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(回答先: 題名の訂正 このレスを災害板で続けている 【インテリよ、サバイバーたれ12】 とさせて下さい(本文なし) 投稿者 日 日時 2008 年 6 月 21 日 05:21:13)
レス拝見しました。 確かにわたしの表現が極論と受け取られる点は認識しています。オウム真理教を持ち出したのは、信者の現実離れした極端な理想主義的考え方が宮沢賢治の思考と類似していると思ったからです。オウム真理教信者たちの信仰生活の実態を知ることがなければ、わたしのオウム真理教信者たちに対する感覚も理解できないでしょう。共感を覚えると書いたのは、地下鉄サリン事件以後、権力からの理不尽な弾圧の対象となった、事件とは無関係な多くの信者たちに対してです。人は迷うものですからオウムに入信した人を、入信したことをもって軽蔑の対象とするというような考え方をわたしはしません。オウムの話は本論ではありませんので以降は述べません。 >「全ての人に最高の幸せが訪れるまで、自らの幸せはない。修羅は消えない。」 この言葉に宮沢賢治の極端な理想主義の思考が示されているように思います。宮沢賢治が本気でこう思っていたとしたら、明らかに現実離れした地に足がついていない空虚な思考です。それは空想と呼びますが、宮沢賢治の場合は人々が空想と呼ぶ極端な理想を実現しようとしました。その背景には法華経の信仰がベースとなっています。 以前、わたしは宮沢賢治のファンでした。何冊も買って読んだものです。感動したのも確かです。しかし、その一方で何かが違うという感覚も同時に感じました。ずいぶん昔のことなのでその感覚が判然としませんが。 裕福な質屋の家に生まれた宮沢賢治は、法華経の教義に感動し入信しました。彼の信仰は極端な色彩を帯び、ついには極右の国柱会への入会にまで発展し、14年間の長きにわたって終生会員であり続けました。国柱会のサイトは以下にあります。 国柱会の基本理念は当時も今も変わらないと思います。このサイトをよく読めば、宮沢賢治がどのような考えを持って生きていたかが分かるでしょう。このサイトには国柱会の綱領とも呼ぶべき「宗綱」を次のように記しています。 「本化妙宗は、如来出世の本懐として、本仏釈尊金口の宣示する所、末法救護の憲教として、本化聖祖色読の唱導する所、已に出で今出で当に出でんとする宗見学見、種々の妄想邪謂を打破して、法界唯一乗の妙義を光揚し、人類の思想道徳を統一して、常寂光明の真世界を現出せんが為に建立伝弘せられたる。閻浮統一の名教なり。」 要するに国柱会こそ唯一の正しい宗教団体であり、人類の思想道徳を統一して、理想社会を築くものだ、との主張です。宮沢賢治はこの国柱会の主張に、いたく共感し入会したのでしょう。日蓮宗の排他的な教義をさらに過激に体現したのが国柱会だと思います。 参考にこのサイトにある宮沢賢治についての記述を載せておきます。 宮澤賢治は岩手県花巻に生まれた。家業は古着質商であったが、浄土真宗の信仰あつい家庭で、3歳ごろ、すでに「正信偈」「白骨の御文章」を暗誦したと言われている。周知のように、賢治は盛岡中学を卒業した18歳の秋、島地大等編『漢和対照、妙法蓮華経』を読んで身ぶるいするほどの感動をしたというが、そこには幼時から育った家庭環境の影響があることは否めない。盛岡高等農林学校農学科第二部(現岩手大農芸化学科)に進学してからは、いよいよ『法華経』の信仰が深まった。賢治が国柱会に入会したのは大正9年で、同年12月2日付の友人保坂嘉内あての手紙に、「今度私は国柱会信行部に入会致しました」とある。しかし大正7年2月末から妹トシの病気看病のため母と共に上京し、翌8年2月まで滞京するが、その間に智学先生の講演を鶯谷の国柱会館で1度聴聞したことがあると前記の手紙にあるから、国柱会を知ったのはその頃であろう。 大正8年の編と推定される『攝折御文、僧俗御判』は、先生の『本化攝折論』および日蓮聖人御遺文からの抜き書きであるが、賢治の主体的信仰の確立はその頃とみられる。大正10年1月、父母の改宗を熱望していれられず、突如上京して国柱会館を訪れ、高知尾智耀講師から「法華文学ノ創作」をすすめられ、筆耕校正の仕事で自活しながら文芸による『法華経』の仏意を伝えるべく創作に熱中する。国柱会の街頭布教に従事したのもその頃だが、妹トシ病気のため帰郷する。賢治は『法華経』の信仰と科学の一如を求めたが、そのことは数多くの作品にも反映している。稗貫農学校(現花巻農業高校)の教諭時代、『植物医師』『飢餓陣営』の作品を生徒を監督して上演していたのは、国性芸術から影響されたものであることは確かである。農学校を退職して独居自炊生活に入り、「羅須地人協会」を設立して農村青年、篤農家に稲作法や農民芸術概論を講義したが、その発想も、やはり智学先生の「本時郷団」におうものといってよい。 賢治は昭和8年9月21日、『国訳妙法蓮華経』の頒布を遺言して永眠したが、法名「真金院三不日賢善男子」は国柱会からの授与である。大正11年11月に亡くなった妹トシの遺骨は三保最勝閣へ賢治が持参し、今は妙宗大霊廟に納鎮されている。賢治の遺形も、昭和57年の賢治五十回忌に大霊廟に納鎮され、申孝園には賢治の辞世の歌碑が建立された。賢治は、帰郷してから国柱会とは遠ざかったという説をなすものがいるが、最後まで国柱会の唱導する日蓮主義の信仰に生きたことは、森山一著『宮澤賢治の詩と宗教』や小倉豊文著『雨ニモマケズ手帳新考』などに明らかにされている。 彼の作品には宗教性をうかがわせるものもありますが、多くは宗教とは一見無縁なように感じられます。しかし、彼の創作活動は法華経への信仰心から発した非現実的な理想を実現しようとする活動の一環です。このような宮沢賢治のバックグラウンドは、宮沢賢治のファンにはあまり知られていないのではないでしょうか。宮沢賢治の創作活動は極端な信仰心から生まれたものであり、「理想社会」を実現する活動の一環として捉えることができます。ここに宮沢賢治の危険な側面があります。仮に宮沢賢治が夢見た「理想社会」が実現されたとしたら、わたしはそんな「理想社会」に住みたくはありません。 宮沢賢治と法華経・日蓮宗への常人ならざる極端なまでの信仰と国柱会での活動。こうした彼の思考・活動を知ってしまうと、彼の作品に対する見方も違ってきます。 しかし、「国民的作家」であり、教科書にも載っている人物の、このような極端な本質について、今後とも多くの人々が知ることはないでしょう。 |