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(回答先: 第一章 一連の物語 5 天言鏡/辻天水氏 - その3 天言鏡を受け取る/日月神示の天明氏と接近(大本教・民間信仰・民俗) 投稿者 謝寅 日時 2004 年 12 月 18 日 10:05:55)
*その他*
*龍宮神示*
竜宮神示とは、辻天水氏と三雲竜三氏が、昭和13年に丹後元伊勢、龍神社の奥宮の真名井神社に参拝した時に、三雲氏が突然神懸かり状態となり、その際に天水氏が審神を行った処、「真名井龍神」という神霊と判明し、それ以降昭和18年に至るまで、様々な神示が伝達されたもの。その内訳は「たま問答」「貴の神火山」「天の巻」「美火木物語」「三界物語」「三元の理」「雑」「二名稿」の全8巻からなるとされている。
*日之出神諭/神霊密書*
出口直子氏が伝達したお筆先上に、清吉(直子氏の息子)が「日之出の神」の身魂であるとしていた。しかしその清吉自身は、明治28年に台湾に出征し、戦死した事になっていたものの、お筆先には、清吉氏の死は否定されていた。
所が大正6年12月15日、に出口直子氏の三女、福島久に「義理天上日之出神」が懸かり、清吉の肉体は死んだが、魂は永遠不滅で、その霊魂が本国に帰国して「義理天上日之出神」として、自分に懸かったのだ、と説明した。
これ以降、久氏の筆先は「日之出神諭」と呼ばれるようになった。また、日之出神諭及び義理天上日之出神を信じる人達で「世界大門」という組織が作られた。
また、王仁三郎氏の正体を、開祖の神業を妨害する、天照彦の身魂であると主張した。元々王仁三郎氏自体が、水業に参加しないとか、母親の病気で、直ぐに大本を飛び出し、帰省してしまうなど、神信仰の熱心な大本の人達には、不信感が強かったようで、この事件によって益々王仁三郎氏の立場は、悪くなってしまったのではないかと思う。
一方、矢野祐太郎氏は、明治14年(1881)3月15日、東京の築地に産まれた。中学を卒業後には、海軍兵学校へ進学、そのまま軍人となっていった。大正8年には大佐に昇進、大正11年には少佐に昇進するという所で、海軍を辞めてしまい、大本に入り神霊研究に傾倒していく。
大本内部でも、王仁三郎氏の入蒙の歳に、色々と手配するなどの活躍をしていた。
しかし、入蒙の後に、矢野祐太郎氏は王仁三郎氏と袂を分かった。その原因はハッキリ分からないものの、矢野氏は大本を離れ、前述した福島久一派の「世界大門」に入り「日之出神諭」の研究に入った。昭和4年10月2日には、矢野氏の奥さんである矢野シン女史に、肝川八大龍神が懸かり「正道会(大門)には一人として、神の御心を理解しうる者が無い」
と伝え、これ以降矢野氏は、大門とも袂を分かって独自に日之出の神の神業を行うようになっていく。
昭和5年11月6日に「大出口直霊大神」という、昇天後の直子開祖の神名を名乗る神から「棟梁皇祖太神宮(おむやこうそだいじんぐう)へ行け」との神勅が下り、その場所を調べた結果、北荻城の磯原にお宮がある事が判明、同年11月14日に、矢野氏は棟梁皇祖太神宮に参拝に赴いた。そこの館長が竹内巨麿で、偽書としても名高い「竹内文書」の研究者であった。
こうして、矢野祐太郎氏は、竹内文書や奥さんのシン女史の霊媒能力を使った実験などを纏めた「神霊密書」を完成させた。この密書を100部刷り、各宮家や有志に配った。
すると竹田大妃宮から「天皇様に差し上げたい」旨依頼があった。折り良く北白川宮若姫の婚礼の儀で、宮中から使いの女官が往復しはじめたので、この機会に、女官を使って内密に天皇へ御嘉納する事に成功した。
しかし、この頃(昭和7年)既に、矢野氏は特高から目を付けられていた。その為ついに、昭和11年当局に連行されてしまった。しかしその内容に、不信な点が無く、正当な理由無しに有罪を立証する事が難しくなり、検察側としては精神病という事で解決をしようと試みたらしい。が、それも無駄に終わり、とうとう監獄の中で、矢野氏は毒殺されてしまった。
昭和13年8月22日夜、悲報を聞いた長男と、中里弁護士は、遺体を引き取りに向かった処、遺体の引き渡しを拒まれた。それでもと、強引に引き渡しを翌日の午後まで、抗議し続けたところ、死因について詮索しない事を条件に、ようやく遺体が引き渡される事となった。矢野氏の遺体は、明らかに毒物によるもので、体のあちこちに、斑点が浮き出ていた。