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(回答先: Re: 同胞とは何か?国家と階級について想うこと 投稿者 如往 日時 2003 年 9 月 02 日 21:09:56)
如往さん。 レスありがとうございます。
『固有時との対話』『転位のための十篇』『異端と正系』は未読です。
(吉本(敬称略)はさらに、では戦後思潮を築こうとしていた日本の左右両方の文学潮流にたいする批判を試みます。戦前・戦中・戦後と日本においてそれまでの文学や思想はある特定のContextに倣ったもので独自性の欠片もないと批判し、逸早く一定のContextに依拠することから脱して自身が用いているFunctionとParameterを再検討し新たな「試行」を開始すべきとのメッセージを発していたと悟ったのは、しかしずっと後になってのことでした。つまり、当時の私たちは上部構造の解体だけに一切の望みを託していただけで、その向うに新たな実存のメルクマールを見い出そうとしていたわけではなかったのです。)
そういうものなんですか。 上部構造の解体。
解体後のことは考えていなかったということ?
(死地に導かれた人々の相貌を自らの詩作の才で受け留め、その後responsibleなものとしてマルクス主義を設営していったというのが経緯ではないかと推量しています。)
吉本(以後敬称略)は、復員して共同体へと家族のもとへと喜んで帰って行った人々のことを非常に考えているのではないですか?
共同幻想論を読むとそういう感じがします。
共同体とその「外部」への執拗な関心にその視線が現れているようです。
(【下部構造決定論では不十分だとして一歩踏み出した動機はここにあったようです。下部構造決定論では、日本的専制を十分に把握することができないという問題意識。従って、おそらくは、国家の消滅には、下部構造の革命だけでは不十分であるという問題意識。】には、吉本思想の過激なアジェンダが隠されているのですが、それを受け入れるか否かによって「呈上」ないしは「降服」に導かれる分岐点があると思量しています。)
日本列島においては、ユーラシア大陸に見られるような明確な専制遺構が乏しい代わりに、多数の共同体の外部として君臨する観念の専制遺構があるという問題意識ですよね。
その観念の専制遺構は、治水運河といった物的な現実態を欠いているが故に、かえって明瞭に看取可能な地層として露出しているという考え方ではないか?
その観念の専制遺構は、物的現実態が優勢な大陸においても存在しているものであるが、それは地層として伏在しているという発想みたいに思えます。
国家は観念である。 共同の幻想である。
確かにその通りですね。
素人から見ると、むしろ当たり前のことを言ってるなという感じしかしません。
マルクス学者の世界では当たり前ではないみたいですね。
(伝統的上部構造の解体のために古事記を牽いたのはやや難があったと見ています。)
古事記をテキストとすることの危険性について、吉本は自覚的なようです。
吉本は、「悲劇の解読」において、小林秀雄の「本居宣長」を蒙昧にすぎないとして批判しています。
特に本居の言語感覚のデタラメさに対する批判は冴えています。
(遠野物語については、・・・・・共同幻想には異形の命脈に上部構造や下部構造から醸し出されるのとは異系のものの息吹を感じることは可能だと思われます。)
吉本の構想では、共同体の外部へのおののきが、古代において特定の集団へと回収され、統合されていった、その観念の運動をとらえようとしていたのでしょうか?
従って、遠野物語編は両義的なものとなるわけです。
一つは天皇制への回収(呈上)へと向かうものとしての外部、もう一つは、そのような呈上へと向かう必然性を必ずしも有しない共同体を統合する一種の異形の力場としての外部。
しかし一読して心に残るのは、明らかに後者の異形としての外部です。