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(回答先: 所詮、思考怠慢状態からの見切り発車でしかないのかもしれません。 投稿者 アロン 日時 2007 年 2 月 17 日 08:24:08)
アロンさん、こんにちは。
度々のレス、恐縮です。
また、気になさらずにとの事ですが、わたしは大変ありがたく思っております。
多分私は、あなたとの思考の相似を感じているのだと思います。
このような公開の掲示板なので、普段ならよくよく考えた上でレスをするという準備というものがあるのですが、対話にとても意義を感じましたので仰る主張に対して率直に感じたレスを差し上げたいと思います。普段のレスに必ずしも作為があるというわけではありませんが、、。
>Haruさんは実は自らが間接的に宗教批判、信仰批判をしているということになりますが、どうでしょうか?
間違いありません。その通りです。
そして、私は今迄に信仰というものを持った経験がありません。
いわゆる、宗教による信仰という意味に於いてですが、知らずに知らずに親、そして様々な関わりから受け継いだ信仰的なものは別としてです。
>思考怠慢を無くそうと価値判断し、それに対して努力するという時点で、それは思考怠慢状態からの見切り発車しているに過ぎないと俺は思っております。
確かに、その通りだと思います。
しかし屁理屈かもしれませんが、自分がなぜ生きているのか、なぜここに存在しているのかと云う問いもないままの見切り発車的な人生の上に、現在の自我の形成があったのだと思います。
>苦悩や紛争や不安や恐怖や、そして思考怠慢などの世間一般的な意味においての諸問題の原因の一つとして価値判断があるのだとすれば、それを無くすこともできない個々の人間存在は果たしてそれら諸問題をなくすことができるのかは甚だ疑問です。
飢餓や天災を問題とした人類が、選んだ解決の道が今の世の中であるとの認識です。
問題を作ったのも人類であり、数多の選択肢の内、選んだ結果が現在であるという認識です。問題を創造したのが我々であるのなら、解決の道を創造する可能性も必ずしも否定できうるものではないと思っております。
>「自分の生に意義を与える為」というHaruさん自身のエゴの欲求を満たす為に、他人に対して“良い種を蒔こう”とすることが、果たして本当に良い種になり得ているのかは甚だ疑問です。
確かに、、、私は日々自分に問うておりますが、私の主観が私をある方向に導いているのを感じています。生きると云う事は、様々な関与なくしては有り得ません。そして、生きると云う道を選択した私が、唯一到達し得た道、それは自己の求めに応じる事です。
私は、音楽を嗜好しますが複雑な諸世界の中で調和と法則に沿う事で、一つの力が生まれる事を知りました。そのような創造を行う事が自己にも他にも影響を与える事を知りました。善悪ではなく、そのような創造が人生に楽しみを与えてくれるという事をも知りました。わたしは、自然が与えてくれる恵みを人類が超越する事はあり得ないと思っております。そして、自然を否定するような歩みは破壊と破滅に向かうと思っております。それも自然なのだという考察もあり得るかもしれませんが、その道に向かう事は、自己の存在の否定を意味します。私は、自己の生存と共に生命の尊重を選択しましたので、上記の様な歩みは選択したくはありません。
>「自分の善悪の判断がより普遍的な力を持てるよう」にするには、少なくとも自分の考える普遍的な善悪というものの事例をとことん検証してみるべきだと認識しております。ただ、そんな普遍的な善悪などあり得るのでしょうか?
善悪にこだわっている限り、なし得ないというのが真理なのかもしれません。
そもそもが曖昧な価値基準の中にある善悪が、人々を正しい方向(あるがままの存在証明)に導けるものではないでしょう。人間が猫になったり、犬になったり容易に変化できるのであれば別ですが、、。
>人類の歴史を作り上げるのも、個々の人間の人生が単位となっていると思っており、そして歴史が経験を積んで学んでいくのではなく、人間が経験を積んで学んでいくのだと思っております。そして同じ歴史を繰返すのを止めるには、個々の人生において何かしらの変化を生み出さなければならないということだと認識してそれを書いただけです。
優れた言葉だと思います。
そして、その変化を生み出す為の可能性を自己に求めております。
はなから見切り発車であったのですから、軌道修正は自己の責任となります。
従って、多くの探求追求が必要であるのだと思っております。
多くの物事に耽溺する自己を存じておりますが、その一つ一つにも意義を感じております。あくまで自己に忠実である事、それが私の求める道であり、それが他への影響と連なってゆくものと思っております。
失礼いたしました。