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(回答先: 第一章 一連の物語 番外編:道院・紅卍字会の神示 紅卍字会の誕生/五教同根/同神異名(大本教・民間信仰・民俗) [99- 投稿者 謝寅+ 日時 2004 年 12 月 18 日 10:14:20)
*全体の流れ-その1*
*各種神示の解釈は幾通りもある*
霊界物語を初めとして、大本の多くの神典類や、日月神示等も、その解釈は幾通り存在し「身魂相応に解ける」と、どれも説明されています。 これら神典類を、ある人は預言書として読んだり、又ある人は身霊の修養書として読んだり、又一方では取るに足らない、偽書的に扱う人も居り、接する時点で既に人それぞれ違っているものです。
自分としては、幾通りにも読める解釈というのは、平面的に幾通りか読めるという訳ではなくて、その人の身霊の高低によって、段階的(つまり上下方向に)数段階の解釈ができるのだと思います。それは「悪い精神で読めば、幾らでも悪く見える」という内容からも、そうであると思います。
これはしかし、実際の処、非常に奇異な印章を与えます。一般的なイメージとして、神典とか託宣というものならば、人智の及ばない程完全無欠、且つ誰もが素晴らしいと感じるような、穴の無い内容であるべき、と思われるので、一見矛盾や穴の多い、又人によって幾つにも読める等というあやふやなモノは、中々すんなり受け入れられるものではありません。ここでは、日月神示を元にした、矛盾点を挙げてみようと思います。
我があってはならない
●我を張っていると、いつまでも判らずに苦しむばかりぞ
-『日月神示』上つ巻二七帖-
●我がこの道の大き邪魔となるぞ、くどいようなれど繰り返し気付けおくぞ
-『日月神示』梅の巻十帖-
我がなくてはならない
●我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示読めと申すのぞ
-『日月神示』二三帖-
●我がなくてはならんぞ、我があってはならんぞ、我が無くてはならず、あってならん道理わかりたか。神に融けいれよ。てんし様に融けいれよ。我なくせ、我だせよ
-『日月神示』水の巻一二帖-
欲を張ってはならない
●金もうけさせんぞ。欲捨てて下されよ
-『日月神示』下つ巻一帖-
●欲だすから、心曇るから、我よしになるから中々に改心できんなり、難しいぞよ。欲さっぱりと捨てて下されよ。欲でると判らなくなるぞ
-『日月神示』青葉の巻十四帖-
欲深くなければならない
●欲捨てると判って来るぞ、誠の欲深になれよ
-『日月神示』黄金の巻十六帖-
●臣民近欲なから判らんのぞ、欲も無くてはならんのざぞ。
-『日月神示』天つ巻二四帖-
個々の一節をこうして抜き出すと、訳が分からないので、意地悪になってしまいますが、万事このように問答のような、謎のような事ばかりではなく、分かりやすい部分も沢山有ります。
また「この世一切の物は、神のものぞ、人民のものは一つも無いぞ」と言ってみたり「この世一切のものは、自分(読み手)のものぞ、だといって、鼻高になればポキン折れるぞ」という様な、全く矛盾したような個所も存在します。これなどは、一見明らかに矛盾しているのですが、王仁三郎氏の霊界物語などで、案外この謎を解く鍵が存在したりします。
しかし、どちらか一方を選択したり、歪曲した解釈をする人も、中にはあるだろうと思います。ただ、それはそれで、その人個人の精神状態によって、そう解釈するのも又仕方がない、という所だと思います。一体何がどうなっているのか?もう少し分かり易く、丁寧に細かく教えてくれても良さそうなものだ、と思いますが、之にはやはり色々と訳があろうかと思います。
*霊界物語は最後の審判書!?*
王仁三郎氏は、その著書『水鏡の中』で、霊界物語を指して「最後の審判書」と定義しています。
最後の審判は、閻魔大王が罪人を裁くと同様なる形式に於いて行はるると、考えて居る人が多いやうだが、それは違ふ。天国に入り得るものと、地獄に陥落するものの標準を、示される事である。この標準を示されて後、各自はその自由意志によって、自ら選んで天国に入り、或いは自ら進んで地獄に落つる。それは各自の意志想念の如何によるのである。
-『水鏡』/出口王仁三郎著より-
上記の一文はスエーデンボルグ氏の「霊界からの手記」に現された内容(霊自らの意志によって、幽界に向かったり、天国に赴いたりするという)と、相通ずるものがあります。つまり、人それぞれに解釈し、理解するもので、これを自己解釈を施して他人に勝手に強要する、という様な、現今の宗教の様な事をするべきではない、と思うのです。
従って、ここでは、総て単に内容の提示に止めたいと思います。勿論、全く謎のままではなくて、霊界物語とか、王仁三郎氏の著作物等に、案外解く鍵が書いてあったりするものです。その意味に於いて、全く完全な存在である、或いは解釈に一点の間違いも無い、というのであれば、幾らでもそれを説いて、構わないだろうと思いますが、まずそういう人物は、滅多にあるものではないと思いますので、数多の解説書等も、参考程度にとどめておくのが、良いだろうと思います。
霊界物語自体は、各種の書物を読めば判るように、非常に正確な預言を含んでいたり、様々な奇談・不思議なエピソードも有り、大変な書物であると、思われるかも知れません。 実際には、全般的に通してオヤジギャグのオンパレードで、用語等でも砕けた内容です。当時も、こんな脱線だらけの書物は、読むに値しない、と思う人が多数居たようで、そう受け取るのは、それはそれで、致し方なかろうと、そう思うのです。
しかし、霊界物語は、文字どおり子供に与える絵本の様な存在で、子供はその絵本を通して、色々な事を学んでいく訳ですが、霊界物語も全く、そんな感じの存在であると思えます。小説の形式をとって、面白おかしく、物語を読んでいるうちに、こういう時には、そうするのが良いのだな、というのが自然に判って来る訳です。
つまり如何にも上の立場で、相手に教え諭すという事ではなくて、なるたけ平易に、且つ面白おかしく、真理を伝えていくという王仁三郎氏の精神が、そこにあるように思います。