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平城京から長岡京へ遷都する原因となった「祟り」の正体とは
710年から784年まで日本の首都だった平城京の時代の話である。
平城京と言えば、「奈良の大仏」と共に思い出す人は多い。奈良の大仏、正確には「東大寺盧舎那仏像」は今でも多くの観光客を引き寄せる壮大な仏像だ。
平城京の時代に19年の歳月をかけて作られたこの「奈良の大仏」には、金(ゴールド)を塗って仕上げるために約50トンもの水銀が使われた。
金と水銀を混ぜ合わせた合金を奈良の大仏に塗り、その後に炭火で加熱すると水銀が飛んで金だけが残る。それによって大仏が金でメッキされるという工法だった。
ところが、炭火で水銀を加熱して水銀を含んだ蒸気が大量に奈良盆地に降り注いだので、首都・平城京は一帯が水銀で汚染されてしまった。そして、平城京の人々はみんなまとめて水銀中毒になってしまったのだった。
中でも大仏の設立の作業をしていた人々が、次々と手足の震え、運動障害、重度の倦怠、口腔の損傷を引き起こすことになった。当時の人々は水銀が原因であるというのは分からなかったので、これは「たたり」であると認識された。
平城京がわずか74年で首都を遷移せざるを得なかったのは、そこにあった。「たたり」ではなかった。水銀中毒だったのである。これが日本で起きた最も最初の大規模水銀汚染だったのではないかと考えられている。
https://blackasia.net/?p=10730
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「続日本紀」で桓武天皇は「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」
その他の理由として
既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く
父の光仁天皇の代から天智系に皇統が遷った事による一新
また、平城京が長岡京に遷都したきっかけ、それは奈良の大仏に原因があると言われています。
当初の原因としては奈良の大仏を造るときの銅が原因ではないかと言われていましたが、近年になって違う説が挙げられるようになりました。 これまで言われてきた説は、大仏の銅を精錬するときに流れ出た液が染みこんで、近くの若草山などに木が生えないと言われてきました。これは50年ほど前の説になります。
近年言われている説は、水銀が原因ではないかと言われはじめています。大仏を造っている時期には疫病が蔓延し、大仏が完成するとそれも治まり、大仏様のお陰だと喜んだと言われていますが、当の大仏が原因ではないかと言われているのです。
奈良の大仏は、当初金メッキが施されていて光り輝いていました。この金メッキを施すのに大量の水銀が使われていたのです。金と水銀を合わせて粘土状にしたものを大仏に塗り、炭火で熱して水銀を蒸発させることで金だけが残ります。このような方法で金メッキがされました。蒸発して大気に放出された水銀は、平城京はもとより奈良の街にも降り注ぎ、呼吸することで吸い込んでしまった人々はどうなるのでしょうか。
現在のように医学の発達していない時代に、水銀による中毒症状が多発して、恐らくパニック状態に近かったのではないでしょうか。蒸発した水銀で大気が汚染され、気管支炎や肺炎などの呼吸器の異常を起こし、腎臓への影響や倦怠感、手が震えるなども引き起こしました。
運動障害も起り、これを当時の人々は祟りと恐れたのです。奈良の都でのこうした出来事から、平城京は長岡京に移されたという説です。もちろんこの他にも、もっともらしい説はあります。川がたびたび氾濫するためであるとか、うるさい僧の意見から逃れるためであるとか、天皇家内での派閥争いがあったためであるとか、様々な説があります。水銀説もあくまで「説」であり、真実は分かっていません。
大仏に金メッキを施すために、大量の水銀が使われました。現在の単位に直すと50tもの水銀が使われたのです。これは現在あらゆる所に使われている水銀の量と比較すると、とんでもない量になります。これだけの水銀を熱して蒸発させるとなると、水銀中毒が蔓延しないほうがおかしいでしょう。
様々な不調を訴える人が急増して、何かの祟りだと恐れるのも無理もない話でしょう。やはり平城京遷都の一番の理由は、奈良の大仏の建造にあたって使われた、水銀が原因なのでしょうか。土中の水銀の含有量を調べるとすぐ分かるそうですが、いまだに調査は行われていません。
平城京の住人は、水銀でおかされた空気を吸い、野菜や魚、米を食べ、知らず知らずのうちに体内に水銀を取り込んでしまっていたのでしょう。神経や内臓がおかされて回復が難しい水銀。以前まで化粧品や薬などにも使われていましたが、今でこそ分かる水銀の怖さを知るはずもない平城京の人々は、大仏の完成に向けて多くの民衆と共に、一生懸命だったことでしょう。
例え平城京遷都の直接の原因が水銀でなかったとしても、都に水銀による影響があったことは言うまでもないことです。大仏を造ることによって、思いもよらない被害がでていたということです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1228037307
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梅毒と奈良の大仏と始皇帝とニュートンの錯乱を結びつけるものとは? 2018.12.30
https://blackasia.net/?p=10730
かつて「過去の性病」と思われた梅毒は、日本に多くの中国人が流れ込むことによって20代の風俗嬢を中心に爆発的な流行を見ることになった。このまま放置しているのであれば、梅毒はもっと蔓延して日本のアンダーグラウンドを覆い尽くす。
日本の風俗は異常だ。風俗嬢は梅毒から逃れられない。
なぜ風俗嬢が助からないのかは、こちらのシリーズに記した。
(ブラックアジア:【シリーズ】日本の女たちは性病まみれになっていくのか?)
https://blackasia.net/?tag=%e6%80%a7%e7%97%85%e8%94%93%e5%bb%b6
梅毒は治療すれば治る病気だが、かつては身体がボロボロに腐って鼻や口唇が欠け落ちたりする恐怖の「伝染病」だった。
この恐怖の性病「梅毒」の特効薬を発見したのはアレクサンダー・フレミングである。この医師こそ人類の救世主であり、救済者である。
私たちはこのイギリスの医師にもっと深く感謝しなければならないし、功績を讃えなければならないはずだ。そうでなければ梅毒はもっと深刻な病として人類を苦しめていた。
(ブラックアジア:誰でもできる。確実に効かないクスリを見抜く方法とは?)
https://blackasia.net/?p=1113
ただ、今は治療可能な梅毒も、いずれ抗生物質が効かなくなってスーパー梅毒になってしまい、再び不治の病になってしまう懸念もある。梅毒もまた抗生物質に耐性をつけて「進化」しているからだ。(鈴木傾城)
紫金膏で梅毒と水銀が出会った
梅毒が全世界で蔓延するようになったのは15世紀に入ってからだ。その蔓延には諸説が大量にあるのだが、最も有力視されているのはコロンブスが率いた探検隊員がアメリカ大陸で感染し、ヨーロッパに持ち帰ったという説である。
日本にも室町時代にはすでに梅毒患者であると思われる症状が記載されているのだが、これば爆発的に流行したのが江戸時代だった。江戸時代は梅毒で鼻が欠けてしまった遊女(夜鷹)が夜の暗がりの中で安く身体を売っていた。
当時、梅毒のことは「瘡毒(そうどく)」と呼ばれていたのだが、遊女たちはこの瘡毒から逃れようと必死になっていた。瘡毒を放置しておけば、やがて身体中に腫瘍が次々と発生し、腐り、やがて発狂して死んでしまう。
人々は何とかこの病から逃れようと必死だったのだ。
現代でも人々は「頭に来る」という言い方をするが、この表現は梅毒が全身に回って最後に人間を発狂させるから「頭に来る」という言い方が生まれたというのを知っておいた方がいい。そんな表現が一般化するほど梅毒の蔓延はひどかった。
頭に来てしまった梅毒患者はもはや手の打ちようがなかったので、彼らは山に捨てられた。そして歴史から消された。こうした闇は和漢三才図会のような医学書にしか記されていないが、治療のない時代の梅毒末期の人たちがどれだけ悲惨だったかは私たちも想像することができるはずだ。
この中で、遊郭の女たちが頼りにしていたのが「紫金膏」という薬だった。両国吉川町の紫金膏が有名で、この薬は「兜膏」と言われて遊郭の遊女たちに重用された。ところが、この薬も、今の医学から見ると凄まじく危険なものだったのだ。なぜか。
この薬の成分は「水銀」だったからである。
実のところ、水銀は今でこそ人体に危険だと知られるようになって避けられている。水銀の危機を全日本人が知ることになったのは、1956年に起きた「水俣病事件」からではないか。
それまで、水銀は「赤チン」と呼ばれて親しまれてきた「赤ヨードチンキ」のような薬にも使われていたし、顔料にも使われていたし、化粧用品にも使われていた。
水銀の危険性が水俣病で知られるようになってから、日本では化粧品・医薬品・農薬に水銀を使うのは厳重に禁止されるようになった。1974年のことだった。1974年と言えば、ずいぶん最近のことのように思える人もいるはずだ。そうなのだ。最近のことなのである。
「たたり」の正体は水銀だったのか?
日本で大災厄をもたらした水俣病は、チッソ水俣工場がメチル水銀を含んだ工業廃水を水俣湾に大量に排出していたことによって起きた事件だった。
水銀を含んだヘドロが堆積し、それによって魚や貝が汚染され、その魚介類を猫やカラスや人が食べることによってメチル水銀中毒症が広がった。
この水俣病が日本最大にして最初の「水銀汚染事件」だったと日本人は考えている。しかし、日本と水銀汚染の歴史は実はもっと古いかもしれないという「説」も現れている。
710年から784年まで日本の首都だった平城京の時代の話である。
平城京と言えば、「奈良の大仏」と共に思い出す人は多い。奈良の大仏、正確には「東大寺盧舎那仏像」は今でも多くの観光客を引き寄せる壮大な仏像だ。
平城京の時代に19年の歳月をかけて作られたこの「奈良の大仏」には、金(ゴールド)を塗って仕上げるために約50トンもの水銀が使われた。
金と水銀を混ぜ合わせた合金を奈良の大仏に塗り、その後に炭火で加熱すると水銀が飛んで金だけが残る。それによって大仏が金でメッキされるという工法だった。
ところが、炭火で水銀を加熱して水銀を含んだ蒸気が大量に奈良盆地に降り注いだので、首都・平城京は一帯が水銀で汚染されてしまった。そして、平城京の人々はみんなまとめて水銀中毒になってしまったのだった。
中でも大仏の設立の作業をしていた人々が、次々と手足の震え、運動障害、重度の倦怠、口腔の損傷を引き起こすことになった。当時の人々は水銀が原因であるというのは分からなかったので、これは「たたり」であると認識された。
平城京がわずか74年で首都を遷移せざるを得なかったのは、そこにあった。「たたり」ではなかった。水銀中毒だったのである。これが日本で起きた最も最初の大規模水銀汚染だったのではないかと考えられている。
数千年に渡って危険が認識されていなかった
水銀は今でこそ扱いを間違えると人間に重篤な被害を与えるものであることが知られているのだが、そうした常識が定着したのは比較的最近の話である。それまでは水銀は「美容に効く」「永遠の命を授ける物質」として何千年も言い伝えられてきた。
「永遠の命を授ける物質」と思ったから、不老不死を求めていた秦(しん)の始皇帝は秘薬だと思って水銀を飲んでいたのだ。
(ブラックアジア:「死」が重要なのは、それがこの世で唯一絶対の平等だから)
https://blackasia.net/?p=791
永遠の命を求めて水銀で自滅してしまったのが始皇帝だが、何らかの物質を掛け合わせるとゴールドが生み出せるのではないかと考える「錬金術」の魔力に取り憑かれて水銀で自滅してしまいそうになった人物もいる。
アイザック・ニュートンだ。
万有引力を発見し、近代の自然科学の巨人となった天才科学者であるニュートンは50代になってから精神錯乱に見舞われていたのを知る人は少ない。
金や銀のような貴金属は数が少ないがゆえに貴重品である。それは「財力」の象徴(アイコン)でもある。今でも金銀財宝という言葉が残るように貴金属は富と密接に結びつく。
この貴金属を何でもない物質から生み出してその術(わざ)を独占すれば、世界有数の富裕者と化す。それが「錬金術」の動機である。ニュートンは科学的関心から錬金術に興味を持ち、そして錬金術にどんどん傾倒していったのだった。
その錬金術の過程で、ニュートンは莫大な実験を繰り返していたのだが、そこで物質の合成に使っていたのが水銀だった。ニュートンは実験の過程で大量の水銀を吸い込み、その影響で精神錯乱に追い込まれてしまった。
アイザック・ニュートンですらも、水銀が危険なものであると気づかずにいた。水銀は普遍的に使われていたからだ。大して危険なものではないと思われていた。
水銀は「梅毒の薬・奈良の大仏・始皇帝の秘薬・ニュートンの錯乱」を結びつける中心(コア)となる物質なのだが、この結びつきは示唆に富んでいる。水銀は危険なものであるとは数千年に渡って認識されていなかったということだからだ。
そうであれば、今の私たちも何らかの物質が精神を錯乱させ健康を害するものを知らずに使っている可能性は高いと思わないだろうか。いずれ、私たちはその事実を知って驚愕することになるのかもしれない。(written by 鈴木傾城)
アイザック・ニュートン。アイザック・ニュートンですらも、水銀が危険なものであると気づかずにいた。水銀は普遍的に使われていたからだ。大して危険なものではないと思われていた。
https://blackasia.net/?p=10730
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因みに、日本人が21世紀に絶滅する原因は中国人移民でしょうね:
中国人客急増で梅毒大流行 _ 性病地獄に堕ちていく日本の風俗と助からない風俗嬢たち
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/864.html
日本は近い将来、中国小日本省になる
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/888.html
中国人のウイグルでの民族浄化の手口
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/280.html
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