人類における始原のカミは、抽象化された不可視のアニマ(生命、魂)としてではなく、個別具体的な事象に即して把握されていました。霊魂などの抽象的概念の登場以前に、眼前の現象がそのままカミとみなされていた段階があった、というわけです。 具体的には、人に畏怖の念を抱かせる、雷や竜巻などの自然現象です。より日常的な現象としては、毎日起きる昼夜の交代です。人がカミを見出したもう一つの対象は、人にない力を有する動物たちで、具体的には熊や猛禽類や蛇などです。また、生命力を感じさせる植物、巨木や奇岩なども聖なる存在として把握されました。 カミは最初、これら個々の現象や動植物などと不可分の存在でした。何かが個々の現象や動植物などに憑依することで、初めてカミになったわけではありませんでした。 2021年10月16日 佐藤弘夫『日本人と神』 https://sicambre.at.webry.info/202110/article_16.html https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E7%A5%9E-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%BC%98%E5%A4%AB/dp/4065234042 講談社現代新書の一冊として、講談社より2021年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。著者の以前の一般向け著書『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ』にたいへん感銘を受けたので(関連記事)、本書はまず、日本列島におけるあらゆる宗教現象を神と仏の二要素に還元する「神仏習合」で読み解くことはできず、それは近代的思考の偏りである、と指摘します。本書はこの視点に基づいて、日本列島における信仰の変容を検証していきます。 ●先史時代
日本列島における信仰について本書はまず、現代日本社会において一般的な認識と思われる、山のように自然そのものを崇拝することが日本列島における信仰の最古層になっている、というような太古からの信仰が今でも「神道」など一部で続いている、といった言説に疑問を呈します。山麓から山を遥拝する形態や、一木一草に神が宿るという発想は室町時代以降に一般化し、神観念としても祭祀の作法としても比較的新しい、というわけです。 たとえば神祭りの「原初」形態を示すとされる三輪山では、山麓に点在する祭礼の痕跡は紀元後4世紀にさかのぼり、祭祀の形跡の多くは山を仰ぎ見る場所に設定されていることから、三輪山の信仰は当初から山を神聖視し、神の居場所である社殿はありませんでした。しかし、三輪山信仰の原初的形態が山を遥拝する形だったわけではない、と本書は指摘します。本書が重視するのは、恒常的な祭祀の場所が定められていなかった点です。山そのものを崇拝対象とするならば、現在の拝殿のように最適な地を祭祀の場と定めて定期的な祭りを行なえばすむだろう、というわけです。 そこで本書は、三輪山信仰の原初的形態の手がかりとして、三輪山遺跡と同時代(弥生時代後期〜古墳時代)の日本列島における神信仰を見ていきます。信仰の側面から見た弥生時代の最も顕著な特色は、神が姿を消すことです。縄文時代には信仰の遺物として、人間を超えた存在=カミ(人間を超える存在、聖なるもの)の表象として土偶がありましたが、弥生時代には聖なるものを可視的に表現した広義の神像が欠けています。弥生時代には、カミは直接的にではなく、シンボルもしくはイメージを通じて間接的に描写されるようになります。銅鐸などカミを祀るための道具は多数出土しているものの、カミを象ったと推測される像はほとんどない、というわけです。 カミが不可視の存在へと転換した弥生時代には、カミと人々とを媒介するシャーマンの役割が重視されるようになり、『三国志』に見える卑弥呼も三輪山遺跡もそうした文脈で解されます。古墳時代以前の社会では、カミは遠くから拝礼する対象ではなく、互いの声が届く範囲にカミを勧請して人々はその託宣を聞き、カミに語りかけました。これが弥生時代から古墳時代の基本的な祭祀形態だった、と本書は指摘します。記紀や風土記など古代の文献からも、山は神の棲む場所であっても神ではなく、人々が山を聖地として礼拝した事例はないので、現在の三輪山信仰は神祭りの最古形態ではなかった、と本書は指摘します。 では、日本列島における最古のカミのイメージとその儀礼はいかなるものだったのかが問題となります。人類の宗教の最も原基的な形態は、自然の森羅万象の中に精霊の動きを見出すアニミズムだった、との見解は現代日本社会において広く浸透しているようです。一方で20世紀後半以降、カミの存在を感知する心的能力は6万年前頃に現生人類で起きた認知構造の革命的変化に由来する、との仮説も提示されています。これが芸術など複雑で象徴的な行動も含めて現生人類(Homo sapiens)の文化を飛躍的に発展させた(創造の爆発説、神経学仮説)、というわけです(関連記事)。 本書はこうした認知考古学の成果も参照しつつ、日本の神の原型は不可視の「精霊」ではないと指摘し、「アニミズム」の範疇で把握することに疑問を呈します。本書が推測する人類における始原のカミは、抽象化された不可視のアニマ(生命、魂)としてではなく、個別具体的な事象に即して把握されていました。霊魂などの抽象的概念の登場以前に、眼前の現象がそのままカミとみなされていた段階があった、というわけです。具体的には、人に畏怖の念を抱かせる、雷や竜巻などの自然現象です。より日常的な現象としては、毎日起きる昼夜の交代です。人がカミを見出したもう一つの対象は、人にない力を有する動物たちで、具体的には熊や猛禽類や蛇などです。また、生命力を感じさせる植物、巨木や奇岩なども聖なる存在として把握されました。カミは最初、これら個々の現象や動植物などと不可分の存在でした。何かが個々の現象や動植物などに憑依することで、初めてカミになったわけではありませんでした。 こうした最初期のカミに対して、人はひたすら畏敬の念を抱くだけで、ある定まった形式で崇拝することはなく、祭祀が開始されるには、無数に存在してイメージが拡散していたカミを、集団が共有できる実態として一旦同定する必要がありました。日本列島でそれが始まったのは縄文時代でした。縄文時代にカミのイメージを象徴的に表現したものとして土偶がありましたが、それを超える高次のカミは想定されていなかった、と本書は推測します。ただ、こうしたイメージが集団に共有され、定期的な祭祀が行なわれるようになるのは、縄文時代中期以降でした。これにより、霊威を引き起こす不可視の存在としてカミを想定する段階へと転換していきます。カミの抽象化が進行していった、というわけです。死者への認識も変容していき、死者を生前と同様の交流可能な空間に留めておく段階から、死者だけの独立した空間が生まれ、膨張していきます。不可視の存在により構成されるもう一つの世界(他界)が人々に共有されるようになります。 上述のように、弥生時代にはカミそのものが殆ど表現されなくなります。カミの居場所はおおよその見当がつけられても、一ヶ所に定住することはなく、弥生時代から古墳時代のカミ祭りの形態は、カミを祭祀場に勧請し、終了後に帰っていただく、という形式でした。上述の三輪山祭祀遺跡はこの段階のものでした。超常現象は不可視のカミが起こすもの、との観念が共有されるようになった弥生時代以降には、自然災害や疫病など理解の及ばない事態にさいして、カミの意思の確認が喫緊の課題となりました。カミの意図を察知し、カミが求めるものを提供することでその怒りを和らげ、災禍の沈静化を図ったわけです。カミの言葉はシャーマンを介して人々に伝えられ、共同体共通の記憶としてのカミの言葉は次第に整序化された形で特定の語り部により伝承され、物語としての体系化と洗練化が進みます。カミの人格化と個性化の進展により、各集団の守護神もしくは祖先神としてのカミが特定されるようになると、太古のカミの仕業として世界や文化の起源が語られるようになりました。つまり、神話の誕生です。 古代日本の神は生活に伴う汚染を徹底して嫌い、共同体における神の重要な機能が集団内の清浄性の確保にあったことを示します。こうした観念は定住生活への移行により強化されていきましたが、これにより、排泄物や死骸に単なる物理的な汚染以上の、より抽象的・精神的な位置づけが与えられるようになっていきます。まず神の祟りがあり、汚染感知警告の役割を果たし、穢れが神に及んでいる、と察知されます。この過程で、国家形成とともに、不浄→祟り→秩序回復のシステムを国家が独占し、「穢れ」の内容を詳細に規定することで、神への影響を最小限に食い止めようとします。カミが嫌うものとの規定により、日常生活に伴う汚染と共同体に違背する行為が、カミの保持する秩序に対する反逆=ケガレと位置づけられ、罪と穢れはしばしば等質として把握されます。ケガレの概念は多様化し、対処するための宗教儀礼も複雑化していきます。本来は生存のための道具だったはずのカミが人の言動を規定し、人を支配する時代が到来したわけです。カミが人の思惑を超えて清浄性をどこまでも追求し始めると、カミが嫌う個別具体的な「穢れ」も本来の意味を超えて一人歩きを開始し、人の意識と行動を縛るようになります。日本でその運動が本格的に開始されたのは9世紀で、物忌みや方違えなどの禁忌が急速に発展し、人々の日常生活を規制するようになります。 ●古代
弥生時代から奈良時代までカミは常態として可視的な姿を持ちませんでしたが、そのイメージは次第に変化し、とくに重要なのは人格化の進展です。その主因として考えられるのは、死者がカミとして祀られることの定着です。それには、傑出した人物の出現が必要となります。これは、首長の墓が集団墓地から分離して巨大化し、平地から山上や山腹などより高い土地に築かれるようになったことと関連しています。特定の人物を超人的な存在(カミ)と把握するヒトガミ信仰の画期は3世紀で、その象徴が前方後円墳でした。前方後円墳では祭祀が行なわれましたが、長く継続して実施された痕跡は見当たらない、と考古学では指摘されています。本書は、当時の信仰形態から推測して、カミの棲む山としての後円部を仰ぎ見ることができ、山にいるカミを呼び寄せる場所に祭祀の痕跡があるのではないか、と推測します。じっさい、仙台市の遠見塚古墳では、後円部の周辺で長期にわたる祭祀継続の痕跡が見つかっています。本書は、前方後円墳がカミの棲む場所として造られた人工の山で、そこにカミとなった首長の霊魂を定着させようした試みだった、と推測します。ヒトガミ信仰の次の画期は天武朝で、天皇自身が神(アキツミカミ)と強調されました。この律令国家草創期に、天皇陵と認定された古墳は国家による奉仕の対象となりました。巨大古墳の意義は、大伽藍の出現や律令制による神祇祭祀制度の整備により失われ、天皇の地位は諸仏諸神により守護される特権的存在となりました。カミの棲む清浄な地としての山には、清浄性を求めて修行者が入るようになります。 カミのイメージ変遷で人格化とともに重要なのは、特定の地への神の定着です。弥生時代から古墳時代には、カミが特定の山にいたとしても、どこなのかは不明でした。そうした住所不定で祭祀の時にだけ来訪するカミから、定住するカミへの転換が進みます。これにより、7世紀末以降、神社の造営が本格化します。社殿の造営により、信仰形態は祭祀のたびに神を勧請することから、人が神のもとに出向いて礼拝することへと変わりました。これは寺院参詣と共通する形式で、神と仏(仏像)との機能面での接近を示します。神は一方的に祭祀を受ける存在となり、公的な儀礼の場から神と人との対話が消えていきます。 上述のように神をめぐる禁忌が増幅され、神は人が安易に接近してはならないものへと変貌していきます。神と仏(仏像)との機能面での接近は、神像を生み出しました。長く身体性を失っていた神が、再び具象的な姿をとることになったわけです。こうした神の変貌により、人と神との仲介者としてのシャーマンが姿を消します。これは、俗権を掌握する王の地位強化と対応しており、古墳時代中期には支配層の父系化が進みます(関連記事)。カミの言葉の解釈権を王が手中に収めるようになり、8世紀後半の宇佐八幡宮神託事件はその象徴でした。 カミの人格化と定住化の進展とともに、非合理で不可解だったカミの祟りが、次第に論理的なものへと変わっていきます。この過程で、善神と悪神の機能分化が進みます。祟りは全ての神の属性ではなく、御霊や疫神など特定の神の役割となりました。平安時代半ば以降、祟りの事例減少と比例するかのように、カミの作用として「罰(バチ)」が用いられるようになり、12世紀以降はほぼ「罰」一色となります。中世的な社会システムが整ってくる12世紀は、古代における「祟り」から中世の「罰」へとカミの機能が変化した時期でした。中世には、「賞罰」が組み合わされて頻出するようになります。カミは罰を下すだけの存在ではなく、人々の行為に応じて厳正な賞罰の権限を行使しました。カミは突然予期せぬ祟りを起こす存在から、予め人がなすべき明確な行動基準を示し、それに厳格に対応する存在と把握されるようになります。古代のカミは、目前に存在する生々しさと、人知の及ばない強い験力の保持を特徴とし、その力の源泉が「清浄」性でした。 ●古代から中世へ
人が神・仏といったカミ(超越的存在)や死者と同じ空間を共有するという古代的な世界観(来世は現世の投影で、その延長に他ならない、との認識)は、紀元後10世紀後半(以下、紀元後の場合は省略します)以降次第に変容していきます。人の世界(この世)からカミの世界(あの世)が分離し、膨張していきます。こうして、ヒトの住む現世(此岸)と不可視の超越者がいる理想郷(彼岸)との緊張感のある対峙という、中世的な二元的世界が形成されます。人の認知できないもう一つの空間イメージが、人々の意識において急速に膨張していったわけです。古代では、カミの居場所は遠くてもせいぜい山頂でしたが、中世では、この世とは次元を異にする他界が実在する、との観念が広く社会に流通しました。曖昧だったカミと死者との関係も、救済者・彼救済者として位置づけ直されました。彼岸=浄土はもはや普通の人が気軽に行ける場所ではなくなったわけです。 12世紀には、救済者のいる彼岸世界(浄土)こそが真実の世界とされ、この世(此岸)は浄土に到達するための仮の世(穢土)との認識が一般化しました。浄土については、浄土教のように浄土の客観的実在性を強調するものから、ありのままの現実世界の背後に真実の世界を見ようとする密教に至るまで、この世とあの世の距離の取り方は宗派によりさまざまでしたが、身分階層を超えて人々を平等に包み込む普遍的世界が実在する、という理念が広く社会で共有されるようになります。この古代から中世への移行期に起きた世界観の大きな転換はかつて、浄土思想の受容と定着の結果と主張されました。しかし本書は、最初にこの世界観を理論化しようとしたのは浄土教の系譜に連なる人々だったものの、それは世界観の変容の原因ではなく結果だった、と指摘します。中世ヨーロッパのように、不可視の他界の膨張は、人類史がある段階で体験する一般的な現象だろう、と本書は指摘します。日本列島では、それに適合的な思想として彼岸の理想世界の実在を説く浄土信仰が受け入れられ、新たな世界観の体系化が促進された、というわけです。 しかし中世には、全てのカミがその住所を彼岸に移したわけではなく、人と共生する神仏の方がはるかに多かった、と本書は指摘します。中世の仏には、人々を、生死を超えた救済に導く姿形のない普遍的な存在(民族や国籍は意味を持ちません)と、具体的な外観を与えられた仏像の二種類が存在しました。後者は日本の神と同様に日本の人々を特別扱いし、無条件に守護する存在で、「この世のカミ」としての仏です。中世の世界観は、究極の救済者が住む不可視の理想世界と、人が日常生活を送るこの世から構成される二重構造でした。 この10〜12世紀における世界観の転換は、古代においてカミに宿るとされた特殊な力の源となった、仏像・神像に宿る「聖霊」と呼ばれるような霊魂のごとき存在に対する思弁が展開し、さまざまなイメージが付加されていく延長線上にありました。この大きな転換のもう一つの要因として、疫病や天変地異や騒乱などによる不安定な社会があります。中世は近世と比較してはるかに流動性の高い時代で、人と土地との結びつきは弱く、大半の階層は先祖から子孫へと受け継がれる「家」を形成できず、死者を長期にわたって弔い続ける社会環境は未熟でした。不安定な生活で継続的な供養を期待できないため、人は短期間での完全な救済実現を望みました。 中世人にとって大きな課題となったのは、当然のことながら浄土を実際に見た人がおらず、その実在を信じることが容易ではなかったことでした。そこで、浄土の仏たちは自分の分身をこの世に派遣し、人々を励ました、と考えられました。それが「垂迹」で、あの世の仏がこの世に具体的な姿で出現することを意味します。不可視の本地仏の顕現こそが、中世の本地垂迹の骨子となる概念でした。垂迹を代表する存在が、菩薩像や明王像・天部の像を含む広義の仏像(この世の仏)でした。11〜14世紀に大量の阿弥陀像が造立され、人々が仏像に向かって浄土往生を願ったのは、阿弥陀像が浄土にいる本地仏(あの世の仏)の化身=垂迹だったからです。 この世の仏で仏像より重要な役割を担うと信じられたのは、往生を願う者の祈りに応えてその場に随時化現する垂迹(生身)でした。これは、彼岸の仏がある人物のためだけに特別に姿を現す現象なので、祈願成就を意味すると解釈され、とくに尊重されました。仏像や生身仏とともに垂迹を代表するのが、日本の伝統的な神々でした。中世の本地垂迹は、彼岸世界の根源神と現世のカミを垂直に結びつける論理でした。それをインドの仏と日本の神との同一地平上の平行関係として、現世内部で完結する論理として理解しようとする立場は、彼岸世界が縮小し、人々が不可視の浄土のイメージを共有できなくなった近世以降の発想でした。 垂迹として把握されていたのは、仏像と日本の神だけではなく、聖徳太子や伝教大師や弘法大師などの聖人・祖師たちでした。垂迹としての聖人の代表が聖徳太子で、古代には南岳慧思の生まれ変わりと考えられていましたが、中世には、極楽浄土の阿弥陀仏の脇侍である観音菩薩の垂迹との説が主流となりました。古代における日中という水平の位置関係から、中世における極楽浄土と此土という垂直の位置関係で把握されたわけです。親鸞も若いころに真実の救済を求めて聖徳太子の廟所を訪れました。インドに生まれた釈迦も垂迹とされ、その意味では聖徳太子と同水準の存在とみなされました。 中世人に共有されていた根源的存在のイメージは、それと結びつくことにより、日常的なものや卑俗なものを聖なる高みに引き上げる役割を果たすことも多くありました。差別の眼差しに晒された遊女の長者が、普賢菩薩の化身とされたり、身分の低い牛飼い童が生身の地蔵菩薩とされたりしました。日頃差別される人々を聖なる存在の化身とする発想は非人でも見られ、文殊菩薩が非人の姿で出現する、と広く信じられていました。社会的弱者や底辺層の人々であっても、他界の根源神と結びつくことにより、現世の序列を超えて一挙に聖性を帯びた存在に上昇することがある、と考えられていたわけです。 垂迹の使命は末法の衆生救済なので、その所在が聖地=彼岸世界の通路とみなされることはよくありました。善光寺や春日社や賀茂社などは、霊場として人々を惹きつけていきました。他界への通路と考えられた霊験の地は多くの場合、見晴らしのよい山頂や高台に設けられました。寺院では、垂迹の鎮座する「奥の院」は、高野山や室生寺や醍醐寺に典型的なように、寺内の最も高い場所に置かれました。これは、山こそがこの世で最も清浄な地であるという、古代以来の観念を背景としたものでした。山を不可欠の舞台装置として、周囲の自然景観を取り入れた中世の来迎図は、自然の風景が登場しない敦煌壁画の浄土変相図などとは異なり、日本の浄土信仰が大陸とは異なった方向に発展したことを端的に示す事例でした。 こうした中世の世界観は、仏教者により占有されたとも言えます。これに違和感を抱いたり反発したりしたのが、神祇信仰に関わる人々でした。平安時代後期から「神道五部書」などの教理書が作成されるようになり、「中世神道」と呼ばれる壮大な思想世界が構築されていきました。その中心的課題は、人が感知できない根源者の存在証明とその救済機能でした。13世紀後半、伊勢において新たな神祇思想の流れが起き、度会行忠たち外宮の神官たちにより伊勢神道が形成されました。伊勢神道の聖典である神道五部書では、仏教や道教の思想的影響下で、この世を創生し主宰する唯一神の観念が成長していきます。国常立神や天照大神は超越性が格段に強化され、伊勢神道は仏教界が「本地」という概念で自らに取り込んだ根源的存在を、仏教から切り離して神祇信仰側に引き入れようとしました。伊勢神道の影響を受けた慈遍は、南北朝時代に国常立神を永遠不滅の究極的存在にまで高め、仏教が独占してきた究極的存在=本地仏の地位を神に与えました。こうして中世には、仏教・道教・神祇信仰といった枠組みを超えてカミの形而上学的考察が進み、不可視の究極者に対する接近が思想の基調となりました。人種や身分の相違を超えて、全ての人が等しく巨大な超越者の懐に包まれている、というイメージが中世人の皮膚感覚となります。 救済者としてのカミに対する思弁の深化は、一方で被救済者としての人の存在について考察の深まりをもたらしました。救済を追求していくと、平凡な人が生死を超越できるのか、という疑問に正面から向き合わざるを得なくなるからです。人が救済されるための条件を思索するうちに、万人の持つ内なる聖性が発見されていきます。カミが徹底して外部の存在とされた古代に対して、中世では人に内在するカミが発見されていきます。人の肉体を霊魂の宿る場と考え、霊魂が体から離れて帰れなくなる事態を死とみなす発想は古代から存在しました。「タマ」と呼ばれた霊は、容易に身体を離れる存在でした。 中世には、仏教の内在する「仏性」の観念と結びつき、その聖性と超越性が高まっていきます。仏教、とくにアジア東部に伝播した大乗仏教では、全ての人が仏性を持つことは共通の大前提でした(一切衆生、悉有仏性)。全ての人は等しく聖なる種子を持っており、修行を通じてその種子を発芽させて育てていくことにより、誰もが仏になれる、というわけです。こうした理念は古代日本にもたらされていましたが、超越的存在が霊威を持つ外在者のイメージで把握されていた古代社会では、内在する聖性という理念が大衆に受容され、定着することはできませんでした。聖なる存在への接近は、首長や天皇など選ばれた人が特別の儀式を経て上昇するか、修行者が超人的な努力の積み重ねにより到達できる地位でした。 一方、万人に内在する仏性が発見された中世では、カミへの上昇は特別な身分や能力の人に限定されず、誰もが仏になれました。根源的存在は、絶対的な救済者であると同時に森羅万象に偏財しており、人は心の中の内なる仏性を発見し、発現することにより自らを聖なる高みに上昇させられる、との理念が人々に共有されるようになります。人と超越的存在を一体的に把握する発想は神祇信仰でも受容され、その基調となりました。一方的に託宣を下して祟りをもたらした古代の神が、宇宙の根源神へと上昇していくと同時に、個々人の心の中にまで入り込み、神は究極の絶対的存在故にあらゆる存在に内在する、と考えられました。こうした理念は、「神は正直の頭に宿る」、「心は神明の舎なり」といった平易な表現の俗諺として、衆庶に浸透していきます。 いわゆる鎌倉仏教は、戦後日本の仏教研究の花形で、鎌倉時代に他に例のないほど仏教改革運動が盛り上がり、その大衆化が進んだのはなぜか、と研究が進みました。その後、鎌倉仏教を特別視するような見解は相対化されてきましたが(関連記事)、鎌倉時代における仏教の盛り上がり自体はほとんど否定されていません。鎌倉仏教に共通するのは、方法論の違いはあっても、身分や地位や学識などの相違に関わらず万人が漏れなく救済される、という強い確信です。悉有仏性の理念はインドの大乗仏教にすでに備わっていましたが、日本では上述のように古代には開花せず、絶対的な救済者と俗世を超える彼岸世界の現実感が人々に共有され、万人が聖性を内在しているという理念が社会に浸透した中世に初めて、生死を超えた救済の追求が可能となる客観的条件が整い、その延長線上に鎌倉仏教が誕生します。 古代から中世への移行に伴うこうした世界観の変容は、王権の在り様にも重大な転換をもたらしました。古代の天皇は、アキツミカミとしての自身の宗教的権威により正当化されるだけではなく、律令制、皇祖神や天神地祇や仏教の諸尊など外部のカミにより、守護されていました。中世に彼岸世界のイメージが膨張すると、現世的存在である天皇は、もはや他界の根源神の仲間に加わることはできませんでした。天皇は一次的な権威になり得ない、というわけです。天皇は、古代のように同格のカミとの連携ではなく、より本源的な権威に支えられる必要性が生じます。 12世紀に、伝統仏教で「仏法」と「王法」の協力関係の重要性が主張されるようになり、「仏法王法相依論」として定式化されます。これは、世俗権力の存続には宗教的権威による支援が不可欠とする、中世的な王権と仏教との関係を端的に表現していました。これは伝統仏教側から主張されましたが、同じ世界観を共有する王権も強く規定しました。王権の側は、仏法により外側から守護してもらうだけではなく、根源的存在との間に直接的通路を設けようとしました。古代では、原則として天皇が仏教と接触することは禁忌とされていましたが、12世紀以降、即位式の前に仏教的儀式が行なわれるようになり、天皇が大日如来に変身する即位灌頂などがあります。しかし、中世において天皇を神秘化する言説も散見されるものの、天皇が地獄や魔道に堕ちる話はずっと多く、王権側の試みは必ずしも奏功しませんでした。この世の根底に存在する人知を超えたカミの意思に反した場合、神孫である天皇でさえ失脚や滅亡から逃れられない、との理念が中世社会では共有されていました。中世人は、自身と天皇との間に、隔絶する聖性の壁を認めませんでした。天皇もあの世のカミの前では一人の救済対象にすぎなかった、というわけです。 天皇の即位儀礼として最重視されていた大嘗祭が、応仁の乱の前年から200年以上にわたって中断された背景は、政治的混乱や経済的困窮だけではなく、皇祖神の天照大神の「この世のカミ」としての位置づけ=二次的権威化に伴い、大嘗祭が天皇神秘化の作法としてほとんど意味を喪失したことにもありました。こうした中世固有の世界観を前提として、他界の根源神の権威を現世の王権の相対化の論理として用いることにより、天皇家から北条への「国王」の地位の移動=革命を明言する日蓮のような宗教者も出現します。 ●中世から近世へ
中世前期に確立する、人の内面に超越的存在(カミ)を見出だそうとする立場は、中世後期にいっそう深化し、宗派の別を超えて共有されるとともに、芸能・文芸・美術などの分野に広範な影響を与えました。人のありのままの振る舞いが仏であり神の姿そのものとされたわけです。こうした思潮に掉さして発展し、浸透していくのが本覚思想(天台本覚思想)です。本覚思想では、ごく普通の人が如来=仏そのものと説かれています。人は努力と修行を重ねて仏という高みに到達するわけではなく、生まれながらにして仏であり、仏になるのではなく、自分が仏と気づきさえすればよい、というわけです。こうした思想に基づく文献が、最澄や良源や源信といった天台宗の高僧の名で大量に偽作され、流通していきました。 カミ=救済者を人と対峙する他者として設定するキリスト教やイスラム教とは異なり、仏教の特質は、人が到達すべき究極の目標を救済者と同水準に設定するところにありました。釈迦がたどり着いた仏の境地は釈迦だけの特権ではなく、万人に開かれたものであり、真実の法に目覚め、胸中の仏性(仏の種)を開花させることにより、誰もが仏になれる、というわけです。しかし、成仏に至る過程は、時代と地域により異なります。大まかな傾向として、人と仏との距離は、時代が下るにつれて、東方に伝播するにつれて短くなります。 大乗仏教では「一切衆生、悉有仏性(聖性の遍在)」が強調されましたが、とりわけ日本では、人と仏は接近して把握される傾向が強く、その延長線上に生まれたのが本覚思想でした。本覚思想は二元的世界観とそれを前提とする浄土信仰が主流だった中世前期には、まだ教団教学の世界に留まっていましたが、中世後期には広く社会に受容されていきます。成仏を目指した特別の修行を不要とするような極端な主張は、日本以外の仏教ではほとんど見られません。絶対者を追求し続けた中世の思想家たちは、万物へのカミの内在の発見を契機に、その視点を外部から人の内面へと一気に転じました。カミはその超越性ゆえにあらゆる事物に遍在する、というわけです。超越性の追求が、キリスト教やイスラム教で見られるような人とカミの隔絶という方向ではなく、万物への聖性の内在という方向に進むところに、日本の神観念の特色がありました。 こうした傾向の延長線上として、法然や日蓮など中世前期の思想に見られるような、救済者と彼救済者、浄土と此土といった厳しい二元的対立が解消されていきます。法然や日蓮においては、救済者は人と対峙する存在として超越性が強調されていましたが、その後継者たちは、救済者の外圧的・絶対的性格が薄められ、宇宙と人への内在が強調されるようになります。仏に手を引かれて向かうべき他界浄土のイメージがしだいに希薄化し、救済者と彼救済者、他界と現世の境界が曖昧となり、彼岸が現世に溶け込んでいきます。 いわゆる鎌倉仏教において、その転換点に位置するのが一遍でした。一遍は浄土教の系譜に位置づけられますが、その救済論は、救済者としての阿弥陀仏と彼救済者としての衆生との間の厳しい葛藤と緊張を想定した法然の対極に位置し、仏は何の抵抗もなく彼救済者の体内に入っています。浄土は死後に到達すべき遠い他界ではなく、信心が確立した時、その人は阿弥陀仏の命を譲り受けている、というわけです。こうした発想は一遍に留まらず、中世後期の浄土信仰の主流となっていきます。救済者と彼救済者の境の曖昧化という方向性は、宗派を超えて中世後期の思想界の一大潮流となります。 中世から近世への転換期において、外在する他界のカミが存在感を失っていくもう一つの原因は、政治権力に対する宗教勢力の屈伏でした。浄土真宗と法華宗(日蓮宗)ではとりわけ一揆が盛んで、両派は中世でもとりわけ他界の仏の超越的性格を強調しました。日本史上、外在する絶対的存在としてのカミのイメージが最も高揚したのは戦国時代の宗教一揆で、異次元世界にある万物の創造主を想定するキリスト教の思想も、そうした時代思潮を背景に受け入れられていきました。一向一揆が平定され、島原の乱が鎮圧されると、その背景にあった強大な超越者もその力を喪失し、カミの内在化という時代趨勢に呑み込まれ、現実世界に溶け込んでいきました。 こうした過程を経て宗教的な理想世界のイメージが内在化・後景化した近世では、政治権力の正当性は他界のカミとの関係性ではなく、純然たる現実社会の力学から生み出されることになりました。人間関係の非対称性が、現世内部だけの要因により再生産される時代が到来したわけです。この新たに誕生した幕藩制国家に国制の枠組みと政治的権威を提供したのが天皇でした。天皇を頂点とする身分序列と天皇が授与する官位の体系は、国家水準での秩序を支える最上位の制度として、中世と比較して飛躍的に重みを増すことになりました。 中世後期には、人の内側だけではなく、自然界にもカミとその働きを見ようとする指向性が強まりました。その思潮を理論的に裏づけたのが本覚思想で、草木から岩石に至るこの世の一切の存在に仏性を見出し、眼前の現実をそのまま真理の現れとして受け入れていこうとする立場は、「草木国土悉皆成仏」という言葉で概念化されて広く流通しました。人以外の生物や「非情(心を持たない)」という分類で把握される草木が人と同じように成仏できるのかという問題は、仏教発祥地のインドでは主要な問題とはならず、初期仏教で最大の関心事は、人はいかに生きるべきか、という問題でした。「草木国土」のような人を取り巻く存在に視線が向けられ、その救済が議論されるようになったのは、アジア東部に定着した大乗仏教においてでした。 隋代の天台智は「一念三千」という法門を説き、この世界のあらゆる存在に仏性が遍く行き渡っていると論じ、草木や国土の成仏を肯定するための理論的基盤が確立されました。これを万物の成仏という方向に展開したのが平安時代前期の天台僧安然で、初めて「草木国土悉皆成仏」という言葉が生み出され、その延長線上に仏国土=浄土とする本覚思想が開花します。本覚思想では、理想世界は認知不可能な異次元空間に存在したり、現実の背後に隠れたりしているわけではなく、眼前の光景が浄土でした。室町時代には、古い道具が妖怪に変身する付喪神が絵画として表現されるようになりますが、これもそうした時代思潮を背景としていました。 上述のように、古代において山に神が棲むという観念は一般化していても、山そのものを神とする見方はまだなく、山をまるごと御神体として遥拝する信仰形態の普及は、自然にカミを見出す「草木国土悉皆成仏」の理念が浸透する中世後期になって初めて可能となる現象でした。日本的な自然観の典型とされる山を神とみなす思想は、太古以来の「アニミズム」の伝統ではありませんでした。記紀神話における山の人格化は、人と自然を同次元の存在として、対称性・連続性の関係で把握する発想に基づいていました。人々が山に畏敬の念を抱いても、タマ(霊)が宿っているから山を拝むという発想は、古代には存在しませんでした。一方、神体山の信仰は、カミの自然への内在化という過程を経て出現する、高度に抽象化された中世の思想を背景としていました。「草木国土悉皆成仏」の思想は室町時代の芸術諸分野に広く浸透しました。 内在するカミという概念は、中世前期には抽象的な理念の段階に留まっており、万人をカミに引き上げる論理として現実に機能することは殆どありませんでした。人のカミへの上昇(ヒトガミ)は、中世前期には聖徳太子など選ばれた人に限られており、それも本地垂迹の論理により彼岸の本地仏との関係で説明され、一般人はまだ救済の対象でした。しかし、中世後期には現実の光景と超越的存在との境目が次第に曖昧化し、現実の人がありのままの姿で仏だと強調され、そうした認識が思想界の主流を占めるようになります。これは、彼岸の超越的存在に媒介されない、新たなヒトガミの誕生を意味します。人は救済者の光を浴びてカミに上昇するのではなく、自らに内在する聖性によりカミになる、というわけです。これは仏教の世界に留まらず、中世後期にはまだ権力者や神官など特殊な人物に限定されているものの、古代の天皇霊とは異なり、人が自らの意志により生きたまま神に上昇できるようになります。神は誰もがじっさいに到達可能な地位とされ、神と人との距離は接近します。こうした思潮を神祇信仰で理論化したのが、吉田神道の祖とされる吉田兼倶でした。 世俗社会の普通の人が実は神仏の姿そのものとの認識は、聖性発現によりカミへの上昇を目指す宗教的実践の軽視に結びつきました。これにより大きな問題となったのが、信仰の世界への世俗的要素の侵入です。中世において、寺社勢力の組織化と広大な荘園領有といった世俗化が進展した一方で、信仰世界から世俗的要素を締め出そうとする傾向も強くありました。しかし、中世後期における聖俗の緊張関係の弛緩は、信仰の世界への世俗的要素侵入の道を開きました。 こうした理想世界と現世との一体化は、現実社会を相対化して批判する視点の喪失をもたらしました。中世前期に見られた信仰至上主義と信心の純粋化を目指す運動は、俗権に対する教権の優位を主張するとともに、信仰世界に向けられた権力の干渉の排除を指向しました。支配権力の意義は正しい宗教を庇護することにあり、その任務を放棄すれば、支配権力は正統性を失い、死後には悪道に堕ちることさえ覚悟しなければなりません。中世の文献に多数出現する天皇の堕地獄譚は、そうした思想状況を背景としていました。しかし、根源神が眼前の自然に溶け込んでしまうと、宗教者がカミの権威を後ろ盾としてこの世界の権力を相対化するような戦略は取れなくなりました。浄土が現世と重なりあったため、理想の浄土に照らして現状を批判するという視座も取れませんでした。この世に残ったカミからは、その聖性の水源が枯れてしまったことを意味するわけです。 彼岸の根源神を背後に持たない日本の神仏には、もはや人々を悟りに導いたり、遠い世界に送り出したりする力はなく、神も仏も人々のこまごまとした現世の願いに丹念に応えていくことに、新たな生業の道を見出していきます。誰もがカミになれるので、より強大な権力を握る人物が、より巨大なカミになる道が開けました。中世前期のように他界の絶対者の光に照らされたカミになるわけではなく、中世後期には自らの内なる光源によりヒトガミが発生しました。その光源には、身分や地位や権力といった世俗的要素が入り込み、やがて主要な地位を占めるに至ります。 聖俗の境界の曖昧化は、差別の固定化にもつながりました。とくに問題となったのは「穢れ」で、中世には社会の隅々にまで穢れ観念が浸透します。中世前期には、神が垂迹することは万人をはぐくみ助けるためで、本地の慈悲の心が垂迹にまとわりついた習俗としての忌に優先する、と考えられました。平安時代中期以降、女性は穢れた存在との見方が広まり、清浄な山への立ち入りが制限されていきましたが(女人結界)、いわゆる鎌倉仏教の祖師たちは、法然や親鸞のように女人罪障の問題にほとんど論及せず、弥陀の本願による平等の救済を強調するか、道元のように女性固有の罪障や女人結界そのものを否定しました。 日本における穢れの禁忌は、その対極にある神仏との関係において肥大化し、中世において穢れ意識を増幅させるこの世の神仏とは、彼岸の仏の垂迹に他なりませんでした。禁忌に拘束されない事例は、いずれも垂迹の背後の本地仏=根源的存在の意思が働いたためでした。穢れ意識が拡大し、差別の網の目が社会に張り巡らされるかのように見える中世において、彼岸の根源的存在との間に直結した回路を設けることで、差別を一気に無化していく道筋が承認されていたわけです。しかし、不可視の彼岸世界と絶対的な救済者の現実感が褪色していくにつれて、本地仏の力により差別を瞬時に克服する方途は次第に縮小していき、社会において特定の身分と結びついた穢れと差別意識の固定化につながりました。その延長線上に、社会の穢れを一手に負わされた被差別民が特定の地区に封じ込められ、その刻印を消し去る道がほぼ完全に封じられた、近世社会が到来します。 中世後期に進展する本源的存在の現実感の希薄化(彼岸の縮小と救済者としての本地仏に対する現実感の喪失)は、人々の関心を再び現世に向かわせます。彼岸の浄土は、もはや人々に共有されることはなく、人々を惹きつけてきた吸引力が失われていきます。近世にも浄土信仰はありましたが、仏の来訪はほとんど問題とされず、超越者からの夢告も重視されなくなり、個人的体験としての来迎仏=生身仏との遭遇が信仰上の価値を失い、仏像などの定型化した形像の役割が再浮上してきます。 中世前期には、大半の人にとって現世での生活よりも死後の救済の方が切実な意味を持ち、来世での安楽が保証されるなら、この世の生を多少早めに切り上げてもよい、と考えられていました。不安定で流動的な生活と、死の危険に満ちた社会が、現世を相対化する認識の背景にありました。こうした世界観が中世後期に大きく転換する背景として、惣と呼ばれる地縁共同体が各地に生まれ、全構成員により村落運営が決定されるようになったことがあり、人々の土地への定着と、先祖から子孫へと継承される「家」の形成が庶民層まで下降しました。こうして、突然落命する危険性は中世と比較して大きく減少し、この世の生活自体がかけがえのない価値を有している、との見方が広く定着しました。浮世での生活を精一杯楽しみ、死後のことは死期が近づいたら考えればよい、という近代まで継続する新たな世界観と価値観が形成されたわけです。 この中世後期に起きた世界観の旋回は、人生観だけではなく、死後世界のイメージも大きく転換させました。他界浄土の現実感が失われた結果、死者は遠い世界に旅立たなくなり、死後も懐かしい国土に留まり、生者と交流を継続することが理想と考えられるようになりました。カミだけではなく死者の世界でもこの世への回帰が開始され、冥界が俗世の延長として把握されるようになり、現世的要素が死後世界に入り込んでくるようになります。こうした転換を承けて神や仏が新たな任務として見出したのが、この世に共生する人と死者の多彩な欲求に応えていくことでした。とげ抜き地蔵や縛り地蔵などさまざまな機能を持ったカミが次々と誕生し、「流行神」が生まれては消えていきました。他界への飛翔を実現すべく、垂迹との邂逅を渇望して一直線的に目的地を目指した中世前期の霊場参詣とは異なり、平穏で満ち足りた生活を祈りながら、娯楽を兼ねて複数の神仏を拝む巡礼が、中世後期以降の霊場信仰の主流となります。 中世前期には、彼岸の浄土とこの世の悪道の二者択一を死者は求められましたが、死後世界のイメージの大きな転換に伴い、そのどちらにも属さない中間領域が出現し、中世後期には急速にその存在感を増していきます。救済がまだ成就しない者たちは山で試練を受けている、といった話が語られるようになります。こうした中間領域など死後世界の世俗化が進み、死後の理想の在り様が生者の願望に引きつけて解釈されるようになり、人がこの世において生死を繰り返すだけで、どこか別の世界に行くことはない、との語りも登場します。仏はもはや人を他界に誘うことも、生死を超えた悟りへと導くこともなく、人が生死どちらの状態でも平穏な生活を送れるよう、見守り続けることが役割となります。 近世人は、他界浄土の現実感を共有できず、遠い浄土への往生を真剣に願うことがなくなります。近世人にとって、人から人への循環を踏み外すことが最大の恐怖となり、その文脈で地獄など悪道への転落が忌避されました。ただ、いかに彼岸の現世化が進んだとはいえ、檀家制度が機能して仏教が圧倒的な影響力を有していた近世には、死者は仏がいて蓮の花の咲く浄土で最終的な解脱を目指して修行している、という中世以来のイメージが完全に消え去ることはありませんでした。しかし、幕末に向かうにつれて他界としての浄土のイメージがさらに希薄化すると、死後世界の表象そのものが大きく変わり、死者の命運をつかさどる仏の存在がさらに後景化し、ついには死後の世界から仏の姿が消え去ります。こうした世俗化の中で、近世には妖怪文化が開花し、妖怪は現実世界内部の手を伸ばせば触れられるような場所に、具体的な姿形で居住する、と描かれました。 死者がこの世に滞在し、俗世と同じような生活を送ると考えられるようになると、死者救済の観念も変わっていきます。死者がこの世に留まるのは、遠い理想世界の観念が焼失したからで、死者を瞬時に救ってくれる絶対的な救済者のイメージが退潮していきます。仏はもはや人を高みに導く役割を果たさず、死者を世話するのはその親族でした。中世後期から近世にかけて、死者供養に果たす人の役割が相対的に浮上し、それは「家」が成立する過程と深く連動していました。この動向は支配階層から始まり、江戸時代には庶民層にまで拡大していき、江戸時代後期には裕福な商人層や上層農民からより下層へと降りていきます。死後の生活のイメージも変化し、生者が解脱を求めなくなるのと同様に、死者も悟りの成就を願わなくなり、世俗的な衣食住に満ち足りた生活を理想とするようになります。死者の安穏は遥かな浄土への旅立ちではなく、現実世界のどこかしかるべき地点になりました。「草葉の陰で眠る」というような死者のイメージが、近世には定着していきます。 親族が死者の供養を継続するには、死者を記憶し続けることが不可欠でした。これにより、死者は次第に生前の生々しい欲望や怨念を振り捨てて、安定した先祖にまで上昇できる、と信じられました。中世には墓地に埋葬者の名が刻まれることはなく、直接記憶する人がいなくなると匿名化しました。死者は、その命運を彼岸の仏に委ねた瞬間に救済が確定するので、遺族が死者の行く末を気にする必要はありませんでした。しかし、遺族が供養を担当するようになると、死者が墓で心地よく眠り続けるために、生者の側がそのための客観的条件を整えねばならなくなります。墓は、朝夕にありがたい読経の声が聞こえる、寺院の境内に建てられる必要がありました。近世初頭には、墓地を守るための多数の寺院が新たに造営されました。さらに、縁者は死者が寂しい思いをしないですむよう、定期的に墓を訪問したり、時には死者を自宅に招いたりしなければなりませんでした。こうした交流を通じて、死者は徐々に神の段階=「ご先祖さま」にまで上昇する、と信じられました。死者は、中世には救済者の力により瞬時にカミに変身しましたが、近世には生者との長い交渉の末にカミの地位に到達しました。 ただ、全ての死者が幸福な生活を送ったわけではなく、近世でも冷酷な殺人や死体遺棄や供養の放棄など、生者側の一方的な契約不履行は後を絶ちませんでした。そのため、恨みを含んで無秩序に現世に越境する死者も膨大な数になった、と考えられました。こうした恨みを残した人々は、幽霊となって現世に復讐に現れる、と考えられました。中世にも未練を伸してこの世をさまよう死霊はいましたが、大半は権力者のような特別な人物で、その結末は復讐の完結ではなく、仏の力による救済でした。近世には、誰でも幽霊になる可能性があり、その目的は宗教的な次元での救済ではなく、復讐の完遂でした。 ●近世から近代へ
上述のように、近世には誰もが自らの内なる光源によりカミとなれ、それは俗世の身分や権力を強く反映するものでした。近世初頭にまずカミとなったのが最高権力者である豊臣秀吉や徳川家康といった天下人だったことには、そうした背景がありました。天下人に続いて近世において神として祀られたのは、大名や武士でした。近世後期になると、カミになる人々の階層が下降するとともに、下からの運動で特定の人物が神にまで上昇する事例も見られ、その一例が天皇信仰です。以前よりも下層の人物がカミと崇められるようになった事例としては、治水工事などで人柱となった者がいます。人柱は古代にもありましたが、それは多くの場合、神からの供犠の要求でした。一方、近世の人柱は、神に要求されたからではなく、同じ村落などの他者への献身のためでした。また、こうした覚悟の死ではなく、日常の些細な問題を解決してくれた人が、神に祭り上げられることもあり、頭痛や虫歯など多彩な効能を持つヒトガミが各地に出現しました。近世後期には、誰もが状況によりカミとなれる時代で、世俗社会に先駆けて、神々の世界で身分という社会的縛りが意味を失い始めていました。 幕末には世俗ではとくに他界身分ではない人々がイキガミとされ、そのイキガミを教祖としてさまざまな「民衆宗教」が誕生しました。それは黒住教や天理教や金光教などで、教祖は自ら神と認めていたものの、神としての権威を教祖が独占することはなく、広く信徒や庶民に霊性を見出だそうとしました。こうした理念が直ちに身分制撤廃といった先鋭的な主張に結びつくわけではなく、それぞれの分に応じて勤勉に励むことでより裕福になれる、という論理が展開されました。しかし、神人同体観な基づく人としての平等が主張され、その認識が社会に根づき始めていたことは重要で、富士講に身分を超えた参加者がいることに、幕府は警戒するようになります。 これと関連して、近世には石田梅岩などにより通俗道徳が庶民層にも流通します。これを封建社会の支配イデオロギーと見ることもできるかもしれませんが、近代社会形成期に特有の広範な人々の主体形成過程を読みとる見解もあります。こうした石門心学などの思想には、人に内在する可能性を認めて社会での発現を是とする、民衆宗教と共通する人間観があり、近世に広く受容された、善としての本性を回復すれば全ての人間が聖人になれると説く朱子学や、人が持つ本源的可能性を肯定し、その回復のための実践を強調する陽明学とも共通していました。自分の職分の遂行により自らを輝かすことが肯定されるような新しい思潮は、近世後期の社会に着実に広がり始めていました。 一方、誰もが自らの内なる光源でカミに上昇できる、との観念が広く定着した近世後期には、まったく異なる文脈で人をカミに上昇させようとする論理が次第に影響力を増していきました。それは、山崎闇斎に始まる垂加神道と、それに影響を与えた吉田神道が主張する、天皇への奉仕により死後神の座に列なることができる、という思想です。吉田神道や垂加神道では、特定の人物の霊魂に「霊神」・「霊社」号を付与して祀ることが行なわれていました。その系譜から、天皇との関係において人を神に祭り上げる論理が生み出され、実践されていきます。この場合の天皇の聖性は、上述の下からの運動による天皇信仰とは似て非なるものでした。庶民が心を寄せる小さな神々の一つだった天皇とは異なり、垂加神道における天皇は人をカミに上昇させる媒体として位置づけられ、通常の神々を凌ぐ強い威力の存在とみなされました。垂加神道では、肉体は滅びても霊魂は永遠に不滅で、生前の功績により人は神の世界に加わることができ、霊界でも現実世界と同様の天皇中心の身分秩序が形成されていました。天皇に対する献身の度合いによっては、現世の序列を一気に飛び越えることも可能になったわけです。垂加神道は、死後の安心を天皇信仰との関わりにおいて提起した点で、画期的意味を持ちました。 幕末に向けての、こうしたヒトガミもしくはイキガミ観念の高揚も、民衆宗教と同様に、人の主体性と可能性を積極的に肯定しようとする時代思潮の指標とみなせます。垂加神道では天皇、民衆宗教では土着の神という相違点はありましたが、仏教やキリスト教など外来宗教のカミではなく、日本固有の(と考えられていた)カミが再発見されていくわけです。人々の肯定的な自己認識と上昇指向は、19世紀には幕藩体制下での固定化された身分秩序を負の制約と感じる段階にまで到達していました。現実の秩序を一気に超越しようとする願望は、民衆の深層意識の反映でした。 こうした時代思潮を背景にした幕末維新の動乱は、単なる政治闘争ではなく、長期間の熟成を経た新たな人間観のうねりが既存の硬直化した身分制度に突き当たり、突き破ろうとする大規模な地殻変動でした。明治維新の原動力として、ペリー来航を契機となる日本の国際秩序への組み入れや、下級武士の役割は重要ではあっても副次的要因にすぎず、幕末維新期の動乱の根底には、多様な階層の人々が抱いていた差別と不平等への不満と、そこからの解放欲求がありました。それは明治時代に、自由民権運動などの民衆運動に継承されていきます。 幕藩体制崩壊後、ヒトガミ指向が内包していた民衆の能動性を国家側に取り込み、国民国家を自発的に支える均質な「国民」を創出するとことが、新たに誕生した天皇制国家の最重要課題となりました。維新政府の政策は、ヒトガミに祀られることを希望するという形で噴出していた人々の平等への欲求と、新国家の精神的な機軸とされたてんのうに対する忠誠とを結びつけることでした。維新政府は、身分を超えた常備軍=国民軍を創出し、その任務を全うして天皇に命を捧げた者は神として再生し、永遠に人々の記憶に留められる、という招魂社の論理を採用しました。招魂社の源流は長州藩にあり、多様な階層の人々が同じく慰霊されました。これが靖国神社へとつながります。人々の上昇と平等化への欲求が、天皇に対する帰依に結びつけられたわけです。 上述のように、近世には死者が祖霊となるまで供養を続けることが、慰霊の必須要件でしたが、幕末になっても独自の「家」を形成できない身分・階層は多く、そうした人々が、近代国家では天皇のために死ぬことにより、国家の手で神として検証されるわけです。靖国神社は、近世以来のヒトガミ信仰の系譜を継承しながら、近代天皇制国家に相応しい装いで誕生しました。近代天皇制国家において、天皇は民衆を神に変える唯一の媒体である必要があり、近世の国学で提唱され広がった、身分を超えて人々を包摂する特別の地としての「皇国」観念が、そうした方向を裏打ちしました。そのため、元首や統治機構の世俗化を伴う近代国民国家形成の一般的傾向とは対照的に、日本において君主たる天皇の地位が色濃い宗教性を帯びることになりました。近代天皇制国家の宗教性の背景として、日本社会の後進性(成熟した市民社会の不在)に原因を求める見解もありましたが、日本でもヨーロッパでも近代国家成立期の時代背景にあったのは、身分制に対する大衆水準での強い厭悪感情であり、発展段階の差異というよりは、国民国家に向けての二つの異なる道筋と把握できます。 近代天皇制国家は、人をヒトガミへと引き上げるもう一つの装置である民衆宗教を、淫祠邪教として排撃することで、民衆聖別の権限を独占しようとしました。とくに、大本教や金光教など、天照大神を中核とする天皇制の世界観とは異なる神々の体系を持つ教団に対する圧迫は徹底していました。近代日本ではその当初より、ヒトガミ信仰に現出する民衆の主体性を根こそぎ国家側に搦め捕ろうとする政府と、国家によるヒトガミ創出の占有に抵抗する民衆宗教など在野勢力との激しい綱引きが続きました。 近代西欧において、世俗権力相対化の役割を果たしたのがキリスト教で、中世から近代の移行に伴って宗教は政治の表舞台から姿を消し、私的領域を活動の場とするようになりました。しかし、その機能は近代社会において「国家権力の犯しえぬ前国家的な個人の基本権」として継承され、発展させられていきました。個々人が最も深い領域で超越的価値(レヒト)とつながっており、それはいかなる権力者にとっても不可侵の聖域でした。近代日本では、現人神たる天皇を何らかの形で相対化できる独立した権威は存在しませんでした。当時、天皇を本当に神とは思っていなかった、との証言は多いものの、表向きには天皇は現人神として神秘化され、その名を用いれば誰も異論を挟めないような客観的状況がありました。天皇の命と言われれば、生命を惜しむことさえ許されませんでしたし、どの宗教団体も、天皇の御稜威を傷つけることは許されず、その権威の風下に立たざるを得ませんでした。 この背景には、上述のように中世から近世の移行期に起きた宗教勢力の徹底した解体と、宗教的権威の政治権力に対する屈伏がありました。日本は、神や教会の権威そのものが根底から否定されたわけではないヨーロッパとは異なる、というわけです。江戸時代後期から幕末には、幕府などが分担していた政治的権力と権威の一切を天皇に集中するよう、国学者などは目指しました。支配秩序の頂点に立つ天皇を正当化するうえで最も重要とされたのは、外在する超越的存在ではなく、神代以来の系譜を汲む神孫としての天皇自身が見に帯びた聖性でした。こうして、現人神たる天皇が聖俗の権威を独占して君臨する「神国」日本の誕生は準備されました。「神国」の概念はすでに中世で用いられていましたが、それは、仏が遠い世界の日本では神の姿で現れたから、という論理でした。同じ「神国」でありながら、近代のそれは彼岸の超越的存在の前に天皇の機能が相対化されていた中世のそれとは、まったく構造を異にするものでした。 上述のように、中世にはこの世から分離していた他界が、再びこの世に戻ってきます。この点で古代と近世は同じですが、曖昧な境界のまま死者と生者が混在していた古代に対して、近世では死者と生者の世界が明確に区分され、両者の交渉儀式が事細かに定められました。上述のように、子孫による死者の供養は死者が「ご先祖さま」になるために必須で、祖先の近代天皇制国家も近世以来のこの死者供養を抑圧できず、「ヤスクニの思想」に全面的に吸収しようと試みます。 中世から近世にかけて世俗社会への転換をもたらしたのは幕府や諸藩で導入された儒学だった、との見解もありますが、因果関係は逆で、現世一元論的な世界観が定着する過程で、それに適合的な生の哲学としての儒学が注目されていった、と考えるべきでしょう。その儒学の大きな問題は、当時の大半の日本人が納得できる死後世界のイメージを提示できなかったことです。日本儒学で大きな影響力を有した朱子学では、人の体は宇宙を構成する「気」の集合により構成され、死ぬとその「気」は離散してその人物の痕跡はやがて完全に消滅し、死後も霊魂は残るものの、遠からず先祖の霊の集合体と一体化する、と考えられました。これは、一部の知識人に受け入れられることはあっても、大衆に広く重用されることは不可能でした。儒学者たちもこの致命的な弱点に気づき、教理の修正を図るものの、仏教が圧倒的に大きな影響力を有する近世において、習俗の水準で大衆の葬送文化に入り込むことは容易ではありませんでした。 近世の現世主義に対応する体系的な死生観は、仏教以外では国学の系譜から生まれました。とくに大きな役割を果たしたのは平田篤胤で、平田は死後の世界として大国主神が支配する「幽冥」界を想定し、「幽冥」は極楽浄土のように遠い場所にあるのではなく、湖のイ(顕世)と重なるように存在しており、この世から幽冥界を認知できなくとも、暗い場所から明るいところはよく見えるように、幽冥界からこの世はよく見える、と説明しました。平田の想定する幽冥界は、宗教色がきわめて薄く、この世の延長のような場所でした。 ●神のゆくえ
本書はまとめとして、こうした日本におけるカミ観念の変化の原因として、個別的事件や国家の方針転換や外来文化の導入などもあるものの、最も根源的なものは、日本の精神世界の深層で進行した、人々が共有する世界観(コスモロジー)の旋回だった、と指摘します。また本書は、社会構造の変動に伴う世界観の変容が日本列島固有ではなく、さまざまな違いがありつつも、世界の多くの地域で共通する現象であることを指摘します。一回限りの偶然の出来事や外来思想・文化の影響がカミの変貌を生み出すのではなく、社会の転換と連動して、精神世界の奥底で深く静かに進行する地殻変動が、神々の変身という事件を必然のものとする、というわけです。 「仏教」や「神道」の思想は、基本ソフトとしての世界観によりそのあり方を規定される応用ソフトのような存在だった、と本書は指摘します。これまで、日本列島の思想と文化変容の背景として、仏教の受容が現世否定の思潮を生み出した、中世神話形成の背景に道教があった、ヒトガミ信仰を生み出したのは吉田神道だった、などといった見解が提示されてきました。しかし本書は、この説明の仕方を逆だと指摘します。初めに基本ソフトとしての世界観の変容があり、それが応用ソフトとしての個別思想の受容と展開の在り方を規定する、というわけです。たとえば、日本における初期の仏教受容では、仏教の霊威は全て超人的な力(霊験)で、その威力の源は神と同じく「清浄」性の確保で、悟りへの到達=生死を超えた救いという概念がまったく見られず、この世と次元を異にする他界を想定できない、古代の一元的世界に規定されていました。仏教の因果の理法も人の生死も、この世界の内部で完結し、真理の覚醒といった概念が入り込む余地はありません。 また本書は、仏教受容が現世否定の思潮を生み出し、浄土信仰を高揚させたわけではない、と指摘します。世界観の展開が大乗仏教の本来の形での受容を可能として、伝統的な神のあり方を変化させた、というわけです。日本の神を日本列島固有の存在と主張しても、それ自体は無意味な議論ではないとしても、そこに神をより広い舞台に引き出すための契機を見出すことはできず、方法としての「神仏習合」も同様です。日本の神を世界とつなげるためには、神を読み解くためのより汎用性の高いフォーマットが求められます。本書は、そうしたフォーマットを追求しています。 より広く世界を見ていくと、街の中心を占めているのは、神仏や死者のための施設です。それは日本列島も同様で、縄文時代には死者が集落中央の広場に埋葬され、有史時代にも寺社が都市の公共空間の枢要に長く位置していました。現代日本は日常の生活空間から人以外の存在を放逐してしまいましたが、前近代には、人々は不可視の存在や自身とは異質な他者に対する生々しい実在感を共有していました。上述のように、超越的存在と人との距離は時代と地域により異なりましたが、人々はそれらの超越的存在(カミ)の眼差しを感じ、その声に耳を傾けながら暮らしていました。カミは社会システムが円滑に機能するうえで不可欠の役割を担っており、定期的な法会や祭礼は、参加者の人間関係と社会的役割を再確認し、構成員のつながりの強化機能を果たしました。 人の集団はいかに小さくとも、内部に感情的な軋轢や利害対立が起きます。共同体の構成員は、宗教儀礼を通じてカミという他者への眼差しを共有することで、構成員同士が直接向き合うことから生じるストレスと緊張感を緩和しようとしました。中世の起請文のように、誰かを裁くさいに、人々がその役割を超越的存在に委ねることにより、処罰することに伴う罪悪感と、罰した側の人への怨念の循環を断ち切ろうとしました。カミは人同士の直接的衝突回避のための緩衝材の役割を果たしていました。これは個人間だけではなく、集団間でも同様です。人間中心主義を土台とする近代社会は、カミと人との関係を切断し、人同士が直接対峙するようになります。近代の人間中心主義は人権の拡大と定着に大きく貢献しましたが、個人間や集団間や国家間の隙間を埋めていた緩衝材の喪失も意味します。それは、少しの身動きがすぐに他者を傷つけるように時代の開幕でもありました。 カミの実在を前提とする前近代の世界観は、人々の死生観も規定していました。現代では、生と死の間に一線を引ける、と考えられています。ある一瞬を境にして、生者が死者の世界に移行する、というわけです。しかし、こうした死生観は、人類史では近現代だけの特殊な感覚でした。前近代では、生と死の間に、時空間的にある幅の中間領域が存在する、と信じられていました。呼吸が停止してもその人は亡くなったわけではなく、生死の境界をさまよっている、と考えられたわけです。その期間の周囲の人々の言動は、背景にある世界観と死生観に強く規定されました。日本列島では、身体から離れた魂が戻れない状態になると死が確定すると考えられており、遊離魂を体内に呼び戻すことにより死者(呼吸の停止した者)を蘇生しようとしました。中世には不可視の理想世界(浄土)が人々に共有され、死者を確実に他界に送り出す目的で追善儀礼が行なわれました。近世には、死者が遠くに去ることなく、いつまでも墓場に住むという感覚が強まり、死者が現世で身にまとった怒りや怨念を振り捨て、穏やかな祖霊へと上昇することを後押しするための供養が中心となりました。 前近代には、生者と死者は交流を続けながら同じ空間を共有しており、生と死が本質的に異なる状態とは考えられていませんでした。死後も親族縁者と交歓できるという安心感が社会の隅々まで行き渡ることにより、人は死の恐怖を乗り越えることが可能となりました、死は全ての終焉ではなく、再生に向けての休息であり、生者と死者との新たな関係の始まりでした。しかし、死者との日常的な交流を失った現代社会では、人はこの世だけで完結することになり、死後世界は誰も入ったことのない闇の風景と化しました。近代人にとって、死とは現世と切断された孤独と暗黒の世界です。現代日本社会において、生の質を問うことがない、延命を至上視する背景には、生と死を峻別する現代固有の死生観があります。 これまでに存在したあらゆる民族と共同体にはカミが存在し、不可視のものに対する強い現実感が共同体のあり方を規定していたので、前近代の国家や社会の考察には、その構成要素として人を視野に入れるだけでは不充分です。人を主役とする近代欧米中心の「公共圏」に関わる議論を超えて、人と人を超える存在とが、いかなる関係を保ちながら公共空間を作り上げているのか、明らかにできるかが重要です。これまでの歴史学で主流だった、人による「神仏の利用」という視点を超えて、人とカミが密接に関わりあって共存する前近代の世界観の奥深くに錘鉛を下し、その構造に光を当てていくことが必要です。 現在、日本列島も含めて世界各地で、現実社会の中に再度カミを引き戻し、実際に機能させようとする試みが始まっているようです。北京の万明病院では、「往生堂」という一室が設けられ、重篤な状態に陥った患者が運ばれ、親族の介護を受けながら念仏の声に送られるというシステムが作り上げられており、敷地内の別の一室では、遺体を前に僧侶を導師として多くの人々が念仏を称え、その儀式は数日間続けられます。一方現代日本の多くの病院では、霊安室と死者の退出口を人目のつかない場所に設けることで、生と死の空間が截然と区別されていますが、臨床宗教師の育成が多くの大学で進められています。 息詰まるような人間関係の緩衝材として、新たに小さなカミを生み出そうとする動きも盛んです。1990年代以降の精神世界探求ブームはそうでしたし、ペットブームもその無意識の反映と考えられます。現代日本で多く見られるゆるキャラも、現代社会の息詰まるような人間関係の緩衝材で、心の癒しと考えられます。現代日本社会におけるゆるキャラは、小さなカミを創生しようとする試みかもしれません。欧米諸国と比較すると、日本は今でも自然とカミとの連続性・対称性を強く保持する社会です。現代人は、近代草創期に思想家たちが思い描いたような、直線的な進化の果てに生み出された理想社会にいるわけではありません。近代化は人類にかつてない物質的な繁栄をもたらした一方で、昔の人が想像できなかったような無機質な領域を創り出しました。現在の危機が近代化の深まりの中で顕在化したのならば、人間中心の近代を相対化できる長い間隔のなかで、文化のあり方を再考していく必要があります。 これは、前近代に帰るべきとか、過去に理想社会が存在したとかいうことではありません。どの時代にも苦悩と怨嗟はありましたが、現代社会を見直すために、近代をはるかに超える長い射程の中で、現代社会の歪みを照射していくことが重要になる、というわけです。これまでの歴史で、カミは人にとって肯定的な役割だけを果たしてきたわけではなく、カミが人を支配する時代が長く続き、特定の人々に拭い難い「ケガレ」のレッテルを貼って差別を助長したのもカミでした。カミの名のもとに憎悪が煽られ、無数の人々が惨殺される愚行も繰り返されてきました。人類が直面している危機を直視しながら、人類が千年単位で蓄積してきた知恵を、近代化により失われたものも含めて発掘していくことこそ、現代人に与えられている大切な課題かもしれません。 参考文献: 佐藤弘夫(2021)『日本人と神』(講談社)
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_16.html
夢を諦めない。サン・プラザホームの夢をプラスする家「+Dream(プラスドリーム)」 夢を諦めない。サン・プラザホームの夢をプラスする家「+Dream(プラスドリーム)」 ▲△▽▼
雑記帳 2019年07月06日 佐藤弘夫『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ』 https://sicambre.at.webry.info/201907/article_14.html
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E5%9B%BD%E3%80%8D%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E8%A8%98%E7%B4%80%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%B8-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%BC%98%E5%A4%AB/dp/4065121264 講談社学術文庫の一冊として、2018年6月に講談社より刊行されました。本書の親本『神国日本』は、ちくま新書の一冊として2006年4月に筑摩書房より刊行されました。以前、当ブログにて本書を取り上げましたが、制限字数の2万文字を超えてしまったので、前編と後編に分割しました。今週(2019年7月2日)、ウェブリブログの大規模メンテナンスおよびリニューアルにより、制限文字数が約13万文字に増えたので、記事を一つにまとめることにしました。以下、本文です。
本書の親本を刊行直後に購入して読み、たいへん感銘を受けたので、何度か再読したくらいです。その後、また再読しようと思っていたところ、講談社学術文庫として文庫版後書が付け加えられて刊行されたことを知り、購入して読み進めることにしました。しっかり比較したわけではないのですが、本文は基本的に親本から変更はないようです(誤字の訂正はあるかもしれませんが)。以前、本書を改めて精読したうえで、当ブログで詳しく取り上げるつもりだ、と述べたので(関連記事)、この機会に以下やや詳しく本書の内容について述べていきます。
本書はまず、現代日本社会における神国・神国思想の認識について論じます。現代日本社会では、神国思想についてある程度共通の認識はあるものの、その内実には揺らぎもあり、何よりも、好きか嫌いか、容認か否定かという立場が前提となって議論が展開されています。しかし、日本=神国の主張が実際にいかなる論理構造なのか、立ち入った考察がほとんどない、と本書は指摘します。神国思想の内容は議論の余地のないほど自明なのか、と本書は問題提起します。神国思想の論理を解明すべき学界では、神国思想は当初、公家政権側が自己正当化のため唱えた古代的思想と評価され、その後、鎌倉時代の公家政権を中世的とみなす見解が有力となり、神国思想も中世的理念と規定されました。しかし、神国思想が古代的か中世的かといった議論はあっても、それぞれの特色についてはまだ統一的見解が提示されていない、と本書は指摘します。本書は、まず現代日本社会における神国・神国思想についての認識を概観し、その認識への疑問を提示した後に、鎌倉時代を中心に神国思想の形成過程と論理構造を解明し、古代とどう異なるのか、鎌倉時代に確立した後はどう展開していったのか、展望します。
近代の神国思想を代表するのは『国体の本義』で、神としての天皇を戴く日本は他の国々や民族を凌ぐ万邦無比の神聖国家とされました。天皇とナショナリズムこそ近現代日本社会における神国・神国思想認識の核心です。その『国体の本義』は、神の子孫故に外国(異朝)と異なる、との『神皇正統記』の一節を引用します。『神皇正統記』はまず、次のように説明します。この世界(娑婆世界)の中心には須弥山があり、その四方には四大陸が広がっていて、南の大陸を贍部と呼びます。贍部の中央に位置するのが天竺(インド)で、震旦(中国)は広いといっても、天竺と比較すれば「一片の小国」にすぎません。日本は贍部を離れた東北の海中にあります。日本は、釈迦の生まれた天竺からはるかに隔たった辺境の小島(辺土粟散)にすぎない、というわけです(末法辺土思想)。こうした理念は、末法思想の流行にともない、平安時代後期には社会に共有されました。 13世紀後半のモンゴル襲来を契機に台頭する神国思想と末法辺土思想は、真っ向から対立する、との見解が学界では主流でした。神国思想は、末法辺土思想を克服するために説かれたのだ、というわけです。それは、「神道的優越感」による「仏教的劣等感」の「克服」と解釈されました。しかし、中世における神国思想の代表とされる『神皇正統記』にしても、日本を辺土粟散と位置づけていました。本書は、神国思想が外国を意識してのナショナリズムだったのか、疑問を呈します。神国思想のもう一つの核である天皇も、中世には儒教的徳治主義や仏教の十善の帝王説の立場から相対化されており、天皇を即自的に神聖な存在とする『国体の本義』とは異なります。 神国思想の解明にさいしてまず重要なのは、日本における神です。日本の神は現代では、日本「固有」もしくは「土着」の存在として認識されています。しかし、古代と現代とでは、神のイメージは大きく異なります。次に、神国思想を「神道」の枠内にとどめず、より広い思想的・歴史的文脈で見ていかねばなりません。日本を神国とする主張は日本の神祇(天神地祇=天地のあらゆる神々)の世界と密接不可分ですが、中世において圧倒的な社会的・思想的影響力を有していたのは仏教でした。また、陰陽道・儒教など多様な宗教世界の全体的構図を視野に入れねばなりません。こうした視点から、本書は中世、とくに院政期と鎌倉時代を中心に、古代から現代にいたる神国思想の変遷とその論理構造を解明していきますが、その前に、そうした変遷と論理構造の前提となった世界観の変容が解説されます。 本書は、古代における天皇号の確立を重視します。これにより、ヤマト政権の大王とは隔絶した権威が確立され、天皇が神聖化されるにともない、天照大神を頂点とする神々と神話の体系的秩序が形成されました。じゅうらいは、各氏族がそれぞれ神話と祖先神を有していました。律令体制の変容(本書では古代的な律令制支配の「解体」と表現されています)にともない、平安時代後半には、国家の支援を期待できなくなった大寺院が、摂関家や天皇家といった権門とともに荘園の集積を積極的に進め、古代から中世へと移行していきます。有力神社も、荘園を集積したり、不特定多数の人々に社参や参籠を呼びかけたりするようになります。律令制のもとで神社界の頂点にあった伊勢神宮も、御師が日本各地を回り、土地の寄進を募っていました。
こうした変動は、伊勢神宮を頂点とする神々の序列にも影響を与えました。国家から以前のような保護を受けられなくなった代わりに、相対的に自立した各神社は、浮沈存亡をかけて競争するようになります。日吉神社を中心とする山王神道関係の書物では、山王神こそ日本第一の神と主張され、公然と天照大神を頂点とする既存の神々の秩序に挑戦しました。本書はこうした状況を、神々の世界における自由競争・下剋上と表現しています。春日社(春日大明神)や熊野本宮や石清水八幡宮なども、既存の神々の秩序に挑戦しました。伊勢神宮でも、経済力をつけてきた外宮が、天照大神を祭る内宮の権威に挑戦します。 こうした神々の世界における自由競争・下剋上的状況で、天照大神というか伊勢神宮内宮の側も、「自由競争」に参加せざるを得なくなります。しかし本書は、これは天照大神にとって悪いことばかりではなかった、と指摘します。かつての天照大神は諸神の頂点に位置づけられていたものの、非皇族が参詣することも幣帛を捧げることも認められておらず、貴族層の間ですら詳しくは知られていませんでした。確固たる秩序の古代から「自由競争」の中世へと移行し、天照大神は伊勢神宮内宮の努力により、日本において広範な支持・基盤を得るようになります。人々の祈願に気軽に声を傾けるようになった天照大神の一般社会における知名度は、古代よりも飛躍的に上昇します。こうした神の性格の変化は天照大神だけではなく、程度の差こそあれ、どの有力神でも同様でした。有力な神々は、各氏族(天照大神の場合は皇族)の占有神から開かれた「国民神」としての性格を強めていった、というわけです。 このように中世に神々の性格が変容するにつれて、神々は主権者として特定の領域に君臨し、排他的・独占的に支配する存在と主張されるようになります。寺院でも、寺領荘園が「仏土」と称されるようになります。こうした寺社領への侵犯は、仏罰・神罰として糾弾されました。古代にも一定の領域を神の地とする観念は存在しましたが、あくまでも抽象的・観念的で、中世のように可視的な境界線と具体的な数値で示されるものではありませんでした。さらに、古代と中世以降とでは、神への印象が大きく異なっていました。古代の神は常に一定の場所にいるわけではなく、人間の都合だけで会える存在ではありませんでした。古代の神は基本的に、祭りなど特定の期間にだけ祭祀の場に来訪し、それが終わればどこかに去ってしまうものでした。神が特定の神社に常駐するという観念が広く社会に定着するのは、せいぜい律令国家形成期以降でした。一方、中世の神は遊行を繰り返す存在ではなく、常に社殿の奥深くにあって現世を監視し続け、神社やその領地の危急時には、老人・女性・子供などの具体的姿で現世に現れて人々に指示をくだす存在でした。中世の神々は、人々に具体的な姿で現れ、信仰する者には厚い恩寵を与え、自らの意思に反する者には容赦ない罰をくだす、畏怖すべき存在でしたが、全知全能の絶対者ではなく、多彩で豊かな情感を有し、時には神同士の戦闘で傷つき、弱音を吐くこともありました。 このように、古代と中世とでは、神の性格が大きく変容します。本書は次に、そうした変容がいかなる論理・契機で進行したのか、解説します。神祇界における古代から中世への移行で重要なのは、上述した国家的な神祇秩序の解体と神々の自立でしたが、もう一つ重要なのは、仏教との全面的な習合でした。主要な神々はすべて仏の垂迹とされ、仏教的なコスモロジーの中に組み込まれました。中世の神国思想は、こうした濃密な神仏混淆の世界から生まれました。仏教伝来後しばらく、神と仏が相互に内的な関係を結ぶことはありませんでした。朝廷の公的儀式でも、仏教は原則として排除されていました。しかし、奈良時代になると、日本の神々が仏法の守護神(護法善神)として位置づけられ、神社の周辺に神宮寺と呼ばれる寺院が建立されるようになります。神は煩悩に苦しむ衆生の一人として仏教に救済を求めていた、と信じられるようになります。
しかし、この時点での主役はあくまでも神社に祀られた神で、寺院はまだ神を慰めるための付随的な施設にすぎませんでした。平安時代後半以降、神宮寺と神社の力関係は逆転します。王城鎮守としての高い格式を誇る石清水八幡宮では、元々はその付属寺院(神宮寺)にすぎなかった護国寺が逆に神社を支配するようになります。日吉社と延暦寺、春日社と興福寺、弥勒寺と宇佐八幡宮などのように、伊勢神宮を除く大規模な神社の大半が寺家の傘下に入り、その統制に服するようになります。こうした神社と寺院の一体化が進行するなか、思想的な水準でも神と仏の交渉が著しく進展します。神仏を本質的には同一とし、神々を仏(本地)が日本の人々の救済のために姿を変えて出現したもの(垂迹)とする本地垂迹説が、日本全域に浸透し、各神社の祭神は菩薩・権現と呼ばれるようになります。鎌倉時代には、ほとんどの神の本地が特定され、天照大神の本地は観音菩薩や大日如来とされました。 平安時代に本地垂迹説が日本を席巻した背景として、10世紀頃から急速に進展する彼岸表象の肥大化と浄土信仰の流行がありました。死後の世界(冥界・他界)の観念は太古よりありましたが、平安時代前半まで、人々の主要な関心はもっぱら現世の生活に向けられており、来世・彼岸はその延長にすぎませんでした。しかし、平安時代半ば以降、しだいに観念世界に占める彼岸の割合が増大し、12世紀には現世と逆転します。現世はしょせん仮の宿で、来世の浄土こそ真実の世界なのだから、現世の生活のすべては往生実現のために振り向けられなければならない、との観念が定着しました。古代的な一元的世界にたいする、他界─此土の二重構造を有する中世的な世界観が完成したわけです。当時、往生の対象としての彼岸世界を代表するのは、西方の彼方にあると信じられていた、阿弥陀仏のいる西方極楽浄土でした。しかし、それに一元化されているわけではなく、観音菩薩の補陀落浄土・弥勒菩薩の兜率浄土・薬師仏の浄瑠璃世界・釈迦仏の霊山浄土などといった、多彩な他界浄土がありました。とはいえ、真実の世界たる彼岸の存在という確信は、どれも変わりませんでした。
浄土往生に人生究極の価値を見出した平安時代後半以降の人々にとって、どうすればそれを実現できるのかが、最大の関心事でした。法然の出現前には、念仏を唱えれば往生できるといった簡単な方法はなく、試行錯誤が続いていました。そうした中で、最も効果的と考えられていたのは、垂迹たる神への結縁でした。平安時代後半から急速に普及する仏教的コスモロジーにおいて、日本は此土のなかでも中心である天竺から遠く離れた辺土と位置づけられました。しかも、平安時代後半には末法の世に入った、と信じられていました。こうした中で、末法辺土の救済主として垂迹が注目されるようになります。垂迹たる神が平安時代後半以降の日本に出現したのは、末法辺土の衆生を正しい信仰に導き、最終的には浄土へ送り届けるためでした。そのため、垂迹のいる霊地・霊場に赴いて帰依することが、往生への近道と考えられました。 仏との親密化・同体化にともない、日本の伝統的な神々は仏教の影響を受け、その基本的な性格が大きく変容していきます。上述したように、日本の神は、律令国家成立の頃より、定まった姿を持たず、祭祀の期間にだけ現れ、終わると立ち去るような、気ままに遊行を繰り返す存在から、一つの神社に定住している存在と考えられるようになりました。律令国家は、天皇をつねに守護できるよう、神を特定の場所に縛りつけました。また、かつては定まった姿を持たない神が、9世紀になると、仏像にならって像を作られるようになります。このように、律令国家成立の頃よりの神の大きな変化として、可視化・定住化の進展が挙げられます。 もう一つの神の重要な変化は「合理化」です。かつて神々が人間にたいして起こす作用は、しばしば「祟り」と呼ばれ、その時期と内容、さらにはどの神が祟りを下すのかさえ、人間の予知の範囲外とされました。祟りを鎮めるためには、いかに予測不能で非合理な命令でも、神の要求に無条件に従うしかありませんでした。しかし、平安時代半ば頃から、神と人間の関係は変容し始めます。たとえば、返祝詞の成立です。朝廷からの奉献された品々を納受とそのお返しとしての王権護持からは、もはや神が一方的に人間に服従を求める立場にはないことを示しています。神々は人間にとって「非合理的的」存在から「合理的」存在へと変容したわけです。神々の「合理化」は、神の作用を「祟り」から「罰」と表現するようになったことからも窺えます。罰は賞罰という組み合わせで出現する頻度が高く、賞罰の基準は神およびその守護者たる仏法にたいする信・不信でした。神が初めから明確な基準を示しているという意味で、罰と祟りは異質です。神が人間にたいして一方的に(しばしば「非合理」的な)指示を下す関係から、神と人間相互の応酬が可能な関係へと変容したわけです。こうした神々の「合理化」の背景として、本地垂迹説の定着にともなう神仏の同化がありました。本地垂迹説は、単に神と仏を結びつけるのではなく、人間が認知し得ない彼岸世界の仏と、現実世界に実在する神や仏や聖人とを結合する論理でした。救済を使命とする彼岸の仏(本地)と、賞罰権を行使する此土の神・仏・聖人(垂迹)という分類です。垂迹たる神は自らが至高の存在というわけではなく、仏法を広めるために現世に派遣されたので、その威力も神の恣意によるものではなく、人々を覚醒させるために用いられるべきものでした。神の「合理化」はこうして進展しました。古代ローマでも、当初の神は「理不尽」で「非合理的な」存在でした。 本地垂迹説の流布は、仏と神がタテの関係においてのみならず、ヨコの関係においても接合されたことを意味します。垂迹たる現世の神・仏・聖人の背後には本地たる仏・菩薩がいますが、その本地も究極的には全宇宙を包摂する唯一の真理(法身仏)に溶融するものと考えられていました。個々の神々も本質的には同一の存在というわけです。法身仏の理念は、「神々の下剋上」的風潮において、完全な無秩序に陥ることを防ぐという、重要な機能を果たしました。仏教的な世界像では、現実世界(娑婆世界)の中心には須弥山がそびえ、その上空から下に向かって、梵天・帝釈天・四天王の住む世界があり、その下に日本の神々や仏像が位置づけられていました。日本の神は聖なる存在とはいっても、世界全体から見ればちっぽけな日本列島のごく一部を支配しているにすぎません。また、こうした序列のなかで、仏教や日本の神祇信仰だけではなく、道教の神々も取り入れられ、その順位は日本の神仏よりも上でした。それは、道教的な神々が日本の神仏よりも広範な地域を担当していたからでした。中世の神々の秩序においては、仏教から隔離された純粋な神祇世界に、相互の結合と神々の位置を確認するための論理は見出されませんでした。中世において、日本の神々は仏教的世界観の中に完全に身を沈めることで初めて、自らの安定した地位を占められました。こうして、天照大神を頂点とする強く固定的な上下の序列の古代から、神々が横一線で鎬を削りつつ、仏教的な世界観に組み入れられ、ゆるやかに結合した中世へと移行します。 こうした古代から中世への思想状況の変容を背景に、本書は古代と中世の神国思想の論理構造と違いを解説していきます。『日本書紀』に初めて見える神国観念は、神国内部から仏教などの外来要素をできるだけ排除し、神祇世界の純粋性を確保しようとする指向性を有している、イデオロギー的色彩の濃厚なものでした。これには、新羅を強く意識した創作という側面も多分にあります。一方、院政期の頃より、神の国と仏の国の矛盾なき共存を認める神国観念が浮上します。仏教の土着化と本地垂迹説の普及を背景として、神仏が穏やかに調和する中世的な神国思想の出現です。
『日本書紀』の時点では神国観念はそれほど表面に出ておらず、神国という用語が初めてまとまりをみって出現するのは9世紀後半で、その契機は新羅船の侵攻でした。古代の神国思想は、新羅を鏡とすることで確定する領域でした。その後、平安時代中期に日本の観念的な領域(東は陸奥、西は五島列島、南は土佐、北は佐渡の範囲内)が確定し、神国もこの範囲に収まりました。この範囲は、後に東方が「外が浜」へ、西方が「鬼界が島(現在の硫黄島?)」へと移動(拡大)したものの、基本的にはずっと維持されました。もっとも、これらの範囲は近現代のような明確な線というよりは、流動的で一定の幅を有する面でした。また、こうした日本の範囲は、濃厚な宗教的色彩を帯びていました。この範囲を日本の前提として、奈良時代から9世紀後半までの神国観念は、天照大神を頂点とし、有力な神々が一定の序列を保ちながら、天皇とその支配下の国土・人民を守護する、というものでした。本書はこれを「古代的」神国思想と呼んでいます。古代的神国思想の特徴は、仏教的要素が基本的にはないことです。古代において、公的な場での神仏分離は徹底されており、むしろ平安時代になって自覚化・制度化されていきました。 古代的神国観念から中世的神国観念への移行で注目されるのは、院政期の頃より日本を神国とする表現が急速に増加し始めることです。神国は、古代の神国思想では、天照大神を頂点とする神々により守護された天皇の君臨する単一の空間が、中世の神国思想では、個々の神々の支配する神領の集合体が想定されていました。また、古代では一体とされていた「国家」と天皇が中世には分離します。中世の神国思想の前提には、上述の本地垂迹説がありました。彼岸と此岸の二重構造的な世界観を前提とし、遠い世界の仏が神として垂迹しているから日本は神国なのだ、という論理が中世の神国思想の特色でした。つまり、古代の神国思想とは異なり、中世の神国思想では仏は排除されておらず、むしろ仏を前提として論理が構築されていました。 その意味で、上述した、神国思想は平安時代後期から広まった仏教的世界観に基づく末法辺土意識を前提として、その克服のために説きだされた、との近現代日本社会における認識は根本的に間違っています。日本が末法辺土の悪国であることは、本地である仏が神として垂迹するための必要条件でした。神国と末法辺土は矛盾するわけでも相対立するわけでもなく、相互に密接不可分な補完的関係にありました。中世の神国思想は、仏教が日本に土着化し、社会に浸透することにより、初めて成立しました。 また、中世的神国思想は、モンゴル襲来を契機として、ナショナリズムを背景に高揚し、日本を神秘化して他国への優越を強く主張する、との近現代日本社会における認識も妥当ではありません。まず、日本の神祇を仏教的世界観に包摂する論理構造の神国思想は、国土の神秘化と他国への優越を無条件に説くものではなく、むしろ普遍的真理・世界観と接続するものでした。また、釈迦も孔子や日本の神々や聖徳太子などと同様に他界から派遣された垂迹であって、本地仏とは別次元の存在でした。中世的神国思想は、日本とインド(天竺)を直結させ、中国(震旦)を相対化するものではありませんでした。本地垂迹説の論理は、娑婆世界(現世)の二地点ではなく、普遍的な真理の世界と現実の国土を結びつけるものでした。ただ、中世の神国思想に、日本を神聖化し、他国への優越を誇示する指向性があり、鎌倉時代後半からそれが強くなっていったことも否定できません。しかし本書は、神国思想が仏教的理念を下敷きにしていたことの意義を指摘します。 日本は天竺・震旦とともに三国のうちの一国として把握され、日本が神国であるのは、たまたま仏が神として垂迹したからで、天竺と震旦が神でないのは、神ではなく釈迦や孔子が垂迹したからでした。そのため、日本の聖性と優越が強調されたとしても、それは垂迹の次元でのことでした。日本に肩入れする神仏は垂迹で、日本と敵対する国にも垂迹はいました。垂迹たちの背後には共通の真理の世界が存在し、その次元ではナショナリズム的観念には意味がありませんでした。中世の僧侶が日本を礼賛して日本の神仏の加護を願いつつ、たびたび震旦・天竺行きを志したのも、本地垂迹説の「国際的な」世界観が前提としてあったからでした。上述した、『神皇正統記』における、日本神国で他国(異朝)とは異なる、との主張も、単純に日本の優越性を説いたものではなく、本地としての仏が神として垂迹し、その子孫が君臨しているという意味での「神国」は日本だけだ、と主張するものでした。『神皇正統記』では、日本賛美傾向もあるものの、日本が広い世界観の中に客観的に位置づけられており、その日本観はかなりの程度客観的です。 中世的神国思想は、モンゴル襲来を契機として、ナショナリズムを背景に高揚し、日本を神秘化して他国への優越を強く主張する、との近現代日本社会における認識は、中世的神国思想がどのような社会的文脈で強調されたのか、との観点からも間違っています。中世において神国思想がある程度まとまって説かれる事例としては、院政期の寺社相論・鎌倉時代のいわゆる新仏教排撃・モンゴル襲来があります。すでにモンゴル襲来前に、「対外的」危機を前提とせずに、中世的神国思想が強調されていたわけです。中世において、神仏が現実世界を動かしているとの観念は広く社会に共有されており、寺社勢力が大きな力を振るったのはそのためでした。院政期に集中的に出現する神国思想は、国家的な視点に立って権門寺社間の私闘的な対立の克服と融和・共存を呼びかけるため、院とその周辺を中心とする支配層の側から説かれたものでした。神国思想の普遍性が活かされているのではないか、と私は思います。
いわゆる鎌倉新仏教、中でも法然の唱えた専修念仏は、伝統仏教側から激しく執拗な弾圧を受けました。そのさい、しばしば神国思想が持ち出されました。専修念仏者が念仏を口実として明神を敬おうとしないのは、「国の礼」を失する行為で神の咎めに値する、と伝統仏教側は糾弾しました。神々の威光は仏・菩薩の垂迹であることによるのだから、神々への礼拝の拒否は「神国」の風儀に背く、というわけです。末法辺土の日本では存在を視認できない彼岸の仏を信じるのは容易ではないので、末法辺土の日本に垂迹して姿を現した神々・聖人・仏像などへの礼拝が必要とされました。伝統仏教側は、神々の「自由競争」・「下剋上的状況」のなか、礼拝・参詣により人々の関心を垂迹たる神々や仏像のある霊場に向けさせようとしました。しかし法然は、念仏により身分・階層に関わりなく本地の弥陀の本願により極楽往生できる、と説きました。誰もが、彼岸の阿弥陀仏と直接的に縁を結べるのであり、彼岸と此岸を媒介する垂迹は不要どころか百害あって一利なしとされました。法然の思想には本来、現実の国家・社会を批判するような政治性はありませんでしたが、荘園支配のイデオロギー的基盤となっていた垂迹の権威が否定されたことは、権門寺社にとって支配秩序への反逆に他ならず、垂迹の否定は神国思想の否定でもありました。そのため、専修念仏は支配層から弾圧されました。 モンゴル襲来の前後には、神々に守護された神国日本の不可侵を強調する神国思想が広く主張されました。本書はこれを、ナショナリズム的観念の高揚というより、荘園公領体制下で所領の細分化による貧窮化などの諸問題を、神国と規定してモンゴル(大元ウルス)と対峙させることで覆い隠そうとするものだった、と指摘しています。院政期の寺社相論や鎌倉時代のいわゆる新仏教排撃で見られたように、中世の神国思想はモンゴル襲来よりも前に盛り上がりを見せており、対外的危機を前提とはしていませんでした。寺社相論も鎌倉新仏教への弾圧もモンゴル襲来も、権門内部で完結する問題ではなく、国家秩序そのものの存亡が根底から揺らぐような問題だったため、神国思想が持ち出された、と本書は論じます。中世において、国家全体の精神的支柱である寺社権門の対立は、国家体制の崩壊に直結しかねない問題でした。専修念仏の盛り上がりも、寺社権門の役割を否定するものという意味で、国家的な危機と認識されました。もちろん、モンゴル襲来はたいへんな国家的危機で、支配層たる権門の再結集が図られるべく、神国思想が強調されました。イデオロギーとしての神国思想はむしろ、内外を問わず、ある要因がもたらす国家体制の動揺にたいする、支配層内部の危機意識の表出という性格の強いものでした。 神国思想は本来、日本を仏の垂迹たる神々の鎮座する聖地と見る宗教思想でしたが、支配層の総体的危機において力説されたように、政治イデオロギーの役割も担わされました。すべての権力が天皇に一元化していく古代とは異なり、中世社会の特色は権力の分散と多元化にありました。多元的な権力から構成される社会において、諸権門をいかに融和させるかが重要な課題となり、神国思想もそうした中世の国家体制を正当化するイデオロギーとして支配層から説きだされた、と本書は推測しています。神国思想が強調されたのは、個別の権門が危機に陥った時ではなく、国家秩序全体の屋台骨が揺らいでいるような時でした。ただ、中世、とくに前期においては、神国思想は民衆を支配するイデオロギーとして強く機能したわけではありませんでした。中世の民衆を束縛した理念は、荘園を神仏の支配する聖なる土地とする仏土・神領の論理だった、と本書は推測しています。国思想は、じっさいの海外交渉ではなく支配層の危機意識の反映だったので、抽象的でした。その背景となる仏教的世界観自体がきわめて観念的性格の強いものだったので、神国思想はなおさら抽象的にならざるを得ませんでした。天竺・震旦・日本から構成される三国世界との認識も観念的で、日本仏教との関わりの強い朝鮮半島が欠落していました。 本書は次に、神国思想における天皇の占める位置の変遷を解説します。古代では天皇は神国思想の中核的要素でしたが、中世の神国思想では天皇の存在感は希薄です。古代の神国思想は天皇の安泰を目的としましたが、中世では、天皇は神国維持の手段と化し、神国に相応しくない天皇は速やかに退場してもらう、というのが支配層の共通認識でした。その前提として、天皇の在り様の変化があります。律令国家の変容にともない、天皇の在り様も大きく変わります。天皇の政治権力は失墜しますが、形式上は最高次の統治権能保有者たる「国王」であり続けました。それは、他の権力では代替できない権威を天皇が有していたからでした。それに関しては、大嘗祭に象徴される古代から現代まで一貫する権威があった、という説と、即位灌頂のような仏教的儀式に代表される、それぞれの時代に応じた権威があった、という説が提示されています。
一方、院政期になると天皇がさまざまな禁忌による緊縛から解き放たれて、神秘性を失ってしまう、との見解もあります。天皇は現御神の地位から転落した、というわけです。天皇は、より高次の宗教的権威である神仏の加護なくして存立し得ず、罰を受ける存在でもある、との観念も広く見られるようになりました。つまり、天皇の脱神秘化が進み、天皇はもはや内的権威で君臨できなくなったので、即位灌頂のような新たな仏教的儀式に見られるように、外的権威を必要としたのではないか、というわけです。しかし本書は、天皇に対する仮借なき批判が一般的だったことから、新たな儀式の効果には限界があった、と指摘します。そもそも、即位灌頂は秘儀とされていて、特定の皇統で行なわれていただけで、よく知られていませんでした。即位灌頂き一般的な天皇神秘化の儀式ではなく、特定の皇統による自己正当化の試みの系譜ではないか、と本書は指摘しています。 古代の神国思想は天皇の存在を前提として正当化することが役割でした。神々の守るべき国家とは天皇でした。中世には、国家的寺社が自立し天皇は権門の一員となりました。しかし、分権化の進行する中世において、とくに体制総体が危機にある時は、天皇が諸権門の求心力の焦点としての役割を果たすには、ある程度聖別された姿をとることが必要でした。古代には天皇が神孫であることは天皇個人の聖化と絶対化に直結していましたが、中世には神孫であることは即位の基礎資格でしかなく、天皇の終生在位を保証しませんでした。これは、中世には古代と異なり、天皇の観念的権威の高揚が天皇個人の長久を目的としておらず、国家支配維持の政治的手段だったことと密接に関連しています。そのため天皇が国王としての立場を逸脱したとみなされた場合は、支配層から批判され、交代が公然と主張されました。天皇は中世には体制維持の手段と化したわけです。古代には国家とは天皇そのものでしたが、中世の国家概念には国土や人民といった要素が含まれるようになり、国家はより広い支配体制総体を指す概念となりました。神孫であることだけでは天皇位を維持できないので、中世の天皇は徳の涵養を強調する場合もありました。 より高次の宗教的権威が認められ、個人としては激しく批判されることもあった天皇が必要とされ続けたのは、一つには、神代からの伝統と貴種を認められた天皇に代わるだけの支配権力結集の核を、支配層が用意に見つけられなかったからです。権力の分散が進行する中世において、混乱状況の現出を防ぐために、権門同士の調整と支配秩序の維持が重要な課題として浮上しました。天皇が国家的な位階秩序の要を掌握していたのは、単に伝統だからではなく、支配層全体の要請でもありました。したがって、天皇位の喪失は、天皇家という一権門の没落にとどまらず、支配層全体の求心力の核と、諸権門を位置づけるための座標軸の消失を意味していました。既存の支配秩序を維持しようとする限り、国王たる天皇を表に立てざるを得ないわけです。そのため、体制の矛盾と危機が強まるほど、天皇の神聖不可侵は反動的に強調されねばならず、故にそうした時には神国思想も強調されました。 天皇が必要とされたもう一つの理由は、中世固有の思想状況です。中世では地上の権威を超える権威たる本地仏が広く認められていたので、天皇ではない者が本地仏と直接結びつく可能性もありました。日蓮や専修念仏には、そうした論理の萌芽が認められ、天皇家と運命共同体の公家にとって、天皇に取って代わる権威は絶対に認められないので、新興仏教に対抗するために天皇と神国を表に出しました。武家政権も、中世前期においては荘園体制を基盤とし、垂迹たる神仏への祈祷に支えられていたので、垂迹を経由せず彼岸の本仏と直接結びつくような、日蓮や専修念仏の信仰を容認できませんでした。武家政権が神国思想を否定することは、鎌倉時代の段階では不可能でした。 このように、神国思想は固定化された理念ではなく、歴史の状況に応じて自在に姿を変えてきました。神国思想はしばしば、普遍世界に目を開かせ、非「日本的」要素を包摂する論理としても機能しました。「神国」の理念を現代に活かすのであれば、安易に過去の「伝統」に依拠せず、未来を見据え、世界を視野に収めてその中身を新たに創造していく覚悟が求められます。日本を神国とみなす理念は古代から近現代に至るまでいつの時代にも見られましたが、その論理は時代と論者により大きな隔たりがありました。その背景には、神国思想の基盤となる神観念の変貌とコスモロジーの大規模な転換がありました。モンゴル襲来以降の神国思想も、決して手放しの日本礼賛論ではありませんでした。中世の神国思想の骨格は、他界の仏が神の姿で国土に垂迹している、という観念にありました。普遍的存在である仏が神の姿で出現したから「神国」というわけです。インド(天竺)や中国(震旦)が神国ではないのは、仏が神以外の姿をとって現れたからでした。
現実のさまざまな事象の背後における普遍的な真理の実在を説く論理は、特定の国土・民族の選別と神秘化に本来なじみません。中世的な神国思想の基本的性格は、他国に対する日本の優越の主張ではなく、その独自性の強調でした。中世的な神国思想は、仏教的世界観と根本的に対立するのではなく、それを前提として初めて成立するものでした。中世的神国思想において、天皇はもはや中心的要素ではなく、神国存続のための手段でした。神国に相応しくない天皇は退位させられて当然だ、というのが当時の共通認識でした。中世的神国思想には普遍主義的性格が見られます。中世の思潮に共通して見られる特色は、国土の特殊性への関心とともに、普遍的世界への強い憧れです。現実世界に化現した神・仏・聖人への信仰を通じて、誰かもが最終的には彼岸の理想世界に到達できる、という思想的状況において、中世の神国思想は形成されました。 中世後期(室町時代)以降、日本の思想状況における大きな変化は、中世前期(院政期・鎌倉時代)に圧倒的な現実感を有していた他界観念の縮小と、彼岸─此岸という二重構造の解体です。古代から中世への移行期に、現世を仮の宿と考え、死後の理想世界たる浄土への往生に強い関心を寄せる世界観が成立しました。しかし、中世後期には浄土のイメージが色褪せ、現世こそが唯一の実態との見方が広まり、日々の生活が宗教的価値観から解放され、社会の世俗化が急速に進展します。仏は人間の認知範囲を超えたどこか遠い世界にあるのではなく、現世の内部に存在し、死者が行くべき他界(浄土)も現世にある、というわけです。死者の安穏は遥かな浄土への旅立ちではなく、墓地に葬られ、子孫の定期的な訪れと読経を聞くことにある、とされました。神は彼岸への案内者という役割から解放され、人々の現世の祈りに耳を傾けることが主要な任務となりました。この大きな社会的変化は、江戸時代に完成します。このコスモロジーの大変動は、その上に組み上げられたさまざまな思想に決定的転換をもたらしました。彼岸世界の衰退は、垂迹の神に対して特権的地位を占めていた本地仏の観念の縮小を招き、近世の本地垂迹思想は、他界の仏と現世の神を結びつける論理ではなく、現世の内部にある等質な存在としての仏と神をつなぐ論理となりました。その結果、地上のあらゆる存在を超越する絶対者と、それが体現していた普遍的権威は消滅しました。中世において、現世の権力や価値観を相対化して批判する根拠となっていた他界の仏や儒教の天といった観念は、近世では現世に内在化し、現世の権力・体制を内側から支えることになりました。 彼岸世界の後退という大きな変動が始まるのは14世紀頃で、死後の彼岸での救済ではなく、現世での充実した生が希求されるようになりました。もっとも、客観的事実としての彼岸世界の存在を強力に主張し、彼岸の仏の実在を絶対的存在とする発想は、中世を通じておもに民衆に受容されて存続しました。一向一揆や法華一揆は、他界の絶対的存在と直結しているという信念のもと、現世の権力と対峙しましたが、天下人との壮絶な闘争の末に、教学面において彼岸表象の希薄な教団だけが正統として存在を許されました。江戸時代にはすべての宗教勢力が統一権力に屈し、世俗の支配権力を相対化できる視点を持つ宗教は、社会的な勢力としても理念の面でも消滅しました。神国思想も、近世には中世の要素を強く継承しつつも、大きく変わりました。近世の神国思想では、本地は万物の根源ではなく「心」とされました。本地は異次元世界の住人ではなく、人間に内在するものとされました。また、近世の神国思想では、垂迹は浄土と現世を結ぶ論理とは認識されておらず、中世の神国思想の根底をなした遠い彼岸の観念は見られません。近世の神国思想では、本地垂迹は他界と現世とを結ぶのではなく、現世における神仏関係となっていました。 中世的神国思想の中核は、他界の仏が神として日本列島に垂迹している、という理念でした。現実の差別相を超克する普遍的真理の実在にたいする強烈な信念があり、それが自民族中心主義へ向かって神国思想が暴走することを阻止する役割を果たしていました。しかし、中世後期における彼岸表象の衰退にともない、諸国・諸民族をともかくも相対化していた視座は失われ、普遍的世界観の後ろ盾を失った神国思想には、日本の一方的な優越を説くさいの制約は存在しませんでした。じっさい、江戸時代の神道家や国学者は、神国たる日本を絶賛し、他国にたいする優越を説きました。中世的な神国思想では日本の特殊性が強調されましたが、近世の神国思想では、日本の絶対的優位が中核的な主張となりました。 古代においても中世前期においても、神国思想には制約(古代では神々の整然たる秩序、中世では仏教的世界観)があり、自由な展開には限界があった、という点は共通していました。しかし、近世においては、権力批判に結びつかない限り、神国思想を制約する思想的条件はありませんでした。近世には、思想や学問が宗教・イデオロギーから分離し、独立しました。近世の神国思想は多様な人々により提唱され、日本を神国とみなす根拠も、さまざまな思想・宗教に基づいていました。共通する要素は、現実社会を唯一の存在実態とみなす世俗主義の立場と強烈な自尊意識です。近世の神国思想の重要な特色としては、中世では日本=神国論の中心から排除されていた天皇が、再び神国との強い結びつきを回復し、中核に居座るようになったことです。中世において至高の権威の担い手は、超越的存在としての彼岸の本地仏でした。中世後期以降、彼岸のイメージが縮小し、中世には天皇を相対化していた彼岸的・宗教的権威が後退していきます。近世の神国思想において、本地垂迹の論理は神国を支える土台たり得ず、日本が神国であることを保証する権威として、古代以来の伝統を有する天皇が持ち出されました。 明治政府は神国=天皇の国という近世の神国思想の基本概念を継承しますが、神仏分離により、外来の宗教に汚されていない「純粋な」神々の世界のもと、神国思想を再編しました。近代の神国理念には、(近世以降に日本「固有」で「純粋な」信仰として解釈された)神祇以外の要素を許容する余地はなく、中世の仏教的世界観も、近世の多様な思想・宗教も排除されました。天皇を国家の中心とし、「伝統的な」神々が守護するという現代日本人に馴染み深い神国の理念は、こうした過程を経て近代に成立しました。近代の神国思想には、日本を相対化させる契機は内在されていませんでした。独善的な意識で侵略を正当化する神国思想への道が、こうして近代に開かれました。 現代日本社会における神国思想をめぐる議論について、賛否どちらの議論にも前提となる認識に問題があります。日本=神国とする理念自体は悪ではなく、議論を封印すべきではありません。自民族を選ばれたものとみなす発想は時代を問わず広範な地域で見られ、神国思想もその一つです。排外主義としてだけではなく、逆に普遍的世界に目を開かせ、外来の諸要素を包摂する論理として機能したこともありました。神国思想は日本列島において育まれた文化的伝統の一つで、その役割は総括すべきとしても、文化遺産としての重みを正しく認識する義務があります。一方、神国思想を全面的に肯定する人々には、他者・他国に向けての政治的スローガンにすべきではない、と本書は力説します。そうした行為は、神国という理念にさまざまな思いを託してきた先人たちの努力と、神国が背負っている厚い思想的・文化的伝統を踏みにじる結果になりかねません。神国思想は、一種の選民思想でありながら、一見すると正反対な普遍主義への指向も内包しつ、多様に形を変えながら現代まで存続してきました。仏教・キリスト教・イスラム教などが広まった地域では、前近代において、普遍主義的な世界観が主流を占めた時期があります。宇宙を貫く宗教的真理にたいする信頼が喪失し、普遍主義の拘束から解放された地域・民族が、自画像を模索しながら激しく自己主張をするのが近代でした。自尊意識と普遍主義が共存する神国思想に関する研究成果は、方法と実証両面において、各地域における普遍主義と自民族中心主義の関わり方と共存の構造の解明に、何らかの学問的貢献ができる、と予想されます。 以上が親本の内容となり、以下が文庫版の追加分となります。本書執筆の背景には、異形のナショナリズムと排他主義の勃興、大規模な汚染や大量破壊兵器といった近代が生み出した問題にたいする危機意識がありました。文庫版では、親本よりもこの問題意識が強く打ち出されています。近代化の延長線上にある現代の危機的状況の解決・克服には、近代そのものを相対化できる視座が不可欠で、それは前近代にまで射程を延ばしてこそ可能ではないか、というのが本書の見通しです。以下、親本での内容とかなり重なりますが、文庫版の追加分について備忘録的に取り上げていきます。
中世には機能の異なる二種類の仏がいました。一方は、生死を超越した救済に民族(的概念に近い分類)・国の別なく衆生を導く普遍的存在で、姿形を持ちません。もう一方の仏は、具体的な形を与えられた仏像で、日本列島の住民を特別扱いし、無条件に守護する存在です。日本の仏は人々を彼岸(他界)の本仏に結縁させる役割を担っていますが、それ自体が衆生を悟りに到達させる力は持ちません。日本に仏教が導入された当初の古代において、死後の世界たる浄土は現世と連続しており、容易に往来できました。このような仏教受容は、人間が神仏や死者といった超越的存在(カミ)と同じ空間を共有する、という古代的なコスモロジーを背景としていました。
こうした古代的な一元的世界観は、10〜12世紀に転換していきます。超越的存在にたいする思弁が深化して体系化されるにつれてその存在感が増大し、その所在地が現世から分離し始めます。人間の世界(現世)から超越的存在の世界(他界)が自立して膨張します。この延長線上に、現世と理想の浄土が緊張感をもって対峙する二元的な中世的コスモロジーが成立します。至高の救済者が住む他界こそが真実の世界とされ、現世は他界に到達するための仮の宿という認識が一般化しました。言語や肌の色の違いを超えて人々を包み込む普遍的世界が、現実の背後に実在すると広く信じられるようになりました。日本の神や仏像など、現世に取り残されたカミは、衆生を他界に導くために現世に出現した、彼岸の究極の超越的存在(本地仏)の化現=垂迹として位置づけられました。 日本では古代から中世においてこのようにコスモロジーが転換し、仏教、とりわけ浄土信仰が本格的に受容されます。教理として論じられてきた厭離穢土欣求浄土の思想や生死を超えた救済の理念が、閉じられた寺院社会を超えて大衆の心をつかむ客観的情勢がやっと成熟したわけです。仏教や浄土教が受容されたから彼岸表象が肥大化したのではなく、他界イメージの拡大が、浄土信仰本来の形での受容を可能にしました。コスモロジーの変容が仏教受容の在り方を規定する、というわけです。現世を超えた個々人の救済をどこまでも探求する「鎌倉仏教」誕生の前提には、こうした新たなコスモロジーの形成がありました。このコスモロジーの転換の要因について、本書は人類史の根底にある巨大な潮流を示唆していますが、いずれ本格的に論じたい、と述べるに留まっています。 神国がしきりに説かれるようになる中世は、多くの人が現世を超えた心理の世界を確信していた時代でした。日本の神は仏(仏像)と同じく、それ自体が究極の真理を体現するのではなく、人々を他界に送り出すことを最終的な使命として、現世に出現=垂迹した存在でした。神の存在意義は衆生を普遍的な救済者につなぐことにあったわけです。こうした世界観では、現世的存在で、他界の仏の垂迹にすぎない神に光を当てた神国の論理は、他国を見下し、日本の絶対的な神聖性と優位を主張する方向らには進みませんでした。神に託して日本の優越性が主張されるのは、世俗的な水準の問題に限られており、真実の救済の水準では、国や民族(的概念に近い分類)といった修行者の属性は意味を失いました。中世の神国思想は普遍的な世界観の枠組みに制約されていたわけです。日本が神国であるのは、彼岸の仏がたまたま神という形で出現したからで、インド(天竺)はそれが釈迦で、中国(震旦)はそれが孔子や顔回といった学者(聖人)だったので、神国とは呼ばれませんでした。 中世的なコスモロジーは14〜16世紀に大きく転換していきます。不可視の理想世界にたいする現実感が消失し、現世と他界という二元的世界観が解体し、現世が肥大化していきます。人々が目に見えるものや計測できるものしか信じないような、近代へとつながる世界観が社会を覆い始めます。生死を超えた救済に人々を誘う彼岸の本地仏の存在感は失われ、現世での霊験や細々とした現世利益を担当する日本の神や仏像の役割が増大し、日本と外国を同次元においたうえで、日本の優位を主張するさまざまな神国思想が近世(江戸時代)には登場します。 近世的神国思想では、背景にあった普遍主義の衰退にも関わらず、日本優位の主張が暴走することはありませんでした。その歯止めになっていたのは、一つには身分制でした。国家を果実にたとえると、身分制社会は、ミカンのようにその内部に身分や階層による固定的な区分を有しており、それが国家権力により保証されています。一つの国家のなかに利害関係を異にする複数の集団が存在し、国家全体よりも各集団の利害の方が優先されました。モンゴル襲来にさいして神国観念が高揚した中世においても、モンゴルと対峙した武士勢力に純粋な愛国心があったわけではなく、自らが君臨する支配秩序の崩壊にたいする危機意識と、戦功による地位の上昇・恩賞が主要な動機でした。自分の地位に強い矜持を抱き、命をかけてそれを貫こうとする高い精神性はあっても、愛する国土を守るために侵略者に立ち向かうといった構図は見当たらず、それが中世人の普通の姿でした。愛国心がないから不純だと考えるのは、近代的発想に囚われています。中世の庶民層でも国家水準の発想は皆無で、モンゴル襲来は、日本の解体につながるからではなく、日常生活を破壊するものとして忌避されました。 近代国家は、内部が区分されているミカン的な近世社会から、一様な果肉を有するリンゴ的社会へと転換しました。近代国家は、全構成員を「国民」という等質な存在として把握します。この新たに創出された国民を統合する役割を担ったのが天皇でした。神国日本は悠久の伝統を有する神としての天皇をいただく唯一の国家なので、他国と比較を絶する神聖な存在であり、その神国の存続と繁栄に命を捧げることが日本人の聖なる使命とされました。普遍主義的コスモロジーが失われ、全構成員たる国民が神国の選民と規定された近代国家の成立により、神国日本の暴走に歯止めをかける装置はすべて失われました。第二次世界大戦での敗北により状況は一変しましたが、ナショナリズムを制御する役割を果たす基本ソフト(コスモロジー)が欠けているという点では、現在も変わりません。 社会の軋轢の緩衝材としてのカミが極限まで肥大化し、聖職者によりその機能が論理化され、普遍的存在にまで高められたのが中世でした。現世の根源に位置する超越者は、民族・身分に関わりなく全員を包み込む救済者でした。近代化にともなう世俗化の進行とカミの世界の縮小により、人間世界から神仏だけではなく死者も動物も植物も排除され、特権的存在としての人間同士が直に対峙する社会が出現しました。近代社会は、人間中心主義を土台としていたわけです。この人間中心主義は基本的人権の拡大・定着に大きな役割を果たしましたが、社会における緩衝材の喪失も招きました。人間の少しの身動きがすぐに他者を傷つけるような時代の到来です。現在の排他的な神国思想は、宗教的装いをとっていても、社会の世俗化の果てに生まれたもので、その背後にあるのは、生々しい現世的な欲望と肥大化した自我です。自分の育った郷土や国に愛情と誇りを抱くのは自然な感情ですが、問題はその制御です。現在の危機が近代化の深化のなかで顕在化したものであれば、人間中心主義としての近代ヒューマニズムを相対化できる長い射程のなかで、文化・文明を再考することが必要です。これは、前近代に帰れとか、過去に理想社会が実在したとかいうことではなく、近代をはるかに超える長い射程のなかで、近現代の歪みを照射することが重要だ、ということです。 以上、本書の見解について備忘録的に詳しく取り上げてきました。そのため、かなりくどくなってしまったので、改めて自分なりに簡潔にまとめておきます。神国思想は、神としての天皇を戴く日本を神国として、他国に対する絶対的優位を説いた、(偏狭な)ナショナリズムで、鎌倉時代のモンゴル襲来を契機に盛り上がりました。平安時代後期〜モンゴル襲来の頃まで、日本は釈迦の生まれた天竺からはるかに隔たった辺境の小島(辺土粟散)にすぎない、という末法辺土思想が日本では浸透しており、神国思想は神道的優越感による仏教的劣等感の克服でした。
本書は、このような近現代日本社会における(おそらくは最大公約数的な)神国思想認識に疑問を呈し、異なる解釈を提示します。神国思想は、古代・中世・近世・近現代で、その論理構造と社会的機能が大きく変容しました。古代のコスモロジーは、人間が神仏や死者といった超越的存在と同じ空間を共有する、というものでした。しかし、古代の神は人間にとって絶対的で理不尽な存在で、人間には祟りをもたらし、予測不能で非合理的な命令をくだしました。また、古代の神は一ヶ所に定住せず、祭祀の期間にだけ現れ、終わると立ち去るような、気ままに遊行を繰り返す存在でした。これも、古代の神の人間にとって理不尽ではあるものの、絶対的存在でもあったことの表れなのでしょう。古代の神は氏族に占有されており、広く大衆に開かれているわけではありませんでした。しかし、律令国家形成の頃より、次第に神は一ヶ所に定住する傾向を強めていきます。中央集権を志向した律令国家により、神々も統制されていくようになったわけです。このなかで、皇祖神たる天照大神を頂点とする神々の整然とした秩序が整備され、天皇は国家そのものとされ、神々が守護すべき対象とされました。古代的神国思想では、仏教的要素は極力排除され、天皇が中核的要素とされました。 こうした整然とした古代的秩序は、律令制度の変容にともない、平安時代前期に大きく変わります。神社にたいする国家の経済的支援は減少し、神社は皇族や有力貴族・寺院などとともに、荘園の集積に乗り出し、経済的基盤を確立しようとします(荘園公領制)。この過程で、古代的な整然とした神々の秩序は崩壊し、神々の自由競争的社会が到来します。これが古代から中世への移行で、古代から中世への移行期を経て、中世にはコスモロジーも神国思想も大きく変容します。古代から中世への移行期に、神の立場が大きく変わります。かつては一ヶ所に定住せず、人間に祟り、理不尽な命令をくだす絶対的な存在だったのが、一ヶ所に定住し、人間の信仰・奉仕に応じて賞罰をくだす、より合理的存在となります。神の一ヶ所への定住は、集積された各所領の正当性の主張に好都合でした。また、仏像にならって神の像も作られるようになります。古代から中世への神の変化は、合理化・定住化・可視化と評価されます。 さらに、仏教の浸透、神々の仏教への融合により、かつては人間と神などの超越的存在とが同じ空間を共有していたのに、超越的存在の空間としての彼岸の観念が拡大し、理想の世界とされ、現世たる此岸と明確に分離します。こうしたコスモロジーは、仏教信仰と教学の深化により精緻になっていきました。そこで説かれたのが本地垂迹説で、普遍的真理たる彼岸の本地仏と、その化現である垂迹としての神や仏(仏像)という構図が広く支持されるようになりました。古代において人間にとって絶対的存在だった神は、普遍的真理ではあるものの、あまりにも遠く、人間には覚知しにくい彼岸と、現世の存在たる人間とを結びつける、本地仏より下位の存在となりました。この垂迹は、天竺(インド)・震旦(中国)・日本という当時の地理的認識における各国では、それぞれ異なる姿で現れました。天竺では釈迦、震旦では孔子、日本では神々というわけです。日本が神国との論理は、中世においては、垂迹が神であるという意味においてであり、日本が天竺や震旦より優位と主張する傾向もありましたが、それは垂迹の水準でのことで、本質的な主張ではありませんでした。中世の神国思想は、仏教的世界観を前提とした普遍的真理に基づいており、モンゴル襲来のようなナショナリズム的観念の高揚を契機に主張されるようになったのではありませんでした。じっさい、中世において神国思想が盛んに説かれる契機となったのは、院政期の寺社相論と鎌倉時代のいわゆる新仏教(とくに専修念仏)排撃で、モンゴル襲来よりも前のことでした。このような中世的神国思想は、他国にたいする絶対的優位を説く方向には進みませんでした。また、中世には天皇の権威も低下し、神国思想において天皇は自身が守護の対象というより、体制維持の手段でした。 しかし、神国思想の前提となるコスモロジーが変容すれば、神国思想自体も大きく変わっていきます。14世紀以降、日本では中世において強固だった彼岸─此岸の構造が解体していきます。彼岸世界の観念は大きく縮小し、此岸たる現世社会が拡大していき、人々が彼岸世界に見ていた普遍的真理も衰退していきます。こうした傾向は江戸時代に明確になり、ナショナリズム的観念の肥大を阻止していた普遍的真理が喪失されたコスモロジーにおいて、自国の絶対的優越を説く主張への歯止めはもはや存在していませんでした。江戸時代(近世)には、さまざまな思想・宗教的根拠で他国にたいする日本の絶対的優位が主張され、天皇がその中核となっていきました。しかし、身分制社会の近世において、身分や階層による固定的な区分の、利害関係を異にする複数の集団が存在していたため、国家全体よりも各集団の利害の方が優先され、神国思想の他国にたいする暴走に歯止めがかけられていました。近代日本は、近世の神国思想を継承しつつ、(近世以降に日本「固有」で「純粋な」信仰として解釈された)神祇以外の要素を排除し、近現代日本社会における(最大公約数的な)神国思想認識が確立しました。近代日本は、全構成員を「国民」という等質な存在として把握します。この新たに創出された国民を統合する役割を担ったのが天皇でした。普遍主義的コスモロジーが失われ、全構成員たる国民が神国の選民と規定された近代国家の成立により、神国思想の暴走に歯止めをかける装置はすべて失われました。 短くと言いつつ、長くなってしまい、しかもさほど的確な要約にもなっていませんが、とりあえず今回はここまでとしておきます。神国思想の論理構造と社会的機能の変遷を、世界観・思想・社会的状況から読み解いていく本書の見解は、12年前にはたいへん感銘を受けましたし、今でもじゅうぶん読みごたえがあります。ただ、当時から、古代が一元的に把握されすぎているのではないか、と思っていました。もっとも、諸文献に見える思想状況ということならば、本書のような把握でも大過はない、と言えるのかもしれませんが。一向一揆などいわゆる鎌倉新仏教系と支配層との対立的関係が強調されすぎているように思われることも、気になります(関連記事)。戦国時代の天道思想(関連記事)と中世のコスモロジーとの整合的な理解や、今後の日本社会において神国思想はどう活かされるべきなのか、あるいは否定的に解釈していくべきなのかなど、まだ勉強すべきことは多々ありますし、今回はほとんど本書の重要と思った箇所を引用しただけになったのですが、今回は長くなりすぎたので、それらは今後の課題としておきます。
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_14.html
|