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(回答先: Re: おおむね妥当な案だと思いますが、多分、他人のものを詐取する殺し合いが予測されます。 投稿者 日 日時 2008 年 12 月 01 日 01:20:00)
>日さん どうもです。
日さんとは以前にもやり取りしましたから、合理的に割り切ろうとするKと、人道主義・人生観に振ろうという日さんの議論は平行線になることが予測できます。
ですから、水掛け論になりそうな場所は出来るだけ避けたいとしてKは、全ての事柄に対処しない場合があることは、最初に断っておきます。
>【>死刑に代わる極刑判決が確定したほどの犯罪者が、多分絶海の孤島で、別の己(同類)と向き合って、己を顧みるわけです。そこでは詐取や殺し合いより助け合うしか、より快適に暮らす方法の余地はありません。多少の配慮はします。最低の衣類、日用雑貨を支給する程度やそこを犯罪者の類性、性別、年齢などでエリアを区切り、同類を住まわせます。】
「助け合うしかより快適に暮らす方法はない。」と一般的な考え方を出来る人は、死刑相当の犯罪者になる比率は低いでしょう。
利己主義者は「他人のためには指一本動かしたくない」という性格を有しています。
仮に先住者が作った家屋があり、スキがあるなら、自分が作るより、それを奪う方が楽とは誰でも考えることでしょう。
先住者も自分が住める最低限の家屋を作るでしょう。中には「後から来る者の分を考慮して、孤独の回避のために、余計な手間を費やしても、複数の人が居住可能な家屋を用意する」というような人もいるかもしれませんが、そんな人は「誰が見ても救いようのない死刑囚になる可能性は低い」のではないでしょうか?
管理方法が具体的に分かりませんので、正確な評価はできないでしょうが、「脱出不可能な無人島に死刑囚を捨てる。」というイメージと、「巨大な島を利用した収容所で厳重な管理をする。」というイメージの良いとこ取りの両立はほぼ不可能です。
以前の「日本の島流し」というには「理性のある人格者である政治犯」に適用された部分が多々あり、誰からも嘆願されない殺人鬼は斬首されています。
今回の案の場合の囚人の多くは「一般的には死刑は免れない狂人」でしょうから、銃で脅しながらでなければ、移動命令にも従わず、反抗的行動に出た場合は「他の囚人への見せしめの意味でも即座に射殺等の措置を徹底する必要性もある。」でしょう。
「麻酔銃と捕獲ネットなどで不殺の処置」をして、囚人に甘い思いを抱かせたら、収拾は付かなくなる可能性もあります。彼らには「これ以上、落ちる場所はない。」のです。
この辺まで来ると、相当の人員を配置し、施設を完備して、囚人を管理するという必要性が出てきます。
一方、のたれ死にOK、自殺容認、イカダでも作っての脱出だけを監視する「無人島へ捨てた。」という状況であるなら、費用も負担も大幅に軽減され、ある意味では死刑より恐れられる「絶望島流し」も考えられますが、管理しないのですから、島の中での弱肉強食状態が予測できます。
この推理は妥当だと思いますが、後はバランス調整の「工夫の仕方」になるでしょう。
ここまでが、Kの前レスでの説明と推理です。
>【>基本的には「死には死をもって報いさせるべき」を無理に規制する必要はないと思います。
そこは譲れません。それは】
まあ、予測された回答です。
ここが、決定事項と決まっているのでしたら、全ての議論は無意味と「宣言している。」ということですから、少なくとも、Kからすれば「Kが説得されるしか決着ののない議論」ですから、応じるのがバカです。
Kは議論に負けるのはかまいませんが、喧嘩別れするか、負けるしか決着しようのない議論に付き合う来もありません。
>【で仰られた凶悪犯の人権保護や奇麗事の偽善でいうのではなく、争いの源となる復讐を公に認めれば、健全な社会の担保となる理念にも矛盾する瑕疵、あるいは埋伏の毒となるからです。死刑とは度を越えた裁きであります。何故なら人は無から有を、或いは生を作り出せない存在であり、そのことを肝に銘じ、身の程を弁えるという意識が必要です。それを失えば、自らを万能の創造主と錯覚するほどの狂人となる、これは原罪に深く関係しているものです。】
主張は、理解できなくもありませんが、観念論であり、自分の主観の強弁と思えるものです。
【死刑とは度を越えた裁きであります。】とのことですが、Kは「人間は、死刑という決着を超えられる決着法を手に出来るほど完成はしていないし、それを手にしているかのようにおごるべきではない。」と主張させていただきます。
人間は不完全であり、時たま、悪夢のような存在を生み出すのは「事実」です。
生み出された悪夢は「どこかで決着させる」という必要性があります。
その方法に「人類は死刑を超えた方法を手に入れていない」のです。
それを手に入れたかのように思うことこそが【そのことを肝に銘じ、身の程を弁えるという意識が必要です。】に外れた行為かもしれませんね。
「相手に死を与える」というのは人類発生から、人類が手にしている「神に許された行動」ですが、人道主義・人権主義というのは人類が進化の過程で、「模索中の完成していない理念」でしかありません。
未だに「真理にはたどり着いてはおらず、道半ばでふらついている仮説」なのです。
乱立した「人道主義・人権擁護といった理念は暴走の末に複雑怪奇なルールを生み出しています。」
「少子高齢化・ニート・モンスターペアレント・著作権問題・・・」
そう言った、現在問題化している多くの現象は「人間が人類をうまくコントロールできるルールの形成が可能だ。」という慢心の上に発生しています。
そろそろ、この辺で、行き過ぎた人権擁護にはストップを掛けるべきだと思っています。
このままの方法に進むと人類は複雑怪奇になるルールに足を取られて一歩も先に進めなくなるでしょう。
基本的にはルールは少ない方が良く、シンプル イズ ベストです。
「悪意のある行為は条文に書かれているいないにかかわらず悪」であり
「法で定めた規定がないから無罪」ではないのは自明の理です。
自分の都合において「他者の生命を奪った」という場合には「基本的には命で償わせる」で当然ではないでしょうか?
仮に「日さん自身が他人の生命を奪ってしまった場合」に、日さんは「お詫びに自分の命を差し出すことに納得せずに、異を唱えるのでしょうか?」
Kは、基本的に罪もない人の生命を奪ってしまった場合には「自分の死をもって償う」には納得したいと思っています。
では、この辺で