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(回答先: 癌や破壊を引き起こす役割はできればしたくないと思っております。 投稿者 haru 日時 2007 年 2 月 18 日 19:30:04)
Haruさん、こんにちは。
>【昨今の風潮では、生を尊ぶと云うものは失われつつあります。生きる目的、夢、希望も持ち得ない若者が増殖しております。生を尊ぶことすら否定せねばならない世とは、もはや家畜の世界と同等と云っていいのでしょう。
生も笑いも光もない世界にこれから変わってゆくのだとしたら、その生活を強いられる存在に与えられる自由とは死しかなくなるでしょう。
死が希望となる世界を私は望みませんので、生に対してこれを是とする価値観は普遍でなければならないと思っております。】
生きる目的、夢、希望を持ち得る必要があるのかどうかの問題はまずは別として、なぜ生きる目的、夢、希望を持ち得ない若者が増えているとお考えでしょうか。俺は、それは「死が希望となる世界を私は望みません」というような価値観、つまり死を悪だとする価値観が一つの要因としてそれを生み出していると思っています。つまり、死を悪だとすることによって、生に対して盲目的に肯定してしまい、生を見つめることをしなかった結果ではないでしょうか。
我々は、なぜ生きるのかに目を向けず、ただ生き延びる為に生を生きるというなんとも奇妙な価値観に囚われ、そして生き延びるために、競争し、いかに財を蓄え、資源を蓄えるかということの価値観を植え付けられ、押し付けられます。それは自分が生きる為、家族が生きる為、社会が生きる為、国家が生きる為に我々は生きなければならないということです。ただ馴れ合い的、盲目的に生を肯定し、押し付け合うことが自由の獲得と言えるのでしょうか。そういった社会のどこに生きる目的、夢、希望を持ち合わせたら良いのでしょうか。それこそ、「家畜の世界と同等」の社会ではないですか?
俺は死を良いことだとして肯定しているわけではありませんが、もし社会によって自殺が合法化(無害化)されたとしたらどうでしょうか。医療補助を受けながら肉体的に苦痛のない安らかな死を選択でき、そして自殺を許しあう社会ができたとしたらどうでしょうか。その時我々は初めて自分の意志において生き始めるのではないでしょうか。もう社会や家族や誰かが生きる為に生きなければならないというような被害者面して生きることではなく、真に自分の意志、選択、責任において生きることができるのではないでしょうか。その時初めて、心の底から生きる目的、夢、希望を持ち始めることができることになるのかもしれません。もちろん生きる目的、夢、希望に執着すれば、生に執着することになり、結果同じ事の繰り返しになるのでしょうが、その時は、生きる目的、夢、希望に対する存在意義を検証してみる必要も出て来るのでしょう。(これは検証すべきとか、繰り返しや執着が悪い事だという意味においてではありません)。
>【人間には未知の領域があり、言葉では現しきれない事も存在しているのではないでしょうか?遺伝子解析はできても、それは後手後手に過ぎません。ゼロからの創造を人類が行ったわけではないので、その解明、それ以上の存在の創造がないかぎり、信仰的なものが存在しない世界はこれからもなり得ないのではないでしょうか。】
俺は「存在の根本理由を知り得てもいないのに、肯定や否定をすることは、信仰的だ」としているだけで、信仰的なものが存在しなくなるとか、信仰的を止めましょうということで書いているわけではありません。もちろん我々の知覚能力では知りえないことはたくさんあるでしょう。ただ知り得ないからと言って、何かを良しとしたり悪いとしたりして、それをさも普遍的な概念として自分や他人に押し付けあうことを信仰的だとしているだけです。
>【人間が自らの存在を容易に変化変容させられるのであれば、自我は必要ないということです。しかし、輪廻転成が真実なのであれば、それは可能であるということなのでしょう。私はあなたでもあり、彼でもあるという事です。】
「自らの存在を容易に変化変容させられる」という自我が芽生えることでしょう。もしそれが輪廻転生ということなら、輪廻転生をすることができるという自我が芽生えるだけのことでしょう。
>【わたしは、感じ、知りましたが、理解は途上です。
何もせずとも、熱があり、呼吸し、見えないエネルギーを発している存在が私です。
こうしている今も、他を変化させています。】
熱があり、呼吸し、見えないエネルギーを発することで、それらや、その生が正当化されるということでもありません。
また少し議論から逸れますが、自分は何もせずとも、それらの行為を自動的にしてくれる存在をなぜ「私」と認識するかどうかにも考える余地はあるでしょう。自分が意識的にしているのではなく、誰かが、何かが勝手にそれらの行為をしているにも関わらず、それが私であるとなぜ決め付けるに至ったのかを。
<参考>
【「主体−作用−客体」の関係性における自己】
(http://www.asyura2.com/0601/dispute24/msg/642.html)
投稿者 アロン 日時 2006 年 10 月 30 日 21:57:38: 8bD0zxkq8P3mA
>【わたしは、理由があって存在し、役目を果たしているのに過ぎないと思っております。
私という存在が例え原子や細胞の様な存在であっても、
活性させ、躍動させる為に存在しているのであって、癌や破壊を引き起こす役割はできればしたくないと思っております。】
また、自然には生も死もトータルに存在します。破壊が無ければ変化も起こり得ません。Haruさんは一方で歴史や人生において同じことの繰り返しを嫌悪し、成長する(変化する)ことを目指しながらも、またその一方で、破壊を嫌悪し、変化するということに対して抵抗を見せているという矛盾に気付きませんでしょうか。