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(回答先: オープンソース宗教 投稿者 フニャコ 日時 2004 年 12 月 21 日 00:28:43)
>(今宵は眠いので「言い出すだけ」にしておきます。
と、申しましたがやはり言い出したからには、唾だけでもつけておかねばならないと思い立ち、とりあえず悶々と書き始めます。
小さい脳みそがどういった思考過程を経るのか観察対象にでもしていただいて結構です。
私自身は、高校生くらいの時期に読んで以来、何を考えるにも老荘が念頭にありまして「新しい信仰」を考えるにも老荘が頭から離れません。
どうしても老荘が出発点になってしまいそうです。
こういうのはどうでしょう。
世界(宇宙を含んで)には区切りがなく、私は私、あれは木、あれは犬、それは貴方・・・、と区切っているのはうっかり生まれた自我でしかありません。
例えるなら「小麦粉を水で溶いたもの」です。
中途半端にかき混ぜると“ダマ”が出来ます。“ダマ”はその周りの「小麦粉を水で溶いたもの」と同じものですが“ダマ”として存在します。
これが、私であり、木であり、犬であり、貴方です。
乱暴に表現すれば「エントロピーが極大に至っていない」(偏りがあって均一でない)という事です。
極大であれば“ダマ”など出来ません。
その偏りはいずれ均一になって「小麦粉を水で溶いたもの」と一体となります。
万物斉同の焼き直しに過ぎません。
「愛とは全て自己愛の延長線上にある」とは誰の言葉だったでしょうか。(覚えていません。誰かご存知でしたら御教授くださればと思います)
これと「万物斉同」とつなぎ合わせれば、「私=全て」ですから博愛に落ち着くのではないかと考えています。