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(回答先: どうも、Kの思い違いだったようです。ここまでとしましょう。 投稿者 考察者K 日時 2008 年 12 月 02 日 10:00:15)
>Kは「島流し案」を死刑という極刑に変わる代替え案ととらえましたが、どうもこの点は誤りであったようです。
対案であり、代替案である事には変りはありません。その目的が復讐ではなく予防。罪は病と捉える治療。としています。
>「犯罪者の大物が捕らえられ、仲間が助けに来たら逃がす」というような事も書いていましたから、弱者へは極刑でも、犯罪強者には脱出への贈り物?というような違和感もあったわけですが、この案、全く別の視点からのもののようです。
国家の面子やら体裁のために、脱獄を封じる為の設備に巨額な費用を投じるデメリットと、囚人を強奪され社会に潜伏された時のリスクとの比較をすれば、要塞化する必要は無いと考えたのです。事を起せばそれで奪還組織も浮上するわけで、一網打尽の追求の手がかりを残す事になり、逃げても指名手配者と組織も始終武器を手にしてはいられないので、無力な時に一人一人逮捕出来ます。
>たまたまですが、昨日、面白い考え方を読みました。
http://list.jca.apc.org/public/aml/2008-December/021753.html
最近、はやりの「自給自足」「自然回帰」に異を唱え「カルト」とする考え方です。
少なくとも、このような考え方はあり、おおむね、正しい意見です。
救われない御仁だと思いますがね。それとは真反対のものあります。
http://www.asyura2.com/0601/health12/msg/559.html
比較されて下さい。
>一定の抑止力となり得ない「死刑相当犯罪者の治療行為」に意味があるとは思えません。
言いたくはなかったのですが、これは社会復帰を前提とした治療ではなく、罪人の転生先を見据えたものです。
これは死に方の問題です。霊的な意味があります。コンノケンイチ氏の宇宙論では真空は無の空間ではなく、物質です。
魚は水を陸上動物の様には意識せず、真空と思っているかも知れませんが、喩えればそのようになります。
つまり、目に見える肉体が消滅しても、まだ幾重にも見えぬ肉体を纏っていると云われています。それは死は全ての終わりではなく、死刑殺では成仏しない霊魂が現界に留まってしまうことが懸念されます。そうした状況証拠は枚挙に暇も無いほどあるのですが、実体験ではないので控えさせてもらいます。
>治療行為というからには社会復帰が考慮され、今後の社会に役立てるという前提が必要になるでしょう。
もし、彼らが社会に役立てられる可能性があるとしたら、彼らの生活の中で実践され、生み出された自給自足のノウハウをモデルに社会に取り入れることです。もしくは人類滅亡を防ぐ最後の頼みの綱の特殊能力でもあるかも知れず、それも生きていればこそですね。しかし
極刑としての刑ですから終身刑です。反省しても社会復帰は考慮されません。それほどの重罪であるからこその極刑です。
>正直に言って、「今後、社会の役に全く貢献しないと決まった存在に無駄飯食わせるのは社会の損失です。」、ここに死刑の原点があり、犠牲者・遺族に対する「終了宣言」としての配意があるわけです。
提案した代替案は無駄飯ではなく、自給自足ですから。
被害者・遺族に対しては、刑の確定によって、これは終身刑という形で決着を見ます。
>最大限の配意をすべきは「犠牲者」に対しててあり、加害者にではないのです。
日の見解で良ければ、こうなります。希望すれば流刑地見学を国費で行ないます。
この極刑では怒りが収まらないという人には、対面させ思い切り五六発も殴らせてあげます。力の無い人には竹刀を持たせて思いきり二三発。しかし殺さぬように。これでどうですかね?日も本来は気性が激しいので、その気持ちは理解出来ます。
>これは、当然のことであり、加害者の人権などは二の次・三の次です。
犠牲者の配意を考えるなら、「残された者には、一日も早く、新しい生活に切り替え、不幸は忘れて、私の分まで、幸せになって生きていってほしい。」に集約された者である可能性がもっとも高いでしょう。
上記で少しでも気を晴らして欲しいものです。
>決して、仇討ちをしろとか無念をはらせ、であるとは思いませんが「私のことは気にしなくて良い」という性質のものであるはずです。
しかし、人間には記憶力があり、犯人が存在する限りは「新しい生活に踏み出すことが出来ないと言う人も多い」と考えられます。
二度と戻れない断絶された流刑地で、費用も最少ですから、社会的には死者に等しい存在です。
>死刑を超える恐怖など作り出すことは簡単です。
「お願いだから殺してくれ」と言わせる方法はあり、死の刑に処せられることを想像するだけで大きな抑止力とする方法だってあります。
だから死刑を超える恐怖など論じていません。それは抑止力とも思っていません。
>しかし、あまりに残酷すぎる刑は、自分にも潜む残忍性から目を反らしたいという「鏡を見て、自分の醜さを認めたくないかのような偽善性の前に、封印される。」これが、タブーの「本質」です。
偽善とは他者に向けられた行為の判定で使う言葉じゃないでしょうか?
己が内に持つ、見たくない、認めたくないものを封印しようとする行為は、むしろ健全な精神の発露でもあります。
己から出たものでも糞尿に蓋をしてはいけませんか?
>単に人間は、自分の中にもある「残忍で冷酷な部分」を思い出したくないから「封印」しようとするのです。
それで何も問題は無いと思います。それを否定したいという「残忍ではない」気持ちも其処に無ければ、それは生まれません。
素晴らしいでしょう。
>そのために、あれこれと屁理屈を並べ立て、複雑怪奇なルールを作り出し、挙げ句の果てにそのルールに縛られ、身動きが取れなくなってきている。
そのために、ではなく、それは生存基盤をそれぞれが他力本願で他者に依存した社会によるものだと思います。
>エセ人権擁護などというのは、人間は残酷性を有しないという「カルト」のような妄想依存の「詐欺宗教」に過ぎません。
妄想依存?イメージが難しいですね。妄想は自己の内に発生するもので、他者からは止め様が無いでしょう。
依存は他者に求めるものでしょう?それならば依存だけはしないで済むような社会を作ればよいわけです。
そうすれば「詐欺宗教」も存在出来ません。
以下色々と書いてありますが、重複しますので要点のみ。
>癌は除去するが、現行医学では最良の治療法です。将来的には未知数な部分もありますが、丸山ワクチンとか、訳の分からんカルト療法に頼ったりすると「転移が広がり、手遅れになる。」というのが、現在のところの医学からの認識です。
これを比喩として人間に当てはめるのが必ずしも正解とは言えませんが、癌のごとく「罪の意識が芽生えない精神欠陥者」には「反省を求めるだけ無駄」です。
これに関しては上記リンクが参考になります。
>被害者も、被害者関係者も「反省を望んでいるとは限りません。」多くの場合に「除去されること」を望んでいるでしょう。
繰り返しになりますが、配意するのは「被害者」です。決して、加害者の人権に対してではなく、ましてや「周りの野次馬・マスコミ・評論家」に対してではありません。
仇討ちは禁止されましたが、冤罪の可能性のない死刑相当犯罪者の「助命嘆願が出来るのは被害者の代弁者(=遺族代表)のみ」とするのが妥当だろうと考えています。
この問題への対応は上記に書いた事です。
>治療も、反省も、【被害者に出来得る限りの謝罪を一生かけて行なう】のも、遺族が望んでこその「その後の選択肢」ではないでしょうか?
被害者感情には上記で配慮したつもりですが、それでも足りないとする過度の被害者意識は第三者が冷静に断ち切るしかないです。
>無論、病理(病巣)の研究は必要です。その凶悪犯罪が生まれた原因は、社会のシステムに主因があるか、その犯罪者に主因があるか、親の育て方・教育環境などに主因があるのかは研究課題ではあります。
その原因を研究し、再発防止の役に立てるのは一定の調査。研究も必要でしょう。
しかし、「島流し」にその意味を見いだすのは無謀です。もちろん、それはKの判断でしかありませんが、事件の真相解明・原因追及は事件調査・裁判という過程の中で「終了して、判決がされた」のですから、あとは冤罪回避以外の理由があるものを除いては、出来るだけ速やかに「被害者に最大限の配意をした処理をする」のが妥当だろうと考えます。
「島流し」でもいいですが、病巣の研究対象として生かすわけではありません。本人が自己と向き合う場を第一義としたものです。
ですから本当に遠方からカメラで監視するだけ、医療援助も無く、生存の危機を目前に真から自己と向き合うのです。
>しかし、世間の論評は必ずしも、野次馬的無責任な立場で発せられているとは限りません。「事故を起こした経過、被害者遺族への心情配意・被害児童数、それらを総合した上で、死をもって償うのが妥当と判断され、遺族も一生掛けて償う事よりも消え去ることを心から訴えている」のに対して「死を逃げ」と言い張るのは必ずしも妥当とは言えず、単なる一人よがりの考えではないかとも考えます。
とは言え、この点に関しては「死をもって償うしかない」というのが正しいと強弁するつもりもありません。
Kさんが仮定されたのは被告には悪意が無かった過失殺人です。その被害が如何に大きかろうと、それでは極刑対象にはなりません。
そういう人にはもっと緩やかな自給自足刑を用意しなければなりません。
>このレスの前半でも少し触れ、以前のレスでの複雑化するルールの説明でも触れましたが、誤魔化しではなく、「死には死」を当たり前の因果応報ではないでしょうか?ここを屁理屈付けて変えようとするから、全てが複雑化し、歪むのです。
「死には死を」は報復であり、それは争いの連鎖となります。
【屁理屈付けて変えようとするから、全てが複雑化し、歪むのです。】は正にそれです。
>Kは唯物論者であり、無神論者です。
ただし、これは、人間の空想として描かれた超常的な「存在である神」に対するものです。
概念としての自然界の摂理としての法則を神というのなら「それはあります。」
現実的に地球という生命の揺りかごがあり、そこでは生命が営まれ、今、Kは生きている。
それで良いのですが、その法則が許容する限度を超えた暴走があるでしょう。
>前のレスで「相手を殺すのは神が許した行為です。」と書きましたが、全ての生命は他の生命を捕食することで、自らの生命を維持しています。
プランクトンも植物も全ては生命であり「肉食はしない」という菜食主義には「意味はないと思っています。」
まあ、中にはカスミを食っている仙人のような人もいるとの情報もありますが、少なくともKの周りにはいませんし、実際に合ったこともありませんので、ここは無視します。
オールオアナッシング的な単純思考ですね。宇宙をそんな単純に見切ることなど日には出来ませんね。
複雑すぎて説明困難ですが、だからといって死刑を正当化し、納得することなど出来ません。
どちらが正解かと割り切るのではなく、出来るなら殺しもするよりはしない方がいい。
其処に向けて出来る限りの努力をすれば良いのではありませんか?
その方向で出来る限り努力する姿勢を捨てる必要が何故あるのでしょう?
それを偽善と呼ぶ事の方が実は楽であり、死刑制度にまで敷衍して正当化しているだけです。
>その上で、分からないものを議論によって、判定できるとは思っていません。
分からないものは言葉によって分かるわけがありません。
分らないのであれば尚更、何故死刑を正当化して支持するのです?それは断定でしょう。
少なくとも廃止論者の姿勢は、それが分らないからこそ、死刑を極力廃止すべきと主張しているのです。分りますか?
>実在が確認できない存在は「存在しないことを前提に生きていくのが妥当」です。
元寇は神風で防がれたという「伝説」がありますが、神風を期待して作戦を立てることは愚か者のする事です。
よって、神の存在を前提にして行われる議論に付き合う気はありません。
最近の風景変化当てクイズ番組でたとえます。そのかなりの範囲や全体の色調が最新技術で徐々に変化していくのですが、それを注視して見ている多くの人の目にはその変化が分りません。最後には大きく変化してしまうのですが、何も変化していないと思えるのです。変化の前と後で双方を見比べると、はっきりと分るその違いも、多くの人は全く認識出来ないのです。
見比べれば分ります。それが類推です。そうすると厳然と存在する神が見えます。
人類科学を至上とする初発の不合理は、自らが生み出せぬ世界に自らを置きながら、未解明の合理の全体を不合理と切り捨ててしまっていることです。