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縄文人の蛇信仰
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/200.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 31 日 05:12:47: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない 投稿者 中川隆 日時 2018 年 12 月 18 日 21:06:02)


縄文人の蛇信仰


吉野裕子さんによると、古代の日本は蛇信仰のメッカだったという。
そして、吉野論の極めつけは、「日本人は蛇の落とし子である」というものだ。


巫女とはどういう存在かというと、「神と交わる人」だ。
ここで、「交わる」の意味が問題となる。 遠まわしな表現でいえば「神と一つになる」だが、それでもわからなければ「神と寝床を共にする人」だ。 だから、「神」が男神であれば巫女は女性であり、女神であれば逆になる。 そして人は「神の子孫」となる。

もちろんこのような話は、王室の正当性を主張するために作られる神話だ。

吉野裕子さんによると、古代の日本は蛇信仰のメッカだったという。 そして、吉野論の極めつけは、「日本人は蛇の落とし子である」というものだ。日本人は古来より、蛇に対して畏敬の念をもつと同時に強烈な嫌悪の対象として見るという、アンビバレントな感情を抱いていた。

だから蛇に対する信仰は、多くの場合は隠された形で、隠喩として示されてきた。
だから、その謎を解明するのは困難を極める。蛇信仰が縄文時代からあったことは、縄文土器に多く見られる蛇の形からもわかる。

だが、吉野説では、その「縄文」自体が蛇とかかわりがあるという。


さて問題の蛇巫の話だ。

吉野裕子著の『蛇−日本の蛇信仰』では、「蛇巫の存在」として1章を当てている。

そこで吉野は、『常陸風土記』のヌカヒメ伝承と大和の「箸墓伝説」、つまり大物主神とヤマトトトヒモモソヒメ命の神話を比較して、この二つに見られる共通点を以下のように挙げている。


l 蛇巫が夜ごと、神蛇と交わること。

l 幼蛇を生むこと。

l 幼蛇を小さい容器の中で飼うこと。


先に、巫女とは神と交わる者だと書いたが、それに習えば、蛇巫とは「蛇と交わる者」ということになる。吉野は他にもいくつかの例証をあげ、以下のように結論づける。

日本古代蛇信仰では、神蛇とはまず人間の巫女と交わることをその第一義としたから、「祭り」とは要するに巫女による蛇との交合であったとさえ思われる。

また、、太古の諏訪大社の主祭神であったと思われるミシャグチ神についても、諏訪大社の代々の最高神官であった大祝(おおはふり)はミシャグジ神の蛇巫だったとしている。

諏訪大社ではたしかに蛇あるいは龍神とのかかわりが密のようであり、そのことは現在の諏訪大社の主祭神である諏訪大明神つまり建御名方神においても受け継がれているようだ。
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20041009/1202903595


日本は多民族国家で

陸稲は焼き畑農耕と一緒に縄文中期に長江から九州に伝わった

水田は弥生初期に長江から北九州に伝わった

弥生人は九州に移住した少数の長江の男が縄文女性を現地妻として作った混血児の子孫

漢民族系日本人は弥生時代後期に北九州に植民市を作り、朝鮮と交易を行った。

弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けた

信仰対象によってどの民族かが簡単に判別できます:

縄文人
蛇信仰、巨木・磐座に神が降りる、死んだら円錐形の山からあの世に上がる

長江人
鳥信仰、集落の入り口に鳥居を設ける

朝鮮からの漢民族系渡来人
中国鏡を神体とする太陽信仰

詳細は


日本人のガラパゴス的民族性の起源 0-0. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1
http://garapagos.hotcom-cafe.com/


▲△▽▼


2017-05-31 日本神話=朝鮮神話
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557

日本人が天から舞い降りた民族でもなければ日本から生えてきた民族でも無い以上日本人はどこからかやってこなければならない。そしてそれは間違いなく朝鮮半島であった。日本神話は確実に朝鮮神話に源流を持つ。日本神話で有名な八咫烏も高句麗のシンボルである。

↓高句麗の壁画に描かれた八咫烏

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八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。 日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、 導きの神として篤い信仰があります。

八咫烏について - 熊野本宮大社 | 公式サイト

平安から鎌倉時代にかけて皇族や貴族から篤い信仰を受けた熊野神社の主祭神は朝鮮半島ソシモリ出身のスサノオであり、そのお仕えである八咫烏は高句麗のシンボルである。熊野神社は高句麗系渡来人の神社であったのだろう。スサノオは朝鮮半島のソシモリから虵の韓鋤の剣を携えやってきてヤマタノオロチを退治した。「虵の韓鋤の剣」は間違いなく朝鮮製の剣であろう。ヤマタノオロチは蛇である。日本の古くからの信仰は蛇信仰である。蛇信仰は注連縄や鏡餅や土器などに見ることができる。脱皮し永遠の命を持つと思われた蛇は信仰の対象であった。その蛇を朝鮮半島からやってきた神が朝鮮製の剣で退治したヤマタノオロチの神話は示唆的である。これは渡来人が蛇信仰の土着倭人を殺戮した歴史では無いだろうか。

f:id:JAPbuster:20170531093454j:plain

古神道とはどのようなものか考えたときそれは原始的なアニミズムであっただろう。その特徴を色濃く残す神社と言えば諏訪大社である。諏訪大社の巨木信仰はまさにアニミズムだろう。また諏訪大社ではソソウ神という蛇神やミシャグジ神を祀っている。柳田国男もこれを先住民族の信仰と考えた。諏訪大社の主祭神は建御名方神と八坂刀売神である。建御名方神といえば国譲り神話でこっぴどくやられた神であり八坂刀売神は記紀神話には存在しない諏訪土着の神である。おそらく土着の倭人が朝鮮系の民族に追いやられた歴史を反映していると考えられる。縄文の信仰を残す諏訪大社と国を譲らざるを得なかった神。偶然の取り合わせでは無いだろう。実際縄文系のDNAは日本の周縁へと追いやられている。朝鮮系渡来人である弥生系DNAは日本の中心に分布している。

f:id:JAPbuster:20170531095826j:plain

古神道を考える上で忘れてはならないのが出雲大社である。記紀の3分の1の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社には出雲系の神が祭られているという。間違いなく古神道といえるだろう。出雲大社の主祭神は大国主大神である。国譲りで国を明け渡さなければならなくなった神であり、大和へその地位を譲らなければならなかった古代出雲文明の神であろう。事実、大国主神は祟り神として知られている。大国主神は国津神の主祭神であり土着の神である。大国主神もまた縄文系の土着の倭人の神であろうか。出雲大社にも流れ着いた海蛇を祀る風習があるという。古代の蛇信仰も色濃く残した神社である。研究によれば出雲の人々のDNAは朝鮮人や中国人とは違うようだ。やはり出雲大社は土着の倭人の神社であるように思われる。

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比較的新しい信仰が天照大神信仰であろう。天照大神は天津神である。渡来人の神であろう。天照大神は機織りや稲作を行う記述があることからも渡来人であることが伺える。天孫降臨神話においても天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊は「この地は韓国に面して、笠沙の岬にも通じており、朝日と夕日が照らす素晴らしい土地である」と発言したように、朝鮮半島との関係をうかがわせる。天照大神は皇室の祖神であり、国家神道の主祭神である。大化の改新の後に皇祖神となったと言われている。持統天皇が日本書紀を編纂させた。その日本書紀が天照大神に特別な地位を与えたと言われている。
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557


▲△▽▼


崇神天皇(第10代天皇)

崇神天皇3年 9月、磯城瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。

崇神天皇5年 疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。

崇神天皇6年 疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。

崇神天皇7年 2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。
8月、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人がともに同じ夢を見る。
11月、夢の通りに大田田根子を大物主神の神主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神の神主としたところ、疫病は終息し五穀豊穣となる。


即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。
祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。

天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた[注釈 1]。
倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬[注釈 2]に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。

即位7年、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に乗り移って自分を祀るよう託宣した。
続いて倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人がともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子と市磯長尾市という人物にするよう告げられた。
そこで大物主神の子とも子孫とも言われる大田田根子が探し出されて大物主神を祭る神主となった。

三輪山を御神体とする大神神社の始まりである。市磯長尾市(いちしのながおち)も倭大国魂神を祭る神主となった。
疫病は終息して五穀豊穣となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87


倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)

『日本書紀』では、百襲姫は大物主神(三輪山の神、大神神社祭神)の妻となったという。

『日本書紀』崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら:比定地未詳[注 1])に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという。

同書崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったという。

同書では百襲姫による三輪山伝説・箸墓伝説が記される。これによると、

百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。

百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。

百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。

時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%A7%AB%E5%91%BD
 

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コメント
1. 中川隆[-12603] koaQ7Jey 2019年1月31日 05:22:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

妙高に今も残る蛇信仰

妙高ロッテアライリゾート予約殺到

東京スポーツ

日本国内リゾート施設が冷え込む中、
1980年台バブル季より強気の宿泊代金

一泊1人68000円〜358000円
12月16日オープン日〜年末年始に、
韓国音楽業界トップアーティストや、
日本国内トップアーティスト、アイドル、ミュージシャンなど、
連日ライブ開催

一方で雪が振る前から客室を公開せず、
予約を行っている事に首都圏の若者から不安の声も、
楽天トラベルが本日から予約受付で予約殺到
(頭にhを付けて下さい)
https://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/164639/164639.html


#46 2017/12/20 05:48

そのうちに廃墟で決まり


#47 2017/12/20 05:49

呪われたスキー場


#90 2018/01/04 06:24
>>0
大毛無山の言われを知れば誰も行かないね


#94 2018/01/05 21:23

大毛無山の言われ、造成工事中の事故など
あの山に何があったのか詳しく教えてください!!


#95 2018/01/05 22:29
>>94
知らない方がよい。


#99 2018/01/06 07:38
>>94
婆ちゃから聞いた話だけど、最初のアライリゾート造ってる時、でーっかい蛇🐍を重機でひき殺したとか…


#106 2018/01/08 19:58
>>99
分かってるとは思うけど
膳棚の下は蝮の住み家 そこだけは 絶対に手をつけては駄目だ

#109 2018/01/08 21:23

膳棚(ぜんだな)

 大毛無山の東斜面に、高さ30メートルを超える急崖が約600メートルに渡って連続しています。
上の地層が削り取られて砂岩層が露出しています。

これは「膳棚」と呼ばれ、
あたりが雪にすっぽりとおおわれてしまう冬でも黒々とした地肌をあらわにしています。

#101 2018/01/06 12:15

山神様の祟り
2015/07/12

525 :炭焼き爺さん:04/07/05 23:24 ID:P5wQJ9I0

炭焼き爺さんの昔話

ワシが一人で炭を焼くようになった頃にな、大きな山崩れで人死にが出た。
2つ3つ離れた町の御大尽が山を買ってな、材木用の木を切り出したんじゃ。
山には山神様の祠があったんじゃがな、きこり達は心得たもんじゃ。
山に入る前に山神様を祀ってな、山神様の斜面には手を付けなんだ。
木もまだ育たんやつは残してな。

じゃけんど御大尽はそれが気にくわんかったらしい。
大した賃金も払わんできこり衆に暇だしてな、新しい人足どもを集めてきよった。
そいつらがまた木の切り方もろくに知らんような奴ばかりらしかった。
そんで山を丸ハゲにしよってな、木を運び出そうとしたときじゃ。
大雨じゃ。風呂桶の底を抜いたような雨じゃった。

2時間も降った頃、人足が入った斜面が崩れたんじゃ。
20人近く犠牲になりおった。
きこり衆は山神様の祟りじゃと騒いでいたわ。
御大尽の方は20人も犠牲出したからな。
警察が入りおってな、何か見つかったんかの、捕まったらしいわ。


#48 2017/12/20 09:23

934名無しさん@ゲレンデいっぱい。2017/12/19(火) 01:42:24.24>>936
日曜日から一泊したが、
アライは経験者でも何か雪崩起きそうで恐怖感じるわ

935名無しさん@ゲレンデいっぱい。2017/12/19(火) 04:34:45.46

ダイヤモンドダスト見たの初めてだわ


936名無しさん@ゲレンデいっぱい。2017/12/19(火) 05:09:13.28
>>934
雪崩は国土地理院さえ、
立ち入った事が無い不動山だったかな?
標高さえ不明な粟立山から先は多分、
日本海側と繋がってないわ

937名無しさん@ゲレンデいっぱい。2017/12/19(火) 05:11:05.98

シャルマンから見える妙高市側の湖は何?


938名無しさん@ゲレンデいっぱい。2017/12/19(火) 06:46:23.07>>944
山麓第2リフトから滑走する場合、
圧雪と非圧雪の堺目がわかりにくい状況で((( ;゚Д゚)))

それと、コース外出るやつは、
妙高〜(標高差1000m)〜大毛無山
妙高山と大毛無山は別物で山と山が繋がりがない


大毛無山〜(標高差1000m)〜アライリゾート

滑走可能だった過去も今は禁止区域

山と山が繋がりがない。 
国土地理院は梨本測量と言う会社に、
開発前の測量で三峰山&滝発見したが、
帰らぬ人になった

雷に打たれ死亡2人
土田電工もリゾート開発で2人死亡
真野石材か墓石調査で2人死亡
林野庁下請けの森林組合4人死亡

戦後、北方領土からの、
引き上げ日本人を 
日本中の山へ開拓民として開拓したが、それさえ調査してない未開の地

939名無しさん@ゲレンデいっぱい。2017/12/19(火) 08:04:25.22

正直今年は様子を見ていかないほうがいいと思う
入ってくる情報見る限り安全管理は疑問が残る


#151 2018/01/25 16:51

スキー中に遭難した親子 遺体で見つかる
2018年01月25日 16:16更新 - 33分前

妙高市でスキー中に遭難した滋賀県在住の男性2人が、きょう午後3時前に遺体で発見された。

妙高警察署によると、遺体で発見されたのは滋賀県在住の親子、68歳の父親と40歳の息子。きのう昼過ぎにスキー場のコース外に出て道に迷ったと施設に連絡があった。その後、警察は2人に対しその場から動かないよう指示を出していた。

警察と消防は、きょう午前7時ごろから捜索を開始。午後2時45分に西野谷の林道から約100m下の沢で発見した。発見当時2人とも意識はなく、すでに体が硬直していたという。

警察によると、発見現場は天候が荒れており、あす26日以降に改めて現場に入り、遺体を引き上げるという。


#154 2018/01/25 18:23

オオケナシノカミノイケニエ


#155 2018/01/25 20:38

早速犠牲者出たか
たたりだとかお祓いしてないだとかそんな事でかたずけないで
対策考えたら?

また犠牲者が続くんだろうな


#158 2018/01/25 22:48

やっぱり呪われた場所なの?


#159 2018/01/25 23:24

お山の神様の………
雪山なめんなよ!


#160 2018/01/26 00:04

この地で過去なにがあったの?


#306 2019/01/22 20:28

スキー場オープンするときにちゃんとお祓いしてるのかねえ
毎年だもんな


#307 2019/01/23 00:15

心霊スポットとして夏場に客を呼べるかも、スノボーをしないから判らないけどコースに問題が有るの?


#308 2019/01/23 00:36

妙高市は心霊スポットや事故物件が多いので最高です。
http://bakusai.com/thr_res/acode=4/ctgid=104/bid=2114/tid=5853365/p=7/tp=1/rw=1/



▲△▽▼

地元では新井スキー場の祟りは
スキー場経営者が霊山 大毛無山で古来崇められていた蛇神様を殺した事が原因だと噂されています


#138 2017/12/07 17:54

2006年度に破綻したARAI マウンテン&スパ
総投資1000億余以上の金をかけて造り上げた

スキー場の在る大毛無山は霊山であり地元民の反対も有ったと言う事です。
相次ぐ滑走禁止エリアでの行方不明やら雪崩や滑落での事故やらがあり、オカルトめいた祟りの話が


#49 2017/11/12 09:05

開発しちゃいけない山だったんだよ。
新井リゾート開発ん時、デカイ大蛇を重機で殺した、、
とかって死んだばあちゃんから聞いたな。

確か工事中にも事故有ったんじゃない?

それからオープンして以来、何人も死人でてるし…

#60 2017/11/12 19:02

大きな白蛇殺して、ただですむわけない
そんな気がする


#52 2017/11/12 09:10
>>49
大蛇伝説は聞いた事あるよ

#422 2019/01/24 15:44

止めとけば良かったのに えらい所にスキー場作ったもんだ
膳棚の所はマムシの住家だし、 マムシはこの山の守り神とも言われてるし
雪崩の危険もあるけど、爆薬で人口雪崩起こすわけにもいかないし
とにかくマムシの住家を、掘り返す事だけは絶対にしないように


#312 2018/06/12 18:25

マムシでも見に行くかな  
居場所と大体の数で、秋の収穫と冬の始まりと、雪の量を教えてもらいに


#313 2018/06/12 18:27

くれぐれも大切に  守り神ですので
http://bakusai.com/thr_res/acode=4/ctgid=104/bid=1592/tid=5888761/p=1/tp=1/#down


954名無しさん@ゲレンデいっぱい。2017/12/21(木) 18:04:41.26

ゲレンデ内で突然死した人間多数。
膳棚の河に落ちて御陀仏も複数。
ARAIの施設にはそこらじゅうに御札が張ってあった。

不遜なロッテはその御札を全部はがしてしまったみたいだから、
守り神の蛇神の逆鱗に触れ今シーズン絶対に無慈悲な祟りが有ると思う。

なんせその昔姥捨て山だったらしいから怨霊もハンパ無い!
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1364185126/


742名無しさん@1周年2018/01/29(月) 11:46:52.29ID:g1luTRTQ0

旧新井出身だが、ARAIスキー場が出来る前にその辺でよくネマガリ竹の子採って藪の中でタケノコ汁作って食べたな。
親戚の叔父さんが建設に携わっていて工事中に死ぬもんで呪われたスキー場って言っていた。 https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1517071045/l50


23名無しさん@ゲレンデいっぱい。2018/02/20(火) 23:27:00.85

呪い伝説があるらしい
新井リゾートのスキー場は大毛無山って言う山にあるんだが昔から大蛇伝説がある

蛇姫に魅入られた男が呪い殺されるって伝説があり、何人も亡くなっている
知り合いの男も若い頃、スノボで大怪我した
何よりオウムの坂本弁護士の事件で当時は有名になった
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1518848312/l50

▲△▽▼

2018年01月27日 ロッテアライリゾートでの親子凍死事故


662名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/01/29(火) 18:58:02.89

去年の遭難死亡事故、実はパトロールのロープ張り忘れなんだとさ。
去年パトロールしてた知り合いの話。
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1519880227/l50



【新潟】01月27日 妙高ロッテアライリゾートで遭難の2人は凍死
147名無しさん@1周年2018/01/28(日) 02:59:15.01ID:FkqD+0Tn0>>394

>同スキー場で一番上にある山頂付近に向かうリフトの乗り場から約500m西の沢で
>2人の遺体を発見した。前日に携帯電話の位置情報で確認した場所だった。

ベンザク沢ってところかなあ?? (地図の右側が西)
レストランのすぐ近所やん

https://lottearairesort.com/coursemap/


834名無しさん@1周年2018/01/30(火) 08:52:25.48ID:oPeJXeet0

Araiは、ベンザク沢と呼ばれる、
コース内暗黒エリア廃止にしろよ。
超上級者じゃなければコース外へ、
気付けば出てしまうし、
日本最高レベルの雪崩発生地帯


849名無しさん@1周年2018/01/30(火) 22:38:08.81ID:t2qFsh7b0
>>834
今回はその先のコース外で
足折って沢に落ちてシボンヌっぽいしな


872名無しさん@1周年2018/02/01(木) 08:01:18.29ID:ESaS/qJE0

別板のアライリニューアルオープンの時のカキコ

経営陣は多分この土地についての知識が足りない
従業員のコース造成教育が不安、死者が出てもごめんなさいして終わりではとか、
厳しい意見が書かれていてこれ預言的中早すぎ


742名無しさん@1周年2018/01/29(月) 11:46:52.29ID:g1luTRTQ0

旧新井出身だが、親戚の叔父さんが ARAIスキー場の建設に携わっていて工事中に死ぬもんで呪われたスキー場って言っていた。


673名無しさん@1周年2018/01/28(日) 20:44:05.64ID:khTt5neN0

Araiリゾートの死者

第一次リゾート開発工事関係者
測量会社社員 落雷で2名死亡
電気工事会社社員 避雷針落下死亡
県土木事務所技官 国有林調査崖落下死亡

山菜関連 12名死亡
バックカントリー関連 3名死亡
凍死 今回含め6名死亡
原生林自殺 詳細不明

45人が死亡している

https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1517071045/l50

スキー場の死者だけでなく、


盛田英夫が森田家の全財産 4000億円を散財したり、

ソニーがダメになったり、

坂本弁護士を殺して大毛無山に埋めたオウムの人間が死刑になったり


すべて蛇神様の呪いです


詳細は

呪われたスキー場 _ 妙高 新井スキー場(ロッテアライリゾート)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/190.html

2. 中川隆[-12602] koaQ7Jey 2019年1月31日 05:38:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

ロッテアライリゾートは、新潟県妙高市に存在するスキー場とリゾートホテルによる複合リゾート施設である。 大毛無山[1]の下(標高1,280m)の東斜面に位置する。

旧称ARAI MOUNTAIN&SPA(アライ・マウンテン アンド スパ)。ARAIの名は新井市(現・妙高市)にちなむ。典型的な、バブル末期に計画・着工されたが開業時にはバブルが崩壊していたというリゾート施設ではあったが、豊富な降雪量によりパウダー志向も満足させる5月まで滑走が可能なゲレンデと、温泉施設などを拡充し続けたことで比較的長い間経営が維持された。

盛田英夫の資産管理会社レイケイ(盛田)[2]や旧新井市が出資した第3セクター、株式会社新井リゾートにより開発・1993年に開業。初年度から赤字を出すなど苦戦が続き、レイケイは総額で500億円[3]もの投資を行ったが撤退[4]。2004年、「新井リゾートマネジメント」が運営を引き継いだ。

2000年代に入り、スキーヤーが激減したことに加え、2005年のシーズンには豪雪すぎて集客がままならないという状況[5]となり、2006年7月10日に新井リゾートマネジメントは11億円以上の負債を抱えて経営破綻した。

その後スキー場とホテルは閉鎖状態となっていたが(ARAIリゾートログ山荘「プリマベーラ」のみ営業継続)、2015年6月妙高市による公売によって18億円で落札され、7月3日に譲渡が完了した。落札したのは韓国のホテルロッテの子会社の「株式会社ホテルアンドリゾート上越妙高」で、設立は2015年5月、資本金5万円である[6](その後資本金は70億円に増資[7])。当初は2016年に一部再オープンする予定だったが、2017年12月に「ロッテアライリゾート」として全面オープンする計画に変更されている[8]。

ロッテアライリゾートとしての2017年開業にあたっては、プレミアムマウンテンリゾートを謳い、滞在型・インバウンド集客を狙っている[9]。スキー場の規模・設備は従来同様だが、ジップラインなどグリーンシーズンのアクティビティを用意し、旧温浴施設に新たに掘削した温泉を引くなど、施設の拡充を図った[10]。リフト券はファーストクラス大人1日8,000円(リフト・ゴンドラ優先乗車が出来る)、エコノミーでも同6,000円と、比較的高額に設定された(1日券・午後券では20:00までのナイター利用も可能)。

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妙高 新井スキー場の歴史

1991年(平成3年) - 7月着工。当初は1992年(平成4年)オープン予定であったが工期の遅れ等によりずれ込むことになる。

1993年(平成5年) - 12月、スキー場のメインゲレンデとホテルが先行オープン。オープン時の名称は ARAI MOUNTAIN & SKI RESORTであった。

1994年(平成6年) - ペアリフト新設、ナイター営業を開始。

1996年(平成8年) - 1996-1997シーズンから、名称をARAI MOUNTAIN&SNOW PARKに変更。地ビール(新井ビール)の醸造、販売を開始。このころまではコース外滑走は認められていなかった。アバランチ(avalanche:雪崩)コントロールを取り入れる試みが始まる[13]。

1997年(平成9年) - 1997-1998シーズンから、ゴンドラ中間駅起点のクワッドリフトを新設。コース外滑走可能区域が設定される[14]。

1999年(平成11年) - ホテル増設、プール施設オープン。

2002年(平成14年) - 2002-2003シーズンから、名称を ARAI MOUNTAIN & SPA に変更[15]。エステティック施設を充実。

2004年(平成16年) - 新井リゾートマネジメント(妙高市)が経営を引き継ぐ。

2005年(平成17年) - 結果的に2005-2006が旧新井リゾート時代の最後の営業シーズンとなる。

2006年(平成18年) - 7月10日、新井リゾートマネジメントが倒産。

2015年(平成27年) - 3月14日〜22日、跡地で有志が「大毛無山の魅力再発見ツアー」を開催[16]。7月、公売により韓国ホテルロッテ子会社の所有となった。

2017年(平成29年) - 12月16日、ロッテアライリゾートとして再オープン。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%88


破綻ーアライマウンテン&スパ 2006/7/13
https://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/38834257.html


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ARAI MOUNTAIN&SPAが経営破綻
新井リゾート運営会社(創業設立 2004年3月16日)が解散


妙高市の大規模リゾート施設「新井リゾート」(ARAI MOUNTAIN&SPA)画像
https://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/GALLERY/show_image.html?id=38834257&no=0


 新潟県妙高市のスキー場「新井マウンテンアンドスパ」を運営する「新井リゾートマネジメント」(同市、小島弘社長)は10日、新潟地裁高田支部に特別清算を申し立てた。

この冬の記録的な豪雪の影響で、利用客が20%以上減った。売り上げも落ち込んで資金繰りがつかず、経営は破綻(はたん)した。 妙高市などによると、同スキー場は93年12月オープン。

05年末から06年1月にかけ、JR信越線が雪で約530本運休し、利用客のキャンセルが続出。

利用者(春スキーを除く05年12月〜06年3月)が前年同期比20%減の約8万460人と低迷した。同市は1月、最大で3メートル56センチの積雪を記録している。

 妙高市の大規模リゾート施設「新井リゾート」(ARAI MOUNTAIN&SPA)を運営する「新井リゾートマネジメント」(妙高市両善寺・小島弘社長)は10日、会社解散を決め、営業を停止、地裁高田支部に特別清算を申し立てた。

 東京商工リサーチなどによると、負債総額(2005年5月期末)は約11億円。
従業員・アルバイト110人は同日、解雇された。

同リゾートのスキー客はピーク時の約21万人から、今冬は約12万人に低迷。特にこの冬は、豪雪による売り上げの落ち込みで資金繰りが悪化していた。


お詫び

拝啓 

平素よりARAI MOUNTAIN & SPAをご利用いただき、誠に有難く厚くお礼申し上げます。

新井リゾートマネジメント株式会社(以下、「弊社」といいます。)は、本日平成18年7月10日をもって、ARAI MOUNTAIN & SPAにおけるスキー場・ホテル・レストランの営業を停止し、会社を解散することを決定いたしました。

(中略)

やむなく営業を停止して、会社を解散することを決定した次第です。

以上、誠に非礼とは存じますが、取り急ぎ書中を以てお詫び申し上げます。

なお、本件に関しまして、ご質問等がございます場合は、下記連絡先までお問い合わせいただきますようお願い申し上げます。

新井リゾートマネジメント株式会社 電話:0255−70−1111

ARAI MOUNTAIN & SPA


自然豊かな大毛無山に国内最大級のスキーリゾートとして1993年に誕生。
標高差1,100m、最長滑走距離5,000mのダイナミックなコースで、豊富な積雪量と
12月〜5月までのロングシーズン楽しめるスキー場。

ゲレンデのほかにもヴィレッジエリアにはホテルやプール&ゆ、エステティック、スパ、レストラン街などがそろい、お子様もご高齢の方も3世代が満足できる滞在型リゾート。

所在地:新潟県妙高市両善寺1966

営業時間:8:30〜16:30


リフト・ゴンドラ

ゴンドラリフト1基(12人乗り)全長3km
クワッドリフト2基(4人乗り)
ペアリフト2基(2人乗り)


ゲレンデ
12コース(内未圧雪4コース)
(ナイター有り)


最大斜度:38度


ゲレンデ画像
https://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/GALLERY/show_image.html?id=38834257&no=5
https://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/GALLERY/show_image.html?id=38834257&no=6


リフト・ゴンドラ料金

共通一日券:大人:土曜祝日4500円、平日3500円、 小人・シニア同3500円、同2600円

共通半日券:大人:土曜祝日3500円、平日2600円、小人・シニア同2600円、同1900円

ナイター券:大人:土曜祝日2000円、平日なし、小人・シニア同1500円、同なし


駐車場の収容台数:2,500台(無料)


アクセス:上信越自動車道中郷ICから国道18号線をスキー場方面へ10分。TEL:0255−70−1111

ARAI MOUNTAIN & SPAとソニーの関わり


盛田 英粮(盛田株式会社会長、社主)

第16代盛田家当主


ソニー創設者盛田昭夫(1999年死去)の長男として、昭和27年東京に生まれる。
盛田家は、愛知県常滑市に江戸時代より約340年続く代々庄屋で清酒・味噌・醤油の醸造を営む旧家である。


1978年には女優の岡崎 友紀(おかざき ゆき、1953年7月31日- )と結婚するが、1981年には離婚した。


経営者としての素質が当初から疑問視されていたのか、若かりし頃は、本流ではなく関連会社のエピックソニーに回され、(株)EPICソニーの創設メンバー、8年弱の活躍の後、実家の当主としての事業を継ぐためにソニーミュージックを退社した。

2003年8月長野県「スキー再興戦略会議メンバー」で、当時は、盛田椛纒\取締役のほか、レイケイ椛纒\取締役、新井リゾート梶E新井リゾート開発椛纒\取締役社主を勤めていた。


その後、2004年3月16日より、ARAI MOUNTAIN & SPAの運営は、新井リゾート鰍ゥら今回解散した「新井リゾートマネジメント梶v(妙高市両善寺・小島弘社長)が引き継いでおこなってきた。


財団法人盛田スポーツ振興財団(新潟県妙高市大字上中205−1、TEL:0255−73−8202)設立者


岡崎 友紀(おかざき ゆき、1953年7月31日- )は東京都出身の女優。歌手。


1961年に女優として芸能界デビューする。1970年には歌手デビューし、1970年代前半〜中盤に国民的アイドルとしてブロマイド、グラビアなどで人気を博した。1978年にはソニーの御曹司、盛田英夫(英粮)と結婚するが、1981年には離婚した。
その後もタレント・舞台女優として精力的に活動している。


1961年 ミュージカル「ピーターパン」でデビュー。
1971年 「おくさまは18歳」に主演。
1972年 「なんたって18歳」
1974年 「ママはライバル」

「アライ・リゾート」


英粮(ひでお)氏の手掛けたリゾート事業の一つが、「スキー場建設」プロジェクトであり、その構想の背景には、より具体的な目標として、長野冬季オリンピックの開催があり、新種目として正式に取り上げられることになったスノーボードを使った新しい種目は、既に欧米では一般的なスノースポーツとして専用ゲレンデが整備されるなど定着化が進んでいましたが、90年当時の国内のスキー場の大半はまだスノーボードへの対応はされておらず、プレイヤーにとってはまずはゲレンデ探しが第一の条件というような状況で、特に競技者を目指す人々は100%といって良いほど北米とヨーロッパに出向いていたのが実情でした。


 スキー場の具体的建設予定地として用地の取得が進められたのは、新潟県新井市の山岳の一部でした。

長野五輪に向けて建設が進められていた信越自動車道の新設インターチェンジからの立地を考慮されたもので、またスキーの回転競技やスノーボードの滑降やジャンプ系の種目に適した勾配と雪質を最大の条件として、競技者のトレーニング用施設としての諸条件を整えて、併せて国内のコア・プレイヤーのメッカとしてイメージを定着させようというのが基本のコンセプトです。


この新井市との第3セクターとして「アライ・スキーリゾート株式会社」が設立され、スキー場を中心としたリゾート施設、ホテル、観光レジャー施設の総合開発が実質的にスタートしたのは89年、まさにバブルの絶頂期のことであり、新井市も含めて、この第3セクターに関わった銀行、ゼネコン、ホテル、メディアなどのほとんどがこの構想の素晴らしさとコンセプトに心酔して、理想のスキーリゾート建設を夢見ていましたが、このプロジェクトは結果として実は大変な難産となり、長野五輪が終了して現在に至るまで、社会全体の価値観の変化やグローバリゼーションの急速な進展、リゾートやレジャーといった余暇の過ごし方についても環境問題、ウインタースポーツ&リゾートのニーズの背景、競争環境、コア・ユーザーのコアなニーズ自体の中身、などの要因が大きな変化の中で変容していくプロセスで、オリジナル・プランのアイディアが多分に楽観的な予想をベースとしたモデルであったことを立証する結果になった。


ARAI MOUNTAIN & SPAと名前を変え、新井リゾートマネジメント株式会社(小島弘社長)が運営するようになったのは、2004年3月からであり、同社が運営を担当したのは、05、06シーズンのたった2年で、93年の営業開始から06年までの13年のうち11年は、英粮氏の元で運営されてきたのである。

レイケイ228億円申告漏れ(2005年12月23日)


ソニーを創業した故盛田昭夫名誉会長の長男盛田英粮氏(54)が社長を務めていた食品販売会社「レイケイ」(東京都中央区、ガラヒ産業に改称した後、2005年6月に解散、清算中)が東京国税局から04年3月期までの3年間で約228億円の申告漏れを指摘されていたことがわかった。追徴税額は過少申告加算税を含め約64億円。


追徴課税分が納付されず、都内の所有ビルなどが国税局の差し押さえを受けた。


レイケイ鰍ヘソニー創業家の資産管理会社として74年3月の設立。盛田ホールディングス(名古屋市中区)の100%子会社。
愛知県で酒造会社を営む盛田家が、急成長したソニーの株配当に頼って本業がおろそかにならないように資産(2005年時点で1300億円ともいわれる)を分離したという。

同社はかつてソニーの筆頭株主だった。
英粮氏が社長に就任した90年代後半、新潟県内のリゾート型のスキー場「アライリゾート」に500億円投資。


全国的にスキー客は減っており、赤字は解消できそうもなく、毎年その赤字は資産から補填していっていた。

その後、子会社が新潟県で展開したリゾート開発の失敗などで株の売却が進み、その持株数は大幅に減少した。

関係者によると、同社は2000年から2001年にかけ、オランダ・アムステルダムの関連会社「Morita Investment International」(ミント)が、FI事業に進出する際、海外の銀行2行から受けた融資約230億円の担保として保有していたソニー株を提供。

その後、事業が行き詰まったため、レイケイはソニーカブを売却してミントに返済資金として貸し付けた。


ミントは英粮氏が出資して1999年に設立。


米国でスキー場を経営したり、当時F1に参加していたフランスの自動車メーカー・プジョーのエンジン開発を担当するなどしていた。


しかし、F1事業で資金繰りのめどが立たなくなり、02年6月に清算。レイケイも03年以降、事業から撤退を決断、銀行融資を返済させた。


貸付金は返済されず、レイケイは全額経費として税務申告した。


一方、東京国税局は、


1.レイケイが貸付に伴う担保を取っていないし、レイケイはミント社と資本関係がない

2.ミントの株主は英粮氏なので子会社とは考えられず、レイケイの業務とは関係ない

3.ミント社が借りた銀行融資を実質的に肩代わり返済しているし、ミント社に返済を求めていない


ことなどから、経費とは認められないと判断し、損金性を否認、課税対象となる寄付金と認定した。

そうして創業者が苦労して作り上げた財産が霧散していったわけですね


スキーで500億、F1で300億、計800億円


コメント(18)


詳細なリポートありがとうございます。断片的な情報しか見つからなかったので、こちらの記事を待っておりました。…なるほど。こういう背景ですか。数年前の学会で、スキー業界の低迷について話し合われた場所ですので、倒産については驚いていたところです。元オリンピック選手の池田和子氏が数年前に退職してアメリカへ渡ったのも、今にして思えば前兆だったのかもしれませんね。

2006/7/13(木) 午後 10:14 黒所長

お読みいただきありがとうございます。高邁な理想も大切ですが、10年先、20年先のライフサイクルの変化や消費事情の動態などを先読みした着実なマーケティングに基づいた経営論理がまずありき、といったところでしょうか。盛田さんよりむしろ最後の小島さんのほうが、その点は優れているようです。近々、そのあたりのお話をしようと思っています。

2006/7/14(金) 午前 5:13 スノー


こんばんは。ずいぶん前の記事ですが、とても参考になるのでトラバさせてもらいました。
もう復活することはないんでしょうか…。とても残念です。

2009/10/10(土) 午後 11:42[ たびさん ]
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アライの話は、なかなか奥が深そうです。

計画自体は壮大だったようですが、国営でもしない限り、復活は難しいでしょう。

日本が本気で観光立国を目指すなら、ひとつの選択肢であるような気もするのですが…。

2009/10/17(土) 午後 5:30 スノー .


実際にそこのホテルに務めていたものですが、よく潰れないな?勤務しながら疑問でした。盛田英粮ですが、正直バカ息子の典型でしたね。毎日ホテル内をウロウロしていろんなレストランをタダ食いしてた。イタリアンレストランの女は愛人じゃなかったかな?ま、確実に倒産するのは私が勤務していた頃にはどんな馬鹿な従業員でも分かっていた事です。

2010/5/13(木) 午後 10:06[ - ]
.

天下のソニーが、今では外国の企業になってしまったのも、無理からぬ話ですね。2代目に逸材は少ない?

2010/5/14(金) 午前 6:08 スノー
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ARAIの記事を読むたびに一度は行ってみたかったと・・

2010/7/31(土) 午後 9:17[ hir*r*sta* ]
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そういう想いがスキーの復活につながることを祈っております。

2010/8/1(日) 午前 5:17 スノー
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こんばんは。
厳寒の外を見てたらARAIのことを思い出しました。
外資でも志のある団体が復活させてくれないかと願っております。
ニセコとかと比べたら、知名度が低いのが外資誘致にとって最初の障害かな........

2010/12/31(金) 午後 7:15[ sin*80*197* ]
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ニセコと比べるより、対象は白馬なんでしょうが、やはり中国資本でしょうか?

このままでは、日本は中華人民共和国の一部になってしまいそうですね。

2011/1/1(土) 午前 9:50 スノー
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自分が知る限り最高のスキー場でした。無駄な施設を追加したのが致命的だったと思います。ランニングコストが高い施設をなくしたら再建出来そう。新幹線も開通しますし復活したら需要高いと思う。

2011/1/5(水) 午前 11:33[ uga**1211 ]
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復活の鍵を握っているのは、やはり中国資本でしょうか?

2011/1/6(木) 午前 5:49 スノー
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懐かしいです。こんなページがあったなんて。古いCDを整理していたら、2003年夏のキッズアドベンチャーの画像CDが出てきたので、ググってみました。舟石沢、べんざく沢、北斜面などでパウダーいただきました。吹雪のアーリーバードは一生の思い出です。ホント最高のスキー場でしたね!何とか復活してもらいたいものです。キャストの方たちの名前やお顔を思い出します。

2013/11/4(月) 午後 5:57[ pre*n*n ]
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pre*n*nさん

スケールの大きなプロジェクトだったようですが、日本の箱庭的スキー文化には、馴染まなかったようですね。

欧米のような本当のセレブが多数存在するようになれば、成り立ったかも?

2013/11/4(月) 午後 9:35 スノー
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スノーさん レスありがとうございました。
そうですね。スキーに対する考え方が違っていましたよね。私はセレブではありませんが、どっぷりはまってしまいました(笑い)。先シーズン、久しぶりに焼額の志賀高原プリンスホテルに泊まりました。雪は良かったですが、ホテルはARAIとは全く比べものになりませんでした。がっくりでした。

2013/11/10(日) 午後 1:12[ pre*n*n ]
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pre*n*nさん

西武系のホテルは、全てビジネスホテルに毛が生えたようなものですからね。

自分も10回ぐらい志賀高原焼額山のプリンスホテルには泊まっていますが、最初からゲレンデへのアクセスの良さ以外、期待していないので、別に落胆はしていません。

ただ西館は湯船が露天風呂しかなく、寒いのと、午後3時からでないと入浴できないので、家内に文句を言われましたが…。

2013/11/10(日) 午後 2:13 スノー
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ARAIは大好きなスキー場でした。レストランでバンドの生演奏を聴きながら飲むアライビールは最高でした!何回も行きましたが2006年春のスキーがとても穏やかな好天に恵まれ、気持ち良い一日だったことが ついこの間の事のように思い出されます。まさかその年倒産とは…どこの国の資本でも良いので復活させてくれませんかね?

2014/6/4(水) 午前 3:26[ chi*i*at0*039 ]
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chi*i*at0*039さん

アライに行かれた皆さん、ご満足のコメを寄せられております。
まずはゲレンデ、そして宿泊施設、欧米並のレベルだったようですね。
残念ながら欧米と日本では、休暇の日数も違うので。
http://m.blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/40223482.html

それにスキーバカンスに対する習慣や考え方も違うので。
http://m.blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/8232103.html

アライのコンセプトで維持するには、まずはオーストラリアやアラブの富豪などの異邦人を常連客にする必要があったんだと思います。
少し販売戦略を誤ったきらいがあります。
日本人は、とかく良い物を作れば売れると思いがちですが、いくら良い物でも販売戦略をしっかり作らないと売れません。
完璧な販売戦略のもと第二のアライが現れることを期待しましょう!

2014/6/4(水) 午前 7:43 スノー

https://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/38834257.html

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アライマウンテン&スパV前編 2006/8/28
https://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/40701907.html

アライマウンテンリゾート元関係者の感想


アライマウンテン&スパについては、7月の破綻以来これまでに2回、記事にしてきました。

http://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/38834257.html


http://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/40396228.html


また、新たな動きがあるような話も聞いていますが、さる方がその設立当初の詳しい事情について述べていますので、3回に分けてご紹介します。


最初にARAIに関わったのは1990年、大学卒業と同時に入社したメーカーを退社しメーカー当時のボスを追って移った会社が「レイケイ株式会社」だった。

そのボスがARAIの前身である「株式会社東京倶楽部」の副社長となり、そろそろスキー場開発における事業計画を具体的にしないといけないということでそれを手伝うことで関わることとなった。

具体的にはフィーディビリティスタディ(FS)の作成、金融団・サポート企業(保険など)の窓口などが当初の主な内容であった。

当時の時代背景:


・1985年 プラザ合意
  急激な円の価値の切上げ(急激な円高)\240/$→\120/$に


・1986年〜1991年2月 バブル景気


・1987年 リゾート法(総合地域整備法)スキー場として「ALTS」が指定を受ける


「プラザ合意」という日本国内の輸出メーカーにとっては非常に厳しい状況だったものをも何とか克服し、強い円を背景に日本のバブルが最高潮の時代にARAIはそのベースの企画が作られたものだった。


FSでは入込数(来場者数)100万人を越えるものを目指すものでその規模の大きさ、そして面開発でのスケールの大きさに興奮した。


当時、苗場スキー場が入込数200万人で日本一を誇り、次いで安比が100万人の規模を誇っていた。

ARAI開発のきっかけ


開発の発端は、ARAIのオーナー氏(盛 田 英 粮 氏)が妙高で、ある先生の下でスキーを習いその後もその先生が関わっていたスキー選手育成の手伝いなどを行っていた。

昔は新潟県は強い選手を多く輩出していたがそれも適わずその原因が長い期間、長いコースで練習するバーンがない、ということでそのコースを開発するのに良い山があるので開発できないか、という話が入りそれくらいであれば、ということでその話を引き受ける形で開発に着手するようになった。

ただ、雪のたっぷり積もった大毛無山の山頂にヘリで上がった時の景色の素晴らしさを見て、一気に大規模開発への夢が広がったのだと考える。

全く開発が行われていない(インフラも何もない)新潟県新井市(現在妙高市)の大毛無山を開発するという計画がこのような形でスタートした。

ARAIの開発時のコンセプト


・基本となるマウンテン&ヴィレッジ計画

   海外のデザイナー、及び海外スキー場開発運営者の手によるもの。

   ヴィレッジは欧州の中世山岳都市をイメージし、欧米の観光地・リゾートに見られる「広場」を
   中心として広がるもの。

   その広場を取り囲むようにして石造りの低層階のB&Bホテルが並びそのホテルの1階部分には各種の
   レストランやショッピングスペースが並ぶ。

   ゲレンデに出ていない時間、アフター SNOWなどにはホテルから広場に出て積極的に楽しい時間を
   過ごしてもらおう。

   食事も各種レストランから好きなものを選んでもらう、
   というものだった。

さらに


・「冬のディズニーランド」

   お客様へのサービス、ソフトを考えたり議論するときは常にこの言葉が想起された。
   エリアの中は別世界(日常から非日常の世界へ)。

   清潔でホスピタリティ溢れる「キャスト」が「ゲスト(お客様)」をお迎えし「ゲスト」を
   出来るだけケアする環境。

   お客様=ゲスト であり スタッフ=キャスト。お客様のエリアが「オン・ステージ」であり
   それ以外は「バック・ステージ(バックヤード)」というのは「ディズニーランド」と同じ
   考え方である。

   日常を感じさせないように出来るだけ日常のものは「オン・ステージ」に出さない、出ない。
   「ディズニーランド」と同様にARAIにおいてもヴィレッジ部分の建物は地下の通路でつながれて
   いる。
   これはキャスト(特にバック・ステージキャスト)の移動をできるだけゲストの目に触れない
   ようにしたりゴミやリネン、物品の搬入なども目に触れないようにするためのもの。

   例えば、プランニングの時には「パトロール」は「マウンテンゴリラ」という名称で一般的な
   ゲレンデパトロールとしてゲレンデを監視するのではなくゲストのアドバイザーとして
   一人一人のゲストが快適にSNOWが楽しめるようにお手伝いするもの、としていた。

   現在ではスキー場においても「ゲレンデ・コンシェルジュ」などと称したサービスが見られるが
   ARAIではこの時すでに全ての部門でこのように「ゲスト」を積極的にケアしていこうと考えられて
   いた。

・HEARTS
   「H」 Hospitality=おもてなしの心
   「E」 Efficiency=効率性
   「A」 Amenity=快適性
   「R」 Re-Create=変化性
   「T」 Trendy=同時代性
   「S」 Safety=安全性
    これがARAIのキャストが仕事に取り組むベースとなるものだった。


ARAIの特色は何か


・豊富な積雪量
    日本一の豪雪地帯、その豊富な雪により12月〜5月末まで営業(当時予定)。
    トップシーズン山頂付近では10mを超える積雪量を誇り、そのため木より高く雪が積もり
    (その姿を見て大毛無山と命名とのこと)上部一面がホワイトアウトしてどこでも滑走できるようになる。

    アバランチコントロール(雪崩管理)を行い積極的に未圧雪エリアを滑走エリアとして開放。

・標高差1,000m
    大毛無山山頂1,300m、ヴィレッジエリア330m で国内で標高差1,000mを持つスキー場は少ない。
    この標高差で比較的急峻なゲレンデ構成(上級者向けゲレンデ:当時、開発担当役員からARAIの
    斜面構成が上級向けとなるが、これはこの時スキーブームから何年も経ちスキーヤーのスキルが
    上がり、だからARAIのような上級者向けゲレンデが求められる、という説明にその時個人的に
    納得してしまったが「入込100万人超」という「マス」にアプローチするためにはマーケットの
    ピラミッドの上部に位置する「上級者」だけでは実際の集客には無理があり実際苦労した)。

    山頂からヴィレッジエリアまで変化に富んだ8.5kmのダウンヒル。

・アクセスが良い
    JR新井駅から車で10分強
    上信越自動車道中郷ICから15分(当時から長野オリンピックと上信越自動車道開通は織り込み済)

・オーセンティック(本物志向)
    施設は天然の木や石をふんだんに使った本物。当時のリゾート施設には張りぼてのものが
    多かったがARAIは本物を追求していた。
    バックヤードでさえ立派なものとなっている。


スキー場開発などと言うと現在では自然破壊の最たるものと言われるだろうが、ARAIはその中にあって当時としては自然環境にも配慮した開発を行っていた。

・必要な部分だけ木を切る
    通常同様の大規模開発であれば工事効率を考え面で全て伐採・造成してしまうがARAIの場合は
    施設まわりなどの必要最低限の部分だけ伐採を行った。

・移  植
    必要なものであっても単に木を切るのではなく(現在その実数を失念したが)出来る限り
    移植した。実際に随分根付いている。

・稜線の景観
  山の稜線上の景観を大事にするために山頂リフト(膳棚第1リフト)の終点駅舎を半地下式とした。

・自然に溶け込む低層階の施設

したがって


ある意味日本一のスキー場(それは規模ではなく、ホスピタリティでありお客様の満足度として)を目指し開業までの夢を語っている時期が、一番楽しく、関わっている人間全てが幸せな時期でもあった。

ベースの基本計画を実施設計に落とし込みながら同時にFS(フィーディビリティスタディ)をリアリティのあるものとする作業が平行して行われた。

開発投資については実施計画が進むにつれて設計変更がどんどんと発生しその度に驚くような大きな数字が加えられることとなった。


※注:コメント…「夢」は「夢」なんだから、子供じゃないんだから、お願いだから、そのまま実行しないで…。
https://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/40701907.html


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アライマウンテン&スパV中編 2006/8/28
https://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/40701974.html


前編からの続きです


この開発投資金額の問題は


・ヘリを使った空中からの踏査
    当時、自社でヘリを所有していたこともあって調査段階ではヘリが大いに利用された。
    ただ、その弊害として実際に足を使った踏査が準備調査段階において行われず、実際に木を切るとその複雑な地形が姿を現し、設計変更を余儀なくされることとなった。

・ヘリを使った工事
    インフラが全く整備されていない大毛無山であったため工事を進めるに必要な林道についても一から造りながら山の開発が同時に進められるという大胆なものであった。

    しかし工期的に林道完成を待っている余裕はなく上部の膳棚の施設(膳棚フードガーデン&ゴンドラ終点駅舎等)、及びゴンドラについてはヘリを使っての工事となった。

    ゴンドラの終点近くの他に例がないような高いゴンドラ支柱もヘリによる工事である。
    ご存じの通りヘリのチャーター費用は相当のものであり、それとともにヘリの運行に関しては天候に大きく左右され毎日運行できるものではない。

    結果、工事の進捗状況が思わしくなく工期の遅れにつながり、それによるチャーター費用、人件費などがかさむばかりとなる。

・施設他の設計見直し
    海外の一流の施設を多く見・経験しているオーナー氏の「本物」、またより良いものを作り上げたいという強い信念により各種の変更が行われた。

    例えば、ホテルも計画時点ではB&B という比較的リーズナブルなタイプのものが複数用意される予定だったが「ザ・クラブ」という超デラックスホテルとなってしまった(初年度、デラックス・スウィート\120,000/泊/人、32室しかないホテル1棟になってしまったためスキー場エリアから少し離れたエリアに当初従業員宿舎として予定していた建物をリーズナブルなホテルに変更した、これが「ウェストウッズ三本木」である)。

・膨大なインフラ整備
    許認可により膨大なインフラ施設の整備を余儀なくされた。


ここでは当時の許認可の問題点に少し触れると


開発に関してのインフラ整備に関しては開発の最終型(ARAIでは目標の100万人を超える入込数)に合わせた、また50年に1度あるかどうかの災害に備えての整備を最初に整えることを強いられる。

そのため膨大なインフラ整備・投資が必要となる。実際、ARAIのエリア内にはほとんど一般のゲストの目には触れない大小いくつもの「調整池」なるものなどさまざまなものが存在する。

FS策定のため開発投資の見直しとともに開業後の営業計画の策定も進められた。


営業開始初年度の各種単価(リフト券、飲食代など)の設定などはある程度リーズナブルなものであったと考えるがその後2年度以降(2or3年毎)全ての料金単価が上がる、入込数(来場者数)も毎年大きく伸びる計画であったため売上げも急激に右肩上がりを示すものだった(その拠りどころとしては今となっては「時代性」としか言えない)。

今となっては冗談としか思えないようなものだったのだろう。
例えば、リフト1日券などは開業後10数年経つと\10,000/人近くになるものだったと記憶する。

もちろん作成している当事者として100%納得していたものだったわけではないが当時提出すべき金融団、特にメインバンクが収益曲線が右肩上がりでない事業計画では納得しない雰囲気であった(事実右肩上がりが必要とされた)。

それは取りも直さず日本全土で見られた風潮であったと考える。

日本中がバブルの最盛期で金銭的感覚が麻痺していた時代、そしてこの今の時代がいつまでも続くものだとみんなが考え疑わなかった時代だったのだと考える。

我々自身投資金額などを見直す度に億の単位で跳ね上がってくるものをおかしいと思いながらも確実に金額の単位の感覚がずれてきていたのも事実だと考える。

しかし、バブル崩壊後その処理に日本全体がその後長い期間苦労することとなった多くの部分は金融関係者を中心としたそのミスリードも関係しているものと考える。

当時、大きな投資計画は枚挙に暇がなかったと考えるがそれは歓迎された。その事業のほとんどが金融機関からの借入でまかなわれていたと考えるが貸出す側において対象事業(プロジェクト)に対する精査がほとんど行われず(外資に比べその能力を有していなかったこともあるだろうが)担保だけがその拠りどころとなった。

担保(これはほとんどが土地や株式であり、実はこれがバブルであったのだが)と右肩上がりの事業計画がセットで揃っていれば大きな金額が貸付けられることとなった。

より大きな貸出先を競って求めていた時代だったと考える。
事業者側はこの「失われた10年」と言われている間、血を流してきたが当事者のもう一方はどうだったのか。

ARAIに話を戻すと


上記より当初開業までの投資金額としては約200億円が提示されていたが、結果1993年12月の開業時には総投資金額500億円と新聞発表している。

投資はもちろんこれで終わってはいない、翌年度からすぐに追加投資(リフト2本)が行われ、2000年頃からは追加投資が盛んとなっている(この頃からは当初のFSの時に書いた絵とは随分違ってきたが)。
立上げ時のFSに関わったことではじめて、スキー場というものが装置産業だということがはっきりとわかった。

装置産業としてその初期投資額が大きくそれを客単価数千円の日銭で回収していくというビジネスモデルには気が遠くなるものだったが、ARAIのFSに関しては開業8年後で単年度黒字、開業15年後くらいで初期投資まで回収するという事業計画だったと記憶する。

これは上記の通り右肩上がりの曲線の収支計画の結果としてである。


ARAIでは実際に「選手育成用バーン」は今でも図面に残っていますし、開発エリアも残されています。
当初の目的が優先順位では一番最後となってしまいましたが。

工期的に大きな遅れとなったが開業目指して工事は進められた。

当初の計画では1992年12月グランドオープンを目指していたが工期の遅れなどもあり翌年1993年12月にARAIはオープンした。

同じ年には福島県磐梯エリアの「ALTS 」と岩手県の「夏油高原スキー場 」がオープンした。いみじくもこの二つのスキー場も現在経営が変わっている(現在はそれぞれ「星野リゾート 」と「加森観光 」による経営)というのも何か象徴的なものに思われる。

なお、アルツ磐梯と星野リゾートについては、

http://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/39913097.html


を、が参照ください。


https://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/40701974.html


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アライマウンテン&スパV後編 2006/8/28
https://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/40701998.html


中編からの続きです


今回、運営会社が営業を停止し特別精算を申請に至った(7/10)原因は


破綻時の記事は、下記をご参照ください。

http://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/38834257.html


1993年の開業以降営業収支が合わずそれをARAI単体では財務的に脆弱であったがため外部から輸血を続けながら営業を続けることとなったがそれも難しくなった、ということである。

それに至った背景を見てみると、
・バブル崩壊後の営業開始
   1991年にバブルが崩壊しSNOWの業界では営業的(入込など)に1992年がピークとなりその後右肩下がりの状況を現在も続けている。バブル期に計画されバブルが続くことを前提に計画されたにも関わらず、1993年にオープンしたということは全くもってタイミングが悪い。バブル最盛期であったならその施設の豪華さなどから話題になったものと考える。

・初期投資の大きさ
   100万人を超える入込数を前提としたインフラ整備、過剰スペックの施設など。

・追加投資が入込数(成長)に合わせて行われなかった
   入込が伸び悩む中において追加のホテルほか、プール、お風呂(温泉掘削したが湯量が足らず「温泉」とならなかった)、エステ棟などの建設が進められ、特にホテル以外はオーバースペックとなってしまった。
また、「直接お金を生まない」施設の増加(ex.プラザ(広場)の融雪、プラザのまわりの建物の融雪)、そのランニングコストなどが経費の増加として重くのしかかっている。

・オープン初年度の告知
   ARAIにおいては宿泊施設が少ないことから敢えて首都圏に向けてのオープン告知を行わず新潟n\などを中心とした地元中心の展開を行った。

しかし、情報の流れが中央から全国へ向けての発信が中心であること、また「グランドオープン」という情報として一番インパクトを持ち、一つの情報から他のパブリシティに波及する可能性が高い時期の情報発信を誤った(中央以外だとパブリシティも多く取れない)ことが知名度が上がらなかった原因だと考える。

同時期にオープンしたALTSがARAIと首都圏から距離的には同じくらいにも関わらず首都圏中心に集中的に宣伝告知を行い関東圏中心に集客したことと対照的である(但し、ARAIは開業時上信越高速道路は開通していない)。

・純血主義
   何もない広大なエリアを単一企業での開発にこだわったため他者の集客力を利用できなかった。
計画段階では一部でパートナー企業などを募って開発を行う考えもあったがリゾートの統一感、サービスレベルなどにこだわり適わなかった。

営業的にはいろいろな企業や施設、団体が相乗的に誘客に寄与する可能性があることから明確な基準などを決めた上で外部からの企業・団体・パートナーなどを誘致する施策を取るべきだったと考える。

新井市は観光地でもなく宿泊施設などが近隣にほとんどなかったためそれを補う必要もあったと考える。

コロラドの高級リゾートとして有名な「Beaver Creek 」は「VAIL 」を開発したメンバー達によってもっと良いリゾートを作ろうと言うことで開発されたが、当初あまりに計画的にきれいに作りすぎて人気がなかったと聞く。

やはり人間にはカオス(混沌)状態がある程度は必要、という例だと考える。香港や韓国が人気があるのも同様な面があるのだろう。ARAIにおいても他者も受け入れてもう少し賑やかさと猥雑さも必要だったと考える。

・許 認 可
   現在は多少フレキシブルになったが当時は大規模開発で許認可(複数年に渡る)を取得した場合、その事業の経営状態と関係なく当初計画の年次に応じての開発を強いられた。また、当初予定した工事が行えない場合においても変更申請などを行う必要があり大きな負担(人的、金銭的)となる。


   
少しARAIの内容から離れるが、


バブルが崩壊し長い景気低迷期を迎えるまでにおいては、スキー場などの許認可を与える場合、その事業が開業の後、成り立たなくなるということが織り込まれていなかったのではないかと考える。
そのため(先のように当初予定したように事業が進行しない場合のその後の開発のあり方だとか)事業撤退を行う場合の要件がはっきりしていなかったり厳しい条件(現状復帰の問題)などにより、現在スキー場の経営環境が厳しい中(全国のスキー場利用者数がピーク時半分以下)においてもスキー場がなかなか減らない(撤退できない)状況となっているのではないか。

話をARAIに戻すと


上記いろいろ挙げたが結論的に言えば今回のARAIの問題点は先の通り「収支が合わない事業」ということに尽きる。
これは簡単に言えば現状のARAIでは需要と供給のギャップが非常に大きすぎてそれを吸収できないということだろう。
何度かコメントしたが100万人超を想定としたハードウェアが一部作られていることやサービスやオペレーションがある程度マスのお客様に対応するように元々設計されているため(複数存在するレストランやショップ、お金を生まない融雪設備など)現状のお客様の利用状況(数)ではどうしても経費過多となってしまう。
また、ハードの設計の問題などからその経費削減にも限界がある。この問題を抱えているだけに現状では営業再開に向けてのハードルは誰にとっても高くなってしまうと考える。


また余談だが、このような状況の中で先の新聞発表において今回の営業停止に追い込まれた原因が先のシーズンの「豪雪」であるかのような内容は、先にARAIの特徴として「雪が多い」ということを挙げたがそれを営業的にアピールしてきたARAIにおいて、確かに先のシーズンの「豪雪」によって営業的にも影響を受けたことも事実であろうが、それが根本的な問題ではないことは明らかであり新聞発表の際、それを全面に出すことには違和感をおぼえる。


今回ARAIの営業停止という発表に対して自分が関わってきてからを振り返ってみたが最後に、
個人的にはARAIはその施設(そのグレード、メンテナンス、ハンディキャップッド対応=車椅子で基本的にはどこでも--ゲレンデにまで--行けることなど)、サービス(ホスピタリティ)において日本を代表するリゾートのひとつだったと考える。それは雇われ社長やコンセンサス経営では今の姿、特にハードウェア的には今の姿はできなかったと考える。

但し、仮に開発計画段階から雇われ社長やコンセンサス経営だった場合にはARAIの事業採算性が改善されていた可能性があることは否定するものではない。

なお、参考までに


http://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/39233060.html


http://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/39233379.html

最後に感想を述べさせていただきますと、


「とどのつまり、バブル時期の日本のエセリッチ感に舞い上がった、ひとりの金持ちのボンボンが、冷静な市場分析もせずに、自分ひとりの勝手な判断で、欧米のスキー場に互したものを作ろうと間違った結果の物語」ということです。


アライマウンテンについて、再三取り上げているのは、その破綻が他のスキー場とは少し事情が違うからです。


なぜなら、それは、その開発当初から、経営戦略が間違っていた(金持ちのボンボンの道楽)とも言えるからです。


しかし、ボンボンさん、何度も言うようですが、子供じゃないんだから、作るだけ作って、運営がうまくいかないって、ほっぽり出さないで…。


子供の砂山でも、帰るときには、作った本人がならして元の状態に戻すように、親や周りの人から注意されるって…。


なお、欧米との比較については、自分の「日本人とバカンス」の書庫をご覧ください。
https://blogs.yahoo.co.jp/hiro0425kawachi/40701998.html

3. 中川隆[-12562] koaQ7Jey 2019年1月31日 17:19:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

馬渕睦夫沖縄講演〜2019年の国難をどう乗り切るか[桜H31-1-29] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=nIQpvmu_Mt0


1月19日に沖縄で開催された馬渕睦夫氏の講演会「2019年の国難をどう乗り切るか」を完全版でお送りいたします。

VTR:馬渕睦夫先生沖縄公演「2019年の国難をどう乗り切るか」(平成31年1月19日:沖縄船員会館)

【内容】
 @メディアの洗脳支配の背後に潜むもの
 A「金融」を支配したディープステート
 B国難に打ち勝つ日本文化の力
 C日露交渉〜伝えられないロシア
 D安倍首相のグローバリズム政策はなぜ?
 Eトランプ世界戦略の先


1月19日に沖縄で開催された馬渕睦夫氏の講演会「2019年の国難をどう乗り切るか」を完全版でお送りいたします。

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朝鮮からの渡来人が霊山の大毛無山を乗っ取ろうとしている

大毛無山の蛇神様がそれを憂えて、朝鮮からの渡来人に天誅を加えています。

4. 中川隆[-12490] koaQ7Jey 2019年2月03日 11:37:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

神社の鳥居は縄文人の信仰とは全く関係無い

鳥居の起源は長江の稲作文明


吉野ヶ里遺跡の紹介 門と鳥形
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから、弥生時代に穀霊信仰が存在したと推察されます。

当公園においては佐賀県神埼市の「託田西分貝塚遺跡」の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています。


南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

▲南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

穀霊信仰と鳥に対する崇拝

穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。

それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます。

鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。

天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われます。
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html


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鳥居から鳥が消えた日 2016/5/5
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


神社と鳥居はワンセットになっている。


日本の神社になぜ鳥居が有るのかは、私なりの見解が有り、このHPにも書いた。
鳥居は神を封じ込める結界
http://artworks-inter.net/ebook/?p=162

日本の場合、畏敬すべき神の存在がメインなのだが、タブーとしての神に仕立て上げた存在も有る。

祟り神や怨霊神がそうである。

そのための鳥居や結界も存在する。

しかし、それは神道が形式化され整備されてからの事であり、それ以前の神道は各地さまざまな形で、その土地やその種族にあわせたものとして存在していた。

古代の神道は、古事記や日本書紀の記述に無い、日本の土着の神の存在の証明でも有る。

学問的呼び名で言うと原始神道というらしい。

これは、魔術的な不可思議なものではなく、先祖崇拝や祈祷や占いなどである。

鳥居の形にいろいろ有るのは、原始神道と現在までの神道の融合のせいも有るだろう。

また、神仏習合のせいもあるかと思われる。

しかし、人と神を分ける結界という考え方は同じようだ。

弥生時代の鳥居

先日吉野ヶ里にいった際、復元された弥生時代を見てそこに鳥居があるのを発見した。

壱岐の原の辻遺跡復元集落と同じような鳥居である。

門のような鳥居の上に、木で作った模型の鳥がとまっているのだ。

吉野ヶ里歴史公園

遺跡というのは、発見された時は穴ぼこだらけの土地である。

そこにあるものを、今までの研究に照らし合わせて復元する。

だから、復元模型は研究者たちの思い入れや、想像が入るのですべてを丸のみにして、信じるわけにはいかない。

だから、鳥居風の門の上に、木の模型の鳥があったのも、研究者たちの演出だと思っていた。

吉野ヶ里遺跡の職員の人に、何気なく木の模型の鳥の話しをした所、出土品として木の模型の鳥があったとの事でびっくりしたのだ。


鳥形木製品

恥ずかしながら、日本の鳥居のことばかりやっていたので、アジアに広がっている鳥のトーテムの事は、頭から消え去っていた。

穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

韓国のソッテという鳥のトーテム
http://satehate.exblog.jp/16749464/

ソッテ
鎌倉から、こんにちは
ソッテ(鳥竿)という木の鳥が居ます。
http://blog.kamakura-seoul2005.com/?eid=1062236

s-ソッテ(鳥竿)


壱岐の鳥居

(長崎県壱岐市芦辺町 原の辻遺跡) 撮影アートワークス

縄文や弥生といった時期には、当然神社と鳥居はないのだが、鳥居の起源として色んな説がある。

弥生時代に稲作が始まったと教科書では書いているが、稲作は縄文時代からおこなわれていた。

弥生時代に盛んになったのは、水田という手法が広まったという事である。


穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。吉野ヶ里歴史公園
鳥竿
日本野鳥の会関係のサイトには、「この鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりといわれています」とあります。

確かに、鳥と稲作は深い関係があり、信仰の対象である事は間違いない。

日本神道の結界としての鳥居とつながっていると思うが、この時点ではもっと範囲の広い信仰の対象だった。

朝鮮のソッテだけではなく、中国の少数民族にも鳥竿は見られる。

特に有名なのは中国のミャオ族である。


芦笙柱(トン・カー

(杉浦康平アジア図像の世界 11 http://www.kousakusha.co.jp/RCMD1/rcmd_11.html)

鳥越憲三郎 説

倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。

それ以外にも多数の説があり面白い本も多い。

ミャオ族歌手 阿幼朶

朝鮮では鳥竿だが、他の地方ではトーテムポール風に変化しているものもある。

鳥への信仰は同じなのだが、インド仏寺のトラナ、中国の牌楼、朝鮮の紅箭門など門としてつながっていったと思われる。

インド仏寺のトラナインド仏寺のトラナ

s-朝鮮の紅箭門朝鮮の紅箭門

日本にも朝鮮半島のチャンスンと同じものが神社に残っている。


高麗神社(埼玉県日高市)
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。
http://blue-angels.my.coocan.jp/jinja/koma/komajinja.htm

高麗神社

吉野ヶ里の門の上の鳥は、これらの流れを考えて作られたのだろう。

精霊門ハニ族(アカ族)の精霊門

http://ameblo.jp/hex-6/entry-12020355977.html
中国の雲南省に住むハニ族(アカ族)の精霊門を参考にしたとおもわれる。


特に印象的なものは神武天皇の絵画である。

もちろん書かれたのは江戸時代だとおもうが、弓の上に止まっている八咫烏(やたがらす)の絵は、鳥竿(ソッテ)を持っているといっても、誰も疑わないだろう。

神武天皇

日本には鳥竿やトーテムポールは直接伝わっていないが、鳥信仰は色んなものに変化していったのと推測される。

鳥信仰の門が、神社の鳥居と結びつくのはそれほど違和感がないと思える。

神社だけではなくお寺にも鳥居がある。これは神仏習合の影響である。

日本というのはつくづく不思議な国だと思われる。

日本以外の所から色んなものが伝わっているのだが、すべてを日本流に変化させているのだ。

ジャパンフィルターと呼んでも良い。

これは現代でも大いに作用している。

ここからが本題である。

鳥信仰の鳥居なのに、日本に定着するとその鳥の模型がなくなってしまっている。

吉野ヶ里歴史公園にあった、鳥の模型が乗っている門がなくなっているのだ。

そして、その代わりにセットになったものがある。

注連縄である。

これはどういうことなのだろうか。

稲作はどんどん広がっていて、九州から東北地方までも広がっている。

考えられる理由はただ一つしか無い。

鳥信仰を持っていない稲作の民の台頭である。

鳥の模型が無くなった代わりに登場したのが注連縄である。

現在鳥居に注連縄がはっているものも多い。

注連縄の原点は『蛇』
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/kyuukei/simenawa/simenawa.htm

鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市西新井町)鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市)

shimenawa_torii


蛇と注連縄

6−1 鳥居

http://www.741.cc/Bonhu/kami06.htm


星宮神社


くらら日記  栃木県下野市下古山 星宮神社

http://blog.livedoor.jp/clala_koubou/archives/2013-07-21.html

鳥から蛇に変っていったのだ。

鳥信仰は、その土地に住む原住民が長い間培ってきた信仰でもあり、稲作や穀物の生育と鳥との関係が信仰を生んだと思われる。

つまり、長い農耕の歴史が空や鳥を信仰の対象にしてきたのだ。

ところが、日本は1万5千年とも言われる長い縄文の時代があった。

農耕一筋ではなく、狩猟と農耕という独特のサイクルを持って、長期間平和に暮らしてきた。

農耕というと穏やかなイメージがあるが、水田というのは山を崩し土地を開墾して自然破壊を繰り返していくライフスタイルなのだ。

さらに、水田は新技術として日本中を駆け抜けていく。

稲作の鳥信仰は薄れていったのだ。

もちろん鳥という天空と地面をつなぐ神秘的な生き物に対する信仰は消えていないが、日本には古くから蛇信仰がある。

稲作の大敵でもあるネズミの天敵というのもその理由の一つだろう。

それ以外にも


蛇の形体が男根を思わせること
蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃のもとに倒す強さ
脱皮により生まれ清まる再生力

有名な説に「蛇 (講談社学術文庫)吉野 裕子」がある。

吉野氏によれば、田んぼに立っているかかしは蛇のことだという。

蛇の力と神社がいつか寄り添って、日本中に広まっていったのだろう。

蛇の怖さは、縄文人たちはよく知っている。

そしてその生命力も計り知れない。

蛇信仰は鳥居とセットとなって広がっていった。

その事実からいえることは、稲作を伝えた人達の主導権を奪った人達が日本の主流になったという事である。

それが縄文人と言われる日本在住の民たちである。

縄文人は別に単一の種族ではない。

長い間混血を繰り返し、日本に定住していた民だ。

この民たちが動き出したのだ。

ジャパンフィルターが稼働したのである。

渡来倭族たちの新技術を吸収し、日本風にアレンジさせて進化させた。

水田に適した熱帯ジャポニカを品種改良して東北の寒冷地でも収穫が出来るように進化させたのである。

漢字が日本に入ってきたが、ジャパンフィルターを稼働させ、ひらがな、カタカナを生み出した。

仏教は日本の仏教へと変化させ、神仏習合を生み出し日本教を生み出した。

江戸から明治に移る時、無血革命という離れ業を実現し日本を外国から守った。

戦後、欧米の技術が入ってきたが、物まね、イエロー・モンキーといわれながら、世界一のトランジスタラジオを生み出した。

数え上げればキリがない。

古代新技術の到来は、現日本人にとって渡来人に土地を奪われていくことと同じだったのだ。

渡来人たちは、別に親切で日本にやってきたのではない。

征服者の顔を持っているのだ。

色んな理由で日本にやってきた渡来人のいいなりになるわけにはいかない。

だから、ジャパンフィルターが稼働した。

空白の4世紀というのがある。

倭国が歴史に記載されない時代だ。

邪馬台国の時代、まだ縄文の生活様式が残っている。

そのご大和朝廷が本格的に動き出す時は水田稲作は全国に広まっている。

空白の4世紀とは弥生時代とかさなっている。

日本はなぜ、世界の歴史に登場しなかったか。

それは、鎖国をしていたからである。

これは、江戸時代の鎖国と同じ状況だ。

外国の新しい風にさらされていた日本は、数ある選択肢の中から国を閉じることを選んだのだ。

世界の常識から見れば、とんでもない選択だったはずだ。

しかし、鎖国を実行して国力を充実させる道を選んだ。

日本の4世紀、邪馬台国から大和朝廷に脱皮して行くには、海外との交易をなるべくさけて、国内の体制を固める必要があったのだ。

これは、中国大陸などの情勢を察知して働いたジャパンフィルターだと確信する。

そしてこの時期、鳥の鳥居から蛇の鳥居となり、本格的な日本水田稲作の道が切り開かれたのである。

荒唐無稽といわれればそれまでの話しだが、多数の渡来人の説が幅をきかせる中

日本語という言語が変らなかった事実を説明できる説はこれしか無い。

チベット、中国、モンゴルなどの様々な人種と文化が日本にやってきて化学反応を起こし、ハイブリットな日本人が出来上がった。

日本人の故郷は何処かといわれれば、世界中だといえる。

それが気障なら、日本人の故郷はここ日本列島だというのが正解だ。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336

▲△▽▼


神社は支配の道具か、縄文の残存か
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html


第3回は神社を扱います。

神社といえば日本古来から存在していたように殆どの人は思われているでしょうが、神社の本質は渡来人が土着縄文人や混血した弥生人を支配する手法であり税を徴収する役所機関です。また神社は地域と密着し、一部には裏情報を収集する諜報機関としても存在していました。そんな神社がなぜ縄文体質の史的足跡になるのか?そこに絞って言及してみます。

やはりどうしても触れておきたいのが神社が作り出す環境です。或いはどのような環境に神社が存在しているかです。

全ての神社に大小あるのでしょうが、最も特徴的なのが三輪山を抱える大神大社です。日本最古と言われる三輪神社は鳥居こそありますが、境内は山そのもので、人々は山に向って拝み、祈ります。

今でも三輪山は神社の所有地で山に存在する木も石も土も持ち出すことは禁じられています。倒木も腐って土に帰るまで何十年も重ねて放置されています。山の全てに神が宿っているからです。神社とはその始まりにおいて縄文人が持っているアニミズムを取り込み、形にしたのです。例えそれが渡来人の意図であっても、逆に言えば渡来人が縄文人に同化する上でアニミズム信仰は進んで取り込み、縄文人もまた渡来人を神社を通じて渡来人を巻き込んでいったという見方もできるかもしれません。

この三輪山と同様の古代の神社は各地に大和時代〜奈良時代にかけて多く作られていきます。その代表が、出雲大社、伊勢神宮、諏訪大社です。いずれも巨木と深い森の中に存在しています。

もう一つは縄文の性です。渡来人は縄文人と婚姻、混血する際に神社を使ったと言われています。

それが巫女であり、誓約の儀式です。縄文が性を肯定視していた事と、神社を仕切る巫女、これらが大量の渡来人を受け入れながら縄文体質を残し続けた象徴的な儀式と言えるかもしれません。


アニミズム(精霊信仰)の歴史@

アニミズムが神社に発展した事例を紹介したい。

後のヤマト政権の時代になって、大己貴神などの「国津神」が加えられ主な祭神となる

・奈良県の三輪山 ⇒ 大神神社(おおみわじんじゃ)
・滋賀県の山の神・大山咋神信仰 ⇒ 日吉大社(ひえたいしゃ)
・島根県の磐座信仰 ⇒ 出雲大社
・長野県の土着の神々(蛇神、木霊など) ⇒ 諏訪大社(すわたいしゃ)
・埼玉県見沼の水神 ⇒ 氷川神社(ひかわじんじゃ)
・神奈川県の神山(駒ケ岳山頂) ⇒ 箱根神社
・長野県の地主神・九頭龍信仰 ⇒ 戸隠神社(とがくしじんじゃ)
・富士山の神霊信仰 ⇒ 富士山本宮浅間大社
・島根県の火を祀る信仰 ⇒ 熊野大社
・和歌山県熊野地方の太陽神、水神、木神 ⇒ 熊野本宮大社
・奈良県吉野の水神信仰 ⇒ 丹生川上神社(上社、中社、下社)


名だたる古社のルーツは、ほぼ全てがアニミズムです。
これらの古社は、次のヤマト政権になってから「神社」化されていくようになります。


古代日本の月信仰と蛇信仰、その変遷

■日本古代の祭り

日本の古代の祭りは、概ね二つの類型があるようである。
一つは男女の祖霊神としての蛇を何らかの方法で現出させる様式。例えば藁や縄で作られた蛇を祀る等。現在も豊年祭で使われる雄綱、雌綱はその好例である。もう一つは男祖霊神である蛇と巫女との交合により巫女が神を身ごもり、籠もり(こもり)の儀礼の後、神として現出する様式である。つまり蛇との交合、受胎、出産を儀礼化させたものである。この場合、概ね男根と蛇の象徴として蔓の絡まる御神木や、山を蛇がとぐろを巻いている姿を蛇に見立てているものが多く、こちらの祭りが多数を占めていた。

これらは満月の夜に行われていたとされる。

実際神社の出来る前の古神道に於いては、蛇や山そのものをご神体としているものが多い。

例えば三輪山(大神神社)、出雲の佐上神社(神事で海蛇を奉納する)、諏訪大社(冬眠中の蛇を奉納する)等が上げられる。

また 物部氏は日本における強力な蛇信仰の担い手であったと推測され、物部氏の子の天語山(あめのかごやま)命(のみこと)は別名、高倉下(たかくらじ)と呼ばれた。この高倉とは高床式の倉であって、倉は富の象徴であった。高倉は鼠害から穀類を守る設備なので、そこには鼠の天敵としての蛇、あるいは蛇を象徴する蛇行剣が祀られていた。蛇が祀られている倉は、その意味でも住居の守護神的存在となるが、これらの理由から、穀倉が神社の起源になっていったようである。


諏訪と縄文 〜なぜ諏訪が人々を惹きつけるのか

諏訪を今日まで縄文的な聖地として確定させたのは諏訪大社の存在です。この大社は数ある日本の神社の中でも最古と言われており、建立時期もあきらかになっていません。

おそらくは弥生時代前期〜中期、紀元前200年〜紀元後100年くらいの時期に一番旧い社屋ができていると言われています。大社と言われる神社はおそらく縄文人と弥生人との合作、原点の神社です。諏訪大社は中国から渡来した出雲族が土着の諏訪人と融合し、作り上げた神社と言われています。諏訪大社には4つの神社が諏訪湖を囲むように存在していますが、各神社は御柱4本が神社の4隅に建てられ、杉の柱で囲まれた領域を聖なる地として領域付けられているのです。

さらにこの御柱を7年毎に新しい柱に交換する、御柱祭りは現在も活き続けています。

2010年には3人の死者を出しながらも現在も続けられる御柱祭り。

現在でも諏訪に在住の普通の人々が祭りを作り運営している。諏訪の人々は7年に一度のこの祭りの為に生きているというくらい、祭りは人々の生活に入り込み、祭りを中心に多くの民が暮らしているのです。祭りと言えば祇園、ねぶた、天神など大きなものは日本中にたくさんありますが、この縄文由来の祭りが今もほとんど変わらず行われている、そんな地は他にはありません。


【誓約(うけい)】

この国には、二千年の永きに渡り特殊な性文化が存在した。

元を正すと、縄文末期に日本列島に数多くの征服部族が渡来して縄文人(原住民・/エミシ族)を征服し、それぞれが土地を占有して小国家を打ち立てた。

その征服部族の出身が、中国大陸から朝鮮半島に到る極めて広域だった事から、被征服者の縄文人(原住民・/エミシ族)を含めそれぞれが対立したこの環境を、武力を背景にした強姦や性奴隷化ではなく、双方の「合意に拠り創り出す知恵」が、誓約(うけい)だったのである。

太古の昔、人間は小さな群れ単位で生活し、群れ社会を構成した。

その群れ社会同士が、争わずに共存するには性交に拠る一体化が理屈抜きに有効であり、合流の都度に乱交が行われて群れは大きくなって村落国家が形成されたその事情が、仲間として和合する為の誓約(うけい)の性交を産みだしたのである。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々(それぞれ)に部族集団を多数形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

(中略)

異民族同士が、簡単且つ有効に信頼関係を構築して一体化する手段は一つしかない。

それは、性交に拠り肉体的に許し合う事に拠って究極の信頼感を醸成し定着させる事である。

その結果は明らかで、次代には混血した子孫が誕生する。

「誓約(うけい)」とは、一義的には性交を伴う現実的和解であり、結果的に両部族(両民族)の子孫が融合して新たな部族(民族)を創造する事である。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html

5. 中川隆[-12350] koaQ7Jey 2019年2月08日 08:48:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

不死とされた蛇、女の子宮、精子としての水…日本人が誇るべき“本当の縄文人の世界観”
大島直行インタビュー2017.01.27.
http://tocana.jp/2017/01/post_12128_entry.html


 近年、縄文ブームが大いに盛り上がっている。だが、そんな中にあって、従来の縄文のイメージをひっくりかえす独自の縄文解釈を展開して注目されているのが、北海道考古学会会長の大島直行氏である。


 2014年刊の著書『月と蛇と縄文人』(寿郎社)
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%88%E3%81%A8%E8%9B%87%E3%81%A8%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA-%E5%A4%A7%E5%B3%B6-%E7%9B%B4%E8%A1%8C/dp/4902269678


では、廣戸絵美による裸婦の写実絵画《妊婦》と国宝土偶の《縄文のヴィーナス》を並べた挑発的な表紙で、月や蛇といった再生のシンボルを使って縄文人の神話的世界観を読み解くという野心的な試みを大胆にアピールした。「縄文土器は鍋ではない」「竪穴住居(建物跡)は住居ではない」「貝塚はゴミ捨て場ではない」と次々に縄文文化の一般的なイメージを覆し、人気プレゼン番組TED札幌にも出演して人気を博した。


 それに続く

2016年刊『縄文人の世界観』(国書刊行会)
https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3-%E5%A4%A7%E5%B3%B6-%E7%9B%B4%E8%A1%8C/dp/4336060002


では、さらに具体的に縄文の土器、土偶、遺跡などを読み解き、膨大な考古学資料の背後に埋もれてきた縄文人の世界観を生き生きと描き出してみせたのである。

 そして、来たる1月29日(日)昼12:00から、東京・高田馬場の白夜書房地下BSホールにて大島直行氏の特別講義が予定されている。気鋭の考古学者が21世紀を生き抜くための縄文人の世界観を語り尽くすのだ。

「大島氏独自の縄文解釈とはどういうものなのか?」

「従来の日本の考古学者が縄文人の世界観を正しく理解できなかったのはなぜなのか?」

 今回は、そんなストレートな質問をぶつけてみた。


——最初に大島先生に注目したのは、北海道考古学会会長としての積極的な発言でした。09年に「北海道・北東北を中心とする縄文遺跡群」が世界文化遺産の国内候補として暫定リスト入りを果たしているのに、毎年のように落選を続けていることについて、手厳しいコメントをなさっていましたが?

大島「縄文文化とは何か? 日本の考古学者はそのことを世界に納得してもらえるような形でちゃんと説明できていないんですよ。日本最大規模の三内丸山遺跡を頂点にして18遺跡をまとめて出せば、世界遺産に通るだろうというわけですけど、大きな勘違い。日本の考古学者は縄文土器の型式や年代を分類する編年研究に没頭して『縄文人はどんな人たちなのか?』『どういう世界観を持っていたのか?』そういうことを全然説明してこなかったということが問題なんです。

私は縄文文化が世界的にも他に類をみない独自の世界観を持っていたと確信しています。つまり、縄文人は新石器時代になっても、農耕社会に移行することなく、狩猟採集の生活を約1万3千年に渡って守り続けたのです。そして、土器、土偶、その他の出土品に見られるような非常に豊かな文化を育んできました。縄文人はシンボリズムとレトリック、つまり、象徴とその読み替えのメカニズムを基礎とする狩猟採集の世界観でひとつの文化を作り上げた貴重な存在なのです」


白い貝を敷き詰めて復元された北黄金貝塚
http://tocana.jp/2017/01/post_12128_entry_2.html


——先生独自の縄文解釈で、たとえば、青森県の三内丸山遺跡を読み解くならばどうなりますでしょうか?

大島「三内丸山はなぜ価値があるのか。大きい、広い、出土品が多いなんて説明じゃダメなんです。たとえば、植物学者の辻誠一郎さんが花粉分析したら、遺跡のどこを掘っても栗の花粉が出てきたといいます。人為的に栗の木が植えられていたわけです。春の季節には、栗の雄しべで広い遺跡一帯が、真っ白になっていたことでしょう。

葉は緑で花は白、緑も白も再生のシンボルですから、そう考えると、三内丸山は単なる巨大集落ではなく、再生を願う縄文人が全国から集まってくる聖地のような場所(トポフィリア)だったと考えられます。ここでいうトポフィリアとはアメリカの地理学者イフー・トゥアンが提唱したもので、ラテン語で『愛すべき土地』を意味します。私は脳レベルでトポフィリアという概念があったと考えています」


貝塚から発見された人骨(北黄金貝塚情報センター)
http://tocana.jp/2017/01/post_12128_entry_2.html


——先生が考える縄文人の神話的世界観とはどんなものなのでしょうか?

大島「私のシンボリズムというアイディアは、ドイツの日本学者ネリー・ナウマンによる縄文研究を発展させたもの。彼女が参照したユング、カッシーラー、エリアーデなどに立ち返り、心理学、哲学、宗教学にまで関心を広げていくと、人間を人間たらしめているのがシンボルであると確信できました。

そして、ナウマンの解釈に沿うならば、シンボリズムとは、アニミズム、シャーマニズム、トーテニズムといった「原始宗教」よりも以前のもので、霊や先祖を信じることもなく、愛や家族という概念もなく、ただひたすらに再生のシンボルとなるものを探し求め、作り続けていたのではないかと思うんですよ。それは私が思考の因子といっているものですけど、最終的には脳科学も参照しないといけないでしょう」


縄文土器(北黄金貝塚情報センター)
http://tocana.jp/2017/01/post_12128_entry_3.html


——もっと具体的に縄文人はどんな人たちだったのでしょうか? どのような生活をしていたとお考えですか?

大島「ひとつ重要なことは人間の数ですよ。縄文時代の人口について、ある考古学者は26万人という数を出しています。もっと多いかもしれませんが、北海道には3万人です。現在、北海道には540万人いるんですけど、3万人なら、いないに等しい、熊や鹿の方がたくさんいたと思われます。人間同士の軋轢もなく、家や祖先、愛という概念も生まれにくい、そういうなかでは男と女は自由に交わって子供を作る。そういうものだと考えられますよね。そういった世界観が様々な遺構や遺跡、遺物を生み出したわけで、だからこそ世界遺産としての普遍的な価値があると私は考えます。シンボリズムとレトリックが縄文の本質であるなら、その証拠はいくらでもみつけられますし、遺跡や遺物についても容易に説明がつくということなんです」

——では、縄文の文様は何を表しているのでしょうか?

大島「縄文の文様は蛇でしょう。縄文土器が凄いのは最初に縄目の文様で蛇を表現したこと。蛇は世界中の神話にあります。脱皮を繰り返す蛇は再生のシンボリズムなんです。そして、蛇を象徴する文様がひとつの文化として定着すると、多くの人が“効き目”がある文様を模倣し、もっと“効き目”がある文様を求めて、さまざまな実験を繰り返す。そんな時代が1万年以上も続いたのが縄文時代だったんです」


クジラの骨でできた刀(北黄金貝塚情報センター)
http://tocana.jp/2017/01/post_12128_entry_3.html


——ここでいう“効き目”とはどのようなものでしょうか?

大島「日常生活の中で“死にたくない、蘇りたい”と思い、効き目のあるシンボルをどうやって編み出すかに命を賭けていた、すべてがそこに集約できます。歴史的な経緯もなく、発展や進歩を選択せず、1万年間ずっと変化しないといえばよくわかるでしょう。土器の形がいろいろとかわるのは効き目を試しているからですよ。別の例でいえば、翡翠(ひすい)は縄文時代の1万年間を通して、北海道から沖縄まで分布しています。でも翡翠はジュエリーでも宝石でもない、ただ地球上で再生のシンボルである白と緑が同居している石はそれしかなかったんです。効き目が抜群だったんでしょう、それが信仰ですから。翡翠を手に入れて持つことが大切だったんです。科学的に効果があるということではなく、縄文人を精神的に満足させるもの。頭の中に再生の因子があって、それになぞらえるものは、何でもやったってことですよね」


水場の祭祀場(北黄金貝塚)
http://tocana.jp/2017/01/post_12128_entry_3.html


——縄文人が現代人に教えてくれることは何でしょうか? その世界観を理解することで私たちには何がわかるのでしょうか?

大島「縄文人が作ったものは9割以上が再生のシンボリズムでしょう。生理の周期とリンクして満ち欠けする月、女性の子宮、羊水としての水、それらは皆、再生のシンボリズムです。何か再生するものをシンボライズして、レトリカルに描いているだけ。それを読み違えて、現代な美術的感覚とか、経済的価値観とか、合理性とか、そんな解釈をしても全く意味がないわけです。シンボリズムとレトリックで読み解くと、縄文は本当に面白いんですよ。考古学者には理論はないから彼らに任せていいたら読み解きは全然進まない。最近、積極的に講演をするようになったのは考古学者ではない一般の人たちにも一緒に考えて欲しいからですよ。そして、私の講演を聞いた人は再生のシンボリズムという根拠を持って縄文文化を捉えてほしい。つまり、現代の感覚で縄文人を想像するのではなく、自分自身が縄文人になって、現代における縄文的なものを発見していって欲しいですね」


——現在、タトゥーアーティストの大島托とのコラボレーションで縄文タトゥーの復興プロジェクト『縄文族 JOMON TRIBE』を推進しています。僕らは現代人の身体に実際にタトゥーを施してみることで「縄文時代にタトゥーはあったのか?」という問いに具体的な返答を試みようとしています。縄文人のタトゥーについて、先生のご意見を伺えればと思います。

大島「当然、タトゥーはあったでしょう。それを立証することはなかなか難しいかもしれませんが、その理由はやっぱり再生のシンボリズムです。縄文土器そのものが女性のカラダを象徴しているわけですから、縄文時代にタトゥーを彫る技術があったなら、それこそ“効き目”抜群の文様を究極のシンボリズムとして身体に刻んだことでしょう」

 大島氏がユニークなのは、日本の考古学において圧倒的な主流である土器の型式や年代を分類する編年研究に対し、それを乗り越えるべくシンボリズムとレトリックをキーワードに大胆に縄文人の世界観を読み解いてみせたことにある。そこでは、脱皮を繰り返して不死とされた蛇、女性の子宮、羊水あるいは精子としての水、生理の周期とリンクして満ち欠けする月、それらが再生のシンボリズムとされる。さらにそのようなシンボリズムは農耕以前の人類に共通する生得的なものであると断言し、精神分析学のカール・ユングが神話や曼荼羅の研究から探求した全人類に共通する心の構造としての普遍的無意識を縄文の文様や遺跡の読み解きに応用しているのである。大島氏が読み解く縄文人の世界観は、1万年という時を超え、「人間とは何か?」という最も根源的な疑問に新たな気づきを与えてくれるものなのである。


●大島直行(おおしまなおゆき)
1950年北海道生まれ。札幌医科大学客員教授、北海道考古学会会長、日本考古学協会理事、日本人類学会評議員。医学博士。著書に『月と蛇と縄文人』(寿郎社)、『縄文人の世界観』(国書刊行会)などがある。第三弾『墓と子宮の考古学ー縄文人はなぜ死者を穴に埋めるのか』を今年出版予定。

6. 中川隆[-13628] koaQ7Jey 2020年3月21日 15:48:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1254] 報告

裸の縄文人


◆ 倭の水人の裔
   
縄文中期以来、そこに屹立(きつりつ)していたとされる、長野県・佐久北沢の巨大石棒は、千曲川岸から4〜500m離れた、水田の農道路肩に立っている。全長2.23m。
                 
平均身長170cmを更に上回る、今の日本の成人が、行きずりに眺めて通るだけなら、さほどのこともないかもしれない。だが、平均身長160cmに届かぬ中期縄文人が、ことに大石棒を見上げる角度に膝を折ったとき、亀頭頭頂と亀頭冠、そしてわずかにしなうペニス・シャフト、これら三つの曲線がはらむ量感、緊張感は、圧倒的な迫力をもって、仰ぎ見る眼に映ったはずだ。
                  

更にもし、前景に朝焼け、夕映えが置かれるなら、当然ながら男根崇拝は、太陽信仰と合体し、縄文原始宗教に至福の時が訪れる。

それにしても、2mにも及ぶペニス・シャフトは、長すぎて疲れる。巨大石棒は、立ち上げられて数千年、裸のままで立っていたのだろうか。
 
そんなはずはない。土器の表面を数千年の間、しつこく紋様で飾りつづけた縄文人が、無装飾の、裸の石棒の前にぬかづくはずはない。現に、先端に彫刻を施した大石棒も、多く発見されているし、彩色された石のペニスも出土している。野天に屹立する巨大石棒も、当然、聖性・威光を示す彩色なり、装飾なりを備えていたはずだ。

くたびれるほど長いペニス・シャフトのどこか、多分亀頭冠の直下あたりに、浄めの輪飾りが締められていたのではないか。輪飾りからは幾すじか、下がりのようなものも、垂らされていたかもしれない。竪穴住居それぞれに祭られた、小型の石棒も同じだろう。聖呪(せいじゅ)を唱えながら編まれた輪飾りが、ファルスの聖性・威光の標示として巻かれ、これがしめ縄の原型になる。
                   

昭和20年代半ば、房州白浜海岸の夏――地引き網を曳き終わり、浜に働く漁師たちはみな、丸裸だった。一糸まとわぬ、と言えばしかし、嘘になる。ペニス・シャフトがそれぞれ、わら一本でくくられていた。網をかつぎ、網を干し、水際を歩く漁師たちの、浜風に縮んだペニスが揺れ、くくったわらの端が揺れる。
  

私はそれをジョークだと思った。素っ裸ですみません、でも、まるきりの裸じゃない。ちゃんとわら一本を身につけています、という。

しかし無論、ジョークなんかじゃない。『魏志倭人伝』に「今、倭の水人、好んで沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕る。文身して亦(ま)た以て大魚・水禽(すいきん)を厭わしむ」とあり、文身(いれずみ)には、まじない効果があった。それと同じく、房州漁師のペニスのわらも、魔除け、水難予防のまじないだったと、後に思い直すが、これも正確ではなかった、と、いま、縄文の石棒について考えながら思う。

                  
竪穴住居の中でも外でも、あれほど公然と男根が崇拝されていて、生身のペニスを隠すとしたら、そのほうがおかしい。厳寒期を除き、縄文人の男はほとんどいつも、全裸だったのではないか。漁労に従う沿岸部の住民なら、なおさら。

そして特に、石棒信仰が盛行する後期以降、生身のペニスにも、浄めの縄が結ばれた、と考えるのは自然だろう。無論、縄というより、紐だったのだろうが、それぞれ所属の共同体ごとに、微妙に結びや、かたちを変えていたかもしれない。

                   
パプア・ニューギニアの高地人は、今も裸で、めいめいのものを、立派なペニス・ケースに収めている。それから見れば、輪飾りを結ばれていようと、またたとえ、真っ赤に彩色されていたとしても、縄文人の聖標識は、遙かにつつましいものだった。

                   
つまり、1940年代半ば、今はどうだろう、当時、房州白浜・漁師のペニスのわらは、略式のしめ縄だったのだ。

                   
4000年前、中期縄文時代の石棒が、しめ縄を通して、房州漁民のペニスにつながる、と書けば大笑いだろう。だが、ふざけているのではない。
   
                   
『倭人伝』にいう「倭の水人」とは、文身(いれずみ)が示唆しているように、九州、弥生の国家体制に組み込まれた、縄文・漁労の民だったと思われる。当然、全裸で「沈没」していたはずだ。弥生時代に入っても、漁労は主として、縄文系の生業だったのではないか。

                   
九州、四国の海岸部、更に日本海側の住民には、比較的濃く、縄文人の遺伝子が保たれているという。このことは、形質人類学的にも根拠があり、一方、房州の漁民は、遭難・漂着した土佐の漁民の裔(すえ)だとされる。

                  
遺伝子の継続とともに、文化が、ことに腐食しにくい性にかかわる文化が、大きな変化をこうむることなく、受け継がれてきた、という考えにそれほどの無理はあるまい。

           
◆ 縄文のしめ縄

くり返し、しめ縄という言葉を使った。縄文時代にしめ縄があったのかと、必ず聞かれるだろう。あったに違いない。
               
                  
当時、縄には特別の意味があった。
                 
人類が、縄を発明したのはいつ頃だろう。痕跡を残さないから、考古学の対象にはなりにくいが、これはたいへんな発明だった。指を使って材料を継ぎ足せば、縄は、魔法のように、どこまでも長くなる。石器、土器の発明に劣らぬ、凄い技術を人類は獲得した。
                  
この技術は、すでに旧石器時代には存在したのだろうか。それとも、新石器時代(縄文時代)を待たねばならなかったのか。

                  
などと、大上段にふりかぶることもない。縄には特別の意味があった。
                 
意味がなければ、何千年ものあいだ飽きもせず、縄目が土器の表面を飾るわけがない。どんな意味があったか。

                  
しめ縄は、2匹の蛇の交尾を表す豊穣のシムボルである、というのは国際日本文化研究センターの安田喜憲さんの説である。これは卓抜な意見だ。聖と清浄の標識であるしめ縄に、蛇の交尾を見る視点は、尋常じゃない。この視点に立てば、この国の「聖性」の隠れた一面、最も底の部分に光が当てられる。

                  
安田さんによれば、蛇は互いにからまって交尾する。その時間がおそろしく長い。長ければ、半日以上もからまったままだそうである。その長さが、精力の強さ、繁殖力の強さを連想させ、縄文人の蛇信仰を生んだ。
             
                  
そして、安田さんは7000年前の長江稲作文明の蛇信仰と、縄文のそれとを対置するのだが、蛇信仰を持ち出すまでもなく、縄が性的結合のシムボルであったことは、容易に想像できる。

                  
イグサのような強い草の茎、カバやサクラの樹皮などで、縄文の縄は編まれたという。当初は、素材2本だけの縒(よ)り合わせだったろう。
                 
太い素材を使って、太い縄を編むときは、夫婦、あるいはムラじゅうの共同作業になる。

                  
力を合わせ、2本の茎材をからませて縒り、縒り合わせが性的結合を連想させ、それを暗示する労働歌なども歌われたかもしれない。あるいは男女のかけ合いで。

                  
こうして、縄は性的結合のシムボルとなり、性的結合は、単に快楽のためだけのものではない。祖霊――「祖」という観念が、どの程度発達していたか――死んだ父母、あるいは死児の霊を、竪穴住居の中に祭った小型の石棒に降ろし、更に妻(たち)の胎へ呼び戻す、聖なる再生の儀式でもあったはずだ。

                  
是が非でも、縄文の夫婦は、たくさんの子をつくらねばならなかった。
                
コール&デムニイのモデル生命表というものに、縄文人の死亡率を組み込んで試みた、国学院大学・小林達雄教授の計算によると、縄文の人口を維持するためには、一人の女性が、最低8人の子を産まなければならなかった。

                  
共同体の人口増加を願うなら、当然もっとである。15歳から産み始めたとして、30歳をわずかに越える平均寿命の終わりまでに、9人、10人と産み続けねばならない。そして生まれた子の半数以上は成人せずに死ぬ。縄文の女の胎に、休む暇はなく、竪穴住居の中では、目まぐるしく生と死が入れ替わった。

                  
とめどない生死の交替の中で、死は終わりではない、生死は縄目のように終わりなく循環する、という観念が生まれ、循環をつかさどるのは、祭りを要求する見えない霊の力だが、契機は男女の性的結合そのものにある、と考えられるようになる。今も、性行為を「お祭り」と呼ぶ言い方がある。

これなどまさに、何千年を生き続けた、縄文的表現とは言えないだろうか。

                  
縄は性的結合と、同時に、生命循環のシムボルとして聖性を帯び、縄文信仰の原点を表象し、数千年間、土器表面に聖コードを刻み、やがて安田喜憲さんの言う、蛇信仰とも合体してトーンを高め、祭りの場、神域の標示として使われ、更に変遷して、土俵入りの横綱の腰を飾るようにさえなった。

                  
部屋の力士が総出で綯(な)うという、あの太く逞しいしめ縄は、安田さんの蛇交尾説に従うなら、さしずめ大蛇(おろち)の愛の交歓、ということになる。それでもなお、女が上がると土俵が汚れる、などと主張したりするのは、何と無惨な倒錯だろう。
                                                  (下野 博)
                       

参考文献:
 
小林達雄 『縄文人追跡』 日本経済新聞社  2000 
安田喜憲 『環境考古学から見た日本農業』 研究ジャーナル 23(8) 2000

7. 中川隆[-15952] koaQ7Jey 2021年10月18日 17:56:59 : qkJ0267vVE : Y2lNRWlkTWpEVlE=[17] 報告
人類における始原のカミは、抽象化された不可視のアニマ(生命、魂)としてではなく、個別具体的な事象に即して把握されていました。霊魂などの抽象的概念の登場以前に、眼前の現象がそのままカミとみなされていた段階があった、というわけです。

具体的には、人に畏怖の念を抱かせる、雷や竜巻などの自然現象です。より日常的な現象としては、毎日起きる昼夜の交代です。人がカミを見出したもう一つの対象は、人にない力を有する動物たちで、具体的には熊や猛禽類や蛇などです。また、生命力を感じさせる植物、巨木や奇岩なども聖なる存在として把握されました。

カミは最初、これら個々の現象や動植物などと不可分の存在でした。何かが個々の現象や動植物などに憑依することで、初めてカミになったわけではありませんでした。

2021年10月16日
佐藤弘夫『日本人と神』
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_16.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E7%A5%9E-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%BC%98%E5%A4%AB/dp/4065234042

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2021年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。著者の以前の一般向け著書『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ』にたいへん感銘を受けたので(関連記事)、本書はまず、日本列島におけるあらゆる宗教現象を神と仏の二要素に還元する「神仏習合」で読み解くことはできず、それは近代的思考の偏りである、と指摘します。本書はこの視点に基づいて、日本列島における信仰の変容を検証していきます。


●先史時代

 日本列島における信仰について本書はまず、現代日本社会において一般的な認識と思われる、山のように自然そのものを崇拝することが日本列島における信仰の最古層になっている、というような太古からの信仰が今でも「神道」など一部で続いている、といった言説に疑問を呈します。山麓から山を遥拝する形態や、一木一草に神が宿るという発想は室町時代以降に一般化し、神観念としても祭祀の作法としても比較的新しい、というわけです。

 たとえば神祭りの「原初」形態を示すとされる三輪山では、山麓に点在する祭礼の痕跡は紀元後4世紀にさかのぼり、祭祀の形跡の多くは山を仰ぎ見る場所に設定されていることから、三輪山の信仰は当初から山を神聖視し、神の居場所である社殿はありませんでした。しかし、三輪山信仰の原初的形態が山を遥拝する形だったわけではない、と本書は指摘します。本書が重視するのは、恒常的な祭祀の場所が定められていなかった点です。山そのものを崇拝対象とするならば、現在の拝殿のように最適な地を祭祀の場と定めて定期的な祭りを行なえばすむだろう、というわけです。

 そこで本書は、三輪山信仰の原初的形態の手がかりとして、三輪山遺跡と同時代(弥生時代後期〜古墳時代)の日本列島における神信仰を見ていきます。信仰の側面から見た弥生時代の最も顕著な特色は、神が姿を消すことです。縄文時代には信仰の遺物として、人間を超えた存在=カミ(人間を超える存在、聖なるもの)の表象として土偶がありましたが、弥生時代には聖なるものを可視的に表現した広義の神像が欠けています。弥生時代には、カミは直接的にではなく、シンボルもしくはイメージを通じて間接的に描写されるようになります。銅鐸などカミを祀るための道具は多数出土しているものの、カミを象ったと推測される像はほとんどない、というわけです。

 カミが不可視の存在へと転換した弥生時代には、カミと人々とを媒介するシャーマンの役割が重視されるようになり、『三国志』に見える卑弥呼も三輪山遺跡もそうした文脈で解されます。古墳時代以前の社会では、カミは遠くから拝礼する対象ではなく、互いの声が届く範囲にカミを勧請して人々はその託宣を聞き、カミに語りかけました。これが弥生時代から古墳時代の基本的な祭祀形態だった、と本書は指摘します。記紀や風土記など古代の文献からも、山は神の棲む場所であっても神ではなく、人々が山を聖地として礼拝した事例はないので、現在の三輪山信仰は神祭りの最古形態ではなかった、と本書は指摘します。

 では、日本列島における最古のカミのイメージとその儀礼はいかなるものだったのかが問題となります。人類の宗教の最も原基的な形態は、自然の森羅万象の中に精霊の動きを見出すアニミズムだった、との見解は現代日本社会において広く浸透しているようです。一方で20世紀後半以降、カミの存在を感知する心的能力は6万年前頃に現生人類で起きた認知構造の革命的変化に由来する、との仮説も提示されています。これが芸術など複雑で象徴的な行動も含めて現生人類(Homo sapiens)の文化を飛躍的に発展させた(創造の爆発説、神経学仮説)、というわけです(関連記事)。

 本書はこうした認知考古学の成果も参照しつつ、日本の神の原型は不可視の「精霊」ではないと指摘し、「アニミズム」の範疇で把握することに疑問を呈します。本書が推測する人類における始原のカミは、抽象化された不可視のアニマ(生命、魂)としてではなく、個別具体的な事象に即して把握されていました。霊魂などの抽象的概念の登場以前に、眼前の現象がそのままカミとみなされていた段階があった、というわけです。具体的には、人に畏怖の念を抱かせる、雷や竜巻などの自然現象です。より日常的な現象としては、毎日起きる昼夜の交代です。人がカミを見出したもう一つの対象は、人にない力を有する動物たちで、具体的には熊や猛禽類や蛇などです。また、生命力を感じさせる植物、巨木や奇岩なども聖なる存在として把握されました。カミは最初、これら個々の現象や動植物などと不可分の存在でした。何かが個々の現象や動植物などに憑依することで、初めてカミになったわけではありませんでした。

 こうした最初期のカミに対して、人はひたすら畏敬の念を抱くだけで、ある定まった形式で崇拝することはなく、祭祀が開始されるには、無数に存在してイメージが拡散していたカミを、集団が共有できる実態として一旦同定する必要がありました。日本列島でそれが始まったのは縄文時代でした。縄文時代にカミのイメージを象徴的に表現したものとして土偶がありましたが、それを超える高次のカミは想定されていなかった、と本書は推測します。ただ、こうしたイメージが集団に共有され、定期的な祭祀が行なわれるようになるのは、縄文時代中期以降でした。これにより、霊威を引き起こす不可視の存在としてカミを想定する段階へと転換していきます。カミの抽象化が進行していった、というわけです。死者への認識も変容していき、死者を生前と同様の交流可能な空間に留めておく段階から、死者だけの独立した空間が生まれ、膨張していきます。不可視の存在により構成されるもう一つの世界(他界)が人々に共有されるようになります。

 上述のように、弥生時代にはカミそのものが殆ど表現されなくなります。カミの居場所はおおよその見当がつけられても、一ヶ所に定住することはなく、弥生時代から古墳時代のカミ祭りの形態は、カミを祭祀場に勧請し、終了後に帰っていただく、という形式でした。上述の三輪山祭祀遺跡はこの段階のものでした。超常現象は不可視のカミが起こすもの、との観念が共有されるようになった弥生時代以降には、自然災害や疫病など理解の及ばない事態にさいして、カミの意思の確認が喫緊の課題となりました。カミの意図を察知し、カミが求めるものを提供することでその怒りを和らげ、災禍の沈静化を図ったわけです。カミの言葉はシャーマンを介して人々に伝えられ、共同体共通の記憶としてのカミの言葉は次第に整序化された形で特定の語り部により伝承され、物語としての体系化と洗練化が進みます。カミの人格化と個性化の進展により、各集団の守護神もしくは祖先神としてのカミが特定されるようになると、太古のカミの仕業として世界や文化の起源が語られるようになりました。つまり、神話の誕生です。

 古代日本の神は生活に伴う汚染を徹底して嫌い、共同体における神の重要な機能が集団内の清浄性の確保にあったことを示します。こうした観念は定住生活への移行により強化されていきましたが、これにより、排泄物や死骸に単なる物理的な汚染以上の、より抽象的・精神的な位置づけが与えられるようになっていきます。まず神の祟りがあり、汚染感知警告の役割を果たし、穢れが神に及んでいる、と察知されます。この過程で、国家形成とともに、不浄→祟り→秩序回復のシステムを国家が独占し、「穢れ」の内容を詳細に規定することで、神への影響を最小限に食い止めようとします。カミが嫌うものとの規定により、日常生活に伴う汚染と共同体に違背する行為が、カミの保持する秩序に対する反逆=ケガレと位置づけられ、罪と穢れはしばしば等質として把握されます。ケガレの概念は多様化し、対処するための宗教儀礼も複雑化していきます。本来は生存のための道具だったはずのカミが人の言動を規定し、人を支配する時代が到来したわけです。カミが人の思惑を超えて清浄性をどこまでも追求し始めると、カミが嫌う個別具体的な「穢れ」も本来の意味を超えて一人歩きを開始し、人の意識と行動を縛るようになります。日本でその運動が本格的に開始されたのは9世紀で、物忌みや方違えなどの禁忌が急速に発展し、人々の日常生活を規制するようになります。


●古代

 弥生時代から奈良時代までカミは常態として可視的な姿を持ちませんでしたが、そのイメージは次第に変化し、とくに重要なのは人格化の進展です。その主因として考えられるのは、死者がカミとして祀られることの定着です。それには、傑出した人物の出現が必要となります。これは、首長の墓が集団墓地から分離して巨大化し、平地から山上や山腹などより高い土地に築かれるようになったことと関連しています。特定の人物を超人的な存在(カミ)と把握するヒトガミ信仰の画期は3世紀で、その象徴が前方後円墳でした。前方後円墳では祭祀が行なわれましたが、長く継続して実施された痕跡は見当たらない、と考古学では指摘されています。本書は、当時の信仰形態から推測して、カミの棲む山としての後円部を仰ぎ見ることができ、山にいるカミを呼び寄せる場所に祭祀の痕跡があるのではないか、と推測します。じっさい、仙台市の遠見塚古墳では、後円部の周辺で長期にわたる祭祀継続の痕跡が見つかっています。本書は、前方後円墳がカミの棲む場所として造られた人工の山で、そこにカミとなった首長の霊魂を定着させようした試みだった、と推測します。ヒトガミ信仰の次の画期は天武朝で、天皇自身が神(アキツミカミ)と強調されました。この律令国家草創期に、天皇陵と認定された古墳は国家による奉仕の対象となりました。巨大古墳の意義は、大伽藍の出現や律令制による神祇祭祀制度の整備により失われ、天皇の地位は諸仏諸神により守護される特権的存在となりました。カミの棲む清浄な地としての山には、清浄性を求めて修行者が入るようになります。

 カミのイメージ変遷で人格化とともに重要なのは、特定の地への神の定着です。弥生時代から古墳時代には、カミが特定の山にいたとしても、どこなのかは不明でした。そうした住所不定で祭祀の時にだけ来訪するカミから、定住するカミへの転換が進みます。これにより、7世紀末以降、神社の造営が本格化します。社殿の造営により、信仰形態は祭祀のたびに神を勧請することから、人が神のもとに出向いて礼拝することへと変わりました。これは寺院参詣と共通する形式で、神と仏(仏像)との機能面での接近を示します。神は一方的に祭祀を受ける存在となり、公的な儀礼の場から神と人との対話が消えていきます。

 上述のように神をめぐる禁忌が増幅され、神は人が安易に接近してはならないものへと変貌していきます。神と仏(仏像)との機能面での接近は、神像を生み出しました。長く身体性を失っていた神が、再び具象的な姿をとることになったわけです。こうした神の変貌により、人と神との仲介者としてのシャーマンが姿を消します。これは、俗権を掌握する王の地位強化と対応しており、古墳時代中期には支配層の父系化が進みます(関連記事)。カミの言葉の解釈権を王が手中に収めるようになり、8世紀後半の宇佐八幡宮神託事件はその象徴でした。

 カミの人格化と定住化の進展とともに、非合理で不可解だったカミの祟りが、次第に論理的なものへと変わっていきます。この過程で、善神と悪神の機能分化が進みます。祟りは全ての神の属性ではなく、御霊や疫神など特定の神の役割となりました。平安時代半ば以降、祟りの事例減少と比例するかのように、カミの作用として「罰(バチ)」が用いられるようになり、12世紀以降はほぼ「罰」一色となります。中世的な社会システムが整ってくる12世紀は、古代における「祟り」から中世の「罰」へとカミの機能が変化した時期でした。中世には、「賞罰」が組み合わされて頻出するようになります。カミは罰を下すだけの存在ではなく、人々の行為に応じて厳正な賞罰の権限を行使しました。カミは突然予期せぬ祟りを起こす存在から、予め人がなすべき明確な行動基準を示し、それに厳格に対応する存在と把握されるようになります。古代のカミは、目前に存在する生々しさと、人知の及ばない強い験力の保持を特徴とし、その力の源泉が「清浄」性でした。


●古代から中世へ

 人が神・仏といったカミ(超越的存在)や死者と同じ空間を共有するという古代的な世界観(来世は現世の投影で、その延長に他ならない、との認識)は、紀元後10世紀後半(以下、紀元後の場合は省略します)以降次第に変容していきます。人の世界(この世)からカミの世界(あの世)が分離し、膨張していきます。こうして、ヒトの住む現世(此岸)と不可視の超越者がいる理想郷(彼岸)との緊張感のある対峙という、中世的な二元的世界が形成されます。人の認知できないもう一つの空間イメージが、人々の意識において急速に膨張していったわけです。古代では、カミの居場所は遠くてもせいぜい山頂でしたが、中世では、この世とは次元を異にする他界が実在する、との観念が広く社会に流通しました。曖昧だったカミと死者との関係も、救済者・彼救済者として位置づけ直されました。彼岸=浄土はもはや普通の人が気軽に行ける場所ではなくなったわけです。

 12世紀には、救済者のいる彼岸世界(浄土)こそが真実の世界とされ、この世(此岸)は浄土に到達するための仮の世(穢土)との認識が一般化しました。浄土については、浄土教のように浄土の客観的実在性を強調するものから、ありのままの現実世界の背後に真実の世界を見ようとする密教に至るまで、この世とあの世の距離の取り方は宗派によりさまざまでしたが、身分階層を超えて人々を平等に包み込む普遍的世界が実在する、という理念が広く社会で共有されるようになります。この古代から中世への移行期に起きた世界観の大きな転換はかつて、浄土思想の受容と定着の結果と主張されました。しかし本書は、最初にこの世界観を理論化しようとしたのは浄土教の系譜に連なる人々だったものの、それは世界観の変容の原因ではなく結果だった、と指摘します。中世ヨーロッパのように、不可視の他界の膨張は、人類史がある段階で体験する一般的な現象だろう、と本書は指摘します。日本列島では、それに適合的な思想として彼岸の理想世界の実在を説く浄土信仰が受け入れられ、新たな世界観の体系化が促進された、というわけです。

 しかし中世には、全てのカミがその住所を彼岸に移したわけではなく、人と共生する神仏の方がはるかに多かった、と本書は指摘します。中世の仏には、人々を、生死を超えた救済に導く姿形のない普遍的な存在(民族や国籍は意味を持ちません)と、具体的な外観を与えられた仏像の二種類が存在しました。後者は日本の神と同様に日本の人々を特別扱いし、無条件に守護する存在で、「この世のカミ」としての仏です。中世の世界観は、究極の救済者が住む不可視の理想世界と、人が日常生活を送るこの世から構成される二重構造でした。

 この10〜12世紀における世界観の転換は、古代においてカミに宿るとされた特殊な力の源となった、仏像・神像に宿る「聖霊」と呼ばれるような霊魂のごとき存在に対する思弁が展開し、さまざまなイメージが付加されていく延長線上にありました。この大きな転換のもう一つの要因として、疫病や天変地異や騒乱などによる不安定な社会があります。中世は近世と比較してはるかに流動性の高い時代で、人と土地との結びつきは弱く、大半の階層は先祖から子孫へと受け継がれる「家」を形成できず、死者を長期にわたって弔い続ける社会環境は未熟でした。不安定な生活で継続的な供養を期待できないため、人は短期間での完全な救済実現を望みました。

 中世人にとって大きな課題となったのは、当然のことながら浄土を実際に見た人がおらず、その実在を信じることが容易ではなかったことでした。そこで、浄土の仏たちは自分の分身をこの世に派遣し、人々を励ました、と考えられました。それが「垂迹」で、あの世の仏がこの世に具体的な姿で出現することを意味します。不可視の本地仏の顕現こそが、中世の本地垂迹の骨子となる概念でした。垂迹を代表する存在が、菩薩像や明王像・天部の像を含む広義の仏像(この世の仏)でした。11〜14世紀に大量の阿弥陀像が造立され、人々が仏像に向かって浄土往生を願ったのは、阿弥陀像が浄土にいる本地仏(あの世の仏)の化身=垂迹だったからです。

 この世の仏で仏像より重要な役割を担うと信じられたのは、往生を願う者の祈りに応えてその場に随時化現する垂迹(生身)でした。これは、彼岸の仏がある人物のためだけに特別に姿を現す現象なので、祈願成就を意味すると解釈され、とくに尊重されました。仏像や生身仏とともに垂迹を代表するのが、日本の伝統的な神々でした。中世の本地垂迹は、彼岸世界の根源神と現世のカミを垂直に結びつける論理でした。それをインドの仏と日本の神との同一地平上の平行関係として、現世内部で完結する論理として理解しようとする立場は、彼岸世界が縮小し、人々が不可視の浄土のイメージを共有できなくなった近世以降の発想でした。

 垂迹として把握されていたのは、仏像と日本の神だけではなく、聖徳太子や伝教大師や弘法大師などの聖人・祖師たちでした。垂迹としての聖人の代表が聖徳太子で、古代には南岳慧思の生まれ変わりと考えられていましたが、中世には、極楽浄土の阿弥陀仏の脇侍である観音菩薩の垂迹との説が主流となりました。古代における日中という水平の位置関係から、中世における極楽浄土と此土という垂直の位置関係で把握されたわけです。親鸞も若いころに真実の救済を求めて聖徳太子の廟所を訪れました。インドに生まれた釈迦も垂迹とされ、その意味では聖徳太子と同水準の存在とみなされました。

 中世人に共有されていた根源的存在のイメージは、それと結びつくことにより、日常的なものや卑俗なものを聖なる高みに引き上げる役割を果たすことも多くありました。差別の眼差しに晒された遊女の長者が、普賢菩薩の化身とされたり、身分の低い牛飼い童が生身の地蔵菩薩とされたりしました。日頃差別される人々を聖なる存在の化身とする発想は非人でも見られ、文殊菩薩が非人の姿で出現する、と広く信じられていました。社会的弱者や底辺層の人々であっても、他界の根源神と結びつくことにより、現世の序列を超えて一挙に聖性を帯びた存在に上昇することがある、と考えられていたわけです。

 垂迹の使命は末法の衆生救済なので、その所在が聖地=彼岸世界の通路とみなされることはよくありました。善光寺や春日社や賀茂社などは、霊場として人々を惹きつけていきました。他界への通路と考えられた霊験の地は多くの場合、見晴らしのよい山頂や高台に設けられました。寺院では、垂迹の鎮座する「奥の院」は、高野山や室生寺や醍醐寺に典型的なように、寺内の最も高い場所に置かれました。これは、山こそがこの世で最も清浄な地であるという、古代以来の観念を背景としたものでした。山を不可欠の舞台装置として、周囲の自然景観を取り入れた中世の来迎図は、自然の風景が登場しない敦煌壁画の浄土変相図などとは異なり、日本の浄土信仰が大陸とは異なった方向に発展したことを端的に示す事例でした。

 こうした中世の世界観は、仏教者により占有されたとも言えます。これに違和感を抱いたり反発したりしたのが、神祇信仰に関わる人々でした。平安時代後期から「神道五部書」などの教理書が作成されるようになり、「中世神道」と呼ばれる壮大な思想世界が構築されていきました。その中心的課題は、人が感知できない根源者の存在証明とその救済機能でした。13世紀後半、伊勢において新たな神祇思想の流れが起き、度会行忠たち外宮の神官たちにより伊勢神道が形成されました。伊勢神道の聖典である神道五部書では、仏教や道教の思想的影響下で、この世を創生し主宰する唯一神の観念が成長していきます。国常立神や天照大神は超越性が格段に強化され、伊勢神道は仏教界が「本地」という概念で自らに取り込んだ根源的存在を、仏教から切り離して神祇信仰側に引き入れようとしました。伊勢神道の影響を受けた慈遍は、南北朝時代に国常立神を永遠不滅の究極的存在にまで高め、仏教が独占してきた究極的存在=本地仏の地位を神に与えました。こうして中世には、仏教・道教・神祇信仰といった枠組みを超えてカミの形而上学的考察が進み、不可視の究極者に対する接近が思想の基調となりました。人種や身分の相違を超えて、全ての人が等しく巨大な超越者の懐に包まれている、というイメージが中世人の皮膚感覚となります。

 救済者としてのカミに対する思弁の深化は、一方で被救済者としての人の存在について考察の深まりをもたらしました。救済を追求していくと、平凡な人が生死を超越できるのか、という疑問に正面から向き合わざるを得なくなるからです。人が救済されるための条件を思索するうちに、万人の持つ内なる聖性が発見されていきます。カミが徹底して外部の存在とされた古代に対して、中世では人に内在するカミが発見されていきます。人の肉体を霊魂の宿る場と考え、霊魂が体から離れて帰れなくなる事態を死とみなす発想は古代から存在しました。「タマ」と呼ばれた霊は、容易に身体を離れる存在でした。

 中世には、仏教の内在する「仏性」の観念と結びつき、その聖性と超越性が高まっていきます。仏教、とくにアジア東部に伝播した大乗仏教では、全ての人が仏性を持つことは共通の大前提でした(一切衆生、悉有仏性)。全ての人は等しく聖なる種子を持っており、修行を通じてその種子を発芽させて育てていくことにより、誰もが仏になれる、というわけです。こうした理念は古代日本にもたらされていましたが、超越的存在が霊威を持つ外在者のイメージで把握されていた古代社会では、内在する聖性という理念が大衆に受容され、定着することはできませんでした。聖なる存在への接近は、首長や天皇など選ばれた人が特別の儀式を経て上昇するか、修行者が超人的な努力の積み重ねにより到達できる地位でした。

 一方、万人に内在する仏性が発見された中世では、カミへの上昇は特別な身分や能力の人に限定されず、誰もが仏になれました。根源的存在は、絶対的な救済者であると同時に森羅万象に偏財しており、人は心の中の内なる仏性を発見し、発現することにより自らを聖なる高みに上昇させられる、との理念が人々に共有されるようになります。人と超越的存在を一体的に把握する発想は神祇信仰でも受容され、その基調となりました。一方的に託宣を下して祟りをもたらした古代の神が、宇宙の根源神へと上昇していくと同時に、個々人の心の中にまで入り込み、神は究極の絶対的存在故にあらゆる存在に内在する、と考えられました。こうした理念は、「神は正直の頭に宿る」、「心は神明の舎なり」といった平易な表現の俗諺として、衆庶に浸透していきます。

 いわゆる鎌倉仏教は、戦後日本の仏教研究の花形で、鎌倉時代に他に例のないほど仏教改革運動が盛り上がり、その大衆化が進んだのはなぜか、と研究が進みました。その後、鎌倉仏教を特別視するような見解は相対化されてきましたが(関連記事)、鎌倉時代における仏教の盛り上がり自体はほとんど否定されていません。鎌倉仏教に共通するのは、方法論の違いはあっても、身分や地位や学識などの相違に関わらず万人が漏れなく救済される、という強い確信です。悉有仏性の理念はインドの大乗仏教にすでに備わっていましたが、日本では上述のように古代には開花せず、絶対的な救済者と俗世を超える彼岸世界の現実感が人々に共有され、万人が聖性を内在しているという理念が社会に浸透した中世に初めて、生死を超えた救済の追求が可能となる客観的条件が整い、その延長線上に鎌倉仏教が誕生します。

 古代から中世への移行に伴うこうした世界観の変容は、王権の在り様にも重大な転換をもたらしました。古代の天皇は、アキツミカミとしての自身の宗教的権威により正当化されるだけではなく、律令制、皇祖神や天神地祇や仏教の諸尊など外部のカミにより、守護されていました。中世に彼岸世界のイメージが膨張すると、現世的存在である天皇は、もはや他界の根源神の仲間に加わることはできませんでした。天皇は一次的な権威になり得ない、というわけです。天皇は、古代のように同格のカミとの連携ではなく、より本源的な権威に支えられる必要性が生じます。

 12世紀に、伝統仏教で「仏法」と「王法」の協力関係の重要性が主張されるようになり、「仏法王法相依論」として定式化されます。これは、世俗権力の存続には宗教的権威による支援が不可欠とする、中世的な王権と仏教との関係を端的に表現していました。これは伝統仏教側から主張されましたが、同じ世界観を共有する王権も強く規定しました。王権の側は、仏法により外側から守護してもらうだけではなく、根源的存在との間に直接的通路を設けようとしました。古代では、原則として天皇が仏教と接触することは禁忌とされていましたが、12世紀以降、即位式の前に仏教的儀式が行なわれるようになり、天皇が大日如来に変身する即位灌頂などがあります。しかし、中世において天皇を神秘化する言説も散見されるものの、天皇が地獄や魔道に堕ちる話はずっと多く、王権側の試みは必ずしも奏功しませんでした。この世の根底に存在する人知を超えたカミの意思に反した場合、神孫である天皇でさえ失脚や滅亡から逃れられない、との理念が中世社会では共有されていました。中世人は、自身と天皇との間に、隔絶する聖性の壁を認めませんでした。天皇もあの世のカミの前では一人の救済対象にすぎなかった、というわけです。

 天皇の即位儀礼として最重視されていた大嘗祭が、応仁の乱の前年から200年以上にわたって中断された背景は、政治的混乱や経済的困窮だけではなく、皇祖神の天照大神の「この世のカミ」としての位置づけ=二次的権威化に伴い、大嘗祭が天皇神秘化の作法としてほとんど意味を喪失したことにもありました。こうした中世固有の世界観を前提として、他界の根源神の権威を現世の王権の相対化の論理として用いることにより、天皇家から北条への「国王」の地位の移動=革命を明言する日蓮のような宗教者も出現します。


●中世から近世へ

 中世前期に確立する、人の内面に超越的存在(カミ)を見出だそうとする立場は、中世後期にいっそう深化し、宗派の別を超えて共有されるとともに、芸能・文芸・美術などの分野に広範な影響を与えました。人のありのままの振る舞いが仏であり神の姿そのものとされたわけです。こうした思潮に掉さして発展し、浸透していくのが本覚思想(天台本覚思想)です。本覚思想では、ごく普通の人が如来=仏そのものと説かれています。人は努力と修行を重ねて仏という高みに到達するわけではなく、生まれながらにして仏であり、仏になるのではなく、自分が仏と気づきさえすればよい、というわけです。こうした思想に基づく文献が、最澄や良源や源信といった天台宗の高僧の名で大量に偽作され、流通していきました。

 カミ=救済者を人と対峙する他者として設定するキリスト教やイスラム教とは異なり、仏教の特質は、人が到達すべき究極の目標を救済者と同水準に設定するところにありました。釈迦がたどり着いた仏の境地は釈迦だけの特権ではなく、万人に開かれたものであり、真実の法に目覚め、胸中の仏性(仏の種)を開花させることにより、誰もが仏になれる、というわけです。しかし、成仏に至る過程は、時代と地域により異なります。大まかな傾向として、人と仏との距離は、時代が下るにつれて、東方に伝播するにつれて短くなります。

 大乗仏教では「一切衆生、悉有仏性(聖性の遍在)」が強調されましたが、とりわけ日本では、人と仏は接近して把握される傾向が強く、その延長線上に生まれたのが本覚思想でした。本覚思想は二元的世界観とそれを前提とする浄土信仰が主流だった中世前期には、まだ教団教学の世界に留まっていましたが、中世後期には広く社会に受容されていきます。成仏を目指した特別の修行を不要とするような極端な主張は、日本以外の仏教ではほとんど見られません。絶対者を追求し続けた中世の思想家たちは、万物へのカミの内在の発見を契機に、その視点を外部から人の内面へと一気に転じました。カミはその超越性ゆえにあらゆる事物に遍在する、というわけです。超越性の追求が、キリスト教やイスラム教で見られるような人とカミの隔絶という方向ではなく、万物への聖性の内在という方向に進むところに、日本の神観念の特色がありました。

 こうした傾向の延長線上として、法然や日蓮など中世前期の思想に見られるような、救済者と彼救済者、浄土と此土といった厳しい二元的対立が解消されていきます。法然や日蓮においては、救済者は人と対峙する存在として超越性が強調されていましたが、その後継者たちは、救済者の外圧的・絶対的性格が薄められ、宇宙と人への内在が強調されるようになります。仏に手を引かれて向かうべき他界浄土のイメージがしだいに希薄化し、救済者と彼救済者、他界と現世の境界が曖昧となり、彼岸が現世に溶け込んでいきます。

 いわゆる鎌倉仏教において、その転換点に位置するのが一遍でした。一遍は浄土教の系譜に位置づけられますが、その救済論は、救済者としての阿弥陀仏と彼救済者としての衆生との間の厳しい葛藤と緊張を想定した法然の対極に位置し、仏は何の抵抗もなく彼救済者の体内に入っています。浄土は死後に到達すべき遠い他界ではなく、信心が確立した時、その人は阿弥陀仏の命を譲り受けている、というわけです。こうした発想は一遍に留まらず、中世後期の浄土信仰の主流となっていきます。救済者と彼救済者の境の曖昧化という方向性は、宗派を超えて中世後期の思想界の一大潮流となります。

 中世から近世への転換期において、外在する他界のカミが存在感を失っていくもう一つの原因は、政治権力に対する宗教勢力の屈伏でした。浄土真宗と法華宗(日蓮宗)ではとりわけ一揆が盛んで、両派は中世でもとりわけ他界の仏の超越的性格を強調しました。日本史上、外在する絶対的存在としてのカミのイメージが最も高揚したのは戦国時代の宗教一揆で、異次元世界にある万物の創造主を想定するキリスト教の思想も、そうした時代思潮を背景に受け入れられていきました。一向一揆が平定され、島原の乱が鎮圧されると、その背景にあった強大な超越者もその力を喪失し、カミの内在化という時代趨勢に呑み込まれ、現実世界に溶け込んでいきました。

 こうした過程を経て宗教的な理想世界のイメージが内在化・後景化した近世では、政治権力の正当性は他界のカミとの関係性ではなく、純然たる現実社会の力学から生み出されることになりました。人間関係の非対称性が、現世内部だけの要因により再生産される時代が到来したわけです。この新たに誕生した幕藩制国家に国制の枠組みと政治的権威を提供したのが天皇でした。天皇を頂点とする身分序列と天皇が授与する官位の体系は、国家水準での秩序を支える最上位の制度として、中世と比較して飛躍的に重みを増すことになりました。

 中世後期には、人の内側だけではなく、自然界にもカミとその働きを見ようとする指向性が強まりました。その思潮を理論的に裏づけたのが本覚思想で、草木から岩石に至るこの世の一切の存在に仏性を見出し、眼前の現実をそのまま真理の現れとして受け入れていこうとする立場は、「草木国土悉皆成仏」という言葉で概念化されて広く流通しました。人以外の生物や「非情(心を持たない)」という分類で把握される草木が人と同じように成仏できるのかという問題は、仏教発祥地のインドでは主要な問題とはならず、初期仏教で最大の関心事は、人はいかに生きるべきか、という問題でした。「草木国土」のような人を取り巻く存在に視線が向けられ、その救済が議論されるようになったのは、アジア東部に定着した大乗仏教においてでした。

 隋代の天台智は「一念三千」という法門を説き、この世界のあらゆる存在に仏性が遍く行き渡っていると論じ、草木や国土の成仏を肯定するための理論的基盤が確立されました。これを万物の成仏という方向に展開したのが平安時代前期の天台僧安然で、初めて「草木国土悉皆成仏」という言葉が生み出され、その延長線上に仏国土=浄土とする本覚思想が開花します。本覚思想では、理想世界は認知不可能な異次元空間に存在したり、現実の背後に隠れたりしているわけではなく、眼前の光景が浄土でした。室町時代には、古い道具が妖怪に変身する付喪神が絵画として表現されるようになりますが、これもそうした時代思潮を背景としていました。

 上述のように、古代において山に神が棲むという観念は一般化していても、山そのものを神とする見方はまだなく、山をまるごと御神体として遥拝する信仰形態の普及は、自然にカミを見出す「草木国土悉皆成仏」の理念が浸透する中世後期になって初めて可能となる現象でした。日本的な自然観の典型とされる山を神とみなす思想は、太古以来の「アニミズム」の伝統ではありませんでした。記紀神話における山の人格化は、人と自然を同次元の存在として、対称性・連続性の関係で把握する発想に基づいていました。人々が山に畏敬の念を抱いても、タマ(霊)が宿っているから山を拝むという発想は、古代には存在しませんでした。一方、神体山の信仰は、カミの自然への内在化という過程を経て出現する、高度に抽象化された中世の思想を背景としていました。「草木国土悉皆成仏」の思想は室町時代の芸術諸分野に広く浸透しました。

 内在するカミという概念は、中世前期には抽象的な理念の段階に留まっており、万人をカミに引き上げる論理として現実に機能することは殆どありませんでした。人のカミへの上昇(ヒトガミ)は、中世前期には聖徳太子など選ばれた人に限られており、それも本地垂迹の論理により彼岸の本地仏との関係で説明され、一般人はまだ救済の対象でした。しかし、中世後期には現実の光景と超越的存在との境目が次第に曖昧化し、現実の人がありのままの姿で仏だと強調され、そうした認識が思想界の主流を占めるようになります。これは、彼岸の超越的存在に媒介されない、新たなヒトガミの誕生を意味します。人は救済者の光を浴びてカミに上昇するのではなく、自らに内在する聖性によりカミになる、というわけです。これは仏教の世界に留まらず、中世後期にはまだ権力者や神官など特殊な人物に限定されているものの、古代の天皇霊とは異なり、人が自らの意志により生きたまま神に上昇できるようになります。神は誰もがじっさいに到達可能な地位とされ、神と人との距離は接近します。こうした思潮を神祇信仰で理論化したのが、吉田神道の祖とされる吉田兼倶でした。

 世俗社会の普通の人が実は神仏の姿そのものとの認識は、聖性発現によりカミへの上昇を目指す宗教的実践の軽視に結びつきました。これにより大きな問題となったのが、信仰の世界への世俗的要素の侵入です。中世において、寺社勢力の組織化と広大な荘園領有といった世俗化が進展した一方で、信仰世界から世俗的要素を締め出そうとする傾向も強くありました。しかし、中世後期における聖俗の緊張関係の弛緩は、信仰の世界への世俗的要素侵入の道を開きました。

 こうした理想世界と現世との一体化は、現実社会を相対化して批判する視点の喪失をもたらしました。中世前期に見られた信仰至上主義と信心の純粋化を目指す運動は、俗権に対する教権の優位を主張するとともに、信仰世界に向けられた権力の干渉の排除を指向しました。支配権力の意義は正しい宗教を庇護することにあり、その任務を放棄すれば、支配権力は正統性を失い、死後には悪道に堕ちることさえ覚悟しなければなりません。中世の文献に多数出現する天皇の堕地獄譚は、そうした思想状況を背景としていました。しかし、根源神が眼前の自然に溶け込んでしまうと、宗教者がカミの権威を後ろ盾としてこの世界の権力を相対化するような戦略は取れなくなりました。浄土が現世と重なりあったため、理想の浄土に照らして現状を批判するという視座も取れませんでした。この世に残ったカミからは、その聖性の水源が枯れてしまったことを意味するわけです。

 彼岸の根源神を背後に持たない日本の神仏には、もはや人々を悟りに導いたり、遠い世界に送り出したりする力はなく、神も仏も人々のこまごまとした現世の願いに丹念に応えていくことに、新たな生業の道を見出していきます。誰もがカミになれるので、より強大な権力を握る人物が、より巨大なカミになる道が開けました。中世前期のように他界の絶対者の光に照らされたカミになるわけではなく、中世後期には自らの内なる光源によりヒトガミが発生しました。その光源には、身分や地位や権力といった世俗的要素が入り込み、やがて主要な地位を占めるに至ります。

 聖俗の境界の曖昧化は、差別の固定化にもつながりました。とくに問題となったのは「穢れ」で、中世には社会の隅々にまで穢れ観念が浸透します。中世前期には、神が垂迹することは万人をはぐくみ助けるためで、本地の慈悲の心が垂迹にまとわりついた習俗としての忌に優先する、と考えられました。平安時代中期以降、女性は穢れた存在との見方が広まり、清浄な山への立ち入りが制限されていきましたが(女人結界)、いわゆる鎌倉仏教の祖師たちは、法然や親鸞のように女人罪障の問題にほとんど論及せず、弥陀の本願による平等の救済を強調するか、道元のように女性固有の罪障や女人結界そのものを否定しました。

 日本における穢れの禁忌は、その対極にある神仏との関係において肥大化し、中世において穢れ意識を増幅させるこの世の神仏とは、彼岸の仏の垂迹に他なりませんでした。禁忌に拘束されない事例は、いずれも垂迹の背後の本地仏=根源的存在の意思が働いたためでした。穢れ意識が拡大し、差別の網の目が社会に張り巡らされるかのように見える中世において、彼岸の根源的存在との間に直結した回路を設けることで、差別を一気に無化していく道筋が承認されていたわけです。しかし、不可視の彼岸世界と絶対的な救済者の現実感が褪色していくにつれて、本地仏の力により差別を瞬時に克服する方途は次第に縮小していき、社会において特定の身分と結びついた穢れと差別意識の固定化につながりました。その延長線上に、社会の穢れを一手に負わされた被差別民が特定の地区に封じ込められ、その刻印を消し去る道がほぼ完全に封じられた、近世社会が到来します。

 中世後期に進展する本源的存在の現実感の希薄化(彼岸の縮小と救済者としての本地仏に対する現実感の喪失)は、人々の関心を再び現世に向かわせます。彼岸の浄土は、もはや人々に共有されることはなく、人々を惹きつけてきた吸引力が失われていきます。近世にも浄土信仰はありましたが、仏の来訪はほとんど問題とされず、超越者からの夢告も重視されなくなり、個人的体験としての来迎仏=生身仏との遭遇が信仰上の価値を失い、仏像などの定型化した形像の役割が再浮上してきます。

 中世前期には、大半の人にとって現世での生活よりも死後の救済の方が切実な意味を持ち、来世での安楽が保証されるなら、この世の生を多少早めに切り上げてもよい、と考えられていました。不安定で流動的な生活と、死の危険に満ちた社会が、現世を相対化する認識の背景にありました。こうした世界観が中世後期に大きく転換する背景として、惣と呼ばれる地縁共同体が各地に生まれ、全構成員により村落運営が決定されるようになったことがあり、人々の土地への定着と、先祖から子孫へと継承される「家」の形成が庶民層まで下降しました。こうして、突然落命する危険性は中世と比較して大きく減少し、この世の生活自体がかけがえのない価値を有している、との見方が広く定着しました。浮世での生活を精一杯楽しみ、死後のことは死期が近づいたら考えればよい、という近代まで継続する新たな世界観と価値観が形成されたわけです。

 この中世後期に起きた世界観の旋回は、人生観だけではなく、死後世界のイメージも大きく転換させました。他界浄土の現実感が失われた結果、死者は遠い世界に旅立たなくなり、死後も懐かしい国土に留まり、生者と交流を継続することが理想と考えられるようになりました。カミだけではなく死者の世界でもこの世への回帰が開始され、冥界が俗世の延長として把握されるようになり、現世的要素が死後世界に入り込んでくるようになります。こうした転換を承けて神や仏が新たな任務として見出したのが、この世に共生する人と死者の多彩な欲求に応えていくことでした。とげ抜き地蔵や縛り地蔵などさまざまな機能を持ったカミが次々と誕生し、「流行神」が生まれては消えていきました。他界への飛翔を実現すべく、垂迹との邂逅を渇望して一直線的に目的地を目指した中世前期の霊場参詣とは異なり、平穏で満ち足りた生活を祈りながら、娯楽を兼ねて複数の神仏を拝む巡礼が、中世後期以降の霊場信仰の主流となります。

 中世前期には、彼岸の浄土とこの世の悪道の二者択一を死者は求められましたが、死後世界のイメージの大きな転換に伴い、そのどちらにも属さない中間領域が出現し、中世後期には急速にその存在感を増していきます。救済がまだ成就しない者たちは山で試練を受けている、といった話が語られるようになります。こうした中間領域など死後世界の世俗化が進み、死後の理想の在り様が生者の願望に引きつけて解釈されるようになり、人がこの世において生死を繰り返すだけで、どこか別の世界に行くことはない、との語りも登場します。仏はもはや人を他界に誘うことも、生死を超えた悟りへと導くこともなく、人が生死どちらの状態でも平穏な生活を送れるよう、見守り続けることが役割となります。

 近世人は、他界浄土の現実感を共有できず、遠い浄土への往生を真剣に願うことがなくなります。近世人にとって、人から人への循環を踏み外すことが最大の恐怖となり、その文脈で地獄など悪道への転落が忌避されました。ただ、いかに彼岸の現世化が進んだとはいえ、檀家制度が機能して仏教が圧倒的な影響力を有していた近世には、死者は仏がいて蓮の花の咲く浄土で最終的な解脱を目指して修行している、という中世以来のイメージが完全に消え去ることはありませんでした。しかし、幕末に向かうにつれて他界としての浄土のイメージがさらに希薄化すると、死後世界の表象そのものが大きく変わり、死者の命運をつかさどる仏の存在がさらに後景化し、ついには死後の世界から仏の姿が消え去ります。こうした世俗化の中で、近世には妖怪文化が開花し、妖怪は現実世界内部の手を伸ばせば触れられるような場所に、具体的な姿形で居住する、と描かれました。

 死者がこの世に滞在し、俗世と同じような生活を送ると考えられるようになると、死者救済の観念も変わっていきます。死者がこの世に留まるのは、遠い理想世界の観念が焼失したからで、死者を瞬時に救ってくれる絶対的な救済者のイメージが退潮していきます。仏はもはや人を高みに導く役割を果たさず、死者を世話するのはその親族でした。中世後期から近世にかけて、死者供養に果たす人の役割が相対的に浮上し、それは「家」が成立する過程と深く連動していました。この動向は支配階層から始まり、江戸時代には庶民層にまで拡大していき、江戸時代後期には裕福な商人層や上層農民からより下層へと降りていきます。死後の生活のイメージも変化し、生者が解脱を求めなくなるのと同様に、死者も悟りの成就を願わなくなり、世俗的な衣食住に満ち足りた生活を理想とするようになります。死者の安穏は遥かな浄土への旅立ちではなく、現実世界のどこかしかるべき地点になりました。「草葉の陰で眠る」というような死者のイメージが、近世には定着していきます。

 親族が死者の供養を継続するには、死者を記憶し続けることが不可欠でした。これにより、死者は次第に生前の生々しい欲望や怨念を振り捨てて、安定した先祖にまで上昇できる、と信じられました。中世には墓地に埋葬者の名が刻まれることはなく、直接記憶する人がいなくなると匿名化しました。死者は、その命運を彼岸の仏に委ねた瞬間に救済が確定するので、遺族が死者の行く末を気にする必要はありませんでした。しかし、遺族が供養を担当するようになると、死者が墓で心地よく眠り続けるために、生者の側がそのための客観的条件を整えねばならなくなります。墓は、朝夕にありがたい読経の声が聞こえる、寺院の境内に建てられる必要がありました。近世初頭には、墓地を守るための多数の寺院が新たに造営されました。さらに、縁者は死者が寂しい思いをしないですむよう、定期的に墓を訪問したり、時には死者を自宅に招いたりしなければなりませんでした。こうした交流を通じて、死者は徐々に神の段階=「ご先祖さま」にまで上昇する、と信じられました。死者は、中世には救済者の力により瞬時にカミに変身しましたが、近世には生者との長い交渉の末にカミの地位に到達しました。

 ただ、全ての死者が幸福な生活を送ったわけではなく、近世でも冷酷な殺人や死体遺棄や供養の放棄など、生者側の一方的な契約不履行は後を絶ちませんでした。そのため、恨みを含んで無秩序に現世に越境する死者も膨大な数になった、と考えられました。こうした恨みを残した人々は、幽霊となって現世に復讐に現れる、と考えられました。中世にも未練を伸してこの世をさまよう死霊はいましたが、大半は権力者のような特別な人物で、その結末は復讐の完結ではなく、仏の力による救済でした。近世には、誰でも幽霊になる可能性があり、その目的は宗教的な次元での救済ではなく、復讐の完遂でした。


●近世から近代へ

 上述のように、近世には誰もが自らの内なる光源によりカミとなれ、それは俗世の身分や権力を強く反映するものでした。近世初頭にまずカミとなったのが最高権力者である豊臣秀吉や徳川家康といった天下人だったことには、そうした背景がありました。天下人に続いて近世において神として祀られたのは、大名や武士でした。近世後期になると、カミになる人々の階層が下降するとともに、下からの運動で特定の人物が神にまで上昇する事例も見られ、その一例が天皇信仰です。以前よりも下層の人物がカミと崇められるようになった事例としては、治水工事などで人柱となった者がいます。人柱は古代にもありましたが、それは多くの場合、神からの供犠の要求でした。一方、近世の人柱は、神に要求されたからではなく、同じ村落などの他者への献身のためでした。また、こうした覚悟の死ではなく、日常の些細な問題を解決してくれた人が、神に祭り上げられることもあり、頭痛や虫歯など多彩な効能を持つヒトガミが各地に出現しました。近世後期には、誰もが状況によりカミとなれる時代で、世俗社会に先駆けて、神々の世界で身分という社会的縛りが意味を失い始めていました。

 幕末には世俗ではとくに他界身分ではない人々がイキガミとされ、そのイキガミを教祖としてさまざまな「民衆宗教」が誕生しました。それは黒住教や天理教や金光教などで、教祖は自ら神と認めていたものの、神としての権威を教祖が独占することはなく、広く信徒や庶民に霊性を見出だそうとしました。こうした理念が直ちに身分制撤廃といった先鋭的な主張に結びつくわけではなく、それぞれの分に応じて勤勉に励むことでより裕福になれる、という論理が展開されました。しかし、神人同体観な基づく人としての平等が主張され、その認識が社会に根づき始めていたことは重要で、富士講に身分を超えた参加者がいることに、幕府は警戒するようになります。

 これと関連して、近世には石田梅岩などにより通俗道徳が庶民層にも流通します。これを封建社会の支配イデオロギーと見ることもできるかもしれませんが、近代社会形成期に特有の広範な人々の主体形成過程を読みとる見解もあります。こうした石門心学などの思想には、人に内在する可能性を認めて社会での発現を是とする、民衆宗教と共通する人間観があり、近世に広く受容された、善としての本性を回復すれば全ての人間が聖人になれると説く朱子学や、人が持つ本源的可能性を肯定し、その回復のための実践を強調する陽明学とも共通していました。自分の職分の遂行により自らを輝かすことが肯定されるような新しい思潮は、近世後期の社会に着実に広がり始めていました。

 一方、誰もが自らの内なる光源でカミに上昇できる、との観念が広く定着した近世後期には、まったく異なる文脈で人をカミに上昇させようとする論理が次第に影響力を増していきました。それは、山崎闇斎に始まる垂加神道と、それに影響を与えた吉田神道が主張する、天皇への奉仕により死後神の座に列なることができる、という思想です。吉田神道や垂加神道では、特定の人物の霊魂に「霊神」・「霊社」号を付与して祀ることが行なわれていました。その系譜から、天皇との関係において人を神に祭り上げる論理が生み出され、実践されていきます。この場合の天皇の聖性は、上述の下からの運動による天皇信仰とは似て非なるものでした。庶民が心を寄せる小さな神々の一つだった天皇とは異なり、垂加神道における天皇は人をカミに上昇させる媒体として位置づけられ、通常の神々を凌ぐ強い威力の存在とみなされました。垂加神道では、肉体は滅びても霊魂は永遠に不滅で、生前の功績により人は神の世界に加わることができ、霊界でも現実世界と同様の天皇中心の身分秩序が形成されていました。天皇に対する献身の度合いによっては、現世の序列を一気に飛び越えることも可能になったわけです。垂加神道は、死後の安心を天皇信仰との関わりにおいて提起した点で、画期的意味を持ちました。

 幕末に向けての、こうしたヒトガミもしくはイキガミ観念の高揚も、民衆宗教と同様に、人の主体性と可能性を積極的に肯定しようとする時代思潮の指標とみなせます。垂加神道では天皇、民衆宗教では土着の神という相違点はありましたが、仏教やキリスト教など外来宗教のカミではなく、日本固有の(と考えられていた)カミが再発見されていくわけです。人々の肯定的な自己認識と上昇指向は、19世紀には幕藩体制下での固定化された身分秩序を負の制約と感じる段階にまで到達していました。現実の秩序を一気に超越しようとする願望は、民衆の深層意識の反映でした。

 こうした時代思潮を背景にした幕末維新の動乱は、単なる政治闘争ではなく、長期間の熟成を経た新たな人間観のうねりが既存の硬直化した身分制度に突き当たり、突き破ろうとする大規模な地殻変動でした。明治維新の原動力として、ペリー来航を契機となる日本の国際秩序への組み入れや、下級武士の役割は重要ではあっても副次的要因にすぎず、幕末維新期の動乱の根底には、多様な階層の人々が抱いていた差別と不平等への不満と、そこからの解放欲求がありました。それは明治時代に、自由民権運動などの民衆運動に継承されていきます。

 幕藩体制崩壊後、ヒトガミ指向が内包していた民衆の能動性を国家側に取り込み、国民国家を自発的に支える均質な「国民」を創出するとことが、新たに誕生した天皇制国家の最重要課題となりました。維新政府の政策は、ヒトガミに祀られることを希望するという形で噴出していた人々の平等への欲求と、新国家の精神的な機軸とされたてんのうに対する忠誠とを結びつけることでした。維新政府は、身分を超えた常備軍=国民軍を創出し、その任務を全うして天皇に命を捧げた者は神として再生し、永遠に人々の記憶に留められる、という招魂社の論理を採用しました。招魂社の源流は長州藩にあり、多様な階層の人々が同じく慰霊されました。これが靖国神社へとつながります。人々の上昇と平等化への欲求が、天皇に対する帰依に結びつけられたわけです。

 上述のように、近世には死者が祖霊となるまで供養を続けることが、慰霊の必須要件でしたが、幕末になっても独自の「家」を形成できない身分・階層は多く、そうした人々が、近代国家では天皇のために死ぬことにより、国家の手で神として検証されるわけです。靖国神社は、近世以来のヒトガミ信仰の系譜を継承しながら、近代天皇制国家に相応しい装いで誕生しました。近代天皇制国家において、天皇は民衆を神に変える唯一の媒体である必要があり、近世の国学で提唱され広がった、身分を超えて人々を包摂する特別の地としての「皇国」観念が、そうした方向を裏打ちしました。そのため、元首や統治機構の世俗化を伴う近代国民国家形成の一般的傾向とは対照的に、日本において君主たる天皇の地位が色濃い宗教性を帯びることになりました。近代天皇制国家の宗教性の背景として、日本社会の後進性(成熟した市民社会の不在)に原因を求める見解もありましたが、日本でもヨーロッパでも近代国家成立期の時代背景にあったのは、身分制に対する大衆水準での強い厭悪感情であり、発展段階の差異というよりは、国民国家に向けての二つの異なる道筋と把握できます。

 近代天皇制国家は、人をヒトガミへと引き上げるもう一つの装置である民衆宗教を、淫祠邪教として排撃することで、民衆聖別の権限を独占しようとしました。とくに、大本教や金光教など、天照大神を中核とする天皇制の世界観とは異なる神々の体系を持つ教団に対する圧迫は徹底していました。近代日本ではその当初より、ヒトガミ信仰に現出する民衆の主体性を根こそぎ国家側に搦め捕ろうとする政府と、国家によるヒトガミ創出の占有に抵抗する民衆宗教など在野勢力との激しい綱引きが続きました。

 近代西欧において、世俗権力相対化の役割を果たしたのがキリスト教で、中世から近代の移行に伴って宗教は政治の表舞台から姿を消し、私的領域を活動の場とするようになりました。しかし、その機能は近代社会において「国家権力の犯しえぬ前国家的な個人の基本権」として継承され、発展させられていきました。個々人が最も深い領域で超越的価値(レヒト)とつながっており、それはいかなる権力者にとっても不可侵の聖域でした。近代日本では、現人神たる天皇を何らかの形で相対化できる独立した権威は存在しませんでした。当時、天皇を本当に神とは思っていなかった、との証言は多いものの、表向きには天皇は現人神として神秘化され、その名を用いれば誰も異論を挟めないような客観的状況がありました。天皇の命と言われれば、生命を惜しむことさえ許されませんでしたし、どの宗教団体も、天皇の御稜威を傷つけることは許されず、その権威の風下に立たざるを得ませんでした。

 この背景には、上述のように中世から近世の移行期に起きた宗教勢力の徹底した解体と、宗教的権威の政治権力に対する屈伏がありました。日本は、神や教会の権威そのものが根底から否定されたわけではないヨーロッパとは異なる、というわけです。江戸時代後期から幕末には、幕府などが分担していた政治的権力と権威の一切を天皇に集中するよう、国学者などは目指しました。支配秩序の頂点に立つ天皇を正当化するうえで最も重要とされたのは、外在する超越的存在ではなく、神代以来の系譜を汲む神孫としての天皇自身が見に帯びた聖性でした。こうして、現人神たる天皇が聖俗の権威を独占して君臨する「神国」日本の誕生は準備されました。「神国」の概念はすでに中世で用いられていましたが、それは、仏が遠い世界の日本では神の姿で現れたから、という論理でした。同じ「神国」でありながら、近代のそれは彼岸の超越的存在の前に天皇の機能が相対化されていた中世のそれとは、まったく構造を異にするものでした。

 上述のように、中世にはこの世から分離していた他界が、再びこの世に戻ってきます。この点で古代と近世は同じですが、曖昧な境界のまま死者と生者が混在していた古代に対して、近世では死者と生者の世界が明確に区分され、両者の交渉儀式が事細かに定められました。上述のように、子孫による死者の供養は死者が「ご先祖さま」になるために必須で、祖先の近代天皇制国家も近世以来のこの死者供養を抑圧できず、「ヤスクニの思想」に全面的に吸収しようと試みます。

 中世から近世にかけて世俗社会への転換をもたらしたのは幕府や諸藩で導入された儒学だった、との見解もありますが、因果関係は逆で、現世一元論的な世界観が定着する過程で、それに適合的な生の哲学としての儒学が注目されていった、と考えるべきでしょう。その儒学の大きな問題は、当時の大半の日本人が納得できる死後世界のイメージを提示できなかったことです。日本儒学で大きな影響力を有した朱子学では、人の体は宇宙を構成する「気」の集合により構成され、死ぬとその「気」は離散してその人物の痕跡はやがて完全に消滅し、死後も霊魂は残るものの、遠からず先祖の霊の集合体と一体化する、と考えられました。これは、一部の知識人に受け入れられることはあっても、大衆に広く重用されることは不可能でした。儒学者たちもこの致命的な弱点に気づき、教理の修正を図るものの、仏教が圧倒的に大きな影響力を有する近世において、習俗の水準で大衆の葬送文化に入り込むことは容易ではありませんでした。

 近世の現世主義に対応する体系的な死生観は、仏教以外では国学の系譜から生まれました。とくに大きな役割を果たしたのは平田篤胤で、平田は死後の世界として大国主神が支配する「幽冥」界を想定し、「幽冥」は極楽浄土のように遠い場所にあるのではなく、湖のイ(顕世)と重なるように存在しており、この世から幽冥界を認知できなくとも、暗い場所から明るいところはよく見えるように、幽冥界からこの世はよく見える、と説明しました。平田の想定する幽冥界は、宗教色がきわめて薄く、この世の延長のような場所でした。


●神のゆくえ

 本書はまとめとして、こうした日本におけるカミ観念の変化の原因として、個別的事件や国家の方針転換や外来文化の導入などもあるものの、最も根源的なものは、日本の精神世界の深層で進行した、人々が共有する世界観(コスモロジー)の旋回だった、と指摘します。また本書は、社会構造の変動に伴う世界観の変容が日本列島固有ではなく、さまざまな違いがありつつも、世界の多くの地域で共通する現象であることを指摘します。一回限りの偶然の出来事や外来思想・文化の影響がカミの変貌を生み出すのではなく、社会の転換と連動して、精神世界の奥底で深く静かに進行する地殻変動が、神々の変身という事件を必然のものとする、というわけです。

 「仏教」や「神道」の思想は、基本ソフトとしての世界観によりそのあり方を規定される応用ソフトのような存在だった、と本書は指摘します。これまで、日本列島の思想と文化変容の背景として、仏教の受容が現世否定の思潮を生み出した、中世神話形成の背景に道教があった、ヒトガミ信仰を生み出したのは吉田神道だった、などといった見解が提示されてきました。しかし本書は、この説明の仕方を逆だと指摘します。初めに基本ソフトとしての世界観の変容があり、それが応用ソフトとしての個別思想の受容と展開の在り方を規定する、というわけです。たとえば、日本における初期の仏教受容では、仏教の霊威は全て超人的な力(霊験)で、その威力の源は神と同じく「清浄」性の確保で、悟りへの到達=生死を超えた救いという概念がまったく見られず、この世と次元を異にする他界を想定できない、古代の一元的世界に規定されていました。仏教の因果の理法も人の生死も、この世界の内部で完結し、真理の覚醒といった概念が入り込む余地はありません。

 また本書は、仏教受容が現世否定の思潮を生み出し、浄土信仰を高揚させたわけではない、と指摘します。世界観の展開が大乗仏教の本来の形での受容を可能として、伝統的な神のあり方を変化させた、というわけです。日本の神を日本列島固有の存在と主張しても、それ自体は無意味な議論ではないとしても、そこに神をより広い舞台に引き出すための契機を見出すことはできず、方法としての「神仏習合」も同様です。日本の神を世界とつなげるためには、神を読み解くためのより汎用性の高いフォーマットが求められます。本書は、そうしたフォーマットを追求しています。

 より広く世界を見ていくと、街の中心を占めているのは、神仏や死者のための施設です。それは日本列島も同様で、縄文時代には死者が集落中央の広場に埋葬され、有史時代にも寺社が都市の公共空間の枢要に長く位置していました。現代日本は日常の生活空間から人以外の存在を放逐してしまいましたが、前近代には、人々は不可視の存在や自身とは異質な他者に対する生々しい実在感を共有していました。上述のように、超越的存在と人との距離は時代と地域により異なりましたが、人々はそれらの超越的存在(カミ)の眼差しを感じ、その声に耳を傾けながら暮らしていました。カミは社会システムが円滑に機能するうえで不可欠の役割を担っており、定期的な法会や祭礼は、参加者の人間関係と社会的役割を再確認し、構成員のつながりの強化機能を果たしました。

 人の集団はいかに小さくとも、内部に感情的な軋轢や利害対立が起きます。共同体の構成員は、宗教儀礼を通じてカミという他者への眼差しを共有することで、構成員同士が直接向き合うことから生じるストレスと緊張感を緩和しようとしました。中世の起請文のように、誰かを裁くさいに、人々がその役割を超越的存在に委ねることにより、処罰することに伴う罪悪感と、罰した側の人への怨念の循環を断ち切ろうとしました。カミは人同士の直接的衝突回避のための緩衝材の役割を果たしていました。これは個人間だけではなく、集団間でも同様です。人間中心主義を土台とする近代社会は、カミと人との関係を切断し、人同士が直接対峙するようになります。近代の人間中心主義は人権の拡大と定着に大きく貢献しましたが、個人間や集団間や国家間の隙間を埋めていた緩衝材の喪失も意味します。それは、少しの身動きがすぐに他者を傷つけるように時代の開幕でもありました。

 カミの実在を前提とする前近代の世界観は、人々の死生観も規定していました。現代では、生と死の間に一線を引ける、と考えられています。ある一瞬を境にして、生者が死者の世界に移行する、というわけです。しかし、こうした死生観は、人類史では近現代だけの特殊な感覚でした。前近代では、生と死の間に、時空間的にある幅の中間領域が存在する、と信じられていました。呼吸が停止してもその人は亡くなったわけではなく、生死の境界をさまよっている、と考えられたわけです。その期間の周囲の人々の言動は、背景にある世界観と死生観に強く規定されました。日本列島では、身体から離れた魂が戻れない状態になると死が確定すると考えられており、遊離魂を体内に呼び戻すことにより死者(呼吸の停止した者)を蘇生しようとしました。中世には不可視の理想世界(浄土)が人々に共有され、死者を確実に他界に送り出す目的で追善儀礼が行なわれました。近世には、死者が遠くに去ることなく、いつまでも墓場に住むという感覚が強まり、死者が現世で身にまとった怒りや怨念を振り捨て、穏やかな祖霊へと上昇することを後押しするための供養が中心となりました。

 前近代には、生者と死者は交流を続けながら同じ空間を共有しており、生と死が本質的に異なる状態とは考えられていませんでした。死後も親族縁者と交歓できるという安心感が社会の隅々まで行き渡ることにより、人は死の恐怖を乗り越えることが可能となりました、死は全ての終焉ではなく、再生に向けての休息であり、生者と死者との新たな関係の始まりでした。しかし、死者との日常的な交流を失った現代社会では、人はこの世だけで完結することになり、死後世界は誰も入ったことのない闇の風景と化しました。近代人にとって、死とは現世と切断された孤独と暗黒の世界です。現代日本社会において、生の質を問うことがない、延命を至上視する背景には、生と死を峻別する現代固有の死生観があります。

 これまでに存在したあらゆる民族と共同体にはカミが存在し、不可視のものに対する強い現実感が共同体のあり方を規定していたので、前近代の国家や社会の考察には、その構成要素として人を視野に入れるだけでは不充分です。人を主役とする近代欧米中心の「公共圏」に関わる議論を超えて、人と人を超える存在とが、いかなる関係を保ちながら公共空間を作り上げているのか、明らかにできるかが重要です。これまでの歴史学で主流だった、人による「神仏の利用」という視点を超えて、人とカミが密接に関わりあって共存する前近代の世界観の奥深くに錘鉛を下し、その構造に光を当てていくことが必要です。

 現在、日本列島も含めて世界各地で、現実社会の中に再度カミを引き戻し、実際に機能させようとする試みが始まっているようです。北京の万明病院では、「往生堂」という一室が設けられ、重篤な状態に陥った患者が運ばれ、親族の介護を受けながら念仏の声に送られるというシステムが作り上げられており、敷地内の別の一室では、遺体を前に僧侶を導師として多くの人々が念仏を称え、その儀式は数日間続けられます。一方現代日本の多くの病院では、霊安室と死者の退出口を人目のつかない場所に設けることで、生と死の空間が截然と区別されていますが、臨床宗教師の育成が多くの大学で進められています。

 息詰まるような人間関係の緩衝材として、新たに小さなカミを生み出そうとする動きも盛んです。1990年代以降の精神世界探求ブームはそうでしたし、ペットブームもその無意識の反映と考えられます。現代日本で多く見られるゆるキャラも、現代社会の息詰まるような人間関係の緩衝材で、心の癒しと考えられます。現代日本社会におけるゆるキャラは、小さなカミを創生しようとする試みかもしれません。欧米諸国と比較すると、日本は今でも自然とカミとの連続性・対称性を強く保持する社会です。現代人は、近代草創期に思想家たちが思い描いたような、直線的な進化の果てに生み出された理想社会にいるわけではありません。近代化は人類にかつてない物質的な繁栄をもたらした一方で、昔の人が想像できなかったような無機質な領域を創り出しました。現在の危機が近代化の深まりの中で顕在化したのならば、人間中心の近代を相対化できる長い間隔のなかで、文化のあり方を再考していく必要があります。

 これは、前近代に帰るべきとか、過去に理想社会が存在したとかいうことではありません。どの時代にも苦悩と怨嗟はありましたが、現代社会を見直すために、近代をはるかに超える長い射程の中で、現代社会の歪みを照射していくことが重要になる、というわけです。これまでの歴史で、カミは人にとって肯定的な役割だけを果たしてきたわけではなく、カミが人を支配する時代が長く続き、特定の人々に拭い難い「ケガレ」のレッテルを貼って差別を助長したのもカミでした。カミの名のもとに憎悪が煽られ、無数の人々が惨殺される愚行も繰り返されてきました。人類が直面している危機を直視しながら、人類が千年単位で蓄積してきた知恵を、近代化により失われたものも含めて発掘していくことこそ、現代人に与えられている大切な課題かもしれません。


参考文献:
佐藤弘夫(2021)『日本人と神』(講談社)


https://sicambre.at.webry.info/202110/article_16.html  


夢を諦めない。サン・プラザホームの夢をプラスする家「+Dream(プラスドリーム)」
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雑記帳
2019年07月06日
佐藤弘夫『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ』
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_14.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E5%9B%BD%E3%80%8D%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E8%A8%98%E7%B4%80%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%B8-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%BC%98%E5%A4%AB/dp/4065121264


 講談社学術文庫の一冊として、2018年6月に講談社より刊行されました。本書の親本『神国日本』は、ちくま新書の一冊として2006年4月に筑摩書房より刊行されました。以前、当ブログにて本書を取り上げましたが、制限字数の2万文字を超えてしまったので、前編と後編に分割しました。今週(2019年7月2日)、ウェブリブログの大規模メンテナンスおよびリニューアルにより、制限文字数が約13万文字に増えたので、記事を一つにまとめることにしました。以下、本文です。


 本書の親本を刊行直後に購入して読み、たいへん感銘を受けたので、何度か再読したくらいです。その後、また再読しようと思っていたところ、講談社学術文庫として文庫版後書が付け加えられて刊行されたことを知り、購入して読み進めることにしました。しっかり比較したわけではないのですが、本文は基本的に親本から変更はないようです(誤字の訂正はあるかもしれませんが)。以前、本書を改めて精読したうえで、当ブログで詳しく取り上げるつもりだ、と述べたので(関連記事)、この機会に以下やや詳しく本書の内容について述べていきます。


 本書はまず、現代日本社会における神国・神国思想の認識について論じます。現代日本社会では、神国思想についてある程度共通の認識はあるものの、その内実には揺らぎもあり、何よりも、好きか嫌いか、容認か否定かという立場が前提となって議論が展開されています。しかし、日本=神国の主張が実際にいかなる論理構造なのか、立ち入った考察がほとんどない、と本書は指摘します。神国思想の内容は議論の余地のないほど自明なのか、と本書は問題提起します。神国思想の論理を解明すべき学界では、神国思想は当初、公家政権側が自己正当化のため唱えた古代的思想と評価され、その後、鎌倉時代の公家政権を中世的とみなす見解が有力となり、神国思想も中世的理念と規定されました。しかし、神国思想が古代的か中世的かといった議論はあっても、それぞれの特色についてはまだ統一的見解が提示されていない、と本書は指摘します。本書は、まず現代日本社会における神国・神国思想についての認識を概観し、その認識への疑問を提示した後に、鎌倉時代を中心に神国思想の形成過程と論理構造を解明し、古代とどう異なるのか、鎌倉時代に確立した後はどう展開していったのか、展望します。

 近代の神国思想を代表するのは『国体の本義』で、神としての天皇を戴く日本は他の国々や民族を凌ぐ万邦無比の神聖国家とされました。天皇とナショナリズムこそ近現代日本社会における神国・神国思想認識の核心です。その『国体の本義』は、神の子孫故に外国(異朝)と異なる、との『神皇正統記』の一節を引用します。『神皇正統記』はまず、次のように説明します。この世界(娑婆世界)の中心には須弥山があり、その四方には四大陸が広がっていて、南の大陸を贍部と呼びます。贍部の中央に位置するのが天竺(インド)で、震旦(中国)は広いといっても、天竺と比較すれば「一片の小国」にすぎません。日本は贍部を離れた東北の海中にあります。日本は、釈迦の生まれた天竺からはるかに隔たった辺境の小島(辺土粟散)にすぎない、というわけです(末法辺土思想)。こうした理念は、末法思想の流行にともない、平安時代後期には社会に共有されました。

 13世紀後半のモンゴル襲来を契機に台頭する神国思想と末法辺土思想は、真っ向から対立する、との見解が学界では主流でした。神国思想は、末法辺土思想を克服するために説かれたのだ、というわけです。それは、「神道的優越感」による「仏教的劣等感」の「克服」と解釈されました。しかし、中世における神国思想の代表とされる『神皇正統記』にしても、日本を辺土粟散と位置づけていました。本書は、神国思想が外国を意識してのナショナリズムだったのか、疑問を呈します。神国思想のもう一つの核である天皇も、中世には儒教的徳治主義や仏教の十善の帝王説の立場から相対化されており、天皇を即自的に神聖な存在とする『国体の本義』とは異なります。

 神国思想の解明にさいしてまず重要なのは、日本における神です。日本の神は現代では、日本「固有」もしくは「土着」の存在として認識されています。しかし、古代と現代とでは、神のイメージは大きく異なります。次に、神国思想を「神道」の枠内にとどめず、より広い思想的・歴史的文脈で見ていかねばなりません。日本を神国とする主張は日本の神祇(天神地祇=天地のあらゆる神々)の世界と密接不可分ですが、中世において圧倒的な社会的・思想的影響力を有していたのは仏教でした。また、陰陽道・儒教など多様な宗教世界の全体的構図を視野に入れねばなりません。こうした視点から、本書は中世、とくに院政期と鎌倉時代を中心に、古代から現代にいたる神国思想の変遷とその論理構造を解明していきますが、その前に、そうした変遷と論理構造の前提となった世界観の変容が解説されます。


 本書は、古代における天皇号の確立を重視します。これにより、ヤマト政権の大王とは隔絶した権威が確立され、天皇が神聖化されるにともない、天照大神を頂点とする神々と神話の体系的秩序が形成されました。じゅうらいは、各氏族がそれぞれ神話と祖先神を有していました。律令体制の変容(本書では古代的な律令制支配の「解体」と表現されています)にともない、平安時代後半には、国家の支援を期待できなくなった大寺院が、摂関家や天皇家といった権門とともに荘園の集積を積極的に進め、古代から中世へと移行していきます。有力神社も、荘園を集積したり、不特定多数の人々に社参や参籠を呼びかけたりするようになります。律令制のもとで神社界の頂点にあった伊勢神宮も、御師が日本各地を回り、土地の寄進を募っていました。

 こうした変動は、伊勢神宮を頂点とする神々の序列にも影響を与えました。国家から以前のような保護を受けられなくなった代わりに、相対的に自立した各神社は、浮沈存亡をかけて競争するようになります。日吉神社を中心とする山王神道関係の書物では、山王神こそ日本第一の神と主張され、公然と天照大神を頂点とする既存の神々の秩序に挑戦しました。本書はこうした状況を、神々の世界における自由競争・下剋上と表現しています。春日社(春日大明神)や熊野本宮や石清水八幡宮なども、既存の神々の秩序に挑戦しました。伊勢神宮でも、経済力をつけてきた外宮が、天照大神を祭る内宮の権威に挑戦します。

 こうした神々の世界における自由競争・下剋上的状況で、天照大神というか伊勢神宮内宮の側も、「自由競争」に参加せざるを得なくなります。しかし本書は、これは天照大神にとって悪いことばかりではなかった、と指摘します。かつての天照大神は諸神の頂点に位置づけられていたものの、非皇族が参詣することも幣帛を捧げることも認められておらず、貴族層の間ですら詳しくは知られていませんでした。確固たる秩序の古代から「自由競争」の中世へと移行し、天照大神は伊勢神宮内宮の努力により、日本において広範な支持・基盤を得るようになります。人々の祈願に気軽に声を傾けるようになった天照大神の一般社会における知名度は、古代よりも飛躍的に上昇します。こうした神の性格の変化は天照大神だけではなく、程度の差こそあれ、どの有力神でも同様でした。有力な神々は、各氏族(天照大神の場合は皇族)の占有神から開かれた「国民神」としての性格を強めていった、というわけです。

 このように中世に神々の性格が変容するにつれて、神々は主権者として特定の領域に君臨し、排他的・独占的に支配する存在と主張されるようになります。寺院でも、寺領荘園が「仏土」と称されるようになります。こうした寺社領への侵犯は、仏罰・神罰として糾弾されました。古代にも一定の領域を神の地とする観念は存在しましたが、あくまでも抽象的・観念的で、中世のように可視的な境界線と具体的な数値で示されるものではありませんでした。さらに、古代と中世以降とでは、神への印象が大きく異なっていました。古代の神は常に一定の場所にいるわけではなく、人間の都合だけで会える存在ではありませんでした。古代の神は基本的に、祭りなど特定の期間にだけ祭祀の場に来訪し、それが終わればどこかに去ってしまうものでした。神が特定の神社に常駐するという観念が広く社会に定着するのは、せいぜい律令国家形成期以降でした。一方、中世の神は遊行を繰り返す存在ではなく、常に社殿の奥深くにあって現世を監視し続け、神社やその領地の危急時には、老人・女性・子供などの具体的姿で現世に現れて人々に指示をくだす存在でした。中世の神々は、人々に具体的な姿で現れ、信仰する者には厚い恩寵を与え、自らの意思に反する者には容赦ない罰をくだす、畏怖すべき存在でしたが、全知全能の絶対者ではなく、多彩で豊かな情感を有し、時には神同士の戦闘で傷つき、弱音を吐くこともありました。


 このように、古代と中世とでは、神の性格が大きく変容します。本書は次に、そうした変容がいかなる論理・契機で進行したのか、解説します。神祇界における古代から中世への移行で重要なのは、上述した国家的な神祇秩序の解体と神々の自立でしたが、もう一つ重要なのは、仏教との全面的な習合でした。主要な神々はすべて仏の垂迹とされ、仏教的なコスモロジーの中に組み込まれました。中世の神国思想は、こうした濃密な神仏混淆の世界から生まれました。仏教伝来後しばらく、神と仏が相互に内的な関係を結ぶことはありませんでした。朝廷の公的儀式でも、仏教は原則として排除されていました。しかし、奈良時代になると、日本の神々が仏法の守護神(護法善神)として位置づけられ、神社の周辺に神宮寺と呼ばれる寺院が建立されるようになります。神は煩悩に苦しむ衆生の一人として仏教に救済を求めていた、と信じられるようになります。

 しかし、この時点での主役はあくまでも神社に祀られた神で、寺院はまだ神を慰めるための付随的な施設にすぎませんでした。平安時代後半以降、神宮寺と神社の力関係は逆転します。王城鎮守としての高い格式を誇る石清水八幡宮では、元々はその付属寺院(神宮寺)にすぎなかった護国寺が逆に神社を支配するようになります。日吉社と延暦寺、春日社と興福寺、弥勒寺と宇佐八幡宮などのように、伊勢神宮を除く大規模な神社の大半が寺家の傘下に入り、その統制に服するようになります。こうした神社と寺院の一体化が進行するなか、思想的な水準でも神と仏の交渉が著しく進展します。神仏を本質的には同一とし、神々を仏(本地)が日本の人々の救済のために姿を変えて出現したもの(垂迹)とする本地垂迹説が、日本全域に浸透し、各神社の祭神は菩薩・権現と呼ばれるようになります。鎌倉時代には、ほとんどの神の本地が特定され、天照大神の本地は観音菩薩や大日如来とされました。


 平安時代に本地垂迹説が日本を席巻した背景として、10世紀頃から急速に進展する彼岸表象の肥大化と浄土信仰の流行がありました。死後の世界(冥界・他界)の観念は太古よりありましたが、平安時代前半まで、人々の主要な関心はもっぱら現世の生活に向けられており、来世・彼岸はその延長にすぎませんでした。しかし、平安時代半ば以降、しだいに観念世界に占める彼岸の割合が増大し、12世紀には現世と逆転します。現世はしょせん仮の宿で、来世の浄土こそ真実の世界なのだから、現世の生活のすべては往生実現のために振り向けられなければならない、との観念が定着しました。古代的な一元的世界にたいする、他界─此土の二重構造を有する中世的な世界観が完成したわけです。当時、往生の対象としての彼岸世界を代表するのは、西方の彼方にあると信じられていた、阿弥陀仏のいる西方極楽浄土でした。しかし、それに一元化されているわけではなく、観音菩薩の補陀落浄土・弥勒菩薩の兜率浄土・薬師仏の浄瑠璃世界・釈迦仏の霊山浄土などといった、多彩な他界浄土がありました。とはいえ、真実の世界たる彼岸の存在という確信は、どれも変わりませんでした。

 浄土往生に人生究極の価値を見出した平安時代後半以降の人々にとって、どうすればそれを実現できるのかが、最大の関心事でした。法然の出現前には、念仏を唱えれば往生できるといった簡単な方法はなく、試行錯誤が続いていました。そうした中で、最も効果的と考えられていたのは、垂迹たる神への結縁でした。平安時代後半から急速に普及する仏教的コスモロジーにおいて、日本は此土のなかでも中心である天竺から遠く離れた辺土と位置づけられました。しかも、平安時代後半には末法の世に入った、と信じられていました。こうした中で、末法辺土の救済主として垂迹が注目されるようになります。垂迹たる神が平安時代後半以降の日本に出現したのは、末法辺土の衆生を正しい信仰に導き、最終的には浄土へ送り届けるためでした。そのため、垂迹のいる霊地・霊場に赴いて帰依することが、往生への近道と考えられました。

 仏との親密化・同体化にともない、日本の伝統的な神々は仏教の影響を受け、その基本的な性格が大きく変容していきます。上述したように、日本の神は、律令国家成立の頃より、定まった姿を持たず、祭祀の期間にだけ現れ、終わると立ち去るような、気ままに遊行を繰り返す存在から、一つの神社に定住している存在と考えられるようになりました。律令国家は、天皇をつねに守護できるよう、神を特定の場所に縛りつけました。また、かつては定まった姿を持たない神が、9世紀になると、仏像にならって像を作られるようになります。このように、律令国家成立の頃よりの神の大きな変化として、可視化・定住化の進展が挙げられます。

 もう一つの神の重要な変化は「合理化」です。かつて神々が人間にたいして起こす作用は、しばしば「祟り」と呼ばれ、その時期と内容、さらにはどの神が祟りを下すのかさえ、人間の予知の範囲外とされました。祟りを鎮めるためには、いかに予測不能で非合理な命令でも、神の要求に無条件に従うしかありませんでした。しかし、平安時代半ば頃から、神と人間の関係は変容し始めます。たとえば、返祝詞の成立です。朝廷からの奉献された品々を納受とそのお返しとしての王権護持からは、もはや神が一方的に人間に服従を求める立場にはないことを示しています。神々は人間にとって「非合理的的」存在から「合理的」存在へと変容したわけです。神々の「合理化」は、神の作用を「祟り」から「罰」と表現するようになったことからも窺えます。罰は賞罰という組み合わせで出現する頻度が高く、賞罰の基準は神およびその守護者たる仏法にたいする信・不信でした。神が初めから明確な基準を示しているという意味で、罰と祟りは異質です。神が人間にたいして一方的に(しばしば「非合理」的な)指示を下す関係から、神と人間相互の応酬が可能な関係へと変容したわけです。こうした神々の「合理化」の背景として、本地垂迹説の定着にともなう神仏の同化がありました。本地垂迹説は、単に神と仏を結びつけるのではなく、人間が認知し得ない彼岸世界の仏と、現実世界に実在する神や仏や聖人とを結合する論理でした。救済を使命とする彼岸の仏(本地)と、賞罰権を行使する此土の神・仏・聖人(垂迹)という分類です。垂迹たる神は自らが至高の存在というわけではなく、仏法を広めるために現世に派遣されたので、その威力も神の恣意によるものではなく、人々を覚醒させるために用いられるべきものでした。神の「合理化」はこうして進展しました。古代ローマでも、当初の神は「理不尽」で「非合理的な」存在でした。

 本地垂迹説の流布は、仏と神がタテの関係においてのみならず、ヨコの関係においても接合されたことを意味します。垂迹たる現世の神・仏・聖人の背後には本地たる仏・菩薩がいますが、その本地も究極的には全宇宙を包摂する唯一の真理(法身仏)に溶融するものと考えられていました。個々の神々も本質的には同一の存在というわけです。法身仏の理念は、「神々の下剋上」的風潮において、完全な無秩序に陥ることを防ぐという、重要な機能を果たしました。仏教的な世界像では、現実世界(娑婆世界)の中心には須弥山がそびえ、その上空から下に向かって、梵天・帝釈天・四天王の住む世界があり、その下に日本の神々や仏像が位置づけられていました。日本の神は聖なる存在とはいっても、世界全体から見ればちっぽけな日本列島のごく一部を支配しているにすぎません。また、こうした序列のなかで、仏教や日本の神祇信仰だけではなく、道教の神々も取り入れられ、その順位は日本の神仏よりも上でした。それは、道教的な神々が日本の神仏よりも広範な地域を担当していたからでした。中世の神々の秩序においては、仏教から隔離された純粋な神祇世界に、相互の結合と神々の位置を確認するための論理は見出されませんでした。中世において、日本の神々は仏教的世界観の中に完全に身を沈めることで初めて、自らの安定した地位を占められました。こうして、天照大神を頂点とする強く固定的な上下の序列の古代から、神々が横一線で鎬を削りつつ、仏教的な世界観に組み入れられ、ゆるやかに結合した中世へと移行します。


 こうした古代から中世への思想状況の変容を背景に、本書は古代と中世の神国思想の論理構造と違いを解説していきます。『日本書紀』に初めて見える神国観念は、神国内部から仏教などの外来要素をできるだけ排除し、神祇世界の純粋性を確保しようとする指向性を有している、イデオロギー的色彩の濃厚なものでした。これには、新羅を強く意識した創作という側面も多分にあります。一方、院政期の頃より、神の国と仏の国の矛盾なき共存を認める神国観念が浮上します。仏教の土着化と本地垂迹説の普及を背景として、神仏が穏やかに調和する中世的な神国思想の出現です。

 『日本書紀』の時点では神国観念はそれほど表面に出ておらず、神国という用語が初めてまとまりをみって出現するのは9世紀後半で、その契機は新羅船の侵攻でした。古代の神国思想は、新羅を鏡とすることで確定する領域でした。その後、平安時代中期に日本の観念的な領域(東は陸奥、西は五島列島、南は土佐、北は佐渡の範囲内)が確定し、神国もこの範囲に収まりました。この範囲は、後に東方が「外が浜」へ、西方が「鬼界が島(現在の硫黄島?)」へと移動(拡大)したものの、基本的にはずっと維持されました。もっとも、これらの範囲は近現代のような明確な線というよりは、流動的で一定の幅を有する面でした。また、こうした日本の範囲は、濃厚な宗教的色彩を帯びていました。この範囲を日本の前提として、奈良時代から9世紀後半までの神国観念は、天照大神を頂点とし、有力な神々が一定の序列を保ちながら、天皇とその支配下の国土・人民を守護する、というものでした。本書はこれを「古代的」神国思想と呼んでいます。古代的神国思想の特徴は、仏教的要素が基本的にはないことです。古代において、公的な場での神仏分離は徹底されており、むしろ平安時代になって自覚化・制度化されていきました。

 古代的神国観念から中世的神国観念への移行で注目されるのは、院政期の頃より日本を神国とする表現が急速に増加し始めることです。神国は、古代の神国思想では、天照大神を頂点とする神々により守護された天皇の君臨する単一の空間が、中世の神国思想では、個々の神々の支配する神領の集合体が想定されていました。また、古代では一体とされていた「国家」と天皇が中世には分離します。中世の神国思想の前提には、上述の本地垂迹説がありました。彼岸と此岸の二重構造的な世界観を前提とし、遠い世界の仏が神として垂迹しているから日本は神国なのだ、という論理が中世の神国思想の特色でした。つまり、古代の神国思想とは異なり、中世の神国思想では仏は排除されておらず、むしろ仏を前提として論理が構築されていました。

 その意味で、上述した、神国思想は平安時代後期から広まった仏教的世界観に基づく末法辺土意識を前提として、その克服のために説きだされた、との近現代日本社会における認識は根本的に間違っています。日本が末法辺土の悪国であることは、本地である仏が神として垂迹するための必要条件でした。神国と末法辺土は矛盾するわけでも相対立するわけでもなく、相互に密接不可分な補完的関係にありました。中世の神国思想は、仏教が日本に土着化し、社会に浸透することにより、初めて成立しました。

 また、中世的神国思想は、モンゴル襲来を契機として、ナショナリズムを背景に高揚し、日本を神秘化して他国への優越を強く主張する、との近現代日本社会における認識も妥当ではありません。まず、日本の神祇を仏教的世界観に包摂する論理構造の神国思想は、国土の神秘化と他国への優越を無条件に説くものではなく、むしろ普遍的真理・世界観と接続するものでした。また、釈迦も孔子や日本の神々や聖徳太子などと同様に他界から派遣された垂迹であって、本地仏とは別次元の存在でした。中世的神国思想は、日本とインド(天竺)を直結させ、中国(震旦)を相対化するものではありませんでした。本地垂迹説の論理は、娑婆世界(現世)の二地点ではなく、普遍的な真理の世界と現実の国土を結びつけるものでした。ただ、中世の神国思想に、日本を神聖化し、他国への優越を誇示する指向性があり、鎌倉時代後半からそれが強くなっていったことも否定できません。しかし本書は、神国思想が仏教的理念を下敷きにしていたことの意義を指摘します。

 日本は天竺・震旦とともに三国のうちの一国として把握され、日本が神国であるのは、たまたま仏が神として垂迹したからで、天竺と震旦が神でないのは、神ではなく釈迦や孔子が垂迹したからでした。そのため、日本の聖性と優越が強調されたとしても、それは垂迹の次元でのことでした。日本に肩入れする神仏は垂迹で、日本と敵対する国にも垂迹はいました。垂迹たちの背後には共通の真理の世界が存在し、その次元ではナショナリズム的観念には意味がありませんでした。中世の僧侶が日本を礼賛して日本の神仏の加護を願いつつ、たびたび震旦・天竺行きを志したのも、本地垂迹説の「国際的な」世界観が前提としてあったからでした。上述した、『神皇正統記』における、日本神国で他国(異朝)とは異なる、との主張も、単純に日本の優越性を説いたものではなく、本地としての仏が神として垂迹し、その子孫が君臨しているという意味での「神国」は日本だけだ、と主張するものでした。『神皇正統記』では、日本賛美傾向もあるものの、日本が広い世界観の中に客観的に位置づけられており、その日本観はかなりの程度客観的です。


 中世的神国思想は、モンゴル襲来を契機として、ナショナリズムを背景に高揚し、日本を神秘化して他国への優越を強く主張する、との近現代日本社会における認識は、中世的神国思想がどのような社会的文脈で強調されたのか、との観点からも間違っています。中世において神国思想がある程度まとまって説かれる事例としては、院政期の寺社相論・鎌倉時代のいわゆる新仏教排撃・モンゴル襲来があります。すでにモンゴル襲来前に、「対外的」危機を前提とせずに、中世的神国思想が強調されていたわけです。中世において、神仏が現実世界を動かしているとの観念は広く社会に共有されており、寺社勢力が大きな力を振るったのはそのためでした。院政期に集中的に出現する神国思想は、国家的な視点に立って権門寺社間の私闘的な対立の克服と融和・共存を呼びかけるため、院とその周辺を中心とする支配層の側から説かれたものでした。神国思想の普遍性が活かされているのではないか、と私は思います。

 いわゆる鎌倉新仏教、中でも法然の唱えた専修念仏は、伝統仏教側から激しく執拗な弾圧を受けました。そのさい、しばしば神国思想が持ち出されました。専修念仏者が念仏を口実として明神を敬おうとしないのは、「国の礼」を失する行為で神の咎めに値する、と伝統仏教側は糾弾しました。神々の威光は仏・菩薩の垂迹であることによるのだから、神々への礼拝の拒否は「神国」の風儀に背く、というわけです。末法辺土の日本では存在を視認できない彼岸の仏を信じるのは容易ではないので、末法辺土の日本に垂迹して姿を現した神々・聖人・仏像などへの礼拝が必要とされました。伝統仏教側は、神々の「自由競争」・「下剋上的状況」のなか、礼拝・参詣により人々の関心を垂迹たる神々や仏像のある霊場に向けさせようとしました。しかし法然は、念仏により身分・階層に関わりなく本地の弥陀の本願により極楽往生できる、と説きました。誰もが、彼岸の阿弥陀仏と直接的に縁を結べるのであり、彼岸と此岸を媒介する垂迹は不要どころか百害あって一利なしとされました。法然の思想には本来、現実の国家・社会を批判するような政治性はありませんでしたが、荘園支配のイデオロギー的基盤となっていた垂迹の権威が否定されたことは、権門寺社にとって支配秩序への反逆に他ならず、垂迹の否定は神国思想の否定でもありました。そのため、専修念仏は支配層から弾圧されました。

 モンゴル襲来の前後には、神々に守護された神国日本の不可侵を強調する神国思想が広く主張されました。本書はこれを、ナショナリズム的観念の高揚というより、荘園公領体制下で所領の細分化による貧窮化などの諸問題を、神国と規定してモンゴル(大元ウルス)と対峙させることで覆い隠そうとするものだった、と指摘しています。院政期の寺社相論や鎌倉時代のいわゆる新仏教排撃で見られたように、中世の神国思想はモンゴル襲来よりも前に盛り上がりを見せており、対外的危機を前提とはしていませんでした。寺社相論も鎌倉新仏教への弾圧もモンゴル襲来も、権門内部で完結する問題ではなく、国家秩序そのものの存亡が根底から揺らぐような問題だったため、神国思想が持ち出された、と本書は論じます。中世において、国家全体の精神的支柱である寺社権門の対立は、国家体制の崩壊に直結しかねない問題でした。専修念仏の盛り上がりも、寺社権門の役割を否定するものという意味で、国家的な危機と認識されました。もちろん、モンゴル襲来はたいへんな国家的危機で、支配層たる権門の再結集が図られるべく、神国思想が強調されました。イデオロギーとしての神国思想はむしろ、内外を問わず、ある要因がもたらす国家体制の動揺にたいする、支配層内部の危機意識の表出という性格の強いものでした。

 神国思想は本来、日本を仏の垂迹たる神々の鎮座する聖地と見る宗教思想でしたが、支配層の総体的危機において力説されたように、政治イデオロギーの役割も担わされました。すべての権力が天皇に一元化していく古代とは異なり、中世社会の特色は権力の分散と多元化にありました。多元的な権力から構成される社会において、諸権門をいかに融和させるかが重要な課題となり、神国思想もそうした中世の国家体制を正当化するイデオロギーとして支配層から説きだされた、と本書は推測しています。神国思想が強調されたのは、個別の権門が危機に陥った時ではなく、国家秩序全体の屋台骨が揺らいでいるような時でした。ただ、中世、とくに前期においては、神国思想は民衆を支配するイデオロギーとして強く機能したわけではありませんでした。中世の民衆を束縛した理念は、荘園を神仏の支配する聖なる土地とする仏土・神領の論理だった、と本書は推測しています。国思想は、じっさいの海外交渉ではなく支配層の危機意識の反映だったので、抽象的でした。その背景となる仏教的世界観自体がきわめて観念的性格の強いものだったので、神国思想はなおさら抽象的にならざるを得ませんでした。天竺・震旦・日本から構成される三国世界との認識も観念的で、日本仏教との関わりの強い朝鮮半島が欠落していました。


 本書は次に、神国思想における天皇の占める位置の変遷を解説します。古代では天皇は神国思想の中核的要素でしたが、中世の神国思想では天皇の存在感は希薄です。古代の神国思想は天皇の安泰を目的としましたが、中世では、天皇は神国維持の手段と化し、神国に相応しくない天皇は速やかに退場してもらう、というのが支配層の共通認識でした。その前提として、天皇の在り様の変化があります。律令国家の変容にともない、天皇の在り様も大きく変わります。天皇の政治権力は失墜しますが、形式上は最高次の統治権能保有者たる「国王」であり続けました。それは、他の権力では代替できない権威を天皇が有していたからでした。それに関しては、大嘗祭に象徴される古代から現代まで一貫する権威があった、という説と、即位灌頂のような仏教的儀式に代表される、それぞれの時代に応じた権威があった、という説が提示されています。

 一方、院政期になると天皇がさまざまな禁忌による緊縛から解き放たれて、神秘性を失ってしまう、との見解もあります。天皇は現御神の地位から転落した、というわけです。天皇は、より高次の宗教的権威である神仏の加護なくして存立し得ず、罰を受ける存在でもある、との観念も広く見られるようになりました。つまり、天皇の脱神秘化が進み、天皇はもはや内的権威で君臨できなくなったので、即位灌頂のような新たな仏教的儀式に見られるように、外的権威を必要としたのではないか、というわけです。しかし本書は、天皇に対する仮借なき批判が一般的だったことから、新たな儀式の効果には限界があった、と指摘します。そもそも、即位灌頂は秘儀とされていて、特定の皇統で行なわれていただけで、よく知られていませんでした。即位灌頂き一般的な天皇神秘化の儀式ではなく、特定の皇統による自己正当化の試みの系譜ではないか、と本書は指摘しています。

 古代の神国思想は天皇の存在を前提として正当化することが役割でした。神々の守るべき国家とは天皇でした。中世には、国家的寺社が自立し天皇は権門の一員となりました。しかし、分権化の進行する中世において、とくに体制総体が危機にある時は、天皇が諸権門の求心力の焦点としての役割を果たすには、ある程度聖別された姿をとることが必要でした。古代には天皇が神孫であることは天皇個人の聖化と絶対化に直結していましたが、中世には神孫であることは即位の基礎資格でしかなく、天皇の終生在位を保証しませんでした。これは、中世には古代と異なり、天皇の観念的権威の高揚が天皇個人の長久を目的としておらず、国家支配維持の政治的手段だったことと密接に関連しています。そのため天皇が国王としての立場を逸脱したとみなされた場合は、支配層から批判され、交代が公然と主張されました。天皇は中世には体制維持の手段と化したわけです。古代には国家とは天皇そのものでしたが、中世の国家概念には国土や人民といった要素が含まれるようになり、国家はより広い支配体制総体を指す概念となりました。神孫であることだけでは天皇位を維持できないので、中世の天皇は徳の涵養を強調する場合もありました。

 より高次の宗教的権威が認められ、個人としては激しく批判されることもあった天皇が必要とされ続けたのは、一つには、神代からの伝統と貴種を認められた天皇に代わるだけの支配権力結集の核を、支配層が用意に見つけられなかったからです。権力の分散が進行する中世において、混乱状況の現出を防ぐために、権門同士の調整と支配秩序の維持が重要な課題として浮上しました。天皇が国家的な位階秩序の要を掌握していたのは、単に伝統だからではなく、支配層全体の要請でもありました。したがって、天皇位の喪失は、天皇家という一権門の没落にとどまらず、支配層全体の求心力の核と、諸権門を位置づけるための座標軸の消失を意味していました。既存の支配秩序を維持しようとする限り、国王たる天皇を表に立てざるを得ないわけです。そのため、体制の矛盾と危機が強まるほど、天皇の神聖不可侵は反動的に強調されねばならず、故にそうした時には神国思想も強調されました。

 天皇が必要とされたもう一つの理由は、中世固有の思想状況です。中世では地上の権威を超える権威たる本地仏が広く認められていたので、天皇ではない者が本地仏と直接結びつく可能性もありました。日蓮や専修念仏には、そうした論理の萌芽が認められ、天皇家と運命共同体の公家にとって、天皇に取って代わる権威は絶対に認められないので、新興仏教に対抗するために天皇と神国を表に出しました。武家政権も、中世前期においては荘園体制を基盤とし、垂迹たる神仏への祈祷に支えられていたので、垂迹を経由せず彼岸の本仏と直接結びつくような、日蓮や専修念仏の信仰を容認できませんでした。武家政権が神国思想を否定することは、鎌倉時代の段階では不可能でした。


 このように、神国思想は固定化された理念ではなく、歴史の状況に応じて自在に姿を変えてきました。神国思想はしばしば、普遍世界に目を開かせ、非「日本的」要素を包摂する論理としても機能しました。「神国」の理念を現代に活かすのであれば、安易に過去の「伝統」に依拠せず、未来を見据え、世界を視野に収めてその中身を新たに創造していく覚悟が求められます。日本を神国とみなす理念は古代から近現代に至るまでいつの時代にも見られましたが、その論理は時代と論者により大きな隔たりがありました。その背景には、神国思想の基盤となる神観念の変貌とコスモロジーの大規模な転換がありました。モンゴル襲来以降の神国思想も、決して手放しの日本礼賛論ではありませんでした。中世の神国思想の骨格は、他界の仏が神の姿で国土に垂迹している、という観念にありました。普遍的存在である仏が神の姿で出現したから「神国」というわけです。インド(天竺)や中国(震旦)が神国ではないのは、仏が神以外の姿をとって現れたからでした。

 現実のさまざまな事象の背後における普遍的な真理の実在を説く論理は、特定の国土・民族の選別と神秘化に本来なじみません。中世的な神国思想の基本的性格は、他国に対する日本の優越の主張ではなく、その独自性の強調でした。中世的な神国思想は、仏教的世界観と根本的に対立するのではなく、それを前提として初めて成立するものでした。中世的神国思想において、天皇はもはや中心的要素ではなく、神国存続のための手段でした。神国に相応しくない天皇は退位させられて当然だ、というのが当時の共通認識でした。中世的神国思想には普遍主義的性格が見られます。中世の思潮に共通して見られる特色は、国土の特殊性への関心とともに、普遍的世界への強い憧れです。現実世界に化現した神・仏・聖人への信仰を通じて、誰かもが最終的には彼岸の理想世界に到達できる、という思想的状況において、中世の神国思想は形成されました。

 中世後期(室町時代)以降、日本の思想状況における大きな変化は、中世前期(院政期・鎌倉時代)に圧倒的な現実感を有していた他界観念の縮小と、彼岸─此岸という二重構造の解体です。古代から中世への移行期に、現世を仮の宿と考え、死後の理想世界たる浄土への往生に強い関心を寄せる世界観が成立しました。しかし、中世後期には浄土のイメージが色褪せ、現世こそが唯一の実態との見方が広まり、日々の生活が宗教的価値観から解放され、社会の世俗化が急速に進展します。仏は人間の認知範囲を超えたどこか遠い世界にあるのではなく、現世の内部に存在し、死者が行くべき他界(浄土)も現世にある、というわけです。死者の安穏は遥かな浄土への旅立ちではなく、墓地に葬られ、子孫の定期的な訪れと読経を聞くことにある、とされました。神は彼岸への案内者という役割から解放され、人々の現世の祈りに耳を傾けることが主要な任務となりました。この大きな社会的変化は、江戸時代に完成します。このコスモロジーの大変動は、その上に組み上げられたさまざまな思想に決定的転換をもたらしました。彼岸世界の衰退は、垂迹の神に対して特権的地位を占めていた本地仏の観念の縮小を招き、近世の本地垂迹思想は、他界の仏と現世の神を結びつける論理ではなく、現世の内部にある等質な存在としての仏と神をつなぐ論理となりました。その結果、地上のあらゆる存在を超越する絶対者と、それが体現していた普遍的権威は消滅しました。中世において、現世の権力や価値観を相対化して批判する根拠となっていた他界の仏や儒教の天といった観念は、近世では現世に内在化し、現世の権力・体制を内側から支えることになりました。

 彼岸世界の後退という大きな変動が始まるのは14世紀頃で、死後の彼岸での救済ではなく、現世での充実した生が希求されるようになりました。もっとも、客観的事実としての彼岸世界の存在を強力に主張し、彼岸の仏の実在を絶対的存在とする発想は、中世を通じておもに民衆に受容されて存続しました。一向一揆や法華一揆は、他界の絶対的存在と直結しているという信念のもと、現世の権力と対峙しましたが、天下人との壮絶な闘争の末に、教学面において彼岸表象の希薄な教団だけが正統として存在を許されました。江戸時代にはすべての宗教勢力が統一権力に屈し、世俗の支配権力を相対化できる視点を持つ宗教は、社会的な勢力としても理念の面でも消滅しました。神国思想も、近世には中世の要素を強く継承しつつも、大きく変わりました。近世の神国思想では、本地は万物の根源ではなく「心」とされました。本地は異次元世界の住人ではなく、人間に内在するものとされました。また、近世の神国思想では、垂迹は浄土と現世を結ぶ論理とは認識されておらず、中世の神国思想の根底をなした遠い彼岸の観念は見られません。近世の神国思想では、本地垂迹は他界と現世とを結ぶのではなく、現世における神仏関係となっていました。

 中世的神国思想の中核は、他界の仏が神として日本列島に垂迹している、という理念でした。現実の差別相を超克する普遍的真理の実在にたいする強烈な信念があり、それが自民族中心主義へ向かって神国思想が暴走することを阻止する役割を果たしていました。しかし、中世後期における彼岸表象の衰退にともない、諸国・諸民族をともかくも相対化していた視座は失われ、普遍的世界観の後ろ盾を失った神国思想には、日本の一方的な優越を説くさいの制約は存在しませんでした。じっさい、江戸時代の神道家や国学者は、神国たる日本を絶賛し、他国にたいする優越を説きました。中世的な神国思想では日本の特殊性が強調されましたが、近世の神国思想では、日本の絶対的優位が中核的な主張となりました。

 古代においても中世前期においても、神国思想には制約(古代では神々の整然たる秩序、中世では仏教的世界観)があり、自由な展開には限界があった、という点は共通していました。しかし、近世においては、権力批判に結びつかない限り、神国思想を制約する思想的条件はありませんでした。近世には、思想や学問が宗教・イデオロギーから分離し、独立しました。近世の神国思想は多様な人々により提唱され、日本を神国とみなす根拠も、さまざまな思想・宗教に基づいていました。共通する要素は、現実社会を唯一の存在実態とみなす世俗主義の立場と強烈な自尊意識です。近世の神国思想の重要な特色としては、中世では日本=神国論の中心から排除されていた天皇が、再び神国との強い結びつきを回復し、中核に居座るようになったことです。中世において至高の権威の担い手は、超越的存在としての彼岸の本地仏でした。中世後期以降、彼岸のイメージが縮小し、中世には天皇を相対化していた彼岸的・宗教的権威が後退していきます。近世の神国思想において、本地垂迹の論理は神国を支える土台たり得ず、日本が神国であることを保証する権威として、古代以来の伝統を有する天皇が持ち出されました。

 明治政府は神国=天皇の国という近世の神国思想の基本概念を継承しますが、神仏分離により、外来の宗教に汚されていない「純粋な」神々の世界のもと、神国思想を再編しました。近代の神国理念には、(近世以降に日本「固有」で「純粋な」信仰として解釈された)神祇以外の要素を許容する余地はなく、中世の仏教的世界観も、近世の多様な思想・宗教も排除されました。天皇を国家の中心とし、「伝統的な」神々が守護するという現代日本人に馴染み深い神国の理念は、こうした過程を経て近代に成立しました。近代の神国思想には、日本を相対化させる契機は内在されていませんでした。独善的な意識で侵略を正当化する神国思想への道が、こうして近代に開かれました。

 現代日本社会における神国思想をめぐる議論について、賛否どちらの議論にも前提となる認識に問題があります。日本=神国とする理念自体は悪ではなく、議論を封印すべきではありません。自民族を選ばれたものとみなす発想は時代を問わず広範な地域で見られ、神国思想もその一つです。排外主義としてだけではなく、逆に普遍的世界に目を開かせ、外来の諸要素を包摂する論理として機能したこともありました。神国思想は日本列島において育まれた文化的伝統の一つで、その役割は総括すべきとしても、文化遺産としての重みを正しく認識する義務があります。一方、神国思想を全面的に肯定する人々には、他者・他国に向けての政治的スローガンにすべきではない、と本書は力説します。そうした行為は、神国という理念にさまざまな思いを託してきた先人たちの努力と、神国が背負っている厚い思想的・文化的伝統を踏みにじる結果になりかねません。神国思想は、一種の選民思想でありながら、一見すると正反対な普遍主義への指向も内包しつ、多様に形を変えながら現代まで存続してきました。仏教・キリスト教・イスラム教などが広まった地域では、前近代において、普遍主義的な世界観が主流を占めた時期があります。宇宙を貫く宗教的真理にたいする信頼が喪失し、普遍主義の拘束から解放された地域・民族が、自画像を模索しながら激しく自己主張をするのが近代でした。自尊意識と普遍主義が共存する神国思想に関する研究成果は、方法と実証両面において、各地域における普遍主義と自民族中心主義の関わり方と共存の構造の解明に、何らかの学問的貢献ができる、と予想されます。


 以上が親本の内容となり、以下が文庫版の追加分となります。本書執筆の背景には、異形のナショナリズムと排他主義の勃興、大規模な汚染や大量破壊兵器といった近代が生み出した問題にたいする危機意識がありました。文庫版では、親本よりもこの問題意識が強く打ち出されています。近代化の延長線上にある現代の危機的状況の解決・克服には、近代そのものを相対化できる視座が不可欠で、それは前近代にまで射程を延ばしてこそ可能ではないか、というのが本書の見通しです。以下、親本での内容とかなり重なりますが、文庫版の追加分について備忘録的に取り上げていきます。


 中世には機能の異なる二種類の仏がいました。一方は、生死を超越した救済に民族(的概念に近い分類)・国の別なく衆生を導く普遍的存在で、姿形を持ちません。もう一方の仏は、具体的な形を与えられた仏像で、日本列島の住民を特別扱いし、無条件に守護する存在です。日本の仏は人々を彼岸(他界)の本仏に結縁させる役割を担っていますが、それ自体が衆生を悟りに到達させる力は持ちません。日本に仏教が導入された当初の古代において、死後の世界たる浄土は現世と連続しており、容易に往来できました。このような仏教受容は、人間が神仏や死者といった超越的存在(カミ)と同じ空間を共有する、という古代的なコスモロジーを背景としていました。

 こうした古代的な一元的世界観は、10〜12世紀に転換していきます。超越的存在にたいする思弁が深化して体系化されるにつれてその存在感が増大し、その所在地が現世から分離し始めます。人間の世界(現世)から超越的存在の世界(他界)が自立して膨張します。この延長線上に、現世と理想の浄土が緊張感をもって対峙する二元的な中世的コスモロジーが成立します。至高の救済者が住む他界こそが真実の世界とされ、現世は他界に到達するための仮の宿という認識が一般化しました。言語や肌の色の違いを超えて人々を包み込む普遍的世界が、現実の背後に実在すると広く信じられるようになりました。日本の神や仏像など、現世に取り残されたカミは、衆生を他界に導くために現世に出現した、彼岸の究極の超越的存在(本地仏)の化現=垂迹として位置づけられました。

 日本では古代から中世においてこのようにコスモロジーが転換し、仏教、とりわけ浄土信仰が本格的に受容されます。教理として論じられてきた厭離穢土欣求浄土の思想や生死を超えた救済の理念が、閉じられた寺院社会を超えて大衆の心をつかむ客観的情勢がやっと成熟したわけです。仏教や浄土教が受容されたから彼岸表象が肥大化したのではなく、他界イメージの拡大が、浄土信仰本来の形での受容を可能にしました。コスモロジーの変容が仏教受容の在り方を規定する、というわけです。現世を超えた個々人の救済をどこまでも探求する「鎌倉仏教」誕生の前提には、こうした新たなコスモロジーの形成がありました。このコスモロジーの転換の要因について、本書は人類史の根底にある巨大な潮流を示唆していますが、いずれ本格的に論じたい、と述べるに留まっています。

 神国がしきりに説かれるようになる中世は、多くの人が現世を超えた心理の世界を確信していた時代でした。日本の神は仏(仏像)と同じく、それ自体が究極の真理を体現するのではなく、人々を他界に送り出すことを最終的な使命として、現世に出現=垂迹した存在でした。神の存在意義は衆生を普遍的な救済者につなぐことにあったわけです。こうした世界観では、現世的存在で、他界の仏の垂迹にすぎない神に光を当てた神国の論理は、他国を見下し、日本の絶対的な神聖性と優位を主張する方向らには進みませんでした。神に託して日本の優越性が主張されるのは、世俗的な水準の問題に限られており、真実の救済の水準では、国や民族(的概念に近い分類)といった修行者の属性は意味を失いました。中世の神国思想は普遍的な世界観の枠組みに制約されていたわけです。日本が神国であるのは、彼岸の仏がたまたま神という形で出現したからで、インド(天竺)はそれが釈迦で、中国(震旦)はそれが孔子や顔回といった学者(聖人)だったので、神国とは呼ばれませんでした。

 中世的なコスモロジーは14〜16世紀に大きく転換していきます。不可視の理想世界にたいする現実感が消失し、現世と他界という二元的世界観が解体し、現世が肥大化していきます。人々が目に見えるものや計測できるものしか信じないような、近代へとつながる世界観が社会を覆い始めます。生死を超えた救済に人々を誘う彼岸の本地仏の存在感は失われ、現世での霊験や細々とした現世利益を担当する日本の神や仏像の役割が増大し、日本と外国を同次元においたうえで、日本の優位を主張するさまざまな神国思想が近世(江戸時代)には登場します。

 近世的神国思想では、背景にあった普遍主義の衰退にも関わらず、日本優位の主張が暴走することはありませんでした。その歯止めになっていたのは、一つには身分制でした。国家を果実にたとえると、身分制社会は、ミカンのようにその内部に身分や階層による固定的な区分を有しており、それが国家権力により保証されています。一つの国家のなかに利害関係を異にする複数の集団が存在し、国家全体よりも各集団の利害の方が優先されました。モンゴル襲来にさいして神国観念が高揚した中世においても、モンゴルと対峙した武士勢力に純粋な愛国心があったわけではなく、自らが君臨する支配秩序の崩壊にたいする危機意識と、戦功による地位の上昇・恩賞が主要な動機でした。自分の地位に強い矜持を抱き、命をかけてそれを貫こうとする高い精神性はあっても、愛する国土を守るために侵略者に立ち向かうといった構図は見当たらず、それが中世人の普通の姿でした。愛国心がないから不純だと考えるのは、近代的発想に囚われています。中世の庶民層でも国家水準の発想は皆無で、モンゴル襲来は、日本の解体につながるからではなく、日常生活を破壊するものとして忌避されました。

 近代国家は、内部が区分されているミカン的な近世社会から、一様な果肉を有するリンゴ的社会へと転換しました。近代国家は、全構成員を「国民」という等質な存在として把握します。この新たに創出された国民を統合する役割を担ったのが天皇でした。神国日本は悠久の伝統を有する神としての天皇をいただく唯一の国家なので、他国と比較を絶する神聖な存在であり、その神国の存続と繁栄に命を捧げることが日本人の聖なる使命とされました。普遍主義的コスモロジーが失われ、全構成員たる国民が神国の選民と規定された近代国家の成立により、神国日本の暴走に歯止めをかける装置はすべて失われました。第二次世界大戦での敗北により状況は一変しましたが、ナショナリズムを制御する役割を果たす基本ソフト(コスモロジー)が欠けているという点では、現在も変わりません。

 社会の軋轢の緩衝材としてのカミが極限まで肥大化し、聖職者によりその機能が論理化され、普遍的存在にまで高められたのが中世でした。現世の根源に位置する超越者は、民族・身分に関わりなく全員を包み込む救済者でした。近代化にともなう世俗化の進行とカミの世界の縮小により、人間世界から神仏だけではなく死者も動物も植物も排除され、特権的存在としての人間同士が直に対峙する社会が出現しました。近代社会は、人間中心主義を土台としていたわけです。この人間中心主義は基本的人権の拡大・定着に大きな役割を果たしましたが、社会における緩衝材の喪失も招きました。人間の少しの身動きがすぐに他者を傷つけるような時代の到来です。現在の排他的な神国思想は、宗教的装いをとっていても、社会の世俗化の果てに生まれたもので、その背後にあるのは、生々しい現世的な欲望と肥大化した自我です。自分の育った郷土や国に愛情と誇りを抱くのは自然な感情ですが、問題はその制御です。現在の危機が近代化の深化のなかで顕在化したものであれば、人間中心主義としての近代ヒューマニズムを相対化できる長い射程のなかで、文化・文明を再考することが必要です。これは、前近代に帰れとか、過去に理想社会が実在したとかいうことではなく、近代をはるかに超える長い射程のなかで、近現代の歪みを照射することが重要だ、ということです。


 以上、本書の見解について備忘録的に詳しく取り上げてきました。そのため、かなりくどくなってしまったので、改めて自分なりに簡潔にまとめておきます。神国思想は、神としての天皇を戴く日本を神国として、他国に対する絶対的優位を説いた、(偏狭な)ナショナリズムで、鎌倉時代のモンゴル襲来を契機に盛り上がりました。平安時代後期〜モンゴル襲来の頃まで、日本は釈迦の生まれた天竺からはるかに隔たった辺境の小島(辺土粟散)にすぎない、という末法辺土思想が日本では浸透しており、神国思想は神道的優越感による仏教的劣等感の克服でした。

 本書は、このような近現代日本社会における(おそらくは最大公約数的な)神国思想認識に疑問を呈し、異なる解釈を提示します。神国思想は、古代・中世・近世・近現代で、その論理構造と社会的機能が大きく変容しました。古代のコスモロジーは、人間が神仏や死者といった超越的存在と同じ空間を共有する、というものでした。しかし、古代の神は人間にとって絶対的で理不尽な存在で、人間には祟りをもたらし、予測不能で非合理的な命令をくだしました。また、古代の神は一ヶ所に定住せず、祭祀の期間にだけ現れ、終わると立ち去るような、気ままに遊行を繰り返す存在でした。これも、古代の神の人間にとって理不尽ではあるものの、絶対的存在でもあったことの表れなのでしょう。古代の神は氏族に占有されており、広く大衆に開かれているわけではありませんでした。しかし、律令国家形成の頃より、次第に神は一ヶ所に定住する傾向を強めていきます。中央集権を志向した律令国家により、神々も統制されていくようになったわけです。このなかで、皇祖神たる天照大神を頂点とする神々の整然とした秩序が整備され、天皇は国家そのものとされ、神々が守護すべき対象とされました。古代的神国思想では、仏教的要素は極力排除され、天皇が中核的要素とされました。

 こうした整然とした古代的秩序は、律令制度の変容にともない、平安時代前期に大きく変わります。神社にたいする国家の経済的支援は減少し、神社は皇族や有力貴族・寺院などとともに、荘園の集積に乗り出し、経済的基盤を確立しようとします(荘園公領制)。この過程で、古代的な整然とした神々の秩序は崩壊し、神々の自由競争的社会が到来します。これが古代から中世への移行で、古代から中世への移行期を経て、中世にはコスモロジーも神国思想も大きく変容します。古代から中世への移行期に、神の立場が大きく変わります。かつては一ヶ所に定住せず、人間に祟り、理不尽な命令をくだす絶対的な存在だったのが、一ヶ所に定住し、人間の信仰・奉仕に応じて賞罰をくだす、より合理的存在となります。神の一ヶ所への定住は、集積された各所領の正当性の主張に好都合でした。また、仏像にならって神の像も作られるようになります。古代から中世への神の変化は、合理化・定住化・可視化と評価されます。

 さらに、仏教の浸透、神々の仏教への融合により、かつては人間と神などの超越的存在とが同じ空間を共有していたのに、超越的存在の空間としての彼岸の観念が拡大し、理想の世界とされ、現世たる此岸と明確に分離します。こうしたコスモロジーは、仏教信仰と教学の深化により精緻になっていきました。そこで説かれたのが本地垂迹説で、普遍的真理たる彼岸の本地仏と、その化現である垂迹としての神や仏(仏像)という構図が広く支持されるようになりました。古代において人間にとって絶対的存在だった神は、普遍的真理ではあるものの、あまりにも遠く、人間には覚知しにくい彼岸と、現世の存在たる人間とを結びつける、本地仏より下位の存在となりました。この垂迹は、天竺(インド)・震旦(中国)・日本という当時の地理的認識における各国では、それぞれ異なる姿で現れました。天竺では釈迦、震旦では孔子、日本では神々というわけです。日本が神国との論理は、中世においては、垂迹が神であるという意味においてであり、日本が天竺や震旦より優位と主張する傾向もありましたが、それは垂迹の水準でのことで、本質的な主張ではありませんでした。中世の神国思想は、仏教的世界観を前提とした普遍的真理に基づいており、モンゴル襲来のようなナショナリズム的観念の高揚を契機に主張されるようになったのではありませんでした。じっさい、中世において神国思想が盛んに説かれる契機となったのは、院政期の寺社相論と鎌倉時代のいわゆる新仏教(とくに専修念仏)排撃で、モンゴル襲来よりも前のことでした。このような中世的神国思想は、他国にたいする絶対的優位を説く方向には進みませんでした。また、中世には天皇の権威も低下し、神国思想において天皇は自身が守護の対象というより、体制維持の手段でした。

 しかし、神国思想の前提となるコスモロジーが変容すれば、神国思想自体も大きく変わっていきます。14世紀以降、日本では中世において強固だった彼岸─此岸の構造が解体していきます。彼岸世界の観念は大きく縮小し、此岸たる現世社会が拡大していき、人々が彼岸世界に見ていた普遍的真理も衰退していきます。こうした傾向は江戸時代に明確になり、ナショナリズム的観念の肥大を阻止していた普遍的真理が喪失されたコスモロジーにおいて、自国の絶対的優越を説く主張への歯止めはもはや存在していませんでした。江戸時代(近世)には、さまざまな思想・宗教的根拠で他国にたいする日本の絶対的優位が主張され、天皇がその中核となっていきました。しかし、身分制社会の近世において、身分や階層による固定的な区分の、利害関係を異にする複数の集団が存在していたため、国家全体よりも各集団の利害の方が優先され、神国思想の他国にたいする暴走に歯止めがかけられていました。近代日本は、近世の神国思想を継承しつつ、(近世以降に日本「固有」で「純粋な」信仰として解釈された)神祇以外の要素を排除し、近現代日本社会における(最大公約数的な)神国思想認識が確立しました。近代日本は、全構成員を「国民」という等質な存在として把握します。この新たに創出された国民を統合する役割を担ったのが天皇でした。普遍主義的コスモロジーが失われ、全構成員たる国民が神国の選民と規定された近代国家の成立により、神国思想の暴走に歯止めをかける装置はすべて失われました。


 短くと言いつつ、長くなってしまい、しかもさほど的確な要約にもなっていませんが、とりあえず今回はここまでとしておきます。神国思想の論理構造と社会的機能の変遷を、世界観・思想・社会的状況から読み解いていく本書の見解は、12年前にはたいへん感銘を受けましたし、今でもじゅうぶん読みごたえがあります。ただ、当時から、古代が一元的に把握されすぎているのではないか、と思っていました。もっとも、諸文献に見える思想状況ということならば、本書のような把握でも大過はない、と言えるのかもしれませんが。一向一揆などいわゆる鎌倉新仏教系と支配層との対立的関係が強調されすぎているように思われることも、気になります(関連記事)。戦国時代の天道思想(関連記事)と中世のコスモロジーとの整合的な理解や、今後の日本社会において神国思想はどう活かされるべきなのか、あるいは否定的に解釈していくべきなのかなど、まだ勉強すべきことは多々ありますし、今回はほとんど本書の重要と思った箇所を引用しただけになったのですが、今回は長くなりすぎたので、それらは今後の課題としておきます。

https://sicambre.at.webry.info/201907/article_14.html

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