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(回答先: 今回のやり取りでの核となるテーマこそ、「銀河鉄道の夜」にあった 投稿者 日 日時 2008 年 6 月 25 日 03:39:10)
日さん、こんにちは、レスをありがとうございます。
日さんの想いは他所に、『剃刀の刃』(S.モーム)の上を渉ろうとするような人との出会いは容易く叶うものではないのかも知れません。
>この表現の焦点を絞ると「少なからざる齟齬が世の常」と認識している言葉となります。どちらに原因がある齟齬であると思うのでしょうか?相手の表現力や理解力の無さを責めるものならば、自らを高みに置く言葉です。そうでないなら、実質的交流の前の段階で何故綻ぶのですか?こちらからはまだ綻んでいないと思っておりました(あなたへの直近のレスを御読み下さい)。綻ぶ元が未だ無いとすら言える、と思っておりました。
それ等が移ろい易いものであるが故に、必ずしも利害やビジョンが一致することを望むものではありません。寧ろ、問題意識に潜む根本的な差異や捩れが如何なるものかを互いに確認(承知)していることの方がより重要だと、自身の拙い体験に基づいた認識(経験則)があります。以前にも同じようなことを申し上げましたが、それは「羹に懲りて膾を吹く」の譬えとは全く無縁に、協業の確立と継続に資するべき要諦の一つに挙げられるべきものだと考えています。
『銀河鉄道の夜』が意味するところはよく判りません。でも、中学生の頃だったかも知れませんが、「『マッチ売りの少女』の男子版なのかなぁ、」と、そんな感慨を懐いた憶えがあります。神話や童話によくあるように、死と再生(済い)の物語なのですね。
Auf Wiedersehen.