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(回答先: 自己に忠実である事 投稿者 haru 日時 2007 年 2 月 17 日 19:06:06)
Haruさん、こんにちは。
>【しかし屁理屈かもしれませんが、自分がなぜ生きているのか、なぜここに存在しているのかと云う問いもないままの見切り発車的な人生の上に、現在の自我の形成があったのだと思います。】
その自我の形成は、「自分がなぜ生きているのか、なぜここに存在しているのかと云う問い」が無いのではなく、自分がなぜ生きているのか、なぜここに存在しているのかということに対して洗脳されたり、思い込んだりしてその答えを安易に作りあげ、前提させた結果ではないでしょうか。
>【飢餓や天災を問題とした人類が、選んだ解決の道が今の世の中であるとの認識です。
問題を作ったのも人類であり、数多の選択肢の内、選んだ結果が現在であるという認識です。問題を創造したのが我々であるのなら、解決の道を創造する可能性も必ずしも否定できうるものではないと思っております。】
価値判断は二元性を生み出します。何かを良いとすると、悪いという何かが存在することになります。しかし良いというのも悪いというのも主観的なことでしかなく、それ以前に現象は良いも悪いもなくトータルに存在しております。個々の問題を諸問題と感じるか、諸問題と感じないかも主観によることですし、それに対して解決の道を創造しようとすることも、創造しないとすることも価値観によるものです。価値観は諸現象の区別を生み出し、そして諸問題を生み出し、諸対立を生み出していきます。価値観を無くそうとすることすら、それは価値観を生み出しているに過ぎません。対立を無くそうとすることも新たな対立構造を生み出します。主観的な価値観を用いてどんな解決の道を創造することができるのかは、俺は甚だ疑問です。
>【わたしは、自然が与えてくれる恵みを人類が超越する事はあり得ないと思っております。そして、自然を否定するような歩みは破壊と破滅に向かうと思っております。それも自然なのだという考察もあり得るかもしれませんが、その道に向かう事は、自己の存在の否定を意味します。私は、自己の生存と共に生命の尊重を選択しましたので、上記の様な歩みは選択したくはありません。】
俺が今回の議論において持ち出していることは、自己の存在を否定することでも、自然や生命を否定することでもありません。それは自然や生命や自己を、思考放棄状態にも関わらず、何の疑問も抱かず、全面的に肯定することに対してのものです。つまりその存在の根本理由を知り得てもいないのに、肯定や否定をすることは、信仰的だと感じるということです。
>【善悪にこだわっている限り、なし得ないというのが真理なのかもしれません。
そもそもが曖昧な価値基準の中にある善悪が、人々を正しい方向(あるがままの存在証明)に導けるものではないでしょう。人間が猫になったり、犬になったり容易に変化できるのであれば別ですが、、。】
「人間が猫になったり、犬になったり容易に変化できるのであれば別ですが」の意味する事が少し解らなかったです。
>【はなから見切り発車であったのですから、軌道修正は自己の責任となります。
従って、多くの探求追求が必要であるのだと思っております。
多くの物事に耽溺する自己を存じておりますが、その一つ一つにも意義を感じております。あくまで自己に忠実である事、それが私の求める道であり、それが他への影響と連なってゆくものと思っております。】
俺は見切り発車が悪いことだとして論を進めているわけではありません。見切り発車が良いとか悪いことだとなぜ解るのか?ということです。
また自己の諸々の側面に対して意義を感じるのは個人の勝手であり、もちろんそうして我々は生きる糧を得ているのだとも思っております。ただ、その自己という現象は本当に必要なことなのか、本当に意義あることなのかということを遡ってよく調べたのかということです。(これは調べなければならないという主張ではありません)。