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(回答先: 少なからざる齟齬が大きな綻びの遠因になっているのが世の常ではないでしょうか。 投稿者 彼岸楼 日時 2008 年 6 月 24 日 04:24:04)
>少なからざる齟齬が大きな綻びの遠因になっているのが世の常ではないでしょうか。
この表現の焦点を絞ると「少なからざる齟齬が世の常」と認識している言葉となります。
どちらに原因がある齟齬であると思うのでしょうか?
相手の表現力や理解力の無さを責めるものならば、自らを高みに置く言葉です。
そうでないなら、実質的交流の前の段階で何故綻ぶのですか?
こちらからはまだ綻んでいないと思っておりました(あなたへの直近のレスを御読み下さい)。
綻ぶ元が未だ無いとすら言える、と思っておりました。
日のスタンスは交流の初めではまず自らの色眼鏡を外し、相手の言葉の言質だけをして居ます。初めからその腹積もりで交流をすれば、綻ぶ時は言質した言葉が破られ、改まらない、謝罪も無い時となります。
だからこそ交流前に
>思想の根を尋ねるのは知的営為に必要不可欠なことだと思います。
のような事はしません。
層化だろうと、オームだろうと、人種も、学歴も。どの様な宗教の教義だろうと、受け入れられる思念にはその団体のレッテルは貼られていません。
崖のすれすれを歩く程に真剣になれば、色眼鏡などつけていられません。
死角が出来てしまうから。
多くの人が他人の判断に依存して、危険がいっぱいの交差点を渡るような日常を送る社会のサバイバーに、まずは自らがなることでしょう。
誰であろうとそのように迎えます。しかし、その言質するハードルは高い。
そのための礼と熱意を問う者です。