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(回答先: Re:共同の幻想という発想 投稿者 すみちゃん 日時 2003 年 9 月 03 日 18:17:39)
すみちゃんさん、こんにちは。
レスありがとうございます。
先ずは、今回『共同幻想論』と一聯の著作を再び紐解くことにより、80年頃より懐いていた吉本隆明にたいする不信の所在が明確になったと伝えるべきだと思います。同時に、すみちゃんさんが社会心理学的な論考に深く立ち入ろうとしないことにたいする疑念が氷解したとお伝えすべきとも感じました。けれども、この件については機会をあらためて触れて欲しく思ってもいます。何故なら、幾ばくかの質問もありますし、またスサノヲにとっての本源的な失地回復の要諦が潜んでいると見るからです。
>そういうものなんですか。 上部構造の解体。解体後のことは考えていなかったということ?
確か50年頃には組合活動に身を投じていましたので、吉本自身には解体後の展望がそれなりにあったでしょう。しかし、60年前半の全学連では、分派していく過程で包括的なシステム論は遺棄されていったと想われます。その空白を埋めるために、60年代後半の全共闘世代では、取り分け中華人民共和国(毛沢東)の政治論に雪崩れ込むように準拠していったのです。
>吉本(以後敬称略)は、復員して共同体へと家族のもとへと喜んで帰って行った人々のことを非常に考えているのではないですか?共同幻想論を読むとそういう感じがします。共同体とその「外部」への執拗な関心にその視線が現れているようです。
もちろん、復員者とその家族のことも視野に入っていたと想いますが、吉本にとっては何よりも先ず死者たちの遺志をどのように掬い取るべきかが問題であったと思います。そこからでないと、戦後に向うことができなかったのではないでしょうか。
>日本列島においては、ユーラシア大陸に見られるような明確な専制遺構が乏しい代わりに、多数の共同体の外部として君臨する観念の専制遺構があるという問題意識ですよね。その観念の専制遺構は、治水運河といった物的な現実態を欠いているが故に、かえって明瞭に看取可能な地層として露出しているという考え方ではないか?その観念の専制遺構は、物的現実態が優勢な大陸においても存在しているものであるが、それは地層として伏在しているという発想みたいに思えます。
確かに、伝統的な上部構造の解体を試行しながら、同時に日本列島というMatrixの永劫なる何かに育まれた統御の形見のようなものを探索していくというのは奇妙な当為に見えます。しかし、やはり重点は前者におかれていると解釈しています。(私自身は「上空飛行的思考」に傾くのをできるだけ回避したいと考えていますが、さりとてしっかりと地に着いた全身的思考もかなわず、右往左往しながら這いずり回っているような状態です。)
>国家は観念である。 共同の幻想である。確かにその通りですね。素人から見ると、むしろ当たり前のことを言ってるなという感じしかしません。マルクス学者の世界では当たり前ではないみたいですね。
特にマルクス主義者にとってはコンセンサスを形成する上での重要な前提であり、そうでなければ「国家」=「(暴力的)支配装置」が導き出されないでしょう。
>吉本の構想では、共同体の外部へのおののきが、古代において特定の集団へと回収され、統合されていった、その観念の運動をとらえようとしていたのでしょうか? 従って、遠野物語編は両義的なものとなるわけです。一つは天皇制への回収(呈上)へと向かうものとしての外部、もう一つは、そのような呈上へと向かう必然性を必ずしも有しない共同体を統合する一種の異形の力場としての外部。
たとえ象徴的なものとして捉えることを許容されても、吉本は死んでも前者には与しないと思います。これまでの自身の営為にたいする裏切りになるからです。ただし、後者に関する微かな揺れやメルクマールの不提示の無責任にたいする不信感を拭い去ることはできません。尤も、思想構築過程について色んな点で学ぶことができる吉本理論でありました。
なお、「観念の専制遺構」とは?(マルハナバチさん)へのレスにも注目しています。
また、会いましょう。