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第一章 一連の物語 3 出口王仁三郎(1871〜1948)- その2 
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投稿者 謝寅- 日時 2004 年 12 月 18 日 10:47:25:uaE4PE7T5jpaU
 

(回答先: 第一章 一連の物語 2 出口直(1836〜1918)- その2 この神をさばける御方/艮の金神から知らされた弥勒大神(大 投稿者 謝寅 日時 2004 年 12 月 18 日 09:55:16)

*出口王仁三郎(1871〜1948)- その2*

*穴太の喜楽天狗さん、審神(さにわ)の修行*

 この高熊山での修行の後に、友人の家で教会を開き、病人等を次々と治していき、次第に彼は「穴太の喜楽天狗さん」と呼ばれるようになる。そして噂を聞きつけた三矢喜右衛門という人物が、喜三郎氏のもとを訪れ、稲荷講社の長沢雄楯(かつたて)という人物に面会するように、と強く勧められ、喜三郎氏も静岡に住む、その長沢氏に会う事を、決めた。

 長沢氏主宰の稲荷講社というのは、文政5(1823)年、薩摩国加世田に、本田親徳(ちかあつ)という人物の手によって誕生している。彼は、古事記に散見される「鎮魂帰神法」の復興を目指し、神懸かり現象には三六通りある事を悟り、鎮魂帰神法と審神(さにわ)学の体系を確立した。
 
 また彼は「稲荷神とは、飯成の神であり、衣食住を司る神様であり、お稲荷さんとか、狐付き等と、馬鹿にするのは甚だしい誤解である」と語っており、二代目に当たる、長沢雄楯氏も、本田の没後にその意志を継ぎ、静岡清水の月見里(やまなし)神社を拠点として、稲荷講社を組織していた。
 
 
 
*十年後、丹波から一人の青年がやって来る*
 
 
 
 所で、先代の本田親徳氏は、自らの死に際して、長沢氏に「十年後、丹波から一人の青年が尋ねて来る、その者が来ると道が開ける」と預言めいた事を言い、その青年が現れたら渡すようにと、奥義書を残していた。

 そして十年後に、正に丹波から喜三郎氏が、長沢氏を尋ねてやってきたのである。その為長沢氏は、大切に保管していた奥義書を、喜三郎氏に渡し、又鎮魂帰神法と審神学を、伝授した。暫く後に王仁三郎氏は「鎮魂帰神二科高等得業証」を授かるに至った。

 稲荷講社で学んでいた時に、長沢氏の審神によって、喜三郎氏に懸かっている神はスサノオノ命の眷族
「小松林命」であると判明する。こうして、静岡での修行後程なく(明治31年7月)彼に懸かっていた神「小松林命」が

「一日も早く西北の方を指していけ、神界の仕組みがしてある。お前の来るのを待っている人がいる。仕事にも頓着する事無く、速やかにここを発て」

と言いう。喜三郎氏は、言われるがままに、西北の方面を目当てに、旅に出かけた。
 
 
 
大本と上田喜三郎の出会い
 
 
 
 一方、出口直子の三女の久は、京都の内国勧業博覧会の見物客をあてこんで、小さな茶店を出していた。そこへ、とに角「西北」に向かうべく旅をしていた、喜三郎氏がひょっこり現れる。ちなみに、この時の喜三郎氏の服装は、お歯黒にコウモリ傘にバスケットという、異様な風体だった。

「お前さんは、狸でも見る人かね」

「わしは審神というて、神さんを見分ける者じゃ。まぁ尤もあちこちで調べさせてもろうたが、どいつも狸や狐ばっかりなんは確かや」

「そうどすか、どこから来はりましたん?」

「東、穴太じゃ」

という会話が、喜三郎氏と久女史の会話が取り交わされた。

 この時、久は直子氏のお筆先に「この神をさばけるお方は東から来るぞよ。その者が来れば、艮金神の道は開ける」という一節を思い出していた。

 そして、喜三郎氏に、直子のお筆先の一部を、見せた。この時、喜三郎氏は直子氏に会う事を約束して、一旦別れた。ちなみに、この出会いの後、直ぐに久の茶店は、山陰線敷設工事の為に立ち退きを命じられた。

 こうして、初めて出口直子氏と王仁三郎氏は出会う事になるものの、最初の出会いは非常に淡白であり、又双方ともに、お互いがあまり信用できない様にも見受けられ、又実際にそういった記録が残されている

 お筆先には、最初から西洋かぶれの幻影に浸っている日本人に警笛を鳴らしていたし、抽象的な意味でと思うが「洋服では収まらん」等という表現も見られた。
 
そこにコウモリ傘にバスケットという、現代で比せば、金髪に染めて海外ブランドで固めた様な、見た目軽い人種に、大本の人達には写った事だろうと思う。王仁三郎氏は、結局最初の出会いでは、二日程滞在して、直ぐに別れてしまう。
 
 
 
*艮の金神は王仁三郎氏でも、見分けられなかった?*
 
 
 
 果たして、審神学を取得した王仁三郎氏は、この時に、お筆先を出した神を、何神と見分けたのだろう?それとも見誤っていたのだろうか?大本神諭を見る限りでは

「こんな田舎の婆さんを便りにせずとも、もっと偉い人に懸かったら良さそうな物だ」

「8月9月に盛り上がるとは、明治何年の8月9月じゃ。そんな事なら誰でも言える」

 など、結構辛辣に批判していた節がある。つまりは王仁三郎氏も、勘違いか見誤りをしていた、という可能性が高いものの、果たしてこれは、本当に単なる勘違いであったのか、それとも何かしらの『型』として、必要な出来事であったのかは分からない。
 
 
 
すでに悪魔に取りひしがれて、危うい所を差し添の、誠こころに染められて、捨てた思案の後戻り、洋服脱いで靴捨てて、皮の鞄も投げ捨てて、昔の神世の人となり、熟々(つらつら)思いめぐらせば、出口の守(かみ)のお知らせの、通りに汚れた世界じゃと、固く心を取り直し、ただ一筋の神の道、心も勇み気も開き、花咲く春に遭う思ひ、こんな結構が又と世に、三千世界にあろうかと、初めて悟り大本に、大きな尻を末永く、綾の高天で猫となる。オットどっこい神様の、激しき威徳に照らされて、心の底の塵芥(ごもくた)を、白状したが情けない、これが出口の王仁三郎

-王仁文庫(いろは歌『その二』)/王仁三郎著(明治36年9月10日の作品)より-
 
 
 
 この歌を読んでも、どうも王仁三郎氏の間違いであったという可能性もあるものの、東に行けと神命が下ったのは、王仁三郎氏の守護神「小松林命」であり、又それとは別に、艮の金神のお筆先にも、東からこの神を捌くお方云々という神示が下ったのを見ても、この二名の出会いは、やはり経綸上必要な事であった事だけは、間違いないと思われる。
 
 
 
*神の仕組みで出会った??*
 
 
 
 出口直子氏と別れた喜三郎氏は、一年後に、再び会いたいと手紙をしたためる。一方直子氏の「お筆先」には以下のような一節が現れていた。
 
 
 
●あのおん方は、このほうから引きよしたのだぞよ。神が守護のしてあること。

●神の仕組みがしてあるから、上田と申す者が出てきたならば、そこをあんばいよう取り持ちて、腹を合わしていたしてくれよ。
 
 
 
-いづれも『大本神諭』/出口直子伝達より-
 
 
 
 喜三郎氏からの手紙を受けた直子氏は、使いとして、四方平蔵氏を差し向けた。四方氏が喜三郎氏のもとを訪れた時、喜三郎氏は四方氏の実家の様子をつぶさに語り聞かせ、また四方氏に鎮魂を施して、一時的に四方氏に「天眼通」を開花させ、今度は逆に王仁三郎氏の実家の様子を、四方氏の脳裏に浮かばせた。

 この出来事に驚嘆した四方氏は「この者なら、間違い無い」と確信して、綾部に連れて帰る事となった。

 こうして、喜三郎氏は、大本に腰を据えて、会長になった。名前もお筆先に「おにさぶろう」と出た事から、鬼三郎と改名するところさすがに鬼は嫌だと、千字文の「王仁博士」から貰って、以後「王仁三郎」と名乗る事になった。ちなみに、王仁三郎氏の出身地穴太は、鬼退治伝説の発祥の地であるという事で、何かしら因縁めいた物を感じる。

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