特攻隊員は「志願して死んでいった」のか http://blogos.com/article/270009/ フィリピンの基地から出撃した陸軍特攻隊「万朶隊」の佐々木友次伍長機(写真=佐々木友次氏提供)
「9回特攻に出撃して、9回生きて帰ってきた」人がいます。名前は佐々木友次。作家・演出家の鴻上尚史さんは、92歳の佐々木さんに5回会い、その証言を著書『不死身の特攻兵』(講談社現代新書)にまとめました。鴻上さんは取材を通じ、「志願して死んでいった」という話は、特攻を「命令した側」の見方だったのではないか、と考えました――。 ※本稿は、鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書)の第4章「特攻の実像」を一部再編集したものです。
■「命令した側」が作り上げた特攻隊のイメージ 佐々木友次さんの人生を知ることは、特攻隊を理解していくことでもありました。 調べれば調べるほど、「特攻隊とはなんだったのか?」という質問は成立しないと考えるようになりました。 特攻隊は「命令した側」と「命令された側」があって、この両者をひとつにして「特攻隊とはなんだったのか?」と考えるのは無意味だと思うようになってきたのです。 「特攻隊は『志願』だったのか、『命令』だったのか?」という今も続く論争も、この二つの視点を明確にしなければ、意味がないと考えるようになりました(佐々木友次さん達『万朶隊』(※)は明確に「命令」でしたが)。 ※編注:佐々木さんは日本陸軍の特攻隊『万朶隊』の第一回出撃隊に選ばれた。 『神風特別攻撃隊』という戦後、ベストセラーになった本があります。大西瀧治郎中将の部下であり、海軍の特攻を命じた中島正、猪口力平の二人が書いたものです。 英語にも翻訳され、世界に「カミカゼ」のイメージを伝えました。「積極的に自分から志願し、祖国のためににっこりと微笑んで出撃した」という、今も根強いイメージです。 それには、第2章で紹介した関行男大尉が海軍第一回の特攻隊長に指名された時の様子が描写されています。 深夜、寝ているところを士官室に呼ばれた関大尉に対して、所属部隊の副長である玉井浅一中佐は、肩を抱くようにし、二、三度軽くたたいて、現在の状況を説明し、 「『零戦に250キロ爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい(中略)ついてはこの攻撃隊の指揮官として、貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?』
と、涙ぐんでたずねた。関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。(中略)目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。―一秒、二秒、三秒、四秒、五秒…… と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。 『ぜひ、私にやらせてください』 すこしのよどみもない明瞭な口調であった」 陸軍の『万朶隊』のように、いきなり体当たりを命じられてはいません。 これを「志願」という人もいるかもしれません。けれど、厳しい階級社会の軍隊において、中佐という二階級上の上官から「涙ぐまれながら」「どうか?」と言われて断るのは本当に難しいと思います。 ところが、1984年、戦後40年近くたって、この夜のやりとりが猪口・中島の書いた嘘だと判明します。 のちに、僧侶になった元副官の玉井氏が、関大尉の中学時代の同級生に対して、「関は一晩考えさせてくれ、といいましてね。あの日は豪雨で、関は薄暗いローソクの灯の下で、じっと考え込んでいました」と証言していたのです。 また、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀 文春文庫)には、同じことを猪口参謀が大西中将の副官だった門司親徳氏に戦後、話したと書かれています。 「一晩考えさせてください」と答える関大尉に、玉井中佐は、編成は急を要する、できれば、明日にも、敵機動部隊が現れれば攻撃をかけねばならない。と、重ねて、大西長官の決意を説明し「どうだろう。君が征ってくれるか」とたたみかけたのです。 そして、関大尉は、「承知しました」と短く答えました。 これは、「志願」のふりをした「強制」です。いったん、ふりをするだけ、余計に残酷だと感じます。 ■『神風特別攻撃隊』の多数の欺瞞 『神風特別攻撃隊』では、他の隊員の志願に関しても、嘘が書かれています。 初めて隊員達に特攻の志願を募った時を、猪口参謀は次のように描写しています。 「集合を命じて、戦局と長官の決心を説明したところ、感激に興奮して全員双手をあげての賛成である。かれらは若い。(中略)小さなランプひとつの薄暗い従兵室で、キラキラと目を光らして立派な決意を示していた顔つきは、いまでも私の眼底に残って忘れられない。(中略)これは若い血潮に燃えるかれらに、自然に湧きあがったはげしい決意だったのである」
ですが、生き残った浜崎勇一飛曹の証言によれば、23人の搭乗員達は、あまりの急な話に驚き、言葉も発せずに棒立ちになっていました。 「いいか、お前達は突っ込んでくれるか!」
玉井副官は叫びましたが、隊員達には戦闘機乗りとしてのプライドがありました。 反応が鈍いのに苛立った玉井副官は、突然、大声で、 「行くのか行かんのか!」と叫びました。その声に、反射的に総員が手を挙げたのです。 それは、意志というより、突然の雷に対する条件反射でした。 玉井副官は、その風景を見て「よし判った。志願をした以上、余計なことを考えるな」と答えました。全員が「自発的に志願」した瞬間でした(『敷島隊 死への五日間』根本順善 光人社NF文庫)。 それ以降の隊員選びでは、中島飛行長は、封筒と紙を配り、志願するものは等級氏名を、志願せぬものは白紙を封筒に入れて、提出させたと戦後、答えました。 「志願、不志願は私のほかはだれにもわからない」ためにです。 けれど、やはり生き残った隊員は、そんな手順を踏まず、実際は、 「志願制を取るから、志願するものは一歩前へ」というものだったと証言しています。 中島だけに分かるのではなく、まったくの逆です。結果、全員が一歩前に出たと言います。 当事者の隊員がこう証言していても、中島は、戦後もずっと当人達の意志を紙に書かせたと主張し続け、航空自衛隊に入り、第一航空団指令などの要職を経て、空将補まで上り詰めました。 ■なぜ部下の内面に一歩も踏み込まないのか 『神風特別攻撃隊』は、徹底して特攻を「命令した側」の視点に立って描いています。特攻の志願者は後をたたず、全員が出撃を熱望するのです。 酒の席に招かれれば、「私はいつ出撃するのですか、はやくしてくれないと困ります」と迫られ、特攻隊員を指名する前には中島のズボンの腰を引っ張りながら「飛行長、ぜひ自分をやって下さい!」と叫ばれ、夜には自室に志願者が出撃させて欲しいと日参してくるのです。 隊員達の状態は次のように描写されています。 「出発すればけっして帰ってくることのない特攻隊員となった当座の心理は、しばらくは本能的な生への執着と、それを乗り越えようとする無我の心とがからみあって、かなり動揺するようである。しかし時間の長短こそあれ、やがてはそれを克服して、心にあるものを把握し、常態にもどっていく。
こうなると何事にたいしてもにこにことした温顔と、美しく澄んだなかにもどことなく底光りする眼光がそなわるようになる。これが悟りの境地というのであろうか。かれらのすることはなんとなく楽しげで、おだやかな親しみを他のものに感じさせる」 死ぬことが前提の命令を出す指揮官が、「動揺するようである」という、どこか他人事と思われる推定の形で書くことに、僕は強烈な違和感を覚えます。 猪口、中島というリーダーは、部下の内面に一歩も踏み込んでいないと感じられるのです。 どれぐらい動揺しているのか、本心はどうなのか、動揺に耐えられるのか。優秀なリーダーなら、部下と話し、部下を知り、部下の状態を把握することは当然だと考えます。 けれど、特攻を「命令された側」の内面に踏み込む記述はないのです。それは見事なほどです。登場する隊員達は、全員、なんの苦悩も見せないのです。それは、今読み返してみると、異常に感じます。 隊員の内面に踏み込んだ描写をせず、関大尉の場合のように嘘を書く理由は、ひとつしか考えられません。 特攻隊の全員が志願なら、自分達上官の責任は免除されます。上官が止めても、「私を」「私を」と志願が殺到したのなら、上官には「特攻の責任」は生まれません。が、命令ならば、戦後、おめおめと生き延びていたことを責められてしまいます。多くの上官は、「私もあとに続く」とか「最後の一機で私も特攻する」と演説していたのです。 大西瀧治郎中将のように、戦後自刃しなかった司令官達は、ほとんどが「すべての特攻は志願だった」と証言します。私の意志と責任とはなんの関係もないのだと。 ■秘密裏に「回収」された隊員たちの遺書 2012年8月28日に放送されたNHK『クローズアップ現代』は奇妙な内容でした。海上自衛隊第一術科学校の倉庫の奥深くから大量の特攻隊員の遺書が見つかったことが始まりでした。 鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社) https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8D%E6%AD%BB%E8%BA%AB%E3%81%AE%E7%89%B9%E6%94%BB%E5%85%B5-%E8%BB%8D%E7%A5%9E%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%B8%8A%E5%AE%98%E3%81%AB%E5%8F%8D%E6%8A%97%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%B4%BB%E4%B8%8A-%E5%B0%9A%E5%8F%B2/dp/4062884518 なぜここにあるのかと調べていくうちに、1949年(昭和24年)、特攻隊員の遺書を遺族から回収して歩いた男がいたことが分かります。男は、特務機関の一員だと名乗り、このことは口外しないようにと遺族達に言いました。もちろん、戦後ですから、もう特務機関などというものは存在しません。
集められた遺書は、1000通余り。2000近くの遺族を訪ね歩いていました。どうしても遺書を渡すのが嫌だと拒否した場合は、その場で書き写したそうです。けれど、多くの遺族は従いました。 発見された遺書を初めて見た遺族が番組で紹介されていました。両親が死に、遺書を渡していたことを知らず、初めて兄の自筆の遺書を見た妹でした。 60年以上、大切な遺書は倉庫の奥で忘れられていたのです。 遺書に押されていた「二復」の文字から、この男は海軍を事実上引き継ぐ組織である「第二復員省」から情報をもらって遺族を訪ね歩いていたと分かりました。 その男と頻繁にやりとりをしていたのが猪口力平でした。 なんのために遺書を集めたのか、何が目的だったのか。 1951年(昭和26年)、特攻作戦や軍部への批判が高まっていた時に、『神風特別攻撃隊』は、その風潮に対抗するように出版されました。 この本の中には、特攻が現場の兵士達の熱望によって生まれ、出撃の志願者が後を絶たなかったということの裏付けとして、遺書7通が引用されています。 これらは、すべてこの時に回収された遺書でした。 猪口は、本の中で「海軍の特別攻撃隊員の慰霊巡拝のため、全国を行脚して歩いた篤行の士に、近江一郎という人があったが」と書き、彼が連絡、送付してくれたとして、遺書を紹介しています。「慰霊巡拝」の人物が、特務機関から来た、口外しないようにと遺族に言って回ったというのですから、不思議な話です。 番組に出た専門家は、どうしてこんなことが起こったのかという番組の問いに対して、こう考えを述べました。 この当時、10年たったら海軍は復活すると多くの人は考えていて、明治以来の立派な歴史を持った海軍を復活させたいという気持ちがあった。 その時、唯一、海軍としては軍としても人としてもやってはいけない特攻作戦を発案し、それを実行したという、本当に抜きがたい、心に刺さったとげのような部分があったのではないか。 なので、日本全国の遺族の手元に遺書があると、これは孫の代になっても、ひ孫の代になっても、自分の祖父は、曽祖父は、こういう形で死んだんだというのがずっと残る。海軍はそれがつらかったんじゃないか。 と、分析しています。 真相は闇の中です。 ■遺書に本当に書きたかったこと 本の中で紹介されている遺書は、「戦場における異常心理」などに支配されず、「意外なほどしずかな落着いた精神のたたずまい」が見られると猪口は解説しています。 けれど、遺書に本音が書けなかったことは、少し調べればすぐに分かります。 特攻が「志願」だったと強調する人は、特攻隊員の遺書や遺稿に溢れる「志願」「喜び」「熱意」を根拠にしますが、それは当時の状況を無視しすぎています。 『死にゆく二十歳の真情 神風特別攻撃隊員の手記』(読売新聞社)の著者、元特攻隊員の長峯良斉氏は「(遺書は)それが必ず他人(多くの場合は上官)の手を経て行くことを知っており、そこに(中略)『死にたくはないのだが……』などとは書けない」と書いています。 上官の目に触れなければ何を書くか。そのひとつの例が、『陸軍特別攻撃隊』の著者、高木俊朗氏が執筆を依頼し、軍部の目を盗んで直接遺族に届けることができた、上原良司氏の「所感」です。 明日出撃する『振武隊』の中にいた上原の表情があまりにも思い詰めた様子なので、高木氏は「君、ちょっと何か書いてくれ」と紙と鉛筆を渡します。 慶応大学から学徒動員で特攻隊員になった22歳の上原が、この時書いた文章は、『きけわだつみのこえ』の冒頭に収録されて、とても有名になりました。 上原氏は「自由の勝利は明白な事だ」「権力主義、全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家(日本・ドイツ・イタリア三国同盟の諸国)において見る事が出来ると思います」と書くのです。 特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬ、自殺者とでもいうか、精神の国、日本においてのみ見られる事と書いた後に、「こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。故に最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です」と、苦悩と思考の流れを吐露しているのです。 所感の冒頭は、陸軍特別攻撃隊に選ばれたことを「身の光栄これに過ぐるものなき」と書き、終わり近くは「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です」としました。 ■黙殺された「命令された側」の言葉 上原氏の言葉は、猪口・中島が決して聞こうとしなかったものだと思います。『神風特別攻撃隊』という本は、徹底的に「命令した側」の視点で、特攻隊を世界的に広めたのです。 ちなみに、猪口力平と中島正は、それぞれ昭和の終わりと平成まで生き、80歳と86歳で亡くなりました。 ---------- 鴻上尚史(こうかみ・しょうじ) 作家・演出家。1958年愛媛県生まれ。早稲田大学在学中の81年に劇団「第三舞台」を結成。87年「朝日のような夕日をつれて’87」で紀伊國屋演劇賞団体賞、95年「スナフキンの手紙」で岸田國士戯曲賞受賞。10年に戯曲集「グローブ・ジャングル」で第61回読売文学賞戯曲・シナリオ賞受賞。舞台公演のかたわら、エッセイや演劇関連の著書も多く、ラジオ、テレビ、映画監督など幅広く活動。日本劇作家協会会長。 ---------- (作家・演出家 鴻上 尚史 写真=佐々木友次氏提供) ▲△▽▼ モチベーションややる気は、無くて良い モチベーションで勝てるという上司は、「竹やりで米軍に勝てる」というのと同じ 引用:https://img.cnread.news/uploads/20170508/E2/E2EE168F7D42w640h426.jpeg
モチベーションは根性論か
一時期スポーツや会社で「モチベーション」が重視されていた事がありました。 最初にモチベーションを連発したのはサッカーだった気がするが、「モチベーションが低いから負けた。モチベーションを上げなくてはいけない」と選手たちが言っていました。 日本語では「動機づけ」だが、「やる気」「根性」と同じ使い方がされているようです。 モチベーションを上げれば勝てるというのはスポーツではあるのかも知れないが、それを労働者に当てはめるのは問題がある。 スポーツはせいぜい2時間で終わるが、仕事は一生であり、一生涯「やる気」「根性」でペースを上げ続けることはできない。 「モチベーションを上げろ」と指示するのは会社の上層部や上司だが、「モチベーション」が高い上司や経営者は決して言わない。 その会社では間違いなく社内のモチベーションが低く、無気力が蔓延し、やる気も覇気も感じられない筈です。
だから上層部は「モチベーションを上げろ」と命令するが、問題を悪化させる場合が多いといわれています。 社内が沈鬱なムードなのには原因が在るはずなので、原因を解決するか取り除くのが「モチベーションを上げる」事になります。 例えば上司が適切な指示を出さないとか、機械の性能が低いとか、物理的あるいは組織的な原因は他にある筈です。
ところが本当の原因は放置して「やる気と根性が足りないんだ」というのでは、戦前の精神論と同じです。 日本の社会は戦前からグルっと一周して、また戦前の精神論に戻ってしまったのでしょうか? モチベーションが低い原因を解決すべきなのに、「モチベーションを上げろ」と怒鳴る bp1020-01-min 引用:https://biz-shinri.com/wp-content/uploads/2015/04/bp1020-01-min.png
大本営と現代の経営者の発想が同じ
戦時中の有名な出来事として「特攻」があり、戦闘機などに火薬を詰め込んで軍艦に体当たりします。 実に勇敢だが、物理的にはこの攻撃方法は理に叶っておらず、何の戦果も挙げていません。 まず爆弾は上空から落下させるから装甲を貫いて艦内で爆発するが、飛行機は装甲で跳ね返されるので、機体は外で爆発してしまいます。 艦内に食い込んだ爆弾は火薬庫を誘爆させ、一発で戦艦や空母を撃沈する可能性があるが、船外で爆発する戦闘機は表面を焦がすだけです。
しかも技術的に体当たりの方が困難で、何しろ練習する事ができないので上達しません。 しかし敗戦濃厚になった日本軍では「精神」「根性」が重視され、特攻を批判すると「必勝精神が足りない」とされました。 まさに今の日本企業の幹部が言っている「モチベーション」と戦時中の日本軍幹部が言った「必勝精神」は同じではないだろうか。
ミッドウェイ作戦という日本の敗戦を決定づけた海戦があり、日本は主力空母のほとんどを失い、事実上ここで戦闘能力を喪失しました。 敗因は暗号を解読されたなどあったが、開戦のハワイ作戦から休み無く働かせた事で、人間も機械も疲弊しきっていました。 大本営は空母機動部隊に休暇を与えず整備もせず、東南アジアからインド洋、オーストラリア攻撃までやらせました。
乗組員や搭乗員が疲弊していたら必要なのは休養させる事で、機械が故障したら整備や修理をしなくてはなりません。 ところがここで出てきたのが精神論で「休みたいなどというのは精神が弛んでいる」と言われて余計に働かされました。 おかげでミッドウェイ作戦では作業員がミスを連発し、南雲長官は疲労からか何度も作戦ミスをおかし、挙句に偵察機は故障して索敵もできませんでした。
暗号以前に負ける条件が揃っていたのであり、もし真珠湾攻撃から十分な休養と整備を取っていたら、暗号を知られていてもミッドウェイで勝っていた筈でした。 このように「モチベーション」や「精神、根性」は百害在って一理なしで、むしろ無いほうが問題が早く解決して良いほどです。 他に問題があるのに「精神力でやれ」と言っているのが現代の経営者であり、そういうのは大本営と同じなのです。 http://www.thutmosev.com/archives/74451805.html 因みに、神風特攻は太平洋戦争が八百長だと見破られない為に昭和天皇が発案したと言われています [12初期非表示理由]:管理人:混乱したコメント多数により全部処理 ▲△▽▼ 「命が削られる音がした…」沖縄水上特攻・生還者たちの証言 時代遅れの巨大戦艦「大和」とともに(現代ビジネス) http://www.asyura2.com/17/warb21/msg/582.html 2018.01.24 栗原 俊雄 現代ビジネス 「何とか生きて帰ろう」と思ったが… 「燃料は半分。飛行機の護衛はない」 今から73年前の1945年4月、駆逐艦「雪風」の寺内正道艦長は、西崎信夫さん(91)たち乗員にそう話した。「特攻だ」と。 「母親から『是が非でも生きて帰ってきなさい。それでこそ立派な兵隊ですよ』と言われていました。だから、『何とか生きて帰ろう』と思っていました」 実際、西崎さんは1944年、かつて世界最強を謳われた、連合艦隊の機動部隊が壊滅したマリアナ沖海戦、その連合艦隊自体が事実上壊滅したフィリピン沖海戦、さらには護衛していた巨大空母「信濃」が米潜水艦に撃沈された海戦からも生きて帰った。しかし「特攻」と聞いた時は「『いよいよこれはダメだ』と」。 第二次世界大戦末期、劣勢の大日本帝国陸海軍が進めた特別攻撃隊=「特攻」について、筆者は昨年3回、現代ビジネスに寄稿した。いずれも戦闘機や爆撃機などが爆弾もろとも敵艦に突っ込む「航空特攻」について取り上げたものだ。 しかし、特攻にはそれ以外にも水上の軍艦による特攻(水上特攻)や小型潜水艦などによる特攻(水中特攻)があった。 ドラマや小説、ノンフィクションでも繰り返し描かれてきた航空特攻ほどは知られていないだろう。だが、これらの特攻では航空特攻に匹敵するほど多くの兵士たちが死んでいった。 「水上特攻」の代表は、戦艦「大和」など10隻による沖縄水上特攻がそれである。筆者はこれまで、「大和」を中心にこの特攻から生還した人たち30人近くに取材をしてきた。本稿では、この「特攻・大和艦隊」のことを振り返ってみたい。 「世界最強」のはずが… 1941(昭和16)年12月に始まった米英などとの戦争で、大日本帝国は当初、勝利を重ねた。だが連合国軍が体制を整え本格的な反攻を始めると、劣勢に転じた。決定的だったのは1944年。ことに7月、サイパンやグアムなどマリアナ諸島を米軍に占領されたことだ。米軍がここを拠点に、大型爆撃機B29による日本本土爆撃が可能になった。 そのことを、日本の為政者たちは知っていた。だが、戦争をやめなかった。そのため被害は拡大した。戦争による日本人死者310万人のうち、実に9割が1944年以降と推算されている(『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』吉田裕著・中公新書)。 同年10月には、フィリピン戦線で航空特攻が始まった。「大和」など連合艦隊の主力が、フィリピン・レイテ島に上陸した米軍を撃退すべく、航空機の援護がないままに出撃した乾坤一擲の戦いであった。 「大和」は開戦間もない1941年12月16日に竣工した。全長263メートル、全幅38・9メートル。基準排水量6万5000トン。「世界最大」の戦艦であった。また戦艦の存在価値は主砲で決まる。「大和」の主砲は四六センチ砲九門で、最大射程距離は四二キロ。同時代の、他のどの国の戦艦より主砲が大きく、射程距離は長かった。 【PHOTO】gettyimages
「大和」は「アウト・レンジ」戦法、つまり敵艦の砲弾が届かないところから、その巨砲で一方的に攻撃することができるはずだった。「世界最強」と謳われた所以である。 これは、敵味方の戦艦が主砲を打ち合って雌雄を決する(たとえば1905年、日露戦争の日本海海戦)という戦術思想に基づくものである。また、航空機は戦艦を沈められない、という前提もあった。ところが航空機の発達により、海戦の主力は戦艦から航空機とそれを積む航空母艦(空母)を中心とした機動部隊に移っていった。 「大和」は、誕生した時点で時代遅れの巨大兵器だった。帝国海軍が期待したような、アウト・レンジで敵艦隊を撃滅することはなかった。そもそも、「大和」にはそういう戦闘場面すらなかった。 「大和」が期待された戦果を挙げられなかったのは、海軍が使い道を対水上艦隊にこだわり続けたせいでもある。たとえば早くから機動部隊の護衛として、あるいは上陸した米軍を艦砲射撃で叩くことに使用されていれば、それなりの戦果を挙げただろう。 水上部隊だけ何もしないわけには ともあれ戦局の大きな節目となった1944年は、帝国海軍にとっても最悪の年になった。まず7月、前述のマリアナ諸島を守るべく出撃したマリアナ沖海戦で米海軍に惨敗。かつて世界最強だった機動部隊が壊滅した。さらに10月には、前述のレイテ島を巡る海戦で連合艦隊そのものが事実上壊滅した。「大和」とともに「浮沈艦」と言われた姉妹艦の「武蔵」も撃沈された。 為政者たちがずるずると勝ち目のない戦いを続けるうち、敵は日本本土に近づいてきた。そして1945年4月1日、米軍が沖縄に上陸した。この米軍を撃退するために出撃したのが「大和」特攻艦隊である。「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「磯風」「濱風」「朝霜」「霞」「冬月」「涼月」「雪風」「初霜」からなる「第二艦隊」の10隻であった。 航空機の援護を持たない艦隊は、敵の機動部隊には勝てない。勝てないどころか惨敗を喫する。そのことは、ほんの半年前、フィリピン近海で学んでいたはずだ。 さらに沖縄近海を遊弋する米海軍の戦力は、機動部隊以外でも「大和」艦隊を桁外れに上回っていた。たった10隻でそこに殴り込んでも、勝算はほとんどない。そもそも沖縄にたどり着くことすら極めて難しい。無謀そのものの「作戦」だった。 このため海軍内部では反対論が強かった。第二艦隊でも伊藤整一司令長官以下、なかなか賛成しなかった。 こうした、失敗の可能性が極めて高い特攻が発令されるには、いくつかの背景がある。まず、底が見えてきた燃料事情だ。開戦直後に侵攻した、東南アジアの石油産出地域は占領を続けていた。しかしそれを運ぶ補給路を連合国軍に押さえられているため、運ぶことができない。備蓄の燃料が少なくなる中、膨大な燃料を消費する巨艦は「厄介もの」扱いされつつあった。 さらに連合艦隊参謀長だった草鹿龍之介の証言によれば「一部の者は激化する敵空襲に曝して何等なすところなく潰え去るその末期を憂慮し、かつまた全軍特攻として敢闘している際、水上部隊のみが拱手傍観はその意を得ぬというような考えから、これが早期使用に焦慮していた」(『聯合艦隊』)という雰囲気があった。 つまり、このままでは敵の空襲でなにもしないままやられてしまう。あるいは航空特攻を初めとして「全軍特攻」を標榜する中、水上部隊だけがなにもしないというわけにはいかない、といった危機感だ。 昭和天皇への「忖度」 さらに、昭和天皇の影響もあった。 2014年9月、宮内庁が公開した『昭和天皇実録』(『実録』)には以下の記述がある(1945年3月26日の項)。 「御文庫において軍令部総長及川古志郎に謁を賜う。なおこの日午前十一時二分、聯合艦隊司令長官は天一号作戦の発動を令する」と記されている。「天一号作戦」とは、沖縄方面での航空特攻を主体とするもの。及川が作戦の詳細を説明したとみられる。 さらに4日後の30日、天皇は及川に会い「天一号作戦に関する御言葉への連合艦隊司令長官よりの奉答を受け」(『実録』)た。 及川が答えを言うからには、昭和天皇から何か質問されたはずだ。『実録』はその内容を記していない。しかし、その会話をうかがうヒントがある。宇垣纏(まとめ)海軍中将の日記『戦藻録』だ。1945年4月7日、つまり「大和」が撃沈されたその日に以下の記述がある。 「抑々(そもそも)茲(ここ)に至れる主因は軍令部総長奏上の際航空部隊丈の総攻撃なるやの御下問に対し、海軍の全兵力を使用致すと奉答せるに在りと伝ふ」 宇垣によれば、沖縄の作戦に関し及川から説明を受けた天皇は「航空部隊だけか」という趣旨の「御下問」をした。「水上部隊はどうするのだ。『大和』は出撃しないのか」と催促したわけではない。しかし、及川は大元帥=昭和天皇の意志を忖度した。それが第二艦隊の特攻につながったとみられる。 とはいえ、昭和天皇の言葉だけで特攻が決まったわけではない。前述のように、もともと海軍の一部には、「大和」を特攻させたい勢力があった。昭和天皇の一言は、そうした勢力を後押ししたのだ。 しかし、第二艦隊は特攻に納得しなかった。連合艦隊からは説得のため、草鹿龍之介参謀長(中将)を山口県・徳山沖に停泊する「大和」に向かわせた。納得しない伊藤らに対し、草鹿は言った。 「要するに、一億総特攻のさきがけになってもらいたい」 一億=国民すべてが本当に特攻したら、国家も民族も消滅する。それでは戦争を続ける意味がない。「一億総特攻」は比喩でしかない。草鹿の言葉はおよそ論理的ではないが、論理を超えた説得力があったようだ。「とにかく特攻したほしい」。そういう連合艦隊の本音に対し、伊藤は「そうか、それなら分かった」と応じた。 自分の命が削られていく音 1945年4月6日、午後3時45分。豊田連合艦隊司令長官は第二艦隊に電文を発した。 「(前略)帝国部隊ハ陸軍ト協力 空海陸ノ全力ヲ挙ゲテ沖縄島周辺ノ敵艦船ニ対スル攻撃ヲ決行セントスル。 皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニアリ 茲ニ殊ニ海上特攻隊ヲ編成 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタル(後略)」 この「特攻」を「命令」していることを確認しておきたい。というのは戦後、特攻を指揮した将官などが「特攻は兵士たちの意志だった」といった旨の発言をし、今日に至るまでそう信じられているむきがあるからだ。 自らの意志で特攻に飛び立った兵士は、確かに多かった。しかし、そうではない兵士もたくさんいた。 筆者はこれまで、実際に特攻で出撃した兵士30人に取材してきた。この中に、特攻するかしないか選択を任された者は1人もいなかった。特攻「大和」艦隊の人々がそうであるように、初めから特攻と決まった「作戦」に送り出された者がいたのだ。 根拠もなく「意志だった」と言い張る将官は、そうでないと自分の責任が追及されることを恐れてのことか、そうでなければ自分に催眠術をかけて罪の意識から逃れようとしたのだろう。 艦隊による「特攻」を知った「雪風」の西崎さんは、居住区で瞑想していた。 「父の形見の腕時計をしていたんです。ふだんは聞こえない、『カチカチ』という音、秒針の音が聞こえました。自分の命が削られていく気がしました」 1942年に海軍特別年少兵一期生として入団した西崎さんはこのとき19歳。「酒も女も知らないで死ぬのか」と戦友に話すと「俺は国のためではなく、家族のために戦う」と言った。「おれも家族、それに友だちのために戦おう」と応じた。 同4月6日、前述の10隻からなる第二艦隊が沖縄を目指して山口県・徳山沖を出撃した。開戦前、米英とならぶ世界屈指の軍事力を誇った帝国海軍が、最後に送り出した艦隊となった。沖縄の陸軍は米軍に押されつつあったが、翌日反転攻勢に出る計画であり、特攻「大和」艦隊はこれに呼応する狙いもあった。 連合艦隊の方針では、航空機による援護はしないことになっていた。だが翌7日、かつて「大和」に乗っており、この時は鹿児島県鹿屋を基地とする第五航空艦隊司令長官だった宇垣は、自身の判断で特攻「大和」艦隊の直衛機を出した。しかしわずか10機。時間は午前6時から10時までだけだった。 そのわずかな護衛機がいなくなるのを見計らったように、米軍機の空襲は正午ごろから始まった。それ以降の凄惨な戦闘については、拙著『戦艦大和 生還者たちの証言から』(岩波新書、2007年)を参照して頂きたい。 水上特攻の成果は… 「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は実質2時間程度の戦闘で撃沈された。乗員3332人のうち、伊藤司令長官ら3056人が戦死した。生還者は276人。一割にも満たなかった。軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦「磯風」、さらに「濱風」「朝霜」「霞」も沈んだ。艦隊全体では4044人が死んだ(前掲『戦艦大和 生還者たちの証言から』)。たった。 この水上特攻で米軍が直接的に被ったのは戦闘機3、爆撃機4、雷撃機3の計10機の損失と戦死が12人。これが「大和」以下六隻と、4044人の命と引き替えた、直接的な戦果である。鉄板に卵を投げつけたような戦いだった。沖縄を取り巻く米軍を蹴散らすどころか、敵艦の陰すらみることはなかった。
無残な失敗の責任は、もちろん4044人にはかけらもない。この「作戦」を進めた海軍上層部にこそある。そしてその責任を負うべき者たちは、決して第一線には行かなかった。さらに陸軍が予定していた4月7日の反転攻勢は延期された(12日に実施し失敗した)。 宇垣は、この戦いについて海軍上層部を激しく批判した。 「全軍の士気を高揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐の念を抱かしむる外何等得る処無き無謀の挙と云はずして何ぞや」(前掲『戦藻録』) 士気を高めるためだったが、悲惨な結果となった。「復讐してやる」という気持ちを抱かせただけで、何も得るところがない無謀なことだった。そういう意味だ。 さらなる苦難 さて沈没する「大和」などから離れ助かった兵士たちには、さらなる苦難があった。 「大和」大爆発の後、あたり一面は重油の海となった。生き延びるためには、その海を漂いながら駆逐艦に救助されなければならない。疲れ切り、あるいは負傷した兵士たちには酷に過ぎた。駆逐艦側も、敵の制空権内に長く留まるのは極めて危険だった。 西崎さんの乗った「雪風」は舷側からロープを下ろして兵士たちを収容した。人間一人をひっぱりあげるのは相当な苦労だ。しかも、西崎さんは戦闘中、機銃弾が左足を貫通する傷を負っていた。それでも「火事場の馬鹿力」を振り絞った。 助けられる方は「疲れているし、重油ですべるからなかなか上がってこられない」。1本のロープに2人がぶらさがった。とても引き上げられない。「そういう時は、棒で一人の腕を叩きました」。叩かれた兵士は海に落ちた。その後どうなったのかは分からない。「そういう業(ごう)があるんですよ……」。西崎さんは70余年前のその光景を今も脳裏に刻んでいる。 特攻「大和」艦隊のように、船もろとも沈んだ遺体はほとんどの場合、回収されない。第二次世界大戦ではおよそ30万人もの日本人がこうした「海没遺骨」となった。無謀な作戦を遂行した者たちが、陸地で寿命を全うし、人によっては国会議員などになり再び国策遂行に関わったことを考え合わせると、戦後日本のありようが立体的に見えてくるだろう。 さて昭和天皇は敗戦後、この「大和」特攻について語っている。沖縄戦を振り返る中で、「とつておきの大和をこの際出動させた、之(これ)も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した」とし、「作戦不一致、全く馬鹿馬鹿(ばかばか)しい戦闘であつた」と断じた(『昭和天皇独白録』)。 筆者に特殊な能力があったら、4000人以上の死者たちにこの評を知らせたいものだ。
▲△▽▼ 特攻作戦を主導した昭和天皇 特攻第一号神風隊の関大尉の別れの杯、 特攻隊員に対する昭和天皇の「よくやった」というお言葉 を隊員に紹介する隊長、「見事に死んでもらいたい」と訓示する上官、そして 昭和天皇は大元帥であったことを再確認する馬に騎乗し閲兵する姿 http://anarchist.seesaa.net/article/49087839.html 最初の特攻であった、海軍神風特別攻撃隊の隊長である関大尉。
戦後出版されてきた、捏造戦記では、特攻を命ぜられて、すぐに 「ぜひ、私にやらせてください」 と答えたなどと都合よく書かれていたが、実際は違った。 「一晩、考えさせてください」 と言ったのが真実。今も昔も変わらない。上司からの命令は絶対であった。雪印や三菱のような不祥事が続く悪しき温床は、昔から続いている。 艦爆乗りで腕に自信があった彼としては、戦闘機零戦に乗ること自体が納得いかず、特攻は新婚の兵士に命ぜられることはないと聞いていたので、がっかりしたというのが本音であった。 実際、彼は同盟通信特派員につぎのように語っている。 「ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、ぼくは体当たりしなくとも500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。 ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛のKA(妻)のためにいくんだ。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。」 まったくもって無念であったろう。彼は、戦死するが、みごと軍神となった。残された貧しい母は軍神の母となって、絶望的な戦局の中、国民を欺くプロパガンダに利用された。敗戦となると、あれほど近所から尊敬された『軍神の母』は、周りから罵声を浴びせられ、ひどい仕打ちを受けたそうだ。 http://www.asyura2.com/0406/war57/msg/880.html
特攻作戦の人間学:戦艦大和の場合
1945年4月6日,第二艦隊司令長官・伊藤整一中将座乗の巨大戦艦「大和」は,9隻の艦艇をしたがえて徳山沖を出航,沖縄本島西部海域をめざす征途についた。連合艦隊の生き残りをあつめた最後の艦隊出撃である。作戦計画では航空機による護衛は皆無。燃料は全艦片道分しか搭載せず,生還を期さない海上特攻であった。 作戦構想の内容とは,はじめ敵迎撃機の攻撃を吸収する海上の“囮”となって特攻機の突撃を助け,次に敵上陸地点へ殴り込んで徹底的な艦砲射撃を加え,最後に銃をとって陸上戦をたたかう,というものであった。しかしこんな計画が実行できるはずはない。実際,南西海域の制空権と制海権はすでにアメリカ側に握られている。その海域を,わずか10隻の残存艦隊が航空機による護衛もなく進攻すればどうなるかは問うまでもない。出撃命令の下命以前から,伊藤・第二艦隊司令長官は断固反対との意見具申をおこなった。 伊藤中将の頑強な反対を異例の事態と認めた中央は,説得のための特使として,連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将を派遣, “説得”は成功した。しかしそれは,「一億総特攻の模範となるよう,立派に死んでもらいたい」という言葉によってであった。 本作戦発動の一週間前,及川軍令部総長が沖縄方面の戦況ついて,「航空機による特攻攻撃を激しくやります」と天皇に報告した。 すると天皇から重ねて, 「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」 と“御下問”があった。及川総長はこれを 「水上部隊は何をしているのか」 という叱正の言葉と解した。 及川総長から連絡を受けた豊田連合艦隊司令長官は,さっそく 「畏レ多キオ言葉ヲ拝シ恐懼二堪エズ」 にはじまる緊急電を発し,あくまで作戦の完遂を期すべし,と呼びかけた。 「海上部隊はあるか?」 という疑問の言葉は 「あるなら使ってはどうか」 という間接的・暗示的命令として解されうる。 「海上部隊はないのか?」 という否定疑問文では,こうした間接的・暗示的命令性がいっそう強まるだけではなく, 「あるのになぜ使わないのか!」 という“叱正”のニュアンスまでが加わってくる。 こうして及川総長と海軍首脳部は
「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか?」 という“御下問”を深読みし,そこにまず 「あるなら使ってはどうか?」 という間接的・暗示的な命令を発見する。連日出動してゆく特攻機群にくらべて,空しく係留・温存されている海上部隊は顔向けができない。天皇に対しても,特攻機に対しても面子まるつぶれではないか。間接的・暗示的な命令は 「あるのになぜ使わないのか!」 という“叱正”と解され,“恐懼”の感情を誘発し,海上部隊活用への「焦り」を生む。 海軍上層部の空気は変化し,ついには海上特攻艦隊という構想へ到達したと推定されるのだ。それだけではない。天皇の発言を契機として生じた海軍上層部の空気のこうした変化こそが,草鹿特使の“説得”の真の内容であったと推定することによって,伊藤中将の態度急変の謎も初めて解けるのだ。 こうして,戦艦大和がひきいる10隻の特攻艦隊は,死の南西海域へ向って出撃して行った。 http://www.okayama-u.ac.jp/user/hasep/yh-seminar/2002/Fukushima_20425.html ▲△▽▼ 改革の不条理 日本の組織ではなぜ改悪がはびこるのか (朝日文庫) – 2018/5/7 菊澤研宗 (著) https://www.amazon.co.jp/%E6%94%B9%E9%9D%A9%E3%81%AE%E4%B8%8D%E6%9D%A1%E7%90%86-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%B5%84%E7%B9%94%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%94%B9%E6%82%AA%E3%81%8C%E3%81%AF%E3%81%B3%E3%81%93%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%8F%8A%E6%BE%A4%E7%A0%94%E5%AE%97/dp/4022619279/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1528334849&sr=8-1&keywords=%E6%94%B9%E9%9D%A9%E3%81%AE%E4%B8%8D%E6%9D%A1%E7%90%86
日大アメフト部問題と「旧日本軍の組織と論理」の共通点が見えた 軍隊をまねた体育会系部活の不条理 菊澤 研宗 慶応義塾大学商学部教授 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55967 今日、多くの人たちが、いま話題になっている日本大学アメリカンフットボール部の反則タックル事件が、安倍政権の森友問題や加計学園問題と重なるという。 首相は不正な指示をしていないといい、官僚が勝手に忖度して不正を働いたという。同様に、日大の監督もケガをさせろと命令した覚えはないといい、選手が思い詰めて行ったものだという。 一方で、このような上司と部下の関係は、実は旧日本軍が遂行した非人道的な作戦つまり特別攻撃命令とも似ているのだ。 戦後、生き残った海軍軍令部の幹部たちは、特攻を命令していないという。特攻は、あくまでも若者たちの志願だったというのだ。しかし、当時の部下たちは、特攻は明らかに命令だったという。 もともと日本では部活と軍隊は密接に関係している。反則タックル命令と特攻命令といった2つの異なる事例には、共通するリーダーの行動原理が見いだせる。 それについて、以下に説明してみたい。いずれもリーダーたちが不条理に陥り、その不条理を若者たちに実行させたのである。 体育系部活と軍隊の関係
まず、かつて日本中の学校にある部活が軍隊と密接に関係していたことを忘れてはならない。本来、楽しいはずのスポーツが、日本では軍隊の訓練や兵士予備軍としての男子学生の心身を鍛練する手段として利用された歴史が日本にはある。 特に、戦前の日本が軍国主義化するとともに、スポーツは「体育」という言葉で置き換えられ、日本人の間には「スポーツ」と「体育」は同じ意味をもつ言葉として定着した。 特に、軍国主義時代には、部下は上官に絶対服従する必要があり、厳しい上下関係による規律が求められていた。それゆえ、命令と服従という組織原理が、学校という教育機関で「体育」という教科を通して、徹底的に叩き込まれていったのである。 そして、残念ながら、戦後もこの傾向はなくならなかった。いまだに継続されている。特に、ラグビー、野球、サッカー、テニスなどの体育会系運動部では、年功序列の上意下達型の縦社会組織が形成されているように思える。 そこでは、いまも目上の者に対する絶対的服従は当然であり、目下の者はいかなる命令にも背くことは許されない。非科学的な根性論や精神論がはびこっている。 このような関係のもとに、必然的に起こったのが、戦時中の特攻であり、今回の日大アメフト部の事件なのだ。 日本軍の特攻命令と服従関係
戦後、旧海軍将校たちによって行われた海軍反省会では、興味深いテーマが議論された。戦時中では、上下関係が厳しくて口をきくことすら許されない立場にあった下級将校たちが上官に向かって声を挙げはじめたのである。それは、特攻についてであった。 一般に、特攻というと、海軍の大西瀧次郎が提案したものとされている。しかし、旧海軍の若手将校たちによると、非人道的で無意味な特攻作戦はそれ以前から軍中央から指示されていたという。 というのも、神風特攻隊以前から、人間の体を兵器に変える人間魚雷「回天」、人間爆撃機「桜花」、人間爆弾ボート「震洋」、そして人間機雷「伏龍」などの様々な特攻兵器が開発されていたからである。 それにもかかわらず、戦後、海軍軍令部の中枢にいた人たちは、中央から特攻を命令したことはないと主張する。特攻は、あくまで若者たちの志願であったという。そして、戦後もそういった話をいろんなところで広めているというのだ。 当時、軍隊という上下関係の厳しい組織では、決して主張することができなかった青年将校たちが、戦後、かつての上官たちを問い詰めている。非人道的な特攻作戦は、明らかに上からの命令だったと。 そして、上官は若者を送り出すとき、必ず後に続くからといって送り出したが、結局、続いたものは誰もいなかったと批判している。 日大反則タックル命令の矛盾
この同じことが、今回、日大アメフト部の監督・コーチと選手たちとの間にも起こったように思える。 日大アメフト部の選手が、試合中、ルールを無視してボールを持っていない無防備な状態にあった相手チームの選手に、背後から反則となるタックルをしてケガを負わせた事件である。 この事件について、5月22日、反則タックルをした日大の宮川泰介選手が、弁護士同席のうえで記者会見を行った。 彼は、一連の経緯や監督やコーチからどのような指示や発言があったのかなどについて詳細に説明した上で、監督やコーチの指示があったにせよ、指示の是非を自分自身で判断することなく反則行為をしてしまったなどとして自己反省し、相手選手に対して改めて謝罪したのである。 これに対して、翌5月23日、選手が所属する日本大学チームの内田正人監督と井上奨コーチが記者会見を行った。 宮川選手の主張に反して「クオーターバックをつぶしてこい」といった発言は認めたものの、内田監督による指示ではなく、また怪我をさせる目的で発言したものでもないと説明した。 とくに、「つぶせ」という言葉は、内田監督と井上コーチによると、これまで日常的に使用されてきた表現であり、それは反則を容認したり、ケガをさせたりすることを意味するものではないとして、宮川選手の主張を改めて否定したのである。 リーダーが陥っている不条理
おそらく、いずれもケースも上層部が指示命令し、部下がその命令に忠実に従ったのだろう。 しかし、なぜ上司はそもそもこのようなルール違反で非人道的な命令をおこなったのか。答えは簡単だ。彼らはいずれも損得計算し、その結果、その方が得だと考えたからである。 つまり、不正なことを命令し、実行させることが合理的だという「不条理」に陥ったのである。(このメカニズムについては拙書『改革の不条理』に詳しく解説している) 戦時中、日本軍の上層部は、海軍航空隊の若手兵士たちの実力では、到底敵を攻撃することはできないことを認識していた。それゆえ、損得計算すれば、若者たちを直接敵に体当たりさせる方が合理的だったのである。 同様に、日大アメフト部の監督・コーチは、現在の日大の選手の能力では関西学院大学には勝てないと思ったのだろう。それゆえ、損得計算すると、相手選手を直接ケガさせた方が合理的だと判断した可能性がある。 このような上司たちが行う損得計算の結果を部下に実行させることは、命令と服従の原理が浸透している組織では容易なことだ。 しかも、このような損得計算にもとづく意思決定は、ある意味で合理的で客観的で科学的かもしれない。というのも、この同じ状況に置かれれば、だれでも同じ損得計算を行い、同じ結果をえる可能性があるからである。 それゆえ、そのような損得計算にもとづいて客観的に命令しているリーダーは、その責任を取る必要性を感じないのである。 しかし、このような損得計算を行うには、はじめから人間を物体や備品のような消耗品として扱う必要がある。 損得計算の中に人間を組み入れるには、一人ひとりの人間がもつ固有の価値、個性、歴史、そして尊厳など、はじめかから無視する必要があるのだ。そうでないと、損得計算ができないのである。 このような損得計算を行動原理として、上層部は徹底的に行動していたために、戦時中、日本軍は世界でも最も人間の命を粗末にしていたのであり、特攻という人間を兵器の代わりにする前代未聞の作戦を行う鋼鉄の檻のような冷酷な組織だったのである。 その結果、どうなったのか。その過ちからいまだ学んでない組織として日本の一部の体育会系運動部があるように思える。 損得計算原理から価値判断原理へ
では、このようなルール違反で非人道的な命令に出くわしたとき、われわれはどうすべきか。 今回、加害者である日大アメフト部の宮川選手がその答えを示している。 彼は、命令を受けたとき、その命令に従うことが人間として正しいかどうか価値判断すべきであり、問うべきであったと述べた。それを問わずに、ケガさせれば試合に出しやるという上からの指示のもとに、彼自身が損得計算して得する方を選んでしまったのだという。 確かに、人間の行動原理として経済合理的な損得計算は必要ではある。しかし、それは人間の究極的な行動原理にならないことが、今回の日大アメフト部の事件で明らかになったのだ。 やはり、人間は、常に正しいかどうか、適切かどうか、価値判断する必要がある。そして、もし正しいと価値判断するならば、次にわれわれは何をなすべきか。その価値判断が、われわれに実践的行為を要求してくるのである。 このような内なる理性の声を聴いて行動したいものだ。そうすれば、悪しき命令はなされないし、それに従うこともないだろう。 このような価値判断にもとづく実践的行為は、それが主観的であるがゆえにまったく非合理的に思えるかもしれない。それゆえ、多くの優秀な人たちはこれを恐れ、避けようとする。 しかし、恐れるべきことはない。この主観的な価値判断、そしてそれにもとづく実践的行為に対して、われわれは責任をとればいいのだ。ここに、実は人間らしさ、人間の自由や自律があり、人間固有の尊厳や気品がある。 もちろん、無制約な価値判断にもとづく行為は、単なる子供のわがままな行動にすぎない。啓蒙された大人として主体的に価値判断にもとづく実践行為を行うためには、以下の2つの条件を常に満たす必要がある。 1) 価値判断にもとづく行為はその原因が唯一自分自身にあるので、その行為の責任は他でもなくすべて自分にあるということを自覚すること。 2) 価値判断にもとづく行為を実践するために、他人の自由や主体性を無視してはならないこと、つまり他人を単なる道具や手段として扱ってはならないこと。 これである。 以上のような原理に従っていたならば、冷たい鋼鉄の檻のような組織も、もっと温かいものになっていただろう。 ▲△▽▼ 投下できないはずの爆弾が… 新証言で明かされる特攻隊のリアル https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180809-00000063-sasahi-soci AERA dot. 8/14(火) 7:00配信 週刊朝日 2018年8月17-24日合併号 咲き乱れる花を意味する「万朶隊」の佐々木友次伍長と握手をし激励する冨永恭次司令官(c)朝日新聞社 鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)(左)/1958年、愛媛県生まれ。作家・演出家。新作音楽劇「ローリング・ソング」(8月11日〜9月2日)を紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAにて上演。福岡・大阪公演もあり。
吉田 裕(よしだ・ゆたか)/1954年、埼玉県生まれ。一橋大学大学院社会学研究科特任教授、専攻・日本近現代軍事史、日本近現代政治史。著書に『昭和天皇の終戦史』『兵士たちの戦後史』など。 版を重ねて18万部を突破した『不死身の特攻兵』の著者で作家の鴻上尚史さんと、13万部を数える『日本軍兵士』を著した吉田裕さんが、特攻隊について新たな証言が出てくる背景について語り合った。
* * * 吉田:10年ほど前から、不時着したり、わざとエンジントラブルを起こしたりして戻ってきた特攻隊の人たちの話が出てきた。特攻の多様な事実が明らかになってきた。 大岡昇平の『レイテ戦記』は立派な本ですが、体当たりに成功した人を偉大だと讃えている。それによって、生きて戻ってきた人たちに沈黙を強いる結果になった。それだけに新たな証言が出てきたことの意味は大きい。 鴻上:「志願」だったのか「命令」だったのかというのも調べてみると、たしかに志願した人もいたんです。しかし、それは予科練のように14、15歳から軍隊教育を受けた一部の人たち。陸軍の整備兵だった人たちの話では、多くの人は特攻の指名を受けた途端、顔色が本当に真っ青になったといいます。 吉田:軍隊以外の社会を知らないまま、17、18歳で特攻に行った人たちはそうかもしれないですね。 特攻をめぐる新たな証言が出てくるようになった背景には、戦友会などが相次いで解散したことも大きい。これまでは、日本軍の恥部に触れることは言わないという空気がありましたから。南京事件などの戦争犯罪の場合でもほとんどの人が出身地に帰って暮らしていたので、匿名で証言をしても誰が言ったのかすぐにわかってしまう。「おまえ、なんであんなことを言うんだ」と電話がかかってくる。そうした圧力が薄れてきたということもあるんでしょうね。 陸軍の特攻に朝鮮の人たちがいたことも少しずつわかってきています。 鴻上:吉田さんの『日本軍兵士』がすごいと思ったのは、身体に即して書かれているところ。たとえば水虫にかかった兵士が半年間、靴を脱げなかったという話。どんな理屈を口にされるよりも「行軍中、水虫に苦しめられるんだよ」と言われたほうが、戦争はいやだと思いますよ。 吉田:そうですね(笑)。 鴻上:戦地ではろくに歯も磨けない。歯医者も兵士4千人に1人しか配置されず、歯痛の治療も受けられなかった。 吉田:戦争の悲惨さを語ることで平和の尊さを訴えるよりも、戦争の評価について迷いのある人に読んでもらいたい。そんな思いから、だれにとっても一番身近な問題である身体に関わるものを紹介するように心がけたんです。あの戦争では1944年以降に亡くなった人が大部分なんですが、それさえ「初めて知りました」という読者が多い。歴史の基本的な事柄が継承されてこなかったんです。 鴻上:議論の大前提となるものが損なわれていますね。 僕は、『不死身の特攻兵』でインタビューした、9回出撃して9回生還した元特攻兵の佐々木さんがどうして生き残れたのか、そこを知りたくて何度もお会いして話を聞いたんです。佐々木さん自身はそういう言い方はされませんでしたが、結局、飛行機に乗るのが好きだったからじゃないかと思うんです。彼は戦場に行くのを怖いと思ったことがない。いつも、わくわくドキドキしていたという。 吉田:そうですか(笑)。 鴻上:佐々木さんの乗った「九九式双発軽爆撃機」というのは評判の悪い飛行機だったんですが、熟練すると鳥の羽のようになる。空を飛ぶのが好きで、こんなにも飛行機を愛している。だから、特攻で愛機をダメにするというのは嫌だと思ったんじゃないか。でも、軍隊という“超ブラック組織”の中で「好きだ」という実感を語ることは難しい。 吉田:なるほど。 鴻上:企業が新製品を発売するとき、「ビッグデータから見るとこうで……」などと理屈を並べるんだけど、中心にいる人間は「だってこれおいしいんだもの」と言いたいだけだったりする。佐々木さんがラッキーだったのは、どんなに理不尽な上司がいても、空では腕が一番ものをいう。「死んでこい」と言われながらも、行くたびに爆弾を投下して戻ってくる。これが歩兵だったらそうはいかなかったでしょう。好きでなおかつ技術をもっていたのは大きいと思います。 吉田:陸軍の場合は、正式な特攻部隊を形成していなかったために指揮権があいまいで、懲罰を含め上下関係の圧力が少なかったということもあったでしょうね。 鴻上:佐々木さんのようなパイロットは、仲間が何人も殉職するような激しい訓練を受けてきた。それなのに、「急降下爆撃なんかしなくていいから体当たりしろ」と言われて憤ったわけです。70数年前の彼らも自分たちと変わらない人間だと思えましたね。特攻機は爆弾を機体から切り離せないつくりでしたが、整備兵たちは爆弾を投下できるように手を加えました。現場レベルのリアリズムは「落とせない爆弾はありえない」だった。そこにはわずかな希望を感じましたね。(構成/朝山実)
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