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【世相百断 第45話】いかなる国を愛せるか
愛国心は大切である。
世界がますます小さくなっていき、グローバル化していくなかで、いつまでも国家でもあるまい、という考え方もある。しかし、政治・行政制度の枠組としての国家は、なおそこに生きる人たちの生き方を強烈に制約する。意識するとしないとにかかわらず、まだまだわれわれのほとんどは国家なしには生きていかれない。
もし構成員の大部分が国を愛する心をもてなかったら、その社会は荒廃し、国家は機能低下に陥り、早晩存続することができなくなるだろう。そういう意味で、愛国心は大切である。
反面、愛国心は厄介である。
第一に、愛する“国”とはいったい何かが、人によってさまざまに違う。だからひとくちに“愛国心”といっても、そのイメージするところが人によってまるで違う。
たとえば、愛する対象である“国”とは、日本と呼ばれている地域の風土や文化や伝統である、という人もいる。そこに住んでいる人間の営みのすべてである、と考える人もいる。民族のことだという人もいる。生まれ育った土地だという人もいる。それぞれの考えにかなりの程度頷くことができ、それぞれの考えにある程度の不正確さを感じる。
とにかく人によって愛する対象である“国”のイメージが違う。だから愛国心とはどのような行為であるかも人それぞれ違う。その行為のどれが絶対に正しく、どれが絶対に正しくないか、誰にもいえない。なにしろ、思想信条、階級、年齢、体験、持てる者か持たざる者かなどによって、“国”も、したがって“愛国心”も千差万別。すべての人を納得させるぴったりの物指などない。“愛国心”というひとつの言葉から、人によっては正反対の行為をイメージすることもある。
第二に、これまで“愛国心”は、他国や他民族を侵略するためのプロパガンダに、権力者が自分の力を強くするための道具に、数かぎりなく使われてきた。
他国に攻め入ったり、恨みもない人々を傷つけたり、その財産を奪う行為は、普段平穏な日常を送っている人なら誰もが躊躇する。やりたくない。しかし他人の人権を侵すことなしに何かの目的を果たせない権力者にとって、協力させたい人々がそんな躊躇や反対をしては困る。そこで、××国に攻め入るのは国の正義のため、国を愛するためであるというプロパガンダを人々の頭の中に刷り込もうとする。怨みもない他国の人々を殺すことも、その財産を奪うことも、“国”のためなのだ。“愛国心”の発露なのだ! こういう行為に同意しない人間は“愛国心”のない“非国民”だ!
そこまでいかないまでも、何か事あるときに、権力者の命令一下、一丸となって事に当るのは“国”のためであり、“国を愛する”ことであり、それに反対するやからは“非国民”なのだ!
この刷り込みがうまくいけばいくほど、権力者の力は強くなる。“愛国心”の名のもとに、人々は権力者の行為を批判する自由も、ものを考える自由も、家族とひとつ屋根の下で楽しく暮らす権利も奪われていく。いや、ついには命を差し出すことまで喜んでやるようになる。権力者にとって、これほどのパラダイスはない。
60年前のファシズム日本がそうだった。北朝鮮やイラクなどの独裁国家を見れば、政治的な権力者の道具である“愛国心”がどう使われているかがわかるだろう。いや、こうした独裁国家ばかりではない。9・11以後のアメリカも、“愛国心”を同様に使っている。この地球に人権侵害の行なわれていない国や地域はないというほど、力をもたない人々の生存があまねく無慈悲に踏みにじられているが、そうした行為をしている人のほとんどが“国を愛する”がゆえにそれを行っている。
国家という国家が、程度の差はあれ、権力者を中心にした求心力によってその体制を維持・強化するために“愛国心”を道具として使っている。独裁国家はそれがよく見えるが、そうでない一見“民主主義的”な国家はそれがあからさまに見えないだけに、始末が悪いともいえる。
なぜ、今ことさらにこんな言挙げをするのか。
教育現場で、愛国心の強制がますます露骨に行なわれてきつつあるからだ。
上述したように、日本人は60年前の戦争の時代に、“お国のため”と信じ込まされて、近隣の国々を殖民地にし、攻め入り、多くの恨みもない人々を殺し、その財産を奪い、それによって自分たちも殺され、家族や財産を失い、侵略者としていまだに怨まれている。こうした高すぎる月謝を払って、“国のため”や“国を愛する”がどういうことか、権力者がそういう言葉を使うとき、何が起きようとしているか、かなり用心深く考えるようになった。人々は“国のため”や“国を愛する”に容易に乗らなくなった。
しかし権力をもつものは本能的に、自分の権力を強化しようとする。求心力を強めようとする。批判者の意見を抑えようとする。権力をもつものの力が強まれば強まるほど、批判は邪魔になる。戦後のほとんどの時期をとおして権力の座に坐る自民党政権とそれを支える官僚機構にとっても例外ではない。できれば批判にさらされずに力を行使したい。そのための最強の道具は“愛国心”だが、国民の多くにはまだ戦争の時代のよき遺産がかろうじて残っていて、簡単に“愛国心”には乗ってこない。
大人の頭に“愛国心”を刷り込むのはかなりの難事だが、子供のまっさらな頭に“義務”教育を通して刷り込むなら、なんとかできそうだし、効果も大きい。そこで敗戦直後の民主主義教育が実践された一時期を除いて、戦後一貫して、なんとか教育の場に“愛国心”を持ち込もうと彼らは腐心してきた。実に粘り強く、狡猾に、ときには露骨に、彼らはこの努力を継続し、ついに国民的な議論もなしにばたばたと「国旗・国歌」法の形で、教育の場に国旗と国歌を強制的に持ち込んだのは2年前。
さらに昨年7月には、文部科学相の諮問機関・中央教育審議会(会長=鳥居泰彦・前慶応義塾長)がまとめた教育基本法改正に向けた中間報告の素案が判明し、この中で「公共心や道徳心、郷土や国を愛する心を基本理念に盛り込むことや、教員の使命感や責務、家庭の役割や責任を規定する」ことを提言している。これらの詳細については以下のページ(Asahi.com教育ニュース速報「教育基本法に「愛国心」「公共心」盛る 見直し素案判明」や毎日インタラクティブ「教育基本法に「愛国心」 中央教育審議会が見直し報告」)に詳しいが、中間報告では、「法の見直しを行うべきだ」とする結論を明示しているそうだから、ということは、彼らの筋書きどおりにいけば、日本国は法律をもって国民に、これこれの公共心や道徳心をもて、こういう形で郷土や国を愛する心をもて、その実現のための教育を進めていくが、教員はそのためにこれこれの使命感や責務をもて、家庭はこれこれの役割や責任をまっとうしろ、と号令することになるのだろう。
あぶない、あぶない。この国の人々の大半が羊のようにおとなしいのをいいことに、いよいよ戦後教育の総仕上げにかかってきたな。権力をもつものが「公共心や道徳心、郷土や国を愛する心」などを説くときは、説かれる立場の人たちにとってはろくでもない状況になりつつあると経験則から言えるが、声高に説くだけでは足りずに、法律で強制的にこれをやろうという。事態はいっそう悪い。戦後の教育状況の中で、今が最悪。
ときあたかも、無際限の匍匐前進とでも言っていいようなやり方で、政府はアメリカ合州国の軍事戦略への協力体制を構築しつつある。教育基本法見直しの機運は、未来の大人たちに権力者に都合のいい“愛国心”を刷り込むだけでなく、このアメリカ合州国への軍事協力を円滑に行う現在の環境作りにも強い追い風になる。そのために、時を惜しむようにして教育基本法の見直しを急いでいる。
いくら法律を作ったからって、俺たちが頭の中で何を考えるかまで規制できるはずはない、などと軽く考えてはいけない。たとえば前述の「国旗・国歌」法が制定された年の卒業式で何が行われたかをみてみるといい。
卒業式を前に、東京都教育庁は都立高校の全校長を個別に呼び、日の丸掲揚と君が代斉唱の「完全実施」を強く求めるとともに、具体的な実施要領を細かく通達した。
その結果、都立高校の君が代斉唱率は昨年の七・二%から八八・五%へとハネ上がった(日の丸の掲揚率は九九%)。
横浜市教育委員会も、日の丸掲揚や君が代斉唱に反対しそうな教職員について、その言動をあらかじめ記入しておくチェックシートを各校長に配布した。
こうしたことがあり、神奈川県の公立高校の君が代斉唱率は昨年の一五・四%から九二・九%に急上昇した(日の丸は九九・五%)。
(梅田正巳『若い市民のためのパンセ』(2000年5月号)所収「愛国心について」)
イラクの大統領選挙の信認率が百%だった、あれはまさに全体主義国家のセレモニーだ、とか、北朝鮮では号令一下国民全員が右向け右となって気持悪いな、などとこの国の人びとは笑っているが、なんのことはない、日本の教育現場でも国旗・国歌について同じようなことが行なわれている。
法律が制定されれば、法の名のもとに今までできなかった思想の強制ができるようになるのである。人々は一気に息苦しくなる。
いや、今回の愛国心教育についていえば、教育基本法の見直しが始まったかどうかの現時点で、すでに法律を先取りするような形で見過ごすことのできない重大な事態が福岡県で起きている。
福岡市内のほぼ半数にあたる69校で、今年度から使っている6年生の通知表に「国を愛する心情や日本人としての自覚」をABCの三段階で評価する項目を新たに盛り込んでいるという。
この新項目は、同市校長会の公簿委員会がモデル案の中で項目化したもので、通知表の項目化は各校長の裁量に任されているというが、校長会案は実質的な圧力となり、上記の結果となったらしい。
6年生の現指導要領には「我が国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を育てるようにする」などとあり、校長会の中島紘昭会長は「公教育の基本理念。在日外国人がいる学校や学級は個別に対処すればいい」と語っている。(Asahi.com【教育ニュース速報】)
当然のことながら、現場の教員や市民の一部から「これは通知表を通じて、子どもたちに“愛国心”を強制することであり、憲法で保証された思想信条の自由に反する」という反対の声が上がった。在日コリアン団体からも、「かつての侵略戦争と植民地支配の中で日本に在住することを余儀なくされた在日韓国・朝鮮人を家族に持つ子どもたち、渡日の外国人の子どもたちに対して、「愛国心」や「日本人としての自覚」を評価基準にすることは、戦前の同化政策と全く同じであり、言語道断」だとして批判の声があがった(「日の丸・君が代による人権侵害」市民オンブズパーソンによる抗議アピール「福岡市69校で、「愛国心」を3段階評価!」)。先の校長会長の「在日外国人がいる学校や学級は個別に対処」云々はこの批判に対するコメントだが、これこそまさに蛙のツラに小便、権力のお先棒担ぎの言い抜け、問題のすり替えにほかならない。
特に眉をひそめたくなるのが、在日コリアン団体の抗議に対して、脅迫電話や差別メールが殺到しているという現象だ。マイノリティーの声に耳を傾け、教育と愛国心について市民が理性的に考え、議論してくれるならまだ救いはある。しかし、在日コリアンが日本の教育について何を言うかとばかりに、「ここは日本だから出ていけ」「ケンカを売っているのか」などというメールが数千通も殺到するという現象は、私が言うところのまさに右向け右の“愛国心”の発露ではないか。
そもそも子供たちの“愛国心”をどういう基準で評価するのだろうか。「わが国の歴史や伝統を大切にし国を愛する心情をもつとともに、平和を願う世界の中の日本人としての自覚をもとうとする」ことが評価基準らしいが、初めに述べたように、“愛国心”は人それぞれの心の中に涌きあがるもので、人それぞれの顔が違うように、重なる部分もあるが重ならない部分もある。正反対の考えもある。それをこんな曖昧な基準で“評価”しようとすること自体が無理無体だと思うが、こういうことを考える人たちにとっては自明のことで、国の政策やそのお先棒担ぎのやる行政に批判的な人やその子弟は“愛国心”がない、ということになり、C評価をつけられるんだろうな。
子供の“愛国心”を評価する福岡のこの動きは全国で初めての例だというが、教育基本法に「愛国心教育の義務化」が盛り込まれれば、こういう動きはいっせいに全国に広がっていくだろう。そうなればそれは教育現場を経由して家庭に、人々に、権力をもつものにとっての好ましい“愛国心像”を強制的に浸透させていく。
矛盾や深い疑問がいくつも涌きあがってくる。これは教育現場の問題ではない。教育を通じて、権力をもつものがこの国に生きる人びとの頭の中をどう支配していこうとしているかということにほかならない。だから一人ひとりが、とりかえしのつかない事態になる前に胸に手を当てて次のようなことをよく考えなければならない。
◆愛国心ってどんな行為だろう?
◆愛国心は測れるのか?
◆愛国心は義務か?
◆愛国心は評価を前提にして「教え込む」ことができるのだろうか?
◆強制される愛国心ってなんだろう?
こういう思索をとおして、一人ひとりが国を愛するとはどういうことかを自分の心の中にうち立てないかぎり、権力をもつものの力を強めるための“愛国心”が義務として刷り込まれていくことを簡単に許してしまう。
私に言わせれば、いま強制的に行なおうとしている愛国心教育は国民の国を支える力を弱めるものだ。なぜなら、愛国心を強制された国民は自分の頭で考え、自分の足で立つ力を失ってしまう。自分の頭で考え、自分の足で立つ力を失った国民で構成された国家もまた、自分の足で立つ力を失って滅びる。60年前の日本をしっかり振り返ってみるがいい。
これに反して、自立した国民が構成する国家は自立している。なぜなら、自分の頭で考える力を持った国民が、自分の価値判断で国を愛し、国のために何ごとかを行なうことが自分のためでもあると自ら判断して行動を起こすとき、もっとも強い愛国心に動機づけられた行動が実現する。そのときほんとうに国を愛し、国を守る行動が巻き起こる。
今強制的に行なおうとしている愛国心教育は、これとは逆の方向を目指している。基本的には人々の考える力、自立する力を弱める結果になり、そういう意味では非常に反“愛国的”だと言わざるをえない。
ついでに言うなら、マイノリティーの存在を保証する組織は強い。少数者の異見が組織の行き過ぎにブレーキをかける。この点についても、少数者の思想信条や表現の自由を圧殺してついに国が滅んだ60年前の過ちをわれわれは今一度よく振り返る必要があるだろう。
それにしても、何のために国を愛し、国を守るのだろうか。自民党政権やそれを支える官僚機構を支持し、盛りたてるためなどであろうはずはない。なによりもそれは、家族と自分と、それに連なる友人知己、つまりは人びとの暮らしが安寧で人間らしくあるための状況を実現し、守るということであるはずなのだ。
つまり、“国を愛する”は無条件で語られるべきことがらではない。構成員が愛したくなる国や社会とはどんなものか、それこそがまず考えられなければならない。
ますます露わになる弱肉強食の社会・経済体制。千億円レベルの借金を棒引きし、国民の税金を兆円単位で注ぎ込んで巨大企業を救済し、片や失業者が街に溢れ、高校卒業生が満足に就職すらできない政策。有事法制化に象徴される、60年前の歴史経験を忘れた軍国化。金まみれの政治。メディア規制3法案や住民基本台帳ネットワークシステムに代表される人々の知る権利の制約や行政による国民の監視体制の推進――みんなほんとうにこんな国を心から愛せるのですか。
愛する対象の“国”に関するそういう基本的な問題を問わず、というよりも人々の批判を抑えて今すすめられている社会体制を推進することを密かな目的として、教育現場に持ち込まれつつある“愛国心”教育は、この国の未来を担う子供たちに対する犯罪、とすら言えるのではないだろうか。
(2003年1月4日)