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(回答先: Re:Re: ”死の跳躍” 不可能な「保守」 投稿者 彼岸楼 日時 2008 年 6 月 03 日 07:47:29)
一体、文化とは何か? 前に小生は自然との関わり方(型)と言いましたが、社会を第二の自然とすると、第一の自然、二の自然における様々な関わり方若しくは関係の在り様というのは、慣習とか伝統、物腰や所作・仕草及び(立ち)振る舞い等、身体において表れる、従って文化とは、畢竟、身体である、と言っていいように思えます。 また、そういう意味で、身体とは、単なる物理的な肉体ではなく、受肉した関係態と理解すべきではないでしょうか。
だとすると、上記のベルツの危惧乃至直観というのは、(それまでの)文化の棄却が対自然・対社会の様々な関係を毀損し、何よりその矛盾が身体に現れるー更に<近代化>によって新たに出て来た状況と身体のミスマッチ、それが臨界点に達した時、諸関係と共に身体そのものの破壊に至るーということだと思えます。 元より、そうした身体の破壊という行為の底には”死への憧憬”が醸成されている、ということです。
何より”母の崩壊”、即ち伝統的自然(諸関係)の崩壊を宿命と受け入れ、その喪失の自覚こそが成熟の契機になるーという「成熟と喪失」の主張の背景に在ったのが、無謀な対米戦争へと駆り立てたものがそうした”死への憧憬”であった、という認識でした。
殺人と自殺、<破壊衝動>が他人に向かえば殺人、自分に向かえば自殺でしょう。
では<破壊衝動>とは何か?一体何を破壊しているのか?と言えば、それはかかる意味での身体なのです。
団塊の世代の自殺に触れ、小生が、日本の近代そのままに<過剰適応>と<不適応>を繰り返している、と言ったのも、近代の宿命としてある、かかる状況と身体のミスマッチということでした。
断っておきますが、この「宿命」というのは、彼岸楼さんが誤解している「諦念」という意味ではなく、柄谷行人が言うように「構造」ということであり、吉本隆明風に言えば「関係の絶対性」ということです。
”母子関係”の変調がどのような影響を及ぼすのか?我々は、個人レベルにおいても確認出来るはずです。
例えば、日々起きている殺人や自殺、(それが動機不明で因果関係が分らないものであれば尚更)その多くが母との関係がおかしくなっている!(母でない時は第二の母である妻、若しくは恋人)。
母との関係がおかしくなって、(母を含めて)人を殺し、挙句の果ては自分も殺すーという「事件」の構図を見る度に、嗚呼「日本」だなぁ、と思うのです。