというのです。


▽3 御訪欧決定を契機に

 河原さんによると、今城さんは明治40(1907)年、子爵・今城定政の娘として生まれました。女子学習院高等科に学んだあと、昭和4(1929)年、伯爵・甘露寺受長侍従の推薦で、貞明皇后(皇太后)の女官となりました。貞明皇后が26年に崩御になると、ふたたび甘露寺の推薦でこんどは香淳皇后に仕えることとなりました。

 入江の『日記』には昭和天皇・香淳皇后の御訪欧決定を契機に「皇后・魔女」対「入江・宮内庁」の暗闘が激化していったことが生々しく記録されており、河原さんはこれを「魔女騒動」と呼んでいます。

 けれども河原さんは、真実は別だとみています。『日記』には、「魔女」という先入観で書かれた記述が目立つ半面、その根拠となる具体的な事実が皆無だからです。御訪欧随行問題は最終局面での「魔女」追放の口実に過ぎないことになります。

 しかし、河原さんが見る「真実」も違うと私は考えます。


▽4 誤解と濡れ衣?

 河原さんはまず推理しました。入江が今城さんを「魔女」と決め付け、憎悪した理由は何か、最大の理由は今城さんが香淳皇后に新興宗教を勧めたことにあるらしい。入江は昭和41年2月の『日記』に、「魔女の行くのは『誠の道』(正しくは「真の道」)といふ宗団の由」と記しています。

 けれども、入江の誤解でした。教団は皇室関係者との接触はなかったからです。

 とすると、香淳皇后と接触した教団はほかにあることになる。それは「大真協会」ではないか、と河原さんは考えました。河原さんはかつて教団婦人部幹部の久邇正子さんに直接取材したことがありました。

 正子さんは元皇族で、香淳皇后の姪に当たります。香淳皇后に教団を紹介し、昭和天皇の顔面痙攣を治してあげようと考えたようです。正子さんと香淳皇后とを取り持つ女官もいました。しかし今城さんではありません。

 つまり、今城さんは無関係です。完全に濡れ衣を着せられていたと河原さんは結論づけます。入江ほか宮内庁幹部は確たる証拠もなく、今城さんを「魔女」扱いし、糾弾していたのです。

 それなら、なぜそこまで今城さんは憎悪されたのか。


▽5 感情的な確執か?

 河原さんは、その理由について

(1)貞明皇后に仕えたのち、あとから移ってきたよそ者なのに、香淳皇后から依怙贔屓とも見られるほどに重用されたことへの嫉妬

(2)厳格な大宮御所と比べて、馴れ馴れしいほどに緩い皇居との落差を言葉にして指摘したことで買った無用の反発

 ──の2つとみています。

 そして、やがて宮中全体を敵に回すことになり、罷免された、と河原さんは理解するのでした。

 しかし私はそうではないだろうと考えてます。個人レベルの感情的な確執が宮中全体に関係するほどの大騒動となり得るでしょうか。私が職員OBたちに取材したところでは、今城さんは職員たちによる評価も高く、「魔女」と呼ばれるような人物ではありません。逆に入江の評判の方が良くないのです。

 誤解でも濡れ衣でもない、憎悪されるに足る確たる根拠が、今城さんではなくて、入江の側にあったのだと私は考えます。それはこの時期、入江が宮中全体を巻き込んで展開していた宮中祭祀の改変です。

 目の前に立ちはだかって抵抗する厳格派の今城さんが、入江には端的に目障りだったのでしょう。入江の祭祀改変工作が宮中全体を巻き込んで、陰に陽に展開されたとすれば、罷免工作もまた宮中全体に及ぶのは必至だったと私は想像します。


▽6 香淳皇后の夢だった?

 河原さんの記事によれば、入江と今城さんとの確執は、昭和46(1971)年9月に実施された御訪欧をきっかけにのっぴきならない局面を迎えたとされています。随行要員に今城さんを含めるかどうかで、入江侍従長や徳川義寛次長と香淳皇后との間で騒動が持ち上がり、入江は「また『魔女』に焚き付けられたか」と緊張したというわけです。

 河原さんによると、もともと外国御訪問は香淳皇后の夢だったとされます。前年の45年、大阪万博で来日したベルギーのボールドウィン国王が両陛下を招待したのが史上初となる天皇・皇后両陛下の外国御訪問の始まりとされています。

 けれども、高橋紘・元共同通信記者の『人間昭和天皇』によると、事実関係がかなり違います。

 高橋元記者によると、キーマンは高松宮妃殿下でした。同年4月に来日したのはベルギー国王ではなくて弟のアルベール殿下で、このとき晩餐会の席上、高松宮妃殿下がこう語りかけたのです。

「天皇陛下は皇太子殿下時代に欧州を訪問されたが、皇后陛下は海外にお出かけになったことがない。ベルギー国王は6年前、来日されたが、その答礼という形で、国王陛下から天皇陛下をご招待いただけないか」

 妃殿下は吉田茂元首相にも働きかけをし、佐藤首相周辺で秘密裏に御外遊計画は進み、翌46年2月、閣議決定されました。


▽7 法的制約を顧みない

 高橋元記者が指摘するように、外国御訪問計画はもっと遡れそうです。入江が昭和35年、『日記』の「年末所感」にこう書いているからです。

「東宮様も方々へおいでになり、一生懸命やっていらっしゃる。お上の御風格も世界の人に見せてやりたいが、早くしないとだんだんお年を召してしまう」

 高橋元記者は「入江1人の感想でもなかろう」と書いています。香淳皇后が秩父宮妃、高松宮妃に「一度、外国に行きたい」と話したこともあったようです(『高松宮宣仁親王』)。

 入江の願望と香淳皇后の夢、高松宮妃殿下の提案とがどういう関係にあるのか、分かりませんが、いずれにしても、日本国憲法はいわゆる皇室外交を予定していません。憲法7条が規定するのは日本大使の認証、外国大使の接受にとどまります。

 39年5月に国事行為臨時代行法が公布・施行され、御外遊は現実化するのですが、入江は法的制約をどこまで理解していたのでしょう。情緒的に天皇の御外遊を構想した発想は法的ルールを顧みない祭祀改変と共通します。


▽8 追放劇の背景

 河原さんが指摘するように、『入江日記』に「魔女」が最初に登場するのは昭和41年1月3日でした。大晦日に男子禁制であるべき「剣璽の間」に侍従が無断で入ったことを、今城さんが「えらい剣幕」で詰問したというのです。

 河原さんが書いているように、今城さんが最初に仕えた貞明皇后は皇室の伝統・慣習に厳しく、女官には源氏名を付け、御所言葉を半ば強制したようです。けれども貞明皇后崩御のあと、27年に香淳皇后に仕えるようになったとき、今城さんが強烈に感じたのは、まるで異なる御所の雰囲気で、その馴れ馴れしさに驚いたそうです。

 とりわけ今城さんにとって我慢がならなかったのは、宮中でもっとも神聖視されるべき「剣璽」への軽視であり、固守されるべき祭祀の改変だったのではないでしょうか。それが追放劇の背景なのだろうと私は考えます。

 河原さんは1点だけ、祭祀の改変問題に触れています。

「老境に入ってさすがに従来どおりの神事出席は難しくなったと、入江たちは懸念した。毎月1日、11日、21日の3回、天皇は祭服を着て宮中三殿に親拝される慣例(旬祭)だが、ご親拝は陽気のよい5月と10月だけにし、あとは当直侍従による毎日のご代拝にした旨、入江は皇后に申し上げるのだが──」

 旬祭の改変に関する河原さんのこの記述は不正確です。それはともかく香淳皇后は入江に対して「もっとお祭を大事に度数を増やした方がいい」と反論なさったものの、結局、押し切られます。入江は背後に「魔女」の存在をはっきりと見ています。


▽9 為政者の不作為

 祭祀改変に関する河原さんの記述は、昭和45年の大晦日に書かれた『入江日記』の「補遺」に基づいていますが、改変工作はすでに2年前から進められていました。

 当メルマガの読者ならご承知のように、戦前は皇室祭祀令があり、祭式はその附式で明文法的に定められていました。戦後、昭和20年暮れの、いわゆる神道指令が指令されましたが、宮中祭祀は「皇室の私事」として存続しました。掌典職は公機関ではなくなり、予算は内廷費から支出されることになりました。

 22年5月の新憲法施行に伴い、皇室令はすべて廃止され、祭祀は明文法的根拠を失いました。しかし同日付の宮内府長官官房文書課長の依命通牒で「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされ、祭祀の伝統は守られました。講和条約が発効すると神道指令は失効しました。

 関係者の証言によると、伝統の祭祀を守るため、当面は「皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、というのが当時の政府の方針でしたが、残念ながら実現されませんでした。為政者の不作為の罪です。

 そして事態が急変します。43年に入江が侍従次長となり、法整備どころか、祭祀「簡素化」の工作を始めたのです。


▽10 侍従長に上り詰める

『入江日記』には次のように記されています。

「10月25日 (宇佐美毅)長官の所へ行き、新嘗のことなど報告。皇后様(香淳皇后)に拝謁。新嘗の簡素化について申し上げたが、お気に遊ばすからとのこと、もう少し練ることになる。永積(寅彦。この年9月に掌典長就任。半年前までは侍従次長だった)さんと相談。夕方、掌典職の案というのを聞かせてもらう。これで行くことになろう」

「10月28日 魔女に会い、新嘗のこと頼む」

 歌道を本業とする冷泉家の末裔ながら、入江は装束より洋装、燕尾服よりモーニングを好んだようです。そして根っからの祭祀嫌いだったらしい入江は、翌年9月に侍従長を拝命するや、皇室の伝統も法制度も無視して、祭祀改変へと驀進します。

 このとき目前に立ちはだかったのが、皇室の伝統に忠実たらんとする今城さんであり、香淳皇后だったのでしょう。入江が憎悪を深め、「魔女」と呼ぶのは当然です。

 今城さんも入江も堂上家の出身です。今城さんの祖父中山孝麿は東宮大夫、宮中顧問官、東宮侍従長を歴任し、入江の父為守は東宮侍従長、侍従次長、皇太后宮大夫を歴任しています。今城さんの曾祖父中山忠愛の妹慶子は明治天皇の生母であり、入江の母方の祖父柳原前光の妹愛子は大正天皇の生母という関係です。

 似通った出自の2人ですが、昭和4年から二代の皇后に仕えてきたとはいえ、一介の女官に過ぎない今城さんと、2歳年上ながら、5年遅れて、侍従職となったとはいえ、いまや侍従長の地位に上り詰めた入江との勝負は、すでについていたのでしょう。

 河原さんが理解するような「誤解」でも「濡れ衣」でもないと思います。目の上のたんこぶに対して、入江は対抗心を爆発させ、そして表面化したのが御外遊随行問題であり、その背景には確信的に進められる祭祀簡略化問題があったのだと私は思います。


▽11 抵抗者はいなかったのか

 それにしても、いくつかの疑問があります。

 第1に、なぜ入江は、廃止されたわけでもない依命通牒の規定に反してまで、天皇の聖域である祭祀に介入し、簡略化に突き進んだのでしょうか。

 入江の『日記』では、祭祀簡略化は昭和天皇の「ご高齢」が理由であるかのように記録されていますが、その一方、御外遊計画は進められました。半月にも及ぶ海外旅行に耐えられる陛下は「ご高齢」でしょうか。

 入江は自身の祭祀嫌いを、昭和天皇の「ご高齢」に転嫁させ、説明したのでしょう。リーガル・マインドなど最初から欠けているのはむろんです。

 第2に、そうだとして、法的根拠に基づいて、占領中も、社会党政権時代も、守られてきた祭祀を、個人的な思惑から変更させるのは、暴走以外の何ものでもありません。宇佐美長官ら側近、あるいは天皇・皇族方はなぜ止められなかったのか。今城さん以外に抵抗者はいなかったのでしょうか。

 入江の『日記』によると、44年には旬祭の御親拝は5月と10月のみとなりました。河原さんの記事の説明は不正確だと申しましたが、正確にいえば、毎月1日、11日、21日に行われるのが旬祭で、このうち1日の旬祭は御親拝とされていました。それが入江の工作で、年2回に「簡素化」されたのです。御親拝がないなら、侍従のお供も不要です。

 同年暮れから翌45年にかけての年末年始の祭儀も簡略化され、「四方拝(元旦)はテラス、御洋服。歳旦祭(元日)、元始祭(1月3日)は御代拝」(『入江日記』)とされました。

 御外遊は翌年46年秋でした。祭祀簡略化工作と御外遊計画は同時進行しています。

 入江はいみじくも46年暮れ、『日記』の「年末所感」に、「今年は実にさまざまなことがあったが、大別すると、魔女の追放と御外遊の2つになり、さらにもう1つを加えるとなると新嘗の簡単化ということになる」と記しています。


▽12 昭和天皇の顔面痙攣

 河原さんは昭和天皇の顔面痙攣について触れています。香淳皇后の姪・久邇正子さんが治して差し上げようとしたとあります。

 入江の『日記』では「お口のお癖」と説明されています。45年大晦日の「補遺」には、なぜ祭祀の「簡素化」が始まったのか、長々とした説明が載っていますが、入江が気にしていたのは、6月ごろ始まったという昭和天皇の「お口のお癖」でした。しかし記述には矛盾があります。

 入江によると、新嘗祭を簡素化すると、昭和天皇は「すっかりご安心」になり、「不思議なことにお癖はすっかり止んでしまった」と入江は書いています。そのまま読めば、祭祀のお務めがご高齢の昭和天皇には肉体的・精神的なストレスになり、「お癖」を招いた、と解釈されます。

 ところが、違うのです。いったん止んだものの、翌46年秋には「お癖」は再発したとほかならぬ『日記』に記されています。


▽13 「暁をやってもいい」

 それでは真相は何か。

『日記』によれば、「お癖」が始まったのは45年6月。とすると、香淳皇后が「旬祭はいつから年2回になったか」と猛抗議された直後です。再発したのは46年9月で、今城さんの退官から2か月後、御外遊から帰国された直後でした。

 同年11月には皇室第一の重儀である新嘗祭が簡略化され、出御は夕の儀のみとなります。入江は「お帰りのお車の中で、『これなら何ともないから急にも行くまいが暁(の儀)をやってもいい』との仰せご満足でよかった」と『日記』に書いていますが、昭和天皇が「ご満足」のはずはありません。逆でしょう。

 昭和天皇は入江の工作にご不満で、最大の抵抗を示されていたに違いありません。だから「やってもいい」と仰せになったのです。

 河原さんの取材によると、「お癖」の始まりは時期が少し異なります。しかし久邇正子さんが香淳皇后を訪ねたのが43年11月だということは、入江が祭祀簡略化を開始させた時期とピッタリ重なります。

 祭祀のご負担が昭和天皇の「お癖」を招いたのではなくて、それとはまったく反対に、入江の祭祀簡略化工作が「お癖」の原因なのでしょう。祭祀が天皇第1のお務めだとすれば、昭和天皇にとって祭祀簡略化工作はどれほど耐えがたかったでしょうか。


▽14 ほんとうのラスプーチンは

 河原さんの記事にあるように、「入江日記」には「魔女罷免」に関して、「(香淳皇后が)たいへん御機嫌だった」「すっかり御機嫌」などと記述されています。つまり、同僚の女官が「お部屋で泣いていらっしゃった」と証言するのとは真反対です。

 入江は後世の人が『日記』を読むことを前提に、白を黒と記述しているのではないでしょうか。香淳皇后には無念以外の何ものでもなかったはずで、入江の前ではことさら気丈に振る舞っておられたのかも知れません。

 いちばん納得していなかったのは今城さんご自身でしょう。河原さんによれば、今城さんは同僚の久保さんに、「私、どうして辞めさせられるの?」と尋ねたそうです。

 今城さんの退職は46年7月。職員OBによると、それ以前もそうだったけれども、それ以降、入江に楯突くものは完全にいなくなったようです。もはややりたい放題。今城さんは格好の見せしめとされたのです。今城さんは「ラスプーチン」とも喩えられたそうですが、ほんとうのラスプーチンは入江でした。

 昭和49年に「無神論者」を自任したという富田朝彦次長が登場すると、祭祀簡略化は憲法の政教分離原則を楯に本格化します。55年になると、入江は、昭和天皇の親祭を春秋皇霊祭と略式新嘗祭に限定することを皇太子殿下の発議、皇族方の総意で進めようと工作します。「魔女」追放劇でも行われたであろう、用意周到な根回しが垣間見えます。


▽15 見ざる・聞かざる・いわざる

 祭祀簡略化が最初に明るみに出たのは、私が知るかぎり、昭和57年秋に刊行された、星野甲子久・読売新聞記者が書いた『天皇陛下の365日』です。同年暮れには勇気ある宮内庁職員が学会で問題提起し、週刊誌などをも巻き込んで社会問題化します。

 今城さんの退職後、「見ざる・聞かざる・言わざる」の風潮が宮内庁内に浸透していたのでしょうか。あるいは、そのあとも。

 さて、問題は現代です。

 平成20年以降、祭祀簡略化が陛下のご負担軽減を目的に、昭和の先例を根拠として、進められています。しかし、ご負担軽減といいつつ、ご公務は逆に増えました。悪しき先例が根拠とされるべきでもありません。

 けれども、宮中から疑問の声はいっこうに聞こえてきません。今城さんがご存命なら、どう思うでしょうか。

 最後に蛇足ですが、河原さんはなぜ祭祀簡略化問題に注目されないのでしょうか。

 既述したように、入江の『日記』には、「魔女追放」「御外遊」「新嘗簡単化」の3つが46年のテーマだったと書かれています。58年の年初から祭祀簡略化がマスコミの大きなテーマとなったことはご記憶のはずでしょうに。(一部敬語敬称略)
https://saitoyoshihisa.blog.so-net.ne.jp/2016-07-03  

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コメント
1. 中川隆[-10414] koaQ7Jey 2024年5月29日 09:24:56 : gyOucZ4HFg : VVYwNnU3Y0FqM1k=[24] 報告
<■406行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2024年05月28日
皇太弟の実父は誰なのか? / 暗闇に光る皇室(5)
https://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68963413.html

幽霊作家を隠すインチキの常習者?

Prince Fumihito 2901Prince Akishino 324Hisahito 3945
( 左 : 秋篠宮夫妻 / 中央 : 礼宮文仁殿下と安西孝之 / 右 : 悠仁親王殿下)

  マスコミによる「秋篠宮バッシング」には、イチャモン程度のゴシップ記事が多いけど、秋篠宮家がマスコミの標的になるのは、あまりにも愚行や謎が多すぎるからだ。例えば、悠仁親王が書いたとされる『赤坂御所のトンボ相』論文は、飯島健と清拓哉との共著になっている。しかし、悠仁親王が「第一著者(first author)」というのは信じがたい。おそらく、この共同論文は国立科学博物館の清氏と東大農学生命科学研究科の須田真一が発表した『皇居のトンボ類』という論文が下地になっているのかも知れない。

  また、飯島氏は元々、つくば市にある国立機関「農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)」の研究員を務めていた人物で、今は宮内庁に勤めているという。つまり、トンボ研究の専門家と家庭教師を主筆にして、その先頭に「神輿」として悠仁殿下を載せた、というのが真相なんじゃないか? たぶん、悠仁殿下も何枚かトンボの写真を撮ったのかも知れない。だが、そんなのはカメラ好きの少年なら誰でもやることで、学術論文のレベルじゃない。志望校への「コネ入学」を正当化するためのアリバイ作りだろう。

飯島健 特別研究員
( 「特別研究員」だった飯島氏)

  悠仁親王殿下は頼りなさそうな少年ではあるが、宮内庁の計画では「優秀な皇位継承者」という設定になっているので、スポーツも得意な若き皇族となっている。しかし、実際の殿下は違うんじゃないか? 例えば、北九州市の懸賞論文では盗作がバレて赤っ恥をかいたし、「推薦制度」という“裏口入学”で難関の筑波大附属駒場高校に入った。どの大学に入るのか判らないが、もし「特別枠」で東京大学に進んだら、全国各地から苦情が殺到し、恨みや嫉妬で非難囂々だろう。「学歴信仰」が日本の宗教なのに、こんな不正をすれば、世間から激しい野次を受けても当然だ。

  また、「部活にも熱心な悠仁殿下」というのも虚構で、本当に運動神経がいいのかどうかさえ判らない。例えば、殿下は東京都春期高校バトミントン大会に参加され、関東大会の予選に出場したことになっている。しかし、大会主催者が公開した結果表(令和6年4月14日)には、悠仁殿下の名前が無いのだ。予選では「筑波大附属高校」対「八雲学園」、「武蔵野大千代田」、「修徳」、「芝浦工業大学」戦が行われ、試合番号「BT1-7」「BT1-18」「BT1-17」「Bt1-27」の対戦表を見れば、「姜・齋藤vs太田・藤縄」や「生田vs坂牧」などの試合結果が載っている。

  だが、なぜか悠仁殿下の対戦成績はカットされているのだ。ということは、悠仁殿下は予選に参加したが試合は行っていない、もしくは、試合はあったが記載するほどの価値が無い、と判断されたのかも知れない。でも、こんな侮辱を受ければ、宮内庁が大会の主催者側に「ふざけるな!」と抗議するはずなんだが、宮内庁が訂正を求めた形跡は無い。普通なら土下座で謝るはずなのに。

  もしかすると、殿下の大会出場を報じた「ニュース・ポスト・セブン」が偽情報を流した可能性もある。単に殿下が会場に赴いただけなのに、対戦試合をしたかのように報じたとも考えられるのだ。取材記者が伝聞だけで記事を書くこともあるので、「うっかりミス」という場合もある。宮内庁が悠仁親王に関する情報を閉ざし、様々な報道規制を敷いているから、適当な憶測記事が飛び交ってしまうのだろう。

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  話を戻す。悠仁殿下に関する生情報は非常に少ないから、ちょっとした事件でも大々的に報じられる危険性がある。中学生の悠仁殿下が幽霊作家を雇って代筆させたという事件もそうだ。たぶん、周囲の誰かが仕組んだのだろう。もしかすると、両親が側近に命じて原稿を書かせたのかも知れないし、本人が稚拙な原稿を書いて幽霊が名文に仕上げたのかも知れない。おそらく、推薦入学の材料にしたかったから、「佳作」という賞を手配したんだろうが、ひょんな事から剽窃がバレて大恥をかいた。しかも、巧妙な編集がなされていたので悪質である。

  こうなると、お茶の水小学校を卒業した時に書いた「人は自然界の中で生きている」という作文も怪しい。この文章を読むと、いかにも出来の良い小学生が書いたように思えるが、何となく大人が注意しながら書いたように思える。つまり、子供らしい表現で書かれているが、ちゃんと考えた事が纏まっており、文章全体が引き締まっているから、何となく胡散臭い。子供ならもっと率直で、拙く書くのでは?

  悠仁殿下が作文でボロを出したのは本人の“せい”じゃない。秋篠宮夫妻じたいが不正の前科者であるからだ。以前のブログで説明したが、秋篠宮殿下が1996年に“取得”したとされる“博士論文”「Molecular Phylogeny of Jungleowls, genus Gallus and Monophyletic Origins of Domestic Fowls」は、英語で書かれているが、本文は42ページほどであり、残りは参考文献とデータを貼り付けたシロモノだ。学部生でもしない恥ずかしいくらいの水増しをしている。

  タイで行った英語演説では、研究分野を語っていたが、喋っている英語は中学生の片仮名イングリッシュ。殿下はオックスフォード大学の大学院に留学され、動物学科で魚の分類学を専攻されたというが、本当に自分で論文を書き、英語で級友と議論をしたのか? オックスフォード大で指導教官を務めたトマス・ケンプ教授は、「真面目で優秀な学生でした」と褒めていたが、 殿下がイギリス人の研究者と英語で語り合う録画映像は無い。少なくとも、一般国民が視聴できる動画は存在しないのだ。

  魚類や鳥類に関する「研究」が好きならしょうがないけど、どうしてあんなに名誉学位を欲しがるのか? 宮内庁のホームページを見れば判るが、色々な大学から名誉博士号をもらっている。例えば、

  平成7 (1995) 年9月  カセートサート大学から理学(水産生物学)
  平成15 (2003) 年8月  ウボンラーチャタニー大学から理学(農学)
  平成23(2011)年3月  カセートサート大学から理学(畜産学)
             チエンマイ大学から人文学(人間・環境管理学)
  平成30 (2018) 年12月 マハーサーラカーム大学から生物学

  秋篠宮殿下は名誉学位を11個も授与されているというが、これではまるで創価学会の名誉会長だった池田大作みたいだ。輝かしい「学歴」をつけて自慢したいのなら、イベント参加の時に名札や旗に贈与された学位を記せばいい。でも、そんなにしてまで国民に見せびらかしたいのか?

Prince Akishino in ThaiPrince Akihito & Princess Kiko 3907Princess Kiko 720


  紀子妃殿下も「博士」となっていたから、驚く国民も多いだろう。妃殿下は「お茶の水女子大学」で勉強されたそうで、「結核予防の意識と行動について : 結核予防婦人会講習会参加者・女子大学生の調査より」という博士論文を書いていた。(秋篠宮紀子/ 取得学位 : 博士 / 学位授与番号 : 乙第325号 / 学位授与年月日/ 2013年3月22日) しかし、この論文を読むには京都にある国会図書館まで行かねばならず、関東や東北に住む国民が手にしたいと欲すれば、関西館にお金を払って郵便配送してもらうしかない。

  どうして宮内庁は妃殿下の論文をPDFにして無料公開しないのか? 図書館の奥に秘蔵されたまま、なんておかしいぞ。紀子妃には「最近の結核に関する意識と予防行動について」『結核』Vol.87, Np.10(2012年)という学術論文があるけど、これは内容がスカスカで、単にアンケート結果を並べただけの紹介文である。こんなのは小室圭が雑誌に投稿した「優秀作文」と変わりがない。紀子妃の論文を読んで、いったいどんな利益があるというのか?

  それに、どうして皇族が「結核」について研究しなければならないのか? 現在の日本で結核が原因で死亡する国民が多いとは思えない。これは筆者の邪推だが、学会が注目する幹細胞やテロメアの研究、非コードDNA領域、ゲノム解析などの最先端科学を専攻すると、多くの人々が熟読してしまうから、なるべく地味で関心の薄い分野を勉強したとも考えられる。また、勝手な推測になってしまうが、もしかすると、博士号を取るための「専門分野」だったんじゃないか? つまり、悠仁親王殿下をお茶の水の小学校に入れるため、「母親が博士号を取って研究者の身分を得る」という計画だった、ということだ。(研究者の子供だと、優先的に入学できるから。)

 やがて悠仁殿下は皇位に就くことになるが、その時、マスコミは過去を蒸し返し、数々の不正疑惑を書き立てるだろう。ピンク左翼や反日分子は「裏口の宮ズルヒト天皇」と揶揄して、「頭の悪い皇族が権力で学歴をつけた!」と嘲笑うはず。将棋界では10代の藤井聡太が、自分の“実力”で竜王や名人、棋聖、王位などのタイトルを次々に奪取し、21歳で堂々の“8冠王”となった。日本人は「実力主義」で栄光に輝いた者を称賛するが、「銭の力」や「親の七光り」で優等生になったお坊っちゃんは軽蔑の言葉を投げつける。昔、格闘技団体「PRIDE」」で八百長試合があったけど、対戦相手が主催者と組み、審判までもがグルになっていたから、全国の格闘技ファンは激怒した。日本人は有力者が仕組む巧妙な不正が嫌いだ。

  だいたい、「トンボの研究」といっても、空を飛ぶトンボの観察をしているだけじゃないか! 筆者だって小学生の時、素手でトンボを摑むことが出来たし、昆虫の標本を作って友達に見せていた。しかし、それで東京大学とかICUに入れるとは思わなかった。もし、トンボを専門とする学者が殿下の「アドヴァイザー」になっているなら、それは皇室にたかって研究費の増額を狙う吸血鬼だろう。将来の天皇がトンボの研究をするとなれば、政府からの補助金が数千万から数億円支給される可能性だって出てくる。下心のある研究者や団体役員は、笑顔で皇族に近づき、その威光を利用して私腹を肥やそうとする。

  昔、学習院の院長を務めていた乃木大将は、「皇族は軍人になるべし」という考えを持っていた。もう敗戦から半世紀以上経ったのだから、悠仁殿下は裏口から有名校へ入らず、中卒で自衛隊の「高等工科学校」に入ればいいじゃないか。興味も無いトンボとか稲の研究じゃなく、少年自衛隊で国旗掲揚をしたり、一緒に軍事訓練をすれば、国民からの尊敬を得ることが出来るだろう。一般国民は見栄を張った優等生より、素朴な愛国心と信仰心の篤い凡人の方を評価するはずだ。もし、学校を卒業して陸自の三等軍曹にでもなれば、「ズルヒト君」の汚名を雪ぐことができるぞ。

秋篠宮殿下の血統は神聖なのか?

  秋篠宮殿下が国民の不評を買っているのは、その出自が何となく怪しいからだ。インターネット界隈では、「上皇陛下の息子ではなく、安西孝之が実父では?」と囁かれている。確かに、自民党の衛藤征士郎議員がYouTubeにアップロードした映像を観ると、安西氏と秋篠宮殿下はよく似ている。(2014年の第18回ゴルフ新年会に、フジテレビの日枝会長と一緒に参加していた。) しかし、これは単なる印象論なので、誰かが意図的に類似の人物を探し出し、それを拡散しているだけなのかも知れない。それでも、人々の間には疑念が広がるもので、「今上(徳仁)陛下は上皇陛下と似ているのに、なぜ弟の秋篠宮殿下は似ていないんだ?」という国民感情も理解できる。

  秋篠宮による男系男子を主張する八木秀次や竹内久美子は、「Y染色体」まで持ち出して、「126代の萬世一系」を強調するが、それなら上皇陛下と秋篠宮の親子関係を証明するDNA鑑定を実施すべきだろう。秋篠宮殿下の唾液を綿棒で採取するだけだから簡単だ。怪しげな匿名サイトでは、秋篠宮殿下が昭和電工の安西孝之と正田恵美子(美智子妃の妹)の間に生まれた子供で、流産した美智子妃の養子になった、という陰口が絶えない。まぁ、一般的に息子は父親の体型や人相と似てくるから、違っているように見えれば親子関係を疑う国民が出てくるのも当然だ。

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(左 : 安西孝之と秋篠宮 / 若い頃の上皇陛下 / 右 : 礼宮文仁殿下)

  筆者は宮内庁の説明より、科学的検査の方を信じる。現実の社会では、病院の看護婦が二人の赤ん坊を取り違えてしまい、何も知らぬ親が育ててしまう、というケースがあった。他人の赤ん坊と気づかぬ両親は、自分の子供と思って20年ないし30年も一緒に暮らすが、弟たちが兄の人相を疑って血液検査を強要したことで事実が判明した、ということもあるのだ。検査の結果で「他人」と判明すると悲惨なもので、仲良しだった家族が分裂する、という事態もあるらしい。鑑定前、両親は「馬鹿らしい」と却下するが、兄貴に疑いを持った弟たちが強く迫り、渋々ながらの検査ということもある。

  秋篠宮のケースも感情論や印象論ではなく、客観的な科学捜査で真実を追究すべきだ。それに、八木氏や竹内氏も染色体や遺伝子を持ち出していたから異論は無かろう。もし、竹内氏が「DNA鑑定は必要なし」と言い張るのであれば、それはとても奇妙だ。例えば、警察官は事件捜査の時、犯人のDNAと一致するのかどうかを調べるため、一応、無駄と分かっていても事件の被害者家族や友人などのDNAも採取する。そして、鑑定の結果から「違う」と判断されれば「容疑者」から外すので、あながち「不必要な検査」とは言えない。殺人事件などでは、親兄弟でも「犯人では?」と疑われるくらいだから、科学的捜査は大切である。もし、頑なに拒否する者がいたら、その方が怪しい。「不敬である!」と言ってDNA鑑定を阻止する秋篠宮ファンは、どことなく怪しい。

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  筆者は男系で良いと考えているが、たとえ秋篠宮が安西氏の息子であっても、立派な人物であれば構わない。なぜなら、男系男子による皇位継承は“信仰”の領域であるからだ。大学教授や皇室研究家、歴史家、評論家達は、天照大神の子孫だ、神武天皇以来の皇統だ、八百万の神々を祭る大神主だ、と様々な説を唱えて皇室問題を論じるが、昭和や平成の学者で孝明天皇や後醍醐大帝の遺伝子を調べた者はいないし、弥生時代や平安時代、あるいは室町時代や江戸時代に君臨した天皇から、聖なる血液を抜き取り、皮膚や鼻水を採取した学者も皆無である。それゆえ、本当に同じ「Y染色体」が父親から息子へ受け継がれているのかどうか誰にも判らない。

  昔の日本には宗教的誡律で定められた性倫理は無かったし、「夜這い」も珍しくなかったから、長男が別人の子供という場合もあった。もし、女性が二股をかけて別々の男性と付き合っていると、どちらの精子で妊娠したのか判らない。B氏との性行為で子供を身籠もったのに、それを隠してA氏と結婚すれば、それは後々大問題へと発展するだろう。夫のB氏は自分の赤ん坊と思っているんだから。A氏の存在すら知らぬB氏は、生まれてきた息子を見て「目元や鼻が俺とソックリだ!」と勘違いするし、夫の両親も「息子の赤ん坊」と信じ切っているから、初孫に喜んだりする。

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(左 : 浩宮殿下と礼宮殿下 / 中央 : 今上天皇陛下 / 右 : 秋篠宮殿下 )

  宮中の人間模様も庶民と同じで、厳格な性倫理があったとは思えない。もし、側室や正室の女性が生臭坊主、あるいは親しい公家の誰かと不義密通を行い、それを隠したまま“御懐妊”となったら、「萬世一系の皇統」は偽の血筋で誤魔化されたことになる。朝廷に使える者が、生まれてきた皇子を「天子様の実子」と認めたからこそ、正統なな「皇位継承者」になった訳で、科学技術が未発達の時代だと、疑惑を嗅ぎつけても証明する手立ては無い。

  それに、現在の宮内庁には“信用”も無いから、たとえ政府や側近がDNA鑑定を行っても、世間は疑いの眼差しを向けるだろう。たぶん、検体をすり替えたり、鑑定人を抱き込んだりするから、宮内庁が発表する「DNAの一致」は証明にならない。秋篠宮家を守るためなら、真面目な顔で嘘をつくのが宮内庁の役人である。それゆえ、検査の時には皇室に批判的な科学者や正直な科捜研のベテランを加え、不正行為を防止せねばならない。昔の日本人は「皇族が不正行為をするはずがない」という前提で皇室問題を考えていたので、米国財務省の特別捜査官(the Untouchables)みたいな“買収されない対皇族捜査班”の発想が無かった。(英国のアンドリュー王子みたいに、ユダヤ人の売春組織と昵懇になる貴族だっているから、日本の皇族の中に“ふしだら”な人物がいてもおかしくはない。)

  ついでに言えば、紀宮清子内親王にも疑惑があった。これは証拠に基づかない憶測だが、紀宮殿下は美智子妃と似ておらず、何となく“養子”という印象を受ける。単に“派手”な母と“地味”な娘というだけでなく、清子様に母親の“面影”が無いのだ。両者の顔を眺めていると、「なぜ、親子なのに清子様にはオーラが無いんだろう?」と素朴な疑念が湧いてくる。一般人の世界だと、年頃の娘は母親の若い頃と似てくる、という現象が大半なんだが、皇族だと違うのかも知れない。とはいえ、下界の社会では、赤ん坊の頃に違って見える娘でも、15歳や23歳くらいになると母親の若い頃と似てくるし、娘が子供を産んで中年に近づくと、自分を出産した頃の母親と表情がソックリになる。

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  母親の幼馴染みだって、久しぶりに友人の娘を見ると、「昔のあなたとソックリじゃない!」と言って驚いたりするだろう。窓際族になったサラリーマンのオッちゃん達でも、中学や高校時代の親友に10年か20年ぶりに再会すると、成長した友人の子供に驚くことがある。それに、娘を嫁に出した母親だって、60歳とか70歳になると、亡くなった母親(祖母)と似てくることも。翻って、敬宮愛子内親王を見ていると、若き日の雅子妃にどことなく似ている。就職する愛子内親王を見た国民は、外交官時代の雅子妃を思い出すんじゃないか。

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タイ王国にいる愛人は義理の姉妹

  もう一つ、秋篠宮殿下の行動で“謎”と思われている点は、タイ王国のプリンセスであるチュラポン王女との関係だ。1990年6月、礼宮文仁殿下が川嶋紀子さんと結婚することになったので、皇族の皆様が宮中三殿に赴くことになった。当時、テレビ局が正門に向かう皇太子の徳仁殿下や紀宮殿下をカメラで映し、そのあとに続く常陸宮、高松宮、三笠宮、高円宮の各殿下を撮影していたのである。ところが、この宮中三殿に向かう行列の中に、タイ王国のシリントン王女が混じっていたのだ。しかも、王女は紀宮殿下の隣に寄り添って歩いていたから、一般の視聴者は「えっ、何だこれ!!」と驚いてしまった。

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( 左皇太子殿下と紀宮殿下と一緒に歩くシリントン王女 / 右正門に向かう列に加わり、皇族を従えるシリントン王女)

  いくら何でも、重要な儀式の日にタイの王女が、皇族の常陸宮殿下や高松宮殿下の前を歩いて、堂々とテレビに映るなんて前世紀の日本人には想像できなかった。こんな映像を一般人が目にすれば、「もしかすると、タイの王女と肉体関係を持ってしまったんじゃないか? だから皇太子殿下と義理の妹といった関係になり、紀宮殿下の義理の姉として一緒に歩くことになったんじゃないか?」と勘ぐってしまうだろう。おそらく、日本の皇室にとりタイ王室は特別だから、友好関係を維持するために王女の出席を許可し、一緒に歩くことを認めたのかも知れない。それでも「不自然」で「奇妙」な印象を国民に植え付けてしまったから、本当にマズい判断だった。

  これも推測となってしまうが、タイの王族だから皇太子殿下も隣で歩くよう提案し、西門まで仲良く歩いたとも考えられる。しかし、宮内庁が明確で説得力のある理由を述べないと、「秋篠宮の愛人説」を信じてしまうし、「真相の隠蔽」を疑う国民も出てくるので、本来なら参列を断るべきだった。テレビ映像だけ観て終わり、という人も多いから、必ず王女を紹介する時、ナレーターか局アナが特別な参列の理由を解説すべきだ。これは願望だが、秋篠宮殿下は自分の名誉を守るためにも、定例の八百長会見じゃなく、辛辣な質問をする雑誌記者の参加を許し、堂々とマスコミの誹謗中傷に反論すべきだった。

Princess of Thailand 2秋篠宮 & チュラポーン王女 昭和62年秋篠宮&シリントン王女 2
(左 : チュラポン王女 / 中央 : チュラポン王女と秋篠宮 / 右 : タイの王室と親戚になった日本の皇室? )

  敗戦後、左翼陣営の皇室攻撃は凄まじく、NHKや民放が戦争犯罪を言い立て、新聞や週刊誌が次々と批判記事をバラ撒いていた。しかし、敗戦国の日本には偉大なる昭和天皇が君臨していたので、マスコミがどれほど罵倒しようが、良識的な国民は同調しなかった。皇室は国民からの「信頼」や「敬愛」で成り立っているから、左翼知識人や進歩的文化人、あるいは反日メディアがいくら頑張っても、その人気を叩き潰すことは出来なかった。

  ところが、「開かれた皇室」が世間の風潮となり、天皇皇后両陛下や他の皇族方が次々と庶民に近づくようになると、神々しい天子様という尊崇の念が薄くなり始めた。一般人がイベントで“当然”の如く両陛下と会話を交わし、セレブ藝人のように振る舞うから、「ミッチー・ブーム」で熱狂する民衆が増えても当然だ。「皇室の民主化」という方針は、皇室の権威を蝕んで行く。特に、昭和天皇が崩御されると、皇室の威厳や威光が段々と消え去り、「国民に寄り添う」が気さくな皇室が普通になった。一般国民の方も、神道の儀式や古来からの信仰なんかより、煌びやかなドレスを纏ったプリンセスに目を奪われる。華やかな美智子妃は、雑誌社と連携して写真集の乱発だ。

  新しい平成時代と民主化の日本に浮かれた国民は、チャラい礼宮殿下を目にしても気にしなかったし、ちょくちょくタイへ渡航する宮様を温かく見守っていた。ただ、皇室の伝統を尊重し、皇族の威厳を求める保守派国民は、心の中で不満を募らせていたのかも知れない。もし、皇室の儀式に無知な国民が、皇太子殿下と一緒に歩くシリントン王女を見れば、「文仁殿下にはタイに愛人がいるんじゃないか?」と疑うのも当然だ。一般国民は内情を知らないから、「シリントン王女の妹であるチュラポン王女が第1夫人なんだろう」と噂話をする。

  貴族のセックス・スキャンダルは珍しくないから、野次馬国民が色々と勘ぐるのも無理はない。「非公式でも“男女の契り”を結んでしまったから、文仁殿下の儀式に“親族”として参加させろ、と迫ったんじゃないか? チュラポン王女本人が出席できないから、代理としてシリントン王女が来日したのかも知れないぞ」と。内縁関係の発覚を恐れた宮内庁と天皇陛下が、“特別枠”で参列を許したとも考えても不思議じゃない。しかし、雑誌の記事が本当でタイの王女が愛人なら、代理人が来日しても参列を許さないだろう。どんなにシリントン王女から要求されても宮内庁が却下するはず。そもそも、誤解を招きかねない要求を通した宮内庁が悪い。

  当時、参列の映像を目にした時、筆者も驚いたけど、内情が判らないから推測しかなかった。「いくらなんでも愛人というのはないだろう」と思いつつも、ヨーロッパの王族を直ぐに思い出したので、「まぁ、日本の皇族だって下半身事情は変わらないから」と心配したのを覚えている。

  例えば、イングランド国王ウィリアム4世は、ザックス・マイニンゲン公爵ゲオルグ1世(Herzog Georg I. Friedrich Karl von Sachsen-Meiningen )の娘アデレイド(Adelaide)を娶ったが、53歳の時だから、27歳のアデレード妃からすれば、父親みたいな亭主だ。でも、この王様には内縁の妻というか愛人のドロセア・ジョーダン(Dorthea Jordan / 本名Dorothy Bland)がいて、なかなかの美人女優であったらしい。アデレイドは娘を二人出産したが、どちらも夭折したので、二人の間には後継者がいなかった。

William IV of EnglandDorothea Bland (Jordan) 02Prince Akihito & Princess Kiko 3964
(左 : 国王ウィリアム4世 / 中央 : ドロセア・ジョーダン / 右 : 秋篠宮夫妻)

  一方、ドロセアとの間には既に10人の庶子をもうけていたというから凄い。しかも、非嫡出子の子供なのに、「フィッツクラレンス(FitzClarence)」という名をもらっていて、息子のジョージは初代ムンスター伯爵になった。娘のソフィアはフィリップ・シドニー(Philip Sidney)男爵と結婚したし、エリザベスはウィリアム・ヘイ(William Hay)伯爵家に嫁いだ。末っ子のアメリアはルシアス・ケアリー(Lucius Cary)子爵と結婚し、息子をもうけている。だが、ドロセアはウィリアムよりも前に別に二人の男性と懇ろになり、女優業を続けながら子供を授かっていた。リチャード・フォード(Richard Ford)との間には二人居て、リチャード・ダリー(Rihchard Daly)との間には一人の息子が生まれている。ただし、このドロシーはウィリアム王より4歳年上だった。

  「日本の皇族は清廉潔白で誰もが立派な人物」とは思わないが、秋篠宮殿下が過去に色々な「お遊び」をしていたから、国民からの信用を失ったのだろう。秋篠宮家に対する批判が激しくなったのは、度重なるタイへの旅行や小室問題が切っ掛けであったが、それでもまだ修復する機会はあった。しかし、秋篠宮家は独自の考えを貫き通す。もし、NYへ移住した娘婿を援助していなければ、皇籍離脱の時点で非難は沈静化したのに、裏でコソコソ支援するから雑誌に感づかれ、外務省や日系人の暗躍を書き立てられるのだ。一橋大学やフォーダム大学への工作もそうだし、小室圭がローウェンシュタイン・サンドラーズ社で未だに雇用されている実態を見れば判るじゃないか。

  これだけでも困った問題なのに、裏口入学の計画まで実行したんだから、秋篠宮家が批判されるのは自業自得だ。皇族には「信用」が大切で、国民から揺るぎない信用を得ていれば、週刊誌が何を掲載しようが国民は信じない。逆に、「嫌われる皇族」や「いかがわしい宮様」となれば、マスコミが垂れ流すコシップ記事に信憑性が出てしまうだろう。論より証拠で、兄の今上陛下には国民からの篤い信頼感がある。ところが、弟宮になると首を傾げる国民が多く、週刊誌にスキャンダル記事が出れば、「もしかしたら本当かも?」と信じてしまうのだ。「あの宮様ならやりかねない!」と思う人が多くなれば、宮内庁の広報担当者がいくら火消しに廻っても無駄である。秋篠宮家は「信用第一」という言葉を肝に銘じるべきだ。

謎が多い将来の天皇

  父親と息子は性格や癖が似てくるのか、悠仁殿下にも奇妙な点があった。悠仁親王は形式的に筑波大附属高校の筆記試験を受けるため、一般受験生と一緒に試験会場に向かったことがある。(既に推薦入学が決まっていたが、「実力テストを受けた」という印象を国民に植え付けるため、受験生のフリをしていたということだ。) 試験会場に繋がる道には、雑誌記者とカメラマンが待ち受けていたので、カメラマンは歩いている殿下の写真を撮っていた。

  だが、悠仁殿下の頭を見ると、奇妙な髪型に気づく。殿下の左側頭部の髪をじっと見つめると、後頭部の旋毛から無理矢理に髪を左耳の前に流していたのだ。背後から頭を見れば判るけど、左側面に「附け毛」というか「部分鬘(かつら)」があるように思え奇妙だった。なぜ、左側頭部の髪だけ、あんなに盛り上がっていたのか? 左側の頭皮にハゲがあったのか? ベテラン刑事やレンジャー部隊の自衛官が、殿下の頭部を目にすれば、左側の髪型に気づくはずだ。あのヘアスタイルは意図的なものだから、普通の少年が好む髪型ではない。

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  とにかく、秋篠宮家には不審な点が多い。疑惑と不正の倉庫だ。皇室支持派の国民でも、密かに疑問を抱いている人も多いんじゃないか? ただ、不敬になるから口に出さないだけで、「秋篠宮はおかしい!」と思っている人が結構いたりする。保守派国民ほど正直な気持ちを隠し、嫌な記事を否定するから、何かの切っ掛けで皇室への信頼が揺らぐこともある。

  本来なら、秋篠宮殿下が厳しい質問に答えるべきなのに、お誕生日会見はいつも脚本通りの“茶番劇”となっている。ジェャイアント馬場のキックやチョップじゃあるまいし、八百長会見にはウンザリだ。提灯持ちの記者じゃなく、独立系のジャーナリストを招いて、疑惑追及の「手加減無用会見」にすべきだろう。ベテラン刑事による取調みたいな尋問に耐えるなら少しはマシだけど、秋篠宮殿下は忖度無しの生本番に応じられるのか? 何かの口実をもうけて逃げまくる腰抜けなら、国民の疑惑は益々深くなるだろう。
https://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68963413.html

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