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(回答先: 下村湖人がこれに「人間生活の意義」というタイトルをつけるには、少々荷が重いと感じました。 投稿者 アロン 日時 2007 年 2 月 15 日 17:00:39)
アロンさん、こんにちは。
>人間生活の意義が「愛」や「宇宙(国家・人類)の繁栄」や「生命」だとするのは、一見素晴らしいことのように思え、そしてそれは当たり前の如くに納得しがちですが、しかしそれらそのものが真に意義のあることなのか、普遍的に価値あることなのかという根本的な事は無視されがちです。
もしそれを問わずして、ただ安易に意義ありとするのであれば、ただの信仰以外の何ものでもないと俺は思ってしまいます。
宗教批判、信仰批判、よく耳にし又主張を目にしますが、果たしてなんの信仰もなしに今の世の中は存在しえたのでしょうか?
現在我々が持っている、又は認識している価値観が信仰とはまったく関係のないものなのか大いに疑問であります。もし信仰がなくても社会が存在したのだすれば、法がまずあった事になりますが、我々の知る歴史では今ある法はかなり最近のものだったようです。
人を殺す事、生物を殺す事はなぜ正しくないのでしょうか?
秩序の為でしょうか?
秩序とはいったい誰の為のものなのでしょうか?
もし普遍的な価値というものが我々を動かしているのであれば、多くの思い込みに左右され、また翻弄されたのが人類の歴史であったように思います。
>団体と国家が対立の状態のとき、つまりどちらか一方を愛すると、他方が幸福にはなれないケースの場合は、どちらへの愛を優先するというのでしょうかね。家族を愛すると、他人が傷つく場合、少数を愛すると大多数が傷つくケースの場合、それは例えば多数決で決めるのでしょうかね。(笑)
人類はバランスを知らずにただ殺戮を行えば、その結果が私たちに障害として返ってくると云う結果をいやという程経験してはいないでしょうか?
経験によって、何を学ぶのかということも一つの真理であり、それを伝承しないのであれば、同じ繰り返しをただ続けるのみである様な気がいたします。
我々は、それらの経験から未来を作り出す使命があるのではないでしょうか?
失礼いたしました。