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(回答先: 太陽電池:商品としては“人々の恵み”で、利用においては“自然の恵み” 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 11 日 01:34:46)
あっしらさん、レスありがとうございます。
ほうれんそう:
「このように”人々の恵み”を最大化することは、むしろ機械の製造者にとっては利益にならないということがありえます。(略)
あっしらさん:
「そのようなことは機械(生産手段)に限らず、消費財においてもよくあることです。
普及期が終わった商品は買い替えをしてもらわなければなかなか売れないわけですから、見栄えは良くても保証期間を過ぎたら壊れてしまうくらいの品質がいいと思うメーカーも少なくありません。
機械を製造している企業も似たような発想をするところはあるはずですが、自己の利益を最優先する機械の製造者も、「過去の労働」が寄与するメリットを理解する機械を製造しない限り誰も買ってくれないことを知っています。
それに、相手が不特定多数の消費者ではないので、品質のチェックも厳しいものがあります。
独占メーカーはあこぎな商売をするかもしれませんが、競争環境にあり、相手が顔見知りである機械(生産財・資本財)製造企業は、抑制的な商売をしなければ泡沫で終わってしまいます。
(独占メーカーであっても、その機械を使って購入者が経済メリットを得られることは販売の必須条件です)」
消費財については、企業の利益追従が必ずしも(というか多くの場合)利用者に利益を与えることと繋がっていないということは、現在の経済システムにおいてかなり大きい問題であると認識していますが、簡単にいえば、企業はモノを使うために作るのではなく売るために作るので粗悪品が多くなるという傾向でしょうか。私の疑問点は、このような「”人々の恵み”を最大化することは、むしろ(機械の)製造者にとっては利益にならないということ」が消費財でない「過去の労働」の結晶である機械などにも当てはまるのではないかという点でしたが、あっしらさんのレスからは、あることにはあるが消費財ほどではないという印象を受けました。
ではどれくらい影響があるのか考えてみましたが、ここで疑問点があります。
上に書かれたような、製造者が利益をあげるために製造している機械に「過去の労働」を最大限に注入しないことを品質チェックなどを通じて抑制する仕組みは、絶対的な貨幣の取引が大きい大企業間のほうでより発揮されるが、「不特定多数の消費者」に近いような零細企業などに対してはないがしろにされる可能性があるのでないかということです(機械の消費財化)。
顧客が不特定多数の場合、製造された機械などが質の高いものでなくクレームがついたりしても(生産性の上昇にあまり寄与しない)新しく売る相手がいるので、短期的利益最優先の製造者にとっては合理的でありうると言えます。「その機械を使って購入者が経済メリットを得られること」が幻想であっても売れる場合もあり、利用者が経済的に弱く不特定多数であるほどこの可能性は高まるのではないかと推測しています。つまりこれらの層では”人々の恵み”によって受ける生産性の上昇があまり多くない、逆に言えば少数大企業が最も多く恩恵を受けるとも言えそうです。これは支配者による労働者からの富の吸い上げにも関連しているのでしょうか?(いるような気もするし、いないような気もする...)
太陽電池について
あっしらさん:
「産業的商品は、有用物であると同時に労働成果物でなければなりません。(商品という物がもつ価値と利用価値という二重性です)
太陽電池という商品そのものは過去の労働と結合した労働の生産物ということで“人々の恵み”であり、購入した人が太陽電池を利用する有用性は“自然の恵み”が享受できることにあるというものです。
太陽電池が“自然の恵み”を受けているときは、既に生産→交換という経済活動を終了しているので、「近代経済システム」の外の出来事です。」
太陽電池についてですが、最後に「“自然の恵み”を受けているときは、既に生産→交換という経済活動を終了しているので、「近代経済システム」の外の出来事」と書かれていますが、太陽電池などの価格には将来起こる”自然の恵み”による生産(発電)も含まれていると考えることはできるのでしょうか?消費者の論理としては購入するものの価格がそのものの有用性に見合っているかが問題で、例えば自家発電用にソーラーパネルを買う場合、それによってセーブできる電力にかかるコストもソーラーパネル自体の価格と比較する重要な要素であるはずです。
ソーラーパネルという商品の値段を決定するものは何かを考えています。”自然の恵み”の「量」も含まれていると言えそうです。
まったく同じ製品で購買者の経済力、製品の必要性なども同じと仮定します。ここで電力の値段が急に2倍に上がりました。ソーラーパネルの値段は上がるでしょうか?電気代をセーブしようとする意識を持つひとが増え、全体的な需要は多少は増えるでしょう。更に、1消費者の観点からも将来かかる電力代が上がるわけですから同じ製品に対して払ってもよいと考える価格は上がるでしょう(ここがチャンスとばかりに値下げをして一気に売り上げをのばそうと目論む製造者もいるかもしれませんが)。
もしくは同じ購買者がいて、その製品の製造コストは変わらないまま出力が2倍になったとします(つまり”自然の恵み”をより多く受けられるようになった)。この場合もソーラーパネルの値段は上がると考えられます。
”人々の恵み”とは過去の労働が蓄積化された機械・道具などであり、これはその機械などを使ってその機械の生産・維持にかかったコスト以上の生産が行われた時に初めて実現するものですよね。この場合での”人々の恵み”とは「”自然の恵み”を享受できること」であって、それイコール”自然の恵み”とは違うということを示唆しているように思ったのですが、この部分がしっくりきません。将来受ける”自然の恵み”(=この場合は電力)も経済取引の中にすでに含まれているのではないかと思うのですが、それは「“自然の恵み”を受けているときは、既に生産→交換という経済活動を終了しているので、「近代経済システム」の外の出来事」とは別のことなんでしょうか?
最終的に言いたいのは、”人々の恵み”も”自然の恵み”(太陽電池など恵みを享受するのに機械を必要とする場合)も、実際に生産に関わっている労働者が受ける前に吸い上げられているようだということです。まわりくどい説明ですみません(汗)
りんごの例をあげた質的な豊かさですが、疲れてきたのでまた別の機会に取り上げることにします。ちょっと説明不足でしたので...
でも一応答えが来たのでちょっと一言。「同種の財の質的差異は、結局のところ価格(需要動向)によって推測するしかありません」とのことですが、そうなると重要なのはどんな場合にこれが当てはまらないのかということでしょうか。例えば野菜など”自然の恵み”を受けているもの(だけであるとは限りませんが)は旬の時ほど質が高く出回る量も多く価格も安いということがあります。更に「同種」というのもくせもので、「イチゴもみかんも果物だから同じ」と言う人もいれば「豊水と20世紀は違う、XXXのがうまい」という人もいますね。もうひとつ、違った時点(世界)での同一の物は違ったものと見なされる(つまり質的差異が測れない)こともありえますね(現在の日本、100年前の日本、現在のロシアの米の質の違いは価格(需要動向)では測れないように見えますが)?(一言じゃなくなってしまった...)