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(回答先: Re: 共同幻想論の指導動機は展開されたのか? 投稿者 すみちゃん 日時 2003 年 9 月 04 日 17:20:49)
すみちゃんさん、こんにちは。
毎度レス、大へんありがとうございます。
>私は吉本(敬称略)の著作をそんなに読んでいないのですが、やはり「後者」に関するメルクマールの提示は十分に果たされていないのでしょうか。
>共同幻想論、特にその前半は驚くべき傑作であることは間違いありません。これは更に敷衍展開されていくべきものに思えます。
60年代から70年代にかけての吉本を信奉する同世代人は息をひそめつつ、吉本のその後を注視していたことは間違いありません。それには吉本自身も『試行』の中で応えようとしていましたし、私は「試行」の提唱自体がその答えではなかったかと受け取っています。
>「社会心理学的な論考」というのは何でしょうか?
ここでは『ものぐさ精神分析』以後の岸田秀の社会心理学的な論考の展開を示すものです。以前、すみちゃんさんが岸田秀を引合いに出してその方向での論を展開したくない旨を表明していたことに、どうしてだろうと少なからず疑問を感じたことが発端になっています。
私は観念としての日本の淵源とそれの展開については、肯定・否定を問わず「古事記」や「日本書紀」に求めざるを得ないと考えています。そこで、一先ず「国生み」の過程は暫し捨象して、それ以降の日本の進展を穿つと喩えるとアマテラスにたいするスサノヲのレコンキスタといった投企をモメントにしているのではなかという観方も可能とみていたのです。
しかし、岸田秀の近代日本は米英にレイプされることによって成立したとの認識と日本は外圧によってしか変わらないという見解は、レコンキスタの意義をも遺失させるほどに衝撃的でした。つまり、それは明治維新期や第二次大戦開戦期に至っても西欧を凌駕するような今日的意味での「観念の専制遺構」が日本的なるものとして顕現して来なかったことを叙述していると想われるのです。
どうしたらオカマをホラれた男性(性)がレイプされたMatrixの回復を図っていけるのか、外圧によってしか変われない存在である日本人の精神性が果たして負うていけるものなのか。
吉本は戦後間もなく逸早くそれを悟り、過去の先達が編み出したContextを精査・批判しつつ、死者達へのものを併せて答えを出そうとしたのでしょう。またそれは、日本に流れていた精神の命脈を解体していく作業でもあったと捉えています。しかしながら、実は未だに我々はルサンチマンを超克するようなその後の答えを出していないと思うのです。
>吉本は、本当は、当時まだ日本に色濃く存在していた共同体を揺り動かすことまで視野にいれていたのではないんでしょうか?そのために、共同体の専制遺構を掘り出し、共同体と「前者」とを切断しようとする営為だったのでは。
上部構造のさらにその上の部位との切断を視野に入れていたと見ていますし、そこから日本人の根本的な「自立」の展開が開始されるとの認識は、今でも私と同衾しています。
>大胆に想像しますと、吉本はある意味でヘーゲルに戻った部分があるように思えます。
これについては疑問を感じています。私はヘーゲルが歴史的文脈を或るシナリオの展開として捉えた(歴史哲学講義)最後の哲学者であると見ていますが、同時に歴史的進化をFunction&Parameterで把捉する試行の方策(大論理学)を示していると考えています。後者をどのように援用できるのか、または二つの「共同体」をどのように並置できるのか、そもそも「君主」の概念が日本とヘーゲルの世界とでは形成状況が異なっていると想います。
>しかしその後「戦後」の更なる進展につれて、共同体の全面的解体の進行を目の当たりにし、その意欲を喪失したのかも(いいかげんな想像です)。 この結果、吉本は「戦後」、そして前時代の遺物的遺制を解体した高度資本主義を、ある意味で肯定する立場になってしまったのではないかな。
齢を重ねたことが影響しているのは致し方ないと思いますが、肯定というよりは見過ごしているようにも見えるのはある種諦念に支配されているためかも知れません。ただ、今でも気骨の人であるとは思っていますが、本屋の書棚を覗くと、吉本といえば「よしもとばなな」ばかりで、最近ではすっかり影をひそめてしまっています。
また、会いましょう。