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(回答先: Re:Re: ”死の跳躍” 不可能な「保守」 投稿者 彼岸楼 日時 2008 年 6 月 03 日 07:47:29)
>最早手の打ちようがない事態になっているのかも知れません。おそらく、江藤淳は自分の病状を二重写>しにするかのようにそれを自覚していたのではないでしょうか。
つまりですね、ということは彼の主張の中心にある<成熟>が最早不可能であると認めた、ということですね。 「挫折による自裁」といったような情緒的な見方は、もちろん、小生は採りません。
客観的に見れば、単に、思想的破産以外の何ものでもない、ということです。
それは次の様な観点に立ってみれば、よりハッキリとします。
<近代批評>の確立者とされる小林秀雄が近代日本が危機を迎えた1930年代に登場してくるのは、批評の本質からするなら当然過ぎる程当然、ということについては前回話した通りです。
その後(戦後)の論壇及び文壇の見取り図は、吉本隆明から柄谷行人への流れが言うならば小林秀雄左派だとすると、江藤淳から福田和也へ繋がるラインが小林秀雄右派と言えます。
吉本隆明と江藤淳は1955年前後に相次いで登場し、60年代から70年代まで最大の影響力を発揮し、少なくとも80年代までそれは続いたのだから、その意味でも「言論の55年体制」と言っていい。 そして彼等の思想及び言論の中心的なキーワードになったのが<自立>と<成熟>、勿論これが、<(西欧)近代>という場において、<一人前に行動すること>が含意されているのは言うまでもありません。 同時に、それが小林秀雄の衣鉢を受け継いだものであることも明らかでしょう。
しかるに、周囲からも江藤淳の高弟と目されていた福田和也の書いたものが「日本人は何故かくも幼稚になったのか?」! −自分の師がやってきたことを、(殆ど他人事のように)無意味であったと認めたのです。 つまり、自分の跡継ぎと恃んだ弟子から引導を渡されたわけですね。