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第二次大戦中には「神風特攻」とか「人間魚雷回天」という自己の生命を投げ売って「敵に一矢報いるという行為がなされた」
記録を信じるなら「ほとんどの特攻者は志願であり、強制は行われなかった」そうである。
死んで「護国の鬼と化す」のを名誉と信じた者達は多かったのだろう。
「自分の信ずることのため、自分の愛するものを守るため」には「自分の命さえも捨て去る事ができる」と云うのは、本当に立派だと思う。Kなどにはとてもできないだろう。
人間性という物を考えた時には「彼らは立派な人物」であり「素晴らしい人」だったのだろうと思う。
しかし、別の視点で考えれば「彼らは利口ではなかった」のだろうとも思う。
特攻に成功したなら「相手側からみたら、狂気の殺人者」であり
失敗したなら「犬死」である。
確かに「彼らの人間性は評価されるべきであるが、行為は評価に値するのか疑問」である。
問題は「当時、彼らの行為を奨励した社会」であったのだろうと思う。
政府が「特攻して逝った者」を「敬う」のは若干問題なのだろうと思う。
政府がすべきは「謝罪」である。
神社に祭るのではなく、慰霊の碑を建てて詫びるべきなのだろう。
「志願だから、送り出した」のが間違いで「引っ叩いても、止める」べきだったのだろう。それが「止める」のではなく「奨励」し「万歳三唱で送り出した」のが「社会」だったのだろう。国全体・国民全体に「憑き物」が憑いてしまったのだろう。
国が「国民に犠牲を強いる」と言う意味で「戦争は愚かな選択」と言えるだろう。
これを「君が代問題」に置き換えてみると、「信者に犠牲を強いる」という部分をはじめとして「労多く、価値は少ない運動」と言う意味で構造が似ていると言う気がする。
「歌わない自由を主張するのがいけないのか?」
職務専念義務時間内の「無制限な自由を認めたら」収集は付かないだろう。
スト権の変形としても無理だろう。団体の権利にスト権はあるが、個人のスト権を認めると「個人の信念で、何をしていても良い」と言うことになる。
そもそも、自由というのは「他人の自由・権利を侵害しない」限りにおいて認められるものであり、他人に「迷惑を及ぼす」のならば一定の制約が必要となるだろう。
拘束時間という物を無視する「労働者」を認めれば「社会全体」が崩れていくだろう。
そもそも、教師と言う職業を選択すれば「卒業式などの行事がある」のを承知しているだろう。
それなのに「この期におよんで、式典妨害行為、職務規律違反行為を、再三再四にわたる注意、警告を無視して行った」のなら、職業の適性と言う部分で「問題がある」とも考えられる。
国家を歌うのが嫌ならば「歌わなくても済む職業に変更するべき」という考察も成立するだろう。
懲戒免職では厳しすぎるかもしれないが「依願退職」しても良いだろう。
このような事をする教師が増える事で「改悪、教育基本法」が作られてしまった。
作った方に問題があるだろう。というのは正しい。
しかし、作った方は「バカだから」そんな理屈ではどうにもならない。
結論とすれば「バカを刺激した行為を奨励するかのような応援者」が一番悪いのだろう。
行為を実行した者は「人間的には素晴らしい人」だろうと思う。
しかし、行為を支えたものは「万歳三唱で特攻隊を送り出した大本営」となんら変わらないと言えるだろう。
犠牲を強いる行動を「後押しする」のではなく「疑問を呈する」事も重要だろうと思う。