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(回答先: もう何を言っても無駄状態ですか? 投稿者 日 日時 2007 年 10 月 26 日 22:30:03)
真理とか主観とか客観とか、別に性急な受け止めで何も論じてはいないよ。真理とは何かについて辞書に書いていることを書くように、ただ言葉の定義をしているだけで、それについては何も知らないし分らない。また、その言葉の定義からすればこの世界には決して見当たらないし、知り得ないって言っているだけだよ。
例えば、「絶対的な死」とは何かと言った場合に、それは全ての全面的な死だから、決して知り得ないということ。それはなぜかと言えば、知ることすらも死んでしまうから。
そして知る以外の把握の仕方があるのならそれでいいけど、その把握するという行為は、死んでいる行為でなくてはならないはずで理解に苦しむ。また、その把握する行為を知っているということは、なおさらどこか矛盾した表現になるし、少なくとも俺は知らないというだけのこと。それは、俺が全ての全面的な死を知ってしまっているわけじゃないから、それを何も論じてはいないし、論じることはできないだけのこと。そしてただ言葉の定義をしているだけ。言葉の定義とはそれを指し示す指(言葉)であって、それではない。
「真理」もそう。「無」もそう。「今」もそう。「自己」もそう。「個性」もそう。
それは何も知り得ない。
ただの言葉。ただの論理。ただの哲学。ただの思索。ただの主観。それ以上でもそれ以下でもない。
ただそれだけ。
むしろ、真理とは何かについて、性急に回答を見つけてしまっているのは日さんじゃないのかなあ。一つの世界観を命がけで突っ走っているわけだし、それは要するに日さんにとっては真理なんでしょ?
で、その、真理かどうかは知らんけど並行宇宙という考えには別に新鮮さを感じていない。それについては、多少世界観は違えども文章表現としては色々と知っているし、さらに詳細に知っている。連続同時という矛盾した世界観を認識する為の方便も知っている。だから何だというわけではない。所詮本の中の情報に過ぎない。夢の中の情報に過ぎない。体外離脱による情報に過ぎない。チャネリングによる情報に過ぎない。
また、それが日さんの独創的な思索に基づくものだとしても、所詮思索の内のレベルだろうし、それはつまり主観の内のレベルじゃないかな?
まあ、それはどうだっていいことだけど、少なくとも、俺にとっては、俺の主観に現れた日さんという人物の思索に過ぎないというだけのこと。本と同じ情報の範囲内に過ぎないというだけのこと。
その行為が真理であるとか、真理に結びつくかどうかとかは知らないけど、論理的には、辞書的には、哲学的には、言葉の定義的には、“真理ではない”というだけのこと。
どれだけ積まれてもただのガラクタ。ただの玩具。ただの思索。ただの主観。それ以上でもそれ以下でもない。
ただそれだけ。
もちろん、この真理についての議論もただのガラクタに過ぎないし、ただの玩具。ただの思考ゲーム。何を書いても、何を言ってもお互いに真理とは矛盾するし、真理を見出せない。
昔、犬が自分の尻尾を追い掛け回すのを見た。追いかけても追いかけなくても状況は同じ。
どーでもいい。