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「利潤のない世界」とはゼロサムではなかった世界がゼロサムになる世界:お金は“電話線”のようなもの。
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/707.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 10 日 19:47:41:Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: Re: 「産業主義近代」の終焉:“自然の恵み”ではなく“人々の恵み”が産業を発展させ生活も向上させてきた。 投稿者 ピカリン 日時 2004 年 7 月 10 日 08:51:54)


ピカリンさん、どうもです。

>利潤のない世界が、必ずしも貧しい暮らしでも不幸な暮らしでもないと、あたしも思
>います。


「利潤のない世界」とは、生産性の上昇を促進する誘因がゼロになり、誰かが利潤を得れば、他の誰かがその分損を被ることが明瞭になる現実です。
(“人々の恵み”を享受しようとすることが、逆に経済社会に災厄をもたらす状況)

現在そしてこれまでの世界は、生産性の上昇が達成され続けたので、誰かが利潤を得ても、他の誰かが損失を被っているとは見えにくかったのです。

このあたりの問題は、貨幣も絡む複雑な説明が必要ですので別途説明させていただく予定です。
現在のところは、より多く儲けたひととあまり儲けなかったひとという区分でも済む状況だったとお考えください。

よく「世界はゼロサム」だと言われたりしますが、近代経済システムは、必ずしもゼロサムではありません。
下世話な話になりますが、戦後日本の株価指数推移を見ればわかるように、ドジなひとは別として、89年まではインフレ率を考慮してもみなが利益を上げられました。
それを支えてきたのが、生産性の上昇と完全雇用が両輪になっての経済成長です。

「産業主義近代」の終焉とは、生産性の上昇と完全雇用が両輪にならないどころか、企業に生産性上昇の追求を合理的だと思わせない時代が到来することを意味します。

そのような時代をどのように制御していくかが、“彼ら”と庶民のあいだのせめぎあいのテーマになります。
そして、“彼ら”の支配が続けば、「利潤のない世界」は、この間の日本のように、総体的平均生活レベルが徐々に低下し、将来不安を抱えながら自分(家族)だけはなんとか脱落しないようにという思いがはびこる世の中になります。

私が主張している「国民経済主義」やそのずっと先にある「開かれた地域共同体」は、「利潤のない世界」でも“自然の恵み”と“人々の恵み”を活かして少しずつでもより心地よく生きていける政策や制度です。

>ただし、我々の感覚が、今と変わらないとするならば、お金や儲けがないことに、不
>安や汲々とした感覚から抜け出せないのだろうと思います。
>では、どうしたら、利潤がなくても生き生きとした暮らしができるようになるので
>しょうか?

>ひとつには、お金の問題があります。
>すべからく、お金で換算することに慣れているので、つまるところ、生活そのものを
>損得で考えている我々に、問題があると考えます。


「利潤のない世界」が庶民にとって暗く苦しいものになるのか、それとも明るく安らかなものになるかは、庶民多数派の世界観(現実認識)や価値観が今後10年ほどでどのように変わるかにかかっています。

現実認識でポイントになるのは、ピカリンさんがご指摘されているようにお金の問題です。
「何でも買え何でもできるお金」その裏返しとしての「お金がなければ何も買えず何もできない」という考え方は、誤りでも錯誤でもありません。
自営農であればそのような囚われからは少しは「自由」になれますが、都市勤労者は、お金の持つ絶対的な力から「自由」になることはできません。

この間書き込みしている様々な内容の底に共通して流れているのは、確かにお金は絶対的な力を持っているが、それはお金そのものの力ではなく、人々の活動の力なんだという見方です。

お金は、人々の活動を交換する媒介物、言うならば、人々のコミュニケーションを媒介する電話線でしかないという論理です。
お金を保有する意味が、お金自体を増やすことではなく、財やサービスを手に入れることにあるのなら、それは、他の人たちの活動成果を手に入れることに他なりません。
そして、自分がお金を稼ぐ手段は、自分がなんらかの活動に従事することです。

この二つを合わせて考えれば、お金は、ただたんに「見知らぬ人々のあいだの活動(成果)を交換する手段である」ことがわかるはずです。

お金を基準として豊かになるということであっても、それは、「見知らぬ人々の活動(成果)をより多く得られること」なのです。

ですから、問題なのは、単なる媒介物であるお金ではなく、人々の活動力であることがわかるはずです。

これをベースに考えれば、失業者が増えるということは経済的な活動をする人が減ることなのですから、一見、「見知らぬ人々の活動(成果)をより多く得られる」ようになったとしても、同じ条件で「見知らぬ人々のあいだの活動(成果)の交換」が十全に行われているときに較べると、確実に“逸失利益”があるのです。

貨幣経済であっても、貨幣自体が財やサービスを供給しているわけではないという、ちょっと考えればわかるはずの事実を多くの人が理解すれば、お金に囚われた考えからは脱却できると思っています。
(寄生者である“彼ら”には理解できなくても、自分の活動力を頼りに生きている庶民であれば間違いなくわかるはずです)


>もうひとつは、それと同じことなのですが、貿易黒字が生み出せない状況になるなら
>ば、黒字という概念も所詮はお金に換算したものだと思われますので、国家間で、
>バーター取引にするというのはどうでしょう?(現在、そうしたものがあるのかどう
>か、あたしは知らずに書いています)
>たとえば、A国では、機械が足りませんが、フルーツはたくさん取れます。
>そこで、日本からは機械を輸出する代わりに、それに見合うフルーツをいただきま
>す。(もちろん日本で需要があるというのが前提ですが)
>お金も介在しますが、それよりも、双方得意なもの同士での取引をするところが、ミ
>ソだと思います。(環境問題も若干意識して書いています)

これは、上述したように、お金は「見知らぬ人々のあいだの活動(成果)を交換する手段」ですから、バーター取引であろうが国際通貨決済であろうが基本的には同じになります。

バーター取引は、旧ソ連圏のように、貿易規制が敷かれ国際決済通貨が入手しずらい国との交易では使われましたが、ある輸出入取引を個別同時に決済するというだけで、論理上は通貨決済をしていることになります。

通常は、輸出は輸出、輸入は輸入と片方向だけの取引で、その総和が貿易収支という数字で表現されることになります。
貿易収支から逆に思考実験的にたどると、多国間のバーター取引と国際決済通貨の過不足を埋めるための貸借で貿易が成り立っていることがわかります。


バーター取引を「近代」と違う意味の国際交易の手段として使おうとするのなら、

「価格評価をしないバーター取引:A国もB国もフルーツは余剰になっている。A国のフルーツのほうが安い(同じ機械の量で多くのフルーツが手に入る)が、A国は機械をそこそこ持っている。B国は機械がなくて困っている。だから、日本は、今回の余剰の機械をB国に輸出してB国からフルーツを輸入しよう」

といった、「近代経済システム」の論理から抜け出した価値観や取引が必要になります。

>そんなことを考えた時、ひとつ引っかかるのが、例の支配層なのですよ。
>あの人たちは、そういうことにもチャチャを入れてくるんですか?

お金にすがっている代表が“例の支配層”です。

寄生者である“彼ら”は、お金の力と支配権力のすがるしかないというかすがろうとするものです。

ですから、“彼ら”が寄生者であり続けようと思う限り、お金の力が“無効化”するような動きに対しては全力をあげて対抗してくると予測しています。

前々から“彼ら”と話をしたいといっているのは、“彼ら”に寄生者として生きることを断念してもらいたい、世界支配まで考えてきたのだから寄生者をやめて地に下りても有用で有能な働きをすることができるのだから無問題だと口説きたいからです。

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