★阿修羅♪ > 雑談専用31 > 652.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 「保守思想」の形成と国家意識の起源とは不可分の関係にあるでしょう。 投稿者 彼岸楼 日時 2008 年 5 月 26 日 23:43:27)
江藤淳の自死の報に接した際、「近代派知識人の破産」「保守も又”幻影”だった」等、色々思い浮かんだのですが、何より彼は批評家だったのだな、と改めて思い直しました。
批評とは英語でcritic、その原義にもある通り、危機の産物なのです。 江藤自身の言葉を借りると「生きる為に・・和解することのできぬ秩序のなかに自分の席を主張する為に」(「小林秀雄」)人は批評家になるーということです。 逆に言えば、主張する根拠を失えば「和解することのできぬ秩序のなか」に居ることは出来ない。
”喪失”に耐えられなかった氏は、やっぱり、”成熟”とは無縁の存在だったと思うと同時に、その行為そのものが自身の批評の根拠を否定している、と考えざるを得ない。
その主張から言うなら、<死>より<生>、(政治的)ロマンチシズムより(政治的)リアリズムの側に立ち、従来であれば西郷隆盛よりも大久保利通の方により優位を認めていたはずです。
にも拘らず晩年の言わば遺書とも言うべき作品(「南州残影」)に西郷と西南戦争を選び、しかも西南戦争の結語を先の日米戦争に求める時、彼のこれまでの論旨(戦争の主調低音になっていたのが”死への憧憬”)に従えば、日本文化の全的滅亡こそが予感されている、ということでしょう。
喪失の自覚の上に成熟を意志するという従来の場所より、ハッキリと、より滅びの方に意識が向かうーそれ自体自らの主張(成熟へ)を否定するものでしかない。
急速に<近代化>を進める日本を評して”死の跳躍”と言ったのは、明治の”お雇外国人”フォン・ベルツでしたが、やはり当たっていたのかもしれません。
何故なら、”死の跳躍”こそが”死への憧憬”を引き起こしたのでしょうから。