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(回答先: 「近代経済システム」(近代的生存様式)の特異性 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 12 日 17:37:12)
あっしらさん、またまた分かりやすいレスありがとうございます。前回のレスからちょっと確認したいことがあるので、そこを中心に書きます。
簡単にまとめ:
・販売者(製造者)の目的は商品の使用価値をお金と交換
・単体では使用価値アップー>価格アップだけれど、総合的に見た場合は使用価値ダウンー>売上(価格x販売量)アップもありうる。
だから販売者としては、商品の使用価値と売上の平衡点を目指すことになる(つまり物によってはほとんど役立たずの商品が販売者にとって一番儲かるということもある)
・この場合の使用価値とは、購入者が期待している使用価値であり、実際とは違う。使用価値=実際の使用価値+購入者の幻想(詐欺商法に限らずブランドなど)
・(っつーことはなんだ。やり手の詐欺師ほど儲かるってことと同じじゃんか)
ここで確認事項ですが、前のレスに書いた、<利用者が経済的に弱く不特定多数であるほどこの幻想の占める割合が多くなりがち>についてはどうお考えでしょうか?(支配者による富の吸い上げの大部分が「貨幣が貨幣を生む」ような金融主義に帰していることは認識していますが、その他の原因なども含め完全に理解していないので初歩的な質問が多くなってしまいます。後の投稿にまとめてくださっても結構です)
ソーラーパネルの続き:
電気代やソーラーパネルの出力によって値段がどう変わるかを持ち出したのは、最終的な生産が”自然の恵み”によるものであることでの特殊性が「生産→交換という経済活動」にあるのかどうか疑問に思ったからです。例えばこれが石油発電機(重要な違い:石油は使えばなくなる、使うたびに買わなければならない)であった場合のはどう違うのかということです。あっしらさんのレスからは「同じ」と言っているように思えました。
ソーラーパネルが自家発電に使われた場合、生産活動に使われた場合、電力として売られた場合との違いなども考えていたのですが、どれもソーラーパネルの製造、売買という経済活動が行われた後のことなので、その経済活動には影響しないと理解しています。更にどの場合においても、ソーラーパネルがもたらす”恵み”の全ては(個人差はあるだろうが)その価格を通して生産者に戻っていると理解しました。(間違っていたらつっついてください(笑)
「労働者が受ける“恵み”は、活動力を売って得られるお金以外にありません。
自分が参加した労働過程の成果ははじめから他人のものなのです。」
とありますが、例えば自転車屋のおやじが息子の自転車を修理しているときは、「労働者」ではないということになります(家庭内セックス、風俗でのセックスの例えに似てますね)。もう一つ、労働者が生産活動と引き換えに他の労働者の生産活動を得る場合(例えば自転車やのおやじが豆腐やの自転車を修理するかわりに豆腐をもらう。お金を通さない労働と労働の交換)でも、取引に関わった修理と豆腐は「近代経済システム」の外の生産と見なされると言えます。
物理的に同じ生産活動が「近代経済システム」の外で行われた場合、社会のためにはなっているが近代経済的生産とは見なされないということになるんでしょうか(目に見えない生産)?
あっしらさん
「同種の財の質的差異は、結局のところ価格(需要動向)によって推測するしかありません」
「価格(需要動向)によって推測できるのは、共時的に取引されている“代替的財”のあいだのみです。」
つまり昔と今であるモノの質が向上したかってのは分からないってことになりますね。「昔のがよかった」というのはあながち間違いではないのか。
とりあえず納得。