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(回答先: Re: とても短絡な三段論法にびっくりしました 投稿者 ダイナモ 日時 2008 年 6 月 21 日 00:48:55)
ダイナモさん、どうもです。不躾なレスにも真摯に対応して下さり、感謝します。
その文意の背景をお聞きして、多少安堵した上で、やはり理解する事が出来ません。
宮沢賢治の全てを肯定出来ぬからといって、
>宮沢賢治が嫌いだ
とか
>しかし、宮沢賢治に共感することはない。
と全否定的な極論が、何故導き出されるのか?という点です。
法華経教団国柱会への入会などは確かに、彼の到達点の至らぬ証明でもありましょう。しかし、享年37です。
理想郷の挫折にしても、その時代においての精一杯の試行錯誤と苦闘の結果です。
その他の全力行動、思念の純粋さには何等共感するものがなく、
>少なくとも松本サリン事件や地下鉄サリン事件等で起訴された被告たちを除いて、多くの信者たちに対して私は軽蔑の念や非難めいた思いを抱いておりません。
>オウム真理教に入信した若者たちには不憫さと共感を覚える。
と言い切れることも理解出来ません。
人々が生きる事の意味を見失うのは社会病理に原因があります。
結果として見失った個としての立脚点が病巣として、これを治療出来る存在とは誰でしょうか?
自分自身です。身内や友人、ましてや教祖や教団でもありません。
(但し、自己の病巣を真から治療するというのは、同時に社会病理をも真から消滅させた時になるでしょう。その時までは自己との苦闘の対峙は投げ出せません。)
自己と全力で対峙せず、教団のしでかした様々な事件を、教祖、教義、自らとは無関係として、尚も教団に残り、また新たに入会して来る一般信者達の、自己都合的欺瞞解釈と其処に追い込まれざるを得なかったとは云え、集団への逃避行動は、自己との苦闘を回避した、他者に決断を委ねた行為です。
それは傷の舐め合いのような共感でしかなく、そんなものを賢治は否定しています。
引用する思念の代表としては(言葉の要約となります。うろ覚えで不正確な表現ですみません)
「全ての人に最高の幸せが訪れるまで、自らの幸せはない。修羅は消えない。」
傷の舐め合いを始めた時にこそ、人々は社会から閉ざされた空間が必要となります。
ヤマギシ会や新しき村のような試みを超えて行く方法が当然あります。
世界がマネーによって、ほんの数家族の私物にさせられたのにもかかわらず、人々はこれを打ち破る方法を未だ他者に依存しています。
書物の中に。知識などは工具でしかない。実践の。
その実践を何時になったら始めるのだろうか。終生勉学とは聞こえが良い言葉です。先人の哲学、聖賢の教義に何時まで頼ろうとするのか。
実践もなく、それは許されない。