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(回答先: Re: 投稿者 日 日時 2007 年 12 月 14 日 02:04:20)
日さん、こんにちは。
引用された http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/1190.html 【Re: 組織にとっての「俗」と「聖」 [日さんへ] 投稿者 日 日時 2005 年 7 月 19 日】は、 http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/1189.html 【組織にとっての「俗」と「聖」 [日さんへ] 投稿者 如往 日時 2005 年 7 月 18 日】へのレスでした。阿修羅がサーバーの移行時期にあったのかどうか記憶が定かでありませんが、おそらく何らかのサイトの不調が重なるなどして、スレの中には欠損を生じたものやスレ自体が消失したものがあったのではないかと想われます。因みに当方にアーカイブしてあるものは以下の通りで、後半部分も収められています。
<以下引用開始>
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お話下さった如往さんのスタンスには何等異存はございません。ほぼ一致しております。故に真摯に受け止めたく、お求めに応じたいと思います。それは以前如往さんも書いておられましたものと同じ原体験であるかと推測しており、そこから触れてゆくことがご理解いただける共通の心象風景ではないかと思量します。
3歳頃に頻繁に見た2つの夢。そのひとつ。
自分ぴったりの鋳型にハマッテ、五体感覚はあるのに動かせず、視力はあると思うのに視界には何も無い。同時に極大と極小までの膨張と収縮感が伴っていました。
多分光はあるのでしょう。しかし映し出す物体が無いから闇も無い乳白色の世界でした。
移動感はありながら、時速1ミリなのか光速なのか、はたまた落下なのか上昇なのか、前進なのか後退なのか見当もつかず、何時終わるとも知れぬ孤独な永遠の一人旅です。
寂しくて苦しくて発狂しかかりながら、何時しか絶望し、やがて疲れ果て、自我を保有し続けられなくなり無に溶け込もうとする時に、ある種安らぎすら感じつつリラックスし始めました。
するとその時遥か彼方に微かな点が視界に現れました。まだ物体は点でしか無いというのに、それが何だかは当然の如くにすぐに悟ることが出来ました。
それは寸分違わぬもう一人の自分。同じ境遇で全く同じ孤独な飛行をして来たことが痛いほどに判り、同時に互いの存在に気づいたことすらも理解し合っていました。
両者はやがて接近し目を見交わすと、「やあ、ようやく遭えたね。でもこれが永遠のさよならだね」と心で挨拶し、再び点となって遠ざかりやがて視界から消え去った。
涙が溢れてしようが無かったけれど、それがあたかもこの旅の終わりを告げるものだと分けも無く感じつついると、やがて何かを語りかけるような見知らぬ顔や見覚えのある親しい顔達が、パッパとフラッシュバックで浮かびだし交差する映像が出現し、その最中で毎回目が覚めるのでした。
これを当時繰り返し夢見て、覚めてはその度に、傍らには両親がいて泣き叫ぶ私をあやすのです。
「よっぽど怖い夢を見たんだね。でもほらお母さんも父さんもここにいるよ。一人じゃないよ」
しかし私は泣き止まなかった。
(それが何だ。父母が何だ。そんなもので癒されはしない。)
それが3つの幼児の感じた孤独と絶望。そこがスタートです。
やがて高校生にもなった頃、その夢が母親の胎内から出産した時の記憶であることを理解しました。フラッシュバックで現れた映像は、肉親やその交友関係者の笑顔だったのです。
あの時に受けた衝撃はその後の現実を測る価値観になりました。全てを疑いざるを得ない。何事もまやかしで、永遠足りえない。愛と自由も100年と持たない幻。ならば帰着すべき場所に妥協は無い。あの苦しみは2度とごめんだ。そこを目指して見れば、この世の生活などはひと時の瞬く間の遊びに過ぎない。この一生など何ほどのことも無い。この世の栄華盛衰も来世の途上へのひとコマとして受け入れながら、視野はその遥か彼方に置いていました。
そんな思いから18の時彼女と友人と3人の秘密結社を作りました。目的は世界平和、戦略は目的を持たないこと(目的を掲げれば、意見が割れたり、それを見失った時、組織はすぐ存在意義を見失い、解散するだけだから)。
又、どこかに存在するであろう同様のグループをも想定して、それとのスムーズな合流をも予見した秘密結社であるからにはグループの名称すら不要であるという理念によって、結成しました。これはすぐに胡散霧消しました。
その直後、地元新聞にある広告が掲載されたのです。「目的を持たないことを唯一の目的とする会」への参加を呼び掛けるものでした。そのタイミングには随分と驚きましたが、結局その方の説明を聞く内に、(老若男女を問わずと謳いながらも、同年代で集いたい)と言う本音が伝わってきた時点で、身を退く事にはなりました。
主催者はパチンコ屋の社長で有り余る経済力を持て余したインテリ中年で、真摯な対応をしていただきましたが。。。
この会も3年程で解散報告が地元紙に載りました。主催者の支出でその自己満足のお付き合いを50人ほどがさせられていたようです。
それから11年、ただひたすらに念じ続けておりました。
この世界のどこかに同じ思いで結成された地下組織は必ず存在し、いつの日かその者達とどこかですれ違う時が来る。
それは一期一会であろう。そのチャンスが訪れても、こちらがその準備をしていなければ(アンテナを張り、チューニングし続けていなければ)、せっかく訪れたそのチャンスもふいにするだろう。それは絶対に避けねばならない。そんな勿体無い事は無い。
しかし、どうやって彼らを見分けられるだろうか?彼らは自己顕示する名前もない地下組織なのだろうし。。。
あるグループの一人Hとの出会いがありました。
当初彼の部下である営業マンA(グループとは無関係)と仕事上の付き合いでしたが、Aが得意先報告で文書でHに私を紹介したことから、後日頻繁にHが訪ねて来ては、仕事とは全く無関係な哲学談義や質問を持ちかける日が続きました。
それらに全て答え切っても反論はせずに、不意を突くような視点から新たな質問を更に投げかけて来るのでした。
「あなたは何故反論しないのですか?」「それらに対する答えを既に出している者がいると想定してみて下さい。それを提示すれば認めるしか無い様な認識の前に、議論などは無用だという事です。それを認められる者と認められない者の見極めをしているのです。しかし、又来ます(笑み)。」
それは隔週ペースで3ヶ月に及ぶ、互いの家の行き来(会食)でした。すっかり人格ベースで敬服してしまい、親しくお付き合いさせていただきましたが、遂に意を決してHの家で切り出しました。
「今日、今、その認識をお聞かせ下さい。でなければ反論不能として一方的に勝利宣言して、今日を限りに絶交いたします。二度とお会いする事はありません。」といって腰を上げ、ドアに向かいました。
それでも渋るHに奥さんが「負けたがってるんだから負かしてあげなさいよ」「3ヶ月で伝えるのは異例だが、仕様が無いな。そのかわり。。。」「判ってます。」「・・・」
それは限りなく不可能とも思える願いが叶った瞬間でした。しかもこちらの想定を遥かに超えた理念を持ち、あらゆる見解、思想の原点、土台、出発点として、非常にシンプルかつ重厚な実践をするためのグループでした。
以後7年の間このグループである実践を行なっておりました。では何故そこを離脱したか?ここまでしかお話できません。
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<以上引用終了>
当時は言葉にしませんでしたが、問答の様子から見てH氏の思潮は“ヤマギシイズム”を淵源にするものではないかと感じていました。もしそうであるのならば、無神論的世界観を基調とする“ヤマギシイズム”と日さんの霊的体験(信仰?)との間には齟齬が免れ得ないのでは想われたのですが、離脱された理由を含めて今も尚事の真相は不明のままです。
「それは彼方がそう想われているだけでしょう。」と言われるならば、話はそれで終わってしまうのですが、私は、人間には自律的もしくは天与の存在意義はあり得ず、したがって創造していかなければならないものと捉えています。これを基本認識にしながら阿修羅板上では過去にも日さんをはじめ何人の方々と遣り取りをさせていただきました。
その一環でもあるのですが 私はGemeinschaft(共同体)社会へのプロセスとして、Gesellschaft(協同体あるいは協業体)が連合して形成されるような社会の構築を模索しています。おそらくその点では日さんの構想と一致するところが少なくはないと想っています。けれども、私自身は無神論を旨としておりますので、日さんとは根本の処では少なからず捩れが認められるものの、それを暫し脇におくならば“論理(性)”を中心に据えて諸問題の解決を図っていく他には方途がないのではないかと考えています。
そして、自身が論理的に確信が持てないことを他者の情緒や想念に訴えてまで遂行することを好しとはせぬ故に、パートナーとして認め合うためには自身のものを含めてそのことを為そうとする“動機(性)”を確認しなければならないと考えています。これには何もあらたまった状況設定を要さず、ネットの掲示板上もある種の可能領域であると思っています。一般論としても、何故その事業を為そうとするのかを動機から明らかにし、さらに事業内容を説明するためには現地に来てもらうのが有効である旨を説明し、率直に来訪を要請してもよいのではないでしょうか。しかし、来訪者がいなかったり来訪者の本音を知って失意に駆られることになったりしたとしても、その責は己に帰趨するのであり、全ては諦める他はなくそれ以上は深追いをせぬことです。
さて、今回のことに関しては極々シンプルなことをお尋ねしているつもりだったのですが、意に反してあらぬ方向に行ってしまったようです。けれども、人間社会の中では非常に有りがちなことでもあり、しばしば同じような結末に至ります。たとえば、必ずしも他者はクラッチのようなエネルギーの受け手ではありませんので、一方的な伝達はできないでしょう。また、始めのところでギアの噛み合せを蔑ろにすると後に軋みを生じかねませんので、少なくとも互いのピッチを確認しておくことが必要です。そのための拠り処ないしは座標を提供するのが“論理(性)”であり、物事に対処していくエネルギーの源泉が“動機(性)”にあることは言下を待たないと思量します。
また、会いましょう。