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(回答先: Re: どうも、話が通じていませんか? 投稿者 日 日時 2008 年 12 月 01 日 23:54:49)
>日さん どうもです。
Kは「島流し案」を死刑という極刑に変わる代替え案ととらえましたが、どうもこの点は誤りであったようです。
「犯罪者の大物が捕らえられ、仲間が助けに来たら逃がす」というような事も書いていましたから、弱者へは極刑でも、犯罪強者には脱出への贈り物?というような違和感もあったわけですが、この案、全く別の視点からのもののようです。
たまたまですが、昨日、面白い考え方を読みました。
http://list.jca.apc.org/public/aml/2008-December/021753.html
最近、はやりの「自給自足」「自然回帰」に異を唱え「カルト」とする考え方です。
少なくとも、このような考え方はあり、おおむね、正しい意見です。
>【日の提案は死刑を超える恐怖の刑とは無縁ですよ。残虐行為とは真反対の、罪を病と見做す治療行為としての刑なのです。】
一定の抑止力となり得ない「死刑相当犯罪者の治療行為」に意味があるとは思えません。
治療行為というからには社会復帰が考慮され、今後の社会に役立てるという前提が必要になるでしょう。
正直に言って、「今後、社会の役に全く貢献しないと決まった存在に無駄飯食わせるのは社会の損失です。」、ここに死刑の原点があり、犠牲者・遺族に対する「終了宣言」としての配意があるわけです。
最大限の配意をすべきは「犠牲者」に対しててあり、加害者にではないのです。
これは、当然のことであり、加害者の人権などは二の次・三の次です。
犠牲者の配意を考えるなら、「残された者には、一日も早く、新しい生活に切り替え、不幸は忘れて、私の分まで、幸せになって生きていってほしい。」に集約された者である可能性がもっとも高いでしょう。
決して、仇討ちをしろとか無念をはらせ、であるとは思いませんが「私のことは気にしなくて良い」という性質のものであるはずです。
しかし、人間には記憶力があり、犯人が存在する限りは「新しい生活に踏み出すことが出来ないと言う人も多い」と考えられます。
死刑を超える恐怖など作り出すことは簡単です。
「お願いだから殺してくれ」と言わせる方法はあり、死の刑に処せられることを想像するだけで大きな抑止力とする方法だってあります。
例えば、犯罪者は「必ず麻酔銃等で捕縛し、殺人現行犯もしくは確実な殺人犯であることを条件に、両手、両足を使えなくし、舌をかみ切れないような措置を行い。頭を打ち付けて死ぬことも出来ないような措置を施した部屋に大量の蚊と共に幽閉する。」
これだけで、死刑が予測できる犯罪者は「逮捕を予測された状況では、逮捕より死を選ぶようになる。」でしょう。
仮に逮捕された場合で、裁判中には「頼むから死刑にしてくれ」と叫び、極刑が決まりし時には「まだ、それが可能な内に自殺するものが後を絶たない」かもしれません。
しかし、あまりに残酷すぎる刑は、自分にも潜む残忍性から目を反らしたいという「鏡を見て、自分の醜さを認めたくないかのような偽善性の前に、封印される。」
これが、タブーの「本質」です。
単に人間は、自分の中にもある「残忍で冷酷な部分」を思い出したくないから「封印」しようとするのです。
そのために、あれこれと屁理屈を並べ立て、複雑怪奇なルールを作り出し、挙げ句の果てにそのルールに縛られ、身動きが取れなくなってきている。
エセ人権擁護などというのは、人間は残酷性を有しないという「カルト」のような妄想依存の「詐欺宗教」に過ぎません。
>【そんな残虐な発想を競っているわけではありませんし、それでは犯した罪の反省はさせられません。病巣(犯罪者)を撤去したり、苦しめても、病理が改まらない限り、病巣は又生まれてしまうだけです。】
>【それは病巣を撤去するだけです。病理を埋伏の毒として残した社会を認めることになり、社会はやがてその毒で自ら滅ぶでしょう。】
癌は除去するが、現行医学では最良の治療法です。将来的には未知数な部分もありますが、丸山ワクチンとか、訳の分からんカルト療法に頼ったりすると「転移が広がり、手遅れになる。」というのが、現在のところの医学からの認識です。
これを比喩として人間に当てはめるのが必ずしも正解とは言えませんが、癌のごとく「罪の意識が芽生えない精神欠陥者」には「反省を求めるだけ無駄」です。
被害者も、被害者関係者も「反省を望んでいるとは限りません。」多くの場合に「除去されること」を望んでいるでしょう。
繰り返しになりますが、配意するのは「被害者」です。決して、加害者の人権に対してではなく、ましてや「周りの野次馬・マスコミ・評論家」に対してではありません。
仇討ちは禁止されましたが、冤罪の可能性のない死刑相当犯罪者の「助命嘆願が出来るのは被害者の代弁者(=遺族代表)のみ」とするのが妥当だろうと考えています。
治療も、反省も、【被害者に出来得る限りの謝罪を一生かけて行なう】のも、遺族が望んでこその「その後の選択肢」ではないでしょうか?
無論、病理(病巣)の研究は必要です。その凶悪犯罪が生まれた原因は、社会のシステムに主因があるか、その犯罪者に主因があるか、親の育て方・教育環境などに主因があるのかは研究課題ではあります。
その原因を研究し、再発防止の役に立てるのは一定の調査。研究も必要でしょう。
しかし、「島流し」にその意味を見いだすのは無謀です。もちろん、それはKの判断でしかありませんが、事件の真相解明・原因追及は事件調査・裁判という過程の中で「終了して、判決がされた」のですから、あとは冤罪回避以外の理由があるものを除いては、出来るだけ速やかに「被害者に最大限の配意をした処理をする」のが妥当だろうと考えます。
>【その場合は死んで詫びろという社会の方が狂っているでしょう。そんな社会からはこちらから縁を切ります。日はサバイバーです。たとえ村八分にされても自前で生存しながら、被害者に出来得る限りの謝罪を一生かけて行なうでしょう。】
たしかに野次馬的な無責任な判断での「死んでわびろ」に耳を傾ける必要はありません。この点は勘違いを誘った書き方をしたKのミスです。お詫びしておきます。
しかし、世間の論評は必ずしも、野次馬的無責任な立場で発せられているとは限りません。「事故を起こした経過、被害者遺族への心情配意・被害児童数、それらを総合した上で、死をもって償うのが妥当と判断され、遺族も一生掛けて償う事よりも消え去ることを心から訴えている」のに対して「死を逃げ」と言い張るのは必ずしも妥当とは言えず、単なる一人よがりの考えではないかとも考えます。
とは言え、この点に関しては「死をもって償うしかない」というのが正しいと強弁するつもりもありません。
>【シンプルさ?なんか話をすり替えていませんか?】
このレスの前半でも少し触れ、以前のレスでの複雑化するルールの説明でも触れましたが、誤魔化しではなく、「死には死」を当たり前の因果応報ではないでしょうか?ここを屁理屈付けて変えようとするから、全てが複雑化し、歪むのです。
>【これはアイディアではありません。写しですよ。神の。】
>【逆にKさんが超えようとしない一線が「神という概念の世界」なのではありませんか?
それこそがKさん自らの憑き物、或いは盲点なのかも知れませんよ。】
>【これでも神に対する考察や議論だけは拒否するというのであれば、日の打つ手はありません。】
Kは唯物論者であり、無神論者です。
ただし、これは、人間の空想として描かれた超常的な「存在である神」に対するものです。
概念としての自然界の摂理としての法則を神というのなら「それはあります。」
現実的に地球という生命の揺りかごがあり、そこでは生命が営まれ、今、Kは生きている。
前のレスで「相手を殺すのは神が許した行為です。」と書きましたが、全ての生命は他の生命を捕食することで、自らの生命を維持しています。
プランクトンも植物も全ては生命であり「肉食はしない」という菜食主義には「意味はないと思っています。」
まあ、中にはカスミを食っている仙人のような人もいるとの情報もありますが、少なくともKの周りにはいませんし、実際に合ったこともありませんので、ここは無視します。
その上で、分からないものを議論によって、判定できるとは思っていません。
分からないものは言葉によって分かるわけがありません。
実在が確認できない存在は「存在しないことを前提に生きていくのが妥当」です。
元寇は神風で防がれたという「伝説」がありますが、神風を期待して作戦を立てることは愚か者のする事です。
よって、神の存在を前提にして行われる議論に付き合う気はありません。
ここは、思いこみとか、憑き物ではなく、合理的は判断です。