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「即位の礼」の各国参列者の顔触れに見る“皇室外交”
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/659.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 10 月 04 日 17:56:33: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 平成とは何だったのか _ アメリカの属州化の完遂 投稿者 中川隆 日時 2019 年 9 月 03 日 14:05:01)


「即位の礼」の各国参列者の顔触れに見る“皇室外交”


文春オンライン
文在寅は「即位の礼」に誰を派遣するのか? 各国参列者の顔触れに見る“皇室外交”
西川 恵 2019/10/04
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%96%87%e5%9c%a8%e5%af%85%e3%81%af%e3%80%8c%e5%8d%b3%e4%bd%8d%e3%81%ae%e7%a4%bc%e3%80%8d%e3%81%ab%e8%aa%b0%e3%82%92%e6%b4%be%e9%81%a3%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9f-%e5%90%84%e5%9b%bd%e5%8f%82%e5%88%97%e8%80%85%e3%81%ae%e9%a1%94%e8%a7%a6%e3%82%8c%e3%81%ab%e8%a6%8b%e3%82%8b%e2%80%9c%e7%9a%87%e5%ae%a4%e5%a4%96%e4%ba%a4%e2%80%9d/ar-AAIfxFE?ocid=ientp#page=2


 天皇陛下が即位を国内外に正式に示す「即位の礼」が10月22日に行われる。当日は世界から160国を超える国と国際機関の元首や祝賀使節、代表が参列する。その顔触れには、現在の国際社会における日本の「地位」と「力の所在」とともに、皇室外交の蓄積が映し出される。

 これまで発表された顔触れは、米国のペンス副大統領、中国の王岐山副主席、トルコのエルドアン大統領、トーゴのニャシンベ大統領、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相といった首脳のほか、英国のチャールズ皇太子、オランダのウィレム・アレクサンダー国王、ベルギーのフィリップ国王など、皇室が交流をもってきた各王室の国王、王族たちだ。このうちチャールズ英皇太子とニャシンベ大統領は前回の「即位の礼」(1990年11月)にも列席していて、2回連続の参加となる。


天皇皇后両陛下 ©AFLO© 文春オンライン 天皇皇后両陛下 ©AFLO  
昭和天皇の「大喪の礼」にオランダが王族を参列させなかった理由

 この顔触れの中で、オランダのウィレム・アレクサンダー国王とマキシマ王妃の列席には感慨深いものがある。昭和天皇の「大喪の礼」(1989年2月)のとき、オランダ政府はファン・デン・ブルック外相を参列させたからだ。欧州の王室で、王族を参列させなかったのはオランダだけだった。

 これにはオランダの厳しい対日世論があった。大戦中、日本軍は緒戦で蘭領インドネシアを占領し、オランダの婦女子を含む約9万人の民間人と、約4万人の戦争捕虜と軍属を強制収容所に入れた。占領中、食料不足や風土病で約2万2000人が亡くなった。死亡率は約17%に上り、これはシベリア抑留で亡くなった日本人捕虜の死亡率(約10%)より高かった。

 大戦後、オランダ植民者は一切合切を失って引き揚げた。しかしオランダ政府は、本国のユダヤ人住民やロマが大戦中にドイツから受けた被害は手厚く補償したが、引き揚げ者には何の補償もしなかった。これは引き揚げ者の間に「政府から冷たい仕打ちを受けた」との鬱屈した感情を植え付け、日本への恨みをより深いものにした。そのため、「大喪の礼」の時には、日本に使節を送らないよう求めるデモまで起きた。

「両国のためには出ない方がいいと判断しました」

 その一方で、皇室とオランダ王室は親密な関係にあった。外相を参列させる際、ベアトリックス女王(当時)は明仁天皇、美智子皇后に電話で「私は列席したいが、両国のためには出ない方がいいと判断しました」と伝えた。オランダの反日抗議行動が、日本世論を刺激し、双方の国民感情の悪化に繋がることを懸念したのだ。翌90年の「即位の礼」には自分の名代で現国王のウィレム・アレクサンダー皇太子を参列させたが、やはり女王自身は参列を控えた。

 その後、91年に同女王が国賓で来日し、2000年には明仁天皇、美智子皇后が国賓でオランダを訪問。この中で、両国政府のイニシアチブでさまざまな施策が打ち出され、オランダの対日世論は大きく改善した。幾つかある中から2つ紹介しよう。

オランダ人の元慰安婦に対する「償い事業」

 1つは、オランダの戦争被害者やその家族を日本に招く「平和友好交流計画」だ。この施策は地味ながら、戦争被害者の心を解きほぐす上で大きな効果があった。

 2つ目は、オランダ人の元慰安婦に対する償い事業だ。インドネシアではオランダ人約200人が日本軍によって慰安婦にされていた。駐オランダ日本大使を務めていた池田維氏は、同国もアジア女性基金の「償い事業」の対象に含めるよう本省に要請し、認められた。 

 最終的に元慰安婦と認定された79人に、「アジア女性基金」から1人当たり年間、約300万円の医療・福祉支援が行われた。元慰安婦問題では韓国の例が専ら取り上げられるが、日蘭の間ではすでに区切りがつけられたことはもっと知られていい。

 これらの施策は00年の両陛下の訪蘭に向けて前向きの雰囲気を醸成し、オランダ世論へのインパクトとなったことは間違いないだろう。ウィレム・アレクサンダー国王の参列はこうしたオランダ世論の大きな変化を物語っている。

ベルギーからはフィリップ国王が参列

 また、ベルギーのフィリップ国王の列席も、皇室との深い交流の証だ。「大喪の礼」と90年の「即位の礼」では同国からいずれもボードワン一世国王とファビオラ王妃が列席した。同国王、王妃夫妻は71年にベルギーを訪問した昭和天皇を手厚くもてなしているほか、明仁天皇、美智子皇后とも交流が長い。日本は長期在位にある同国王を、いずれの式典でも最重要の席に就けた。

日本への不満を鎮めた国王のことば

「大喪の礼」終了後のエピソードがある。新天皇、皇后にあいさつをするため、外国の賓客の長い列ができた。あいさつも短くは終わらないから、賓客は立ったまま長く待たせられることになった。すると列のなかから「日本の仕切りが悪い」と不満の声が出た。この時、ボードワン一世国王が「新天皇、皇后は誠実に対応されている。ここはゆっくり待ちましょう」「皇室の文化をじっくりと鑑賞できるのもこういう時間があるからです」と周りに聞こえるように語った。

 最長老格の同国王の言葉に不満は鎮まった。そして国王は宮中の広間のしつらえや、調度品一つ一つについて、周りの外国の賓客に説明した。皇室との交流の中で学んで知識を深めたのだろう、皇室文化への深い造詣をのぞかせた。「あの時の国王の落ち着いた君主としての風格には、心から尊敬の念を抱きました」と、近くで接遇を受け持った外務省OBは語っている。

互いに戦争の“傷”を引き受けて……

 実は、同国王と明仁天皇は似たような境遇にあった。国王の父、レオポルド三世は大戦中、ナチスドイツに無条件降伏し、ドイツの捕虜となった。このことに戦後、国民から批判が起きたのだ。このためレオポルド三世国王は51年に退位し、息子のボードワンに王位を譲った。そして明仁天皇も、昭和天皇が戦争を止められなかったことの重荷を引き受けてきた。同世代で、似たような境遇、そして互いへの敬意が、皇室とベルギー王室の関係を緊密なものにしてきた。

「即位の礼」の2年後、ボードワン一世国王が心不全で逝去したとき、明仁天皇、美智子皇后は葬儀に参列。14年にファビオラ王妃が亡くなったときは、美智子皇后が参列した。

 今回参列するフィリップ国王はボードワン一世国王の甥で、今上天皇、皇后も国王が皇太子だったときの結婚式(99年)に揃って出席している。皇室とベルギー王室の世代を超えた交流の深さを、同国王の参列は示している。

日本重視が鮮明な“大国”

 中国の王岐山副主席の出席は、日中関係の改善の脈絡で説明されている。王副主席は共産党政治局常務委員の経験者で、前回の「即位の礼」に出席した呉学謙副首相は党政治局員だった。これから見ても確かに王副主席の方が格上だ。しかし政治関係だけが中国側の判断根拠ではないように思われる。

 中国外務省の耿爽(こうそう)副報道局長は17年12月、明仁天皇の退位日が決まったことに絡み、92年10月の天皇訪中について「中日関係を発展させるために前向きの貢献をされた」と述べた。これは天皇訪中に対する初めてのコメントで、中国政府の公式結論と言えるだろう。これから窺えるのは、両国関係に皇室が果たした役割、さらには「慰霊の旅」に象徴される皇室の平和志向への評価が王副主席の列席を後押ししたのだろう、ということだ。

 米国はトランプ大統領が5月に国賓で来日しており、大統領に続くペンス副大統領の参列は日本重視以外の何ものでもない。89年の「大喪の礼」のときはブッシュ大統領(父)が、翌年の「即位の礼」にはクエール副大統領が参列しており、これと同じパターンである。

韓国・文在寅大統領は誰を派遣するか?

 さて、韓国はまだ誰を参列させるか発表してない。前の「即位の礼」には姜英勲首相を参列させている。すると順当なところでは李洛淵首相だが、文在寅大統領が昨今の日韓関係冷却化の中でどう判断するか次第だ。閣僚、もしくは韓日議連の姜昌一会長などとなれば大きな格落ちで、ほんの形だけの使節派遣ということになる。

「大喪の礼」のとき、こういうことがあった。ソ連(当時)は儀典上第2位ながら、日本では全く無名のルキヤノフ最高会議幹部会第一副議長を派遣した。ソ連と同じ社会主義だった他の東欧諸国も、右倣えでナンバー2の使節を送ってきた。相互に相談したことは明らかだった。しかし大喪終了後、ブルガリアの使節のタンチェフ国家評議会第一副議長は「これだけの盛儀には元首たるジフコフ議長が訪日すべきだった」と日本側に感想を漏らしたという。以上は、「大喪の礼」を現場で指揮した外務次官の村田良平氏が、その著『回顧する日本外交』で明かしている。

韓国は天皇を政治利用するマイナス面も知っている

 これからすると、韓国は他国がどのようなレベルの祝賀使節を派遣するか見ていて、ぎりぎりまで誰を派遣するか通告してこない可能性もある。米欧、アジア、アフリカなど多くの国が元首、首脳といった高いレベルの祝賀使節を列席させれば、格落ちの使節を派遣した韓国は埋没する。特に米国との関係において、「韓国は日本との折角の関係改善の機会を自分から捨てている」と見られるのは得策ではないだろう。

 また韓国は天皇を過度に政治利用するマイナス面も知っている。李明博大統領(08年〜13年)は政権末期に天皇への謝罪を要求して、日本世論の猛反発を受けた。さらに韓国では皇室が韓国に対して親近感を抱いていることを好感する意見もある。明仁天皇は01年の誕生日の記者会見で「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べ、これは韓国でも大きく取り上げられた。格落ちの使節を送った場合、韓国内から批判が起こる可能性もある。文大統領がどう判断するか注目されるのである。
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%96%87%e5%9c%a8%e5%af%85%e3%81%af%e3%80%8c%e5%8d%b3%e4%bd%8d%e3%81%ae%e7%a4%bc%e3%80%8d%e3%81%ab%e8%aa%b0%e3%82%92%e6%b4%be%e9%81%a3%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9f-%e5%90%84%e5%9b%bd%e5%8f%82%e5%88%97%e8%80%85%e3%81%ae%e9%a1%94%e8%a7%a6%e3%82%8c%e3%81%ab%e8%a6%8b%e3%82%8b%e2%80%9c%e7%9a%87%e5%ae%a4%e5%a4%96%e4%ba%a4%e2%80%9d/ar-AAIfxFE?ocid=ientp#page=2  

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コメント
1. 中川隆[-10636] koaQ7Jey 2019年10月23日 16:33:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2228] 報告

2019.10.23
即位の礼に参列した王族いろいろ 国体と政体
https://golden-tamatama.com/blog-entry-world-royals.html


さて、昨日は即位の礼ですたね。

このようなツィートも。

さて、ワタスが注目したのは各国から来た要人の方々いろいろです。

政体じゃなくて国体の方ですね。

前から書いてる通り、政体とは表の政府。
国体というのは原田武夫さんが言うところの根源的階層。
要するに王室、皇室のことです。

お店で言えば、店のオーナーが国体で、
あれこれ表に立って店を切り盛りしてる番頭さんが政体です。

だから日本の場合。
政体が安倍ちゃんで、
国体が天皇家なのですた。

で、こういう儀式は各国の国体。
王室が来るのでひじょーに面白い。

まず、もちろんイギリスのチャールズ皇太子来ますたね。
右はデンマークのメアリ王妃。

デンマークのフレデリック皇太子とメアリ皇太子妃。
チャールズ皇太子さんのお父さんはフィリップ殿下ですから。
デンマーク王家出身ですよね。

なのでチャールズ皇太子とデンマーク王家は、まぁ、親戚ですよね。
仲良く並んで座ってます。


で、これは前からメルマガの方で前から詳しく書いてますが。
なぜかEUの重要機関とかNATOの重要機関はベルギーにある。

ベルギーのフィリップ国王(右)と王妃来た〜。
やはり格上感が違う。

オランダ ウィレム・アレクサンダー国王、マキシマ王妃も来た〜。
こちらも漂う格上感。


オランダとベルギーは元は同じ国ですた。
ベルギー、オランダ王家というのは、日本の南朝北朝で言うならヨーロッパの南朝なのです。

で、スペイン王家も来た〜。

フェリペ6世、レティシア王妃。
こちらもハプスブルグの流れ。

こちらはヨーロッパの北朝なのですね。


他気になったところで、
スウェーデン グスタフ国王、ヴィクトリア王女。

ノルウェー ホーコン皇太子、ニーハマル大使。

これはモナコのアルベール2世公(左)。


つぉぉ。
バチカンも来た〜。

バチカンのモンテリーズィ枢機卿。
バチカンも信者10億人いる強大な国家です。


そして、政体の方。
以下を見ると今後が分かる。


中国は王岐山クラスが来ますた。
王岐山さんは中国政界では6番目ぐらいの序列です。

アメリカはチャオ運輸長官ですた。
政界では14番目ぐらいの序列と言われてます。

これで分かるのはやっぱり、最前列に座ってたチャールズ皇太子とデンマーク皇太子夫妻。
やっぱり新日英同盟の路線なのか。
今後は日本は、英国シフトするように見える。

そしてアメリカは日本から撤退する。
中国は敵対するでもなし親密になるでもなし。
付かず離れず。

とかなんとか。
そんな感じでしょうか。
https://golden-tamatama.com/blog-entry-world-royals.html

2. 中川隆[-10615] koaQ7Jey 2019年10月24日 10:08:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2250] 報告

2019-10-24

 昨日の、

「ヨーロッパの王室では、男系女系の区別がなく、外国の王室から婿を迎えることもあるのに、日本は〜」

「知るか! というか、そんなアホな権威継承しているから、欧州人は殺し合いばかりやっていたんだろが! 一緒にすんな!」

 の補足ですが、男系女系の区別なく、国境を越えて婚姻を繰り返し、王家が「親戚同士」になった欧州では、それを「口実」に戦争が繰り返されました。


 最も有名なケースは、ノルマンディー公ギヨームのイングランド征服です。ギヨームは、イングランド王エドワード懺悔王の母親が大叔母という、懺悔王と親戚関係にありました。


 懺悔王が崩御すると、ギヨームは縁戚関係を盾にイングランド王位を要求。軍を率いてブリテン島に侵攻。ヘイスティングズの戦いに勝利し、イングランド国王の座に就きます。


 この人物こそが、連合王国(イギリス)初代国王、ウィリアム一世。現在のイギリス女王エリザベス二世の遠い先祖になります。


 上記の事例以外にも、欧州は縁戚関係を口実に他国に侵略する「史実」で溢れています。
 実際には、単に外国を侵略したい状況で、王家の縁戚関係を利用しただけなのでしょう。欧州史を学ぶと、やたら「継承戦争」がついた戦争があることに気が付きません?


 いずれにせよ、「外国の王室と縁戚関係を持てば、平和になる」と思っていたら、大間違い。人間を舐めてはいけません。


 むしろ話は逆で、縁戚関係を口実に「侵略」されるという事例で、人類史は満ち溢れています。


 というわけで、日本の「男系による皇位継承」は、外部の「男」を排除し、外戚や、親戚の王族を作らないため、「皇位」を巡る戦争が起きにくい。もちろん、皇族同士の闘争はありましたが、これは仕方がありません。人間ですから。


 権威と権力を引き離し、かつ外の人間に「皇位」を要求させない。モンゴルのクビライ・カーンにしても、元寇の理由に、

「正当なる日本国の王を玉座に就ける」

 とか何とかいった、ありがちな大義名分は使えなかったわけですね。というか、クビライ以外の誰も使えない。


 日本の男系の皇統は、こう言っては何ですが、本当によくできたシステムです。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12538788650.html

3. 中川隆[-10614] koaQ7Jey 2019年10月24日 10:14:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2251] 報告


2019-10-23 三橋貴明

 昨日、「即位礼正殿の儀」が執り行われ、陛下が即位を内外に宣言されました。


 我が国の皇室は、「少なくとも」二千年以上の長期に渡り、天照大神、瓊瓊杵尊、神倭伊波礼比古命(神武天皇)と神話から繋がり、神武天皇以降は男系の皇統を繋いできた、世界に例を見ない「貴重」な存在です。(「存在」としか言いようがない)

(中川隆註 : 神武東征は 3世紀初頭、天皇一族はソウル出身の漢民族系朝鮮人だというのが歴史学の定説です)


 なぜ、皇統は男系なのか。
 いくつか理由があるとは思います。

 男系の皇統の維持とは、女性排除云々ではありません。これを口にする人は、相当に頭が悪い。
 皇統から排除されてきたのは、むしろ我々日本人の男性です。日本の女性は皇族になる可能性がありますが、男性にはありません。


 結果、日本は歴史的に「権威」と「権力」が分離され、「権威を帯びた権力者」はついに出現しませんでした。


 平安時代に権勢を誇った藤原道長といえども、自分の娘を皇室に嫁がせることはできたものの、そこまで。天皇の祖父になることはできても、父親にはなれませんでした。まして、自ら皇位を襲うことも不可能。
 豊臣秀吉も、戦国時代を統一するという偉業を成し遂げたにも関わらず、関白どまり。

 歴史上、皇位を簒奪しようとした「日本人男性」は何人もいます。蘇我入鹿、道鏡、足利義満などになりますが、なぜかことごとく失敗。

 というわけで、権威を権力から切り離す「男系の皇統」が、日本国にとってベター(ベストじゃないでしょうが)な政体あるいは国体であることが、二千年を超す検証により証明されているのです。


 過去、二千年を超す検証に耐えた「伝統」に、我々、精々が百年しか生きない一人間の脳みそが立ち向かえるはずがないでしょうに。


 NHKの調査では、「女系天皇の意味を知っているか」という調査に対し、「よく知っている」と「ある程度知っている」を合わせた「知っている」は42%にとどまり、「あまり知らない」と「全く知らない」を合わせた「知らない」が52%と多数派を占めました。

 我々は、戦後の愚劣な歴史教育により、日本国民として最も重要な存在について、知識を身に着ける機会を奪われてきた。


 それ以前に「女系天皇」という言葉が間違っています。女系天皇ではなく、「男系ではない天皇」が正しいのです。

 女性宮家にせよ、非・男系天皇にせよ、「外の男」を皇族に迎え入れることになります。日本国は、未だかつて「外の男」を皇族としたことはありません。
 どなたでもいいですが、内親王殿下が一般男性(例えば「三橋」という名字の男)と結婚し、二人の子が次の天皇になると、神武天皇以来の皇統は断絶し、新たに「三橋朝」が始まることになってしまいます。


 さらに言えば、何しろ「グローバリズム」の時代でございますので、内親王殿下が中国人、韓国人と結婚したら・・・? アメリカ人、イギリス人でも同じことですが、我が国の皇統が「外国」に奪われることになります。


 その時点で、日本国のナショナリズムの最強の柱である皇統はおしまいです。

 日本「人民」、つまりは旧・日本国民は「人間」に個別化され、互いに協力することもなく、万人の万人に対する闘争(ホッブス)の世界が始まります。
 分かりやすく書くと、北斗の拳、の「ヒャッハー!」の世界でございますね。



【歴史音声コンテンツ 経世史論】

http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/
※※特別コンテンツ「MMTポリティクス 第三回」が視聴可能となりました。
※12月12−13日、邪馬台国視察ツアー「歴史に魅せられて、マイと辿る邪馬台国への道」開催決定!(三橋貴明、長浜浩明先生、高家望愛さんも同行します)取材の光景は、映像で記録し、特別コンテンツとして配信したいと思います。

 そもそも、皇嗣殿下、悠仁親王殿下という正当な皇統の継承者がいらっしゃるにも関わらず、現時点で女性宮家だ、非・男系天皇だのと言い出す時点で不遜なのです。


 とはいえ、女性宮家やら非・男系天皇やらを主張する、「伝統に逆らう傲慢な勢力」を黙らせるために、現時点で「旧・宮家復活」を検討することは価値があると思います。

『旧宮家男子の皇族復帰を可能に 自民有志の提言案
 安定的な皇位継承に向け、自民党の保守系有志議員による「日本の尊厳と国益を護(まも)る会」(代表幹事・青山繁晴参院議員)がまとめた提言案が20日、分かった。例外なく父方に天皇がいる男系の継承を堅持し、旧宮家の男子の皇族復帰を可能とする皇室典範の改正か特例法の制定が柱。23日に正式決定後、安倍晋三首相や自民党幹部に直接手渡す方針だ。
 提言案では、女性皇族が結婚後も皇室にとどまる「女性宮家」の創設について、婚姻した民間人男性が皇族となり、男系継承の伝統が途切れる女系天皇の呼び水になりかねないことから、否定的な見解を示す。(後略)』

 皇室典範の改正は、やめた方が良いです。一度、皇室典範を改正したという「実績」が出てしまうと、最も重要な、
「第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」
 の改訂に繋がる可能性が生じます。特例法の制定を検討するべきです。


 いずれにせよ、我々日本国民は、皇統に対する攻撃(女性宮家、非・男系天皇等)について、「グローバリズムという疫病の侵略」であると認識するべきです。マスコミやら「識者」やらは、
「外国では〜」
「グローバルでは〜」
 と、「抗体」を持たない日本国民を騙し、グローバリズムという疫病を蔓延させ、我々が日本列島で生きていく上で必須のナショナリズムを破壊しようとしてきます。


「ヨーロッパの王室では、男系女系の区別がなく、外国の王室から婿を迎えることもあるのに、日本は〜」
 といったレトリックには、
「知るか! というか、そんなアホな権威継承しているから、欧州人は殺し合いばかりやっていたんだろが! 一緒にすんな!」
 と、史実に基づき、反論しなければならないのです。「歴史的な知識」もまた、我々が早急に身につけなければならない「抗体」の一つです。


 というわけで、経世史論では「皇統論」に加え、世界各国の歴史を(ランダムに)辿る「歴史時事」と、二つのコースがあるのです。


 我々は歴史を学び、グローバリズムという疫病に対する「抗体」を身に着ける必要があるのです。早急に。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12538513150.html

4. 中川隆[-10613] koaQ7Jey 2019年10月24日 10:22:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2252] 報告

因みに、チャンネル桜に出ている自称専門家は全員完全なアホですね:


神武天皇「以前」 縄文中期に天皇制の原型が誕生した – 2019/9/1
宮崎 正弘 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%8C%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%80%8D-%E7%B8%84%E6%96%87%E4%B8%AD%E6%9C%9F%E3%81%AB%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%9E%8B%E3%81%8C%E8%AA%95%E7%94%9F%E3%81%97%E3%81%9F-%E5%AE%AE%E5%B4%8E-%E6%AD%A3%E5%BC%98/dp/459408270X/ref=sr_1_2?qid=1571879749&s=books&sr=1-2

宮崎正弘(みやざき・まさひろ)
昭和21(1946)年石川県金沢市生まれ。評論家。

著書に『世界は金本位制に向かっている』(扶桑社新書)、『金正恩の核ミサイル』『習近平の死角独裁皇帝は間違いなく中国を自滅させる』(育鵬社)、『余命半年の中国・韓国経済』(ビジネス社)、『地図にない国を行く』(海竜社)、『明智光秀 五百年の孤独』(徳間書店)など多数。


カスタマーレビュー

hij
5つ星のうち3.0
縄文は世界最古の独自文明であることは分かったが... 2019年9月2日

本書は縄文文化に関する体系的な解説書ではなく、各地で発掘された縄文遺跡の探
訪記である。いろいろな学者の説が紹介されているが、著者独自の見解が披歴され
ていないのは物足りない。たとえば神武天皇の即位の年代について、林房雄の縄文
中期説が紹介されている。それによると、天神 7代、地神 5代、ウガヤフキアエズ
朝51代(富士古文書)、その平均在位年数を現代風に30年とすれば 神武以前に63
代1890年あり、神武以後を 2000年あるいは 2500年とすれば天皇の発生は縄文中
期になるというが、根拠薄弱としか言いようがない。まず富士古文書なるものの信
憑性が定かでないうえ、1世代30年なんて単なるあてずっぽうにすぎない。

著者が次に紹介したのは長浜浩明の紀元前70年説である。日本書紀によると神武の
即位は紀元前 660年であるが、長浜は当時の暦は現在の半年が1年だったとし、再
計算した結果 紀元前70年を割り出した。しかし書紀の紀年は ずれのあることがつ
とに指摘されているうえ、暦の長さが違っていたというのも確たる証拠があるわけ
ではない。この説もにわかには信じがたい。

本書は言及していないが、古代天皇の在位年代に関して評者が注目するのは安本美
典説である。

安本は記紀の伝える古代天皇の系譜は正しいと仮定したうえで、在位年代の確かな歴代天皇の在位期間を調べたところ、天皇の在位期間は古代になるほど短くなることがわかった。

その短くなり方は直線的である。その直線の傾きを最小二乗法によって決定する。すると古代天皇の在位期間が一定の確率のもとに推定できる。

この方法によると例えば神功皇后の在位期間が広開土王の在位と重なることがわかり、神功皇后の三韓征伐伝承の史実性を証明できる。

ちなみに神武天皇の即位は三世紀後半になる。

実測値を統計的に処理した安本説は説得力が高い.

5. 中川隆[-10601] koaQ7Jey 2019年10月24日 13:26:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2266] 報告

10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、
仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ
可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係して
いなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、
戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において
戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではない
といえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html

▲△▽▼


昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16

あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。


空港まで車で三宅さんを迎えに行った。


高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。


あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。


天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?
A:朝鮮半島だと思う。
Q:どうしてそう思われますか?
A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。

と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。


いま、あのときの顔を思い出しています。


三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643


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hoh********さん 2016/2/13 01:29:09

神武東征は実際にあったとすれば、西暦何年頃の出来事だと思いますか?


pin********さん 2016/2/13 21:23:55

「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13155826588

6. 中川隆[-10596] koaQ7Jey 2019年10月24日 18:39:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2271] 報告

2019年10月24日
天皇はなぜ「王(キング)」ではなく「皇帝(エンペラー)」なのか


 一昨日(2019年10月22日に即位の礼が行なわれたためか、天皇への一般的関心が高まっているようで、Y染色体を根拠に男系維持を主張したり、中にはろくに理解できずに「神武天皇由来のY遺伝子」と発言したりする人もいますが(関連記事)、この問題に関しては以前述べたので繰り返しません(関連記事)。なお、皇族の天皇というか皇族のY染色体ハプログループ(YHg)について、「縄文系」のD1a2(旧D1b)とする見解がネットではそれなりに浸透しているようですが、皇族(もちろん男性限定です)がYHg- D1a2だと示す確実な証拠はまだ提示されていないと思いますし、そもそもYHg- D1a2のうち、現代日本社会において多数派のD1a2a(旧D1b1)が「縄文系」であると確定したわけではない、と私は考えています(関連記事)。

 天皇への関心が高まる中、表題の記事が公開されました。すべてに突っ込むだけの気力・見識は今の私にはありませんが、そもそも、ローマ帝国に淵源のあるヨーロッパの皇帝概念と、漢字文化圏の皇帝概念とを安易に同一視すべきではないというか、そもそも前者を漢字文化圏の概念である皇帝と訳すこと自体に問題が内包されている、と考えるべきなのでしょう。両者を同一視することで、さまざまな誤認や新たな(あるいは現代日本社会の一部でしか通用しないような)価値観が創出されているのではないか、とも思います。表題の記事も、慣習的かつ儀礼的なもので法的なものではなく、序列が公式に定められているわけでもない、と断りつつも、国際社会において、皇帝である天皇は王よりも格上と見なされる、と述べています。こうした認識と類似した、天皇が「ローマ法王やエリザベス女王より格上の位」との観念は、現代日本社会において一部?の人々の間で常識とされているようですが、現在の各国の君主は基本的に同格で、「序列」は在位年で判断されているものだと思います。異なる歴史的経緯を踏まえた各文化圏の君主号は容易に外国語に翻訳できるようなものではなく、その地位や「格」を自文化の概念で判断することは難しいでしょう。「王」が「皇帝」より格下という観念は、漢字文化圏の前近代的観念を(歪に?)継承したところが多分にあり、現代では破棄すべきと私は考えています。現代日本社会にとって、もはや保守すべきものは「西洋近代」ではないか、というのが最近の私の見解です。

 具体的に表題の記事の問題点をいくつか述べると、近世以降にヨーロッパでは天皇を「皇帝」と呼ぶことが定着した、という指摘です。確かに、『日本誌』では天皇は皇帝と紹介されていますが、一方で征夷大将軍も(世俗の)皇帝とされています。といいますか、近世ヨーロッパにおいて日本は世界7帝国の一つ(他は、ロシア、神聖ローマ、トルコ、ダイチン・グルン、ペルシア、インド)と認識されるようになりましたが(関連記事)、その前から日本の「皇帝」とみなされていたのは、おおむね征夷大将軍(天下人)だったと思います。17世紀前半、ルイス・ソテロはスペイン国王に征夷大将軍を「皇帝」と紹介しており、19世紀初頭、ロシア皇帝からの国書でも、皇帝は征夷大将軍とされていました。

 また表題の記事は、天皇は「皇帝」と名乗らず、「天皇」と名乗った、と述べていますが、天皇とは本来「もう一つの中華世界の皇帝(天子)」に他ならないと思います(関連記事)。養老令(おそらく大宝令でも)儀制令では、日本国君主の称号は場面により天子・天皇・皇帝と使い分ける、と規定されています。天皇と(中華)皇帝との同質性が軽視されているのは、近代になって日本国君主の称号の表記がほぼ天皇に一元化された一方で、中華世界では唐代半ば以降に(おそらくは)君主の称号として天皇号が用いられなかったからなのでしょうが、その近代日本においても、皇帝が用いられることもありました。これは、中世〜近世後期にかけて天皇号は公的には用いられなかったことが、一般にはあまり知られていない(だろう)こととも関連しているのでしょう。

 表題の記事は、天皇は「中国皇帝に対抗する」とも述べていますが、天皇号が正式に採用された後の遣唐使において、日本国君主は天皇とも皇帝とも天子とも名乗っていなかったようです。これは、日本が唐に冊封されていなかったとはいっても、朝貢していたので当然の話で、日本側が唐にたいして皇帝やそれに類する天皇(天武朝とかなり時代の重なる唐の高宗が天皇号を用いています)と称していたら、外交上の大問題となっていたことでしょう。当時の日本は、唐に対して「主明楽美御徳」と称していました(関連記事)。「主明楽美御徳」は「スメラミコト」で、日本国君主の称号の訓読みです。おそらく日本側は、唐にとって馴染みのない称号を用いることで、唐とは対等であるという理念と、唐の朝貢国であるという現実とが大きく齟齬をきたさないように配慮したのでしょう。唐は「主明楽美御徳」を日本国君主(天皇)の名と誤認しています。これも、日本側が意図的に唐に誤解させようとした可能性が高いとは思いますが、唐側もある程度は事情を把握しており、朝貢国の確保のためにあえて理解していないように振舞ったのかもしれません。
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_46.html


▲△▽▼


天皇はなぜ「王(キング)」ではなく「皇帝(エンペラー)」なのか
世界史で読み解く「天皇ブランド」の奇跡
宇山 卓栄
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67945

10月22日、各国から要人が招かれ、天皇陛下が自らの即位を内外に示す「即位礼正殿の儀」が盛大に行われました。


来月11月10日には、台風19号の被害を踏まえ延期された祝賀パレードが、さらに11月14から15日にかけて、「大嘗祭(大嘗宮の儀)」が行われます。

この国家的な祭儀を前に、私たち日本人が最低限知っておきたい皇室の稀有なる歴史を、

『世界史で読み解く「天皇ブランド」』
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F%E3%80%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%80%8D-%E5%AE%87%E5%B1%B1-%E5%8D%93%E6%A0%84/dp/4908117640/ref=as_li_ss_tl?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F&qid=1571654745&sr=8-1&linkCode=sl1&tag=gendai_biz-22&linkId=73aa0fc02d85c5f4e94dcccfa6a567f0&language=ja_JP


の著者が解説します――。

大嘗祭と新嘗祭はここが違う

新嘗祭は毎年行われるのに対し、大嘗祭は天皇1代につき1度だけ行われます。新天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を大嘗祭といいます。

一般的に大嘗祭は新嘗祭の豪華バージョンというイメージがあるかと思いますが、じつは両者はその内容が異なります。


1990年(平成2年)、天皇明仁(上皇明仁)の大嘗祭の様子〔wikipediaより〕
いずれも、稲穂を天照大御神に捧げ、五穀豊穣を祈るということでは共通していますが、新嘗祭では、皇居の御田で天皇陛下自らが育てた稲穂を神に捧げるのに対し、大嘗祭では、国民が育てた稲穂を神に捧げるという点が決定的に異なるところです。

国民が育てた稲穂をあえて使うのは、国民が神と直接に繋がることを天皇陛下が御祈りされるためです。大嘗祭は、天皇陛下が国民の安寧を祈る公的かつ国家的な祭儀です。国事行為ではありませんが、公的な性格を帯びた儀式であるために、公費が支出されます。

今回、大嘗宮の屋根は予算削減のため、萱葺(かやぶき)から板葺(いたぶき)に変更されましたが、大嘗祭のような公的な儀式を倹約するのはいいことなのかどうか、大いに議論の求められるところです。


「令和の大嘗宮」の全体模型〔wikipediaより〕
また、大嘗宮について、「仮設」の建造物とする記述もありますが、そうではありません。神と繋がる祭儀を行う大嘗宮は真新しい御殿でなければならず、1度使った御殿は使い回しません。これは清浄を重んじる精神の現れであり、「仮設」という捉え方とはまったく違うのです。

剥き出しの「黒木造」という皮つき柱が使われ、一見、粗末な柱を使っているように見えますが、これも、自然のままの真新しい木材を尊重するという視点で使われるものです。飾り気のない質素な大嘗宮には、日本独特の美学や歴史的な世界観が表れています。


「天皇」を掲げた古代日本人の国際戦略

現在、世界には27の君主国が残り、王(King)はいるものの、「皇帝(Emperor)」と呼ばれる人物は天皇陛下ただ一人です。

国際社会において、皇帝である天皇は王よりも格上と見なされます。ただし、これは慣習的かつ儀礼的なものであり、法的なものではありません。序列が公式に定められているわけでも決してありません。

「王の中の王たる存在が皇帝」であったという歴史の一般理解の上で、皇帝としての地位が尊重されるということに過ぎません。「皇帝たる天皇は他国の王の上座に座る」などという俗説が流布されていますが、そのような事実はありません。

では、なぜ、天皇はそもそも、王ではなく、皇帝なのでしょうか。「天王」ではなく、「天皇」を名乗ったのはなぜなのでしょうか。


〔PHOTO〕gettyimages
「皇」は王と同じ意味ですが、光輝くという意味の「白」が付いています。「帝」には束ねるという意味があり、統治者を指す言葉です。糸偏をつけた「締」は文字通り、糸を束ねるという意味です。従って「皇帝」とは「世界を束ねる光輝く王」という意味になります。

「皇帝」の称号を最初に使ったのが秦の始皇帝でした。

中国皇帝は各地の王を従えていました。中国の王は皇帝によって、領土を与えられた地方の諸侯に過ぎません。中国皇帝は日本の天皇に対し、そのような一地方の臣下という意味で、「倭王」の称号を授けていました。

7世紀、日本は中央集権体制を整備し、国力を急速に増大させていく状況で、中国に対する臣従を意味する「王」の称号を避け、「天皇」という新しい君主号をつくり出しました。皇国として、当時の中国に互角に対抗しようという大いなる気概が日本にはあったのです。

608年、聖徳太子が中国の隋の皇帝・煬帝に送った国書で「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す)」と記されていました。『日本書紀』に、この国書についての記述があり、これが主要な史書の中で、「天皇」の称号使用が確認される最初の例とされます。

天皇を「日王」と呼ぶ韓国の悲哀

遣隋使の小野妹子が遥々、海を渡り、隋の都・大興城(現在の西安)へ赴きました。その時、携えていた有名な国書があります。「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無しや、云々)」の国書です。

この国書に対し、煬帝から返書があり、さらに、その煬帝の返書に対する返書として、日本から送られたのが、上記の「東天皇敬白西皇帝」の国書です。

日本は「倭王」という中国皇帝に臣従する諸侯という称号を拒否して、「天子」や「天皇」と明記して、国書を差し出したのです。

7世紀後半の第40代天武天皇の時代には、「天皇」の称号が一般的に使われるようになり、孫の文武天皇の時代の702年に公布された大宝律令で、「天皇」の称号の使用が法的に定められます。

ところで、韓国は天皇陛下を「日王」と呼びます。朝鮮時代には、「倭王」と呼んでいました。中国皇帝に服属する朝鮮王が中国皇帝と対等な「天皇」を認めてしまうと、朝鮮は日本よりも下位に置かれてしまうことになるため、「天皇」を頑なに拒み続けたのです。


〔PHOTO〕gettyimages
文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長が2019年2月7日、ブルームバーグのインタビューで、従軍慰安婦問題について、天皇が謝罪すべきと発言しました。

日本のメディアでは、文議長の発言を「天皇」と訳し変えて伝えていますが、文議長は実際には、「天皇」とは言っておらず、「王」と韓国語で言い表しています。

22日の「即位礼正殿の儀」には、韓国から、李洛淵(イ・ナギョン)首相が参列しましたが、日本国の君主を侮辱する韓国は本来、このような場に来るべきではありません。


「皇帝」ではなく「天皇」と称した理由

では、なぜ、天皇は「皇帝」と名乗らず、「天皇」と名乗ったのでしょうか。中国皇帝に対抗するならば、同じ「皇帝」でよかったのではないでしょうか。

中国の神話では、「天皇(てんこう)」・「地皇(ちこう)」・「人皇(じんこう)」の3人の伝説の皇が世界を創造したとされます。その中でも「天皇(てんこう)」は最高神です。道教でも、「天皇(てんこう)」が崇められています。

7世紀半ばに君臨した唐の第三代皇帝の高宗が「天皇」を名乗ります。なぜ、そう名乗ったのかは謎とされていますが、一つの解釈として、高宗は道教に強く影響を受けており、「皇帝」を越える最高存在として、「天皇」を考えていたのではないかと見られています。

720年に完成した『日本書紀』では、聖徳太子が煬帝に送った国書(608年)で「天皇」が使われていたと書かれています。これは後追いで創作されたものとする説があります。この説では、日本が「天皇」を使う以前に、中国で既に高宗が「天皇」を使っており、これに触発され、日本も「天皇」を使いはじめたとされます。

高宗の在位期間の649〜683年と「天皇」称号の確立時期がきれいに一致することからも、この説は有力であり、『日本書紀』が後から、国書原文で使われた称号を「天皇」と書き換えたという可能性は極めて高いでしょう(「天皇」後追い説)。


〔PHOTO〕gettyimages
逆に、日本が608年の段階で「天皇」を使い、その後に高宗が「天皇」を名乗ったという可能性は極めて低いと考えられます。

「天皇」の称号が使われる以前、日本の君主は「オオキミ(またはオホキミ)」や「スメラミコト(またはスベラギ、スベロギ)」と呼ばれていました。「オオキミ」は漢字で「大王」と書き、史書にも記され、一般的に普及していた呼び方でした。

一方、「スメラミコト」は格式ばった言い方で、「オオキミ」の神性を特別に表す呼び方でした。謎めいて儀式的な響きのする「スメラミコト」が何を意味するのか、はっきりとしたことはわかっていませんが、いくつかの解釈があります。その代表的なものが、「スメラ」は「統(す)べる」、つまり統治者を意味するという説です。

この他に、神聖さを表す「澄める」が転訛したとする説もあります。「ミコト」は神聖な貴人を表します。

「スメラミコト」に匹敵する漢語表現、つまり当時の国際言語を探し求め、宗教的かつ神話的な意味を持つ「天皇」がふさわしいと選定されたのではないかと考えられます。


欧米人はいつ、天皇を「エンペラー」と呼んだか

では、世界の人々は「天皇」が中国皇帝に対抗する称号であったということを理解した上で、天皇を「キング」ではなく、「エンペラー」と呼んだのでしょうか。

結論から言って、理解していました。欧米人は天皇を17世紀末から「エンペラー」と呼んでいました。

江戸時代に来日した有名なシーボルトら三人の博物学者は長崎の出島に因んで「出島の三学者」と呼ばれます。

「出島の三学者」の一人で、シーボルトよりも約140年前に来日したドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルという人物がいます。ケンペルは1690年から2年間、日本に滞在して、帰国後、『日本誌』を著します。

この『日本誌』の中で、ケンペルは天皇を「皇帝」と書いています。1693年頃に書かれたケンペルの『日本誌』が、天皇を「皇帝」とする最初の欧米文献史料と考えられています。

ケンペルは日本の事情に精通しており、「天皇」の称号が中国皇帝に匹敵するものであるということをよく理解していました。そしてケンペルの『日本誌』が普及したことで、天皇が「皇帝」と呼ばれることがヨーロッパで定着しました。

一般的な誤解として、天皇がかつての大日本帝国 (the Japanese Empire) の君主であったことから、「エンペラー」と呼ばれたと思われていますが、そうではありません。1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布時よりも、ずっと前に、天皇は欧米人によって、「エンペラー」と呼ばれていたのです。


〔PHOTO〕gettyimages
世界に唯一残るエンペラーとしての天皇は世界史の中で見てはじめて、その奇跡を理解することができます。

ヨーロッパでは、フランス革命などで、人々が君主を殺しました。中国でも、コロコロと王朝が変わりました。ところが日本の歴史は有史以来、天皇家の王朝一本で、変わることなく、今日まで続いています。これは世界史における奇跡です。

このような天皇を戴く我々日本人は現在、新しい御代において、大嘗祭などの重要な儀式を迎えようとしています。これを契機に、自分たちの君主やその歴史について考え、理解を深めていきたいものです。


7. 中川隆[-10595] koaQ7Jey 2019年10月24日 18:51:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2272] 報告

2019年08月23日
天皇のY染色体ハプログループ
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_44.html

 天皇というか皇族のY染色体ハプログループ(YHg)について、D1bとの情報がネットで出回っており、確定したかのように喧伝されているので、以前から一度調べてみるつもりだったのですが、さほど優先順位が高いわけでもないので、後回しにしていました。

今回、少し調べてみたのですが、査読誌に掲載された論文や、信頼できる研究機関の報告では見つけることができませんでした。もちろん、そうしたものが存在する可能性はあるわけですが、私の現在の見識と気力ではこれ以上検索しても徒労に終わるだろうと判断して、打ち切りました。

 とりあえず、元ネタになりそうな有名人のYHgというサイトを見つけたのですが、そこでは、日本語ブログが典拠とされていました。


Famous people's Y-DNA listed by haplogroup - Eupedia
https://www.eupedia.com/genetics/famous_y-dna_by_haplogroup.shtml


その日本語ブログはもう閉鎖されているので、インターネットアーカイブで該当記事を検索すると、

「皇室は、第113代 東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔内粘膜の解析により、縄文人のD1b(D-M64.1)に属するD1b1a2の系統と言われ」

とありました。「東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔内粘膜の解析」にはリンクが貼られているのですが、インターネットアーカイブで検索しても見つかりませんでした。

 また、2016年5月8日時点での情報ですが、

『天皇家のハプログループについて「第113代 東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔内粘膜の解析」とあるにもかかわらずリンク先には全くデータは示されていない』

とあります。したがって、東山天皇の男系子孫がYHg-D1b1a2とは確定できないでしょう。もちろん、そうである可能性もじゅうぶんあるとは思うので、否定もできませんが。上記サイトによると、別人の皇族子孫が検査したところ、YHg- D1b1a2b1a1だったそうで、「東山天皇の男系子孫 複数名」の事例と整合的ですが、典拠は明示されていません。

 けっきょくのところ、皇族がYHg-D1bとの情報に確たる信頼性を認めるのは難しいように思います。ただ、上述のように、その可能性は一定以上あると思います。仮に東山天皇の男系子孫がYHg-D1b1a2だとすると、同じく東山天皇の男系子孫である現在の皇族(もちろん、男性限定ですが)もYHg-D1b1a2だろう、と推定するのは合理的です。問題となるのは、「間違い」が起きていた場合です。たとえば、エドワード3世に始まる男系では、どこかで系図とは異なる父親が存在した、と明らかになっています。これは海外の事例ですが、日本でも、同様の可能性が起きていた可能性は否定できません(関連記事)。ただ、その可能性はさほど高いとも思えないので、今回は考慮しません。

 YHg-D1bは「縄文人」由来と推定されており、最近の研究でもその推定が改めて支持されています(関連記事)。したがって、皇族は縄文時代以来日本列島で継続している父系だ、と考えるのは妥当なところです。その意味で、皇族は「縄文系」と言っても、少なくとも大間違いとは言えないと思います。「縄文人」の現代日本人への遺伝的影響は、アイヌ集団では66%、「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団では9〜15%、琉球集団では27%と推定されています(関連記事)。これは北海道の「縄文人」の高品質なゲノムデータに基づいているので、西日本の「縄文人」のゲノムデータが得られて比較されると、「本土」集団における「縄文人」の遺伝的影響はもっと高くなるかもしれません。

 ただ、「本土」集団のYHg-D1bの割合は35.34%なので(関連記事)、父系において不自然に「縄文人」の影響が高いようにも思われます。しかし、皇族がYHg-D1bだとすると、皇族の男系子孫は武士になって日本各地に定着していき、養子も珍しくなかったとはいえ、原則として父系継承だったので、「本土」集団のゲノムでは弥生時代以降にアジア東部から日本列島へ到来した集団の影響が強くても、父系では「縄文人」の影響が強く残ったというか、中世以降に影響を高めて現代のような比率になった、と想定しやすくなります。その意味でも、皇族が父系では「縄文系」だった可能性はじゅうぶんある、と言えるでしょう。

 ただ、ここで問題となるのは、皇族がYHg-D1b1a2あるいはそのサブグループD1b1a2b1a1だとして、「縄文系」と断定できるのか、ということです。現時点では、「縄文人」のYHgはD1b2しか確認されておらず(関連記事)、現代日本人で多数派のYHg-D1b1の祖先とはなりません。もっとも、まだ東日本の「縄文人」しか解析されていないので、西日本の「縄文人」の中にはYHg-D1b1も一定以上の割合でいるかもしれませんし、東日本の「縄文人」でも今後YHg-D1b1が確認されるかもしれません。しかし、現時点で「縄文人」においてはYHg-D1b1が確認されていない、という事実は無視できないと思います。YHg-D1b1が弥生時代以降にアジア東部から到来した集団に由来する可能性も現時点では一定以上ある、と私は考えています(関連記事)。その意味で、仮に皇族がYHg-D1b1a2だったとして、父系では「縄文系」と断定するのは時期尚早だと思います。
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_44.html  

▲△▽▼

2019年05月12日
神武天皇のY染色体
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_21.html


 皇位継承にさいして男系維持派がY染色体を根拠とすることについては、すでに11年半近く前(2007年11月)に当ブログで述べましたが(関連記事)、今でも男系維持派がY染色体を根拠とすることもあり、一部?の界隈ではすっかり定着したようです。この問題について当時も今も思うのは、皇位継承のような物語性の強い社会的合意事項に安易に自然科学の概念を持ち込むべきではない、ということです。重要なのは、少なくとも6世紀半ば以降、皇位(大王位)が男系で継承されてきた、という社会的合意(前近代において、その社会の範囲は広くなかったでしょうが)であり、それは自然科学の概念とは馴染まない、と思います。

 男系継承においてY染色体を根拠にしてしまうと、生物学的確実性が要求されるわけで、どこかで「間違い」が起きた場合、それ以降の天皇の正統性が損なわれることになります。もちろん、現実には宮中においてそうした「間違い」が生じる危険性はかなり低いとは思います。ただ、皇位(大王位)の男系継承が6世紀半ば以降としても、すでに1400年以上経過しているわけで、どこかで1回「間違い」が起きた可能性は無視できるほど低いものではないと思います。

 この問題でよく言及されるのは『源氏物語』でしょうが、これはあくまでも創作であり、じっさいに「間違い」が起きた根拠にはできませんし、そうした「間違い」が起きる危険性はかなり低かったのかもしれません。ただ、皇后に仕えて後宮の事情に精通していただろう紫式部が『源氏物語』でわざわざ「間違い」を取り入れたのは、ある程度以上の現実性があったからではないか、とも考えられます。もっとも、『源氏物語』での「間違い」の結果でも、「初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない天皇が即位したわけではありませんが。具体的な「間違い」ではありませんが、状況証拠的な事例としては、江戸時代初期の猪熊事件があります。

 現実の「間違い」としては、崇光天皇の皇太子に立てられた直仁親王が、公式には花園院の息子とされていたのに、実は光厳院の息子だった、という事例があります(佐伯智広『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』P179〜180)。直仁親王が崇光天皇の皇太子に立てられたのは光厳院の意向で、花園院の甥の光厳院が親王時代に世話になった叔父に報いた、という美談として当時は受け取られたかもしれませんが、裏にはそうした事情があったわけです。なお、光厳院は院政を継続するために、直仁親王を皇太子に立てるさいに養子としています。もちろん、直仁親王が光厳院の実子だったのか否か、DNA鑑定がされたはずもなく断定できるわけではありませんが、少なくとも光厳院は直仁親王が実子だと確信していました。もっとも、直仁親王の事例にしても、『源氏物語』と同じく、初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない男性が天皇に即位する予定だったわけではありませんが。なお直仁親王は、正平一統により皇太子を廃され即位できず、その子孫が即位することもありませんでした。

 持統天皇以降には火葬された天皇も多く、また飛鳥時代以前には天皇(大王)の陵墓も確実ではない場合がほとんどで、そもそも天皇陵とされている古墳の調査には制約が大きいので、天皇(大王)だったかもしれない人物のDNA解析は実質的に不可能です。また、仮にほぼ天皇と間違いない遺骸のDNA解析が技術的には可能だとしても、じっさいに解析して現代の皇族と比較するようなことを宮内庁、さらには政府が許可するとも思えません。その意味で、Y染色体を根拠とする男系維持派も、その多くは、実質的にDNA解析は不可能だと考えて、無責任にY染色体を根拠としているのでしょう。しかし上述したように、皇位の父系継承の根拠としてY染色体を持ち出せば、生物学的確実性が要求されるわけで、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思います。少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは明らかで、そのさいに重要なのは、あくまでも皇位継承者が「初代天皇」と男系でつながっているという社会的認知であり、Y染色体を持ち出す必要はまったくないばかりか、有害でしかありません。何よりも、Y染色体を根拠とすれば過去の女性天皇の正統性が損なわれるわけで、父系で「初代天皇」とつながっている、という社会的合意があれば充分でしょう。

 少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは、例外がないことからも明らかです。称徳→光仁・称光→後花園・後桃園→光格といった事例のように、前天皇とは血縁関係の遠い人物が即位したことは歴史上何度かありますが、いずれにしても男系で皇統につながっています。また、皇后の在り様からも、8世紀初頭においてすでに、皇位継承が男系に限定されていた、と窺えます。皇后の条件は令においてとくに規定されていませんが(これは、天皇について令で規定されていないことと通じると思います)、妃の条件が内親王であることと、藤原氏出身の光明子を皇后に立てるさいの聖武天皇の勅の歯切れがきわめて悪いことから、皇后には皇族(内親王)が想定されていた、と考えるのが妥当でしょう。これは、6〜7世紀には皇后(大后)の即位が珍しくなかったからだと思います。その意味で、光明子が皇后に立てられたのは画期であり、これ以降、皇后が即位することはなくなります。皇族でなくとも皇后に立てられるという先例ができた以上、皇后を即位させるという選択肢がなくなったのでしょう。

 藤原氏が皇后を次々と輩出し、天皇の外戚となることで権力を掌握したことも、男系での皇位継承を大前提とする体制に順応したと解釈すべきだと思います。藤原氏はあくまでも、娘を天皇もしくは皇位継承の有力者の「正妃」とすることで権力を掌握しようとしたのであって、自身が即位しようという具体的な動きは確認されていません。また、藤原氏出身の女性を母とする天皇は奈良時代以降多いのですが、これを母系的観点から解釈することは無理筋だと思います。藤原氏自身も父系的な氏族であり、藤原氏の娘は基本的に母系ではなく父系により高貴な出自を保証されているからです。

 もちろん、古代に限らず、日本において母方も財産やそれに基づく政治的地位に大きく貢献していますが、それは現生人類(Homo sapiens)において普遍的な、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来するのだと思います。こうした特徴が人類社会を重層的に組織化した、との観点は重要だと思います(関連記事)。その意味で、古代日本社会を双系的と解釈する見解には一定以上の妥当性があると思います。しかし、少なくとも皇族(王族)や有力氏族は6世紀半ば以降に父系的構造を形成して維持しており、母方も重要だからと言って母系的とは言えないでしょう。支配層の母系継承かもしれない事例としては、9世紀〜12世紀の北アメリカ大陸のプエブロボニート(Pueblo Bonito)遺跡が挙げられていますが(関連記事)、それは古代日本の皇族・有力氏族の地位・財産継承とは大きく異なります。

 そもそも、人類は父系的な社会から現在のような多様な社会構造を築いた、と私は考えています(関連記事)。人類社会において父系的な継承が多いのは、それが長く基準だったからで、「唯物史観」での想定とはまったく異なり、農耕開始以降に初めて出現したわけではない、というわけです。現代および記録上の人類社会では、父系的とは言えないような社会構造も見られます。それはアフリカから世界中への拡散を可能とした現生人類の柔軟性に起因し、「未開社会」に父系的ではなさそうな事例があることは、人類の「原始社会」が母系的だったことの証拠にはならない、と私は考えています。そもそも、「未開社会」も「文明社会」と同じ時間を過ごしてきたのであり、過去の社会構造を維持しているとは限らない、という視点を忘れるべきではないでしょう。人類におけるこうした社会構造の柔軟性をもたらしたのは、上述したように、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来すると思います。少なくとも現生人類にはこの特徴が顕著に発達していますが、それはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など他系統の人類にもある程度以上共通している可能性もあるとは思います。

 最後に話を皇位継承に戻すと、現在の規定において皇位継承が危機に瀕していることは、この問題に関心のある人が等しく認めているでしょう。それでも解決策の検討が具体的に進展しないのは、悠仁親王の存在が大きいと思います。しかし、現行の規定でも数十年後の皇位継承を可能とするには、もはや悠仁親王が男子を儲けるしかなく、それに期待すると言ってしまうような政治家はあまりにも無責任で(関連記事)、政治家失格と言うべきでしょう。これも、政治家をはじめとして有力者には50代後半以上が多く、悠仁親王の結婚と子供が本格的に問題になる頃にはすでに死んでいるか、現役ではないからだと思います。これは解決困難な問題の先送りに他ならず、多くの解決困難な問題を抱える現代日本社会の弱点ですが、現代日本社会でとくに深刻というわけではなく、人類社会に普遍的な事象だと思います。とくに皇位継承問題は、政治家にとって票になりにくい上に、どのような解決策でも影響力があり声の大きな複数の著名人に批判されることになるので、政治家が先送りにしたいという心情はよく理解できます。

 正直なところ、1980年代に小学校高学年だった頃から近年までずっと天皇制廃止論者だった私としては、このまま男系維持派に大きな声を挙げ続けてもらい、天皇制が自然に消滅してほしい、とさえ考えたくなりますが、近年では天皇制廃止論にやや否定的になったので、天皇制の自然消滅を強く願っているわけではありません。なお、小学校高学年から天皇制廃止論者だった私は、当然のごとく改憲を支持しており、日本国憲法第9条も改正して軍隊の保有を明記すべきだ、とずっと考えてきました。これは今でも変わりませんが、少数派の改憲論だという自覚は小学生の頃からあったので、ネットでの匿名での発言以外では、誰かに打ち明けたことはありません。

 現状では、皇位継承の長期的な安定性を確保するには、男系維持の立場からの旧宮家の男性の皇族への復帰か、まだ若い女性皇族がいるうちに女系継承も認めるかのどちらかしかないと思います。皇位継承が長期にわたって男系を大前提としてきたことは間違いありませんが、誕生時には皇族ではなかった男性が即位した事例(醍醐天皇)もあるとはいえ、父系では600年以上さかのぼらないと天皇にたどりつかない人物が、即位はもちろん皇族に復帰することもあまりにも異例の事態で、正直なところ、国民の理解が得られるのか、はなはだ疑問です。少なくとも現時点では、女系継承の方が国民の圧倒的に多くの支持を得られそうです。しかしこれも、愛子内親王への国民の期待によるところが大きく、旧宮家の男性で、人格・知性・体力・容貌に優れた人物がいれば、旧宮家の皇族復帰が国民の圧倒的支持を得られるようになるのではないか、と思います。

 私は、男系による皇位継承は長期にわたって大前提ではあったものの、天皇(大王)の本質としては、時代の変化に柔軟に対応して存続してきたことの方が重要だと思うので、日本が今後属すべき社会の価値観という観点からも、若い女性皇族がまだ複数いるうちに女系継承を認めるべきだと思います。ただ、政府、とくに現在の安倍晋三内閣がそう決断するのは、支持基盤の問題もあって難しいでしょうから、このまま女性皇族が結婚により次々と皇族を離れていき、悠仁親王に息子が期待できないような状況になってやっと、皇室典範の改正により旧宮家の男性の皇族復帰が検討されるようになるのではないか、と予想しています。まあそれでも、天皇制廃止よりはましなのかな、と最近では考えています。
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_21.html



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2019年09月09日
Y染色体ハプログループDの改訂

 恥ずかしながら、3ヶ月近く前(2019年6月19日)に遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)がY染色体ハプログループ(YHg)Dの分類を改訂していた、と先週(2019年9月第2週)知りました。YHg-Dは世界でも珍しく、日本人の「特異性」の遺伝的根拠として、「愛国的な」人々がよく言及しているように思います。そのため、現代日本社会ではYHg-Dへの注目度が高いようで、このYHg-Dの改訂も「愛国的な」人々の一部の間では割と早くから知られていたようです。

 具体的な改訂点ですが、現代日本人で多数派のYHg- D1b1がD1a2aに変更されています。「縄文人」で確認されているD1b2はD1a2bに変更されています。なお「縄文人」では、現代日本人で多数派のD1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていません(関連記事)。これは、現代日本人のD1a2aが弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。もちろん、現時点では東日本の「縄文人」でしかYHgは確認されていないので、今後西日本の「縄文人」でD1a2aが確認される可能性は低くないでしょう。しかし現時点では、現代日本人のD1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。なお、チベットで多数派のD1a2はD1a1bに、フィリピンで見られるD2はD1bに変更されています。

 このように変更された理由は、今年6月10日に公開された研究(Haber et al., 2019B)で、じゅうらいはYHg-DE*とされていたナイジェリア人の系統が、YHg-D0と新たに分類されたためだと思います。新たに提唱された分類名なので、既存の分類名を優先して整合的な分類とするため、D0と提唱された系統はD2にされたのだと思います。この研究は、じゅうらいのYHg-Dの名称を変更せずにすむように、D0という分類名を提案したので、そのままにしておけばよいのではないか、とも思うのですが、門外漢の私が的外れなことを言っているだけかもしれませんので、抗議するつもりも、否定してじゅうらいの分類名を使い続けるつもりもありません。


参考文献:
Haber M. et al.(2019B): A Rare Deep-Rooting D0 African Y-Chromosomal Haplogroup and Its Implications for the Expansion of Modern Humans out of Africa. Genetics, 212, 4, 1241-1248.
https://doi.org/10.1534/genetics.119.302368

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html

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2019.5.13

 縄文人は現代の日本人と比べ肉や魚を消化しやすい遺伝子を持ち、遺伝的な多様性は低いことがゲノム(全遺伝情報)の解析で分かった。国立科学博物館などの研究チームが13日、発表した。

日本人全体ではゲノムの10%、アイヌ民族ではゲノムの70%が縄文人に由来することが分かった。

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、
北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。


 縄文人は現代の日本人と比べ肉や魚を消化しやすい遺伝子を持ち、
遺伝的な多様性は低いことがゲノム(全遺伝情報)の解析で分かった。
国立科学博物館などの研究チームが13日、発表した。

縄文人が狩猟や漁労を中心に小集団で生活していたことが遺伝情報からも裏付けられた。

 チームは北海道・礼文島の船泊遺跡で出土した3500〜3800年前の縄文女性の歯から採取したDNAを分析。

その結果、肉など高脂肪食の消化を効率的に助けるタンパク質を作るよう遺伝子が変異していることが分かった。
アザラシなど肉食が中心の北極圏のエスキモーに多くみられる現象で、現代の日本人にはみられないという。

 また、ゲノムの多様性が低い状態が旧石器時代から約5万年にわたり続いていたことも判明。
小集団で生活していたことを示すもので、獲物を求め移動を繰り返す縄文人の生活を反映しているらしい。

 このほか日本人全体ではゲノムの10%、アイヌ民族ではゲノムの70%が縄文人に由来することが分かった。
また、縄文人は1万8000年〜3万8000年前に大陸民族から遺伝的に分かれたことも判明した。
https://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/190513/lif19051317590013-n1.html

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現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ

D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系


現代琉球人 Y-DNAハプログループ比率

D1a2--45.1% : 縄文系
O1b2-23.3%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---18.9%(旧表記O3):漢民族系
C2----1.5% :縄文系
C1----6.8% :縄文系
O1b1--0.8%(旧表記O2a) :長江系稲作民


現代日本人 Y-DNAハプログループ比率

D1a2a--32% :以前は縄文系だと言われていたが否定された、四川省の焼畑農耕民の可能性が高い
O1b2-32%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---20%(旧表記O3):漢民族系
C2----6% :縄文系
C1----5% :縄文系
O1b1--1%(旧表記O2a)
O1a---1% : 長江系稲作民
N1----1%
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)


韓国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度

O2: 43.3% : 漢民族系
O1:30.0% : 長江系稲作民
C2: 11.3% : モンゴル・ツングース系


現在の台湾の先住民系民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度

O2 :11.7% : 漢民族系
O1 :80.3% : 長江系
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm

現在の中国の自称漢民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2 53.3% : 漢民族系
O1 24.5% : 長江系稲作民
C2 7.8% : モンゴル・ツングース系
N 6.9% : トルコ系
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-16.htm


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日本人のガラパゴス的民族性の起源 Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

日本人のガラパゴス的民族性の起源 mtDNAハプロタイプ 2019年5月取得ツリー増補版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm

日本人のガラパゴス的民族性の起源 2018/10/18 日本人の源流考 v1.6
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2


8. 中川隆[-10514] koaQ7Jey 2019年10月28日 17:08:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2359] 報告
天皇即位を祝う「饗宴の儀」晩餐会のメニューが、29年前の「即位の礼」と全く同じだった理由 2019年10月28日掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/10280558/?all=1

 天皇の即位を祝う「饗宴の儀」初日の晩餐会が22日、各国の元首や首脳、国際機関の代表など計約300人を招いて華やかに開かれた。興味深かったのは、料理が前回(1990年11月12日)の即位の礼の初日晩餐会と寸分違わぬ内容だったことだ。まったく同じ内容の料理を2度出すことはふつうあり得ない。なぜだったのだろうか。

 ***

前菜の9品は名前もすべて同じ

 午後7時20分に始まった儀式では、外国の賓客は天皇、皇后両陛下の前に一人一人進み出て、あいさつを交わした。皇后は親しい欧州の女性王族とは頬ずりで親愛の情を表わし、特に懇意にしているオランダのマクシマ王妃とは3、4回頬ずりを交わした。

 挨拶を終えた外国の賓客は「松の間」に移動し、広間に置かれた高御座と御帳台を見学。次いで「春秋の間」で食前の飲み物を振る舞われ、ホスト役の皇族方のもてなしを受けながら宮内庁楽部による舞楽の一演目「太平楽」を鑑賞した。

 晩餐会が始まったのは午後9時前。天皇の右隣の最上席にはブルネイのボルキア国王、雅子皇后の左隣の、最上席に次ぐ上席にはスウェーデンのカール16世グスタフ国王が座った。同じ元首でも国王(女王)と大統領では外交儀礼上、国王が上位にくる。国王の中では在位の長いもの順に上席となる。ボルキア国王は在位52年、カール16世グスタフ国王は在位46年と、来日した国王の中で在位期間は1、2位だ。

 メニューは次のような内容だった。

前菜 かすご鯛姿焼、海老鉄扇、鮑塩蒸、百合根、鴨錦焼、黄柚子釜、篠鮟肝、栗、胡瓜
酢の物 魚介酢漬(スモークサーモン、帆立貝、鮃、公魚(わかさぎ))
焼物 牛肉アスパラガス巻、ブロッコリー、生椎茸、小玉葱、小トマト
温物 茶碗蒸(鱶鰭、舞茸、三つ葉)
揚物 三色揚(蟹、鱚、若鶏) 紅葉麩、慈姑、銀杏、松葉そば
加薬飯 鯛曽保呂、筍、椎茸、干瓢、錦糸玉子、紅生姜
吸い物 伊勢海老葛打、松茸、つる菜
果物 メロン、苺、パパイヤ
菓子 和菓子2種

飲み物 日本酒、ワイン(白=コルトン・シャルルマーニュ2011、赤=シャトー・マルゴー2007)、ミネラルウオーター、日本茶、フレッシュオレンジジュース

「饗宴の儀」の晩餐会
「饗宴の儀」の晩餐会(他の写真を見る)

 私の手元に前回のメニューがあるが、まったく同じで、なぞって作ったことが明らかだ。前菜の9品は名前もすべて同じ。ちなみに〈海老鉄扇〉は竹の串で海老を挟んだもの。〈黄柚子釜〉は柚子をくり抜き、中にイクラなどを入れた。酢の物の4種のネタ(スモークサーモン、帆立貝、鮃、公魚)も前回と変わらない。本来だとここはお造りだろうが、生魚が苦手な賓客を考えて、マリネ風に酢の物にしたのだろう。温物の茶碗蒸しの中身(鱶鰭、舞茸、三つ葉)も変わらず、焼物の〈牛肉アスパラガス巻〉もそうだし、添えたブロッコリー、生椎茸、小玉葱、小トマトの4種の野菜も見事に同じ。揚物しかり、加薬飯しかり。

 肉料理は牛肉アスパラガス巻が出ているが、全体としては魚介と野菜が中心だ。ちなみに事前に食べられない食材は聞いており、菜食主義者やイスラム教徒には、相手に応じた料理も用意された。外国人用にフォーク、スプーンも添えられた。

 和食になったのはサービスの関係だ。フランス料理だと前菜から主菜、デザートまで、コースごとに上げ下げしなければならない。しかし和食だとお盆に幾つもお皿を載せてサービスできる。

 ただ29年前とはいえ、ふつう饗宴でまったく同じ料理を出すことはあり得ない。しかも前回に続いて今回も列席した外国の賓客が結構いる。最上席とそれに次ぐ席を与えられたボルキア国王とカール16世グスタフ国王、それにチャールズ英皇太子の3人は29年前も同じ肩書きで列席した。オランダ、スペイン、モナコの国王は、前回は皇太子として出席している。何を食べたか覚えていないだろうが、たとえそうだとしても同じ料理は出さないものだ。

料理を担当したのはプリンスホテル

 想像するに、「前回を超える料理は作れない」との思いがあったがゆえに、同じメニューになったのではないだろうか。慶賀の料理としてよく考えられているのは確かだ。鯛、海老、鮑など、日本人にとってめでたい食材、それも季節の食材を多用し、三色揚や紅葉、銀杏、紅生姜など彩りも鮮やかだ。「目で楽しみ、舌で楽しみ、季節を愛でる」という和食のひとつの典型を見せている。

 以上のこととも関連するが、同じものを出したもうひとつの理由は、料理を一から練り上げるだけの時間的余裕がなかったことだ。料理を担当したのはプリンスホテルで、今年4月、宮内庁の一般入札で落札した。本番まで半年しかない中で、祝宴のメニューを新たに創案するのは不可能だ。考えようによっては数品、別のものにする手はあったかもしれない。しかし所詮、小手先にならざるを得ないし、全体のバランスも崩れる。そうであれば同じものを堂々と出そうということになったのではないか。2回続けて出席した外国の賓客は「祝典における和食の正餐とはこういうもの」と、料理を口に運びながら思ったかも知れない。

 飲み物は日本酒も出されているが、メインはフランスワインだ。白の〈コルトン・シャルルマーニュ〉はフランス・ブルゴーニュ地方の最高級、赤の〈シャトー・マルゴー)も仏ボルドー地方の最高級。白の年代は2011年。東日本大震災の年が選ばれているのは偶然なのか、それとも考えられたものなのだろうか。約300人の招待客に振る舞うため、白、赤それぞれ50本以上は用意されたはずだ。ちなみに前回、白は今回と同じ〈コルトン・シャルルマーニュ 1985〉、赤は〈シャトー・ラフィット・ロートシルト1978〉。この赤もボルドー地方の最高級だ。

 前回はシャンパンのポメリー(銘柄はブリュット・ロワイアル)が出されているが、今回は食事の時には出されてない。食前酒の時に出されたのかも知れないが、食事の時にシャンパンが出なかったのは珍しい。サービスの関係なのか、「両陛下の負担軽減」のため時間短縮を考えてのことなのかは、それ以外の理由があったのかは不明だ。


現在、世界にある君主国は28。その中で最古の歴史を誇る皇室は、他の王室、そしてすでに王室を失ってしまった国々からも、深い敬意を向けられている。それは長い歴史に加え、先の天皇をはじめとする皇族の人間力によるものであり、日本外交にも大きく寄与してきた

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皇室はいかなる国も差別しない

 参考までに、昭和天皇の即位を祝う「大饗の儀」の料理を見てみよう。大正天皇が逝去されたのは1926年12月。喪が明けた28年11月10日、昭和天皇は京都御所で即位礼を挙げた。この1週間後の11月16日・17日、「大饗の儀」がもたれた。

 東郷平八郎元帥、田中義一首相をはじめとする枢密院、貴族院、衆議院の各議長のほか、日本駐在の各国大使、公使夫妻が招待された。計186人と記録にある。

 メニューはフランス料理だった。

スッポン清羹
鱒蒸煮
鶉煮冷
牛肉焙焼
凍酒
蔬菜
七面鳥炙焼
温果

 メニューはフランス語でも併記されていた。訳は次のようになる。

すっぽんのコンソメスープ
鱒の料理、外交官風のソースで
ウズラの冷製、ベルビュー風
牛フィレ肉の庭園風
シャンパンのソルベ
セロリのサラダ
七面鳥のロティ、トリュフと
デザート

 男性は大礼服に白ズボン、婦人は袿(うちき)袴かローブ・デコルテの正装だった。「式部職員が奏楽する調べが流れる。出席者の人々には銀製の記念御菓子器ボンボニエールが贈られた」とある。前回と今回もボンボニエールが引き出物として贈られている。

 フランス料理の正餐でのもてなしで、七面鳥やトリュフなどの食材からは、当時の上流階級の食文化の一端を窺わせる。ちなみにシャンパンのソルベは口直し。昭和天皇の「大饗の儀」がフランス料理で、明仁天皇と徳仁天皇の「饗宴の儀」が和食というのも面白い。

 さて22日の晩餐会が終わったのは午後10時前。両陛下は招待者と共に「春秋の間」に移り、食後酒を手にしばらく歓談された。この後、外国の賓客だけ「松の間」に移り、両陛下がお礼を述べ、賓客からは日本の伝統文化を知る貴重な機会となったことなどに感謝の言葉があった。「皇室はいかなる国も差別することなく、全使節と言葉を交わし、感謝の意を表する」との意味合いがここにはある。

 前回はすべて終わったのは午後11時半だったが、「両陛下の負担軽減」を念頭においた今回の「饗宴の儀」は予定通り午後11時前に終了した。

「饗宴の儀」は25日(午餐会)、29日(立食)、31日(立食)も開催される。計4回の開催で招かれる内外の賓客は約2千人。前回は4日間で計7回(すべて着席)、約3400人を招いた。

西川恵
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/10280558/?all=1

9. 中川隆[-10504] koaQ7Jey 2019年10月29日 14:24:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2369] 報告

軽量≠フ「即位礼」米代表団、冷戦終結30年、同盟の脆い土台
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/17748


 天皇陛下が即位を宣明される「即位礼正殿の儀」は先週、滞りなく終了した。華やかな祝賀外交≠燗W開された。

サプライズ≠ヘ、なんといっても米国の参列特使だった。各国の国王、元首クラスが顔をそろえる中、米国は、大統領でも副大統領でもなく、運輸長官を派遣したにとどめた。 「世界で最も重要な2国間関係」の相手の、国をあげての慶事に対してだ。

 冷戦終結30年≠ニいう節目の年にあって、重みを増している日米の同盟関係が盤石かといえば、必ずしもそうとはいえまい。これまでの両国関係を顧みれば、脆弱さを暗示する大小の問題が、起きては消え、消えては起こるーいわば摩擦の繰り返しだった。今回の即位の礼代表団問題は、その典型的な例だろう。

 この機会に、両国の間に見えない形で横たわる根源的な相違を再認識し、日米関係の在り方を内省するのも悪くない試みだろう。


(bee32/gettyimages)

当初はペンス副大統領派遣を検討

 米国代表、イレーン・チャオ運輸長官は、大統領職継承順位13位、日本でいえばヒラ大臣≠セ。

 お祝いに駆けつけてくれた海外の特使について、あれこれいうのは非礼極まりないことは承知のうえだが、前回、上皇さまの即位の礼の際は、当時のクエール副大統領が参列した。

 今回も当初、ペンス副大統領が出席する方向で検討されていたが、ウクライナ疑惑への同氏の関与も指摘されるなど政治情勢が考慮され見送られた。

 米国以外の主要国からの顔ぶれを見ると、チャールズ英皇太子、アレクサンダー・オランダ国王夫妻、フィリップ・ベルギー国王夫妻、アウン・サン・スー・チー・ミャンマー国家顧問兼外相、サルコジ前フランス大統領ら絢爛たる顔ぶれ。関係が改善しつつある中国は王岐山・国家副主席、いわゆる徴用工問題で関係が極度に悪化している韓国も李洛淵首相を派遣した。

 これらに比べると、米国代表団の存在は率直に言って見劣り≠フ印象を否定できない。

 儀式への参列者が誰だったとか、いわば感情論で日米の同盟関係を論じる愚を犯すつもりはないが、些細に見えるものの、実はそれが、文化、習慣、互いに相手を敬うという基本的な価値観にかかわる深刻な問題であったということは、過去、現在少なからず見られる。

いまさらながらの「安保ただ乗り論」

 いくつか具体的な例をあげよう。

 ことし6月、米ブルームバーグ通信の記事に驚いた人も多かったろう。

 トランプ大統領が側近らに対して、日米安保条約に関して、日本が支援された場合だけ米国が助けることを「一方的で米国に不公平だ」と強い不満を漏らした。条約の破棄にまで言及したという。同じ時期、大統領はホルムズ海峡での船舶航行に関して、日本、中国などを名指し、「米国はなぜ無報酬で航路を守っているのか。自身で防衛すべきだ」と厳しく注文をつけた。

 1980、90年代に米国内でやかましかった「安保ただ乗り論」そのままであり、日本が多額の経費負担をしている今ごろになって蒸し返されるとは驚きだった。

 日本政府は安保廃棄について、「ホワイトハウスかららは、条約の見直しは考えていないという話だった」(当時の河野外相)と否定、ホルムズ海峡の防衛については「中東の緊張緩和と安定に向けて努力を続ける」(菅官房長官)と述べるにとどまったが、当惑は隠せなかった。

 トランプ氏は2016年の大統領選の期間中も、防衛費問題や貿易不均衡で日本非難を展開した。安保破棄やホルムズ海峡に関する発言もこうした持論を持ち出しただけなのだろう。

 北朝鮮の短距離弾道ミサイル発射実験についても、トランプ大統領は容認姿勢に転じ、脅威に直接さらされる日本を一顧だにしない姿勢を見せている。ことし10月2日、北朝鮮が海上構造物からミサイルを発射した際も、安倍首相が強く非難したのを知ってか知らずか、「様子を見てみよう」とやはり寛容な発言ぶりだった。


「日本嫌い」を公言する国務長官

 いずれも、日米安保体制の根幹を揺るがしかねない重大な発言だが、トランプ大統領の言葉だけに、あきらめムードも日本国内にはあるだろう。しかし、こうした言動は、実のところトランプ氏に限ったことではない。

 1993(平成5)年から2期8年間続いたクリントン政権(民主党)で、女性初の国務長官を務めたマデレン・オルブライト女史。回想録のなかで日本についてこう書いている。「日本に滞在すれば歓迎されるし、(指導者たちと)幅広い知的な会話を交わすことができるだろう。しかし、笑顔でお土産を、そしてポケットにはフォークを忍ばせておいたほうがいい」―。日本人は退屈だから、フォークで体をついて痛い思いをしなければ居眠りしてしまうーということらしい。

 その2代後、息子ブッシュ政権(共和党)でやはり国務長官を務めたコンドリーザ・ライス女史の対日観は、もっとひどかった。

 回想録の中で「小泉首相の退任後、日本は合意政治に逆戻りした。国を前進させるとは思えないような、誰とでも取り替え可能な首相が何人も続いた。日本を訪問するのがどんどん憂鬱になっていった。日本は停滞、老化しているだけでなく、周辺諸国からの憎悪に呪縛されているようにみえた。個人的に日本人と相性がいいとは言えなかった」―。

 両国務長官をご記憶の方が少なくないだろうが、これほどまでの嫌日≠ニは知らなかった。こうなればもう、個人的な好き嫌いの次元であり、理性でどうこうすることはできまい。こういう人たちと同盟関係の発展を話し合うことなど、どだい無理な話だろう。トランプ氏といい、オルブライト、ライス女史といい、「グローバル・パートナーシップ」などという言葉とは全く異なる、別な感情を日本に抱いているように思える。

 メディアの報道ぶりでも同様なことがみられる。

 今回の「即位礼正殿の儀」について、ニューヨーク・タイムズ紙は、 5月に御代替わりがあったにもかかわらず、今回、あらた儀式が行われたことについて、「もう済んでいたのではなかったのか」という見出しで、5月の剣璽等継承の儀は「序曲」にすぎなかったと皮肉まじりに報じた。万歳三唱や礼砲が憲法違反の疑いがあるという批判的な一部見解も伝えた。

 20年以上も古い話で恐縮だが、1997(平成9)年、日本で橋本龍太郎首相(当時)が、中国人女性通訳と不適切≠ネ関係を持っていたのではないかーという疑惑が指摘されてことがあった。

 ワシントン・ポスト紙は、東京特派員発でこれを報じたが、「首相と同年配の多くの日本人男性は愛人をもっており、妻はそれを簡単に受け入れている」というくだりがあった。日本の中年、初老男の多く≠ヘそれほどふしだらとは思えないし、それほどもてるとも思えない。愛人を持つ財力もないだろう。多くの妻が簡単に℃け入れることもありえない。日本の夫を中傷し、妻の名誉を傷つける意図しか感じられなかったが、わずか20年前まで米の大新聞は日本に対して平気でこういう記事を掲載していた。

真の同盟関係への認識不足

 米国の驚くべき対日観、日本への理解不足については、まだまだ書くべきことが山ほどあるが、一方で、日本における同様な問題も考えてみなければならない。

 もう40年近くも前の1981(昭和56)年、鈴木善幸首相(当時)が「同盟に軍事的側面はない」と発言して日米両国で大騒ぎになった事件があったが、さすがにいまはもう、そんなことをいう政治家はいない。

 だが、本当に大丈夫かと疑念を抱かせたのが、2015(平成27)年の安保法制をめぐる騒ぎだ。

 集団的自衛権の行使を容認し、日米の安保協力を高めようとした安倍政権の方針に対して、一部野党は「戦争法」という驚くべき表現で強く反発。1960(昭和35)年の安保反対闘争以来ともいえる国論を2分する対立に発展した。

 米国は「同盟での協力関係に対する日本社会の亀裂は米議会の期待とは異なるものだった」(外交評議会の知日派、シーラ・スミス研究員)として、日本の安保への認識に失望を示し、安保体制の円滑な運営に懸念を隠さなかった。

 日米同盟に反対する勢力が対立をあおるならともかく、認めている政党が反対するというのだから、米国も苦々しく感じたろう。


大物大使≠ヨのはしゃぎぶり

 米国の駐日大使が交代するたびに、くりかえされる日本国内の反応も米国を呆れさせている。

 このポストは1970年代末から、大物が次々に派遣されてきた。1977(昭和52)年、日本でもよくその名を知られたマイク・マンスフィールド元民主党上院院内総務の着任をはじめ、ウォルター・モンデール元副大統領、トム・フォーリー元下院議長、最近ではケネディ元大統領の長女、キャロライン・ケネディ女史らだ。これだけ大物が送り込まれる国はほかにあるまい。

 こうした人事が決まるたびに日本のメディアは「日本重視の表れ」などと報じる。ブランド≠好む日本政府、国民の心情を米国はよく知っている。

 重要なことは適材かどうかということであって、有名人であるかどうかではない。フォリー氏の大使起用が決まった時、国務省幹部が筆者に対して「日本人はハッピーだろう」とからかい半分で語りかけてきた。「日本には名の知れた人物を派遣しておけばいい」と米国が考えているとしたら、日本に責任があるというべきだろう。

異常なトランプ厚遇が物議

 安倍首相はトランプ大統領との良好な関係を誇っているが、喜んでばかりでいいというものではない。

 2016(平成28)年11月の米大統領選でトランプ氏が当選を決めたわずか9日後、安倍首相はわざわざニューヨークのトランプタワーに駆けつけ、会談した。人種差別、性差別ともいえる発言を繰り返すトランプ氏の当選に各国首脳が当惑、様子を見ているときだっただけに、氏にとってはうれしいことだったろう。

 その後の両者のかたい友情♀ヨ係は周知のとおり。今年5月、トランプ大統領が国賓訪問した際の厚遇ぶりは日本国内で物議をかもした。

 大相撲観戦の際、ほかの観客の迷惑を顧みず、土俵近くに椅子を持ち込んで升席をとりはらってしまったことなどは異常だった。

 ニューヨーク・タイムズは「トランプ訪日に安倍、へつらいを重ねる」という見出しで「報われるのか疑問視されている」と報じた。

 たしかにトランプ氏の発言など見る限り、本当に信頼できるのかという疑念を抱かざるをえない。いざというとき不本意な結果をまねくことになれば、うわべだけの親しい関係に幻惑された結果として深刻な事態になるだろうだろう。

 各国から、日本の首相は、トランプ大統領と同じ価値観を持っているようだという憶測をも生むという恐れもあろう。

「カゲの部分」無視で同盟深化ありえぬ

 筆者は心ならずも、日米関係のネガティブな側面ばかり論じてきた。日米同盟関係に対する米国の思惑と本音については、これまでもすでに『仮面の日米関係』(春名幹夫著)などすぐれた著作で分析されてきた。それだけに、「いまさら、そんなこといちいちあげつらって論じる意味があるのか」「他国との間に認識の違いがあるのは当然ではないか」「日米関係はそんなことに拘泥されないくらい深化・進化している」といわれるかもしれない。

 筆者が指摘したいのは、米国の政策上の打算だとか、条約上の不備、在日米軍への日本側負担が大きすぎるとか、そういう政治的、政策的な問題ではなく、2国間に横たわる根の深い疑問だ。

 こうした問題は、「グローバル・パートナーシップ」などという響きのいい言葉や、安全保障上の必要性という差し迫った事情から、いつの間にかどこかに埋没≠オてしまったのではないか。根本的な問題を放置して同盟関係の実際だけが進展していってしまえば、いつの日か同盟関係を揺るがす事態にも発展しかねない。ちょうど脆い土台の上に建設されたビルにいつか亀裂が入るようにだ。

 もっとも、土台が脆いからといって、手を加えることは危険を伴う。そのうえに建つビルを傷つけるかもしれない。

 しかし、同盟が高度に成熟した今だからこそ、あえて問題提起する意味があるだろう。国家の命運を共にする同盟関係に身を置きながら、相手がどういう思考方法の人間なのか、何をどう感じているのかーわかっていないというのでは情けないし、本当の意味での関係深化にはつながらないだろう。

 日本でも令和という新しい時代が到来した今、一歩引いて冷静に日米関係のカゲの部分に恐れずにみつめ、真の同盟深化には何が必要か、じっくり考える機会にしてはどうだろう。

10. 中川隆[-14992] koaQ7Jey 2019年11月12日 12:02:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2090] 報告

[2019.11.11放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ(KBS京都ラジオ) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NdF7Tx_33gM


今週のテーマは『「即位の礼」に見る、日本の国力の激しい凋落。』です。


平成の30年間にわたってアメリカから徹底的に搾取され続け、それに対してろくに戦おうとしなかった腰抜けの日本人。いくら歴史と伝統を誇る日本の皇室とはいえこの程度の扱いになってしまう、ということでしょうか。。核武装による自主独立が急がれます。

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