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「産業主義近代」の終焉:“自然の恵み”ではなく“人々の恵み”が産業を発展させ生活も向上させてきた。
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/692.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 10 日 00:22:36:Mo7ApAlflbQ6s
 


『「産業主義近代」の終焉:戦後日本が豊かになったのはただ単に「より多く働くようになった」から!?』( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/490.html )の続きです。
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前回の書き込みで、日本人の総体的平均的生活が豊かになったのは、同じ量の労働で産出できる同じ財の量が増加する生産性の上昇が達成されていながら、働く総時間はあまり減少しなかった(失業者が増加しなかった)からだと説明した。

今回は、「生産性の上昇」が人々の関係的活動とどうつながっているのかを考えてみたい。


■ “人々の恵み”とは

“自然の恵み”がない産業活動で生産される財は、労働の成果がそのまま体現化したもので富(余剰)というプラスアルファはないから、産業生産物がより多く手に入るということは、誰が担うかは別として、人がより多く労働する以外にない。
(農業が“自然の恵み”として得る富は、3人が労働した成果(収穫)によって、その3人だけではなく他の10人も生存が維持できることを指す)

しかし、より多く労働することと、より長い時間働くこととは同じではない。それは、日本が平均総労働時間を短縮しながら財的豊かさを高めていったことを考えればわかる。

「近代経済システム」が産業の発展に象徴され、それが人々の生活を向上させたと理解させている秘密はここにある。

「生産性の上昇」は、詰まるところ、同じ財の同じ量の生産がより少ない労働で達成されるようになることである。
たとえば、A財を1万個生産するために、原材料から機械設備まで含めて1000人の労働者が労働しなければならなかったものが、800人で可能になれば生産性が上昇したと言える。
作業する労働者の身体的能力が等しいとすれば、このような生産性上昇を実現する条件は限られている。
非人間的自然条件としては、原材料の入手の容易性がどう変わったかということである。地下深く人が入り込んで採掘する石炭より、露天掘りのほうが少ない労働で同じ量の石炭を産出できる。(農産物や漁獲も自然条件が大きく関わっている)
原材料の入手場所から工場までの距離も、輸送及び輸送手段の生産に従事する人の数に関わってくるので生産性に影響を与える。

作業する労働者の身体的能力が等しいのと同じように自然条件も等しいとすると、他に生産性を上昇させる術はないのだろうか?
もしもそれがないとすれば、歴史を画するほどの産業発展という「近代現象」はなかったはずである。
驚異的とも言える産業の発展があったのだから、それを“人々の恵み”と名付けよう。

“人々の恵み”とは、「現在の労働」における「過去の労働」の寄与である。

食糧であれ衣服であれ、財は「過去の労働」の成果物である。木登りをして採ったリンゴも、木登りという「過去の労働」の成果物である。
多くの「過去の労働」の成果物=財は、消費されるか、生活のために供用されることになる。

生存を維持することに追われていた太古の人々は、“木登り”に終始する生活をし、他に何かをする余裕はあまりなかったはずである。
“自然の恵み”を人々が管理する定住農耕や遊牧に入ってからは、人々は活動の余裕を手に入れるようになった。
その余裕を消費や生活の利便性を高めるための活動に振り向けるとともに、農耕や遊牧をより楽にしたり“自然の恵み”をより引き出すための活動にも向けた。
それは、鋤や鍬の生産であったり、鞍や鐙の生産であったりであろう。

人と猿を分ける活動区分は、労働手段(道具)をつくるかどうかだと思っている。(道具を使うかどうかではなくつくるかどうかが問題)

この労働手段こそが、「現在の労働」における「過去の労働」の寄与である“人々の恵み”である。
消費や生活供用に直接使うためではなく、「将来の労働」のために労働することが“人々の恵み”である。

「近代」における産業の隆盛は、このような“人々の恵み”すなわち機械制大工場が発展したことの社会学的表現である。
“人々の恵み”を最大限に享受してきたはずの産業資本家(経営者)は、それを競争に打ち勝つためやより利潤を大きくするための手段として考えている。

それは、「現在の労働」における「過去の労働」の寄与である“人々の恵み”=製造装置こそが、生産性上昇の原動力だからである。

“自然の恵み”がない産業活動で生産される財は、労働の成果がそのまま体現化したもので富(余剰)というプラスアルファはないという「原理」に照らせば、“人々の恵み”は「原理」に反するようにも思える。


■ “人々の恵み”が利潤をもたらす論理

機械を製造することだけでは“人々の恵み”を得ることはできない。
鉄鋼や合成樹脂などを加工変形するだけで、それに要した労働を超える何物(富)も生み出さないからである。
(発明家の思考を含む労働を超える利得は、別の投稿で説明するが、他者からの移転でありそれ自体が富を生み出したわけではない)

製造された機械装置は、それを使って有用物を生産する労働と結合することで初めて“人々の恵み”となる。
その恵みとは、これまで100人の労働者を必要としたものが80人で済むようになることである。

しかし、それだけでは、本当に恵みなのかは定かではない。
減少した20人×機械装置耐用期間の労働力がその機械装置の製造やメンテナンスのための労働に従事しなければならないのなら、労働が楽になることは別として、恵みにはならないからである。

近代的恵みになるのは、機械装置の製造のために延べ1000人が労働し、その機械装置を使ってメンテナンス(動力も含め)を含めて延べ1200人とかの労働が減少したときである。

近代的評価としては貨幣表現のほうがいいだろう。
機械装置の購入費が100億円として、その耐用期間中にメンテナンス費用を加味して100億円を超える人件関連費の節約ができるときに恵みがあったと言える。
しかし、それでもなお関門がある。その機械装置の耐用期間が過ぎたときに、買い替えができる節約も必要である。それは、一般には、節約ではなく、減価償却費を個々の財に上乗せして販売できるかどうかと考えられるものである。
100億円の機械装置が10年間かけて償却されるものであるなら、年間10億円の人件関連費の節約がプラスされなければならない。
減価償却費を個々の財に上乗せして販売するという発想は、個々の企業にとっては妥当なものであっても、国民経済(世界経済)的には、そのような上乗せ発想は無から有を生み出せると考えるのと同じ誤った考え方である。

(このような経済論理を超えてもなおある機械装置を製造するとしたら、それを使うことで初めて生産でき高値で売れるものか、軍需品などそれなくしては国家目的を達成できないようなものである)


機械装置は、物理的な耐用期間の前に経済的な耐用期間を迎えることもある。
競争環境のなかで事業を営んでいれば、競合企業が大きく生産性を上昇させる機械装置を導入したとき、使用している機械装置がまだ耐用期間だからといってそのまま続けていれば下手をすれば倒産しかねない。
そのようなときには、蓄積した利潤を取り崩すのはもちろんのこと、借り入れをしてでも、設備を更新しなければならない。


戦後日本の高度成長期は、このようなスクラップ&ビルドの過程でもあった。
消費財の生産が増加するだけではなく、資本財(機械装置)やそれを造るための材料の生産も増加する両輪構造が、高度成長経済と呼ばれる活況を生み出し、人々の生活も向上していった。

先ほど説明したように、“人々の恵み”が近代的恵みとなるためには、設備導入コストに見合う人件関連費の減少が必要である。
戦後日本は、高度成長期は中卒者が金の卵と言われるほどの人手不足状態で、80年代までほぼ完全雇用状態を維持した。
国民総体的な財の豊かさ向上は生産性の上昇と完全雇用の両立なくしては達成できない。
高度成長期は、個々の財の生産で大幅な人件関連費を節約(生産性上昇を達成)しながらなお人手不足という類稀なる経済状況にあったのである。

戦後日本が“奇跡の成長”と呼ばれたのは、ただでさえ困難な両立を長期にわたって達成したからに他ならない。
この“奇跡の成長”を支えたのが、生産性の上昇を果たした企業の対米輸出を中心とした輸出の大幅な増加であった。

逆に言えば、輸出の増加(貿易収支黒字)がなければ、生産性の上昇が失業者の増加につながったか、企業収益の悪化で生産性の上昇を果たせなかったことになる。
(利潤が上げられないのに設備投資をする奇特な資本家(経営者)はいなし、損失を被るようだと設備投資に伴う借り入れ債務を履行できないで倒産することになる)


■ 高付加価値製品とは何か?

産業経営者や産業サラリーマンがよく使う言葉に、「高付加価値製品を開発しなければならない」というものがある。

この高付加価値製品とは、“人々の恵み”をたっぷり享受した製品のことであり、他の企業ならまったく造れないか、造れても人件関連費を大量に必要とする製品のことである。
逆に、低付加価値製品とは、いわゆる“労働集約型製品”と呼ばれる人件関連費(「現在の労働」)が販売価格のほとんどを占めている製品である。

このことは、高付加価値製品を生み出すためには生産性を上昇させられる経済条件がなければならないことを意味する。

それは、近代的生産性上昇の論理から、輸出を増加できる条件がなければならないことである。

※ 先進国と後進国の格差にかかわるこの問題については別途説明する。

■ “人々の恵み”と「産業主義近代」の終焉


「近代」とりわけ先進国は“人々の恵み”を己のものにしながら経済成長(国民生活の向上)を達成してきた。

現在の世界を眺めれば、“人々の恵み”を最大レベルで享受しているのは中国と言える。
今回の投稿、そしてこれまでの投稿をお読みになられた方ならご理解いただけるように、「近代経済システム」において“人々のめぐみ”を持続的に享受するためには、貿易収支の黒字を持続しなければならない。

そうでなければ、利潤獲得を動機としている限り誰も、べらぼうな金額が必要な設備投資を積極的に行ったりしない。とりわけ、内部留保がなく、それを借り入れに頼らなければならない企業は、設備投資をしたとしても債務の履行を果たせず倒産することになるから断念することになる。

もちろん、貿易収支が赤字であっても輸出で稼ぐ企業は存在するから、そのような企業は生産性上昇を追及した設備投資を行うことができる。
しかし、国民経済として貿易収支赤字であれば、赤字財政支出がそれを補填する規模で行われない限り、必ず他の企業が損失を計上することになる。(貿易収支が黒字で赤字財政支出が30兆円を超えているなかでも名目GDPが縮小してきたことを思い起こしていただきたい)

A:
企業の長期損失は倒産につながり、銀行の財務には悪影響を与える。
赤字財政支出を増加させていけば、その利払い目的を中心に増税を行わなければならなくなり、勤労者をはじめとするすべての国民の可処分所得は減少することになる。
この間の動向でわかるように、このような現実を知った人々は、現在の消費を抑え将来に備える行動を採るので、可処分所得の減少以上に消費支出は減少することになる。

このような経済状況は、輸出優良企業も、そのために落ち込む国内販売を補填するだけの輸出増加を達成しなければ、利潤水準はともかく雇用水準を維持できないことを意味する。
国際競争条件や諸外国の経済状況によって、それが達成できるかが決まる。達成できなければ、輸出優良企業も、赤字にはならないとしても、生産縮小には向かうことになるから失業者は増加する。
この影響を受けて首切りをする企業や長期損失に陥る企業が出てくる。
B:

それがAに戻り、再びBまで進み、またAに戻るという“悪循環”が続くことになる。

現在の日本は、このような未来に向けてゆっくり歩んでいるのである。

というより、貿易収支黒字と大規模赤字財政支出のなかで、日本は既にこの歩みを続けていると言ったほうが正しい。

(今は、日本政府が米国政府に融通した35兆円ものお金が日本経済に“小康状態”をもたらしているだけなのである。株式市場が現在の水準を保っている最大の要因が、その35兆円をドルと交換した外国人投資家の買いであることも忘れてはならない)

※ この部分は、今回のシリーズのメインテーマなので徐々に詳しく説明させていただく。


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