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下村湖人の「哲学」の紹介(「人間生活の意義」)
http://www.asyura2.com/07/idletalk22/msg/549.html
投稿者 heart 日時 2007 年 2 月 14 日 00:53:45: QS3iy8SiOaheU
 

以下、下村湖人(「次郎物語」の著者)が「人間生活の意義」(下村湖人全集7)の中で書いていることを部分抜粋します。
真の愛とは、命とは、良心とは何か、ということを、国家や社会との関係において述べてあります。
私は下村氏の考え方に今のところ全面的に賛同します(下記にはありませんが彼は天皇を尊敬しており、その点のみは承服しかねると思っていますが)。

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・・・「自律的なる自己創造の力」これが生命の本質であります。・・・

・・・本能の統制と云い、文化の創造と云い、それらは、畢竟人間の心に「当為の意識」というものがあるからの事であります。
「当為の意識」と申しますのは、「こうしてはならない、こうしなければならない」という自覚的な心の要求であります。
この要求があればこそ本能の統制も行われ、文化の創造も行われるのであります。
そしてこの意識の根元はやはり知能であります。
最初は利害の観念――それも目前――と云ったようなものにすぎなかったと思われますが、知能がだんだんと広くかつ深い立場からものを判断するようになり、いわゆる理性の域にまで達すると、単に生活の手段としての「当為の意識」だけでなく、心の絶対的要求としての、「当為の意識」が生れてくるのであります。
それがいわゆる至上命令であり、良心の叫びであり、神の声であるのであります。
本能もかような意識によって統制されてこそ、真の統制であり、文化もかような意識の所産であってこそ、真の文化であるということができるのであります。
 この意識がかような高度なものになると、もはやそれは個々人のものではなく、人類に普遍な、いわゆる古今に通じてあやまらず、中外に施してもどらざるものとなるのであります。
人類の生活は万人がこのような意識に到達したときに、はじめて真に統制されるにいたるでありましょう。
 しかし、人間の生命は、そうなっても決して画一化されるものではありません。
画一は断じて統制ではないのであります。
また、そこで生命の自己創造がとまるわけでもありません。
すでにのべました通り生命は無限をおうて進むものであります。
人間は、その生命のすぐれたる自律性と創造性とによって、ますますその個性を鮮明にし、独自の能力を発揮せしめ、それらを基礎として独自の業績をあげて行くでありましょう。
そして、それらの個性的にして独自なるものが、各々その所をえて、一民族、一国家内に組織立てられるときに、その民族、その国家の独自なる文化があり、さらにそれらの文化が、各々その独自性を保ちつつ、矛盾なく全人類的に綜合せられるときに、人類の真の文化があるのであります。
そして、かくの如き文化の建設に貢献せんとする生命の要求こそは、人間が持ちうる最高の当為の意識であり、人間が、その永い経験の集積によって定めた生命の方向なのであります。
現在人類は、たしかにこの方向に向ってその歩武を進めつつあります。
それは実に普遍的なる人類の意志なのであります。
 かように考えて参りますと、人間においては、その自己創造は、単に個々人としての自己を創造するだけでなく、隣人を、民族を、国家を、そして人類を包含するところの自己を創造することでなければなりません。・・・

・・・大事なことは、自分というものは、決して自分だけの自分ではない、ということであります。
自分の中には、父母があり、弟妹があり、隣人があり、社会があり、国家があり、人類があり、そして宇宙の森羅万象があり、これらのものの力が綜合せられて、自分という一個の生命を形造っているのであります。
反対に、自分もまた父母や、弟妹や、隣人や、社会や、国家や、人類や、そして宇宙の森羅のなかに、何等かの形で自分の力を滲透させているのであります。
そしてこのことは、自我意識の明、不明にかかわらず、真実であります。
ただ自覚の度が高まるに従って、この真実に眼をさますことができますが故に、自律的に、自己創造の内容を深めることができるのであります。
 自分が自分だけの自分でなく、自分の中に他がひそみ、他の中に自分がひそむ、という自覚が徹底して参りますと、最後には、自他不二とか、万法一如とかいう信念にまで進んで参りまして、その自己創造も、自分と他とを対立せしめての自己創造ではなく、それは実に社会国家の創造を意味し、人類意志と宇宙意志への奉仕を意味するところになるのであります。・・・
・・・生命の本質は自律であり、自律は努力であります。
努力なき無選択なる経験の集積は、自我の分裂を来すか、或は自我をして狡猾なる動物的欲望の団塊たらしめるかにすぎないのであります。
自我にも色々の段階がありますが、その最も幼稚なものは、この肉体を以て我の全部であるとする自我であります。
この自我の関心の範囲は全然一個の自分に限られております。
かりに他人のことを考えるとしても、それは自分の手段としてであって、他人の生命そのものを目的としてではありません。かような自我は肉体の死滅とともに、完全に亡び行く自我であります。
しかし、かような自我だけで生きている人間は、まず実際にはないと云っても差支えありません。
大ていの人は、家族の繁栄幸福を目的として生きております。
少なくとも子供だけは、自分の手段ではなくて、目的であると考えております。
こうなると、自我の関心の範囲は、個体の限界を越えて、他の個体にまで及んだことになります。
ここに人間の道徳の第一歩があります。
先に、生命あるところに道徳ありと申しましたが、人間界での道徳は、自分の生命を乗りこえて他の生命のために働こうとするところ、即ち、自我が他我を包含するところにその第一歩を有するのであります。
そしてこの自我は、個体の死滅を以て亡びるものではありません。
はっきりした自覚はないにしても、それは永遠を思うところの自我であります。
家族のために生きんとする心は、やがて隣人のために生き、社会のために生き、国家のために生きんとする心に発展して行きます。
そうなると、その自我はもはや無自覚なものではありません。
その中には深い理性の光があり、強い意志の力が働いています。
しかし、自我の関心の範囲が、そこいらで止まると、いわゆる、団体利己主義とか、国家利己主義とかいうような弊害におちいるのであります。
真に団体を愛し、真に国家を愛するものは、その団体、その国家をして天意に叶い、人類に幸福をもたらすようなものたらしめなければなりません。
そのためには、その団体、その国家に所属する人々の自我が、人類のために生き、天の心を心として生きるような、大きなものになっていなければならないのであります。
そして、そうなるように念々(ママ)努力して経験を集積して行くことが、真に生命の本質に叶う所以であり、人間としての自己創造の真義を発揮する所以であります。・・・
(以上、「人間生活の意義」(下村湖人全集7)より)

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