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(回答先: 『共同幻想論』に興味はありますか。 投稿者 如往 日時 2003 年 8 月 31 日 03:25:18)
如往さん。こんにちは。
(共同幻想論について)
私は、角川文庫版が出たときにざっと読みましたが、良く理解できなかったというのが正直なところです。
独特の術語(用語)が多いことに違和感を覚えました。
ですから的外れな感想になるかもしれませんが、ご容赦下さい。
(善きつけ悪しきにつけ、私の同世代は吉本流世界(歴史)認識の洗礼を受けたものでした。さらにもう少し前の世代は詩人としての吉本隆明というモメントに同期した人達が大勢います。けれども、彼の『固有時との対話』や『転位のための十篇』は私にとって決して身体性として結実し得ない精神のコスプレの対象とでしか、その心象風景を想像することができません。)
不勉強にして彼の詩は読んでおりません。
共同幻想論を読んだときは、よくこんな難しい本が全共闘のバリケードの中で読まれたものだと感心しました。
その世代の方にしか分からないことなんでしょうね。
私はそもそも吉本(敬称略)の話を他人としたこと自体がありません。
(『異端と正系』に既定のあるContextをトレースして文明や歴史を読み解くのではなく、例えばマルクス主義というFunctionの試行と集積による展開に、戦後世界のメルクマール擁立となるべきParameterを求めるという営為を穿つことができると感受していました。またそれは理系の吉本ならではの視座の提示であったと思われます。)
共同幻想論は、いわゆる「上部構造」が「下部構造」に対して独立的に動くという議論をしていたと思います。
そして、遠野物語、古事記をテキストとして深く読み込むことによって、下部構造の検討をとりあえず抜きにして(還元して)、上部構造(観念)の動きを探ろうという試みでした(難しい本なので、あまり自信がありません)。
マルクスは、下部構造が上部構造(観念)を規定するという考え方だったはずですね。 吉本(敬称略)はそういう批判を意識して身構えていたように思います。
しかし、下部構造が上部構造(観念)を規定するという考え方はマルクス「主義」では大事な点ではないんでしょうか?
いろいろ口で言っても、地主は地主、資本家は資本家で、労働者や小作人とは違うという出発点−これが互いに相いれざる「階級」の認識ですよね。
意識は階級によって規定されるのであり、決してその逆ではない。
マルクス主義では、この互いに相いれざるはずの階級が、とりあえず自らを止揚する妥協の場を「国家」と考えていたのではないでしょうか?
従って国家は歴史的に過渡的なものであるわけです。
吉本の議論は、マルクス「主義」にとっては重大(に見える)この論理を否定(少なくとも希薄化)しているように思えました。
これってマルクス主義なんでしょうか?
吉本も自らを「マルクス者」であると述べています。
角川文庫版では、共同幻想論の発想について吉本自身が語っています。
マルクス主義では、アジア的王政を、モンスーン地帯という自然的制約下に過剰生産力を現出させる専制として把握するようです。
治水、灌漑機構、運河を初めとする生産力増大のための大規模土木工事をアジア的専制の遺跡として見るようです。
日本は、島嶼としての条件から、ユーラシア大陸のような大規模遺構を見ることができません。
治水灌漑は共同体的に小規模に行われてきたように思われます。
しかし、吉本は、ユーラシア大陸のような物理的な遺構とは異なる観念的遺構=観念の専制遺構を探ろうとしたと述べている(と思います)。
下部構造決定論では不十分だとして一歩踏み出した動機はここにあったようです。
下部構造決定論では、日本的専制を十分に把握することができないという問題意識。
従って、おそらくは、国家の消滅には、下部構造の革命だけでは不十分であるという問題意識。
共同幻想論は二部に分かれています−遠野物語編と古事記編。
遠野物語編においては、共同体の周縁(限界)に位置する巫者の入眠幻覚から、その共同体をまとめる外部のシンボルの出現を検討している(ように思われます)。
共同体への外部へのおののきという不可視の何者かを可視化しようとする営為として、遠野物語編は非常に優れているように思います。
古事記編はそれほど簡単ではありません。
ここでは血の問題−特定の近親相姦の禁止に、複数の共同体を超える国家の成立を見るという議論をしていますね。
確かに血という観念に国家の観念的成立を見るという問題意識は妥当性がありそうです。
また下部構造に還元できないという理屈も納得がいきます。
こうした思想は、一方においては南島論として、周縁から天皇制を相対化するという営為に向かい、他方では現実の重層的把握という方向に向かっていると理解しています。
ただ、古事記編は、テキストが多義的というか、テキストにあまりにも過剰な装飾、はっきり言って古代支配者の恣意的な歴史改竄が含まれていることから、テキストとして適当だったのかという疑問は感じました(だからと言って他に適当なテキストはないんでしょうけど)。
こちらについては、むしろご教示頂けますと幸いです。
(私がロマン・ロランを牽いた表向きの理由はご了解いただけていると思っています。また、ロマン・ロランにはベル・エポックへの憧憬が作用していたのではとの推測と日本では灰谷等が今日的な意味での回復を称揚していることを踏まえて、すみちゃんさんと同じような認識を持っています。)
「すみちゃん」でいいですよ。
ロマン・ロランの「同胞」は比較的狭い範囲であったと理解しているわけです。
(すみちゃんさんが考えている「同胞」の意味を教えていただけないでしょうか。地理的意味でしょうか、言語的意味でしょか、歴史的意味でしょうか、状況を超えて顕現する「同胞」の諸相及び意味とは何になるのでしょうか。)
あまり深く考えていません。 ごめーん。
最近は、近所でときどき夜逃げ、競売があります。
隣家は今年競売となり、出ていってしまいました。
そこには6歳の子供がおり、ウチと仲良しだったのですが。
最近は幼稚園も急にやめてしまう人がおられます。
「戦友」を失った気持ちです。
正直言って私に実感(共感)できるのは、ご近所くらいではあります。
テレビをまったく見ないので、世界の人々のことは良くわかりません。
そういうわけなので、私としては、とりあえず日本国の経済状態、政治環境が良くなって、世界中の人々に良い方向を指し示せるようになれば良いと念じております。
そういう意味で国民国家に意味があろうと考えています。
国民国家は究極的には過渡的なものでしょう。
しかし近未来においてマルチチュードが全世界的に連帯するといった可能性は私に信じられませんね。
地理的、言語的な障壁は大きいように感じられます。
どちらかと言うと、各国における階級分断と固定化の方が現実的かもしれません。
日本においてもそうですね。
幼稚園でも、皆さん都立高校は駄目だという方が多いです。
幼児らが大きくなる十数年後には、もし成績が良く、家庭の経済状況がよければ、一部の私立進学校に入るか、あるいは英国、米国等に留学することでしょう。
各国の裕福な家庭の子女は英語で話し合うことでしょう。
「中産階級消滅」的な近未来が待っているのかもしれません。
裕福な家庭の子女にとっての同胞は、外国の裕福な家庭の子女であって、日本国民でも居住者でもないという時代になるのかもしれません。
戦前は意外にそういう時代だったんでしょう。
自国民に共感できない人たち−これが階級でしょう。
世界的にこういう傾向が長く続けば、世界各国のマルチチュードが連帯するときもくるのかもしれません。
そのときには翻訳ソフトの進歩で言語障壁はかなりとり払われているのかもしれません。
あまり望ましい世界ではないなと思いつつ、それが到来しそうな予感はあります。