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(回答先: 第一章 一連の物語 3 出口王仁三郎(1871〜1948)- その2 投稿者 謝寅- 日時 2004 年 12 月 18 日 10:47:25)
*出口王仁三郎(1871〜1948)- その3*
*受け入れられなかった王仁三郎*
王仁三郎氏が大本に来た最初の頃というのは、余り安楽な生活ではなかった様で、27〜8歳程度の若造が、いきなり会長職に納まってしまったのだから、それまでの大本の幹部連は、面白からぬ思いをしただろう事は、容易に想像が付く。
まして、出口直子開祖は、出口直子氏についてで書いたように、謹厳実直な性格で、生活は質素そのもので、どれほど寒い日でも、火鉢一つ使わずに毎日数回水業をしていた、というのだから、幹部といわずとも、一般信者の信頼度は相当なものであったと思う。
所が、王仁三郎氏は「わしは蛙やないんやから」と、ただの一度も水業に参加する事無く、親が病気だというので、神業を放って簡単に帰郷してしまったり、又寒い日には、火鉢の前から離れようとしなかったというのだから、神第一の大本の内部から、完全に浮いていたのは間違いない。
所が、後に「神の国」や「王仁文庫」などに記された事の中には、王仁三郎氏の精神が伺われる部分が、幾つか見うけられ、断食をしたり、滝に打たれたりといった苦行的な業で、天国近しとするのは間違っていて、そうした業には一種の悲哀が必ず含まれるし、高天原(神界)は歓喜に溢れた所であれば、到底死後天界に赴く事は適わない、という主旨の事を述べています。
王仁三郎氏は、人の精神状態というのを、重要視していた様で、何かの祭事の際に、連名で各自一円づつ串玉として供える等は、諌めていた。それは連名にすれば、「嫌でもおうでも、一円を差し出さなければならない」という雰囲気が産まれるため、その様な精神のままで供えても、何の効能も無いのだと言う。
●女子(王仁三郎氏の事)の霊魂(みたま)は何時も申す通り、世界一切の事が写るのであるから、この大本へ立ち寄る人民は女子のやり方を見て、世界はこんな事に成りているのかと改心をするやうに、神から女子の身霊(みたま)が拵へて在るのであるから・・・
-大本神諭/出口直子伝達より-
また神示には王仁三郎氏は、世界の事一切が写ると、以前からお筆先に現れて、更に王仁三郎氏の行動は、傍目からは真摯に御神業に参加しない、いい加減な人間と写ったであろうし、又名前も「鬼さぶろう」などと付けられては、彼を改心させる事が、即ち世界を改心させる事と大本の多くの人が勘違いするのも、致し方なかったろうと思う。
また開祖の筆先は、基本的に「平仮名」で書かれてあり、王仁三郎氏の場合は、漢字の読み書きなども出来たため、漢字=中国から渡った文字、というイメージからか、国粋主義者でかなり偏狭な人達からは、悪魔呼ばわりされていたらしい。
中には「我らは外国の悪魔を平らげるのが第一じゃ」と王仁三郎氏を懲らしめるのが、良いことだと勘違いした人も居たようで、酷いものになると、王仁三郎氏を殺そうとする者まで現れたらしい。
直子氏昇天の後は、『伊都能売神諭』の伝達や『霊界物語』の口述、更に蒙古へ入蒙するなど、多忙な日々を暮らしている。しかし、王仁三郎氏は本当につかみ所の無い人物で、またどうしても当時としては、大法螺吹きと写ったであろうと思う。しかし、後から見れば、とてつもない能力を秘めていたとしか、思えないような事も多い。例えば昭和10年の第二次大本事件での公判中には以下のような答弁があった。
裁判官 「東京はススキ野になるぞよ。永久には続かぬぞよ。と言っておるが・・・」
王仁三郎 「空襲なんかで、昭和20年になったらば東京はすすき野になりますが、
先へ行けば地下に町ができます。科学が進んで海の中まで電信局ができます。」
-昭和13年8月10日の裁判記録より-
霊界物語に描かれた不思議
霊界物語は、文体を見ても(書記の巻と中期、後期で又違ってくる)砕けた感じで「恋心」等を「ス井ートハート」と表現されてあったり、「〜様に恋をする」という所を「〜様にラブする」と表現されてあったり、大正時代の作とは思えないような、又何かしらの神典類の持つ、固いイメージとは、かけ離れたもので、又登場人物も、必ず冗談や駄洒落を言うといった、砕けた内容になっている。
又地域や時代を突然超越してみたり、世界中が舞台となっている割には、外国人名が少なく、大部分が「○○別(わけ)」「○○命(みこと)」「○○姫」といった日本名の人物ばかりであり、奇異な印章を受ける。依って容易には信じ難い内容(霊界物語は人の知らない太古の昔から、未来まであらゆる事が描かれていると言う)である。所が、その信じ難い霊界物語の内容を見ると、時折驚くべき事が書いてあったりする。例えば
東路の、地の騒ぎを余所にして、静かに浮かぶ、淡路島山
年十二月、また十二日も十二、合わせて三六(みろく)の、今日の船出
-『霊界物語』第69巻/王仁三郎口述より-
以上の歌の地の騒ぎをよそにして、というのは当時起きた関東大震災の事であり、又この歌が詠まれたのは旧暦で言えば、大正12年の12月12日、新暦にして大正13の1月17日で、この日から十二支を6回(ミロク)越えた、平成7年の1月17日に、この日淡路島を震源地とした、阪神大震災が起きた。
(前略)松彦「昔のように今日の時代は、毛筆や万年筆などの必要はありませぬ。唯指先を以って空中に七十五声の文字を記せば、配達夫は直ちに配達してくれますよ。私が一つ手本を見せませう。この交通機関は二一世紀の初期から開始されたのですよ。」
・・・(中略)・・・
「さぁ、これで手紙が書けました。文字が言語を発する時代となってきました」
と言って笑っている。四人は耳を傾けて珍しき文字の声を聞かむと努めける。
-『霊界物語』第15巻/王仁三郎口述より-
これは最近(平成10年7〜8月頃)盛んにSMAPの香取真吾君が、某社のパソコンの宣伝で、音声によって電子メールを送る姿を彷彿とさせる。しかも、21世紀の情報産業の予測として、コンピューターはより高機能化され、マルチメディアが当たり前のように稼動し、各家庭により普及するだろう、更にe-mailも音声通信が当たり前になってくるだろう、と予測されているらしい。
また、昭和6年の大阪毎日新聞に掲載された「チャーチワードという人物が、ムー大陸という島が太平洋にあったことを発見した」という記事を王仁三郎氏が見て、ム大陸とは、霊界物語中にでてくる、黄泉島(よもつじま)であるとしてる。
ムー大陸 黄泉島
東西5千マイル、南北3千マイル、ハワイ=北方、タヒチ、マインガイア島=南方、イースター島=南方、ラドロン島=西方のムー大陸の残骸であると発表 太平洋の真ん中に、縦が二千と七百里、横が三千一百里、黄泉の島や竜宮城
しかも、この黄泉島は霊界物語第12巻で、沈んでいく様子が描かれており、又他の巻にも、歌の一節に『黄泉ムの島沈むとも・・・』というものがある。上記の霊界物語は総て大正時代の産物なのを考慮しても、事前に王仁三郎氏がムー大陸の噂を知っていた筈はなく、偶然で済ませるには、少々出来すぎの感がある。
- 大本発祥の経緯とその是非2 -
取りあえず、王仁三郎氏が大本の出口直子氏と出会い、大本の基礎が出来上がるキッカケまでを、簡単に書きましたが、確かに大本神諭等を見た限りで、そこに書かれてある事は、正しいと感じながらも、やはり未だスッキリしない部分も又あったことも事実です。
これから、大本の研究をしようとする人は、恐らく自分と同じように、疑問点にぶつかる事だろうと思います。
それは、普段は直子氏も王仁三郎氏も、親子の様に仲が良かったようで、又霊的には夫婦であった様です。上記にあるとおり、変性女子は王仁三郎氏の事で、肉体は男子で、魂が女。一方の直子氏は肉体が女で、魂が男の変性男子と、現されています。しかし、この二人が一旦神懸かりになると、お互い激しくやりあったという事です。
この大本に降りた神が、正神だとしたら、何故お互いに喧嘩するのだろう?というのが、率直な疑問でした。また、大本神諭自体にも、直の家系は悪神の懸かる因縁であるという意味の事が、書かれてあり、益々訳が分からないのです。結局の所
1単純に 出口直子氏の派閥と王仁三郎氏の派閥に、潜在意識的に嫉視反目や誤解があった。
2 善と悪の戦い、或いは何かしらの象徴として、そうする必要があった。(天照大神と素盞嗚大神との葛藤など)
以上の事が考えられますが、実際のところ、人間が必死に神界の仕組みを探ろうとしても、人間には溶解できない世界である、と大本系の多くの神典類、著作物に散見できるように、確かに、人間があれこれ詮索しても、どうにもならない事だという気がします。
王仁三郎氏の不思議な数運
これは、王仁三郎氏自体が、不思議な数運に生きた人物であった、という事柄を紹介致します。また予め知識として、以下の事柄を先に知っておくと、様々な事柄を知るについて、より理解の助けになると思います。
1.ミロクの吉数
大本では当時から、何れ大峠が人類に来たり、それを乗り越えた後に、ミロクの世が来ると、唱えていました。ミロクの世或いはミロクとして象徴的に「五六七」という数を使って居ました。
2.王仁三郎氏は変性女子
大本の「お筆先」には、しばしば王仁三郎氏を指して「変性女子」と現わす事があります。これは肉体は男子にして、霊は女子であるという事で、直子氏は逆に「変性男子」と現わされ、肉体が女で霊が男だと、言われています。又男子の節句、女子の節句として、5月5日と3月3日は、よき日であるぞよ。等と、この日(必ずしも実数として、この日が関係するとは限らない)が因縁深い日であると、大本神諭(お筆先)の中で大変よく散見されます。
昭和3年3月3日の女子の節句のこの日は、王仁三郎氏が産まれてより、満56歳7ヶ月になるという日で、この日に執り行なわれた「弥勒大祭」では、大祥殿に供えられた串玉は、567円であり、高熊山の登山に参加した人数が567人であった。という事が、当時の参加名簿で判明。この様に、王仁三郎氏の周囲では、色々な数に関する因縁が、多数ある様です。
また旧約聖書中に現れる二人の予言者の様子が、以下のように載っています
聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから、彼らは42ヶ月の間聖なる都を踏みにじるであろう。そしてわたしは、自分の2人の証人に粗布を着させ、1260日の間、預言することを許そう。
・・・(中略)・・・
預言をしている期間、彼らは天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままにあらゆる災害で地を打つ力を持っている。そして彼らがその証を終えると、底知れぬ所から昇って来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。
-『旧約聖書』/ヨハネの黙示録より-
王仁三郎氏も直子氏も、共に裕福な名家の出身でありながら、生誕する頃に没落し、貧困の中での生活を余儀なくされていました。正に粗布をまとった状態で、あった訳ですが、第一回の入獄(大正10年2月12日)から、再度入獄される前日(大正13年7月26日)迄は、1260日でユダヤ暦でいうと42ヶ月間です。全くヨハネの黙示録を彷彿とさせますが、以下に王仁三郎氏自身の作による、歌が有ります。
千二百、六十日(むそか)の間、月汚す、六百六十六匹のけもの
-『霊界物語』第36巻/王仁三郎口述より-