現在地 HOME > 掲示板 > 昼休み4 > 428.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: Re: オープンソース宗教 投稿者 フニャコ 日時 2004 年 12 月 21 日 01:16:38)
博愛というからには、例えば今イラクで行われている事に関して、侵略者へも抵抗者へも同等の愛情を持たなければなりません。
言葉で言うのは簡単ですが、本当にそのような感情をもつのは大変に難しい事です。
この一事をもって信仰たりうるのではないかと、そう考えています。
しかし全て肯定してしまうと形にならなくなってしまいそうです。
前向きに後ろ向き、積極的に消極的、一生懸命やる気のない、といった微妙なバランスをいかに保つかがポイントなのではないかと考えています。
そういえば“妙法蓮華経”の中に常不軽菩薩という人物が出てきます。
「晩年の宮沢賢治をもっと壮絶にした感じ」の人物です。
全ての人に仏性を認め、全ての人に手を合わせて歩いた人です。気持ち悪がられて石を投げつけられてもタコ殴りにされても手を合わせることをやめず、
倦むこともなく手を合わせた人物です。壮絶な博愛です。
(この壮絶さが妙法蓮華経とともに日蓮に受け継がれ後々大変な事になったという事実は否定できません)
常不軽菩薩ほどまでやってしまうのは大変でしょうから「気を抜いた博愛」というものを具体的に出来はしないかと思っています。
合理主義を追求すればいずれものぐさになっていきそうな気がします。
博愛を追及していくと薄情になっていきそうな気がします。
何事も節度が大事ですが、節度を守って信仰足りうるのか疑問です。
ではごめんなさい