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(回答先: 談合に対する道徳主義的理解について 投稿者 竹中半兵衛 日時 2006 年 12 月 06 日 08:59:49)
>竹中半兵衛さん どうもです。
いくつか質問があるので忘れる前に一応答えておきましょう。
>【Kさんが前半で述べられた、人間がおのれの有機体としての生命を維持してゆくための生産ならびに再生産を繰り返してゆく活動と、談合といかなる関係があるのか?「悪意のある談合」とはなにか?悪意がなければ談合もまた可、ということなのか?】
悪意のある談合とは「私腹を肥やすための談合であり」
「他人に対し理不尽な不利益をもたらすと知っていてやっている談合」だとKは考えています。
ですから「対極的な判断の上に立って、これが最良の選択だと考えた上での、私利私欲ではない談合(そんな実例があるかどうかは別にして)」なら「社会的生存権を奪うほどの悪ではない」と考えています。
長期的視点(メンテナンスとかサポート)に立てば「入札額では多少高くとも、故障の時には出張旅費を含めた代金が掛かる遠い企業より、場合によっては無料で修理してくれる近くの企業の方が良い」と云う判断は「社会的制裁を課す」べきでしょうか?というような考え方です。
>(Kの主張は)【主張は、ブルジョワジーの存続ば前提とすて語ってるこつがわがります。】
そんな気持ちはありません。
昔の為政者は「私財を投げ打って庶民のために帆走した」と云う人もいると聞いています。中には「政治家をやめた時には財産を失っていた人」もいたそうです。
今の世に「それだけの為政者がいるか?」という問題は別にして、役職としての「市長」とか「町長」などが必要ないとは言い切れないと思いますが、仮に必要ないとしても、代表のような役割の人が「外部交渉」をするという事はあるでしょう。
その際に「談合」というようなものを行った方が「良い結果になる」という可能性はあるのでないか?と考えています。
それは「官製談合」であっても、同じです。
ただし、竹中さんも実例としてあげているように「実際に利益誘導とか賄賂の存在がある場合が多い」のは事実です。
仮に「報道が事実(最近のマスコミの官業批判の場合には、マスコミ誘導の部分があると思うので、額面どおりに受け止めて良いのかという部分もあります)だとすれば、罰を課すのは当然」でしょう。
勘違いしないでいただきたいのはKも「労働者階級の立場を考えようとしないブルジョアジー」を弁護しようなどとは思っていません。
ただ、制裁するなら「制裁に値する判断基準も明確に示すべき」だろうと思っています。
それは「政府の作った文字列に反する行為を行った」という事ではなく、自分もしくは自分の仲間に対して「どれだけの不利益を行為を確信犯として行った」という論証があるべきだろうと考えています。
そうでなければ「政府が計画したガス抜きのための生贄に食いついているだけ」という可能性もあるわけです。
マスコミはマスコミで「自分らの俸給が異常に高い事から目を逸らさせるため」に官業に注意を集中させていると云う部分もある気がします。
ただ、誰であっても「自己保身」は許される範囲の行動でしょう。
Kは「自分に対して自己保身をしない自信はありません」から、他人の自己保身の行動を批判する権利は自分にはないと考えます。
>【Kさんのいう「不完全な人間」っつうのを、実体とすてはだれを念頭においているのか、一度聞きたいもんだす。】
Kを含めた全ての人間は「不完全で弱い存在」と考えています。それは過去の投稿の中で繰り返し主張しています。特定個人ではありません。
>【法律とは、支配階級の意思ば国家機関とすての立法府(議会)の承認ばとおして社会的規範とすて制定されたもんだすがや。んだから法律が形式主義的にかつ暴力的に運用される、つまり国家権力の発動の規範的形式だといえるんではねすかや?】
社会というものがあります。
孔子は「法律は少ない方が良い」と説きましたが、Kも最低限で済むならその方が良いだろうと考えてはいます。
一方、社会という人々の共有空間を維持するためには「一定のルールは必要」とも考えています。
しかし、ルールという文字列に全てを書き込むのは困難ですからここは難しい部分です。
【国家権力の発動の規範的形式】という部分も現実的にはあると認識はしていますが、基本的には、そうではないと考えてはいます。作成時の理念としては「社会のルールとして明文化しておいたほうが良い」という中立的(金持ちも貧乏人にも、権力者も労働者にも)に適用されるルールとして作成されたものが「比率としては多い」とも考えています。
しかし、一部に「権力者の都合の良い法律」が存在し、また、個人の「肩書き」などによって「公平には適用されない法律」「公平に適用しようとしない実態」もあると考えています。ここは許されるべきではありませんし、許すべきでもないでしょう。
一方、肩書き等による「差別は許させません」が、状況や事情による部分には「配意が必要」だと考えます。
「金持ちが遊びで行った万引き」は厳罰で良いでしょうが、「飢え死に寸前の人の行った万引き」は許すべきとのイメージです。
しかし、一部の人は「罪は罪」と文字面だけから「結果のみ」を判断基準にするでしょう。
談合に関与した人は「全て罰しろ!」という怒りは「談合に反対したら将来を失ってしまうので、しぶしぶ協力してしまった下っ端」にも容赦はしないでしょう。
これは裏返せば「資本階級のやり方に反対するあまりに行った労働者の行為」とか「貧乏のあまりに自己防衛として行った行為」であっても「結果のみ」によって「罰が確定していく事」に繋がるのだろうと思っています。
「人間の弱さ」とか「不完全さ」を忘れた「厳罰主義」ではなく「情状酌量」と云うものを考える「優しさ」を国民に取り戻さないと「厳しい規則のみに縛られた、息苦しく、住み難い日本になる」と考えています。