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な〜んだ日さん、レス(http://www.asyura2.com/07/lunchbreak9/msg/333.html)くれていたのかぁー、気づかなかったよぉー。
何度か見ていたんだけどなー。
読んでみて思ったんだけど、どうも日さんとは、“真理”と“今”についてお互いに相違があるように感じるんだ。それは日さんも感じていることだと思うんだ。
まず、俺の考える“真理”って言うのは、完全に客観的なものだと思っている。そしてその客観的というのがクセもので、人は主観でしか事象を把握し、認識することができないから、客観的というものを世界の中に見出そうとするのは不可能でしかないんだ。世間で真理と呼ばれているのはあくまでも大多数の主観から把握されたものでしかないし、さらにそのことを把握し、認識することすら主観から独立して把握することなんてできないんだ。つまり、これが真理だと呼べるものは全て、主観に依存したものでしかないということだよ。
だからこの世界のものは何一つとして決して客観的とは呼べないものであり、そして真理ではないと思っている。
そして、“真理”を原因と言う意味で用いるなら、それは、すべての根本的な原因でなくてはならないはず。で、根本的な原因は主観に左右されるものであってはならないはずだよね。つまり主観に左右されて何かが存在するのであれば、つまりそれはその主観が根本原因ということになってしまって、主観が真理だと言うことになってしまう。もちろんこの世界において、主観的に捉えられたもの全ては、主観が原因だと俺は下のスレにも書いているんだけど。ただ、だからと言って主観が全ての根本原因であり、真理かと言えば、そうではないと俺は思っている。それは主観を成り立たせているものは何かという問題へとなるのだろう。つまり言い換えるのなら自己とは何かという問題になる。
ただし、この自己も主観で認識されたものは、主観に依存したものであり、主観の原因であるところの自己とは呼べず、それを俗に言う自我として俺は区別している。つまり「これが自己だ」と呼べるものは、主観に依存したもので、自我でしかない。自己は把握しようがない。
ちょっと脱線ぎみかもしんないけど、つまりこの世界には客観的と呼べるような真理は無いと思っており、そして、真理と対比させて使う真実というものは、あくまでその人の主観的に採用した真実という意味で、俺は使っている。
また、“今”って言うのは、少なくとも二種類の意味で考えられると思う。
まず、一般的に意味するところの“今”というのは、感覚で捉えられたものを記憶(過去)と照合させ把握し、そしてその連続性、つまり未来の予測を加味して認識できた状態だと思っている。ちょっと難しい表現しちゃったかもしんないけど、例えば視覚なら、見えていると把握できている状況が今ってこと。目の前の状況が今ってこと。
ただし、それは最低限、過去の記憶と未来の予測が無ければ“概念として”認識することはでき得ないということだろうね。
そして、もうひとつの意味する“今”とは、厳密に捉えた“今”といった感じ。つまり、上記で書いた一般的に意味するところの“今”というのは、あくまでも感覚を通して“今”を認識するわけだけど、それは「感覚→照合→把握→認識」という一連の作業を通じてのものなんだ。だからそれらを意識下では瞬時に行っているとは言え、厳密には時間差があって、“今”ではありえないわけなんだよ。つまり「これが今だ!」と叫んでいるうちに“今”は通り過ぎているという感じなんだよ。だから“今”は絶対に世界の中に見出すことができ得ないはずなんだ。
だけど、それは見出せないだけであって必ず“今”というのはあるはずなんだ。それはこの世界を成立させているものだからなんだ。つまり、“今”が無ければ過去も未来も存在できやしないということなんだ。
さて、ここまで書いて “今”と“真理”との類似性を見出せると思う。
一般的に意味するところの“今”は、感覚や記憶や思考などの主観から把握された“今”であり、主観に依存した“今”であり、「これが今だ!」と感じることのできる“今”である。それは真実(真理ではない)と同じ意味にも捉えられる。
また、厳密に捉えた“今”は、主観から独立しており、「これが今だ!」とは決して言うことのできないものである。つまりこれは真理と同じだ。
さらに、自己と自我の類似性を加えて、図式化するとこうなる。
●「一般的な今」≒「真実」≒「自我」≒「主観的」≒「根本原因ではない」
●「厳密的な今」≒「真理」≒「自己」≒「客観的」≒「根本原因」
で、「今に生きる」と言ったときの“今”が、前者の「一般的な今」の意味であるのなら、簡潔に言うと、その瞬間の知覚されたものだけに対する生き方といった感じだろうか。これはその瞬間を認識するための最低限の記憶(過去)と、それが連続しているという予測(未来)だけが含まれるということ。
一方、後者の「厳密的な今」の意味であるのなら、全ての感覚、記憶、思考などの助けを借りず直接の把握というかなんというか・・・、つまり何って言ったらいいんだろう状態。それは、生きているという観念が成立することのできない、つまり生きているとも死んでいるとも言えないような状態だろうか。
つまり、「今に生きる」というのは厳密には矛盾した言い回しでしかないことになるのだろう。
さて、日さんの言う「今に生きる」とはどの辺りのことを指すのだろうか。
>過去を吸って、今に溜め、未来に吐く。
>この一連の動作が今に生きるということです。
>間違っていようとも、吸った(経験した)からには、吐く(行動する)しかないという事でも有ります。
上記の言葉を言い換えると、「経験し(過去)、それを溜め(今)、行動する(未来)」という一連の動作が「今に生きる」ことであるということなんだけど、それは上記で言う「一般的な今」という意味における「今に生きる」よりもさらに広げたように感じるんだ。
「経験した」というのは、かなり広義で捉えることができる。
ひとつの事象を把握し、認識するときに、それはなんらかの経験が裏づけ(味付け)となっている。りんごを見た時に、美味しかったという経験もすれば、まずかったという経験もする。虫喰い状態のりんごや、見た目は綺麗だけど農薬付けのりんごがあるという経験もする。それを食べた時にりんごの皮が歯に詰まって痛かったとか、とにかく色々な経験を通して主観的にりんごを認識して行く。そしてその経験が多ければ多いほど、りんごを見た時にあれやこれやと考える時間が必要になるのかもしれない。
そして、「行動する」ということなんだけど、それが未来であるためには、今の状態は行動する前でなくてはならないだろう。つまりどのように行動をするかを想像したり、予測している段階となる。で、それもまた、経験が多ければ多いほど、次に取るべき行動の内容が広がり、その選択に時間を要することとなるのだろう。
つまり、何かを知覚した時に、あれやこれやと考えて、それへの対処に時間がかかればかかるほど、“今”からは遠ざかる生き方になっていると言える。世間を見ると、それはよく分かる。一般的に経験の浅い子供ほど決断は早く、経験豊富な年配者ほど、ねちねちと考え込む。もちろん何かに盲信したり、依存したりして思考怠慢しているときは別だけど。
また、あらゆる面を経験し尽くすと、良い面と悪い面などの全てを知ることになり、次の行動が経験則を使って計算的にできなくなるまでになってしまうと俺は考えている。つまり完全に思考がショートしてしまう状態とも取れるだろう。だからまだ、意識的に経験から何かの行動を取れている状態なら、まだ経験し足りないとも取れるかもしれない。
また、思考がショートした時に取れる行動は、経験を捨てた行動と言うところか。ただ、それが起こりえるかどうかはわかんないけどね。
また、ここで日さんは、この「経験し(過去)、それを溜め(今)、行動する(未来)」という一連の動作を、呼吸と関連付けして書いている。もちろん人は呼吸のように、行動して、経験せざるをえない生き物だと俺も思っているよ。
ただ、呼吸は無意識的に行う動作であり、決して意識的ではないよね。意識して吸ってぇー、吐いてぇーとやっているのは、出産まじかの妊婦だけだろう。
だから、ここでひとつの疑問として浮かんでくるのは、この一連の動作は、無意識的なものか意識的なものかという点だろう。
一連の動作が無意識的なものなら、それは限りなく“今”に近づいた生き方とも言えるかもしれない。なぜならそれは認識から決断までが自動化されたものであり、瞬時に行われるものだから。
しかし、日さんの一連の投稿からは、無意識的ではなく、むしろ意識的に未来を望むべき方向へと行動しようとする意図が見受けられるから、日さんの言う「今に生きる」は意識的なものだと俺は認識している。
と、とりあえずここまで。