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人間は誰でも生きるためには色々ある。
衣食住の確保というのは必要な行為だろうと思う。
個体差というものはあるだろうが、氷点下の下で裸で寝ていたら大抵の人は死んでしまう。人は食わなければ例外もあるという話もあるが死ぬだろう。
人間には様々な繋がりがある。生まれるためには祖先から代々繋がる両親の存在が必要であり、生きていく過程で発生してくるシガラミと云うものもある。
法律において「悪」と認定される行為と云うものがある。
例えば、最近トレンドになっている「談合」であるが、これって「絶対悪か?」とKは考える。
「公平」と云う意味の「市場原理に反する行為」だというのは理解できる。
しかし、この「公平」は極短期的な「その場限りの値段」と云う意味合いだけの公平だろうと思う。長期という視点を考えた場合、メンテナンス・サポートといった意味の公平もあり、地元にとって貢献性とか様々な要素もあり「単にその時の販売価格のみ」を絶対基準に据えるのは正しい考え方とは言い切れないだろうとも思う。
要は「悪意のある行為」による「談合」だったか?具体的に言えば「賄賂があったか?なかったか?」というような部分が重要であろうと思うが、単に「それは談合だった」と云うだけで「一律的に生存権を剥奪するのは本当の意味で正しいのか?」とKは考える。
法律で悪と認定されている行為だから「悪」と云うのは分かるが、法律そのものが「不完全な人間が設定したルール」であり、単に規定されている「文字列に抵触している」というだけで「その行為は一律的に絶対悪だ」と判断するのは一種の思考停止と言えはしないだろうか?
人を助けるために行った器物破損と泥棒を行うために行った器物破損を「全く同じ罪」と考えるのは「知恵ある人間の考えとして正解か?否か?」というような部分である。
しかし、不完全な人間は「その行為が行われた背景も状況も知ろうとせずに、結果だけを捉えて判断する性質も有している」
「言い訳は聞く耳持たない、結果が全てだ!」と公言する人もいる。特に営業関係のノルマ主義に多い考え方であるが、日本の今の成果主義という部分は「人々を思考停止の状態に導いている」という意味があるだろう。
人々から考察力とか判断力を失わせているのである。
それが「結果だけを見て、生存権を奪え」と云う過激な思想を育てている。
Kは「経過と人で判断しよう」と主張している。要は「そこに悪意が存在しているか、どうか?を見極めるべきだ!」と云うことである。
「ブルジョアジーから一律的に生存権を奪え」とか「マスコミは全て悪だ」というのは一種の思考停止である。
もちろん「排除せざるおえない」という場合もあるかもしれない。
しかし、それは「結果のみから判断するのではなく、経過や状況を見極めて、その存在が『弱者の生存権を認めず、弱者の人権を無視するような悪意の持ち主かどうか?』を判断した上」で結論するべきだろうと考えている。