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(回答先: Re:”人々の恵み”も”自然の恵み”も労働者には回ってきてないみたい。誰が横取りしてるんだろうね 投稿者 ほうれんそう 日時 2004 年 7 月 12 日 16:00:05)
ほうれんそうさん、レスありがとうございます。
【ほうれんそうさん】
「顧客が不特定多数の場合、製造された機械などが質の高いものでなくクレームがついたりしても(生産性の上昇にあまり寄与しない)新しく売る相手がいるので、短期的利益最優先の製造者にとっては合理的でありうると言えます。「その機械を使って購入者が経済メリットを得られること」が幻想であっても売れる場合もあり、利用者が経済的に弱く不特定多数であるほどこの可能性は高まるのではないかと推測しています。つまりこれらの層では”人々の恵み”によって受ける生産性の上昇があまり多くない、逆に言えば少数大企業が最も多く恩恵を受けるとも言えそうです。これは支配者による労働者からの富の吸い上げにも関連しているのでしょうか?(いるような気もするし、いないような気もする...)」
使用価値は商品(財)として売る場合の必須条件ですが、販売者の目的は、それをお金と交換することです。
そのような意識は「近代」のビジネスに関わっていれば自然に強く醸成されるので、より多く儲けるための“物作り”や販売手法に傾いていきます。(この間の日本で噴出した企業不祥事の根っ子にはこのような意識があります)
いちばんいいのは、自分の庭に無数に転がっている石にとんでもないパワーがあるという幻想を持ってもらい、それを高値で買ってもらうことです(笑)
そのような“詐欺商法”は、瞬間芸としてしては可能であっても持続性はないし、それに踏み切れる人間性(普通は非人間性と表現される)を持っている人も少ないから、やはり実際に有用な物を生産し販売することになります。
大企業が持っているブランド力は、すべてとは言いませんが、なんでもない石にパワーがあると幻想することに似た面もあります。(品質が悪くても、○○が造っているのだからいいものだろうと思ってしまう)
かつての日本企業は、「悪かろう安かろう」と言われるものを生産していたこともあり、国際競争力を高めるために品質の向上に励み世界に名だたるブランド力を手に入れるまでになりました。(それが高度経済成長の内実でもあります)
成熟経済になり売上の増加が思うようにいかなくなる一方でこれまでの奮闘で得たブランド力の支えがあると、利益のために手を抜くということが徐々に行われるようになります。“企業不祥事”は、そのような傾向が現象したものだと見ています。
このあたりの問題は、物の生産が使うためではなく売るために行われている限り付きまとうものだと思っています。
それが「支配者による労働者からの富の吸い上げにも関連しているかどうか?」は、徐々に説明していきたいと思っています。(力のある一部企業(支配者)の吸い上げには関連しています)
【ほうれんそうさん】
「まったく同じ製品で購買者の経済力、製品の必要性なども同じと仮定します。ここで電力の値段が急に2倍に上がりました。ソーラーパネルの値段は上がるでしょうか?電気代をセーブしようとする意識を持つひとが増え、全体的な需要は多少は増えるでしょう。更に、1消費者の観点からも将来かかる電力代が上がるわけですから同じ製品に対して払ってもよいと考える価格は上がるでしょう(ここがチャンスとばかりに値下げをして一気に売り上げをのばそうと目論む製造者もいるかもしれませんが)。
もしくは同じ購買者がいて、その製品の製造コストは変わらないまま出力が2倍になったとします(つまり”自然の恵み”をより多く受けられるようになった)。この場合もソーラーパネルの値段は上がると考えられます。」
企業は利益をできるだけ多く上げることをめざして活動していますから、電気代が急上昇してソーラーパネルを設置する経済的利益が明瞭になれば需要が急増するので、価格の引き上げに向かうはずです。
自由競争状態であれば、そのような状況で得られる“余分の利得”をめざしてソーラーパネル製造者が増えるので、価格は“適性水準”に戻ることになります。(このあたりの説明も徐々に行っていきます)
ソーラーパネルの機能が上昇したときも、ソーラーパネルを設置する経済的利益が明瞭になれば需要が急増すると思われるので、価格を引き上げようとする動きが出るはずです。
この場合も、電気代の急上昇と同じような推移で落ち着きを見ることになります。
【ほうれんそうさん】
「”人々の恵み”とは過去の労働が蓄積化された機械・道具などであり、これはその機械などを使ってその機械の生産・維持にかかったコスト以上の生産が行われた時に初めて実現するものですよね。この場合での”人々の恵み”とは「”自然の恵み”を享受できること」であって、それイコール”自然の恵み”とは違うということを示唆しているように思ったのですが、この部分がしっくりきません。将来受ける”自然の恵み”(=この場合は電力)も経済取引の中にすでに含まれているのではないかと思うのですが、それは「“自然の恵み”を受けているときは、既に生産→交換という経済活動を終了しているので、「近代経済システム」の外の出来事」とは別のことなんでしょうか?」
「近代経済システム」の外の出来事」というのは、物の生産が使うためではなく売るために行われているのが「近代経済システム」ということと同じ意味です。
お金を媒介とした交換でない限り、どれほど有用なことであっても、「近代経済システム」の外の出来事になります。太陽電池を製造したメーカーは、それをお金と交換したことで太陽電池を経済外に押し出したことになります。
(家庭内セックスは「近代経済システム」の外の出来事ですが、風俗でのセックスは「近代経済システム」の内の出来事です)
現在のところは、「近代経済システム」はこれほど異様な論理であり、そこに生きる人々は、そのような異様な論理に規定されながら生存(生活)を維持していると考えていただければ幸いです。
【ほうれんそうさん】
「最終的に言いたいのは、”人々の恵み”も”自然の恵み”(太陽電池など恵みを享受するのに機械を必要とする場合)も、実際に生産に関わっている労働者が受ける前に吸い上げられているようだということです。まわりくどい説明ですみません(汗)」
労働者が受ける“恵み”は、活動力を売って得られるお金以外にありません。
自分が参加した労働過程の成果ははじめから他人のものなのです。
それが吸い上げになるのかどうかは、徐々に説明していきたいと思っています。
【ほうれんそうさん】
「でも一応答えが来たのでちょっと一言。「同種の財の質的差異は、結局のところ価格(需要動向)によって推測するしかありません」とのことですが、そうなると重要なのはどんな場合にこれが当てはまらないのかということでしょうか。例えば野菜など”自然の恵み”を受けているもの(だけであるとは限りませんが)は旬の時ほど質が高く出回る量も多く価格も安いということがあります。更に「同種」というのもくせもので、「イチゴもみかんも果物だから同じ」と言う人もいれば「豊水と20世紀は違う、XXXのがうまい」という人もいますね。もうひとつ、違った時点(世界)での同一の物は違ったものと見なされる(つまり質的差異が測れない)こともありえますね(現在の日本、100年前の日本、現在のロシアの米の質の違いは価格(需要動向)では測れないように見えますが)?」
価格(需要動向)によって推測できるのは、共時的に取引されている“代替的財”のあいだのみです。
このあたりの問題も、自分が食べたいものをつくっているわけではなく、売れるものそれもできるだけ利益を上げられるもの(お金になるもの)をつくっているという問題につながります。
実際に消費する人たちがオレは豊水、オレは20世紀、オレはXXXが食べたいからそれをつくるというわけではなく、市場に出回っている梨のなかから好みのランクを付けて見合うお金を支払って手に入れている状況だから、価格(需要動向)によって推測するしかないわけです。
ある人の味覚やある指標(糖度)などによる質的差異に意味があると思っていますが、経済的考察ではそうなるとご理解いただければ幸いです。