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(回答先: 下村湖人がこれに「人間生活の意義」というタイトルをつけるには、少々荷が重いと感じました。 投稿者 アロン 日時 2007 年 2 月 15 日 17:00:39)
アロンさん、初めまして。
>>真に団体を愛し、真に国家を愛するものは、その団体、その国家をして天意に叶い、人類に幸福をもたらすようなものたらしめなければなりません。
>団体と国家が対立の状態のとき、つまりどちらか一方を愛すると、他方が幸福にはなれないケースの場合は、どちらへの愛を優先するというのでしょうかね。家族を愛すると、他人が傷つく場合、少数を愛すると大多数が傷つくケースの場合、それは例えば多数決で決めるのでしょうかね。(笑)
何かをすることによって、片方が幸せになり、片方は不幸になるのであれば、その行為は間違いなのではないかと思います。
そして、その行為によっては、恐らく誰も本当には幸せにはなっていないのではないでしょうか。
ニセモノの幸せを幸せと感じる人を幸せにしたところで、本当にその人を幸せにしたことにはならないし、自分自身も本当の意味では幸せになれないのではないでしょうか。
あるいは、片方が本当に幸せになるのに、もう片方は不幸を感じるとしたら、後者の幸福概念が間違っているかもしれません。
いずれにしろ、人類が皆幸福を享受できる状態が最高の状態であり、団体や国家の幸福というものを超越しなければならないような気がします。
本当の幸せというものが何なのかということを、個々の人が皆追求しなければならず、それなくしては、誰も本当には幸せにはなれないのではないかと思います。
>また、この抜粋部分を読んだだけですが、下村湖人がこれに「人間生活の意義」というタイトルをつけるには、少々荷が重いと感じました。
>人間生活の意義が「愛」や「宇宙(国家・人類)の繁栄」や「生命」だとするのは、一見素晴らしいことのように思え、そしてそれは当たり前の如くに納得しがちですが、しかしそれらそのものが真に意義のあることなのか、普遍的に価値あることなのかという根本的な事は無視されがちです。
私は普遍的に価値があることだと思います。
また、意義というよりも、自分よりも他者のために生きること、それが生命の本質のような気もします。
下村湖人の「論語物語」に、下記のような一節があるのですが、これを読んでそう思いました。
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先生は、ただ老者と、朋友と、年少者とのことだけを考えていられる。それらを基準にして、自分を規制していこうとされるのが先生の道だ。自分の善を誇らないとか、自分の労を衒わないとかいうことは、要するに自分を中心にした考え方だ。しかもそれは頭でひねくりまわした理屈ではないか。自分たちの周囲には、いつも老者と、朋友と、年少者とがいる。人間は、この現実に対して、ただなすべきことをなしていけばいいのだ。自分にとらわれないところに、誇るも衒うもない。-------彼はそう思って、孔子の前に首をたれた。
(「論語物語」p48より)
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>もしそれを問わずして、ただ安易に意義ありとするのであれば、ただの信仰以外の何ものでもないと俺は思ってしまいます。
私が抜粋した部分は、重要と思った箇所のみですので、その結論に至る経緯というものは省略してしまっています。そのせいで、そう感じられた、ということもあるかもしれません。そうとすると下村湖人に申し訳ない気がします。
そうでないと仮定すると、アロンさんのおっしゃるとおり、信仰と言えるかもしれません。
しかしまだそこまで思考が及びません。
もっと勉強して、いろいろ考えてみたいと思います。
また、信仰に終わらせないためには、その「哲学」を実行する必要があるだろうと思います。
下村湖人は、松浦さんが
>この人は日本流の通俗儒教とは対極にある、正しき論語理解者であると同時に、軍国主義と、文化を以って闘い続けた人であった。
とhttp://www.asyura2.com/07/idletalk22/msg/572.htmlで書いてくださっているように、
自身の哲学を生活の中で体現された人だと思います。
下記もできれば是非お読みください。
下村湖人の思想の一端がわかるかと思います。
http://garyoan.hp.infoseek.co.jp/youth.htm