http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/643.html
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(回答先: 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 23 日 08:40:41)
今上天皇の父親が朝日新聞記者だった佐伯晋だというのは本当なのか?
2018.08.18
美智子皇后の正体|F氏の手紙・入内、出産後の信じられない女帝の奔放
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/10/22/2016102220161022120000/
コメント欄に、国民が緊急に知っておくべき重要な情報提供が有りましたので記事としました。一部は私も耳にしていた情報ですが、多くの謎の鍵を説く決定的証言が有りました。
・・・・以下転載です・・・・・
コメント欄
ミテ子さんのカッコウ(鳥)疑惑はかなり前から一部で噂になっていましたが、もっと凄いのがありまして盗宮出産後も皇太子を騙して男性と密会していた。(たぶん婚活パーティーの仲間)それが昭和帝の怒りをかい死ぬようなリンチを受けた。
表面上は流産だが実は…喜久子妃の言葉が苛めの一つとして伝わっていますが、皇太子以外ミテ子にされた仕打ちは知っていた。
ミテ子はヒステリーで発狂して手の施しようがなく別荘に篭って落ち着くのを待った。
真相は…若くして二度と子を産めなくされたこと。
昭和帝のご長女様が若くしてガンで亡くなった直後にミテ子は一家でリゾートに旅行し、あろうことか長女を亡くしてふさぎ込む香淳皇后に皇室のクレームをつけています。
盗宮を生んだミテ子さんは調子に乗りすぎて香淳皇后をないがしろにする態度がひどく目に余るようになり、昭和帝はリンチを命じたのだろうと伝わっています。
その後ミテ子さんは甲状腺の病気を発症してどんどん痩せて…顰蹙を買いながら昭和帝が亡くなるのを待って自分らの代になり…今に至るところでしょう。
旧宮家関係もミテ子さんのカッコウや別腹説やリンチは知っているでしょうが内々でしか話さない。
ミテ子は面倒なキャラクターだから。闘争か何だか知りませんが、清浄な中に土足で入って行って何もされないのがどうかしています。皇室を舐めてかかったミテ子さんと取り巻きが甘かったのでしょう。排除されても仕方がない事です。
≪私の返事≫
貴重な情報有難うございました。驚くべきことがあったんですね。
美智子が、徳仁ばかり可愛がって、文仁親王や、清子様に冷たい意味がよくわかりましたよ。自分の産んだ子が徳仁だけだから、愛子を女帝にと固執するのがよくわかりまし
た。たとえ東宮は自分の腹を痛めた子でも、東宮ほど両親にも、兄弟にも、祖父母にも、母方の祖父母や叔父叔母にも似ていないのが昔から不思議でした。
ただ、読者様から情報提供のあった、朝日新聞の皇太子妃正田家担当で、入内後も浩
宮担当をした。佐伯晋が浩宮にそっくりですね。
佐伯は、婚約が決まったころ、ある夜、正田美智子を連れ出して、朝帰りしたそうです。その時の美智子の言い訳は「昨晩のことはよく覚えていない」だそうです。許嫁のいる娘を、新聞記者とデートに出す、母親の富美子も富美子だと思いますが、あの「大陸夫人」ならやりかねませんね。
≪FXさんのコメント≫
その噂、私も聞いたことがあります。
美智子夫人の産んだ子供は、ナル殿下お一人、
実は文仁親王は、某女優(加◯さくら)の子、正田冨美さんは宮中に伺う時、お土産をナル殿下の分しか用意しなかったという・・・、都市伝説のようなものかと、その時は、笑って聞いていましたが・・・(怖っ)。
≪私のコメント≫
私が、一部知っていたのは「美智子さんが、流産し、その時誰かから嫌みを言われたので、狂乱状態になり、拘禁服を着せられて、葉山の御用邸にいかれ、2,3か月療養されたとのこと。
何故流産ぐらいで発狂し、拘禁服を着させられたかが疑問でしたが、F氏の証言で腑に落ちました。侍従らに折檻されて、「石女(うまずめ)」にされたんですね。びっくりしましたが、表面に出ないだけで、皇室内の折檻というのは、昔からあったのではないでしょうか?
江戸時代、武家の家では妻が浮気すると、間男を捕まえ、二人を裸にして、女を上に乗せ、一太刀で真っ二つにしたそうです。
「姦婦姦夫の重ね斬り」と言います。普通の武家の家でそうですからね。
2800年続く、世界最古の王家で、しかも世界最高権威をもつ日本の天皇家に、史上初めて民間から入内した嫁が、人の良い皇太子を騙して、東宮出産後も間男と「昼下がりの情事」を楽しむなんて、戦前は大日本帝国の大元帥のヒロヒトとして、世界から恐れられた、気性の激しい昭和天皇を激怒させたのです。
「殺されなかっただけ感謝しろ」の話ですよ。
ロミオとジュリエットの様に、皇太子が熟睡した深夜、東宮御所の外の森で、逢引するぐらいなら未だ可愛げがありますが。白昼堂々ですからね。婚約交渉の時、母親の富美子が、昭和天皇に散々の悪態をつき、記者のカメラが向くと決まって不機嫌な表情をする。母親のこうした「日本人離れした」態度を見て、美智子も横着になったんでしょう。
ある皇室ブロガーさんの豊富な写真を見ると、ナルへの溢れんばかりの愛を隠さない美智子さんと、無視された無念さをかみ殺す文仁親王と複雑な表情の清子内親王の対照的な姿。
★お土産をなるの分しか用意しなかった用意しなかった正田富美、用意がいいですね(笑)ある意味、托卵を積極的に仕組んだのはこの母親です。朝日新聞の佐伯晋との子であることも知っていたでしょう。娘が折檻されることも計算のうちだったかもしれません。
正田富美(旧姓副島、上海生まれの佐賀人;本籍多久市)のこの天皇家に対するあくなき敵意、婚約交渉中の昭和天皇に対する発言、天皇家を「あちらよばわり」「婚約はストラングル(闘争)です」、婚約後の会見で不機嫌そうに「最良の結婚と最適な結婚は違うんですよ」等々、
少なくとも武家の家柄(副島氏は多久藩2万石の下級武士)では口を裂かれても言えない言動です。どうさかさまから見ても朝鮮人です。しかも夫の正田英三郎は出自は部落民です。
石高2万石と言えば、旧日本陸軍の研究では、1万石で兵士250人、2万石だから、武士階級は500人いるかいないかの超小藩です。特に本藩の佐賀藩は、支藩に対する搾取がきつく、特に多久は、鍋島家の元主家竜造寺家(家老鍋島直茂は主人の竜造
寺家を乗っ取った)の藩ですから、搾取はより一層きつかったらしいです。
ですから、多久の下級武士は相当生活が苦しかったはずです。維新後、副島家からは、ブラジル移民も出ましたが、普通の武士階級では海外移民などいきませんよ。平民以下の人が多かったのです。
加えて戦中上海生まれとする自称日本人には在日朝鮮人がいます。
元総理の鳩山由紀夫の妻、鳩山幸が両親とも在日朝鮮人でした。なんせ、戦前は各国の租界が有り、列強の謀略戦が繰り広げられ「魔都」と呼ばれた上海ですから、日本人と
言っても疑ってかかるのが正解です。
昭和天皇は嫁が産んだ男子が、長男の子ではない、浮気相手の男の子だという事を直観的に感ずいていたのでしょう。
カッコウの雛鳥には「徳仁」の「徳」という、最も不吉な文字を付けました。
私はこれは昭和天皇が行った一種の呪詛だと思います。徳仁の即位を絶対に阻止するつもりだったのでしょう。
ご自分の死後、皇太子妃の美智子が【皇室を破壊すること】を読んでいたと思います。カッコウの雄鳥の朝日新聞記者の佐伯晋は、そのご、旧宮家、家族周辺から噂が広まり、上司の追及を受け、「美智子との関係をげろったそうです」
とっくに朝日は退職してますが、顔を見ると東宮と瓜二つです。
東宮は両親に似ていない、弟、妹とも似ていない、祖父母、従姉とも似ていない。正田家の祖父母とも似ていない。叔父叔母とも似ていない。従姉とも似ていない。
似ているのが佐伯だけだという皮肉。
英国、初め世界の人気者だった故ダイアナ妃は夫のチャールズがカミラ夫人との浮気を知ると、騎兵で馬術のインストラクターであったジェームズ・ヒューイットと5年間不倫しました。
英国王室の法律では、皇太子の妃を寝取った男は、死刑だそうです。未だにヒューイットは刑死していませんが、これは、チャールズも離婚後、人妻カミラと再婚した負い目もあるでしょう。
DNA鑑定やって、佐伯との「親子関係」が確認されれば、東宮は皇位継承権を失うし、前代未聞とは言え、佐伯はイギリス並みに死刑相当だと思います。そして、ここでまた朝日新聞だ。50年以上前とは言え、社員が犯してはいけない罪を犯した。
戦前は「大逆罪」というのが有りましたら、「慰安婦捏造」に続いてこれですからね〜雇用者責任と慰謝料として10兆円程度は皇室に払わせて、倒産させるのがベストだと思います。
≪甲状腺障害が怪我の功名となった女帝≫
甲状腺を患ってから、痩せとやつれが目立つようになりました。
しかし、「お花畑の人」特に私のような、皇室情報が入らない、地方居住者にとっては、それが、反射的に「美智子妃」への同情と根拠のない共感に変わったのです。
何故かというと、入内後数年は、美智子妃と懇意な皇室ジャーナリスト達がフレームアップ(捏造)した【美智子妃いじめ伝説】がマスメディアや商業雑誌の成長とともに、嘘が事実となって国民の共通認識となって下地となっていたからです。
事実は、皇室の伝統を無視して、どんどん露骨に破壊してゆく美智子さんに、周囲の皇族たちが呆れ、勝気な美智子さんにてこずり、最終的に無視するようになったのだと思います。「無視」を「いじめ」と取らえて【美智子さまいじめの妄想】を事実を知らない一般国民の常識にしてしまったんですよ。その時悪役にされるのは、決まって、入内に反対した学習院常磐会と古手の女官たち。
聖心女子大では、大きな顔と態度をしていた自称優等生が、お茶の水女子大に編入したら、成績不振、大きな態度取らせてくれない。そのうち女学生たちから「何あの子」と言われて無視されるようになる。それを「苛めだ!」と叫んで、フィクション小説を書き始めるようなものです。
嗜好が朝鮮人に似ていますね。上司から、ミスを指摘され注意されたら、「差別ニダ!」と叫ぶ。実際はこんな程度のものだと思います。
当時高校生の私も騙されて「美智子さま、また皇室内で苛められているんだ、可愛そうにな〜」と見事に騙されました。
★すべては、今の様にネットのない、TV、女性雑誌全盛時代の影響力です。
当時の我々はマスゴミに見事に洗脳されていたんですよね。それでも私の学生時代の下宿、大田区久が原の旧家の奥さんたちは、美智子さんの本性を知っていまし
たよ。特に東京23区内のお屋敷町の住人は、家族から、また、親戚から、皇居や東宮御所に女官を出している旧家が多く。その人たちは【美智子さまの苦労と栄光の物語】は、鼻から相手にしていませんでした。旧皇族、華族の人達も一緒
だと思います。女帝の耳に届かないようにこっそり悪口を言っていると思います。
★1959年の入内以降、美智子皇后で一番稼がしてもらったのは、女性誌です。
良く知りませんが「女性自身」とか「女性セブン」とか。当時の「開かれた皇室」の風潮の中で、女性誌の被写体になるビジュアルを持っていたのが美智子さ
んだけでした。私は、常陸宮華子さんの方が、本当の意味で上品でお美しいと思いますが、華子様は、オファーが来ても受けなかったでしょう。
そして、皇后になると、あの甲状腺でやつれたしわくちゃの顔が【民間初の皇太子妃で苦労された方】という事実と異なるイメージを女性にアピールして、雑誌を購読させるのです。
ところが、この2年、状況が全く逆転してしまいました。
秋篠宮家の2内親王、眞子様と佳子様が成人され、特に一瞬にして佳子様が国民的アイドル皇族になり、女性誌も佳子様の公務やキャンパスライフを競って取り上げるようになりました。
だって、佳子様を取り上げたら売り上げが伸びるんですから。その代り、女帝の露出が減りました。「アテクシこそが元祖女性誌のアイドルなのよ」80超えた老婆が20歳そこそこの孫娘に嫉妬全開です。
学園祭参加禁止、園遊会も禁止、これって立派な【人権侵害】じゃないですか?
もしかしたら女帝は佳子さま○○も企んでいるかもしれない。心配です。
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/10/22/2016102220161022120000/
▲△▽▼
謎の一夜の秘密 2017/5/5
https://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/64120801.html
どういう訳か私のちょろっと書いた在日韓国人『佐伯晋』と正田美智子現皇后に関しての記事に今でも常時アクセスがあるので改めて記事にしてみました。
イメージ 5
尚、ここでは正田家の出自や妃の母親である正田富美夫人の旧姓副島(そえじま)の出自不明を問ふものではありません。そこを書き出したら膨大な量となりますから。
イメージ 3
(註2)
例えば、2011年に、デヴィ夫人が、美智子皇后を差して「あのかたのお母さんはシナ人でしょう」と言う発言をした。何とか「美智子皇后のサークル」に入ろうとしたら、皇后から、「あの方、メカケでしょ」と侮辱され、遺恨を持ったそうだ。
デヴィ夫人は「メカケ」ではない。正式には、インドネシア大統領、スカルノの第五夫人だ(註1)。デヴィ夫人がそういう根拠は、正田富美(旧姓副島)は、そもそもが英国人の神父と中国女性(中国朝鮮族?)との間で出来た子で、副島網雄の貰い子であるとの説があるからだ。
◆ ◆ ◆
その記事
『一夜だけ消えたミステリーではないミステリー』 2016/1/4(月)
https://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/63530266.html
(一部抜粋)
日本にも一夜消えたミステリーではないミステリーがある
1959年(昭和34年)4月、皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子(現皇后)は、明日10日早朝、入内(結婚式)するという前夜、正田美智子は佐伯晋と共に二人きりで五反田の街の夜に消え、朝まで戻ってこなかった。そして朝帰り後の一言、「昨晩、どこにいたかわからない」 とノタマウ。(中略)
朝日新聞記者・在日韓国人 『佐伯晋』 だけが正田冨美に許された「正田家に入る秘密のルート」について佐伯本人が語る。(中略)
ご婚約発表前日、「美智子妃」が泣き崩れた 「この号外は取り消して頂けないか」
元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(1) 2012/4/27(以下省略)
◆ ◆ ◆
以下、二人が入内(結婚式)の前夜、消えた理由の幾つかの説
(見解1)
『父親感謝説』
この正田美智子嬢と佐伯晋が入内(結婚式)の前夜、二人きりで夜を共にした記事を最初に見たとき、直ぐに思い出されたのが私の中学時代に読んだ小説でした。
1959年(昭和34年)頃、押し入れに山と積まれていた父の月刊文藝誌(中央公論?)を見つけ、題名で面白そうな小説だけを読みました。その中で今でも記憶に残っているのは伊藤整著小説『花ひらく』だけ。心温かな淡い恋物語だったと思います。
(参考)小説『花ひらく』のあらすじは、私の勘違いで、夫婦はそれぞれ若い異性と肌を触れ合うことでそれぞれが魅力的になり、お互い、惚れ直すというものだった。
http://movie.walkerplus.com/mv24340/
それから母が月間『主婦の友』から切り替えた『婦人公論』の連載小説などを読みあさりました。それらの小説の中の一つに次のような内容の文があり驚いたものです。
記憶では『ある地方では、娘の結婚式の前夜、娘は父親と夜を共にし、まぐわう慣習があること。それは父親に対して育ててもらった感謝の印としてであろう』と書かれていたはずです。そして、小説はまぐわう描写と父親の気持ちを書き連ねていました。これ以外の内容は忘れましたが。
私は、佐伯晋は父親である不能の正田英三郎氏の代役をしたのかと思いましたね。
尚、この風習は、陸前国(現:宮城県)にあったようです。
○ (ウィキペディアより) 明治初年(1868年頃)まで「聟(婿)の父親が花嫁と初夜をすごす」風習があった。これは、1883年2月15日付の「郵便報知新聞(報知新聞を経て現:スポーツ報知)」に掲載されていた。他方、地方によっては処女の血を忌み嫌い、前夜まで、或は初夜の花嫁は新婿以外の者とまぐわう風習があった。(出典)藤林貞雄著「性風土記」(岩崎書店、1959年)
◆ ◆ ◆
(見解2)
『試し腹説』
正田家の出自が、朝鮮半島なら理解できないことはないですね。李氏朝鮮時代まで『試し腹』という制度があって娘を嫁に出す場合、娘はちゃんと妊娠して子を産めるという証として、父親や縁戚が娘に妊娠させ、その状態で嫁がせたんです。無論、この制度は日韓併合で日本が禁止させました。
処が、この父親が娘を犯すことが密かに慣習化して続いており、今でも父親や兄や叔父が娘や女児を犯すことを平然と行っているとし、韓国:中央日報ニューヨーク版が記事にしています。
✩ ✩ ✩
오빠·삼촌도 못 믿는다…한인 가정 성폭행 만연
兄・叔父も信じられない... 韓国人家庭性的暴行蔓延
http://www.koreadaily.com/news/read.asp?art_id=2506016
뉴욕 중앙일보] 발행 2014/05/01 미주판 4면 기사입력 2014/04/30 16:33
뉴욕가정상담소 신고 케이스 10%가량 차지 방어 능력 없는 어린이 피해자가 대다수
(一部抜粋)
뉴욕가정상담소에 따르면 올해 들어 접수된 가정폭력 케이스 10건 중 1건이 성폭행이었으며 이 가운데 90%는 가족 또는 친척 친구 등 아는 사람에 의해 자행된 것이었다.
ニューヨーク家庭相談所によると、今年に入って受理された家庭内暴力のケース10件中1件の割合が性暴行(姦通や口腔性交)であり、このうち90%は、家族や親戚友人などの知っている人によって強行されたものだった。
✩ ✩ ✩
この説によると、妃は入内(結婚式)では既に誰かの子を妊娠していなければならない。故に何もわざわざ前夜に妃は佐伯晋と一夜を共にする必要はないということになる。
◆ ◆ ◆
(見解3)
『最後の一夜説』
では、ご婚約発表前日、「美智子妃」が泣き崩れ、「この号外(婚約)は取り消して頂けないか」と言った妃の心情から慮(おもんぱか)ったらどうであろうか。
若い娘・妃にとって泣き崩れる程のこととは、好きな男との別れを意味するとしたらどうであろうか。
例えば財界の実力者の長男で、学習院高校から他の大学に進学し、夏場は軽井沢で妃と度々テニスをしていたという男性。或は、お見合いをして婚約していた波多野という男性。
正田家を支配する母富美が取り計らい、入内(結婚式)の前夜、佐伯晋に頼んで妃を例えば婚約していた波多野と会わせ、最後の一夜を過ごさせたとも考えられる。
拠って、妃が前夜に消えたことを誰も騒がず、翌朝の朝帰りしたとき、妃は嬉々としていたことが理解できる。
(参考)
第031回国会 内閣委員会 第5号
昭和三十四年二月六日(金曜日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/031/0388/03102060388005a.html
(一部抜粋)
高瀬委員 国会も何ら御結婚について知らされておりません。公式発表の十日前、つまり十一月十七日のニューズ・ウィークには事こまかに、全部私は翻訳して持っておりますが、「皇太子の恋」という表題で詳細に報道されております。結局知らないのは国民だけだ。
菊池委員 まず第一にお伺いしたいのは、この婚約の前に、美智子嬢は二十五人の見合いをしておられた。そして最後に波多野という青年と婚約、これを破棄して皇太子の方に振りかえたというようなことが流布されております。(註3)
◆ ◆ ◆
(見解4)
『悪魔祓い説』
妃は、聖心女子学院中等科⇒聖心女子学院高等科⇒聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現:英語英文学科英語英文学専攻)を首席で卒業。
聖心女子大学は、白百合女子大学、京都ノートルダム女子大学、南山大学と同様、カトリック教会であり、正田英三郎氏も富美夫人もカトリックであることから、当然、妃も洗礼を受けていたものと思われる。
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その証として、妃は御成婚後、年間10回ほど実家に里帰りをし、元学友の話によると、都度、聖心女子大学の聖堂(チャペル)に趣いて礼拝(悩みや犯した罪を司祭に告白し、許しを請う)をしていたとのことである。
では、カトリックとはなんぞや
イエス・キリスト像ではなく、聖母マリアだ。
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聖母マリアは、汚れのないまま(処女のまま)イエズスを懐胎し、生んだ!!!
故に、教会の大半がカトリックである欧州では、処女の血を忌み嫌う風習や迷信があったため、出血の可能性がある処女喪失の際、これを回避できるのは神の代理人や悪魔払いが可能な聖職者や祈祷師(シャーマン)、または神と同等と見なされた権力者だけだったとする説がある。
この説によると、妃が一夜を共にしたのは聖心女子大学聖堂(チャペル)に勤務する牧師ということになる。と言うことは、妃は入内以降、年に10回もこのチャペルを訪れていたことが納得出来る。
また、16世紀から17世紀に盛んだった迷信に魔女狩りがあり、悪魔が処女の血を好むため、同時期の初夜権には新婚夫婦が厄災に見舞われないように代行する意味が込められていたとする説などがある。
この説に拠ると、妃と一夜を共にしたのは正田富美に懇願された佐伯晋ということになる。
(私見)
(見解3)『最後の一夜説』を採る。御成婚の号外予告で泣き伏し、記事の取り消しを懇願したということは、ただならぬ関係の相手がいた故としか考えられない。
とすると、成婚後、度々聖心女子大の聖堂を訪れていたのは、皇室での神道の式典を執り行い、古来の日本の神に祈ったというカソリックに反する行為を懺悔する為である。
(註1)
正田家再家系調査
http://blog.goo.ne.jp/duque21/e/675b2f38d3b0df5852c29f858efbdaa5
(註2)
正田家家系図
http://fushimi.hatenablog.com/entry/2016/10/23/060000
(註3)
○菊池委員 もう一つ重大なことは、この婚約を運ばれた方々、運動に当られた方々が全部カトリック教徒である。前の田島長官もカトリック教徒であり、それから宇佐美長官もカトリック教徒であり、小泉信三氏もカトリック教徒であり、それからしゅうとになられる正田英三郎氏もカトリック教徒である。それから最高裁判所長官の田中耕太郎氏もカトリック教徒である。カトリック教徒の一連のからくりによってこの婚約が運ばれたという説が流布されておるが、これはいかがであるか、承わりたい。
(註)
聖母マリア画像URL
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/ab/a93c89b54b6856ff9058a0cd24d9e973.jpg
(註)
徳仁親王と佐伯晋
http://blog.goo.ne.jp/duque21/e/07f5a6b110e1e1faaf15adbd4c58dd9a
http://e-vis.hatenablog.com/entry/2015/12/17/004112
http://xn--4gq9qnoy3e95mr7eif2gn39cba4667fklcptdm02bmy4b.com/?p=11454
http://e-vis.hatenablog.com/entry/2015/11/24/000000
イメージ 4
※詳細を知りたい方は、下記の文字を色々組み合わせて検索。
正田美智子
佐伯晋
前夜
正田冨美
群馬県館林市目車町 正田醤油
部落地区
白山神社
GHQ
社会党
従軍慰安婦
朝鮮
https://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/64120801.html
▲△▽▼
2018.03.09
美智子様の真実@「英国紳士のような」佐伯記者
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=16353
佐伯晋 朝日新聞記者と正田家のひとびと
このように正田家の人々は自分で判断したうえで行動し、そのうえで責任をもつという英国風の自由主義を身に着けている。
父親にといわれる恵美子さんが”理想の男性”として、英国◯紳士を脳裏に描いているといわれているのも、この辺に理由がありそうだ。
佐伯記者とのエピソード
そこで、今まで彼女が会ったうちで、理想に最も近い条件をそなえた一人の青年の名前が、大きくクローズアップされてくることになる。
その人の名は佐伯晋氏。現在、朝日新聞社会部(最高裁詰め)に勤務する有望な若手新聞記者だ。
”正田家ブーム”たけなわのころ、佐伯氏をライバルとして、取材合戦に火花をちらした各社のお妃記者たちの談話をまとめてくると、恵美子さんが彼を知ったのはもう一年ほど前。
当時佐伯氏は宮内庁詰めの”お妃記者”の一人として、いち早く美智子様をマーク。
正田家の周辺に取材のアミを貼った。そして、同家の人たちから直接、情報を聞き出すため、正田英三郎氏や、富美夫人に近づき、その後、恵美子さんとも知り合った。
激しい仕事に生命をかけながら、しかも”英国風”のキチンとした礼儀を忘れない佐伯記者に、彼女はしだいにひかれていったようだ。
「あの方、すごく素敵だわ。彼こそ紳士の中の紳士、ジャーナリストの中のジャーナリストよ」と、夢中になって家族に推薦するので、美智子様をはじめ、ご両親や兄弟も思わず微笑を誘われたという。
もちろん、同家の人たちはすえて、佐伯氏のすぐれた点をみとめていた。
大勢の報道関係者が入り乱れるなかで、彼だけは特別に扱われ、しまいには家族同様の待遇をうけるようになった。
去年の9月、美智子様をかこんで、皇太子妃をおうけするかどうか、正田家の最後の親族会議が箱根でおこなわれたときも、佐伯氏は、外部の人間としてはたった一人、その席につらなっていたと告叔父の同僚記者は語っている。恵美子さんの推せ、、
ここまで、
まとめると
・英国流自由主義をみにつけている正田家の次女恵美子が、理想の男性、紳士的だと惹かれたのが朝日新聞の佐伯晋。
・「佐伯さんは紳士のなかの紳士、ジャーナリストの中のジャーナリスト。でとっても素敵」と夢中になる恵美子に家族は微笑む。
・徐々に正田家に認められて佐伯記者は特別待遇を受け、家族同様にあつかわれるようになり、正田家の最後の家族会議、箱根会議にただ一人外部の者として参加した。
いったい、誰が信じるんじゃという内容ですが、、、、
バリバリの左翼系大学で、同和出身が多いとされる一橋の卒業生が英国流の紳士の中の紳士といわれても、、、
「激しい仕事」なのは、政治部、社会部担当であって、皇室担当なんて誰もが嫌がる窓際族のつまらない部署ときいてますけどね。
朝日新聞記者の佐伯氏と関係あるかどうかは不明ですが、日清製粉の歴代社長の中に、佐伯姓の方がおられますね。
日清製粉グループ本社の歴代社長
http://rekidai.blog.fc2.com/blog-entry-216.html
初代:根津嘉一郎(1906年〜1924年)
2代:正田貞一郎(1924年6月〜1936年12月)※創業者
3代:星野唯三(1936年〜1945年)
4代:正田英三郎(1945年6月〜1973年11月)※皇后美智子の父
5代:石井良雄(1973年〜1981年)
6代:佐伯孝(1981年〜1986年)
7代:正田修(1986年6月〜2004年6月)※正田貞一郎の孫
8代:長谷川浩嗣(2004年6月〜2007年10月)
9代:村上一平(2007年10月〜2011年3月)
10代:大枝宏之(2011年4月〜2017年3月)
11代:見目信樹(2017年4月〜 )
以上
6代目に佐伯孝さんとあります。1981年から86年まで。ごくわずかな期間ですね。御身内の方でしょうか。
直ぐ後の7代目が、正田富美と英三郎の次男が社長になっています。
一橋大学出身一覧
経済人
・正田英三郎 – 元日清製粉社長、皇后美智子の父
・松本秀夫 – 元日清製粉副社長、正田貞一郎の元秘書
・佐伯孝 – 元日清製粉社長
一橋大といえば、例のキムコムロは、ここの大学院に入っている設定でしたね。そして、石原慎太郎や、シールズの奥田愛基、そして、佐伯晋氏も一橋大学の出身でしたね。この大学は、バリバリの左翼系と聞いています。
佐伯孝さん。探しているけど拾えないんですよね。
もしかして、佐伯家と正田家とは、代々の付き合いなのではないのでしょうか。
正田家と佐伯氏
高級住宅地にあったとはいえ、正田邸は豪邸とはいえないサイズのお家。
この小さな家に、自由に出入りができたのが佐伯さんだったのね。
正田美智子の多くのプライベイトな写真を残しているかた。
カメラマンに対して寛いだ表情を見せている美智子。
このご成婚した美智子が生んだ、徳仁1号と佐伯さんがにているのがね、、、、、歯並びをきちんとしたら、15歳の浩宮に似ると思う。
不思議なことです。
少し前までは、皇宮警察の警備の記録があれば、ナルちゃんのパパの特定もできるかと思いましたが、雅子も美智子も複数いるので、非番の人は自由に外出し外泊してたでしょうから、記録を調べても無駄ですね。
再載になりますが、、、
すくなくとも「テニスコートの恋」より4年前に皇太子妃は決定していた。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/792.html
■「テニスコートの恋」の真実
1957(昭和32)年、軽井沢のテニスコートにキューピットが舞い降りた。その舞台をつくった3人の人物がいる。昭和天皇(迪宮裕仁 1901−1989)、カトリックに近い聖公会信徒であり、長く慶應義塾塾長を務めた小泉信三(1888−1966)、そして、死の直後にカトリックの洗礼を受けることになる吉田 茂(1878−1967)
(略)
■皇太子妃を巡る暗闘があった
10日に一度くらいの割合で昭和天皇に会っていた吉田 茂が、この皇太子外遊の年に小泉信三(1888−1966)に手紙を書き送っている。吉田と小泉は1942(昭和17)年からの知り合いで、信頼出来る友人同士にして互いのブレーン役を務めていた。小泉は皇太子外遊に部分的に同行し、一足先に帰国していたのだ。
この手紙は1953年10月4日に、吉田によって書かれている。外遊での皇太子の態度が感泣するほど立派だったと書きながら、それも皇太子の教育掛を務めた小泉らの指導のお蔭としている。
注目すべきはその次で、皇太子の結婚問題に関する小泉の手紙を松平信子夫人に転送しつつ、熟慮を促したとある。
この前年、朝日新聞が1952年7月29日の朝刊に「御意思、十分に尊重 まず北白川、久邇家の順に選考」という四段の囲み記事を掲載し、皇太子妃を巡る報道合戦の口火を切った。ここに「悲劇の宮家」北白川宮家の名前が挙がっていたことを覚えておいてほしい。
(略)
さて、宮内庁次長の瓜生順良(うりゅう のぶよし ?−1957)が、記者会見でお妃問題に対して初めて公式に言及したのは1955年(昭和30)年9月である。
この時、瓜生は「新憲法で決められた結婚の自由を尊重し、出来るだけ広い範囲から選ぶ方針である」と述べている。
1972年発行の『毎日新聞百年史』にも「宮内庁が皇太子妃の本格的選考に入ったのは(昭和)30年頃からである」と書かれている。
しかし、こうした通説が誤りだったことを『吉田 茂書翰(しょかん)』(中央公論社 1994年刊行、加えて『吉田 茂書翰 追補』吉田茂国際基金 2011年刊行)が見事に証明している。
女子学習院の同窓会組織である「常盤(ときわ)会」会長で東宮御教育参与を務めていた松平信子(1886−1969)が、皇太子妃は旧皇族または華族から選ぶべきだと主張、愛国団体を動かしての御婚儀反対工作を行うまでしながら、正田美智子(1934−)との結婚に反対していた。
不思議なことに、この吉田の手紙は、天皇皇后両陛下の軽井沢テニスコートでの「初めての出会い」があった1957年8月19日より4年も前に書かれている。つまり、4年前の時点で既に小泉と松平の対立があったことを明確に示している。
旧皇族や華族以外からも皇太子妃の候補を挙げるという路線が決まっていたのだろうか。いやむしろ、この手紙が書かれた1953年10月4日の時点で、皇太子妃候補が或る程度絞られていたと考えるべきだろう。
吉田茂・小泉信三・松平信子の暗闘
吉田 茂と小泉信三と松平信子の3名は、間違いなくこの対立を知っていた。
吉田からすると、「何故か松平信子に情報が漏れていた」といった感じだったのかも知れない。10日に一度くらいの割合で吉田に会っていた昭和天皇も、当然、知っていたであろう。
何とも不思議な『吉田 茂書翰』はまだ続く。(中略)北白川宮家側に常盤会会長の松平信子や娘の秩父宮妃勢津子(松平節子 1909−1995)がいたことが、この手紙から明らかになる。
吉田自らがこれだけ慌しく動いているところを見ると、恐らく吉田が北白川宮家を訪問した5月2日前後には、皇太子妃が正田美智子に絞られていたと推測される。
そして、この3カ月後に、現在の天皇皇后両陛下は軽井沢で「出会う」ことになる。
結局、それは偶然でも運命でもなく、予(あらかじ)め吉田や小泉は、皇太子妃最有力候補として正田美智子に絞り込み、「テニスコートの恋」のシナリオが綿密に描かれていたのだ。
新聞各紙の中で『吉田 茂書翰』にある小泉信三宛手紙の不思議に気付いて、内容まで紹介していたのは読売新聞だけである。それ(読売)にしても、軽井沢での「運命の日」以前であることの重要性については何一つ言及していない。
三谷隆信宛の手紙に到っては、内容まで紹介した記事は全く無い。数多い研究者も含めて、吉田 茂が皇太子妃選びにまで関与していたことをこれまで見過ごしてきたのだ。
※明仁皇太子妃候補筆頭だった旧宮家の北白川肇子さま。
こうしてシナリオ通りに事が進んでいく中で、もはや北白川宮家側が入り込む余地は無かった。それでも「悲劇の宮家」返上を目指す北白川宮家の情念は凄まじかった。
小泉側に牧野伸顕(まきの のぶあき 1861−1949)の娘婿の吉田がいることに気付いた北白川宮家側は、巻き返しを狙って牧野伸顕の長男・牧野伸通(1889−1941)の夫人で、常盤会の重鎮でもあった牧野純子(1900−1990)を巻き込む。
昭和天皇が父のように慕った牧野伸顕の家を2つに引き裂きながら、北白川宮家から皇太子妃を誕生させようと最後の最後まで粘りに粘る。
しかし、吉田や小泉らが描いた見事なまでのシナリオに屈する。
(転載以上)
しかし、手紙が書かれた8年前の1952年ではなく、少なくとも1946年には「正田家から皇太子妃」は確定していた
左から・佐藤首相(田布施に戸籍がある)、池田隼人(敗戦前に皇室財産を隠すため活躍)、吉田茂、堤康次郎、
・1945年 8月、終戦、GHQの占領がはじまる
・1946年 5月 カトリック教徒を妻に持つ吉田茂が首相に
・同年7月 美智子の祖父、正田貞一郎が勅撰で貴族議員に。
8年前ではなく、少なくとも、1946年の時点で「正田家から皇太子妃」、しかし実際は堤康次郎の娘を皇太子のツマにすることは、決まってたんでしょう。
吉田首相が、貴族議員が廃止されることがわかっていたので、正田貞一郎をねじ込んで「正田家から皇太子妃」の下地を作っています。
もっとも、正田美智子は、テニスコートの出会いの前に、別人に入れ替わってます。別人が皇太子の妻になるという事情が雅子と似ていますね。
・「ヤンキーミッチー」。
額の生え際がまばらで面長、顔のパーツが中心によっています。聖心女学院にかよった、正田家で育った人だと思います。
・富士額で顔幅が平たく広い、小鼻の張りがめだつ「オカメ顔ミッチー」。
何らかの理由で、ヤンキーミッチーといれかわりテニスコートに派遣され、ご成婚しました。
2人いた正田美智子
ともに、耳にピアスをしています。
正田家の長女として育ったのが、目つきの悪い生え際のまばらなヤンキーのほうで、何らかの理由で(例えばあまりにヤンキーミッチーが下品すぎて皇太子妃は無理という判断がされたとか、、)、オカメ顔が正田美智子としてテニスコートに送られ、謀略どおり、ご成婚したのだと思われます。明仁さんからのプロポーズを受ける前に、聖心女学院世界大会のために渡欧した美智子もオカメ顔のほうでしょう。
堤家利権の土地 軽井沢、箱根
「テニスコートの出会い」があった軽井沢も、「箱根会議」のあった箱根もまた、堤家と関係が深い土地ですね。箱根には、堤古墳を有する墓地があります。正田家の墓地もここにあります。
歴代の美智子と、堤家の人々との容姿が似ていることもあり、やはり美智子は堤家の落胤の一人だと思います。
もともと、佐伯記者は、この壮大な「美智子入内」プロジェクトのメンバーとして用意されていた、”内部”の人間だったんでしょう。
正田家の次女にとって「紳士的」「理想的な男性」だからといって、赤の他人の青年が突然、家族同様に信用され扱われるということはないでしょう。佐伯記者が、田布施や堤など朝鮮系の黒い家系に所属する人だったのではないでしょうか。
佐伯氏は、社会部出身にもかかわらず、朝日新聞の役員になっています。異例のことだそうです。
カメラマンに微笑む美智子
徳仁親王を出産し退院するおり、取材でおしよせる新聞記者のために車の窓を開けて赤子を見せていますが、もしかしたら、「知り合いの新聞記者」にむかって新生児をみせ、ニタリ「うまくやったわ」と、蛇の笑いでほほ笑んだのかもしれません。
無題 Name 名無し 17/03/29(水)18:57 ID:EtXAUIfk No.1950988
一人旅のはずなのに・・・ だれが写真をとってくれたの?
ポーズつけて明後日向いて・・・プロがとってみたいねw…
以上
欧州訪問時の「一人旅の美智子様」とされているこの写真。妙に寛いだ表情をしています。
ちなみに、同行してこの写真を撮ったのは、もしかして、佐伯さんでしょうか。
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=16353
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アリエスの雑記帳
無限拡散希望とのこと・・・ついに確定か?
https://ariesgirl.exblog.jp/25273961/
今日は朝から着物を着てでかけましたが、単に着るだけではなくて着こなすことが必要だな〜と思いました。やはりドンドン着て慣れていくことが肝心なようです。
昨日、大阪市では「ヘイトスピーチ条例」が大阪維新異人の怪、凶酸盗、カルト犬策盗の賛成多数で可決されました。反対したのは自民党だけということでした。大阪というのは日本で一番汚鮮された場所であり、かつ昨日の記事で書いたように「日本の安定を揺るがすものとずぶずぶの関係で繋がっている」のが維新を始めとする大阪市の反日腐れ鮮人の犬議員どもでしょう。こいつらは一見別ものに見えて、根っこは同じ、反日基地外売国奴であり、同じ穴のムジナということです。これについては、別途記事に死体したいと思います。
さて、伏見あきまささまが渾身の記事をアップされていました。無限拡散希望ということでしたので、早速全文と写真を転載いたします。非常にというか、何ともいえない(笑)内容です。ぜひ、ご一読くださいませ!そして、拡散にご協力をお願いいたします。色付は管理人です。
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【佐伯晋の写真確定】でれでれ草さん大殊勲、これが徳仁の実父です。無限拡散希望 2016-01-16 19:21:58 | 皇室
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でれでれ草さん、ご苦労様でした。これが整形前の朝日新聞記者、佐伯晋の実物で、確定でしょう。
そして、動物園の柵の前にたたずむ美智子と、ナル、嬉しさを隠せない佐伯晋、「全く不自然さを感じない親子三人」です。特に、佐伯と美智子の絶妙の距離感、「全てを許しあった、男女の雰囲気を超えて、初めての子供を授かった祝福感あふれる夫婦」のようです。この頃から、ナルは全く、今上陛下に似ていません。美智子にも似ていません。ほとんど、この写真の佐伯のコピーです。
佐伯も、自分の種だという事は、顔を見ればわかるので、幸福感を隠せないようです。 私は、彼女が、最初に、この動物園の写真を見つけたときに、直感で、この男に間違いないと確信していました。ただ、彼女がまだ一生懸命に、写真を探していたので、余計な口は挟まないでいました。
そこに、乱れ飛ぶように、飛び込んできたのが「動物園の園長説」です(笑)私は内心笑いながら、経緯を見守っていました。何枚かの「園長」と称する写真が彼女のもとに飛び込んできました。
★「園長説」を執拗に主張する輩は、明らかに工作員です。 私が、確定を打つ根拠は
@ この写真の男が、いわゆる「ブン屋(新聞記者に対する蔑称)」臭をプンプンと発するオーラを持っていること。ストレートに言うと「アクの強さ」です。何故かと言うと、新聞記者と言うのは、スクープを取ってなんぼの商売で、それで、出世も決まります。また、社会部記者の佐伯にとっては、皇太子妃と徳仁と言う、朝日新聞購読層の喜ぶ「取材対象」を独占的に囲い込んでいることが、自分の評価をあげ、出世にもつながります。
ある意味、狩猟民族的であり、「肉食」的な職業です。「ガツガツした獲物を狙う職業気質」です。それのほぼ対極にあるのが、有名動物園の園長さんです。彼らは生物学者であり基本「理系の人間」です。ガツガツした出世欲や利権とは無縁の人々です。純粋に「動物が好きなんだよ」と言う人々です。
ですから、でれでれ草さんのブログの「お猿の電車」の動画を見ると、良くわかります。美智子の真後ろに座っているのが園長でしょう。向かって右の男性です。まったく「アク」が有りません。屈託のない笑顔です。
その反対に、ナルの後ろの向かって左側の男、横柄な佇まいと不敵な笑み、「釣り目」がナルにそっくりの朝鮮顔です。張本勲から暴力性を抜いて、知的にした感じ(笑) 佐伯晋とは、恐らく「通名」でしょう。何も、「通名」は金本や、金山、ばかりとは限りません。良く考えて、さも日本古来の地名から名前を取る在日は結構います。ちなみに、佐伯と言う地名は広島県と大分県に有りますが、
彼は、当然、どちらとも関係ないでしょう。朝日新聞と言う会社は、社内にうようよと在日朝鮮人の記者を抱えています。有名どころでは、朝日ジャーナル編集長からニュースキャスターになった筑紫哲也(朴三寿)南京大虐殺を捏造した本多勝一(上智大学名誉教授、渡部昇一氏の調査)帰化朝鮮人も多いし、韓国名のまま記事を書いている記者もいます。 その中に、佐伯晋君が一匹ぐらい、紛れ込んでいても何の不思議もありません。朝鮮人が多いだけに当然、報道姿勢は反日媚韓になります。
後は、彼女のブログのコメ欄に有りましたが、独特の腕章、これは、朝日や読売など大新聞の記者に独特のものです。どういう意味で付けていたかは詳しくは知りませんが、彼ら特に朝日は独特のエリート意識でしょう。あの、腕章をつけて、高級な社用車に載って、社旗(旭日旗)を掲げて、威張って乗り込んでいくのです。
★動物園の園長さんが腕章をすることはないし、する必然性は全くないと思います。
A 「カバにまたがる男」の写真、
★工作員による、悪質な「印象操作写真」です。今回私が確定を打った佐伯の写真を、どうしても園長にこじつけようとする、首を挿げ替えた写真です。
しかも、この男は、頭髪に「緩い天然パーマ」がかかっているし、目も普通に大きく、釣り目ではありません。単なる「下駄顔」です(笑)
兎に角、動物園の佐伯に似た男の顔写真を探しまくって、首を挿げ替えたのでしょう。ご苦労なことです(笑)後で、詳しく説明しますが、唯一、消し忘れた佐伯の本当の顔の写真は、この一枚しか残っていないと思うからです。 写真の説明に「当社社会部記者、佐伯晋」と言うクレジット(署名)が無いのでばれないと思ったのでしょう(笑)
≪実は今回が初めてではない美智子托卵疑惑≫
今から、50年前にも【美智子托卵疑惑】が有ったんです。昭和40年代前半、私が小学校低学年の頃、「皇室アルバム」と言う番組が有りました。亡くなった母がそれを見ながら、怪訝な顔をしながらつぶやいていました。
「似てないわ〜似てないわ〜」私が「何が似てないの?」と聞くと母は「浩宮=徳仁が皇太子さまに似ていないのよ」と言ったのを覚えています。
ある晩、兄弟で寝ていたところ、眠りが浅くなって目が覚めました。起きると母が父と何か話していました。母は「美智子さんが、浩宮が」と盛んに口角泡を飛ばして喋っていました。父はと言うと、面白そうに笑いながら聞いていました。私が、「何を話してるの?」と聞くと、父は「子供は知らなくていんだ」と言いました。男女のSEXの話ですからね。
それ以来、その時の記憶は私の中では、眠っていました。しかし、今回、色々と調べていくうちに、亡霊のようによみがえってきました。
最初に、この「美智子 托卵」の記事を書いたきっかけは、コメント欄に、私の母と同年代、昭和6年生まれ前後の戦中派と思われる女性の書き込み「あの人に似てるのよ、ほら、「浩宮番」だった朝日の記者にそっくりなのよ」がヒントでした。
「BBの覚醒記録」様が、記事にしているように、「ミッチーブーム」とは、労働者大衆と社会党が大賛成して、起こしたブームでした。社会党は戦後政権も取り(片山内閣)、今の民主党より力が有りました。 逆に、自民党の福岡選出の某議員は国会で追及しています。「25回も見合いしても実らず、現在、波多野某という男性と婚約中の女性が果たして皇太子妃としてふさわしいのか」と。
ここでいう波多野某とは、前学習院院長の、波多野敬雄と言う「学習院を朝鮮学校化」した外務省出身で小和田の子分ではありません。波多野は「美智子さんと見合いした」と言ってるんです。婚約したとは言ってないんです。
三島の様に美智子を断った人の一人ですよ。国会で、「皇太子妃最有力候補」に強い疑問を呈した勇敢な議員は、後に「不審死」しています。
★アメリカが殺したという人もいますが、私は、母の正田富美が、愛人の部落ヤクザ堤康次郎の配下を使って、見せしめとして始末したのだと思います。 美智子を廃妃しようとした昭和天皇を電話で恫喝して、阻止したような「朝鮮女ヤクザ」です。十分やりかねないと思います。
話しはだいぶそれましたが、「ミッチーブーム」と言うのは当時売れ始めたテレビ受像機とマスゴミ(朝日新聞、NHK等)の作り出した幻影であり、左翼ではない保守の知識層、一定以上の家柄でちゃんと教育を受けた家庭の主婦やおばあちゃんクラスの女性は、女性特有の感で、「いかがわしいフェイクの令嬢」だと思っていたと思います。九州の最南端の中産階級でもそうなんですから、私が、大学時代に下宿した旧家の様に、東京23区内の昔から続く旧家の昭和一桁生まれの、戦中派の奥様方は、昭和天皇の初孫として生まれた男児が、どう見ても皇族の顔ではなく、特に父である皇太子に全く似ずに、「浩宮番」の朝日の記者に瓜二つという事は、一目瞭然でしたから、特に人口の多い東京では「人の口に戸は建てられなかった」はずです。
当時、スキャンダル雑誌の「噂の真相」が有れば、絶対に暴露していたでしょう。
丁度、この動物園の「家族写真」の頃から、母の正田富美と朝日新聞は「まずい」と思い出したんでしょう。富美の圧力で、朝日は、佐伯に整形手術を命じて、新入社員の頃からの佐伯の写真を全て社内にあるものは抹消したのだと思います。
実は、私は昨年末に、東京の朝日新聞本社に電話して、率直に確認しています。「今上陛下ご成婚の頃と皇太子が幼少の頃の古いアサヒグラフが有れば譲ってほしい、なければ電子データーでもよいから譲ってほしい」と。担当者の男性は、対応は非常に丁寧だったです。聞くところによるとアサヒグラフはもう絶版になっていて、電子データとして媒体に保存してあるそうです。「浩宮番だった佐伯記者の写真は有りますか?」率直に聞くと、時間をかけて検索してくれました。しばらくして「一件だけありました」とのこと。
写真は、相当昔、何年か忘れましたが、現ソフトバンク監督の、工藤公康が高校時代、愛工大名電が、夏の愛知県大会で優勝したときに、当時名古屋支局長だった佐伯が、首相の工藤に優勝旗を渡すところの写真だそうです。「でも、顔が写ってませんね〜」「何でですか?」「優勝旗が丁度顔に掛かってて見えないんですよ。」「どうも、長いこと有難うございました」
朝日新聞が、如何に「佐伯の顔写真」に神経を使っているのかがわかりました。要は整形前の写真は全て抹消しているのです。恐らく50年前の「美智子 托卵」騒動の時にすべて処理したのだと思います。 ある意味「朝日新聞会社ぐるみの犯行」です。東大しか出世できない朝日で一橋大での彼を専務まで出世させたのも、やめて余計なことをしゃべらせない為だったのだと思います。
それにしても、皇太子妃を寝取っておいて、「避妊」もしないとはいい根性ですし、避妊も求めなかった美智子と言う女も凄い女です。日本の女性の倫理観とは違いますね。ネットで検索すると、有名な写真が出てきます。美智子がナルを出産して、病院から車で退院するときの写真です。ナルを抱いて、車の窓を開けて、白狐のような顔で微笑む不気味な写真です。
写真を撮ったのは、佐伯で、美智子は佐伯に対して微笑んだのでしょう。それと対照的な隣の牧野女官長の厳しい表情とまなざし、この時牧野女史は、「寒いのに窓を閉めなさい」と注意したそうですが、私には女官長の目がナルを凝視しているように見えます。この時すでに「皇太子に似ていない」と直感したのではないでしょうか?これは、私の推測です。
気の毒に牧野女官長と言う人は、正田富美の女性誌(特に女性自身、別名、「美智子自身」)への工作や、朝日の印象操作により、【美智子妃苛めの虚構】が世間に流布され、その中心人物に仕立て上げられてしまいました。 最後は、香淳皇后の力を削ぎたい、入江侍従長が美智子と結託して、有ることない事昭和天皇に告げ口して、宮中から、追い出してしまいました。常磐会の推薦で当時の東宮女官長として送り込まれた彼女は、強い使命感と責任感で美智子に厳しく臨んだと思います。あの勝気な美智子がへこんだぐらいですから、教育者として厳しい方だったんだろうと思います。「適性の無い女を将来の立派な皇后にする」為に誠心誠意、指導したのですが、「悪役に仕立てられ」て、社会的に抹殺されてしまいました。牧野女史も三流女性誌と朝日新聞の気の毒な犠牲者です。
侍従長の入江相政(すけまさ)は、公家特有の陰湿な側近でした。美智子と男女の仲だったことも、皇宮警察などで根強い噂として語り継がれていますが私は、事実だったと思います。この噂は「反秋篠宮派」から、うまく利用され、「秋篠宮を貶めるときに入江実父説」として必ず浮上します。しかし、殿下と入江は似ても似つかないし、美智子はナル出産後は、胞状奇胎で流産し、「妊娠不能」になっています。
その後、入江と美智子は、香淳皇后の影響力を削ぐのに二人三脚の関係になります。有名な香淳皇后の側近の「今城(いまき)女官長追放事件」と言うのが有ります。これも、入江と美智子が組んで策謀したものです。
もし、機会が有れば記事にしてみたいと思っています。今城(いまき)女官長は、入江に「魔女」と言う烙印を押されて追放されました。しかし、現在の研究では、「冤罪(えんざい)」だったという評価が支配的です。 昭和時代、皇室で、美智子が権力を握っていく過程で、多くの支援者がいました。母の富美、入江、三流女性誌(皇室ネタを扱わなかった明星は廃刊しました)、朝日新聞です。
その入江も昭和60年、80歳を期に9月30日で、退職を決めました。ところが2日前の9月28日に突然急死します。私はこれも不審死だと思います。 未だ、「朝鮮女ヤクザ」の母の富美が健在です。正田富美は、小和田恒と同じように、娘が不適切な関係を持った男を丁寧に消して行く、恐ろしい習性を持っています。
引退後の入江が、娘との親密な関係を、ぽろっと漏らすのを恐れたのでしょう。
研究のために、Amazonで、「ゴミ価格」の1円になっていた「入江相政」日記を美智子入内以来の、昭和33年から、6巻購入しましたが、取り寄せて、歴史研究の史料価値が全くないことがわかり、腹が立ちました。
古来から、天皇側近の日記は、将来、他人に見られることを前提に書きます。天皇側近に限らず大久保利通や有名政治家の日記もそうです。従って、先ず自分に都合の悪いことは書きません。更に驚いたのは、日記の監修を実の息子の為年が監修しています。利害関係のない、公正な第三者、例えば、東大の歴史学の教授などが監修するなら信用できますけど、利害関係ありありの倅の監修ですからね(笑)親爺にとって不都合な記述は先ずその段階で削除しています。
そして、出版社が朝日新聞社と言うのにも驚きました。入内以来一貫して美智子を擁護してきた入江の日記を朝日が出版。朝日新聞と言うのは、御妃候補以来の美智子のサポーターで、皇室を美智子中心に取材することで、莫大な利益を あげてきました。美智子はキリスト教左翼で「反安倍」です。朝日も「反日」かつ「反安倍」です。
昭和天皇が没して、平成になって以来、三流女性誌「美智子自身」ともども、朝日は「香淳皇后バッシング」を主導しました。 朝日新聞は正確には「ちょうにちしんぶん」と読むそうです。朝鮮日報の日本版ですね。母から朝鮮人の血をひき、皇室の血を一滴も受けていない徳仁が即位したら、「朝鮮人の宿願」の達成です。
佐伯の写真も確定したし、後はDNA鑑定を実施するだけで、「朝鮮人による日本乗っ取り計画」を阻止できます。皆さん、根気よく官邸メールを続けましょう。
=================(以上、転載終わり)
今上様に関する記事はこちらから!
いかがでしたか? 確かにこの写真、そっくりですね♪ 見て子さん托卵が事実であれば、日本の皇室始まって以来の大スキャンダルであり、見て子はギロチンにかけられてもいいほどのド悪魔です。見て子さんを見ていて思うのは、若いころの写真、現在の写真、色々見ても、目が全く笑っていないのです。これって、ゾッとしますよ。つまり、全てが作り笑いということ。あの目の奥にはおぞましい、醜悪な穢れを感じます。母親の正田富美も同じで、全く目が笑っていないのですから。
先日地元に帰省した際、母親に皇室話をちらっとしてみました。まずは後退氏殿下の人毛のお帽子を常に御被りになっていることについて。母親は全く気が付かなかったようで、「ええっ?カツラ?」と驚いてましたわ(笑)そのあと、何を思ったのか寝ようとしてた父を呼び戻し、「お父さん!お父さん!後退氏殿下はカツラってよ!!ねえ、カツラかぶっとるってよ!」と大事なことなので二度言ったようです(大笑)それに対し、父は「オレは後退氏は好かん〜!ありゃあ、何もせん(何もしない)ただの珍竹林たい!」と、寝る前に直球ストレートすぎる発言(笑)
そして、雅子の実家についても教えておきました。母親も雅子の実家がチッソ関係らしいとは知っていましたが、張本人である社長の家であり、江頭2:50と親戚関係だと教えると、「ええっ!チッソの社長・・それは知らんかった」と。そして、愛子内親王の障碍についても教えておきました。そうしたら、「チッソは水俣病で恨まれとるけん、そういう因果応報でなったとかもね(愛子内親王の障碍、逆さバイバイなどについて)」と。雅子の園遊会10分出席とジンギスカン朴リのトンズラも一緒に話しておきました!母は雅子が大嫌い、最初は同情してましたが、余りのおさぼりと自分勝手さに今や真逆。「とっとと離婚して、愛子さんを連れて実家に帰ればよか!」と言っておりますわww
今回は赤い反日女帝の見て子さんについては、反動が大きすぎると思って詳しく話しませんでした。ただ、あくまでも噂として托卵疑惑があることだけはちらつかせましたが、あの年代はミッチーブームに浮かれた世代でもあり、あこがれの存在として見て子がいる世代ですから、知らせ方は難しいですね。地方に住んでいる情弱の年寄は特に。
親朝鮮、親シナ、親反日、反祭祀、そして何よりも反日の工作活動を行うようであれば、内廷皇族だろうが、排除すべし! 日本国と国民の為に祭祀を怠らず、公務に真摯に臨まれ、国民から愛され尊敬される皇族が我が国の元首となることが、皇室を守ること、日本を守ることなのだと思っています。今や、祭祀を外務省から出向でやってきた雅子の実父の子分のような人間にやらせて祭祀を怠る祭祀王のせいで日本列島には次から次に自然災害という名の神々の怒りが注いでいます。天皇と雖も反日活動を行い、謀反ということにでもなれば追放もあってしかるべきでしょう。
これで国民から全く尊敬されず、愛されてもいない、反日で底なしのバカ、娘の養育放棄をするわ、影武者を使うような後退氏負債が即位するようなことがあれば、我が国には神々の怒りが爆発し、地獄の業火で焼かれるようなことが勃発するのではないかと、本当に恐ろしくなりますが、そのようなことがないように祈り、行動を続けたいと思います。
https://ariesgirl.exblog.jp/25273961/
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2016年01月17日
托卵説はほんとうか?
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/4998601.html
他の皇室ブログをもうすでにご覧になっている読者の皆様にはこの記事をなかなかアップすることができなかった。確信は持てないし、さてほんとうにそうなのか?そんなことがあり得るのか?いくら美智子さんでも皇室入内前に朝日の記者と?と疑問は膨らむばかり。
皆様ご存知のでれでれさんと伏見さんのブログからも引用させていただき、まとめてみた。
まずは美智子さんの結婚前の写真。これらの写真はとてもきつい女性のように感じられる。慈愛の美智子さまは結婚後マスコミが作った虚像だったのか?
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左の写真を拝見すると、皇太子妃になってからの下の写真はどこかのクラブのママのよう。こんな所作をなさっていたとは驚き。
1959年4月10日明仁皇太子と結婚、マスコミによる一大ミッチーブームを引き起こす。
翌年1960年2月23日に浩宮徳仁親王が誕生した。結婚からちょうど10ヶ月で誕生。今でいうハネムーンベビー。
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現在結婚相手とは違う子を妊娠する「托卵女子」が増えているというではないか。恐ろしいことだ。DNAで調べられたら一発でバレる。
托卵(たくらん)とは、卵の世話を他の個体に托する動物の習性のことである。代わりの 親は仮親と呼ばれる(Wikiより)。
いくらなんでもそんなこと、あり得ない、と今でもまだ信じられないのだ。
では相手は?
それが婚約前から正田家に出入りしていた朝日新聞記者の佐伯晋。この人のWikiが出てこない、若い頃の写真も出てこない。
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1960年3月12日 ナルちゃん出産後、退院する美智子様
車の窓を開ける美智子様に、牧野純子女官長がきびしい顔
この窓を開けた行為はこれから伝える朝日新聞記者の佐伯氏に撮影させるためだったと言われている。
ところが浩宮さまが托卵では、という噂が流れており、写真の検証までネットでされているのはすでにご存じ。
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<佐伯晋さんプロフィール>
1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。
この人がなぜ正田家にひとりだけ入れたのか、ご自分で書いたものが10項目にわたって証言している。
美智子さま邸へ「潜入」せよ 「秘密のルート」は「裏木戸」 元「お妃選び班記者」の取材ノートから(9)
2012年5月5日 7時40分
http://news.livedoor.com/article/detail/6530022/
(前略)
現地に行ってみると、五反田の高台にある正田邸の正門に向かって2、3軒左隣が疋田さんの実家だった。疋田家の裏口を出るとZ字形の狭い路地があり、正田邸の生け垣に行き当たる形で続いていた。そこに正田邸の裏木戸があった。正門からは完全に死角だけど、当然カギがかかっている。
疋田家に戻って正田邸にいる美智子さんの母、冨美さんに電話をして、「裏木戸を開けて下さい」って頼んだら、冨美さんは笑いながら「いいわよ」と言ってくれた。行くとお手伝いさんが裏木戸を開けて入れてくれた。最初に裏木戸から入った日の時間帯は遅い夕方だったかな。あとはこのパターンの繰り返し。
ご婚約発表の日の美智子さま 記者はご実家の中からお見送りした 元「お妃選び班記者」の取材ノートから(10)
2012年5月6日 10時20分
http://news.livedoor.com/article/detail/6532040/
佐伯 他社の人たちに見られてはまずかろうと、奧に引っ込んでいましたけどね。前日の11月26日夜にも遅くまで正田邸内にいたし、27日も朝早くから邸内にいました。その間、会社や自宅に戻って寝た記憶はないから、近くに待たせていた会社の車の中で仮
眠したのかもしれない。
11月27日の発表当日の朝は天気もよく、美智子さんは「よく眠れた」とすっきりした表情で話していた。美智子さんは7時すぎから入浴したり、父の英三郎さんと2人だけで食事したりして過ごした。宮内庁から派遣された男性も正田邸へ朝から来ていたが、正田家の人から聞いたのか、ぼくが新聞記者だとは気付いていたようだった。「何で記者がこんな所にいるのか」とは思ったろうが、外へ追い出すわけにもいかず、何となく見て見ぬふり、という感じだった。
佐伯 ご婚約発表から30年近くたった1987年の秋、朝日新聞主催の催しに皇太子ご夫妻がお出ましになり、社長以下役員が2階のコンコースに並んで送迎した。役員になったばかりで50代半ばのぼくは、端っこの方でお見送りしていた。
美智子さまは通りすがりにぼくの顔に気付き、つと立ち止まって「まあ、お懐かしい」と、しばらくの間、感慨深げにぼくの目を見つめておられたから、お付きの人を含めたご一行の流れが止まってしまい、ご先導役が慌てている様が見えた。ぼくは、感動しながら「ご無沙汰しております」とお答えしました。お元気そうで安心したのを覚えています。
さてここで写真の検証。他の皇室ブログに何度も掲載されている写真だ。
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この向かって左側の男性は上野動物園園長の林寿郎さんとも言われている。
確かに似ているが。
下記は日経ビジネスに掲載された当時上の動物園飼育係長の写真。
1951(昭和26)年、単身でケニアにカバを買いに行った林寿郎さん。
写真転載禁止というのでサイトを貼った。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090910/204471/?SS=nboimgview&FD=1185582351
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この時の映像が下記でみられる。
最後に伏見顕正さんのブログの抜粋:
上の写真を見ながら読むとわかりやすい。
全文は下記サイトへ:
http://blog.goo.ne.jp/duque21/e/07f5a6b110e1e1faaf15adbd4c58dd9a
でれでれ草さんのブログの「お猿の電車」の動画を見ると、良くわかります。美智子の真後ろに座っているのが園長でしょう。向かって右の男性です。まったく「アク」が有りません。屈託のない笑顔です。
その反対に、ナルの後ろの向かって左側の男、横柄な佇まいと不敵な笑み、「釣り目」がナルにそっくりの朝鮮顔です。張本勲から暴力性を抜いて、知的にした感じ(笑)
あの、腕章をつけて、高級な社用車に載って、社旗(旭日旗)を掲げて、威張って乗り込んでいくのです。
★動物園の園長さんが腕章をすることはないし、する必然性は全くないと思
ネットで検索すると、有名な写真が出てきます。美智子がナルを出産して、病院から車で退院するときの写真です。ナルを抱いて、車の窓を開けて、白狐のような顔で微笑む不気味な写真です。
写真を撮ったのは、佐伯で、美智子は佐伯に対して微笑んだのでしょう。それと対照的な隣の牧野女官長の厳しい表情とまなざし、この時牧野女史は、「寒いのに窓を閉めなさい」と注意したそうですが、私には女官長の目がナルを凝視
しているように見えます。この時すでに「皇太子に似ていない」と直感したのではないでしょうか?これは、私の推測です。
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気の毒に牧野女官長と言う人は、正田富美の女性誌(特に女性自身、別名、「美智子自身」)への工作や、朝日の印象操作により、【美智子妃苛めの虚構】が世間に流布され、その中心人物に仕立て上げられてしまいました。
最後は、香淳皇后の力を削ぎたい、入江侍従長が美智子と結託して、有ることない事昭和天皇に告げ口して、宮中から、追い出してしまいました。常磐会の推薦で当時の東宮女官長として送り込まれた彼女は、強い使命感と責任感で
美智子に厳しく臨んだと思います。あの勝気な美智子がへこんだぐらいですから、教育者として厳しい方だったんだろうと思います。「適性の無い女を将来の立派な皇后にする」為に誠心誠意、指導したのですが、「悪役に仕立てられ」て、社会的に抹殺されてしまいました。牧野女史も三流女性誌と朝日新聞の気の毒な犠牲者です。
侍従長の入江相政(すけまさ)は、公家特有の陰湿な側近でした。美智子と男女の仲だったことも、皇宮警察などで根強い噂として語り継がれていますが私は、事実だったと思います。
この噂は「反秋篠宮派」から、うまく利用され、「秋篠宮を貶めるときに入江実父説」として必ず浮上します。しかし、殿下と入江は似ても似つかないし、美智子はナル出産後は、胞状奇胎で流産し、「妊娠不能」になっています。
その入江も昭和60年、80歳を期に9月30日で、退職を決めました。ところが2日前の9月28日に突然急死します。私はこれも不審死だと思います。
さてみなさんはどう思われるか?信じがたいことだが。
いまだにこれが本当なのかわからない。
真実を突き詰めるならDNA鑑定をお願いするしかない。
その鑑定も第三者機関でやってもらうべき。
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/4998601.html
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