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(回答先: 「産業主義近代」の終焉:“自然の恵み”ではなく“人々の恵み”が産業を発展させ生活も向上させてきた。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 10 日 00:22:36)
あっしらさん、はじめまして。ほうれんそうです。
ちょっと疑問なんですが、最初の部分で「産業生産物がより多く手に入るということは、誰が担うかは別として、人がより多く労働する以外にない。」と言っておきながら「「生産性の上昇」は、詰まるところ、同じ財の同じ量の生産がより少ない労働で達成されるようになることである」とは一見矛盾しているように見えるのですが、ここで言う「労働」とは後で触れている現在と過去の労働の両方を含むものなのでしょうか?更に「過去の労働の寄与」は「現在の労働」とは違い複数回に渡って影響するものと理解していますが(つまり”人々の恵み”のもと=労働手段=道具・機械は継続的に利益(労働力)を与え続ける)、これが一見矛盾しているように見える原因でしょうか?
例え:薪は一回使えばなくなってしまうが、それをより効率よく使うことのできる薪ストーブは何十年もの使用が可能であり、それを使うことによって余分に得られる「生産」の総量は薪ストーブの製造・維持にかかるコストよりも大きくなる。(あまり適切な例えではないような気もしますが...)
上に書いた点がだいたいあっているとして(うわ)、もう一つ気付いた点ですが、”人々の恵み”が労働手段、つまり道具・機械であるということは理解しましたが、これは必ずしも同じ人による過去の労働とは限りません(その場合のほうが少ないと思います)。ということは、この機械なども経済取引を通して利用者に行き渡るはずで、この時に機械の生産目的は通常はその製造者にとって最大の利益をもたらすことであり、必ずしも利用者にとって最大限の「過去の労働の寄与」をすることではないとも言えます。
例えば同じような機械を作って利用者に売っている製造者がいるとして、他に代替品はないとします。その場合製造者にとっては機械の寿命が短いほうが利用者が買い換えなくてはならないので得になるが、利用者にとっては寿命が長いほうが”人々の恵み”をより多く受けられる。
このように”人々の恵み”を最大化することは、むしろ機械の製造者にとっては利益にならないということがありえます。(ただ単に1企業の利益追従≠(黒字貿易の恩恵を受ける)国としての総生産量の最適化と言っているだけかもしれませんが)
この点についてはどうお考えでしょうか。
もう一つ:太陽電池は自然の恵み?人々の恵み?
最後に、こういった分析では「質」的な豊かさというものはどう計れるのでしょうか。例えばりんごを作るとして生産量と労働が全く同じだとします。価格など全ての条件が同じとして、あるりんごはおいしかったりビタミンが多かったりというようなものです。生産されたものの「質」が将来の労働に影響するならばそれを将来の労働時間の短縮として計算することもできると思いますが、そうでない場合はどうなんでしょうか。別に質問したほうがよかったかな...