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(回答先: 初めにお読み下さい 投稿者 謝寅 日時 2004 年 12 月 18 日 09:49:30)
*近年における啓示の歴史*
*江戸期より始まった啓示*
純日本産のスピリチュアリズムの歴史(及び伝達者)の紹介を、簡単にご紹介します。
黒住宗忠 1780〜1850
岡山の今村宮の司官宗忠氏は、両親の突然の死により、自らも大病を患う様になった。しかし心を陽気に向ければ治ると考え、陽気になるように心がけ、次第に病気も回復に向かっていった、そして文化 11年(1814年、当時 35歳)の時「天命直受」という啓示を受けるようになる。
その時より病気治し等が出来るようになった宗忠は、黒住教を起こし、概要として天照大神を万物創造の神とし、人間は総て天照大神の「分霊」を頂いていると説いた。
中山みき 1798〜1887
大和国山辺群屋敷村(現奈良県天理市三島町)の比較的裕福な農家だった、中山善兵衛の妻、みき氏が天保 9年(1838)10月 26日、突如神懸かり状態となる。これがキッカケとなり、天理教を開教する。その後には、財産を貧しい人々に分け与えてしまい、極貧の生活となっていく。
- 天啓を受けた、教典として以下のものが存在する -
◆「みかぐらうた」慶応2年〜明治8年にかけて受けた、数え歌。
◆「おふでさき」明治2年〜15年にかけて受けた、1711首の和歌(この和歌は後の大本の「お筆先」と相通 じる内容となっている。
◆「おさしず」明治20年旧1月4日〜26日のみき氏昇天の日まで、受けた天啓。昇天後も信者の飯降伊蔵氏が受け継ぎ、氏の亡くなる約20年間、口述という形で残されている。
川手文次郎 1814〜1883
安政6年(1859)備中国(現岡山県)浅口群占見村の農民、文次郎氏は42歳の時に、扁桃腺炎にかかり一時医者もも見離す重体となった。その為親類一同が集まり、平癒祈願を行った際、四国石槌(いしづち)山修験から来た親類に石槌神が懸かり、文次郎が先年自宅の移転をしたさい、金神に対して無礼を働いた為と説明。
恐れた文次郎氏は、病床から無礼を詫びた。そして病気は徐々に快方に向かっていった。2年後に、実弟の香取繁右衛門(かんどりしげえもん)氏が、嫁の実家(亀山村)で突然神懸かり状態になり、文次郎氏がかけつけると「金神様御乗移り」と口走り、文次郎氏に金神を奉る宮の寄付を求めた、更に2年後(安政6年10月21日)「世間になんぼも難儀な氏子あり、取り次ぎ助けてやってくれ、神も助かり氏子も立ち行く」と言われ、この時を堺に(文次郎氏46歳)金神教の開教に至る。
金神教は、祟り神と一般に恐れられている陰陽道の歴神(金神)を、「天地金の神」という新しい神名に変え、民衆を救う実は慈悲深い神様と説いた。因みに、後の大本を開教する「出口直子」氏も、この金神教の信者であった。
これら既成宗教は、総て天啓教(何かしらの天啓によって誕生した宗教)であり、また天理・金教などは、地域の名前になるほど、その勢力も並々ならぬものが在ったのではないかと思われます。
そうして、「天理、金教、黒住、妙霊先走り、艮の金神の世になりたぞよ」つまり、それまでの天理、金教、黒住等の教会は、先駆的なもので、本格的な活動を成すという、艮の金神と名乗るものが、綾部の片田舎に住む、老婆に突然に神懸かりをするようになった。